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ドッグ ラヴァー ファイト

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 五月の爽やかな気候の中、滝川警察犬訓練所にはいつもと変わらない光景が繰り広げられていた。
 広大な敷地内の一角にある運動場では、毎週日曜日に行われている犬のしつけ講習に参加した一般の飼い主とその愛犬たちが、訓練士の指示で楕円形に引かれたライン上を歩いている。
 ただし、やんちゃが過ぎる犬たちはすぐに集中力をなくし、飼い主の足元にじゃれついたり、リードをつけられているにもかかわらず、近くにいる他の犬と転げ回り始める。飼い主たちが必死に犬を引き戻そうとする中、ここぞとばかりに訓練士は正しい命令の仕方を伝授する。
 その微笑ましい光景を、フェンスの向こうの警察犬用の訓練場から眺めていた滝川史孝は、思わずため息を吐く。
「――……向こうは楽しそうだな、おい」
 洩らした言葉に込められた、わずかな叱責の響きを感じ取ったのか、史孝の傍らにじっと座っていたゼットが、心なしか体を小さくしながら史孝を見上げてくる。
 ゼットは三歳になる雄のシェパード犬だ。警察犬という使命を帯びた犬らしく、精悍な顔はキリッと引き締まり、耳はピンと立っている。体格も立派で、濃い茶色の目は理知的だ。犬の中ではかなりのハンサムといえるだろう。
 一方、飼い主である史孝はというと、自分で認めるのも癪だが、間違ってもハンサムとはいえない容貌だ。
 やけに大きな目と細いあごが特徴で、全体にすっきりはしている顔立ちだが、そこには幼さだとか甘さがつきまとう。鏡を見る度に史孝は、これが二十五歳になる男の顔かと落ち込みそうになる。 史孝は膝を折るとゼットと目線の高さを同じにし、ふかふかの毛並みを撫でてやる。
「怒ってないから、もう一回やろうな」
 応えるようにゼットがパタパタと尻尾を振る。
 よし、と声をかけて立ち上がった史孝は、高校を卒業してこの訓練所に入ったばかりの見習い訓練士の青年、広岡に声をかけ、準備をしてもらう。
 広岡は、容易なことでは破れない、厚みのある布で作られたつなぎを着込み、指先まですっぽりと覆うマットを右腕に巻きつけると、やや緊張した面持ちでゼットから十メートルほど離れた場所に立つ。
 これから行うのは、警戒訓練の中の一つ、襲撃というものだ。その名の通り、犬に人間を襲わせる。といっても人間を傷つけるのが目的ではなく、あくまで害意や敵意を持つ人間の抵抗を抑えるのが目的だ。しかし、犬に噛みつかれるとわかっていい気持ちもしないだろう。
 ガチガチに緊張している広岡には可哀想だが、史孝はゼットに、全力で突っ込めと声をかける。見習い訓練士を鍛える意味もあるので、この訓練所にいる訓練士は誰もが一度はこの襲撃を体験している。
「心の準備はいいか?」
「は、はい……」
「情けない声出すなよ。ゼットに押し倒されるぞ。しっかり腕を構えて踏ん張ったら大丈夫だ」
 ゼットの傍らに立った史孝は、鋭い声を発する。
「――ゼット、行けっ」
 低いうなり声を発してゼットが駆け出し、野性的な動きで助走をつけて飛び上がる。
 その調子だと史孝が思った次の瞬間、様子が変わった。
 ゼットの迫力に圧された広岡が悲鳴を上げて後退る。すると今度はゼットが、広岡の悲鳴に驚き、地面に着地すると同時に史孝の元にすごすごと引き返してくる。
「ち、違うだろっ……。ゼット、行けだよ、行け」
 脱力した史孝は、その場に座り込む。ゼットはそんな史孝の機嫌を取るように、人懐っこく史孝の頬を舐めてきた。ゼットを睨みつけ、史孝は地面を指さす。
「座れっ」
 飼い主であり訓練士である史孝の命令は絶対服従とばかり、ゼットは素早く命令に従い、史孝は説教を始める。
「お前ね、本当に日本一の警察犬を目指す気があるのか。それ以前に、いざというとき襲撃ができないと、命に関わるかもしれないんだぞ。……競技会では成功したけど、普段の訓練でできないと、意味ないだろ……」
「あ、あの、史孝さん――……」
 恐る恐る広岡が声をかけてくる。史孝はしかめっ面のまま言った。
「訓練士が、肝心の犬を怖がってどうするんだ」
「すみません……。噛みつかれると思ったら、怖くなって――」
「だから、それを克服するために訓練をやってるんだろ」
 世間から見ればまだ若い史孝だが、犬の訓練士としてのキャリアは長い。滝川警察犬訓練所という名からわかるように、ここは史孝の実家で、経営者は史孝の父親だ。
 幼い頃から、この訓練所の敷地内が史孝の遊び場で、犬はその遊びのパートナーだった。その流れからごく自然に、正しく犬とつき合うようにと、父親から早いうちに訓練士としての基本を叩き込まれたというわけだ。
 おかげで、訓練士として認められるのに必要な資格は早々に取得でき、この訓練所に住み込んでいる見習い訓練士の指導も行っている。
 史孝が訓練した犬の中には、競技会で日本一になった犬も数頭おり、史孝の訓練士としての実力は誰もが認めるところだ。そんな史孝を泣かせているのが、自分の愛犬であるゼットというのは、なかなか皮肉かもしれない。
 大きくため息を吐いた史孝は、座り込んだ格好のままゼットの目を見据える。
「……お前は本当に、頭はいいし、反射神経も抜群なのに、よりによって小心者なんて……。嘱託とはいえ、警察犬という立場が泣くぞ。というか、すでにおれが泣いてる」
 警察犬には、直轄警察犬と嘱託警察犬の二種類がある。民間の訓練所で育てられているゼットは、後者になる。そのためゼットの飼い主である史孝は、訓練士以外のもう一つの顔を持っていた。
 真剣な表情でゼットに語りかけていた史孝の耳に、呼び出しの放送が入る。
『滝川史孝訓練士、至急所長室まで来てください』
 立ち上がった史孝は、ゼットの頬を両手で挟み込んでから、もう一度目を見据える。
「戻ってきたら、またやるからな」
 うっ、と呻き声が聞こえたが、もちろんゼットが洩らしたものではなく、広岡のものだ。
 ゼットを頼むと言い置いて、史孝は走って所長室のある事務所へと向かう。途中、史孝のファンだと広言してはばからない愛犬家のおばさまたちと優雅に笑みを交わし合い、気になる犬たちの様子を見つつ、数分後にようやく事務所に到着する。
「――遅いぞ、史孝。至急だと放送しただろうが」
 所長室のドアを開けた途端、大きな声が史孝を直撃する。この訓練所の所長である父親が、鷹揚な態度でソファに腰掛けていた。
「……途中でおばさまたちに捕まってたんだよ」
「お前は父さんに似て、イイ男だからな。おばさまウケするんだよ。おかげで最近は、お前目当ての飼い主が、犬を連れてよく来るぞ」
 うそを言うなと史孝は思う。史孝が、三年前に病気で他界した母親とそっくりだというのは、周囲の人間誰もが認めている事実だ。
 豪快に笑う父親の外見は、一見してその筋の人間にすら思える強面で、父親の顔を見て腰を抜かした犬も一頭や二頭ではなかった。そんな自分の外見を気にしているのかいないのか、ここ数年の父親は、訓練士としてよりも、経営者としての仕事に心血を注いでいる。
「似てる似てないはどうでもいいんだよ。おれに何か、用があったんじゃないの?」
 芝居がかった動作で父親が手を打つ。
「そうそう。すぐに着替えて準備しろ。県警からお声がかかったぞ。ゼットを指名だ。他の二頭は、この間出動したばかりだから休ませたいしな」
「……事件は何?」
「強盗と放火未遂。連続強盗犯らしいということで、すぐに県警の一課も出張ってくるって話だ。詳しいことは現場に行けばわかる」
「うわっ、県警の一課がいきなり出てくるのか……。苦手なんだよな、あそこの刑事って。父さんと同じで柄悪くて」
「最後の言葉は聞かなかったことにしてやる。――早く準備しろ。もうすぐパトカーが迎えに来るぞ」
 聞こえよがしにため息を洩らしてから、史孝は所長室をあとにする。次に向かったのは、事務所が入っている建物内にある自分の部屋だった。
 この建物には滝川父子の住まいの他に、住み込みの見習い訓練士たちの部屋もあるため、共同アパートのような作りとなっている。そのため一年中、合宿所のようなにぎやかさだ。
 部屋に入るなり、史孝は大急ぎで着ていたTシャツを脱ぎ捨て、ジーンズにも手をかける。クローゼットから取り出したのは、県警の鑑識課から貸与されている制服だ。警察犬は鑑識課の管轄になるため、同じものを着るのだ。
 濃紺の制服――というより作業服を着込んでから、帽子をしっかりと被る。鏡に映ったのは、警察犬の指導手としての史孝だ。
 嘱託警察犬の訓練士は警察からその腕を見込まれれば、自分が飼っている、もしくは訓練している警察犬の出動要請に、指導手として付き添うことになる。時間給で給料も出るので、訓練士の史孝のもう一つの顔と言ってもいいだろう。
 現場に出るという緊張感から、わずかに強張っている自分の頬をパンと叩く。訓練士としてはベテランの史孝だが、実は指導手としてのキャリアはまだ三か月ほどなのだ。
 史孝は部屋を飛び出してゼットの元へと向かう。
 ゼットと広岡は地面に座り込み、のんびりとひなたぼっこをしていた。
 駆け寄ってくる史孝の姿を見て、ゼットが立ち上がる。その姿はさきほどとは一変して凛々しい。
「よし、ゼット、これから警察の仕事に行くからな」
 リードを受け取り、歩いていこうとした史孝だったが、振り返って広岡にさりげなく告げた。
「――広岡くん、明日からもゼットの襲撃の訓練、つき合ってくれ」
 なんとも悲痛な呻き声が耳に届いたが、史孝は聞こえなかったふりをした。


 犬用の救急箱などを手に、史孝が訓練所の門の前にやってきたところで、ちょうど一台の車がやってくる。見覚えのある銀色のベンツだ。
 運転者も史孝の姿に気づいたらしく、ゆっくりとスピードを落として史孝の目の前で車が止まる。すぐにウインドーが下ろされ、見知った顔が現れた。
「こんにちは、滝川くん」
 ベンツのフォルムも上品だが、それを乗りこなしている人物も負けず劣らず上品だ。仕立てのよいスーツを着こなした男に、史孝は頭を下げる。
「……こんにちは」
「君のその格好、もしかして警察の仕事?」
 警察犬の指導手という史孝のもう一つの仕事も知っている瀬田は、そう言って心配そうに眉をひそめる。彫りの深い顔立ちをしている瀬田だけに、些細な表情の変化でも大仰に映る。俳優という職業が似合いそうな男だが、実は弁護士だ。
「そうです。今、迎えを待っているところで」
「大変だね。日曜だっていうのに」
 史孝は曖昧に首を振る。そこで瀬田の視線がゼットに向けられる。ゼットは急に落ち着きをなくしたようにうろうろと歩いてから、史孝の後ろへと隠れる。ゼットは瀬田に対してだけ、こんな態度を取る。人見知りはしないのだが、瀬田を苦手としているらしい。その瀬田は、犬好きだ。
 史孝が瀬田と知り合ったのは、訓練所が厄介な訴訟沙汰に巻き込まれたのがきっかけだ。父親が瀬田も籍を置く法律事務所に相談に出かけ、担当した弁護士が瀬田だったのだ。
 訴訟のほうは瀬田の働きかけもあり、取り下げられて丸く収まった。それから瀬田は、時間があると訓練所を訪れ、楽しそうに犬を眺めている。そんな瀬田の様子を見て、常々史孝が感じているのは親しみではなく、変わった人だという感覚だ。
 瀬田は気軽に史孝に声をかけてくれるが、史孝のほうは十歳という年齢の開きもあり、よそよそしい態度を取ってしまう。
 いつもと変わらず史孝が打ち解けないとわかると、瀬田は気を悪くしたふうもなく笑みを浮かべ、軽く手を上げて走り去る。
 ベンツの姿が見えなくなると、史孝は被っていた帽子を一度取って前髪をかき上げる。天気はいいといっても暑いほどではない。なのに汗ばんだ額に前髪が張り付いていた。
 じっと見上げてくるゼットの視線に気づき、史孝は顔をしかめて見せる。
「……飼い主とその飼い犬ってやっぱ似るのか……。同じ人が苦手なんて、なあ?」
 ゼットの頭を撫でてやると、フリフリと動いた尻尾が足元に触れる。
 そこに今度こそ、パトカーがやってきた。
 この三か月の間にすっかり顔なじみになった、人のよさそうな中年の警官が助手席から降り、挨拶を交わすと丁寧に後部座席のドアを開けてくれる。
 善良な一市民である史孝としては、警官に頭を下げられながらパトカーに乗る自分の姿には、いまだに違和感を覚える。
 恐縮しながら先にゼットを、あとから史孝も乗り込むと、すぐにパトカーは走り出す。運転をしているのは、史孝と同年代ぐらいの警官だ。
「これをお渡ししておきますね」
 言葉と共に差し出されたのは、県警の名が記された腕章だ。警察外部からの協力者は、この腕章をつけるのが義務だ。受け取った史孝はすぐに腕章に腕を通す。
「今日は大変かもしれませんよ」
 穏やかな口調で中年の警官に言われ、ゼットの頭に手を置いていた史孝は首を傾げる。
「現場、修羅場なんですか?」
「いえ、そういう意味じゃなくて、現場での警察犬がゼット号だけなんですよ」
 もう一度、史孝は首を傾げる。
「……直轄は?」
「一昨日、昨夜と交替で捜査に出動したので、完全休養です。それで、嘱託警察犬の指導手さんに連絡したそうなんですけど、連絡が取れない方がいたり、お客さんがいて動けないと言われたりで……。とりあえずもう一頭の指導手さんが来てくれるようですけど、現場まで二時間かかるみたいですよ」
「……なんとかがんばります」
 直轄警察犬とは違い、嘱託警察犬の出動は強制ではない。あくまで、飼い主や訓練士の意思で出動するかどうか選択できるのだ。
 史孝は警察犬訓練所に勤務しているという立場もあり、どんなに夜中だろうが休日だろうが、ゼットの体調の許す限り出動するようにしている。
 事件について史孝が詳しく尋ねると、穏やかな口調のままで説明してくれた。
 ある会社社長宅に侵入した強盗がその家の住人と格闘になり、ガソリンを撒き火をつけて逃走したのだという。
「その付近で似た手口の事件が頻発していたので、作成されていた犯人のイラストを被害者に見てもらうと、似ていると証言してくれましてね。それに、ガソリンは水を混ぜて薄めてあったんで、火をつけられても燃え広がることはなかったんですけど、犯人の服に燃え移ったんですよ。それで慌てた犯人が、服を脱ぎ捨てて――」
「つまり、犯人の匂いが残った遺留品が手に入ったということですね」
 史孝がゼットに手を出すと、温かな舌がペロペロとてのひらを舐めてくる。状態は落ち着いているし、訓練の疲れは出ていないようだ。
「でも、ガソリンを使っているとなると、遺留品にその匂いが強くこびりついて、肝心の犯人の匂いが紛れてしまうこともあるんですけど」
「それは大丈夫だと思います。犯人が脱ぎ捨てたジャンパーのポケットに、ハンカチがきれいな状態で残っていたそうですから」
 それを聞いて史孝は安心する。
 パトカーで三十分以上走ってから、高級住宅街に入る。現場はどこかとわざわざ捜す必要もなく、いきなり人だかりが視界に飛び込んできた。
 そこを通り抜けると、パトカーや鑑識課などの捜査関係車両がとまっており、その周辺が出入り禁止区域となってロープが張られているため、一般人は遠巻きに捜査の状況を見守っている。
 史孝はリードをしっかりと握って、ゼットと共に車から降りる。ゼットは独特の殺気立った空気に刺激されるのか、その場で落ち着きなく動き回る。
 すぐに鑑識課の課長が駆け寄ってきて、史孝は慌しく言葉を交わしながら、犯人の逃走経路だという被害者宅の庭へと案内される。
 史孝はきれいに手入れされた広い庭よりもまず先に、その庭を這うようにして動いている鑑識の人間や、見知った顔もいくつかある捜査員たちに目を止める。庭にはピリピリとした緊張感が漂っていた。
 ゼットを連れたまま立ち尽くす史孝に気づいたのか、刑事たちの中にいるもっとも身長の高い男が、訝しげな表情でこちらを見た。
 不躾な視線と威圧的な雰囲気の持ち主だ。二十代後半に見えるその男は、切れ長の目をすっと細め、唇をわずかに歪める。シャープな印象を受ける男らしく整った容貌の持ち主だが、表情のせいか冷たそうに見える。
 その男が傍らの年配の刑事に何事か話しかける。すると刑事たちが一斉にこちらを見た。剣呑とした迫力に、史孝はぐっと足を踏ん張って耐える。
「滝川警察犬訓練所の滝川です。ゼット号の指導手として来ました」
 硬い声で名乗ると、年配の刑事は素っ気なく言い放った。
「おい、有馬、犬とその相棒の相手してやれ」
 ただでさえ愛想のない県警一課の刑事たちだが、今日は一際拍車がかかっている。ことさら警察犬とその指導手に対する視線が冷たい気がする。
 戸惑う史孝への気遣いか、鑑識課の課長がそっと耳打ちして教えてくれた。
「……滝川くん、気にしなくていいから。一昨日と昨夜、事件の捜査で直轄の警察犬を出動させたんだけど、足跡追及がうまくいかなくてね。捜査班を振り回した挙げ句に、犯人が自首してきたんだ。それに最近ちょっと、現場での警察犬のミスが重なってね。警察犬と見ると、少し苛つくようだ」
「だから今日、直轄の子たちが完全休養って……」
「働かせすぎだから、休ませようと思ったんだ。悪かったね、休みの日に呼び出して」
「いいですよ。おれは、平日も休日も大差ないんで」
 言いながら史孝は、刑事たちも大人げないと思う。
 地図を広げて何かを相談している一課の刑事たちに、きつい眼差しを向けていると、ふとまた、有馬という刑事と目が合う。いきなりこちらに向かって歩いてきた。
 近くで見ると、改めて長身だと思い知らされる。史孝も低いほうではないのだが、つむじを見下ろされているようで非常に気分がよくない。ワイシャツの上からでもわかるほどムダなく鍛えられている体には厚みがあり、威圧感だけで弾かれてしまいそうだ。それに、鋭い光を放つ切れ長の目もよくない。迫力がありすぎる。
 開口一番に警部補の有馬だと名乗られ、いきなり、あるものを眼前に突きつけられた。見ると、男物のハンカチと小振りのナイフがそれぞれのビニール袋に入れられている。もう一つの大きな袋には、一部が焼けたジャンパーが入っていた。
「――この犬に嗅がせるのに、いるんだろ」
 これ以上なく無愛想な低い声で言われ、史孝はハンカチが入ったビニール袋を受け取る。
 片膝をつき、ピンセットで犯人の遺留品であるハンカチを取り上げると、ゼットの鼻の前にかざす。その間に、有馬と呼ばれた男は警官を呼び、自分と一緒に史孝たちについてくるよう指示している。
 この無愛想な刑事とやはり行動を共にしなければならないのだと思い、史孝はちらりと上目遣いに有馬を見る。いきなり目が合い、うんざりしたような口調で言われた。
「さっさとしろ。犯人が遠くに逃亡するだろ。それに、匂いが紛れたとか消えたとか言われて、捜査を混乱させられるのもたまらんからな。こっちとしては、すぐにでもお引き取り願いたいところなんだ」
「……匂いが紛れたり消えたりするのは、仕方ないです。実際そうなんですから。だけど、警察犬が捜査を混乱させるというのは、取り消してください」
 史孝の感情の高ぶりを感じ取ったらしく、ゼットがハンカチから顔を離し、心配そうに史孝を見つめてくる。ゼットの体を軽く叩くと、憎たらしいことに、有馬は鼻先で笑った。
「あいにく俺たちは、そんな甘いことを言ってられないんでな。――準備ができたんなら、行くぞ」
 史孝の抗議は、有馬の威圧感の前にねじ伏せられた。このヤロー、と思いつつも史孝は立ち上がる。敢然と有馬を睨みつけた。
「匂いが消えないうちに、行きましょうか」
 史孝の言葉に、有馬は苦みばしった表情となる。史孝の顔立ちでは、とうていまねできない表情だった。男らしい顔立ちだからこそ、似合うのだろう。
 妙なところでコンプレックスを刺激された史孝は、有馬から露骨に顔を背けてゼットに声をかける。
「ゼット、さっさと行くぞ。無神経な刑事に匂いを消されないうちにな」
「――……子供みたいにムキになるな」
 史孝は今度こそムキになって言い返す。
「善良な一市民に失礼なこと言うなよ」
「一市民だと。仕事して報酬もらってるんだから、俺たちにもう少し協力的な態度を取れ」
「協力的な態度を取れだって? その、協力してるおれたちをバカにしてるのは、どこの誰だよ」
「バカにはしてない。懐疑的なだけだ。――さっさと犯人のところに案内しろ」
 被害者の家の庭で、言い争いを始めかけたところで、鑑識課の課長に止められる。もう少しで掴み合いを始めていたかもしれない。
 唇を噛んで感情を抑える史孝とは対照的に、有馬はすでに無表情を取り戻していた。これでは怒りをまだ引きずっている自分に非があるようだ。
 史孝はゼットの体を撫でてから、もう一度しっかりとハンカチの匂いを覚えさせる。
「口だけなんて思われるのはイヤだからな。やれるだけのことを全力でやるぞ」
 声をかけると、ゼットはさっそく庭に鼻先を近づけ、犯人の匂いをたどり始める。史孝はリードを持ってあとをついて行く。史孝の周囲をわずかに距離を取って有馬や警官二人、その背後にパトカーがつき、万が一のときには守ってもらえる形となる。
 ゼットの本格的な足跡追及が始まる。他の人間の匂いに紛れてしまいそうな犯人の匂いを、鋭敏な嗅覚が嗅ぎ分けていくのだ。
「――犯人は走って逃げたそうだ。今聞き込みをやってるが、大通りに出たかどうかさえわかればいい。まだ緊急配備を敷いても間に合うだろう」
 史孝やゼットの負担を軽くしようという配慮か、ただ単に実力を信用していないのか計りかねる有馬の言葉だが、史孝は問い詰めたりはしなかった。ゼットの細かな仕種も見逃さないよう、集中力はすべてそこに費やす。
 ゼットは大通りに出る道とは反対の方向に歩き出す。
 ついてきながら文句を言うかと思われた有馬だが、さすがにそこはプロであり、大人だ。余計なことは何も言わない。
 警察犬とその指導手、それを護衛する刑事と警官という奇妙な一団は、高級住宅街を抜け、ごく一般的な住宅が立ち並ぶ一角へと入る。ただし、好奇心剥き出しの視線は、どこに行っても同じだ。
 人懐っこい子供が、わけもわからない様子でゼットに近づいてくるが、警官が慌てて抱き上げて引き離す。それでもゼットは、ただひたすら地面の匂いを嗅ぎ続けている。
「おい、こらっ」
 ふいに背後から腕が回され、史孝の体は引き戻される。つられてリードも引っ張ってしまい、ゼットも立ち止まる。目の前を車が通り過ぎていった。
 驚いた史孝が振り返ると、有馬がおもしろくなさそうに言った。
「目の前で犬がぺちゃんこになるのを見るのは、気持ちがよくないからな。……なんで刑事まで護衛につくのか、お前を見ていてよくわかったし」
「……おれがトロイって言いたいんだな……」
 礼を言うのも忘れて有馬に詰め寄りそうになったが、それより先にゼットが有馬に対してうなっているのを見て、止めに入る。初対面の人間に、ゼットがここまで敵意を見せるのも珍しい。有馬が縁起でもないことを言ったのが、気に食わなかったのか。
「ゼット、いけない。仕事中だろ」
 史孝はゼットの注意を有馬から背け、またハンカチの匂いを嗅がせる。
 小さく鳴いたゼットは再び歩き出したが、集合団地の前で行ったり来たりを始める。有馬も異変に気づき、史孝にそっと声をかけてきた。
「どうした?」
「匂いが混じってわかりにくいのかもしれない。それにゼットも疲れて、集中力をなくしかけてる」
「……確かにここじゃ、人の往来は多そうだな」
 舌打ちした有馬は、目を細めて団地を見上げる。一棟でどれだけの戸数があるのかわからないが、それが何棟も集まっているのだ。この中に犯人が逃げ込んだとしたら、厄介だ。
「ゼットを少し休ませてくれたら、また足跡追及を再開する……」
 そう言って、史孝は有馬に目をやる。
「この付近まで犯人が逃げてきたってことを、有馬さんが信じてくれるなら、という前提があるけど」
 何も言わず、有馬は鋭い眼差しで史孝を見つめてくる。条件反射で睨み返すと、有馬はふいっと顔を背け、警官の一人に言った。
「応援を呼んでくれ。犯人は大通り方面じゃなく、近所の集合団地の中に逃げ込んだ可能性があると言って。それと、警察犬を休ませる車も待機させてやってくれ」


 警察の人間は大変だと、覆面パトカーの後部座席に乗り込んだ史孝は、開けた窓から顔を突き出し、何棟もの団地の中を走り回っている刑事や警官の姿を眺める。そのとき、汗ばんで湿った髪を、爽やかな風が揺らしていく。
「……と、人事じゃないんだ」
 呟いた史孝は、シートに毛布を敷き、その上に体を伏せているゼットを見る。顔を寄せると、ワフッと鳴いてしきりに頭を動かす。
「復活したか? だったらもう一回がんばるぞ。お前専用に覆面パトまで準備させたんだからな。あと少ししたら、交替の子が来てくれるし」
 帽子を被ったそのとき、車の側に立つ警官が無線で何事か話した。
「どうかしたんですか?」
「犯人を見失ったので、辺りの警戒をいっそう強化しろと言うことです」
 警官たちの間に流れる空気がさらに緊迫感を増していくのを見てから、史孝はゼットに声をかけて車から降り、ハンカチの匂いを嗅がせる。すぐにゼットが迷いのない足取りで歩き始める。
 背後から慌てたように警官が声をかけてきた。
「勝手に行動しないでくださいっ。すぐに他に応援を呼びますから」
 ゼットが何かを感じている様子もあり、史孝は走り出しながら答えた。
「すぐに戻ってきます」
「滝川さんっ」
 走りながら振り返ると、警官たちは持ち場から離れていいのか判断しかねるように右往左往している。それでも足は止めなかった。犯人がどこかに隠れたのなら、頼りになるのはゼットの鼻だ。
 警察の注意が効いたのか、団地の住人たちの姿はほとんど見えなくなり、辺りからの慌しい足音や厳しい声がやけによく響く。
 団地前の駐輪場でゼットが立ち止まったので、もう一度ハンカチの匂いを嗅がせる。
「あっ、犬」
 ふいに声をかけられて史孝は顔を上げる。兄弟なのか、幼稚園児ぐらいの男の子が、一つ二つ下の男の子の手を引いて、史孝たちに駆け寄ってくるところだった。
「こ、こら、危ないから家に――」
 止める間もなく二人の男の子はゼットの側まで来て、迫力十分のシェパードであることなどものともせず、ゼットの顔を好奇心も露に覗き込む。
「あのね、この犬は今、お仕事中だから、邪魔しないでね。それに、危ないから早くお家に帰ろう」
 子供相手にぎこちなく話しかけていた史孝は、ハッとして振り返る。そこに、トレーナー姿の四十代ぐらいの男が立っていた。一目で尋常でないのはわかった。男のトレーナーの袖口や胸の辺りが焼け焦げているだけでなく、目が殺気立っている。
 寒気が史孝の背筋を駆け抜ける。
「――……こっちにおいで」
 両腕で男の子二人を抱き寄せると、自分の身を盾にして男に背を向ける。ゼットは、目的の匂いにたどり着いたとばかりに、興奮して男に対してうなり声を上げている。
 男がじりじりと史孝たちのほうに近づいてくる。
 子供たちに気をつけながら、史孝はそっとゼットの背に手をかける。こういうときのために、警察犬は警戒訓練をしているのだ。
「――……ゼット」
 ゼットのうなり声が一際大きくなる。史孝の手から離れ、ゼットは自分が三人を守ろうとするかのように、威嚇しながら男の前に進み出て行く。
 腕の中の子供たちの震えを感じながら、ゼットに襲撃させるタイミングを計る。
 そのとき、有馬の声が張り詰めた緊張の糸を断ち切った。
「おいっ、何してるっ」
 ふっと全身から力が抜けて、史孝は思わず子供たちにすがりつく。一瞬、助かったと思った。
 見ると、有馬が警官数名と共にこちらに走って来ている。すると男が取り乱して叫ぶ。
「来るなぁっ。来たらこいつらを――」
 男と目が合い、それを察したようにゼットが男に飛びかかろうとする。
 史孝は咄嗟に目を閉じる。耳に届いたのは、男たちの怒声だった。
「おとなしくしろっ」
 反射的に目を開くと、真っ先に視界に飛び込んできたのは、凄まじい表情で男の体の上に馬乗りになっている有馬の姿だ。別の刑事が腕を掴み上げて手錠をかける。あっという間の出来事だった。
 史孝は呆然とする。子供たちは、わけがわかっていないようだったが、警官に抱き上げられた途端、大声を上げて泣き始めた。
 男の上から退いた有馬が、険しい表情で史孝を睨みつけてくる。向けられる眼差しの鋭さに、危うく息が止まりそうになった。
「――……なんで、一人と一頭でこんなとこにいる」
 凄みのある声で問われ、息を呑んだ史孝は怖々と答える。
「……匂いを追ってたら、ここに……」
「なら、護衛を連れて動けっ。お前みたいなの一人と犬一頭で、なんとかなると思ってたのか。俺たちが間に合わなかったら、どうなってたと思うんだっ」
 頭ごなしに怒鳴られ、あまりの迫力に史孝は動けない。そして、反論もできなかった。
 史孝はついうつむく。すると大事な飼い主がいじめられているとでも思ったのか、駆け戻ってきたゼットが、牙を剥いて有馬に吠えかかる。
 有馬の口調がわずかに和らいだ。
「この犬、根性はあるみたいだな。……飛びかかられると思って、犯人の動きが一瞬だけ怯んだ」
 何を言っているのかと、史孝はそっと顔を上げる。有馬は言葉を続けた。
「そこで隙ができたから、押さえられた。そうでなかったら、微妙だったな。犯人がお前たちに飛びかかるのと、俺たちが犯人に飛びかかるタイミングは。――犯人が刃物を持っていたら、と考えてみろ。少しは自分の行動を反省できるだろ」
 正論すぎて、何も言えなかった。
 史孝が唇を噛み締めると、心配そうに顔を寄せてきたゼットが、再び牙を剥いて有馬に吠えかかる。ゼットの剣幕などものともせず、有馬は無表情のまま素っ気なく言った。
「お前らの仕事は終わりだ。パトカーでさっさと送り届けてもらえ」
 犯人逮捕の興奮に騒然とした空気の中、史孝は言葉もなくゼットと共に、立ち去る有馬の背を見送るしかなかった。






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