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低体温なカンケイ 2
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「たまにはメシぐらい奢ってくれないか」
 ヌケヌケとそう言った男に、桐山は鋭い眼差しを向ける。
 へらへらと笑った嶋田は正面のイスに腰掛け、さっそくアイスコーヒーを注文した。きちんと待ち合わせの時間を決めていたにも関わらず、人を十五分も待たせていたわりには、悪びれた様子はない。
 この男にそんなものを求めるほうが間違っているのか――。
 軽く息を吐き出し、桐山は広げていた新聞を畳む。目の前に置かれたコーヒーは、すでに冷めかけているのか湯気を立てていない。
「なあ、メシ――」
「どうしてわたしが、お前と食事を一緒にしないといけないんだ。食べたいなら、それなりの報酬は渡してあるだろ」
 素っ気ない桐山の言葉に、嶋田は肩をすくめる。
「冷たいなあ。このホテルに効いている冷房より冷たい」
 本人としては気が利いたことを言ったと思っているらしい。嶋田はニヤリと笑った。
 桐山は眼鏡の中央を押し上げると、本題に入る。
「――報告を聞かせてもらおうか」
 桐山は月に一、二度、嶋田と会っている。用件はもちろん、丹羽グループ――特に朋幸に関わりがありそうな企業・人物の動向など聞くためだ。
 会社も調査部門を持っているし、調査専門の会社と契約もしているが、桐山も独自の信用できる情報が欲しい。そのため、現在の肩書きはフリーライターである嶋田という手札が有効になる。
 かつては朋幸を付け狙っていた雑誌記者だが、朋幸に対して奇妙な執着と庇護欲に近いものを持っている点を利用して、嶋田と手を結んでいた。朋幸に対して敵意がないのであれば、今はそれでいい。
 時間がなければ駐車場や車道脇といった場所で、立ったまま手短に用件を聞いているが、さすがに今日のように外が暑くて、時間に多少の余裕があれば、こうしてホテルのティーラウンジで顔を合わせる。
 嶋田と会うことは、わざわざ朋幸に報告はしない。さすがにもう嶋田へ敵意は持っていないようだが、相変わらず朋幸は、嶋田を苦手としている節があるからだ。
 運ばれてきたアイスコーヒーにさっそく口をつけてから、嶋田が意味深に笑った。
「何から聞きたい?」
 その言い方にピンとくるものがあった桐山は、イスからわずかに身を乗り出す。
「……エリック・ウォーカーのことか?」
「動かない男だな、あれは。ほとんどオフィスに閉じこもりっきりだ。仕事が終わっても、外で一人でメシを食って、まっすぐ家に帰るだけ。見た目だけなら、派手に遊んでそうなのにな」
「動きはなしか……」
「勤めている会社に敵は多いとはいっても、勤めている人間は、あくまで普通のビジネスマンだ。あんたにとっては、とんでもない悪党だろうが」
 イスにもたれかかった桐山だが、嶋田の話はそれで終わらなかった。
 ポケットから取り出したメモ用紙を、桐山の前に置く。桐山はそっと眉をひそめた。
「これは?」
「日本に『友達』は一人もいないかと思ったエリック・ウォーカー氏だが、ここ最近、できたようだ」
 開いたメモ用紙に目を通すと、そこには店の名と住所が書き記してあった。
「メシ食ってさっさと家に帰るだけのウォーカーが、数日に一度はこのバーに立ち寄って、男と会っている。身元はまだ調べてない」
「……どんな相手だ」
 嶋田は少し考える素振りを見せる。
「きれいな金髪に、怖いぐらいの青い目をしている。顔立ちは、あんたのとこのお坊ちゃまほどじゃないにしても、かなりの美形だ。あとは、神経質そうなインテリってとこかな」
「会社の同僚か?」
「いや、それは違うみたいだ。そもそも、雰囲気からして、ビジネスマンじゃない」
「エリックが、仕事と関わりのない人間と親しくしているのか……」
 桐山が何気なく洩らした言葉に、再びアイスコーヒーに口をつけていた嶋田が動きを止める。
「嶋田?」
「そう、あんたの言う通りだ」
 嶋田が意味深に含み笑いを洩らす。
「あの二人は多分、かなり親しい。バーで待ち合わせをしてからの二人の行動を追っていると、なんとなく、それはわかる」
 桐山には、嶋田が何を言おうとしているのか、正直わかりかねた。そもそも、深く考えようとしていなかったのだ。
 ただ、エリックが誰かと親しくしているという証言に気を取られていた。
 エリックが誰かと親しげにして会っているということに、策謀の匂いを感じずにはいられなかったからだ。そうでないにしても、あの男に、他人と親しくするという感覚があるとは、にわかに信じられない。
「――興味を持っただろ。このネタ」
 嶋田に言われ、桐山は我に返る。手に持ったままのメモ用紙に視線を落として返事をした。
「まあ、そうだな……」


 車内に、書類をめくる乾いた音が響く。桐山はバックミラーにちらりと視線をやり、後部座席に座る朋幸の姿を確認する。
 仕事を終えて帰路につく車内で、朋幸はよく書類に目を通す。自宅に帰ってまで仕事に関する雑事に追われたくないという考えの持ち主なので、車内でできるだけ済ませておきたいらしい。
 車内灯の明かりはそんなに明るくはないので、桐山としては目を悪くするのではないかと、それが心配だった。朋幸は疲れると、すぐに目が真っ赤になるのだ。
 ふいに朋幸が顔を上げたのを、視界の隅に入るバックミラーで確認する。再び桐山はバックミラーに視線を向けた。
 目が合うと、朋幸は白い顔に花が開くような笑みを浮かべる。
「今日は、嶋田と会ったんだろう」
 からかうような口調で言われ、さすがの桐山も咄嗟に言葉が出てこなかった。思わず眼鏡の中央を押し上げたが、後部座席からはクスクスと笑い声が上がる。
「やっぱりな」
「……どうして、おわかりになったのですか?」
「自覚がないのか。嶋田と会ったあとのお前は、眉間のしわが少し深くなって帰ってくるんだ」
「それは――」
 気づきませんでした、という言葉は口中で消える。
「でも今日は、いつもと違うな。何か考え込んでいるような……。嶋田から、悪い報告でも受けたのか?」
 桐山は、ジャケットのポケットに入れたままのメモ用紙に一瞬意識を向ける。
 少なくとも、朋幸に負担がかかるような事態にはならないだろう。
「ご安心ください。そういう類の報告を受けたわけではありませんから。問題があるとすれば、嶋田本人と会っているということでしょうね」
「人を食ったようなところがあるからな、あの男は。どうせ、からかわれたんだろう」
 案外、自分より朋幸のほうが、先に嶋田の存在に馴染んでしまったかもしれない。そう考えた桐山は、口元に苦笑を浮かべるしかなかった。
 今日嶋田から聞いたことを、朋幸に報告する必要は感じていない。少なくとも、エリックの『友人』の正体を知るまでは、慌てる必要はないだろう。
 そこまで結論が出せていながら、桐山の頭から離れないのは、あんなアクの強い男と友人になれるのはどんな人間かという思いからだった。
 エリックのような男がもう一人登場すると、厄介だ。
 危機感を覚える反面、仮に本当に友人だとして、皮肉げな表情ばかりのエリックがどんな顔をしてその友人と向き合っているのか、奇妙な部分で好奇心が動く。
 嶋田に任せておけばいい――。
 自分を戒めるように結論を出したところで、車を朋幸の住むマンションの駐車場へと入れる。
 朋幸が部屋に入るまで見届けるのが、桐山のこの日最後の仕事だ。
 朋幸を伴ってロビーを通り、エレベーターに乗り込む。ここでようやく気が緩んだらしく、口元に手を当てて朋幸が小さくあくびを洩らした。
 無防備な姿を横目で見て、桐山は唇を綻ばせる。自分にしか見せないのだと思うと、些細な仕種ですらいとおしく感じられる。
 朋幸がドアを開け、玄関に入る。当然のように桐山もあとに続くと、しっかりとドアを閉めてから、朋幸の腰に手をかけてそっと自分のほうに引き寄せた。
「お疲れ様でした」
「うん……」
 朋幸の艶やかな黒髪にまず唇を押し当ててから、桐山は恭しく朋幸の唇に、自分の唇を重ねる。
 忙しい二人にとっての、束の間の甘い時間だ。ここでなら、人目を気にしなくていい。
 浅くはないが、呼吸も乱れるような深いキスはしない。休む前としては適度な、穏やかなキスを交わす。
 桐山は唇を離してから朋幸の頭を自分の肩に引き寄せ、スーツに包まれていてもしなやかな体を抱き締める。
「ゆっくりとお休みください」
「お前もな」
 当然のように返ってくる言葉に桐山は笑みをこぼしてから、名残り惜しいが朋幸の体を離した。


 朋幸のマンションをあとにして、ハンドルを握る桐山は自宅に向けて車を走らせていた。
 途中までは、そのつもりだった。
 しかし、信号で車を停めたときに、ジャケットのポケットからメモ用紙を取り出すと、自宅に戻るのは後回しにすることを決めていた。
 とりあえず、どんなバーなのか見ておきたい。
 桐山は、自分の興味がそれ以上大きくなるのを抑え込む。たとえば、エリックと一緒にアルコールを飲むような変わり者の顔を見たい、という興味だ。
 バーの場所はすぐにわかったが、車を停める場所を探して、少しの間店の周辺を走り回ることになる。
 やっと空いている駐車スペースを見つけて車を停めたときには、正直桐山は、仕事で疲れているのに、自分は一人で何をしているのだろうかという気になっていた。
 それでも、ここまで来たのだからと思いながら、バーへと歩いていく。
 一階はカフェになっており、バーは地下にあるようだった。
 螺旋状になった狭い階段を下りていた桐山だが、下から人が上がってくる足音を聞いて足を止める。ここの階段では、大人同士が歩きながらすれ違うのは少々無理がある。
 階段を上がってくる男の姿が見え、桐山は軽く目を見開いた。薄暗い場所にいても、まばゆく感じられるほどの金髪の持ち主だったからだ。
 桐山の存在に気づいて男が顔を上げる。見上げてくる瞳は、息を呑むようなアイスブルーだ。顔立ちも非常に整っており、一度会えば忘れそうにない印象の強さだ。
 桐山が立ち止まったままでいると、意図を察したように男は階段を上ってきて、横を通りすぎるとき、軽く会釈をされた。
 何事もなかったように歩き出した桐山だが、背後の足音が聞こえなくなってから振り返る。当然ながら、すでにもう、男の姿は見えなかった。
 嶋田が言っていた、エリックの友人という男に、これ以上なく特徴が一致していた。ただ、エリックが一緒ではなかったので、確信は持てない。嶋田の話では、バーには外国人客も多いらしい。
 桐山は階段を引き返すと、急いで一階へと上がる。カフェに男の姿がないことを素早く確認すると、通りに出て周囲を見回す。やはり、姿はなかった。
 店を出てすぐにタクシーにでも乗ったのかもしれない。桐山は静かに息を吐き出すと、再びバーに向かう気にもならず、車へと戻る。
 まばゆい金色と凍えるような青の色彩が、目の前でまだちらついているようだ。
 あの男とエリックが一緒にいる姿は、正直想像がつかなかった。エリックの皮肉げな雰囲気と、あの男の冷ややかすぎる雰囲気は、反発こそすれ、馴染むとは思えない。
 一度バーに足を運べば気が済むかと思っていたが、桐山の中では疑問ばかりが大きくなっていく。
 やはりエリックは、あのバーで誰かと会って謀略をめぐらせているのか、それとも単に友人と語らっているのか――。
 車に乗り込んだところで、桐山は息を吐き出す。
 厄介な男が日本にいるせいで、行動にまで逐一目を光らせなければならない。もっともそれは、エリックにしても同じだろう。
 きっと桐山や朋幸、その周囲の人間たちの動向を探らせているはずだ。
 エリックのことで頭を痛めるのは自分一人だけで十分だと、朋幸の笑顔を思い浮かべながら、桐山はエンジンをかけた。




 目を通していたファイルをデスクの上に置いた桐山は、ついでに眼鏡も外して置き、天井を見上げる。
 仕事に疲れたというわけではなく、このミーティング室に入る前に嶋田から届いた報告書の内容が気になっていた。
 主な部分では大した問題はなかったのだが、最後に走り書きされていた言葉が気になったのだ。
『彼らの交流は続いている』
 桐山にしかわからない書き方だが、それがエリックと、バーで会っているという男を指しているのは明白だ。
 本当なら、この二人についてまともな報告なり写真の提出を求めてもいいのだが、そこまでエリックのプライベートに踏み込んだあとの、後味の悪さを考えて二の足を踏んでいた。
 嶋田には、エリックのえげつなさに合わせて、こちらもえげつなくなってもいいだろう、と言われたが。
 面倒になる前に動くべきだろうが、もう一歩、きっかけとなるものが欲しかった。
「はい、桐山、珍しく元気がないね。俺としては喜ばしいと言えなくもないけど」
 腹が立つほど陽気な声とともに、桐山の視界に少しくすんだ感じの金髪が飛び込んできた。
 即座にそれが誰であるかわかった桐山は、ムッとしつつ、自分の顔を覗き込んできている無礼な男を睨みつける。
「……朝から騒々しい男だな」
「桐山は、朝も夜も関係なく不機嫌そうだ」
 余計なお世話だ、という言葉は、大人げないと思ってぐっと呑み込む。会話のレベルがこの男と同じだというのは、桐山にとっては耐えがたい。
 手探りで眼鏡を取り上げ、素早くかける。そして、デスクの向こう側から子供のように身を乗り出しているロベルト・ルスカを、もう一度睨みつけた。
 鳶色の瞳がくるくると動き、桐山をからかうような表情を浮かべている。
 丹羽商事のミーティング室にどうしてロベルトがいるかというと、これから打ち合わせを行うからだ。
 ロベルトはわざとらしく室内を見回してから、尋ねてきた。
「朋幸は?」
「……わかっていながら尋ねるのは、不毛だと思わないのか、お前」
 目を輝かせていたロベルトだが、次の瞬間には肩を落として落胆する。こうも露骨に反応されると、腹が立つ以前に力が抜ける。
 桐山は軽く手を振って、あっちに行けとロベルトを追い払う。
 まだ打ち合わせが始まるまで、少しの時間がある。朋幸が相手なら、余計なことをベラベラとしゃべるのだろうが、桐山が相手だとそうもいかないとロベルトもよくわかっている。
 様になる仕種で肩をすくめたロベルトが、踵を返す。このとき、ふわりとロベルトの髪が揺れ、外から差し込む陽射しを受けて金色に拍車がかかる。
 その様を見た桐山の脳裏に、バーですれ違った男の金髪が蘇る。
 思わずロベルトを呼び止めていた。
「――ロベルト」
「何?」
 桐山が名を呼んだことに驚いたように、ロベルトが素早く振り返る。その顔を見て、桐山は自分は何を言おうとしていたのかと考え直し、眉をひそめて首を横に振った。
「……いや、なんでもない」
「ホントに?」
 やけに嬉しそうに、ロベルトが戻ってくる。再び桐山の顔を覗き込んできた。
「いつも難しい顔してるけどさ、今日の桐山の顔、拍車がかかってるよ。切れ者秘書を困らせるようなことでもあったわけ?」
 軽いイタリア男にしか見えないロベルトだが、これで案外聡いし、実は頭も切れる。そうでなければ、朋幸も信用して仕事を共にしたりはしないだろう。
 腕組みして桐山は端的に告げる。
「――厄介な相手がいる」
 ロベルトの目の色が変わった。浮ついた空気が消え、真剣なものとなる。
「へえ」
「朋幸さんも知っている人物だが、顔を合わせても、話題に出すなよ。今、厄介といえば、その人物しかいないんだ」
 どういう意味か、ロベルトは神妙な表情で何度も頷く。桐山は眼差しを鋭くした。
 この男がこんな表情を浮かべたとき、ロクなことを言わないと教訓を得ていた。
「なんだ?」
「いや、とうとう桐山も、俺に苦労話を打ち明けてくれるぐらい、親しみと信頼を感じてくれるようになったのかと思ったら、感激で涙が出そうだと思って」
 芝居がかった動作で両手を動かしながら、ロベルトが語る。それを聞いた桐山は、心底自分の発言に後悔していた。だが、もう遅い。
 ロベルトはぐいっと顔を近づけてきて、声を潜めて言った。
「俺に何か、協力してもらいたいんだよね?」
 珍しいことだが、瞬間、桐山は返す言葉を失っていた。だが冷静になるのは早く、目を細めながらロベルトを見つめ返す。
 咄嗟にロベルトに大事なことを話したのは、今ロベルトが言ったようなことを求めていたからかもしれない。
 ロベルトのような男なら、外国人客が多いという場所に行っても、浮かないだろう。桐山は自分が、にぎやかな場所にはそぐわない人間だと自覚している。
 桐山から返事を引き出そうとするかのように、ロベルトは重ねて言った。今の季節には、暑苦しさすら感じるような極上の笑顔とともに。
「協力しようか? 友人だから、もちろん無償で」
『友人』という単語に引っかかったが、あえて無視する。
 桐山は眼鏡の中央を押し上げると、観念して口を開いた。
「今夜、つき合ってほしい場所がある。何もしなくていい、そこで軽く飲み食いするだけだ。とにかく――目立つな。そしてそのことを、朋幸さんには言うな。もちろん、お前のところの山猫にも」
「ユーリと朋幸は仲良しだからね」
 困ったことにな、と桐山は口中で洩らす。
 ロベルトは笑顔で頷いた。
「いつ頃出かけるか、連絡してよ。出られるようにしておくから」
「……ああ」
 返事をしたあとで、本当にロベルトを同行させて大丈夫かとも思ったが、一人では行動を起こす踏ん切りがつかなかったのも確かだ。
 ただバーに行くだけだと自分に言い聞かせてから、桐山は仕事のために気持ちを切り替えた。


 車を運転してきた桐山を見て、ロベルトは目を丸くした。
「あれっ、バーに行くんじゃなかったの」
 後部座席に乗れと言うのに、強引に助手席に乗り込んできたロベルトが、不思議そうに尋ねる。
「そうだ」
「それがなんで、桐山は車で来たの」
 ロベルトがシートベルトを締めるのを待って、車を出す。
「バーに行くとは言ったが、わたしがアルコールを飲まなければ、それでいい話だ。別に遊びに行くわけではない」
「俺は飲むよ」
「……好きにしろ」
 ロベルトは何が楽しいのか、上機嫌の表情を隠そうともしない。
「初めてだよね、桐山が俺を誘ってくれるなんて。しかも、朋幸もいないのに」
「やむを得ず、だ。あまり、一人で顔を合わせたくない奴がいるかもしれない。……だからといって、人に任せきりなのも、気が咎める。わたしと奴の問題に、朋幸さんを巻き込んだようなものだからな」
「だから決着は自分の手で、ってやつ? それでもあえて、俺を誘うということは、意外なところで俺って信頼されるのかも――」
「外国人の客が多い店らしい」
 桐山の答えを受けて、さすがのロベルトも黙り込んだが、それも数瞬のことだ。
 前髪を掻き上げ、聞こえよがしに呟いた。
「桐山はシャイだから、自分の気持ちを素直に言えないんだよね」
「……車から降りろ」
「冗談だよ」
 隣で声を上げて笑うロベルトを横目で睨みつけて、本当に大丈夫かという気もしてくるが、いまさら引き返すわけにはいかない。
 桐山は黙って車を走らせる。対照的に話し続けていたロベルトだが、バーの場所が近くなってくるに従い、挙動に落ち着きがなくなってくる。
 やたらと周囲を見回すのだ。しかも何度も。思わず桐山は問いかけていた。
「この辺りは初めてなのか?」
 驚いたように肩を震わせたロベルトが目を丸くした次の瞬間には、陽気な男らしくない苦い表情となる。
「初めて……じゃないよ。前は、けっこう来てた」
 なら、どうしてそんな顔をする、と言いかけたが、桐山の口から出たのは違う言葉だった。
「そうか。なら、お前の知っている店かもな」
 前回来たときに見つけておいた駐車スペースに車を停めると、ロベルトと並んで通りを歩く。
 その頃には、ロベルトの表情は苦いというより、複雑なものとなっていた。
「ロベルト、本当に大丈夫か?」
「あー、平気、平気。何、桐山、やけに俺の心配をしてくれるね」
 軽い調子で答えはするが、ロベルトの表情が晴れることはない。
 体調が悪いのか急用を思い出したのかは知らないが、この場で追い返したほうがいいのだろうかと逡巡している間に、バーの看板が目に入る。
「あそこだ」
 桐山が指さすと、何かを諦めたようにロベルトは肩を落として息を吐き出した。
 桐山の視線に気づいたロベルトが顔を上げ、力なく笑みを浮かべる。
「本当になんでもないって。まさかなー、とは思ったけど、前に通ってたバーなんだ。……ユーリと初めて会った場所でもある」
「だったらなんで、そんな顔をしている」
「そんな顔?」
「苦みばしった顔だ」
 ロベルトは自分の頬を撫でてから首を左右に振り、ふわふわと髪が揺れる。次の瞬間には、いつもの陽気な笑顔を浮かべていた。
「大丈夫」
 その言葉を信じたわけではないが、本人が言うなら、頷くしかない。
 なんだか妙な雲行きになってきたと思いながら、桐山は一階のカフェの横を通って、地下のバーへと下りていく。背後から、ロベルトの靴音もついてきていた。
 扉を開けると、店内は思っていたよりも砕けた雰囲気が漂っていた。格式ばったバーではなく、気軽にアルコールや会話を楽しめるようになっている。
 客層の年齢層はバラバラだが、確かに外国人客の姿もちらほらとある。他のバーにしてみれば、多いほうだろう。
 桐山は軽く店内を見回すが、エリックらしき男も、まばゆい金髪を持つ男もいなかった。しかし桐山以上にロベルトは、真剣な表情で店内をじっくりと見回している。
 恋人である有理と知り合った思い出の場所、という感慨に耽っているわけではないようだ。
 空いているテーブルに二人で腰掛けると、桐山はジンジャーエールを頼み、アルコールを頼むかと思ったロベルトもそれに倣った。
「――余計な誘いをしたようだな」
 桐山の言葉に、頬杖をついてぼんやりとしていたロベルトがハッとしたようにこちらを見る。
「そんなことないよ。なんといっても、桐山からの誘いだからね。朋幸から誘われるのとは、また違った喜びが、俺の心に満ち溢れているよ」
 顔をしかめた桐山は、あえて返事はしてやらなかった。相手をするから、この男は調子に乗るのだ。
 冷たいなー、とロベルトは聞こえよがしに文句を言う。
 頼んでいたものが運ばれてきて、グラスを手にしたまま桐山は再び店内に視線を向ける。すると、寸前まで一人ぼやいていたロベルトに言われた。
「もっといかがわしい場所だと思っていた?」
「お前たちが出会った場所だからか」
「いや、朋幸の敵が通っている場所だから」
 桐山は少し考える。いかがわしい場所とは、最初から想定していなかった。
「……興味があったからだ。皮肉屋で冷たくて、わたしにとってはライバルなんて生温い言葉では表せない男が、やっと人間らしい部分を見せたのかと思って、な」
「人間らしい部分?」
「友人がいるらしい。伝聞だから、はっきりはしないが。わたしが知っているその男は、そんなものを持ちそうな人間ではなかった」
 ロベルトは首を傾げる。
「それって、桐山はその男に個人的な興味を持ってるってこと?」
「違う」
 桐山は即答する。同時に視界の隅に、新たな客が訪れたのか、ゆっくりと扉が開いていく様子が映っていた。
「――朋幸さんの敵として、弱みになる部分は把握しておきたいだけだ」
「桐山って……」
「なんだ」
「怖いよねー」
 いまさらな言葉だった。
 ふっと短く笑った桐山を見たロベルトが、イスにもたれかかる。
「あー、やっぱりなんかアルコール頼もうか――」
 言いかけたロベルトの言葉が不自然に止まり、何事かと思った桐山の前で、ロベルトはぎこちない動きで身を起こし、ある方向を凝視する。
 ロベルトと同じ方向を見た桐山は、息を呑んだ。開いた扉から、二人の男が店に入ってきた。
 その男の一人は――。
「エリック」
「ジェイミー」
 桐山が名を洩らすと同時に、ロベルトも洩らす。ただし、違う名を。
 桐山はロベルトと顔を見合わせていた。お互い、目を見開いて確認していた。
「……知り合い、なのか?」
 桐山はもう一度、エリックを見る。
 褐色の髪と紺碧の瞳を持つエリックの隣には、まばゆい金髪とアイスブルーの瞳を持つ男が立っていた。何日か前、このバーに続く階段ですれ違った男だ。
 エリックは不快そうに眉をひそめているが、一方の、ロベルトが『ジェイミー』と呼んだ男のほうは、白い顔を青ざめさせていた。見るからに動揺している。
 エリックが傍らの男に何か話しかける。男はすかさず背を向け店を出て行く素振りを見せたが、素早くエリックが手首を掴んで引き止める。
 なんでもない一連の二人の行動だったが、桐山の目は、男の手首を掴んだエリックの手に吸い寄せられる。なぜだか、艶かしさを感じた。
 この瞬間、嶋田が意味深に洩らした言葉を思い出す。
『かなり親しい』という言葉は、本当に二人の関係の本質を表しているのかもしれない。
「……ロベルト、帰るぞ」
 声をかけて桐山は立ち上がる。しかしロベルトはすぐに動こうとはしない。見ると、ロベルトは瞬きもしないで二人のことを見ていた。
「もしかしてロベルト、彼はお前の――」
 ロベルトは台詞を棒読みするように言った。
「ジェイミーにはひどいことをした。ユーリと知り合ったとき、俺は彼と関係を持っていて、だけど俺は、割り切った関係だと思っていたんだ」
 もういい、と桐山はロベルトの言葉を制する。
 エリックと男はカウンター席に並んで腰掛け、すでに桐山たちの存在など忘れたように振る舞っていた。
 ロベルトは深く息を吐き出し、グラスに残っているジンジャーエールを飲み干す。そして、ふと思い出したように桐山に尋ねてきた。
「桐山は、ジェイミーと一緒にいる男を知ってるみたいだね」
「さっき言っただろ。――朋幸さんの敵だ」
 ロベルトは痛みを感じたような顔をして、二人のほうに顔を向ける。ジェイミーという男を見ているのだ。
「……それでも、ジェイミーにとっては、イイ奴でいてほしいね。俺が罪の意識を感じているから、こんなこと思うのかもしれないけど」
 ロベルトも帰る準備をして立ち上がる。らしくなく落ち込んでいる陽気な男を見ながら、桐山は低く応じた。
「わたしは、朋幸さん以外の人間には、どう嫌悪されようが蔑まれようが、気にしない。ただ……、朋幸さん本人にそう思われるのだけは、耐えられない」
 ロベルトはわずかに目を細めて頷く。
 レジに向かうため、並んで座るエリックと男の背後を通ったとき、桐山はその場面を見た。エリックの片手が、何げないように男の肩に置かれていたが、指先ではきれいな金髪に触れていたのだ。
 桐山がいると知っていながら、あえてそんな行動を取っていたエリックの心理は一体なんだろうかと、桐山は考えた。
 その間にも財布を出し、二人分の支払いを済ませる。
 誤解を受けそうな行動を取って、目くらましに利用したつもりなのかもしれない。打算的なエリックなら、それぐらい簡単だろう。
 しかし一方で、優しさを感じさせたエリックの指先の動きに、もう一つの面を見た気もするのだ。
 結局、エリックと男の関係がどんな種類のものであるのか、わからないどころか、惑わされたことに代わりはないが――。
 自分は他人を探るのに向いていないかもしれないと、桐山は自嘲の笑みを洩らしながら階段に足をかける。
 ここで、先に立って歩いていたロベルトがいきなり振り返り、身を乗り出してきた。
「……どうした」
 ロベルトが馴れ馴れしく桐山の肩を叩いてくる。迷惑だと払いのけたが、イタリア男はこんなことではめげない。
「――桐山」
「だから、どうした」
「もしかしてさっきの言葉、俺を励ましてくれた? 朋幸以外の人間には……って」
 桐山は眼鏡の中央を押し上げる。
「どうしてそう、都合よく思えるんだ」
「ジェイミーとあの男、多分、そういう関係だ。あの男が、桐山たちからどう思われていたとしても、ジェイミーさえ傷つけなければ――ジェイミーにとっては、幸せだ。あの男も、桐山と同じように考えているかもしれない」
 桐山はこのことに関しては何も言えなかった。ロベルトの背を叩き、さっさと階段を上がれと示す。
 軽い足取りで階段を上がりながら、さり気なくロベルトが言った。
「……桐山、他の場所で飲もうよ。今夜は桐山の仏頂面を見て飲みたい気分だ」
「わたしは、お前の暑苦しい笑顔を見て飲まなければいけないのか」
「嫌?」
 ロベルトを誘った手前、桐山はため息交じりにこう答えるしかなかった。
「――誘いに乗ってやる」
 車を置いて帰るわけにはいかないため、必然的に飲む場所は、桐山の自宅となるだろう。それもまあ、今夜は仕方ない。









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