HEAVYなカンケイ


 自分に向けられる視線すべてに、嘲笑と嫉妬が含まれているようだと、本澤朋幸はここ一か月、毎朝感じていた。
 丹羽商事の別館ビルのエレベーターから降り、フロアに足を踏み入れた途端、近くにいた社員たちの視線が無遠慮に朋幸に向けられたのだ。
 足がすくみ、できることなら、今すぐこの場から逃げ出したい気持ちだ。
 できなかったのは、重い役職という鎖が足元に絡みつき、動けなかったからだ。決して、このフロアいる社員――いや『部下』たちに弱みを見せられないという気持ちからではない。
 顔を強張らせ、朋幸はぎくしゃくしながら手足を動かす。自分の足で歩いているという感覚はなかった。
 フロアの奥にある秘書室が見えてくると、走り出したくなってくる。
 そんな気持ちをギリギリのところで抑え込み、ぎこちなくかけられる社員たちからの挨拶に、わざわざ足を止めて応じる。
 ようやく秘書室のドアに手をかけたところで、自分が冷や汗をかいているのを知った。臆病な反応を示す自分が忌々しい。
 秘書室のドアを開けると、現在のところこの部屋の主である久坂和哉が、ファイルを手にして振り返った。
 背の高いキャビネットに、背伸びしてファイルを押し込もうとしていたところらしい。柔らかそうな茶色の髪がさらさらと揺れている。
 強張っているであろう朋幸の顔を見ても、いつもと変わらない、穏やかな笑顔を向けられた。
「おはようございます。――今朝は、本館ビルにお寄りになってきたのですよね?」
 笑顔同様の、穏やかな声で話しかけられて、我に返った朋幸はドアを閉める。久坂と二人きりになって、ようやく人心地がつける。
「……ああ」
 よく出来た秘書である久坂は、立ち入ったことまでは尋ねてこない。それでも、髪の色に近い茶色の大きな目が物言いたげに朋幸を見つめてくる。朋幸としても、久坂にしか愚痴る相手はいない。
 自嘲気味に唇を歪めた朋幸は、久坂に頼んだ。
「コーヒーを入れてきてくれないか。二人分。どうせぼくには仕事らしい仕事なんてないから、多少さぼったって平気だろう」
「室長……」
 言いたいことを呑み込んだ様子で、久坂は一礼して秘書室を出ていく。
 朋幸は、秘書室のさらに奥にある部屋のドアを開けて入る。貼られた札には『化学品統括室・室長室』という、仰々しい文字が記されている。
 それはそのまま、朋幸が一か月前、二十五歳にして就任した役職を示していた。
 朋幸の人事は異例ではなく、異色だった。
 丹羽グループという世界的に有数の企業グループをバックにして、あらゆる業種に進出している丹羽商事は、名門中の名門だ。
 脈々と続いてきた丹羽商事の歴史の中で、二十五歳という若さで重役職に就いたという前例はない。それが社長の息子だとしてもだ。
 だが、丹羽グループ会長の唯一の孫となると、話は違ってくる。
 誰もが、化学品統括室室長のポストと同時に、執行役員というポストすら手に入れた朋幸に対して無言で告げてくる。
 名門の血の成せる人事だと。お飾りであったとしても、存在を許されるのだと。
 劇的な人事から一か月が立ち、朋幸は期待されていないというプレッシャーに、苛まれ続けていた。
 人に弱みを見せてはいけないと気を張り続けているが、目に見えて体重は減り、気負いばかりが空回りし続けている。
 毎日が責め苦だ。
 立派すぎる室長室の一角に置かれた、これもまた立派すぎるソファに身を投げ出すようにして腰掛ける。
 丹羽グループ内での本澤の血を守るために、無茶な人事を行った父親と祖父だが、さすがに朋幸の能力に全幅の信頼を寄せているわけではない。
 当たり前だ。朋幸は社会的な経験の浅い、若造なのだ。
 一週間ほど前、そんな朋幸に補佐をつけると父親――社長が電話で知らせてきた。今朝は、その人事が決定したことを、正式な書面をもって告げられたのだ。
 激しい感情がぶつかり合い、胸が悪い。
 ぐったりとソファの背もたれにもたれかかって天井を見上げていると、室長室のドアが控えめにノックされる。
 姿勢を戻して見ると、開けたままだったドアの前に、トレーを手にした久坂が心配そうな表情で立っていた。
 朋幸は無理矢理に笑って見せる。それが合図で久坂が室長室に入ってくる。
「何か、おありになったのですか?」
 控えめに尋ねられ、強がりを言う気にもなれず朋幸は頷く。
 久坂を隣に座らせて、まずは二人でコーヒーカップに口をつける。他の社員たちは忙しく動いていたというのに、ここだけはまるで別世界だ。
 何も触れさせず、何も知らせず、朋幸を飼い殺そうとしている檻のように感じられる。実際は、父親と祖父が求めているのはまったく反対のことなのだが、若いだけの朋幸には、何をどうすればいいのかすらわからない。
 唯一の頼りは、秘書というより一つ年上の親友である久坂なのだが、同時に、自分などにつかされて、申し訳ないという気がする。
「……父さんたちの考えていることがわからない」
「朋幸さん……」
 突然の人事があってから、『室長』と呼ぶようになっていた久坂だが、こういうときは、これまでのように名で呼んでくれる。
「無茶な人事を実行したと思ったら、今度は、有能な室長補佐をつけると言い出した」
 補佐のことを久坂に告げるのは、これが初めてだった。いつかはこんなことがあると予測はしていたのか、久坂はさほど驚かなかった。
「そうなのですか。だから、今日の午後に、秘書室にデスクを運び込むと連絡が入ったのですね」
 そうなのか、と久坂を見ると、頷かれる。朋幸は重苦しいため息を吐き出す。
「来週中には着任するそうだ」
 少しの間沈黙して、コーヒーをゆっくりと飲む。久坂は言おうかどうしようかといった表情をしており、控えめな彼の性格を慮って、朋幸から水を向ける。
「久坂はどう思う? お前は秘書課で、来週来る奴は化学品統括室に所属することになるとはいえ、秘書室での同僚だ」
「どう思うとおっしゃられても……。わたしは、新しく配属される方がどんな方かも存じませんし」
 朋幸はスーツの内ポケットに小さく折り畳んで突っ込んでいた書類を取り出して広げる。腹立たしさのあまり、つい子供のようなことをしてしまった。
 テーブルの上に投げ置くと、断ってから久坂が覗き込む。
「――……桐山、遼二……。聞き覚えのないお名前ですね? わたしも有名な方なら、本館、別館関係なくお名前は頭に入れているのですが」
「海外事業部の人間だ。歳は……三十とか三十一とか言ってたな。とにかく切れ者だと、社長も会長も絶賛だ」
 二人がかりで説得されて、補佐をつけるのを認めさせられた。
 まだ若手とも言える年齢の『桐山』という男は、海外事業において凄腕ぶりを発揮しており、経歴に申し分はない。まじめな男なので、補佐としても秘書として、何より教育係としてこれ以上はない存在なのだそうだ。
 伝え聞かされた桐山について久坂に語って聞かせた朋幸は、もう一度ため息を吐く。一方の久坂は、圧倒されるばかりの桐山の経歴に、ただでさえ大きな目を丸くしている。
 久坂のそんな様子を目にして、朋幸はくすっと笑ってしまう。小動物のように可愛らしいのだ。
 久坂は有能な秘書である青年だが、外見は色素の薄さや繊細で穏やかな容貌もあり、女性的な柔らかさが漂う。性格も、外見に輪をかけて穏やかで聡明だ。
「そ、そんなすごい方と、わたしは一緒にお仕事をするのですか……」
「久坂だって、十分優秀だろ」
 朋幸の言葉に、久坂はぷるぷると首を横に振る。声を上げて笑った朋幸だが、すぐに表情を引き締める。
「まあとにかく、そんな男がぼくのお目付け役につくということだ。統括室の人間も、ぼくの存在は無視できても、桐山という男のことは意識せざるをえないだろうな」
「朋幸さん、そんな……」
 自らを卑下する朋幸に、久坂が困惑したような声を出す。
「いいんだ。ぼくには何もないのはわかってる。あるのは、強力なバックだけだ。それが一番怖いんだろうけどな」
 朋幸は書類を手にする。会ったこともない男について、想像を巡らせる。
 ふと思い出したことがあり、言葉を洩らした。
「――……そういえば、二日前に海外事業部の部長と話したんだが……」
「はい?」
「妙なことを言っていた」
「妙なこと、ですか?」
 今にしてみればありえない話で、他人に教えるのもどうかと思う。だが相手が久坂だということで、笑い話程度で話した。
「桐山という男自らの希望だそうだ。――本澤朋幸の補佐につきたい、と」




 朋幸の帰宅は、室長になってから定時ちょうどとなってしまった。
 まだ、前の役職である部門長代理だったときのほうが、仕事にもやり甲斐があったし、毎日充実して忙しかった。
 しかし室長となると、朋幸に任される仕事は極端に少なくなってしまった。
 室長としての本来の仕事は、ベテランの四十代後半の副室長がこなしており、朋幸は現在、業績悪化が指摘されている化学品統括室の管理下にある、化粧品部門の改革を任されている。
もっともこれも、単なるお題目のようなものだ。
 朋幸にはなんの資料も提示されないし、何をどう指示すればいいのかすら、わかっていない。
 劇的な社内人事は、朋幸を孤独に追い込んでいた。
 夕方の六時過ぎには自宅に戻り、気疲れからぐったりとしてソファに腰掛ける。自分自身がもどかしくて、腹立たしくて、叫びたくなる。
 ソファに転がった朋幸だが、軽く目を閉じて呟く。
「……お腹空いたな……」
 会社にいるときは、人目が気になって社員食堂で昼食をとる気にもならず、結局何も食べないまま過ごしたが、夕食はそういうわけにもいかない。
 一人暮らしなので、動かなければ何も食べられないのだ。
 仕方なく体を起こし、スーツからジーンズとTシャツ、その上にパーカーを羽織ったラフな格好に着替える。
 現在住んでいるマンションは、朋幸の年齢で住むには身分不相応なほど立派だが、近くに気軽に食事できる店がないのが少々不便だ。
 散歩を兼ねるつもりで、朋幸はポケットに財布と部屋のカギだけを突っ込んでマンションを出る。
 自分で車を運転するなと、父親と祖父からだけでなく、久坂にまで言われているので、歩いて移動するしかない。
 ようやく日が暮れかけようとしている外をとぼとぼと歩いていると、部活帰りなのか高校生や中学生たちとよくすれ違う。
 その後ろ姿を振り返って目で追いながら、自分があの年代の頃は、と考える。
 まだ自分の体に流れる血の重さも環境も、どれほどのものなのか価値をわかっていなかった。
 体に教え込まれたのは、丹羽商事に入社してからだった。努力も何も必要としていない、縁故入社だ。
 水音に気づき、ふと歩道の傍らに目を向ける。
 さほど大きくない川が流れており、暖かくなるこの季節になると、ときおり子供たちが水遊びをしているのを見かける。
 もっとも、さすがに今の時間ともなると、子供たちの姿はいない。
 ふと気が変わった朋幸はまっすぐ歩いていたのを方向を変え、川にかかった橋を渡る。
 橋の途中で足を止めると、欄干に腕をかけてぼんやりと川を見下ろす。
 川を渡ってくる風に髪を揺らされ、乱れる。乱雑に掻き上げて、知らず知らずのうちに朋幸は苦笑を浮かべていた。
 こんな時間から、やることもなく外をふらついている自分が惨めだと気づいたからだ。だからといって、朋幸に何かできるはずもない。
 水の流れにすうっと意識が引き寄せられ、そのまま目が離せなくなった。
 どれぐらいそうしていたか、自分の隣に人影が立った気配を感じて顔を上げる。このときになって、辺りに薄闇が落ちているのを知った。
 朋幸の隣に立っていたのは、ずば抜けて背が高い、三十代前半のスーツ姿の男だった。
 その男と朋幸の間は、不自然なぐらい近い。あえて男が近づいてきたのは間違いない。
 何者だと眉をひそめた朋幸は、すぐに場所を移動しようとしたが、ゆっくりとこちらを向いた男の顔を見て、動けなくなった。
 圧倒された、といっていいかもしれない。それぐらい、男の存在感は強烈で鮮烈だ。
 見惚れるほど秀麗な顔立ちをしており、眼鏡をかけてはいるが、完璧な容貌を損なうことはなく、むしろ知性を裏付けてさえいるようだ。その眼鏡のレンズの奥にある目は、心の中まで突き通されそうなほど鋭い。
 前髪はきれいに撫で上げられ、形のいい額が露になっている。鼻は高くて唇は薄め。男らしい顔立ちではあるが、同時に酷薄さも感じる。
 怖い、と瞬間的に感じた朋幸は、無意識に一歩後退る。
 父親や祖父の立場が立場なので、物心ついたときから、見知らぬ人間に対する警戒心は過剰なほど強い。しかし本澤家ではそれが当然なのだ。
 もう一歩後退ろうとした朋幸に向けて、男が意外な行動を取った。
 持っていた二本の缶コーヒーの内の一本を、朋幸に向けて差し出してきたのだ。
「――飲みませんか」
 無表情に、淡々とした口調で言われる。だが男は、驚くほどの美声の持ち主だった。鼓膜を震わされるほどの、よく響くバリトンだ。
 いつもの朋幸なら、無視していただろう。だが男から感じた、美貌も美声も関係ない無機質さが、ひどく気になる。
 結局朋幸は缶コーヒーを受け取り、男と並んで口をつけていた。
「……どうして、ぼくに?」
 相変わらず川の流れを眺めながら、朋幸は男に尋ねる。
「あなたが一時間近くも、ずっとそうやって川を眺めていたからですよ。一度は通り過ぎたのですが、気になって引き返してきました」
 人がいい、というふうには見えない。朋幸は露骨に男に疑いの眼差しを向ける。
 朋幸の視線の意味に気づいたのか、男は唇に薄い笑みを浮かべた。どこか朋幸をバカにしたような、感じの悪い笑みだ。
「なんだよ……」
「いえ。警戒されていると思いまして」
 男の口調はずいぶん慇懃だ。明らかに年下である朋幸は敬語を使っていないというのに、これではバランスが取れない。だがいまさら、わざとらしく言葉づかいを変える気もしない。
 どうせ、この場限りのつき合いだ。
「……ヒマな人間だな。夕方から、ぼんやりしてるぼくなんかに声かけて、缶コーヒーをおごってくれたうえに、飲むのをつき合ってくれるなんて」
「――ヒマではありませんよ、わたしは」
 そうは言っても、営業の途中の人間には見えない。
 よくわからない男だと思いながら、朋幸は急いで缶コーヒーを飲み干す。男と一緒にいるとなんだか知らないが息苦しくなってくるのだ。
「それじゃあ、ぼくはこれから食事に行くから」
 朋幸が行こうとすると、わずかに首を傾げた男が問いかけてくる。
「この近くに、いい店はありましたか?」
 口ぶりからして、この近所の地理を知り抜いているようだ。朋幸は唇を歪め、投げ遣りに答える。
「別に、いい店ではなくていいだろ。ファストフードで済ませる」
 朋幸の答えに、男は不快そうに眉をひそめ、眼鏡の中央を押し上げる。
「きちんと食事をされないと、体に悪いですよ。それでなくても、線が細いのですから」
「余計なお世話だ」
 きっぱりと言い切って、朋幸は歩き出す。だが気が済まないので、振り返って一言だけ告げた。
「――……缶コーヒー、ありがとう」
「いいえ」
 そんな返事が返ってきたが、男がどんな表情をしたのかまでは見届けることなく、朋幸は駆け出した。




 朋幸は執行役員に就任してから、毎日の送り迎えはハイヤーを利用している。別に電車でもかまわないのだが、異例の人事がマスコミに報道されてから、あまりに周囲が騒々しくなった。
 一時それで体調を崩した朋幸だが、最近ようやく立ち直ったのだ。なのにまた騒音から心労を重ねるのはよくないという、両親と祖父の判断だ。
 いつもと変わり映えしない、自宅から会社までの道の景色を、ハイヤーの後部座席の窓から眺める。
 また今日も、神経をすり減らすだけの一日が始まったのだ。
 今日は何をやって時間を潰そうかと、化学品統括室室長としての情熱の欠片もなく、朋幸は漠然と考える。
 別館ビルの正面玄関の前にハイヤーがつけられ、朋幸はアタッシェケースを手に降りる。
 広いロビーをゆっくりと歩いていると、背後からパタパタという足音が聞こえてくる。聞き覚えのある足音に振り返ると、久坂が駆け寄ってくるところだった。
「おはようございます、朋幸さん。お早いですね」
「おはよう。……眠れないから、早く家を出たんだ。この時間なら社員もそれほど出社していないから、気も楽だしな」
 朋幸が洩らした本音に、久坂が表情を曇らせる。室長室にこもりたがる朋幸を、誰よりも久坂が心配しているのは感じていた。
「そんな顔をするな。これでも一か月前に比べたら、かなりよくなったんだ。もう少しすれば慣れるだろ」
 いつもは先に秘書課に向かう久坂だが、秘書室のカギを開けるため、朋幸と共にエレベーターで化学品統括室のフロアへと上がる。
 フロアにはまだ出社している社員の数は少なく、二人は足早に通り過ぎて奥の秘書室へと向かう。
 秘書室のカギを開けようとした久坂だが、小さく声を洩らして首を傾げた。
「どうした?」
「いえ……、カギが開いているんです」
 昨夜確かにかけたはずなのに、という久坂の言葉を受けて朋幸は、久坂を自分の背後に隠してドアノブに手をかける。
「朋幸さんっ、わたしが――」
「いいから」
 朋幸は一気にドアを開ける。
 秘書室の中央に、アタッシェケースを手にした長身のスーツ姿の男が立っていた。どうやら秘書室内を見回していたようだ。
 ドアを乱暴に開けた物音にも動じた様子はなく、ゆっくりと落ち着いた動作で朋幸たちを振り返る。
 その顔を見て、朋幸は呆然とした。
「……お前……」
 男は眼鏡の中央を指で押し上げて、朋幸に目を止める。物騒なぐらい鋭い視線だ。
 朋幸の目の前に立っているのは、四日前、橋の上で缶コーヒーをくれた男だった。
 驚きのあまり立ち尽くす朋幸に代わり、久坂が前に出てきて、男と朋幸の間に立ちはだかる。
「失礼ですが、どなたでしょうか? ここは、社員の方でも立ち入りは――」
「入られて困る資料は見当たらなかったが。室長室にも」
 男の眼差しはすぐにまた朋幸に向けられる。
「仕事をしているとは、とうてい信じられない有様ですね。あなたが執行役員だけでなく、化学品統括室室長に就任されてから、一か月以上は経っているはずですが」
 バリトンで淡々と告げられる言葉は、まるで凶器だ。
 自分がバカにされたのだと気づいた朋幸は、久坂を押しのけて男に歩み寄り、男の頬を平手で殴ろうとする。しかし簡単に手首を掴まれた。
「都合の悪いことを指摘されて、カッとして手を上げるのは子供と同じですよ。もう少し大人の対応を身につけてください」
 力が強い男の手をなんとか振り払った朋幸は、怒りのあまり息が詰まり、全身が小刻みに震える。
「……何者だ。お前」
 男はもう一度眼鏡の中央を押し上げた。
「連絡は入ってらっしゃると思いますが」
 眉をひそめた朋幸だが、すぐにピンとくるものがあって目を見開く。
「まさか……」
「――桐山です。今日からあなたの補佐兼秘書として、ご一緒させていただきます」
 咄嗟に朋幸は言葉が出てこず、食い入るように桐山という男の顔を凝視する。
 スッと顔を反らした桐山は久坂に確認して、新しく運び込まれたデスクにアタッシェケースを置くと、淡々とした口調のまま説明を始める。
「仕事に関してですが、あなたに回される書類はすべて、わたしも目を通しますし、あなたが出席される会議にも同席させていただきます。ある程度の発言権を社長から与えられておりますので。化学品統括室から出される重要書類はこれからすべて、あなたの決済だけでなく、わたしの決済も必要とするよう、方式を変えます。よろしいですね」
 淀みない言葉の洪水に、朋幸はめまいすら覚える。心なしか胃まで痛くなってきた。
 桐山の言葉は凶器だ。
 朋幸はようやく自分を取り戻すと、キッと桐山を睨みつけて、室長室のドアに歩み寄る。
「本澤室長」
 桐山に呼ばれたが、一瞥すらせず室長室に入って乱暴にドアを閉めようとする。しかし、そのドアを桐山本人に押さえられて閉められない。
「まだお話は済んでいません」
「……ぼくは、ない」
「ダメです。わたしが決定したことすべてを聞いていただいて、あなたに承諾をいただかなければならないのです。異論があるなら、それからおっしゃってください」
「なぜぼくが――」
「あなたの意思表明ですよ。あなたがわたしの傀儡になる気はないという」
 桐山の言葉の意味は、理解した。
 やろうと思えば、朋幸を操るぐらい簡単なのだと、暗に桐山はほのめかしているのだ。そうなりたくなければ、自分の頭で考え、動けということだ。
 朋幸は大きく息を吐き出し、挑発的に桐山を見据える。桐山は冷静に見つめ返してくる。
 氷でできたロボットのような男だ。
 内心で罵倒してから、朋幸は室長室内を指先で示す。
「――入れ。時間は腐るほどあるんだ。じっくりお前の考えを聞かせてもらおう」
「時間があるとおっしゃられるのも、今だけです。これからあなたには、嫌というほど働いていただかないとなりませんから」
 望むところだ、と朋幸は低く応じる。
 桐山を室長室に入れると、心配そうな表情の久坂に、誰からの電話も繋ぐなと命じてから、朋幸はドアを閉じた。




 桐山は嫌味なほど有能で、精力的だ。
 三日ほど行動を共にして、朋幸はその事実が骨身に染みていた。そして、心底うんざりしていた。
 会社で一緒にいるのも息苦しくて苦痛だというのに、自宅から会社までの送り迎えも桐山が行っているのだ。四六時中見張られているのと同じだ。
 鑑賞用としては、これ以上ない男ではあるが――。
 化粧品部門の経営戦略会議に出席して、徹底的に朋幸を無視したような会議の進行に耳を傾けていたが、ふと興味をそそられて、隣に座る桐山の横顔に視線を向ける。
 何を考えているのか読ませない、完璧な無表情だ。朋幸の隣に座っているだけで口も開かないため、化粧品部門の重役たちは、朋幸に対する態度同様、桐山の存在を忘れたように振舞っている。
 会議が終わりに差しかかり、朋幸は形だけの意見を求められる。
 朋幸が口を開きかけたところで、スッと桐山が立ち上がった。
「まず、わたしから、皆さんに見ていただきたいものがあります」
 そう言った桐山が、持ち込んでいたファイルを開き、中から書類を取り出す。
 何かコピーしたものらしく、あっという間に配り終え、最後に朋幸も手渡された。
 書類に目を落とした朋幸は、軽く目を見開く。中にはびっしりと、ある用件が箇条書きされていた。
「わたしがあなた方に求めるのは、まずは秩序と役職に対する意識の回復です」
「――……どういう意味でしょうか」
 部門長が不本意そうに口を開く。桐山は、隣で見ていてもゾクッとするほどの冷ややかな視線を向けた。
「わたしが室長補佐として配属されて三日になりますが、その間、化粧品部門には再三に渡って、必要資料の提出を求めてきました。……一枚も提出されていませんね?」
「それは、連絡が行き届かずに――」
「子供の使いではありません」
 ピシャリと桐山は言い切る。鼻白んだのは、部門長だけではなかった。さきほどまで和やかに会議を進めていた、他の重役たちも同様だ。
「提出しろと言ったものを提出するのは当然です。むしろ、当然提出されていなければならないものが、提出されていないのです。これが、わたしの言う基本的な秩序です。そして、あなた方の指揮を執られるのは、あなた方の談合による意見ではありません。ここにいらっしゃる、本澤室長です」
 これは、役職に対する意識、と桐山は付け加える。
「お配りした書類に、これからの仕事の、基本的なルールを書き記しておきました。わたしは本澤室長ほどお優しくはありません。ルールが守られないなら、それ相応の対処をいたします。――容赦なく」
 桐山が腰掛け、眼差しで促される。仕方なく朋幸は、投げ遣りに告げた。
「そういうことだ。ぼく自ら、化粧品部門に催促の電話をかける回数が減ったら――ふん、誉めてやる」
 嘲笑を込めて一同を見渡すと、次の瞬間には書類をまとめて立ち上がる。すぐに桐山も倣った。
 会議室を出て廊下を歩きながら、朋幸は呟く。
「あの連中があんな顔をしたのを、初めて見た」
 溜飲が下がるかといえば、そうでもない。理由は桐山が口にした。
「あそこまで増長させるほど、あなたは何もしてこなかったという証明ですね」
「――うるさい」
 朋幸は桐山を睨みつける。しかし平然と見つめ返され、朋幸のほうが目を反らす。桐山の目は苦手だ。心の中に必死に押し隠している不安も怯えもすべて見透かされそうなのだ。
「今後は、社員があなたを甘く見るようなやり方は、わたしが許しません。しかし、あなた自身もしっかりなさってください。室長としてのあるべき姿を、早く身につけていただかなければ――」
「うるさいっ」
 エレベーターホールに出たところで、たまらず朋幸は一喝する。他に社員たちの姿があったが、気にする余裕などなかった。
 一斉に向けられる好奇心も露な視線に頓着せず、桐山は冷静に言った。
「すぐに感情的になられるのも、直されたほうがよろしいですね。上司が感情的だと、迷惑するのは部下たちですから」
 目の前が、怒りのあまり真っ赤に染まる。朋幸はギュッと拳を握り締めると、唇を噛み締める。本当は桐山を殴ってやりたいが、これ以上、社員たちの前に醜態を晒せない。
 そんな朋幸を煽るように、桐山が淡々として言った。
「――そう、その調子ですよ」


 室長室で一人、ようやく化粧品部門から上がってきた資料に目を通しながら、朋幸は自分のみぞおちにてのひらを当てる。
 午前中の会議のあと、桐山とやり合ってから、胃が痛くて仕方ない。それでなくても神経が細いきらいがあるので、心配事があるとすぐに体調に出てしまうのだ。
 デスクの引き出しを開けて、常備してある胃薬を探すが、すぐに舌打ちする。半月以上前に体調を崩したとき、すべて飲んでしまったのだ。
 我慢しようかとも思ったが、桐山と一緒にいる限り、気が休まることはないと諦め、朋幸は立ち上がる。医務室で胃薬を処方してもらうしかなかった。
 そっと室長室のドアを開けると、桐山と久坂がそれぞれデスクについて仕事をしている。
 声をかけたわけでもないのに桐山が顔を上げ、朋幸を見た。
「どうかされましたか?」
 桐山の言葉に、久坂も弾かれたように顔を上げる。
「……どうもしない」
 答えながら朋幸は秘書室を通り抜けようとする。
「どこに行かれるんですか」
 再び桐山だ。
「どこだっていいだろ。ちょっと席を外すだけだ」
「顔色が悪いですよ」
「お前に関係ないっ」
 声を荒げてから秘書室を出ると、朋幸は足早にフロア内を歩く。
 フロアから廊下に出てエレベーターホールに向かいかけた途中で、笑い声交じりの会話を耳にした。
「――新しく来た補佐が、さっそく化粧品部門の上とやり合ったって聞いたか?」
 咄嗟に桐山のことを話しているのだとわかり、思わず朋幸は足を止める。会話を交わしている男性社員たちの声から、わずかな嘲弄の響きを聞き取っていた。
「あそこはけっこう、好き勝手にやってるって感じだからな。前の室長が、化粧品部門出身だっていうこともあったから。いい薬になるんじゃねーの?」
「前の室長が無能で、今度の室長はお飾り、ときたら、補佐に強力なのを迎えるしかないと思ったのかね、やっぱり」
 容赦ない言葉に、朋幸の胃がズキリと痛む。
「今の室長の経歴に傷をつけるわけにはいかないだろうしな。なんといっても、未来の丹羽商事の社長――いや、丹羽グループの会長だって務めるかもしれない人物だからな」
「いいねー。俺も強力なコネの下に生まれたかったね」
 朋幸はきつく拳を握り締め、てのひらに爪を食い込ませる。悔しいのに、心の中でさえ何も言い返せない自分がいる。
 実際これまでの朋幸は、父親や祖父の庇護の下にいるだけで、何もやっていないのに等しいのだ。
 このとき肩を叩かれ、朋幸は体を大きく震わせて振り返る。朋幸のあとを追いかけてきたのは久坂かと思ったが、立っていたのは桐山だった。
 おそらく桐山も男性社員たちの会話が聞こえていたはずだが、まったくの無表情だった。
 もっとも見られたくなかった場面を見られて、朋幸は激しく動揺する。
 桐山が唇を動かして何か言いかけたが、朋幸は肩にかかった手を払いのける。
 エレベーターの前の男性社員たちがギョッとするのもかまわず、階段を駆け下りていた。


 朋幸はその後、気分が悪くなったと告げて会社を早退した。
 桐山は送っていくと言ったが、頑なに断った。気分の悪さの原因は桐山にあると言えるほど、朋幸も子供ではない。
 ハイヤーで自宅マンションに戻り、着替えてすぐにベッドに潜り込む。
 桐山が数日側にいるだけで、自分の無力さと無能さを痛感させられる。元々、自分が優秀な人間だと思っていたわけではないのに――。
 このまま自分は立ち直れないかもしれない、と考えて、朋幸はそっと体を震わせる。
 桐山の完全な傀儡に成り下がってしまうのなら、それはそれで楽かもしれないと思った自分が怖かった。
 噛み締めた唇から血が滲みそうになるほど、しばらくベッドの中で考え込んでいた朋幸だが、お腹が鳴った音に、ふっと肩から力が抜ける。
 一か月ほど前体調を崩したとき、短い期間ながら入院していたのだが、そのとき、空腹を感じる余裕がある間は自分は大丈夫だと思った。
 今もそうだ。
「……何か食べに行こう……」
 空腹だとわかった途端、ずっと朋幸を苛んでいた胃痛もどこかに行ったようだ。
 ベッドから抜け出すと、Tシャツの上からシャツを羽織り、財布とカギを手に部屋を出る。
 外はすでに暗くなっており、しばらく、ベッドの中で考えていたことになる。
 もう少し強くならなければと、歩きながら自分に言い聞かせる。
 いつになく湿っぽい風に頬を撫でられる。乱れた髪を軽く指で梳き上げた朋幸は、桐山と初めて顔を合わせた橋になんとなく目を向ける。
 会社帰りらしい人の姿が通っており、朋幸は誘われるように橋を渡り、数日前のように中ほどで立ち止まって欄干に腕をかける。
 街灯に照らし出される川の流れに視線を落とす。
「――体調が悪い方が、こんなところで何をされているんですか」
 背後からよく響くバリトンをかけられ、朋幸は川に視線を落としたまま応じる。
「お前が側にいなかったら、それだけで体調がいいんだ」
「慣れていただくしかありませんね。わたしはずっと、あなたのお側にいるよう、命じられていますから」
 ここで朋幸は、海外事業部の部長から聞いた話を思い出した。
 顔を上げて桐山を振り返る。桐山は相変わらず端然としたスーツ姿で、アタッシェケースを手に立っていた。
「……ぼくは、お前に関してある噂を耳にした」
 無表情だった桐山が、わずかに眉をひそめる。
「どういったうわさですか?」
「――ぼくの補佐についたのは、お前の希望だと」
 朋幸は唇を歪めて笑いかける。いつもの冷淡な口調で否定するかと思われた桐山だが、眼鏡の中央を指で押し上げ、黙って朋幸の隣に移動してくる。
「うわさの真意はともかく、わたしはあなたの補佐だから、日本に戻る気になったのですよ」
「お坊ちゃまなら、自分の言いなりにできると思ったからか?」
「あなた自身がどう思われようが、わたしは否定しません。ですが――」
 桐山にふいに顔を覗き込まれ、鋭い目を間近で見た朋幸は息が詰まりそうになる。無遠慮で容赦のない眼差しに、心の中を切り裂かれそうだ。だが、不思議な熱さを感じる。
「昼間の社員たちの会話を聞いたあなたの反応は、ただのお飾りの室長で終わる気はないという気持ちがおありになると、わたしは感じましたが?」
「……それは……、あんなことを言われたら――」
「なら、わたし共に戦うべきです」
 朋幸は目を丸くして桐山を凝視する。
「わたしが気に入らないというのなら、それでもけっこうです。わたしも、あなたに対する厳しい態度を改める気はありません」
 しかし、と言葉は続けられる。
「わたしはあなたのためなら、尽力は惜しみません。わたしのこれから先のすべての時間を、あなたのために差し出しましょう。あなたが、成すべきことを成し遂げると約束してくださるのなら」
 朋幸は、胸の奥にほのかな熱を感じる。
 無表情で、淡々とした口調で語られる桐山の言葉に、確かな情熱を感じていた。
 それは、久坂が与えてくれる穏やかなぬくもりではなく、朋幸を駆り立てる激しい熱の欠片だ。
 この男はうそは言っていない。
 悔しいが、それだけは確信できた。
「――ぼくは、お前の傀儡になる気はないからな」
 朋幸はきっぱりと断言する。すると桐山が唇に薄い笑みを浮かべた。
「あなたのような感情の起伏の激しい方は、傀儡には向きませんよ。少なくともわたしには、操りきれる自信はありません」
 ずいぶんな言われようだが、悪い気はしない。
 朋幸はもう一つだけ念を押した。
「ぼくを裏切ったら、一生かけてもお前を許さない」
「……あなたみたいな方から、一生、という言葉をおっしゃっていただけるとは、光栄ですよ」
 嫌味かと思ったが、桐山の鋭い目が一瞬だけ和らぐ。だが眼鏡をかけ直した次の瞬間には、寸分の隙もない冷徹の眼差しへと戻る。
「それでは、まず改善していただきたいのですが、どんなに面倒でも、食事はきちんとした店で、きちんとしたものをおとりください」
「……それは、ぼくの私生活に関することだろうが」
「ちょうどよろしいので、これからわたしと共に食事に出かけましょう」
 人の話を聞け、と口中で呟いた朋幸だが、まあ今日だけは、一緒に食事をとってやると諦める。
 背に桐山の手がかかり、促されて一緒に歩き出した。




 ふっと目を開いた朋幸は、自分が今どこにいるのか、すぐにはわからなかった。
 間近に微かな物音を聞いて顔を上げると、そこには桐山の秀麗な顔があり、片手で文庫のページを器用に捲っていた。
 もう片方の手はというと――。
 ここで朋幸は、自分が桐山の肩に頭を預けてまどろんでいたことを知る。片腕でしっかりと頭を引き寄せられて、優しく丹念に髪を撫でられていた。
 どうして桐山がこんなことを、と頭が軽く混乱したが、ようやく、さきほどまで自分が夢を見ていたのだと知る。
 桐山と出会ったばかりの頃の記憶を、夢の中でたどっていたのだ。そしてここは、桐山の自宅のベッドの上だ。
 朋幸は口元を綻ばせ、桐山の胸元にてのひらを押し当てる。
「どうかされましたか?」
 文庫を閉じて、桐山が朋幸を見る。眼差しが鋭いのは相変わらずだが、愛情と優しさを内包しているのを朋幸は知っている。
「――……夢を見ていたんだ。お前と初めて顔を合わせたときからの……」
「ずいぶん嫌な男でしたでしょう。あのときのわたしは、あなたにとって」
「まあな」
 あっさりと答えると、桐山は小さく苦笑をこぼす。頭を起こした朋幸は、桐山の頬に手をかけて顔を覗き込む。
「それでも、こうやってお前を愛せた」
「わたしはあなたと出会った時点で、あなたを愛していましたけどね」
「……なんかずるくないか?」
「そこでどうして、ずるいという言葉が出てくるのかが不思議ですよ」
 朋幸は桐山の頬に唇を這わせる。這わせながら囁いた。
「――何もかも、お前と対等でいたいんだ」
 軽く目を見開いた桐山だが、すぐに穏やかな笑みを浮かべる。
「とっくに、対等ですよ。あなたとわたしは」
 だったらいいな、と朋幸は呟き、引き寄せられるまま、桐山と深く唇を重ね合わせた。





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