● 新人秘書の戸惑い ●




 緊張で身を固くしながら、葉山朝日は自分がついているデスクの周囲を落ち着きなく見回す。
 まだ、自分がこの場にいることが信じられず、気を抜くと惚けてしまいそうになる。
 だが、現実なのだ。
 大学生たちによる就職人気ランキングで、常に上位に名がある丹羽商事に入社して、秘書課に配属されたのは――。
 入社式が行われた昨日は、秘書課に少し顔を出しただけで、新入社員たちの合同研修に参加し、直帰となった。そのため、秘書課にしっかりと腰を落ち着けたのは、今日が初めてなのだ。
 秘書課と聞いて、女性の職場とまっさきに思った朝日だが、大いなる誤解だったと今は思う。確かに女性の数は多いが、全体の三分の一は男性だ。
 ただし、今年秘書課に配属された朝日の同期たちは、朝日以外は全員女性だ。
 職場でのメイクがまだぎこちない彼女たちだが、今日から仕事のあと、先輩の女性秘書たちに、メイクも含めてマナー研修を受けるのだという。
 もちろん、朝日は朝日で、先輩秘書による研修があるのだ。
「――おはよう」
 慌ただしく動く先輩秘書たちに見入っていた朝日だが、傍らから柔らかな声をかけられて我に返る。見上げると、声同様、柔らかな笑顔で、先輩の男性秘書である久坂が立っていた。
「おっ、おはようございますっ」
 朝日は慌てて立ち上がり、頭を下げる。
「いいよ。そんなにかしこまらなくても」
 ポンッと軽く肩を叩かれ、朝日は頭を上げる。
 人見知りする性質なので、慣れない人と言葉を交わすと、どうしても顔が熱くなってくる。
「じゃあ、今日からの研修内容について説明するね」
 久坂が再び笑顔を向けてくれる。茶色の髪がサラッと揺れ、同じ色の瞳が、目に滲むような優しさを帯びる。
 昨日、初めて挨拶をしたときから思っているが、年上とは思えないほど可愛い人だった。それでいて、秘書課の新入社員全体の研修も管理するほどなので、仕事もできるのだろう。
 いい人が自分の教育担当になってくれたと、朝日はそう思っている。
 久坂の外見や物腰にのぼせた他の女の子の同期たちにも、実は羨ましがられているのだ。
「午前中は、秘書課の新入社員たちの勉強会がミーティングルームであるから、移動して。昼休みのあとは、ここで待っていて。君が秘書として配属される、化学品統括室の室長室に案内するから」
 久坂の言葉に驚いて、朝日は目を見開く。
「……あの、もう配属先が決まるのですか?」
 ああ、と吐息を洩らすように久坂が笑う。肩を叩かれて座るよう示されたので、おずおずと従う。久坂も、隣のデスクのイスに腰掛ける。
「うちの秘書課の役割は、大きく二つに分けられるんだよ。重役たちの身の回りのお世話をしたり、業務の補助についたりする仕事と、そういった秘書たちのバックアップや情報収集を、この部屋で行う仕事。わたしは、前者の仕事についている。研修中は、どちらの役割も体験してもらうけど」
 君は、と久坂が言葉を続ける。
「わたしと同じ仕事についてもらいたいんだ。同じ、化学品統括室でね」
「つまり、それは……」
「普通は、いろんな課を回って研修するんだけど、君はそのローテーションには加わらない。化学品統括室付きだ」
 化学品統括室付き、と朝日は口中で繰り返す。
「わたしがお仕えしている化学品統括室室長という方は、他の室長の方々よりも多忙なんだ。それに、その補佐につかれている方も。君も次第に事情が掴めてくるだろうけど、将来的に室長だけでなく、補佐の方にも秘書が必要になるだろうから」
 だから、今のうちに朝日に仕事を教えておくのだと、久坂は説明してくれた。
 特別扱い、とは思わなかった。特別は特別なのだろうが、なんだかとんでもないところに行かされるのだという実感だけは湧き起こる。
 顔を強張らせる朝日に、久坂はにこにこと笑いかけてくる。癒される笑顔だ。
「そんな顔をしなくても大丈夫。ただ、仕事を早く覚えてもらいたいというだけで、特別なことではないよ。他の新人秘書の子の中にも、君みたいな扱いになる子はいるから」
 それを聞いて朝日は少しだけ安心する。
「午後からの仕事については、化学品統括室の秘書室に移動してから説明するね」
「はい」
「なら、もういいよ。これから勉強会だ。ぼくは、化学品統括室で仕事があるから」
 久坂に促され、朝日は昨日のうちに渡されている教材やファイルを抱えて立ち上がる。
「行っておいで」
 久坂の柔らかな声に送られ、朝日は秘書課をあとにした。


 ミーティングルームに集まった十名の秘書課の新入社員たちは、勉強会が始まる前のわずかな時間を、おしゃべりで費やす。
 とはいっても、浮ついた内容ではなく、さきほど秘書課で、指導係の先輩秘書から告げられた内容についてだ。
 たった一人の男性とはいえ、朝日も知らない顔はできず、半ば強引に仲間に加わらされる。
「葉山くんは、どこの課から回るの? それとも、秘書課業務のほう?」
「あっ……、ぼくは、化学品統括室の専属みたいで――」
「すごーい。優秀なんだ、葉山くん」
 同じ歳頃の女の子たちから感嘆の眼差しと甲高い歓声を上げられ、朝日は戸惑う。人見知り以前に、昔から女性と接するのは苦手だ。
「そんなんじゃないと思うけど……」
「――あー、でも」
 ここで一人の女の子が意味深に洩らす。朝日も含め、一斉に視線が彼女へと集まる。
「でも、何?」
 朝日の問いかけに、女の子は曖昧な笑みを浮かべる。
「うーん、大学のときから仲のいい先輩が、ここの経理にいて、その先輩から聞いたんだけどね――」
「もったいぶらずに言いなさいよ」
 朝日もつい身を乗り出すと、女の子は声を潜めて話しだす。
「なんか、すごいらしいよ。化学品統括室の室長と補佐という人。去年、丹羽商事が巻き込まれたゴタゴタも、その人たちが中心になって収めたとかって。その室長という人は、丹羽商事の社長の一人息子で、丹羽グループ会長の孫、というすごい血筋。だからといって親の七光りというわけでもなくて、とにかく仕事に対して容赦ないんだって」
 女の子の話を聞いて、朝日はごくりと喉を鳴らす。久坂のふわりとした様子から、そんなすごい人物に仕えているとは、想像もつかなかった。
「補佐の人も、海外支社にいたエリートで、社長自ら、日本に連れ戻して室長の補佐に据えたらしいよ。その先輩いわく、うちの社内で余裕で五指に入るほど、怖い二人、だって」
 さきほどまでの感嘆な眼差しはなんだったのか、今度は同情のこもった眼差しが朝日に向けられる。
 泣きたい心境になった朝日だが、ここで突然、前触れもなくミーティングルームのドアが乱暴に開けられた。
 寸前まで女の子たちの声でかしましかったミーティングルーム内が静まり返る。
「――ここだよな? 秘書課の新人の勉強会があるのは」
 ドアを開けた人物が、そう問いかけてくる。誰ともなく、コクコクと頷いていた。
「そうか、ここか……」
 小さく独りごちた人物――三十代半ばぐらいに見える、がっしりとした体躯の男は、ミーティングルームをゆっくりと見回す。
 誰だろうかと思いながら、朝日は首を傾げる。入社二日目では、まだ会社の主要の人物の顔と名を一致させるのは不可能だ。
 男はガシガシと頭を掻きながら、朝日の顔でぴったりと視線をとめ、じっと見据えてくる。反射的に背筋を伸ばした朝日は、内心でビクビクとする。
 強面とまではいかないが、男は浅黒い精悍な顔立ちをしており、丹羽商事の一般的な社員たちから受ける印象とは、やや異質だ。
 何を思ったのか、男がニッと笑いかけてくる。そして、いきなり朝日を指さしてきた。
「――葉山朝日、だな? そうだよな。秘書課の新入社員の中に、男は一人だって話だし」
 こっちにこい、と手招きされ、ぎこちなく朝日は応じる。
 男におずおずと歩み寄ると、肩を抱かれてあっという間にミーティングルームの外に連れ出された。
「なっ、なんですかっ……」
 他のミーティングルームでも勉強会は行われるため、廊下を行き交う新入社員たちの視線を浴びる。
 かまわず男は不躾なほど何度も、朝日を頭の先から爪先まで眺めてくる。
 あまりの居心地の悪さに朝日は何も言えず、じっと体を固くしてその場に立ち尽くす。
 ようやく男は朝日の顔を覗き込んできて、感心したように洩らした。
「今回も、だな。久坂以来、化学品統括室に配属される秘書がいなかったんだが……。ここまで続くと、人事自らが、セオリー作りに励んでいるとしか思えんな」
 わけのわからないことを言われ、朝日は勇気を振り絞って尋ねた。
「あ、あの、わたしが何か……」
「お前さん、化学品統括室付きになるんだろう」
 朝日は目を丸くして、男を見つめる。そんな朝日の表情がおかしかったらしく、男は容赦なく朝日の薄い肩を叩き、笑う。
「悪い、悪い。化学品統括室付きの男の秘書っていうのは、似たようなタイプが続いてるって、人事の人間から聞かされたことがあるから、ずっと観察してるんだ。それで今回も、化学品統括室付きの新人秘書が男だって聞いて、確かめにきたんだ」
 ヒマな人なのだ、と咄嗟に朝日は思ってしまう。
 朝日の思ったことがわかったわけではないだろうが、男が口元を緩める。精悍な顔立ちではあるが、それを裏切る人懐っこい表情だ。
「生活産業統括室付きになる秘書は、ここだけの話、美人だが勇ましいお嬢さんが多くてな。ある意味、化学品統括室が羨ましい」
「……どうしてですか?」
 男のどこかとぼけた語り口調につい引き込まれ、朝日は話に乗ってしまう。
「おっとりと微笑む、お上品できれいな顔した秘書に迎えてもらいたいだろう。疲れているときは。――決して、生活産業統括室の女性秘書たちが、品がないというわけじゃないぞ。元気がいいのはいいんだ。ただ、容赦がなくて怖くてな」
「はあ」
 話が妙な方向にいっているなと思ったとき、携帯電話の無機質な呼出音が鳴る。男は素早く、ジャケットのポケットの中から携帯電話を取り出して耳に当てる。
 朝日は呆気に取られた、目の前の男を見つめる。電話に出た途端、精悍な顔立ちに見合った、厳しい表情となったからだ。
「ああ、そうしてくれ。俺もすぐに戻る」
 手短に会話を交わし、男はそう言って電話を切る。
 肩を軽く叩いて男は行こうとしたので、朝日は反射的に呼び止めた。
「あのっ……、化学品統括室の秘書は似たようなタイプが続いているって、具体的にどういうことなんですか? わたしと久坂さんが、特に似ているようには思えないんですけど」
 振り返った男は、すぐに朝日の元へと戻ってくる。
 いきなり、無遠慮な手つきであごを掴み上げられ、驚きすぎて朝日は声も出ない。
「さっき言った通り、男なのに、おっとりとして上品なところが共通しているんだ。一番の特徴は、きれいな顔立ちをしているってことだな。誰かの趣味かな。そういう男の秘書を、化学品統括室ばかりに送り込むのは」
「……わたしに、聞かれましても……」
「それもそうだ」
 ようやくあごから手が離され、朝日は動揺したまま周囲を見回す。あちこちのミーティングルームから顔を出した新入社員たちが、こちらを見ている。
 思わず朝日は顔を伏せる。緊張と恥ずかしさから、さきほどから心臓の鼓動が壊れたように速い。そんな朝日にかまわず、男は怪談話でもするかのように、声を潜めて言った。
「――気をつけろよ」
「えっ?」
 朝日は思わず顔を上げる。男に微かに笑いかけられ、知らず知らずに顔が熱くなる。
「化学品統括室の主である本澤室長は、とんでもなく怖いからな。重役の中には、あの人の姿を見ると隠れる人間もいるぐらいだ。睨みつけられでもしたら、新入社員なら気絶するかもしれないぞ」
「ええっ」
 化学品統括室の話は、さきほど久坂から聞かされたばかりなので、当然のように入社二日目の朝日には知識はない。
 また、誰かに話を聞こうにも、丹羽商事内には朝日が知っている先輩も友人もいないのだ。
 そんな朝日に、男は追い討ちをかけてくる。
「それに輪をかけて、室長補佐も怖い。眼差しだけで、切りつけられたような衝撃を受けるぐらいだ。うかつに目を見るなよ。ちょっとしたミスが命取りになる」
 本当ですかと、朝日は眼差しで男に問いかける。しっかりと頷いて返された。
「まっ、取って食いはしないだろうから、がんばれ」
 男に肩を叩かれ、朝日は半ば呆然としながら頷く。
 薄く笑って男が立ち去ろうとしたので、朝日は肝心なことを思い出し、もう一度呼び止めた。
「あのっ、あなたは生活産業統括室の方ですか?」
 振り返った男は、今度は立ち止まったまま告げた。
「ああ、まだ名乗ってなかったか」
「はい……」
「――生活産業統括室室長の藤野、だ。よろしくな」
 朝日は一拍置いてから、藤野と名乗った男の言葉を頭の中で反芻する。
 そのため、事の重大さをようやく理解できたときには、藤野の姿は視界から消えようとしていた。
 慌ててあとを追いかけると、藤野はエレベーターに乗り込もうとしているところだった。
 朝日を見た藤野が破顔する。驚きすぎて、よほどとんでもない顔になっているらしい。
「ふ、藤野室長っ――」
 必死に呼びかけたが、エレベーターの扉が閉まっていく。このとき確かに藤野は、朝日に向けてひらひらと手を振っていた。
 呆然としてその場に立ち尽くしながらも懸命に、雲の上のような存在である『室長』の肩書きを持つ人に、何か失礼なことは言わなかったかと、朝日は考える。
 だが頭が混乱してしまい、細かな言葉のやり取りまで思い出せない。
 とにかく頭に残っているのは、化学品統括室の室長と室長補佐が、とてつもなく怖い人らしいということと、生活産業統括室室長は風変わりな人だということだけだ。
 まだ勉強会も始まっていないというのに、朝日はすでに、かなりの疲労を感じ始めていた。


 昼休みが終わる十五分前に、朝日は秘書課の自分のデスクに戻っていた。午前中の出来事で、久坂に聞きたいことがあり、早めに戻ってきたのだ。だが、肝心の久坂の姿はまだない。
 朝日はずっと、藤野や、午後からの仕事が気になって仕方なかった。
 さすがに自分から生活産業統括室のフロアに足を運ぶ勇気もなく、だとしたら、頼れるのは久坂しかいない。
 化学品統括室の室長と室長補佐の人となりだけでなく、生活産業統括室の室長についても、いろいろ知りたかった。あんな気安い雰囲気を漂わせて、実は新入社員の対応をチェックしていた
としたら、自分は落第だと思う。
 一人でウツウツと考え込んでいた朝日だが、急に声をかけられて、飛び上がるほど驚く。
「葉山くん」
「はいっ」
 朝日を呼んだ先輩の女性秘書が、クスッと笑みをこぼす。
「久坂さんから内線入ってるよ」
 朝日は言われるまま点滅する電話のボタンを押し、受話器を取り上げる。
「電話を代わりました、葉山です」
『ああ、葉山くん。申し訳ないんだけど、急に頼まれ事をされて、そちらを先に済ませないといけなくなったんだ。だから君だけ先に、行ってくれないかな』
「……えっと、化学品統括室に、ですよね?」
 そう問いかけた朝日の声は、わずかに上擦る。
『桐山さん――室長補佐には事情を説明してあるから、心配しなくて大丈夫だよ。室長室の場所はわかるね? 化学品統括室のフロアの一番奥だから。まず秘書室に入ると、桐山さんがいらっしゃるから、指示を受けて』
 はい、と答えた自分の声がやけに他人のもののように聞こえる。
 受話器を置いた朝日は、深々とため息をついて肩を落とすが、次の瞬間には慌てて腕時計で時間を確認する。
 ここで戦々恐々としている場合ではなかった。なんといっても藤野の話では、重役たちが隠れるほど怖い室長に、とてつもなく迫力のある眼差しを持つ室長補佐だ。一分でも遅くなるわけにはいかない。
 朝日は、研修の資料を挟んだファイル数冊とノートをまとめて立ち上がる。
 秘書課を飛び出すと、小走りでエレベーターホールへと向かい、身を小さくしながらエレベーターに乗り込む。足が震えそうなほど緊張していた。
 いきなり怒鳴られたらどうしようかと朝日が思っているうちに、エレベーターは化学品統括室のフロアへと着く。
 他に降りる人たちに押され、よろめくようにしてエレベーターから降りた途端、朝日の手から抱え持っていたファイルとノートが飛び出す。
「うわっ、わっ」
 床に落ちたそれらを慌てて拾い上げようと屈み込むと、傍らを通り過ぎていく足音の中、一つの足音がピタリと朝日の前で止まった。
「大丈夫か」
 凛として、どこかひんやりとした響きのテノールの声をかけられる。
「はい、すみません――」
 言いながら顔を上げた朝日は、そのまま動きを止める。正面に立った人物も腰を屈めて、ノートを拾い上げてくれる。ここで、真正面からその人物の顔を見たのだ。
 年齢は二十代半ばから後半といったところで、少し動くたびに揺れる髪は、濡れたように艶やかで漆黒だ。
 そんな髪が彩る白く小さな顔は、息を呑むほどの端麗さだ。だが、甘さやか弱さは微塵も感じさせない。
 整いすぎているからこそ冷たく見える美貌だ。
 ファイルの一冊も手に取った美貌の人物は、そのファイルに書かれた文字を見てから、朝日にノートと一緒に返してくれた。
「新入社員か? 化学品統括室――ではないな。見た覚えがない」
「は、はいっ」
 そう年齢が違っているわけでもないのに、圧倒されるほどの存在感が彼にはあった。
「化学品統括室に用がありまして……」
「そうなのか。どこに用だ。案内してやるぞ。ただでさえ化学品は部門や事業部の分類がわかりにくいからな」
 立ち上がった朝日に、美貌の人物はそう申し出てくれる。素っ気なさを極めたような話し方だが、不思議と外見と合っていて不快ではない。
 貴族というものが日本に存在していれば、彼のような感じなのかもしれない。気のせいではなく、彼の物腰は気品が漂っている。
 ようやく朝日は、ぎこちないながらも笑みを浮かべて応じることができる。
「いえ……、多分、すぐわかると思います」
「そうか。まあ、わからないときは、その辺りの社員を適当に捕まえて聞けばいい」
 すごい言い方だな、と朝日は苦笑を洩らす。
「ありがとうございます」
 礼を言って朝日は歩き出したが、彼も同じ方向へと歩き出す。
 顔を見合わせてから、朝日は言われたわけでもないのに、彼の二歩後ろを歩く。なんとなく、肩を並べて歩きにくかったのだ。
 後ろを歩いているとよくわかるが、彼は姿勢がよかった。長身というわけではないのだが、すらりとした体つきが、姿勢のよさでより映える。
 朝日が気づいたのはそれだけではなく、堂々とフロアを突っ切って歩く彼に、誰彼となく会釈する。それを当然のように彼は受けるのだ。
 ついていっているつもりはないのだが、朝日は本当にこれでいいのだろうかと、きょろきょろと見回しながら歩く。
 ようやく彼が立ち止まったのは、化学品統括室室長室と記されたドアの前だった。
「ここに用なのか?」
 問いかけられ、朝日は頷く。そうか、と呟いた彼が次に取った行動に、朝日は危うく悲鳴を上げそうになった。
 ノックもせず、いきなりドアを開けたからだ。しかも、ズカズカと入っていく。
「あの――」
 止めようとして朝日もつい足を踏み入れる。
 中に広がっていたのは、こじんまりとしてはいるが、きれいなオフィスだった。
 そこにいたのは、一人の眼鏡をかけた長身の男で――。
 朝日はビクンと体を強張らせる。眼鏡越しに、射抜かれそうなほど鋭い眼差しを向けられたからだ。
 藤野から教えられた、『怖い室長補佐』という言葉がすぐに頭に浮かんだ。朝日は必死に言葉を紡ぐ。
「わたしは、秘書課の葉山朝日です。……事情は説明していると、久坂さんはおっしゃられていたのですが……」
 室長補佐と思しき人物が、静かに眼鏡の中央を押し上げ、じっと朝日を見つめてくる。
 怖くて仕方ないのだが、それでも朝日は見つめ返す。
 こちらもまた、驚嘆するほどの美貌の持ち主だった。三十代前半に見え、男らしくて秀麗、研ぎ澄まされた刀剣のような鋭さがあり、怜悧だ。冷たさだけなら、ここまでなぜか一緒にやって
きた、もう一人の人物を上回るかもしれない。
「桐山、あまりいじめるな。久坂からの預かりものなんだろう」
 朝日はぎょっとする。明らかに眼鏡をかけた人物のほうが年上なのに、彼は鷹揚な言葉をかけたのだ。聞いているほうが心臓に悪い。
 しかし眼鏡をかけた人物は平然としている。
「預かり、ではありませんよ。彼はすでに、化学品統括室付きが決定しています。今日から、室長室での研修に入るのですよ」
「……知らないぞ、そんな話」
「そうでしょう。昨日、あなたのボックスの中を確認しましたが、まだ人事の決定に関する書類に目を通されていませんでしたね」
「まさか、もう秘書が決定するとは思わなかったから、後回しにしていた。そうか。もう決まったのか」
「急でしたよ。ずいぶん」
 二人の視線が自分に向けられ、朝日は身を小さくする。
 ようやく朝日の戸惑いがわかったらしく、眼鏡をかけた人物が紹介を始める。
「わたしは、化学品統括室室長補佐の、桐山だ。秘書の仕事も兼務している。久坂のことはわかっているな? 室長の本来の秘書だ。室長は、この統括室の室長という肩書き以外に、丹羽商事の執行役員も務められている。とにかく多忙だから、まずはここでの仕事のテンポに慣れるんだ。化学品統括室としての仕事と、執行役員としての仕事の区別もつけてもらわないといけない」
 すごいところで仕事をするのだと、改めて朝日は実感する。
 その中心にいる化学品統括室の室長とは、どんなに厳しい人なのだろうかと想像する。藤野のような気安い雰囲気を漂わせた人は稀有なはずだ。
「――あまり新入社員を脅すなよ、桐山」
「脅していません。事実ですよ、朋幸さん」
 朝日は、自分の隣に立つ人物をまじまじと見つめる。『怖い室長補佐』と、鷹揚な口調を崩さないまま話し続ける彼の正体が、薄々とながらわかってきていた。
「……もしかして、あなたが……」
「君の考えている通りだ。この方が本澤室長だ」
 桐山が、おそろしい事実をさらりと口にする。
 当の、紹介された本澤は、これまでの冷ややかな無表情とは一変して、匂い立つような柔らかな微笑を浮かべた。
「よろしく、本澤だ」
 頭の混乱がピークに達しながらも、朝日は懸命に挨拶した。
「よろしく、お願いします。葉山、朝日です」


 この後朝日は、仕事の手順を淀みなく説明する桐山の言葉を、必死になってノートに書きとめてから、化粧品部門内の部門や事業部、課の構成を覚えるため、社内メールの封筒を持って配達に行かされた。
 普段は電子メールや、各部門に分けられた集合ボックスに配布物を入れるだけで済ませるらしいが、この時期は新入社員の仕事だ。そうやって部門や社員の顔を覚えていくのだ。
 途中、朝日と同じようにおろおろしながら歩き回る社員たちに出くわした。仲間だ。
 その仕事を終えて戻ってくると、今度は簡単なコピー取り。
 午後三時を過ぎてから、久坂に呼ばれて一緒に給湯室に向かい、お茶などの入れ方を教わった。 
 朝日たちの場合、客にお茶を出すことはほとんどなく、主に本澤や桐山に対してのものだ。
 久坂はトレーに、三人分のカップと、紅茶を入れたポット、皿とフォークを載せる。朝日は言われるまま、冷蔵庫からケーキの箱を取り出した。
 何が始まるのだろうかと目を丸くする朝日に、久坂は気分が和らぐ笑みを向けてくれる。
「午後の休憩だよ」
 よく事情が呑みこめないまま、朝日はケーキの箱を手に、久坂のあとをついて戻る。
 桐山は、打ち合わせのため席を外しているので、朝日としては少しほっとしている。特に怒られたわけではないのだが、やはり桐山は怖いのだ。
 久坂に呼ばれるまま、朝日も室長室に入ると、広い室長室の一角に置かれたテーブルでお茶の準備を始める。
「――桜だ」
 テーブルに歩み寄ってきた本澤が、皿の上のケーキを見て呟く。確かにケーキはほんのりとした桜色で、上に桜の花弁をかたどったゼリーが載せられている。なんとも可愛いケーキだ。
「今年はまだ花見に行ってない。仕事が入ったおかげで、統括室の夜桜見物もキャンセルしてしまったし」
「来週中には散ってしまうでしょうね」
 本澤と久坂の会話を聞きながら、朝日は室長室から出ていこうとしたが、本澤に呼びとめられた。
「どこに行くんだ」
「えっ、あの……、隣の部屋に――」
「つき合え。それとも、甘いものはダメなのか?」
 本澤からきれいな目を向けられ、朝日は首を横に振る。
「……大好きです」
「それだけで、このお茶会に参加する資格はあるぞ。さぼるときは、三人一緒だ」
 戸惑う朝日に、久坂が手招きしてくれる。朝日はおずおずと久坂の隣に腰を下ろした。
「桐山さんがいない間に、こうやってケーキを食べるのが、ぼくらの楽しみなんだよ」
「最近すっかり、あいつの公認になりつつあるがな」
「桐山さんも、ケーキの美味しいお店に詳しくなられたんですよ」
 本澤と久坂ののんびりとした会話に、朝日もつい口元を綻ばせる。仕事中は厳しい表情ばかり目についたが、今のこの場では、本澤の表情も和らいでいる。
 おかげで改めて、本澤の美貌がどれほどのものかよくわかる。
 本当にきれいな人なのだと、感心するばかりだ。
 ここで、ドアを開けたままにしてある室長室に、秘書室のドアをノックする音が届く。素早く久坂が立ち上がって出る。
 自分が座っているわけにはいかず、朝日も立ち上がる。
 秘書室のほうを見ると、久坂が伴ってきたのは、生活産業統括室の室長、藤野だった。目が合うと、藤野は朝日に向けて手を上げて寄越してきた。
「どうかされたのですか?」
 本澤も立ち上がり、藤野を室長室に迎え入れる。
 藤野はテーブルの上を見て、声を上げて笑った。
「うちの室長室とは、大違いだ。まあもっとも、生活産業の秘書の子たちは、俺とお茶を飲む気なんて毛頭ないだろうがな」
「藤野室長はどちらかというと、車座で日本酒ですよね」
 軽口で応じる本澤の様子を見ていると、どうやら藤野とは親しいらしい。
「そう、その酒の話だ。仕事の用じゃないから、内線でもよかったんだけどな。君のところの新人秘書の様子も見たかったから、足を運んだんだ」
「葉山の、ですか?」
 首を傾げる本澤に対して、藤野は意味深な笑みをちらりと浮かべる。そして、手にしていた一枚の用紙を本澤に手渡した。
「化学品と生活産業、揃って今は忙しいだろうから、花見もまだじゃないかと思ってな。いろいろあったが、共に乗り越えたことと、今後もうまくやっていこうという意味を込めて、役職付きの人間たちだけで夜桜見物を企画した。夜桜がきれいに見える店を押さえたんだ。明後日なんだが」
「……藤野室長もお忙しいはずなのに」
 本澤が洩らすと、藤野は頭を掻きながら応じる。
「独り身だから、家に帰ってもヒマなんだ」
「おもてになるんでしょう。いろいろと噂を聞いていますよ。でも、うかがわせていただきます。楽しそうですから」
 本澤からの返事を聞くと藤野は、桐山にも伝えておいてほしいと言い置いて、室長室を出ていく。慌ただしい人だと、朝日は呆気に取られながら藤野の後ろ姿を見送った。


 終業を告げるクラシック音楽が鳴り響き、パソコンから目を離した朝日はほっと息を吐き出す。
それが聞こえたように、隣の席の久坂がデスクトップパネル越しに顔を覗かせた。
 さぼっていると思われたかと、朝日は慌てて頭を下げる。
「すみませんっ……」
「ううん、違うよ。今日はもういいから、業務日誌をわたしに提出して帰っていいよ」
 素直に頷くのもためらわれ、前方に座っている桐山の背をちらりと見る。久坂は苦笑を浮かべた。
「大丈夫。研修中は、新入社員に残業はさせないことになっているんだ」
「……そう、なんですか……」
 拍子抜けしつつも、朝日はノートを参照に業務日誌を書き上げて、久坂に提出する。
「はい、お疲れ様。明日も、まずは秘書課で待っていて」
「わかりました」
 朝日が帰る支度を整えようとしたとき、いきなり室長室のドアが開き、本澤が姿を見せた。
 いまだに本澤や桐山の一挙手一投足にビクビクしてしまう朝日とは違い、久坂がすぐに立ち上がり、柔らかな声で問いかける。
「どうかなさいましたか?」
「いや……」
 本澤の視線がピタリと朝日に合う。反射的に立ち上がった朝日に向けて、本澤が手招きした。何事かといった様子で、桐山まで振り返る。
 室長室に招き入れられた朝日は、何をやってしまったのだろうかと、懸命に考える。
 ドアを閉めた本澤が、微かに苦笑を浮かべる。
「そう怯えるな。みんなに何を吹き込まれたのか知らないが、新入社員相手に、いきなり怒鳴りつけるようなまねはしない」
「そんなことは思っていませんっ」
 多分、周囲から何も聞かされなくても、本澤や桐山の前に立つと自分は萎縮していたはずだと、朝日は思う。それぐらい、特別な空気があるのだ。
「……それであの、わたしに何かご用ですか?」
「ああ、大したことじゃない。今日一日で、この室長室の感じは掴めたか聞こうと思ってな」
「それは……、はい。久坂さんや桐山さんのお邪魔ばかりしてしまいましたが」
「入社二日目では、使えたほうだ。仕事は、時間をかけて覚えればいい。久坂は優しいから、聞けばなんでも教えてくれる」
 はい、と返事をした朝日はやっと、この部屋に招き入れられた理由を知る。本澤は、朝日を気にかけてくれているのだ。
 そこでつい、尋ねてしまった。
「あの、桐山さんは……」
「桐山か。桐山はなあ――」
 本澤がじっくりと見つめてくるので、朝日はどぎまぎする。怖いという以上に、純粋に本澤のきれいな顔で見つめられると緊張させられるのだ。
「仕事ができる男だから、指示の通りに動けば間違いない。冷たくて怖い男に見えるだろうが、慣れれば……可愛い」
 最後の言葉を言った瞬間だけ、本澤の表情に艶が増したような気がしたが、目の錯覚かもしれない。その証拠に本澤は、次の瞬間には涼しげな笑みを口元に浮かべているだけだ。
 最後に、朝日は本澤に肩を叩かれる。
「ぼくだけでなく、久坂や桐山の総意として、化学品統括室室長室は、君を歓迎する。がんばってくれ」
 朝日は笑みを浮かべてから、深々と頭を下げる。
「ありがとうございます。がんばりますっ」
 秘書室に戻った朝日を、桐山は一瞥すらしない。久坂も、微笑で迎えてくれただけで何も言わない。
 その雰囲気が、初めて心地いいと思えた。
「――お疲れ様でした。お先に失礼します」
 ブリーフケースを手に挨拶すると、お疲れ様、と久坂が応じてくれ、続いて、桐山のよく響くバリトンが、ああ、と短く聞こえた。
 どうなることかと思ったが、ようやく会社での一日が終わったと、朝日は歩きながら安堵の吐息を洩らす。
 それに明日からも、なんとかやっていけそうだ。少なくとも、あれだけの人たちに気づかわれているとわかっだけでも、心強い。
 エレベーターで一階に降り、ロビーを歩く朝日の傍らを足早に通り過ぎる人影があった。
「あっ」
 朝日は思わず声を洩らす。
 藤野だったのだ。
 朝日の声に気づいたように藤野が振り返り、大仰に目を見開く。
「藤野室長っ、急いでください。タクシーがもう来てますよ」
 部下らしい男性社員に前方から呼ばれると、藤野は朝日に歩み寄ってきながら、片手を上げる。
「先に乗って待っててくれ。すぐに行く」
 藤野が目の前に立ち、朝日は身を固くする。そんな朝日を見て、藤野は豪快に笑いながら肩を叩いてくる。
「また、怯えてくるな。俺なんて、お前さんのところの本澤室長や桐山に比べたら、子犬みたいなものだろう」
 危うく、首を横に振るところだった。藤野がニヤリと笑う。
「まっ、これは冗談だがな。言うなよ」
「い、言いませんよ。そんなこと。……わたしに何かご用ですか?」
「いや、本澤室長とは花見の約束はしたんだが、お前とは、葉桜見物の約束でもしようかと思ったんだ。桜の花が見ごろの頃は仕事が忙しくて、プライベートの時間がなかなか取れそうにないからな」
 突然の藤野の申し出に、朝日はきょとんとする。なぜ自分が誘われるのか、理由がわからなかった。
「……わたしと、ですか?」
「そうだ」
「なぜですか。生活産業統括室には、女性の秘書の方がいるとおっしゃっていましたし、その方たちを誘われたほうが……」
「俺は嫌われているんだ」
 急に神妙な顔で藤野に言われ、まずいことを言ってしまったと朝日は反省する。だが、次の瞬間には、本澤が言っていた言葉を思い出す。
「あっ、でも、本澤室長は、藤野室長はおもてになるとおっしゃってたような――」
 芝居がかった仕種で藤野が首を大きく横に振る。
「甘いな。恋人にしたい男と、上司にしたい男は、重ならないものなんだ」
 よくわからない理屈だが、それでも朝日は納得してしまう。
「そういうものなんですね」
「そういうものなんだ。で、さっそくだが、携帯を出せ」
 頭で考えるより先に反応して、朝日は自分の携帯電話を出す。藤野も携帯電話を取り出しており、番号は、と尋ねられて素直に教える。
 すぐに、朝日の携帯電話が鳴ったが、ワンコールで切れてしまった。
「それが、俺の携帯の番号だ」
 確かめてみると、見覚えのない携帯電話の番号の履歴が残されている。
「じゃあ、時間ができたら連絡する。うまいもの食わせてやるからな」
 そう言い置いて、藤野は足早に行こうとする。朝日は、慌てて質問する。
「なぜ、わたしなのですか」
 さきほど同じ質問をしたが、答えをはぐらかされた気がするのだ。
 振り返った藤野がイタズラっぽい笑みを浮かべる。
「化学品統括室に、どうして似たようなタイプの秘書ばかりが付くのか、俺は定年退職するまでに、その謎を解きたくて仕方ないんだ」
「でも、ぼくもわかりませんよっ」
 あまりな理由に無意識に、慣れない『わたし』という呼称から、普段使っている『ぼく』に戻ってしまう。
「親睦を深めていくうちに、何か掴めてくるかもしれないだろ。ということで、これから月に一回は俺と、謎解明のミーティングにつき合え」
「えっ、えっ、ええっ?」
 朝日が一人で驚いている間に、豪快な笑い声を上げながら藤野は行ってしまい、正面出入り口の前に停められたタクシーに乗り込んで走り去る。
 呆然として立ち尽くす朝日だが、わかっているのは、なんだかとんでもないことになったという一点のみだ。
 本澤や久坂に相談すべきだろうかと思ったが、すぐに、なんと説明すればいいのかと、頭を抱えたくなる。
 生活産業統括室の藤野室長に、化学品統括室の秘書の謎を解くため、月一回のミーティングを強引決められました、では、あまりに情けない気がする。
 とりあえず、と朝日は決心する。今度の葉桜見物につき合おうと。
「……おいしいものを食べさせてくれそうだし……」
 他に何かありそうな気もするが、藤野は悪い人ではなさそうなので、謎を一緒に解明するのも悪くはなさそうだ。
 よくわからないけど――。
 今日はとにかく波乱に満ちた一日だったと思いながら、朝日は帰路につくことにする。
 明日もがんばるために、しっかり体を休めなければならないのだ。







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