IMPRESSなカンケイ


 昼食として買ってきたサンドイッチを機械的に口に運びながら、桐山遼二はパソコンの画面を食い入るように見つめる。
 食べるものにさほどこだわりのない桐山だが、正直、イギリスでの食事には辟易していた。噂には聞いていたが、日本人の口には合わないものが多く、腹に溜まればそれでいいと割り切るしかない。それなりの店に行けば、満足できるものが食べられるが、それも毎日というわけにはいかない。
 丹羽商事の海外事業部から、二十七歳にしてイギリス支社勤務となったのは約半年前だが、生活にはとっくに慣れたとはいえ、食事にだけはいまだに不満が多い。
「そんなしかめっ面して食っても、美味くないだろ」
 ふいに肩を叩かれて、そんな言葉がかけられる。顔を上げると、桐山がいるヨーロッパ地域グループ渉外統括部のマネージャー、工藤が立っていた。
 イギリス支社は、日本人やイギリス人だけでなく、さまざまな人種の人間が働いているが、四十代に入ったばかりの工藤がうまくまとめている。それだけ彼が有能ということで、桐山は彼の下で働けるという現状に満足していた。
 このまま海外事業部に籍を置き、海外の支社を点々とする人生もいいと思っている。世界にも名の通った丹羽商事という後ろ盾を持ち、世界中で大きな仕事を手がけるのは魅力的だ。それに比べれば、生まれ育った日本に対して、桐山はさほど未練はなかった。ときどき、帰国できる程度で十分だ。
「元からこんな顔です」
「……可愛げないなあ、桐山。まあ、お前が入社したときから、大学出たてとは思えない落ち着きっぷりは、社内じゃ有名だったけどな」
「そんなに早くから、わたしは工藤さんに目をつけられていたんですか」
「有望株には、早々にツバをつけておこうかと思っただけだ」
 少々下品な表現をして工藤は笑う。見た目は非常に紳士なのだが、発言が明け透けなのは、知り合ったときから変わらない。
 まだ丹羽商事の本社にいる頃、新人だった桐山に何かと目をかけてくれたのが、この工藤なのだ。そしてついには、海外事業部へと引っ張ってくれ、ついには海外支社勤務へも推薦してくれた。
 おそらくこの人は、定年するまで海外勤務を続けるだろう。いまだに独り身で、仕事と私生活を楽しんでいる様が、桐山にとっては憧れだった。
「――そういえば今日、大名行列があるって聞いているか?」
 思いがけない言葉に、桐山は眼鏡の中央を押し上げて眉をひそめる。
「大名行列?」
「今、本澤社長が、ヨーロッパの各支社を視察されているんだ。それで今日はうちに、というわけらしい」
 本澤社長、と言われもピンとこないというのが、桐山の正直な感想だった。それぐらい雲の上すぎる存在なのだ。
 ただ情報としてはいろいろ耳に入っている。
 たとえば、丹羽グループの現会長を父に持っているということや、親の七光りという陰口を許さないほど苛烈な頭脳と行動力の持ち主であること。さらには、同族支配は認めないというグループ内の暗黙のルールを実力で破って、丹羽商事の社長に就任した唯一の人物でもある。
 切れ者で辣腕の持ち主という逸話には事欠かず、とかく厳しい人物として有名な本澤社長だが、唯一、『微笑ましい』エピソードが伝わってきている。
 曰く、一人息子を溺愛している、というものだ。とにかく息子のことになると、普段は切れ者と言われている本澤社長も人が変わるらしい。それだけでなく、丹羽グループ会長にとっても唯一の孫ということになり、やはり溺愛されているそうだ。
 おそらく丹羽グループは、数年後には本澤一族による支配が色濃くなり、会長も社長も、息子にすべてを継がせるための下準備を今からしていると、囁かれている。
 それがどんな下準備であるかは、一般の社員でしかない桐山にはわからないし、興味もなかった。自分には関わりのないことだ。
 偉大な人物に溺愛されたからといって無能な人間ができるわけではない。それは、やはり一人息子として会長に溺愛されたという本澤社長が証明している。だとしたら、本澤社長の一人息子が溺愛されているからといって、無能であるとは限らない。
 もちろん、有能であるとも限らないわけだが――。
 そんなことを桐山が考えていると、タイミングよく工藤が言った。
「噂の、本澤社長のご子息も、立ち寄られるそうだ」
「ここに?」
「今、アメリカ留学中だが、夏休みでヨーロッパを旅行中らしい。せっかくの機会だからと、幹部の誰かが気をきかせてセッティングしたんだ」
「今から大した大物ぶりですね」
 意識したわけではないが、桐山の口調は皮肉っぽくなる。会ったこともない相手の境遇を羨んだわけではなく、周囲の大人たちの気の使い方が皮肉の対象となっただけだ。
 ただ、本澤社長の一人息子が、とてつもない掌中の珠であるのは間違いない。今から恩を売っておいても損にはならないだろう。結果として本澤社長の覚えがめでたくなるのだ。
「まあ、将来は丹羽商事だけでなく、丹羽グループを背負って立つかもしれない人物だからな。今からいろいろ見せておきたいという本澤社長の意向が働いているのかもしれない。そうだしたら、誰も何も言えん」
「……将来、わたしの上司になるかもしれない方ですしね」
 工藤は少し考える素振りを見せてから、あごを撫でながら頷いた。
「桐山、お前それ、冗談のつもりで言ったかもしれんが、むしろ実現しない可能性のほうが低いぞ」
「わたしも自分で言って、思いました」
「本澤社長のご子息がどんな人物なのか、今日の訪問でじっくり観察しておくのもいいかもな。今は二十歳の学生でも、もしかすると将来、俺たちの上に立つことになるかもしれないお方だ」
 本当にそう思っているのか、工藤はニヤリと笑う。
 あまり冗談やシャレといったものが得意でない桐山は、どう切り返していいかわからず、思わずどうでもいいことを質問していた。
「それで……社長のご子息の名前はなんというのですか?」
 本当に知りたいのか、と言いたげな顔をして、工藤は教えてくれた。
「――本澤トモユキ。字は知らない。社長に直接聞いたらどうだ? 将来のトップの名を知っておきたいとでも言って」
 性質の悪い冗談に、もちろん桐山はニコリともしなかった。


 大名行列とは皮肉でもなんでもなく、まさに的確な表現だったのかもしれない。
 廊下を歩いてきた一団を見て、ミーティング中だった社員たちは一斉に話すのを止め、緊張の面持ちとなる。
 先頭を歩いているのは本澤社長で、まだ五十代に達していないはずだが、頭髪は真っ白だ。それでいて整った顔立ちそのものは若々しく、目許には、笑っていながらも薄まることのない険しさが漂っている。
 その本澤社長の隣をイギリス人の支社長が歩き、何やら説明している。異様なのは、二人のあとに続く人間の多さだ。日本からどれだけの幹部を随行してきたのかと思いながら、桐山は冷静に見つめる。
 工藤も説明役としてしっかり行列に加わっており、他の幹部と話していた。ふと、その工藤と目が合い、なぜか意味深な笑みを向けられる。思わず桐山は姿勢を正していた。
 工藤は本澤社長に話しかけてから、桐山を指さす。そして、ミーティング室から出てくるよう手招きされた。
 滅多なことでは動揺しない桐山だが、このときばかりはさすがに身構え、緊張しながら立ち上がると、ミーティング室を出る。
 促されるまま本澤社長の前に立つと、工藤は桐山を紹介し始めた。
「わたしの部下の桐山です。若いですが優秀で、今度、業務提携に関するプロジェクトを任せようと思っています」
 そんな話は初耳で、桐山は軽く目を瞠って工藤を見る。
「工藤くんは、優秀な人材をとにかく海外事業部に引っ張っていくと、他の部門の人間からよく聞かされるよ。今度は、彼だったらしいな」
「わたしの目は確かですよ」
「だったら、彼の顔と名をしっかり覚えておこう。――桐山くん、これからもがんばってくれ」
 ハッと我に返った桐山は、礼を言って頭を下げる。本澤社長に声をかけられただけで、身が引き締まった。
 壁際に移動して、一団を見送る。もう、大名行列と皮肉っぽいことを言うつもりはなかった。この中に本澤社長がいるというだけで、多数の人間を引き連れて歩く価値はあると、頭ではなく肌で感じ取っていた。
 もう一度頭を下げた桐山がやっと顔を上げたとき、目の前を異質な存在が歩き過ぎようとしていた。
 ここに勤める人間は、男女関係なくスーツ姿ばかりだ。それなのに、今まさに桐山の前を歩いて行こうとする人間は、ひどくカジュアルな格好をしていた。
 細身のジーンズにTシャツ、その上から、ほっそりとした体には持て余し気味にも見えるフィールドジャケットを羽織っている。挙げ句、肩にはリュックをかけていた。
 どこから見ても、その辺りを歩いていた学生が迷い込んできたようだ。本人も自覚があるのか、顔は伏せがちだ。
 誰だ、と考えるまでもない。こんな場所で、こんな格好をしていても咎められない人間は、今日に限って一人だけいる。本澤社長の子息だ。
 一体どういうつもりで――。
 妙な腹立たしさを覚えながら、桐山は初めて青年の顔をしっかりと見る。この瞬間、なぜか落ち着かない気分になった。もしかすると、うろたえたのかもしれない。
 桐山の非難がましい視線に気づいたのか、おそらく『本澤トモユキ』であろう青年が顔を上げる。目が合った途端、さらに桐山は落ち着かなくなり、胸の奥がざわついていた。
 本澤トモユキは、一言でいうなら、育ちのよさが全身から滲み出ている青年だった。この社内にいる人間なら、彼の血筋のよさを知っているが、そうでない人間も、おそらく彼を一目見たら、普通の人間にはない近づきがたさを感じるはずだ。
 艶やかな黒髪は首にかかるほど伸びており、だからこそ、ドキリとするほど細く白い首筋が際立って見える。実年齢よりさらに若く見える顔は端麗で印象深い。
 繊細で神経質そうな子だと、桐山は思った。ただ、見た目と内面は、必ずしも一致しない。彼がそうなのか、不躾な視線を向け続ける桐山に対して、臆した様子もなくまっすぐ見つめ返してきた。
 髪同様、きれいな黒の瞳には威力がある。威圧的というわけではなく、心に直接訴えてくるようなのだ。気丈な光を湛えた瞳は、もしかすると気性の激しさを表しているのかもしれない。
 生意気だと取られかねない瞳だが、桐山には、強い苛立ちが感じられた。
 一瞬、声をかけようかとも思ったが、なんと言えばいいのかわからず、結局無難に、軽く会釈をしていた。しかし本澤トモユキは、桐山の行動が目に入らなかったように通り過ぎてしまう。
 無視される形になったが、気分を害したりはしなかった。
 桐山は大人で、相手はまだ学生だということもあるが、それより、傲然とすらした彼の物腰が、白磁でできたような美貌によく似合っていたことに素直に感嘆を覚えていた。
 なかなかいいものが見られたかもしれない。そんなことを考えながら、桐山はミーティング室に戻る。


 本澤トモユキとの接触はその一回きりかと思ったが、そうではなかった。
 急に煙草が吸いたくなった桐山は、社内で唯一喫煙が許されているフロアへと向かう。
 そこは、何もないフロアだった。新しい部署が出来るということで用意されたのだが、本社での決定が微妙になったため、年末まで手つかずで空いたままということになる。
 誰にも迷惑をかけず都合がいいということで、厄介な喫煙者たちはここに追いやられることになったのだ。
 ただ、自由に煙草が吸えるということで喫煙者に好評かといえばそうでもなく、ガランとして広いだけのフロアに立っていると寂しくなると、意外に評判が悪い。
 もっとも桐山は、一人でいることに心地よさを覚えるタイプの人間なので、殺風景なフロアで過ごすわずかな時間を気に入っていた。
 今日も誰もいないだろうと思いながらエレベーターを降り、フロアを見回したところで、桐山は思いがけない人物の姿を見つけた。
 フィールドジャケットにジーンズという後ろ姿は、間違いなく、本澤トモユキだ。足元にはきちんとリュックがあった。
 こちらに背を向け、大きな窓ガラスに張り付くようにして外の景色を眺めている。ビジネス街など、どこも似たようなものだと思うが、それでも彼は熱心に眺めている。
 引き返そうかと思った桐山だが、これだけ広いスペースを彼一人のために譲る必要もあるまいと思い、その場で煙草と携帯灰皿を出して吸い始める。
 奇妙な空間だった。おそらく二人きりになるはずなどない二人が、ガランとしたフロアで二人きりでいるのだ。しかも社長の子息のほうは、こちらに気づいてもいない。
 子供みたいに、夢中で外の景色を眺めて――。
 なるべく見ないようにしていた桐山だが、やはり彼が気になって視線を向ける。まだ外の景色を眺めていた。
「――何か気になるものがありますか」
 思わず話しかけてしまい、桐山自身、驚いた。相手も驚いてしまっただろうと思ったが、本澤トモユキのほうは振り返るどころか、身じろぎすらせず、こちらに後ろ姿を向けたままだ。横着なのか、豪胆なのか、そのどちらかだろう。
 桐山は煙草の煙を吐き出しながら、唇に淡い苦笑を浮かべる。
 答えを期待することなく、言葉を続けた。
「今はまだマシですが、秋から冬にかけて霧がひどくなってくるんです。とはいっても、わたしはまだ、秋は体験してないんですが。イギリスに来たのは、冬なので。ただ、ビルが霧に覆われている様子は、初めて見たときは目を奪われました」
 やはり、返事はない。
 自分はこんなに、よく話す人間だっただろうかと考えながら、桐山はそれでも口を閉じる気にはならなかった。別に、社長にとって大事な存在である彼の機嫌を取るつもりはない。ただ、慣れない場所に、カジュアルな格好でやってきた彼が、少し気の毒に思えたのだ。
「アメリカに留学されているそうですが、こういうビルばかりのところだと、景色もそんなに変わらないでしょう? わたしも一時、アメリカに留学していたのですが」
「……本当は、イギリスの田舎の風景を見たかったんだ」
 ふいに、答えが返ってきた。桐山は軽く目を見開いてから、眼鏡の中央をそっと押し上げる。らしくなく、実は動揺していた。
「いろんな景色を見るのが好きなんだ。こういう場所でも、高いところから見下ろしていると、退屈しない。でもやっぱり、緑が多い景色を見たかった」
「そう、ですか……」
 桐山は社会に出てから、『学生』という人種を相手にしたことがない。それに、『社長子息』という人種も。いざとなると、どう向き合えばいいのかわからないのだ。
 やはり引き返せばよかったと、今になって後悔しながら、相変わらず振り返りもしない本澤トモユキのほっそりとした後ろ姿を見つめる。
「のんびりと旅行を楽しむつもりだったのに、あらかじめ予定を父さんに話していたら――こんなことになった。空港に着いてすぐに捕まって、連れてこられたんだ。ホテルも、父さんたちと同じ高いホテルに泊まることになったし」
「社長も、普段お会いになれないあなたと、異国の地で再会できるのが嬉しいのですよ」
「だったら、こんなところに強引に連れてくる必要なんてない」
 本来は柔らかな響きを帯びたテノールなのだろうが、本澤トモユキの声からは形容しがたい苛立ちと怒りのようなものがビリビリと伝わってくる。凛として、毅然とした、そんな話し方がよく似合いそうな声なのに。
 大事に大事に育てられ、それに甘んじて生きてきたお坊ちゃま、というわけではないようだった。少なくとも、自分の現状に不満を覚える感覚はあるのだ。
「――それであなたは、ここで何を?」
「父さんたちが会議に入ったから、その間に逃げだそうと思ったら……財布を取り上げられた。だから、どこにも行けない。この中で時間を潰すしかない」
 悪いと思いつつも、桐山は思わず笑ってしまう。そんな手段を取られるということは、いままでも彼は、同じような状況で逃げ出しているのだろう。
「コーヒーでも持ってきましょうか?」
「いらない。あなたはここの社員で、ぼくの世話係じゃない。――単なる学生に気を使わなくていいよ」
 普通、年上に敬語を使わない威高さと、プライドの高さを併せ持つ人間は、嫌な奴と表現して差し支えない。たとえそれが年下だとしてもだ。
 なのに桐山は、不思議に本澤トモユキに対してはそう感じない。むしろ、微笑ましい。
 このフロアは彼に独占させてやろうと思い、桐山はほとんど吸っていない煙草を消すと、黙ってその場を立ち去る。
 結局、本澤トモユキは最後まで、桐山を振り返らなかった。




 サマータイムのおかげで、夜八時を過ぎても明るい外の景色を眺めながら、桐山は味わい甲斐のある夕食をとっていた。
 仕事が終わってから、この半年の間にすっかり馴染みとなったホテルのレストランに立ち寄り、美味い食事を味わうのは、密かな桐山の楽しみだった。値段は少々高めだが、それを引いても、立ち寄る価値は十分ある。
 もともと、このレストランを紹介してくれたのは工藤だ。気に入った相手には、このレストランを紹介しているらしい。本当か冗談か知らないが、笑いながら工藤は言っていた。
 老舗として有名な高級ホテルで、このレストランでの食事目当ての客だけでなく、上の階にあるという展望室も有名なのだそうだが、あいにく桐山は、食事以外に興味はない。
 それに、わざわざ展望室まで上がらなくても、レストランの窓からでも十分に、街並みを見下ろすことはできるのだ。
 グラスの水に手を伸ばしかけたところで、新たな客がやってきた気配がする。今度は団体らしい。
 何げなく離れたテーブルへと視線を向けた桐山は、目を見開くことになる。今まさにテーブルにつこうとしているスーツ姿の日本人たちが、見知った顔ばかりだったからだ。
 昨日、イギリス支社を訪れた大名行列――本澤社長を含む視察団だ。
 このホテルに宿泊しているのか、食事だけはここでとることにしているのか、それはわからない。確かなのは、まだイギリスを離れていなかったということだ。
 挨拶に行くべきだろうかと逡巡した桐山の目に、一団から遅れてテーブルに歩み寄る青年の姿が飛び込んでくる。細身のスーツを着込んだ本澤トモユキだった。
 どこか憮然とした表情を見て、今日もまた、父親に同行させられているのだと推測するのは簡単だ。
 近くにいるときぐらい、息子を片時も離したくないという父親の気持ちはわからなくもない。一方で、自由に行動させてほしいという子供の気持ちのほうが、桐山としてはよく理解できる。
 すっかり挨拶にうかがうタイミングを逃した桐山は、誰もこちらに気づいていないのをいいことに、食事を続ける。多数いる社員のうちの一人の顔など、覚えている人間はそうそういないはずだ。目が合ったところで問題はないだろう。
 何が楽しいのか自分でもわからないが、他人の食事の様子を注意深く桐山は観察する。もっとも、視線は専ら、本澤トモユキに向いていた。
 すでにイギリス料理の洗礼は受けたのか、運ばれてきた料理に恐る恐るといった様子で口をつけ、次の瞬間には目を丸くして、少し機嫌が直った様子で食事を進める。
 そんな彼の様子を眺めていて、無意識のうちに桐山は唇を綻ばせていた。
 自分の食事は終わったというのに、冷めたコーヒーを前にして席を立つことができない。なぜだか桐山の中では、本澤トモユキが食事を終えるまで見守ることになっていた。どうせ自宅に戻ったところで、誰かが待っているわけでもない。
 それなら、桐山にとっては『未知の生物』を観察しているほうが有意義だ。
 本澤社長と幹部たちの会話は弾んでいるようだが、その中で、明らかに部外者である彼だけは食べることに集中し、さして好きでもなさそうな様子でワインを飲んでいた。
 食事を終えてしまうと、今度は退屈そうに周囲を見回し始める。このとき一瞬、桐山と本澤トモユキの視線は交わった。
 桐山は思わず顔を強張らせたが、彼のほうは何事もなかったように他へと視線を向けた。
 考えてみれば桐山は、彼に会釈をした程度だし、会話を交わしたとはいっても、相手が桐山だと彼は知らない。
 この事実に一抹の寂しさを覚えたのは、桐山自身、意外だった。
 まだみんながワインを楽しんでいる中、一人だけ先にコーヒーを頼んだ本澤トモユキは、少し急いだ様子で口をつけると、父親である本澤社長に何か話しかける。
 本澤社長は最初、首を横に振って厳しい表情を浮かべていた。それでも彼は両手を合わせる仕種をして、何か頼み込み、とうとう父親を頷かせることに成功する。
 契約の証のように本澤トモユキは自分の財布をテーブルの上に置くと、さっさと席を立って店を出ていった。
 彼の姿が見えなくなって五分ほどは、レストルームに行ったのだろうかと思っていた桐山だが、十五分も過ぎた頃には、帰りが遅いと思い始める。
 まるで自分が同席していたように本澤トモユキの心配をしながら、桐山は腕時計に視線を落とす。
 先に帰るつもりなら、父親に財布を預けたりはしない。
 どうしてここまで、自分となんの関わりもない青年の心配をしているのだろうかと、自分の姿に気づいた桐山が苦笑を洩らしかけたとき、辺りに、大音響だが、どこかのんびりとしたテンポの音が鳴り響いた。
 何事だ、と思ったのは一瞬で、次の瞬間には桐山は勢いよく立ち上がる。これは、火災警報器だった。古い建物によっては、火災警報器の音が日本人にあまり馴染みのないものだったりするのだ。
 他のテーブルたちも驚いた様子で立ち上がり、周囲を見回している。本澤社長たちがいるテーブルも同様だ。
 ボーイたちが一斉にホールに飛び込んできて、大きく手を振り回しながら英語で避難の誘導を始める。
 海外のホテルで火災警報器の誤作動というのは、よくあるアクシデントなのだが、これは違うらしい。気のせいではなく、微かにきな臭さが鼻先を掠める。
 単なるボヤ程度であればいいのだが、と思いながら、桐山はさりげなく、本澤社長たちの背後につく。今のところ客たちは落ち着いているが、何かあったときは社員として、本澤社長や幹部たちを守らなければならない。
 誘導に従ってレストランを出ると、当然のことながらエレベーターは使えず、階段で一階まで下りることになる。
 他の店からも出てきた客とともにぞろぞろと移動しながら、桐山は眉をひそめる。レストランにいたときよりも、きな臭さは強くなっていた。
 なんとなく嫌な予感を覚え、階段を下りながら桐山は絶えず周囲を見回し、その中に本澤トモユキの姿を探していた。それは、先を歩く本澤社長も同じだ。落ち着いていながら、ときおり周囲に素早く視線を向けていた。
 彼はどこにいるのだろうか――。
 桐山はもどかしく思いながらも、はっきりしたことはわからないため、行動の起こしようがない。子供ではないので、みんなが避難していれば一緒に逃げることは造作ないだろう。そうわかってはいるが、本澤トモユキから感じる危うさは、理屈ではない。
 騒然としていた空気のまま階段を下り続けていたが、やはりどうしても気になり、たまらず桐山は、目の前を歩く幹部の一人にそっと声をかけた。
 驚いた様子で振り返った幹部だが、桐山が丹羽商事の社員だと名乗ると、すぐに警戒を解いた。
「こんなときに申し訳ありません。本澤社長のご子息の姿が見えないようですが、どちらに行かれたのか、ご存知ありませんか?」
「ああ、彼なら、外を見たいと言って、先にレストランを出たよ。ただし、三十分だけ。またレストランに戻る約束を、社長とされていたようだが……」
 三十分、と口中で反芻してから、桐山は腕時計に視線を落とす。本澤トモユキがレストランを出て十五分ほど経ったところで火災警報器が鳴ったので、まだ外にいるのかもしれない。
 ここで自分を安心させようとした桐山だが、昨日の昼間、彼と交わした会話を思い出していた。
 景色を見るのが好きだと言っていた。街中の景色でも、高いところから見下ろしていると退屈しないとも――。
 桐山はある可能性に思い至り、頭上を見上げる。桐山たちは最後尾に近いので、背後からやってくる客たちの姿はそう多くはない。
 行くだけ無駄な可能性のほうが高いのに、行動せずにはいられなかった。
 人の流れに逆らうように桐山は、これまで下りてきた階段を今度は上がり始めた。途中、ホテルのスタッフらしき人物に腕を掴まれ引き止められそうになったが、その手を振り払って進み続ける。
 考えていたよりも事態が悪いと知ったのは、煙が階段を伝い落ちているのを目にしたときだった。単なるボヤ程度で、こんなに煙が流れてくるはずがない。
 ただ桐山は、ここまできて諦めて引き返すことはできなくなっていた。よくわからないが、意地のようなものだ。
 咳き込むようになって、ハンカチで口と鼻を覆う。煙の濃度はどんどん濃くなっていき、心なしか温度も上がってきている。桐山はジャケットの前を開くと、ネクタイを抜き取ってポケットに突っ込んだ。
 体力には自信があるが、さすがに階段を上るのがつらくなってくる。足を止め、荒い呼吸をついた拍子に、つい煙を深く吸い込んでいた。激しく咳き込みながらも足を動かし続け、ようやく目的の階へと着く。
 ちょうどレストランから二階上の階なのだが、すでに煙で数メートル先の視界すら利かなくなっている。ここまで煙が回っていると、いつ火が上がっても不思議ではない。おそらく火元は、この下の階だ。
 覚悟を決めて歩き出した桐山は、声を出そうとして、自分の喉の異変に気づく。煙にやられたらしく、掠れた声しか出なくなっていた。これでは大声を出すのは無理だ。
 仕方なく、壁に片手をつき、自分の居場所を確認しながら歩く。煙のせいもあるが、このホテルは古いせいで、建物の構造そのものが入り組んでいる。一度自分がいる場所を見失うと、迷うかもしれない。
 展望室を目指そうとした桐山は、微かな物音を聞いて足を止める。すぐに逆方向へと歩き出し、角を曲がったところで、壁に寄りかかるようにしてうずくまった人影を見つけた。
 見覚えのあるスーツ姿に、この瞬間、桐山の全身に鳥肌が立つ。頭で考えるより先に、姿勢を低くしてその人物に駆け寄っていた。
「大丈夫かっ」
 掠れた声で問いかけ、肩を掴んで揺さぶる。戸惑うほど華奢な肩だった。
「……だ、れ……」
 そう言いながら上げた顔は、確かに本澤トモユキだった。だが、きれいな黒い瞳を見ることはできない。彼はきつく両目を閉じて、涙を流していた。
 煙で目をやられたのだと察し、桐山は自分が持っていたハンカチで彼の目を押さえる。
「ここにいると、すぐに火が回ってくる。とにかく下りよう」
「でも、道がわからない……」
 やはり、迷っているうちに逃げ遅れたのだ。
 桐山は、大丈夫、と囁いて彼を促し、一緒に階段へと向かう。下の階から、猛烈な勢いで煙が上がってきているのを見たときは、さすがの桐山も怯みそうになったが、それを同行者に悟らせるわけにはいかない。
「姿勢を低くして、わたしがいいと言うまで息を止めるんだ。苦しくても、ギリギリまで。目は開けなくていい。わたしが支えているから」
 早口に告げて咳き込む。喉が痛くてたまらず、本当は話したくないのだが、彼を不安にさせるわけにはいかない。
 本澤トモユキの肩にしっかり片腕を回して支えながら歩き出すと、すぐに彼の手が桐山のジャケットを握り締めてきた。
 この感触だけで、ここまで来てよかったと思っていた。別に桐山は、正義感や使命感が強いわけではないし、命をかけてまで誰かの機嫌取りをする必要も感じていない。ただ、彼だけは――この青年だけは放っておけなかった。
 火が回っているのではないかと心配したが、なんとかやり過ごすことができた。もう少し彼を発見するのが遅ければ、どうなっていたかわからない。
 なんとか煙からも逃げられたが、桐山は、本澤トモユキが目からハンカチを退けるのを許さなかった。
「水で目を洗うまで、我慢するんだ」
 途中、疲れたと言って彼は休みたがったが、もちろんそれも許さない。
「君を心配している人間がいるんじゃないのか」
 このとき本澤トモユキが唇を引き結ぶ。それから彼は、休ませてほしいとは言わず、黙々と一階まで歩き続けた。
 消防車や救急車のけたたましいサイレンの音が遠くから聞こえてくる。ホテルの前の道路は封鎖され、そこに客やホテルのスタッフたちが集まっていた。座り込んでいる人の姿も多く、手招きで呼ばれるまま道に本澤トモユキを座らせる。
「ここでちょっと待っていてくれ」
 そう言って桐山が立ち去ろうとすると、すかさず腕を掴まれた。
「どこに行くんだ?」
 心細そうな彼の声に、桐山はホッと笑みを浮かべる。
「大丈夫。すぐに戻ってくる。だからここを動かないでくれ」
 頷いたのを確認してから、すぐにその場を離れた桐山は、本澤社長の姿を探す。
 他の客たちと一緒に座っているかと思ったが、本澤社長は忙しく動いて誰かを探していた。誰か、は考えるまでもない。桐山は歩み寄ると、声をかける。
「――本澤社長」
 我ながらひどい声だった。桐山の掠れ声に驚いたように、本澤社長が振り返る。社長としての厳しい様子は微塵もなく、息子を心配する父親が目の前に立っている、と思った。
「君は確か……」
「ご子息なら大丈夫です。展望室で迷われて、煙に目をやられて動けなくなっていたようでしたが、今はあちらに」
 桐山が手で示した先に、本澤トモユキが座り込んでいる。その姿を見て、本澤社長は心底安堵したように深い息を吐き出した。
「君が助けてくれたのか」
「わたしも迷ったので、一緒に逃げてきただけです」
「……そういうことにしたいのか?」
 さすがに本澤社長は聡かった。桐山は無表情に頷き、不躾な提案した。
「わたしのことは、彼には言わないでいただけないでしょうか。丹羽商事の社員に助けられたと知っても、おそらく彼を複雑な心境にするだけでしょうから」
「社長の息子を助けたのは、社長に恩を売るため、か……。よく息子の性格を見抜いているな。あれは警戒心が強い」
「潔癖なのだと思います」
 早く彼の側に行ってほしいと告げた桐山だが、大事なことを思い出した。こんな状況で聞くようなことではないと思いながら、問いかけずにはいられなかった。
「ご子息の名前は、どういう字を書かれるのですか?」
 桐山の奇妙な質問に、本澤社長は奇妙な表情を浮かべることなく、まじめな顔で教えてくれた。
「トモユキは、朋友の朋に、幸せ、と書く。もっとも、わたしは無朋、という意味で朋という字を使ったんだがな」
「――比べるもののない、けた違いに大きい、という意味ですね」
「誰よりも大きな幸せを掴んでほしい、と親バカな願望を込めた名前だ」
 桐山が頭を下げると、ポンッと肩を叩いてから本澤社長は足早に息子の――本澤朋幸の元へと向かう。その姿を見送ってから、桐山は踵を返した。
 とにかく水を飲んで、ひどい喉の痛みをどうにかしたかった。




 桐山が七年前の出来事を話し終えると、目を大きく見開いたままだった朋幸が、やっとまばたきをする。
 二人でニュース番組を観ていて、ちょうど海外での火事のニュースが流れたため、そこで桐山は、いい機会だからと話したのだ。
「……覚えているぞ、その火事のことは……。あのとき、誰かが助けてくれたんだ」
 そして朋幸は、なぜか桐山を睨みつけてきた。この反応は、さすがに桐山も意外だ。
「朋幸さん、どうしました――」
「どうしました、じゃないっ。なんでそんな大事なこと、すぐに教えてくれなかった。おかげでぼくは、命の恩人と知らないまま、何年もお前と一緒にいたマヌケだ」
「マヌケではありません。わたしは今日まで話さなかったし、社長にも口止めをお願いしていました」
「それが、腹が立つんだっ」
 白い頬を紅潮させ、朋幸は乱暴にソファの背もたれに体をもたれかかる。桐山は、そんな朋幸を宥めるように肩を撫で、そっと引き寄せた。朋幸は簡単に、桐山の胸に体を預けてきた。
「――……今なら、打算抜きでお前が助けてくれたと、ぼくが信じると思ったんだな」
「打算……。まあ、そうでしょうね。あの事件のおかげで、わたしは社長に目をかけていただけるようになりましたし、現にこうして、あなたの側にいられる。だけどあのときは、とにかく、あなたが心配だったんです。一目惚れの効果ですね」
 照れたように控えめに桐山を見上げてきた朋幸の手が、頬に押し当てられる。
「お前が煙で喉をやられてなかったら、絶対、声を聞いてすぐに、お前だとわかった」
「わかってしまわれると、それはそれで困ります。あなたと印象的な再会が果たせなかった。……命の恩人としてのわたしと出会うのと、とんでもなく嫌な奴としてのわたしと出会うのと、どちらがよかったですか?」
 まじめな性格らしく、朋幸は真剣な顔で悩んでいたが、ふいに花が開くように笑った。
「どちらにしても、お前に反発したあと、今のような関係になっていただろうな」
 朋幸からこんな答えを聞かせてもらえるだけで、桐山としては幸せだった。
 七年前は長めだった艶やかな黒髪を優しく撫でてから、朋幸の体を抱き寄せる。絶対的な信頼を表すように、朋幸は素直に体から力を抜いた。
 将来、朋幸が得るであろう大きな幸せの中に、自分の存在も少しは含まれていてほしいと、七年前の本澤社長の言葉を思い出しながら、桐山はそう思わずにはいられなかった。
 朋幸の幸せに繋がるためなら、おそらく自分はどんな手段も使うだろうし、非情にもなれるだろうとも。





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