○ 心地の良い場所 ○
9月期間限定。 



 仕事中、テレビを観るなどありえないのだが、今日は特別だ。
 ソファに腰掛けた昭洋は、自宅から持ってきたポータ ブルの液晶テレビのアンテナの方向を調整して、受信に成功した。とはいっても、画面の映りはいいとはいいがたい。
「… …やっぱり、アンテナの向きがどうこうというより、立地の問題かな……」
 膝の上に片肘をつき、もう片方の手を伸ばし てアンテナを弄る。さらに映りが悪くなったので、慌ててアンテナの向きを戻した。
「音声は問題ないんだから、それでい いだろう。……今度から、そんなシャレたものじゃなく、ラジオでも用意しておけ」
 難しい顔をしてテレビを弄る昭洋の 様子がおかしいのか、デスクで書類仕事をしていた槙瀬が、いつの間にかこちらを見て表情を綻ばせている。
「テレビのほ うが、天気図がよくわかるんですよ」
「よく観えてないんだろう。うちは、周囲を大きな建物に囲まれているからな。電波 が入りにくいはずだ」
「……危機管理がなってないですよ。この事務所の責任者でしょう。所員が安心して仕事できる環境 を整えてください。備え付けのテレビを置くとか。こんな天気なのに、定時に帰らせてくれなかったし」
 昭洋が恨みがま しい視線を向けると、槙瀬は露骨に顔を背けた。ため息をついた昭洋は、視線を窓へと移す。
 ひどい天気だった。それ以 外に表現のしようがない。九月となって暑さが和らぐどころか、相変わらずの酷暑が続く中、嫌な風が吹いていると思えば、い つの間にか台風が近づいていた。気がつけば、外はもう大荒れだ。昭洋の生活圏は見事に、台風の直撃コースだった。
 少 し前から外が急に暗くなってきた。ビルの間を吹き抜ける風が轟音を立て、大粒の雨が横殴りとなって窓を強く叩いている。ガ ラスを伝い落ちる雨は、さながら滝のようだ。
「あー、嫌だ。こんな天気だと、傘も役に立たないですよね」
「いっそ のこと、台風が去るまで、ここでおとなしくしていたらどうだ」
 さらに暴風雨が強くなります、という言葉がテレビから 聞こえてくると、頷くしかない。
「……まあ、それも仕方ないかも――」
 この瞬間、地響きのような低い音が聞こえ、 昭洋は不自然に言葉を切って体を硬直させる。この音がなんであるか、即座にわかった。
「とうとう鳴りだしたな」
  落ち着いた声で槙瀬が言い、意味ありげに笑いかけてくる。さすがに、三年もこの事務所で一緒に過ごしていると、昭洋が苦手 なものを見抜いたようだ。
 ソワソワと外の様子を気にしながら、思わず昭洋は余計なことを言っていた。
「別に、雷 なんてどうでもいいです」
 槙瀬が短く噴き出したのを見て、テーブルの上の新聞を投げつけてやろうかと本気で考えてし まう。実行できなかったのは、また雷が低く鳴ったからだ。
 昭洋が不自然にソファにもたれかかると、仕事が一段落つい た槙瀬がデスクの上を片付けて、応接セットのほうに歩み寄ってくる。昭洋の隣に腰掛け、身を乗り出すようにしてテレビを観 始めた。
「――これからが本番みたいだな。これは……今夜は帰れるのかも怪しいな」
「なら、今すぐ片付けて帰りま しょう」
 昭洋が提案すると同時に、外が一瞬明るくなる。稲光だ。まばたきも忘れて外を凝視する昭洋の隣で、槙瀬がわ ずかに真剣さを増して声で言った。
「お前、この天気の中を、平常心で運転ができるか?」
「……自信がないです」
 正直に答えると、槙瀬が意地悪く笑いかけてくる。
「たった一人の所員のために、残業につき合ってやろうか?」
「いい歳して、意地が悪いですよ……」
 かまわないから先に帰ってくれと言おうとしたが、一際大きく雷が鳴り、そ の気が萎えた。ありがたく、この天候が鎮まるまで槙瀬につき合ってもらうことにする。
 書類仕事を片付けてしまうと、 特に急ぎの仕事もないため、残 業という言い方はおかしい。ただの時間潰しといったほうがいいだろう。
 テレビと、窓の外の様子を交互に見つつ、漫然 と槙瀬と二人の時間を過ごす。ここのところ仕事が忙しく、夕方もバタバタとしてすれ違っていたため、こんなふうに槙瀬と並んで ソファに腰掛けてぼんやりするのは、久しぶりの気がする。
 それに昭洋には、個人的な予定が入っていることもあり、槙 瀬より先に帰ることが大半だった。この事務所で働き始めて二年ほどは、槙瀬とよく夕飯を食べに出かけ、部屋に泊まってもい たのだが、気がつけば生活はすっかり変わってしまった。
 自分が事務所を出たあと、槙瀬はどんなふうに時間を過ごして いるのだろうか――。
 いつの間にか昭洋は、テレビから視線を離し、槙瀬の横顔をじっと見つめていた。それに気づいた のか、前触れもなく槙瀬もこちらを見た。
「どうした?」
 ふっと、胸に甘苦しい感覚が広がる。その感覚に背を押さ れるように、小さく首を横に振った昭洋は、槙瀬の肩にそっと頭をのせた。こんなふうに槙瀬に触れるのも、久しぶりだ。
「……そんなに雷が怖い――」
「違いますからねっ」
 頭を上げてムキになって言い返すと、ニヤリと笑いかけてきた 槙瀬に、手荒く頭を撫で回された。毒気を抜かれた昭洋は、一拍置いてから、再び槙瀬の肩に頭をのせ、モゾリと身じろいで 額をすり寄せた。
「――子供の頃は、けっこう平気だったんですよ。そのときはおじいちゃんもおばあちゃんもいて、家 中が台風に備えて、落ち着かなくて。その空気が、子供にはなんだかワクワクしたんです。雷が鳴れば、どちらかの布団に潜り 込めばよかったし」
 昭洋の話にどんなことを感じているのか、肩に槙瀬の手が回され、引き寄せられた。
「一人で暮 らすようになってからですね。雷の音に敏感になったのは。嫌でも、自分一人だけなんだと痛感させられる。意地を張って見せ る相手もいないから、大きな音が鳴るたびに、飛び上がってますよ」
「そうなのか。……事務所にいるときのお前は、雷が 鳴る始めると不安そうにきょろきょろと辺りを見回すぐらいだが」
「……よく、観察してますね」
「そのときの仕草が おもしろくてな」
 槙瀬の脇腹を軽く殴りつけてやった昭洋だが、そのまま両腕を槙瀬の背に回す。台風襲来のせいか、そ のわりには穏やかな時間が二人の間で流れているせいか、久しぶりに、むしょうに――槙瀬の体温が恋しかった。
 この 『悪癖』だけは、一生直らないかもしれない。
 そんなことを考えながら昭洋は、槙瀬の肩にあごをのせる。すると唐突に また、青白い光が一瞬視界を覆い尽くした。反射的に身をすくめると、子供をあやすように槙瀬の手にポンポンと背を叩かれた。
 子供扱いするなと言いたいところだが、この状況で何も言えない。
 外で吹き荒れる暴風雨がうそのように、世界か ら隔絶されたようなこの事務所に二人きりでいると、どれだけ槙瀬に触れようが許されそうな気がした。
 三年前まで、一時だ が槙瀬の部屋で暮らしていたが、あのときの空気を思い出す。甘くてけだるい、それでいて緊張感が絶えずつきまとっていた、 独特の空気だ。
 あのときの感覚が蘇り、小さく身震いした昭洋はゆっくりと体を離す。槙瀬が物言いたげな顔をしている のを見て、心配かけまいと冗談交じりで言った。
「やだなあ。槙瀬さんの煙草の匂いがスーツに移りましたよ、きっと」
「この事務所にいて、いまさら何言ってる……」
 ぎこちなくも、再び空気が和もうとした瞬間、これまでになく大き く雷が鳴った。ソファの上でわずかに飛び上がった昭洋は首をすくめる。窓がビリビリと震えていた。しかも雨はますます勢い を増し、この調子では、外に出ても少し先も見えないだろう。
 この古い雑居ビルなら、雨漏りぐらいするのではないかと 心配しながら、昭洋はこう提案していた。
「やっぱり、早く帰りませんか?」
「この雨と雷の中か」
「……別に、 ぼくが運転しなくてもいいんですよ。槙瀬さんの車で、送ってくれたら……。面倒なら、まっすぐ槙瀬さんの部屋に行って、今 夜は泊まります」
「お前にとって、ずいぶん甘い提案だな」
 人の悪い笑みを浮かべながらそう言った槙瀬の片手が伸 ばされ、くしゃくしゃと髪を掻き乱される。
「台風のせいで、人恋しくなったか?」
「そういうわけじゃ、ないですけ ど……」
「帰れるものなら帰りたいが、さすがにこの天候だと、俺でも車の運転は怖いな」
 二人の視線がなんとなく 窓へと向けられたとき、前触れもなく事務所のドアが開いた。
「くそっ、吹き飛ばされるかと思った」
 あまり上品と はいえない言葉とともに、生暖かな風が事務所内に入り込んでくる。昭洋と槙瀬は、驚きながら同じタイミングで振り返った。 このときさりげなく、頭にかかったままだった槙瀬の手が、スッと退けられる。
 ドアの前に立っていたのは、全身濡れ鼠 となった――。
「水野さんっ」
 思わず立ち上がった昭洋は、慌てて水野の元に駆け寄る。忌々しげに濡れた髪を掻き 上げた水野が、わずかに唇を動かした。本人としては笑いかけたつもりらしい。
 間近で見ると、さらにひどい有様だった。 伊達男らしく、普段から高いスーツと靴を身につけ、それが嫌味なほど似合っているのだが、今日はその服装のせいで悲惨さが 増している。スーツのジャケットの袖とスラックスの裾から、ボタボタと水が滴り落ち、足元に水溜まりを作っていた。
  消えかけた微かなコロンの香りとともに、水野からは雨の匂いがする。
 世界から隔絶されているように感じていた事務所 に、水野の惨状は確かな〈現実〉を持ち込んできたようなものだった。
 水野は、昭洋にとっての現実そのものだ。だから、 甘くて苦い。
「昭洋?」
 水野に顔を覗き込まれ、昭洋は我に返る。すぐに苦笑で応じた。
「あんまりひどい状態 だから、びっくりしましたよ。傘、差してなかったんですか?」
「この天気で、傘なんて役に立つか。車に乗っていると、 車ごと飛ばされそうな風だからな。ここに来るまで、ヒヤヒヤし通しだ」
「……そんな思いまでして来なくても……。事故 に遭ったらどうするんですか」
 濡れたジャケットを脱ぎながら、水野がさも当然のようにこう言った。
「槙瀬さんが 出ていたら、お前、この事務所に一人だろ。雷、苦手じゃなかったか?」
 昭洋は目を丸くしてから、頬の辺りが熱くなっ ていくのを感じる。電話で確認すればいいのに、などと野暮を言うつもりはない。
 一年ほど前、水野の部屋で過ごしてい るときに、天気予報を観ながら世間話程度に言ったことがあるが、水野はそのことを覚えてくれていたのだ。
「別に、苦手 というほどじゃ……。ただ人より、雷の音に驚きやすいというだけで……」
「まあ、そういうことにしておくか。しかし― ―」
 水野が、昭洋と槙瀬に交互に視線を向けてから、ネクタイに指をかける。
「外は大事になってるっていうのに、 ここはえらく、まったりしてるな。慌ててやってきた俺が、マヌケみたいだ」
「大事?」
 問い返したのは槙瀬だ。ソ ファから立ち上がると、ロッカーの一つを開け、何かを探し始める。水野は、槙瀬の背に向けて答えた。
「大事ですよ。事 務所からちょっと行ったところに、橋があるでしょう? あそこ、川の水が増水して危ないから、通り抜け禁止なってますよ。 だから、わざわざ遠回りしてきたんです。それに、この通りの街路樹が倒れかかってるから、ロープかけたりして支えて。歩い ていたら、いろんなものが飛んできていたし。まあ、この辺りはめちゃくちゃですね。しばらくここから出ないほうがいいです よ。危なくて仕方ない」
 昭洋が雨と風の勢いに圧倒され、雷にビクビクしている間にも、街中はそんな大変な状況になっ ていたのだ。
「――おい、これに着替えろ」
 昭洋の傍らを白いものが飛んでいき、すぽっと水野の腕の中に収まる。 何事かと思って見てみれば、白い大きな紙袋だった。続いて、タオルが二枚まとめて飛んでくる。
「俺が事務所で泊まり込 むときに使っているものだが、洗濯はしてある」
「すみません」
 昭洋は水野に、給湯室で着替えるよう言う。濡れた スーツはここでは乾かせないので、そのまま持って帰ってもらうしかないだろう。
 靴から水音を立てながら、水野が一度 事務所を出ていく。その後ろ姿を見送ってから、昭洋は窓に歩み寄った。
「……さっきの水野さんの話を聞くと、ここでじ っとしておいたほうがいいみたいですね。ちょっとの無理でどうにかなりそうにないですよ」
「まったくだな」
 ソフ ァに戻った槙瀬が煙草に手を伸ばし、意味ありげな視線を昭洋に向けてきた。
「そんな中、無茶してわざわざ出歩く〈命知 らず〉もいるが、俺は真似したくない」
〈命知らず〉とはもちろん、水野を指している。言外に感じるものがあり、昭洋は わざと怒った口調で同調した。
「ぼくだってそうですよっ」


 槙瀬のTシャツとスウェットパンツに着替え、首からタオルを引っ掛けた水野は、非常にさっぱりした様子だった。
「自 然のシャワーを浴びたようなものだな」
 まだ半乾きの髪を掻き上げて、そんなことを言う。槙瀬はちらりと唇に笑みを浮 かべたが、水野の隣に座り直した昭洋は、本気で忠告した。
「あまり危ないことをしないでくださいよ。無事に着いたから よかったものの。それに、風邪をひいたらどうするんですか」
「台風が来ると、じっとしてられない性質なんだ」
「… …それでも、今度からはじっとしていてください」
 短く笑った水野が、スリッパに履き替えた足を組みながら、昭洋が入 れた熱いコーヒーを啜る。
 事務所の片隅には、水野のスーツ一式を丸めて入れたゴミ袋が置いてある。高いスーツも、あ あなると惨めなものだ。
 ふいに事務所内に沈黙が訪れ、強風と、窓を叩く雨の音が響く。それと、確実に大きくなってき ている雷の音も。外はもう、真っ暗だった。
 テレビをつければいいのだろうが、ノイズがひどくなってきて、気が紛れる どこか神経に障るような状態になったので、とうとう消してしまった。
 なんだか妙な感じだった。昭洋は、正面に座って いる槙瀬と、隣に座っている水野をちらちらと見る。
 三人が事務所で顔を合わせるのはよくあることだが、こんなふ うに、何をするでもなくただ座って時間を過ごすのは、もしかすると初めてかもしれない。
 単なる仕事仲間、取引先の相 手というなら、一緒に時間を過ごしていても、他愛ない会話で間を持たせることはできるのだが、昭洋にとって槙瀬と水野は、 一つの括りで表現できる単純な関係ではない。むしろ、これ以上なく複雑だといえる。
 仕事として顔を合わせているなら、 こうも緊張することはないのだが――。
 知らず知らずのうちに昭洋がため息をつくと、やっと水野が話しかけてくれる。
「どうせなら、何か食い物を買ってくればよかったな。腹が減ってきた」
「さすがにこの天気だと、ちょっと近くのコ ンビニに、というわけにもいきませんからね。事務所の冷蔵庫も、腹の足しになりそうなものは入ってなくて……」
「お前 のオヤツばかり入ってる」
 槙瀬がぼそりと言い、昭洋は反論する。
「給湯室の隅に置いてあるものはなんですか?  槙瀬さんが、事務所に泊まるときの晩酌でしょう。最近、飲む量が増えてますよ」
 ビールでも飲みますかと言いたいとこ ろだが、いつ雨風が鎮まり、車を運転することになるかわからないので、安易に勧められない。
 せっかくの会話も、ここ で止まってしまう。気にしているのは昭洋一人だけなのか、槙瀬も水野も悠然としたものだ。
 ちょっと一階に下りて、外 の様子を見てこようかと思う。息抜きというより、この場の空気から少し逃げ出したかった。
 昭洋が口を開きかけたその 瞬間、目も眩むような轟音に続いて、パッと視界が一変した。何も見えなくなったのだ。
 体が硬直して声も出せない昭洋 の耳に、水野の忌々しげな呟きが届いた。
「とうとう停電か……」
 停電、と口中で反芻して、昭洋は窓のほうを見る。 事務所どころか、外の建物や街灯の電気もすべて消えてしまっており、この辺り一帯が停電になったことは間違いないようだ。
「か、懐中電灯を――」
 立ち上がろうとした昭洋だが、ソファの足元に躓いて大きくよろめき、水野の膝の上に座り 込んでしまう。
「うわっ、あっ、すみ、ませ……」
「大丈夫か」
 こんな状況でも、水野の声にはどこかおもしろ がるような響きがある。続いて、槙瀬にも言われた。
「こんな真っ暗な中で、バタバタするな。怪我するぞ」
「真っ暗 だから、懐中電灯がいるんでしょう」
 ポッと仄かな明かりがつく。槙瀬がライターをつけたのだ。暗闇でなくなったこと に一度は安堵したが、槙瀬が軽く眉をひそめたのを見て、昭洋は自分の姿に気づく。まだ水野の膝の上に座り込んだままなのだ。
 慌てて立ち上がり、槙瀬にライターを火をつけたままでいるよう頼んで、急いでデスクの引き出しから懐中電灯を取り出 す。事務所には、懐中電灯は一つしかないのだ。とりあえず、予備の電池も準備して、昭洋はソファに戻った。
 座ってい る限りは明かりも必要ないので、懐中電灯を消してしまうと、事務所内の光源は、槙瀬が吸う煙草の小さな明かりだけとなる。
「……今日、帰れるんでしょうか」
 ときおりポッとオレンジ色が強くなる槙瀬の煙草の火を見つめながら、ぽつりと 洩らす。別に返事を求めたわけではないが、槙瀬がなんでもないことのように言った。
「いざとなったら、ここで三人で雑 魚寝だな。床に敷く段ボールは、上の会社の廊下に置いてあるだろ。あれを借りてこい」
「それはそれで、おもしろそうだ な……」
 本気でおもしろがっていそうな口調の水野を、はっきり顔が見えるわけではないが昭洋は軽く睨みつける。だが、 それもわずかな間だ。
 ピクンと体を震わせた昭洋は、思わず背筋を伸ばして息を詰める。槙瀬が吸う煙草の小さな明かり のみでは、室内の様子がほとんどわからないのをいいことに、水野が手を握ってきたのだ。
 声を出すこともできず、昭 洋はただ体を熱くする。恥ずかしさと、槙瀬に知られるかもしれないという怯えがあったが、何より勝っていたのは、子供が大 人に隠れてイタズラをしているような高揚感だ。
 きつく水野に手を握り締められ、昭洋もおずおずと握り返す。これだけ で体温が数度は上がったようで――。
「……暑いな」
 そう呟いたのは、槙瀬だ。反射的に握っていた手をパッ と離したが、確かに、暑い。体温だけでなく、室温も上がってきたようだ。
 何が起こっているのかわかり、昭洋は額に手 をやった。
「あー、停電で、クーラーも止まっているんですね」
 窓を開けるわけにもいかず、ひたすら電気が復旧す るのを待つしかない。男三人、さほど広くない事務所にこもったまま。


 はあ……、と息を吐き出した昭洋は、ワイシャツのボタンに指をかける。普段であれば行儀が悪いと眉をひそめるところだが、 非常事態だ。ためらいもなく上から三つ目のボタンも外した。
 時間とともに事務所内は蒸し風呂のような状態となり、ま ず昭洋はネクタイを取り、次にワイシャツの両袖を捲り上げ、とうとうワイシャツのボタンを上から外していっているというわ けだ。
 顔でも洗ってさっぱりしたいところだが、この一帯は、停電になると上下水道が使えなくなる。
 外で吹き荒 れる暴風雨に身を晒したら、少しは気が紛れるだろうかと、つい危険なことまで考えてしまう。
 もちろん、暑くてうんざ りしているのは昭洋だけではなく、水野は何度もソファに座り直し、ときには事務所内を手探りで歩いて気を紛らわせたりして おり、槙瀬は槙瀬で、ひたすら煙草を吸い続けて、ときおり思い出したようにうちわで扇いだりしているが、煙たい空気を掻き 回しているだけのような気がする。
 昭洋はふっと思いついて立ち上がり、おそるおそる窓に近づく。体が震えるような雷 鳴は、まだ轟いていた。
 いまだ外は真っ暗で、停電からの復旧がいつ頃になりそうか、見通しもつかない。
「暑……」
 昭洋は呟き、ワイシャツの胸元を引っ張る。外が青白く光ったので、慌てて窓から離れると、いつから見ていたのか槙瀬 と水野が揃ってこちらを見ており、再び外が光り、二人が口元を緩めているのがわかった。
「び、びっくりしただけですか らねっ」
「何も言ってないだろう」
 槙瀬の言葉に重なるように、水野が短く噴き出した声が聞こえる。居たたまれな くなった昭洋は、テーブルの上に置いてある懐中電灯を取り上げた。
「飲み物を持ってきます。まだ今なら、少しは冷たい と思うので」
 半ば逃げるように事務所を出ると、懐中電灯で足元を照らしながら給湯室に行く。
「うっ」
 給湯 室に一歩足を踏み入れた途端、ムッとくるような熱気の直撃を受けて呻き声を洩らす。換気扇が止まっているうえに、ドアを閉 めきったままだったので、空気がこもってしまったようだ。
 まるでサウナだと思いながら、屈み込んだ昭洋は冷蔵庫を開 けて中を照らす。冷凍庫にはせいぜい作り置きの氷ぐらいしか入っていないので心配ないが、冷蔵庫のほうは、槙瀬の言葉では ないが昭洋が食べる甘いものが入っている。主に、水野が土産として買ってくるのだ。
「少しぐらい常温で置いていても、 大丈夫かなー――」
「――妙な食い意地を発揮して、腹を壊したりするなよ」
 突然声をかけられ、懐中電灯の明かり をドアのほうに向ける。甘い苦笑を浮かべた水野が立っていた。
「人を、食いしん坊みたいに言わないでください。あなた が、せっせと甘いものを買ってくるから、唯一甘いものが平気なぼくが、苦労して食べているんですよ」
「まあ、そういう ことにしておこう」
「……なんだか、引っかかる言い方ですね」
 かろうじて、まだひんやりとしている麦茶のボトル を取り出して立ち上がる。グラスを三つ用意して注ごうとしたが、狭い給湯室にわざわざ入ってきた水野に手を取られた。
「水野さん……?」
 背後からきつく抱き締められ、昭洋の体中に甘い感覚が駆け抜ける。
「いつもなら、ベッドの中 でしか嗅げない、お前の汗の匂いだな」
 際どいことを囁きながら、水野の唇が首筋に押し当てられる。ピクンと体を震わ せた昭洋は、胸元に回された水野の腕に手をかける。柔らかく肌を吸い上げられて、吐息を抑えきれなかった。
 懐中電灯 の明かりのみに照らされる給湯室の中に、妖しい息遣いが響く。水野はすっかり、昭洋に官能を注ぎ込む気になっているらしく、 首筋を舐め上げてきたかと思うと、耳に唇を押し当て、舌先まで這わせてくる。
 一方の昭洋は、シンクの縁に手をかけて、 足元から崩れ込みそうになるのを懸命に堪えながら、給湯室の外にも意識を向ける。いつ、外から槙瀬の声が響いてくるか、気 が気でない。
 それがわかったのか、耳に唇を押し当てたまま、水野が問いかけてきた。
「上の階、誰もいないのか?」
 三階は、よくかわらない専門書を出版している小さな出版社が入っており、普段は正社員とアルバイトを含めて五人ほど の人間が出入りしている。水野からの差し入れの甘いオヤツを、昭洋はよくお裾分けしていた。
「……さすがにみなさん、 早いうちに帰宅しましたよ」
「それはよかった」
 いきなり水野に腕を掴まれ、給湯室から連れ出される。昭洋は声を 上げようとしたが、すかさず片手で口元を塞がれた。懐中電灯を消すよう言われて従うと、非常灯のぼんやりとした明かりだけ が辺りを照らす。ただし、足元は暗い。
 事務所の様子をうかがいつつ、足元にも注意を払いながら、水野に腕を引かれる まま三階へと向かう。
 昭洋は階段の手すりからわずかに身を乗り出し、二階へと続く階段を見下ろす。
「――そんな に槙瀬さんが気になるか」
 腰を引き寄せられ、再び水野の唇が首筋に押し当てられる。
「大胆すぎますよ、水野さん ……。槙瀬になんと言って、事務所を出てきたんですか」
「自分の寝床を確保してくる、と」
 二人の視線は示し合わ せたように、通路の片隅に置かれた、畳まれた段ボールへと向いていた。いくらでもあるので、必要なときは好きなだけ持っ ていってくれと言われているが、そもそも零細の調査事務所では、段ボールを使うような用事はほとんどない。
「……本当 に、段ボールの上で寝る気ですか」
「必要とあれば。大事な恋人と、その父親のどちらかを、床に敷いた段ボールの上に寝 かせるわけにはいかないだろう」
「まあ、そうなる前に、台風が通り過ぎてくれることを祈りますけど」
「そうか?  俺はけっこう楽しんでるぞ」
 前触れもなく体の向きを変えられた昭洋の眼前に、水野の顔が迫る。あっという間に唇を塞 がれていた。
 雷が鳴り、昭洋は体を震わせるが、安心させるように水野の手に背を撫でられる。一方で、唇と舌を貪って くるキスは激しい。
 ふいに鼻先を、槙瀬の匂いが掠めてドキリとする。いつの間にか槙瀬がやってきたのだろうかと考え た昭洋だが、すぐにそうではないのだとわかった。
 今、水野が着ている服は、槙瀬のものだ。しかも、その服を仕舞って いたロッカーは槙瀬が使っており、煙草の匂いがたっぷり染み付いたジャケットを掛けたりもしている。
 妙な感覚だった。 キスは明らかに水野のものなのに、目を閉じれば、槙瀬に包み込まれているような錯覚に陥る。
「――仲のいい父子……」
 キスの合間に水野が洩らす。昭洋はゆっくりと目を開いた。非常灯のぼんやりとした明かりを受けて照らされる水野の顔 が、知らない男のように見える。
「えっ?」
「俺が事務所に来たとき、お前と槙瀬さん、今にもキスしそうな雰囲気だ った」
「……父子は、キスしたりしませんよ」
 どうかな、と言いたげに、水野に唇を吸われた。
 水野は、槙瀬 と昭洋が血の繋がった父子だと知っているが、それだけではないことも知っている。かつて昭洋が、父親と知らずに槙瀬を愛 してしまったことを、水野には告げてあった。ただ、昭洋と槙瀬がどんな関係を結んだかまでは話していない。
 水野は察 しているようではあるが、知らなくていい――知ってはいけないこともあるのだと、いつだったかベッドの中で洩らしたことが あった。
 今以上に嫉妬深くなると、自分で自分の嫉妬の炎に焼け死ぬとも。
「お前はそのうち、雷よりも、俺の嫉妬 深さを怖がるようになるかもな」
 冗談交じりに水野が言い、昭洋はちらりと笑みをこぼす。
「雷より、ずっといいで すよ。少なくとも水野さんは、こうして抱き締めてキスしてくれるし、なんといっても、甘いオヤツを差し入れてくれますしね」
「……他はともかく、最後の評価のされ方は微妙だな、おい」
 小さく声を洩らして笑い合っていたが、体を寄せ、貪 るようなキスを交わしていると、忙しい息遣いに変わるのはあっという間だった。







Copyright(C) 2008 Tomo Kitagawa All rights reserved.
無断転載・盗用・引用・配布を固くお断りします。


<< Kokotinoyoibasyo >>