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BASICなカンケイ
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 口元をてのひらで覆った白井秀穂は、洩れそうになったあくびを堪える。調子に乗って遅くまで本を読んでいたせいで、眠くてたまらない。何より今日は、気候がよすぎた。
 秀穂はわずかに目を細めて顔を上げる。春らしい穏やかな風に乗って、桜の花弁がひらひらと舞い降りてきていた。天気もよく、慣れないスーツを通して陽射しの暖かさを感じられるぐらいだ。
「……いかにも、入学式日和だな」
 口中でそう呟いた秀穂は、今度こそ大きなあくびをする。
 入学式が行われる大講堂までの道は、ひどく混雑していた。入学式に出席する新入生たちはもちろん、部活やサークルのビラを配る学生たちが殺到しているからだ。
 前を塞ぐように立ち止まる学生たちを煩わしく思いながら、秀穂は器用に人を避けて歩く。身長が平均より高く、やや前屈みで歩く癖があるのだが、こうも人が密集していると、自分の足元だけ眺めて歩いているわけにはいかない。
 今のところ部活にもサークルにも興味がないので、ひたすら大講堂を目指すだけだ。
 そんな秀穂の目に、ある光景が飛び込んできた。
 秀穂と同じく、いかにも着慣れてない感じでスーツを着た小柄な新入生が、派手な感じの女子学生たちに囲まれていた。後ろ姿を見ただけで、新入生がおろおろとしている様子がわかる。
 そんな新入生の反応をおもしろがるように、女子学生たちは次々に話しかけ、小柄な新入生は律儀に、話す相手のほうへと忙しく顔を向けている。そのたびに、いかにも柔らかそうな薄茶色の髪がさらさらと揺れていた。
 無視して歩いていけばいいのに、と思いながら、秀穂は小柄な新入生の傍らを通りすぎる。
 このとき軽い好奇心から、女子学生たちに捕まってしまった、ちょっとトロい新入生の顔を確認していた。
「でっけー目」
 思わず秀穂は呟く。小柄な新入生は、薄茶色の髪と同じ色をした大きな目が印象的だった。白く小さな顔には、これ以上ない困惑の表情が浮かんでおり、男だとわかっていながら、手を差し伸べたくなる風情を漂わせている。
 何かに似ているな――。
 歩き続けながら秀穂は、漠然とそんなことを思った。よほど困っているようなら助けてやろうかとも思ったが、襲われているわけでもなく、食われているわけでもないので、あえて放置だ。
 それにあの様子なら、見るに見かねて誰かが助けてやるだろう。
 そう考えはしたものの、秀穂は後ろ髪を引かれる思いで結局振り返る。しかし人ごみに紛れて、小柄な姿を見つけることはできなかった。


 まさか、同じ学部だったとはな――。
 秀穂は学長の告辞に耳も傾けず、秀穂は前の席に座っている自分と同じ新入生の後ろ姿を見つめる。柔らかそうな薄茶色の髪に小柄な体つきは間違いなく、さきほど外で女子学生に囲まれていた人物だ。
 さきほどから秀穂は、目の前に座っているからという理由だけでなく、この新入生を観察し続けていた。気になるのだ。
 学長が話し始めてすぐに、いかにも華奢な肩が揺れ、ときおり体を震わせている。かと思えば、ぐったりしたように顔を伏せて、苦しげに肩を上下に動かす。
 最初は落ち着きがないだけかと思ったが、すぐに秀穂は異変に気づいた。新入生たちが揃って起立するとき、目の前の人物だけワンテンポずれて、いかにもつらそうに体を動かすのだ。明らかに、体調がおかしいと全身が訴えていた。
 気分が悪いなら早くここから出ていけばいいのに、と思い、後ろから見ている秀穂のほうがイライラしてくる。だから、学長の告辞も耳に入らない状態となっているのだ。
 見ている俺まで調子が悪くなりそうだ――。
 とうとう我慢できず、秀穂はイスから腰を浮かせて前に身を乗り出すと、低く声をかけた。
「おい、さっきから大丈夫か」
 すると小柄な新入生は、浅く何回か頷く。うそつけ、と心の中で呟いたが、もしかすると声に出していたかもしれない。
 それから短く言葉を交わしたが、相手は素直に席を立とうとしない。仕方なく秀穂は実力行使に出た。
 大講堂中の人間の視線を浴びるのも構わず立ち上がると、『連れ』の腕を掴む。スーツの上からだというのに、ぎょっとするほど細く頼りない腕だった。薄茶色の大きな目が、怯えたように秀穂を見上げてくる。
 構わず、半ば引きずるようにして連れて歩きながら、秀穂の中では、さきほどからずっと抱えていた疑問が氷解していた。
 こいつは小動物に似ているんだ。
 横目でちらりと見ると、小柄な人物の顔色は、真っ青から真っ赤へと鮮やかに変化している。耳まで赤く染まっていた。よほど、注目を浴びるのが恥ずかしいらしい。
 小柄な体をさらに小さくして、顔を伏せている様子は、臆病な小動物そのものだ。だからこそ、高校生にして朴念仁と呼ばれていた秀穂がうろたえてしまうほど、庇護欲をそそられてしまう。
 控えめにこちらを見た小柄な人物は、震えを帯びた声でおずおずと尋ねてきた。
「……あの……、もしかして君のこと、怒らせた?」
 自分はそんなに怖い顔をしているのかと思いながらも、秀穂は気を悪くはしなかった。
「――悪かったな。俺は元々、こういう怒ったような顔なんだ」
 ごめんなさいと消え入りそうな声で言われ、気にするなと秀穂は応じる。
 大講堂を出ると、人の出入りのない場所にある階段に腰掛けさせる。待っているよう告げて、秀穂は急いで自販機を探し、お茶を買ってきてやる。
「医務室に行くか?」
 隣に腰掛けて尋ねると、再び青い顔をした相手は首を横に振る。
「人に……酔っただけだから。それに、緊張して眠れなくて……」
 世の中には、自分と違って繊細な人間もいるのだと、本気で秀穂は感心した。隣に座っている人物は、繊細な神経に似つかわしい、繊細な容貌をしていると思う。
 青ざめた横顔を見つめながら、さっき女子学生に囲まれているところを助けなかったことへの罪悪感が芽生えた。あれで緊張を倍増させたのかもしれないのだ。
「ごめんなさい……。君まで、式を抜け出させて」
「気にするな。お前が気分悪くなったのも、少しは俺に責任があるんだし」
「えっ?」
 首を傾げる仕種が、やはり小動物めいていた。言い方を変えるなら、可愛いのだ。
 不自然な咳払いをした秀穂は、前置きもなく告げた。
「――白井秀穂だ」
 せっかく名乗ったというのに、相手はわけがわからないのか、大きな目を丸くしてきょとんとしている。
 本当に、少しトロいらしい。
 秀穂は自分の顔を指さして、もう一度名乗る。
「俺は、白井秀穂だ」
「あっ、ああっ、ごめん。ぼくは久坂和哉」
 ようやく安心したのか、相手――和哉はふんわりとした笑みを浮かべた。頬にも少しずつだが血の気が戻り始めている。
 和哉はおとなしくお茶を飲んでいたが、思い出したように大講堂を振り返った。
「……中に戻りにくいよね」
「戻らなくていいだろ。入学式のあとは、学部ごとに新入生オリエンテーションだから、教室に移動だ。式が終わるまで、ここでひなたぼっこしてればいい」
 言いながら秀穂は目を細める。陽射しを浴びる和哉の髪に、つい手を伸ばしたい衝動に駆られる。まるで、おとなしくてしている小動物の毛並みを愛でるように。
 缶を傍らに置いた和哉は膝を抱えて、うかがうように秀穂を見る。臆病そうに見えた大きな目は、今は人懐っこさを湛えていた。
「あの、さ……、つき合ってもらっていい?」
 つき合って、という言葉の響きに一瞬ドキリとした秀穂だが、すぐに意味を察する。
「ひなたぼっこにつき合うのはいいけど、俺は居眠りするかもしれないから、ちゃんと起こせよ」
「……いい性格してるよね、白井くんて」
「秀穂でいい。くん、なんて呼ばれると、くすぐったくて仕方ない」
「ならぼくも、和哉でいいよ」
 にこにこと笑いかけられ、悪い気はしなかった。秀穂はとうとう衝動を抑えきれず、和哉の頭に手を伸ばす。触れた髪は、想像以上に柔らかくて艶やかだった。
 柄にもない行動を取った自分が恥ずかしくて、誤魔化すように和哉の髪をくしゃくしゃにしてやる。和哉は首をすくめはしたが、嫌がる素振りは見せなかった。
 こいつとは、いい友人になれるはずだ。
 なんの根拠もなく秀穂はそう思った。そして、できるなら、和哉も同じことを自分に感じていてほしいと、やはり柄にもなく願ってしまうのだ。







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