● 甘い生活 ●




 肩で息をしながら玄関のドアを開けた浩史に、今まさに寝袋に潜り込もうとしていた岸尾は、悠然と片手を上げた。
「よお、 石川。えらく、ヘロヘロになってるな」
「……なんでお前が、ぼくの部屋にいる」
 腹が立つほど精悍で整った顔立ちを していながら、それでいてふざけた言動が目立つ岸尾は、ワイシャツ姿に寝袋という、やはりふざけた組み合せを浩史に披露してい る。
「このとおり、今日からお前の部屋に世話になろうかと思ってな。安心しろ。余計な面倒はかけたくないから、寝袋は用 意してきた」
 まじめな顔で答える岸尾に我慢できず、靴を脱ぎ捨て部屋に上がった浩史は、側にあった空のゴミ箱を蹴り飛 ばす。ゴミ箱は岸尾の横を掠めて壁にぶつかる。
「見事なキレっぷりだな。きれいな顔が台無しだぞ」
「安心しろ。ぼく は、岸尾慶介というアホな男が絡まない限り、キレない」
「つまり俺は、お前にとって特別な男ってことだな」
 浩史は、 邪魔な寝袋を爪先で押し退けて、ベッドの上に座り込む。
 会社が社宅として借り上げているアパートで、家賃は格安できれ いなのはいいが、とにかく狭いのだ。一人で住む分にはまだ我慢もできるが、そこに大きな男一人加わると、耐え難いほど狭苦し い。
 浩史はブリーフケースを放り出すと、ジャケットを脱ぎ、ネクタイを緩めたところでやっと、岸尾から肝心なことをま だ何も聞いていないことに思い至る。
 この男といると、どうしてもペースを乱されるのだ。
「――……お前、どうやっ てこの部屋に入った。話によっては、警察を呼ぶぞ」
「堅いこと言うな。俺とお前の仲だろ」
 浩史は拳を握り締める。 一年前の新人研修のとき、岸尾を吹っ飛ばした拳だ。すかさず岸尾は両手を上げた。
「落ち着け。そんなに華奢なくせに、お 前の右ストレートの威力は半端じゃねーんだ」
 渋々、浩史が手を下ろしてやると、大げさに安堵の息を吐き出した岸尾は、 床の上にあぐらをかいて座り直す。
「俺が、来週からお前の会社で二カ月、研修を受けることになってるのは知っているか?」
「営業の研修が来ることはな。だけどぼくは技術部門だから、関係ないと思ってよく聞いてない」
「さすが、歩く無関心、 石川浩史」
 ギロリと岸尾を睨みつけてから、浩史は乱暴にネクタイを抜き取る。
「研修の話はわかった。――で、お前 がぼくの部屋にいることと、どう関わりがあるんだ」
「研修の間、ウィークリーマンションに住めと言われたんだ。で、俺は 考えた。お前が確か、社宅に住んでいたよなと。上司に話すと、ぜひとも世話になれと乗り気でな。それでお前の会社の福祉課に 事情を説明して、鍵を借りた」
「……ぼくが承諾していないのにか?」
「お前に話したら、絶対OKしてくれないだろ」
 当たり前だと浩史は怒鳴り、一度は立ち上がって、岸尾の襟首を掴んで部屋から引きずり出そうとしたが、あまりに体格が 違いすぎて動かない。
 結局諦めて、再びベッドに腰掛けた。
 ここで室内が重苦しい沈黙に包まれる。もっとも、難し い顔をしているのは浩史だけで、岸尾はどこか嬉しげな表情で浩史を見上げている。浩史はキッと睨みつけた。
「……変な目 でぼくを見るな」
「他の奴が言ったら、自意識過剰だと鼻先で笑ってやるところだが、石川が言うと妙に説得力があるな。と いうか、実際俺、舐めるように見ているわけだし」
 岸尾が妙なことを言ったが、その点については無視する。
「お前に 馴れ馴れしく呼ばれると、気色が悪い」
「だったら、『浩史』って呼んでいいのか?」
 何か企んでいるような笑みが、 やけに岸尾は様になる。こんな男の目に、自分がどう映っているのか想像して、浩史は落ち着かない気分になる。
 とにかく、 岸尾と二人きりになるのは嫌なのだ。余計なことまで思い出し、意識してしまう。
 浩史と岸尾はおよそ一年前、二十二才の とき、会社に入社してから知り合った。勤める支社は違うのだが、新人研修の場で一緒となり、友人となったのだ。だが、わずか 半年後に、二度目の研修の場で友情は呆気なく砕け散った。
 つまり、非常にデリケートな間柄なのだ。だが、無神経が服を 着ているような岸尾は、気にかけていない。
「きれいできれいで、それ以上にクールなお前は、名前を呼ばれると動揺する。 ――俺しか知らない秘密だ」
 岸尾の不遜な笑みに、やはり殴りつけたい衝動に駆られながら、浩史は忌々しい言葉を吐き捨 てる。
「ケダモノみたいなお前に押し倒されて、何度も呼ばれたからな。自分の名前なのに、嫌な記憶に塗れてしまった」
「あのときは、あと少しだったのに、惜しかった……」
「何があと少しだっ。ぼくが逃げ出さなかったらお前、さっ……、 最後までっ――」
 岸尾に詰め寄ろうと身を乗り出した浩史だが、すぐに動きを止める。これでは、あの夜と同じ展開だ。
 あのときも、挑発的な岸尾の言葉に煽られて掴みかかったが、気がついたときには研修所のベッドの上に押し倒されて、ス ーツを脱がされかかったのだ。やたら甘くて熱っぽい言葉を、惜しみなく囁かれながら。
 思い出すだけで顔が熱くなってく る。屈辱と、羞恥で。
 スッと体を引いた浩史は、低い声で告げる。
「やめた。今日は疲れた」
「……ちっ、今度は ノッてこなかったか」
 ハンガーにジャケットをかけようとしていた浩史は、一拍置いてから、ハンガーで岸尾の背中を殴り つけてやる。岸尾は前のめりとなって呻き声を洩らすが、自業自得だ。
 浩史は、シャワーを浴びるため着替えを用意する。
「今夜は置いてやるが、明日の朝には叩き出すからな」
「聞こえなーい」
「……人を殺したくなるときって、きっと こんな瞬間なんだろうな」
「お前が言うと冗談に聞こえないな」
 能天気に笑う岸尾を冷たく一瞥して、浩史はピシャリ とガラス戸を閉める。そのうえでこう宣言した。
「ぼくがシャワーを浴びている間、その部屋から一歩も出るなよ。出たら本 当に、お前の命はないと思え」
 浩史はユニットバスへと駆け込む。疲れて帰ってきた日は、バスタブに湯を張ってのんびり 入るのだが、岸尾がいて、そんなことができるはずもない。
 ドアの向こうの気配を気にしつつ、急いで体を洗い、シャワー を浴びて出る。
 タオルを頭から被って部屋に戻ると、床に座り込んだ岸尾はテレビを観ていた。湯上りの浩史を見るなり、 なんともいえない笑みを浮かべる。
「……なんだ」
「何も言ってないだろ」
 唇を引き結んだ浩史はベッドへと上が り、乱暴な手つきで髪を拭く。お前もシャワーを浴びてこいと岸尾に言いかけたが、明日には追い出す男だ。きれいだろうが汚か ろうが、関係ない。
 そのうち、最初はじっとテレビを観ていた岸尾がジリジリとベッドに近づいてくる。浩史が髪を拭き終 えた頃には、しっかりベッドに腰掛けていた。
 岸尾の様子を横目で睨みつけながら、浩史はぼやく。
「――お前に襲わ れてから、ぼくはロクなことがない」
「襲ったんじゃなくて、熱烈な愛の告白だ」
 岸尾の、あながち冗談とも思えない 言葉はやはり無視だ。
「新人研修のとき、お前から目が離せなかったんだよな。男なのにやたらきれいな顔して、その顔に似 合わず、誰とも馴れ合わずに澄ましている、可愛げがないところとか」
「そのまま嫌いになってくれてたらよかったんだ。お 前は研修の間中、人懐こい犬みたいにまとわりついてきて、鬱陶しくてたまらなかった」
「よく言うぜ。嬉しそうだったぜ。 俺が話しかけると。だから友達になったんだろ」
 浩史は思いきり岸尾の頭を殴りつけてやる。
「お前みたいな男を友人 に持っていたのは、ぼくの一生の恥だ。人を押し倒すようなケダモノが友人なんて……」
 普段は、岸尾の存在を意識しなく てもいいのだ。なんといっても支社が違う。なのにこの男は、用もなく電話をかけてきて、そのたびに浩史は電話を叩き切ってい た。
 だいたい、そこまでして避けようとしていた危険極まりない男と、なぜベッドに並んで腰掛けているのか――。
「――疲れた、もう寝る。お前も寝ろ」
「いや、メシ……」
「寝ろ。おとなしくな」
「……寝ます」
 岸尾が寝 袋に潜り込むのを確認してから、朝まで出てくるなと釘を刺して、やっと、浩史もベッドに横になる。
 テレビも電気もつけ たままだが、暗闇の中で岸尾が何をしでかすかと身構えているよりはいい。
 なんで自分がこんな目に、という自問を繰り返 すには、今日はあまりに疲れていた。担当しているプログラムの起動も近く、今は仕事が忙しいのだ。
 浩史が力なくため息 を洩らしたところで、ベッドの下から岸尾に声をかけられた。
「おい、石川」
「……なんだ」
「風邪ひくなよ」
 優しく囁くような岸尾の言葉に、浩史はドキリとする。
 岸尾が身じろぐ気配がしたので、慌ててベッドの下を見ると、岸 尾が寝袋ごと体を横向きにして、浩史を見上げていた。浩史はぴしゃりと言い放つ。
「寄るな、ケダモノ」
 岸尾は一瞬 情けない顔となってから、仰向けになる。
 部屋の中で寝袋という、間の抜けた岸尾の姿だが、それでも様になってしまう岸 尾のふてぶてしさと男らしさが、少しだけ浩史は羨ましい。自由で奔放な岸尾は、誰からも好かれるのだ。
 おそらく露骨に 避けているのは、浩史ぐらいだろう。
 誰からも好かれて頼りにされる男が、よりによってなんで、同性であり、同期である 自分になど好意を寄せてくるのか――。いくら考えても、浩史にはわからない。
 ぼんやりと岸尾を眺めていたが、岸尾もじ っと自分を見つめていることに気づき、浩史は慌てて寝返りを打つ。
「おい、石川」
 再び声をかけられ、浩史は背を向 けたまま応じる。
「何度もうるさい」
「好きだぜ」
 瞬間、返事に詰まった浩史は、なんとかこう答えた。
「― ―……アホ、死ね」
 背後から苦しげな岸尾の笑い声が聞こえてきて、なぜか浩史は全身が熱くなっていた。




 翌日から、浩史と岸尾の二人の生活は始まった。本当は岸尾を出ていかせるつもりだったのだが、どう手を回したのか、翌日上 司から、研修の間、岸尾を泊めてやったらどうかと言われてしまったのだ。
 まさか、岸尾に押し倒されたことがあるので一 緒にいたくないなどと、本当の理由を言うわけにもいかず、渋々、浩史は岸尾の受け入れを承諾した。
 当の岸尾は営業のく せに、毎日端末室にまで堂々と乗り込んできて、浩史と会話を交わしている。
 忙しくて気が張り詰めている浩史は、悔しい が、そんな岸尾を怒鳴りつけると少し気持ちが楽になる。怒鳴りつけるたびに、岸尾が向ける悪びれない笑顔を見ても、だ。
 余計なもののない生活だった。
 仕事と最低限の食事と睡眠と――、岸尾と。
 凝った肩の痛みを自覚しながら、自宅 のテーブルに片手で頬杖をついた浩史は、所在なくマウスを動かす。気になる仕事があり、残業してから自宅に持ち帰ったのだ。
 何もしていないと、不足している睡眠を補おうと脳が反乱を起こし、意識を失ってしまいそうになる。
 ちょうど、パ ソコンの画面を睨み続けている目も限界で、とうとう浩史は瞼を閉じた。
「……疲れた」
 そう一言洩らしたところで、 意識が深い闇にスウッと吸い込まれそうになる。
 一分だったか、十分だったか、頬杖をついたままうとうとしていた浩史は、 突然、肩に何かが触れた感触に飛び上がるほど驚いた。
「なっ……」
 姿勢を正して振り返ると、いつの間に帰ってきた のか、岸尾が立っていた。手は浩史の肩にかかっている。
 浩史が咄嗟に反応できないのをいいことに、岸尾は馴れ馴れしく 両肩を揉んでくる。
「……なんのマネだ」
「お疲れのようだから、肩を揉んでやってる。なんだ、お前の肩、ガチガチだ ぞ」
「いいから、ぼくにベタベタと触るな」
 そうは言いながらも、大きな手でしっかりと肩を揉まれる感触は、正直気 持ちよかった。肩だけでなく、強張ったままの気持ちまで解されるようだ。
「おっ、おとなしくなったな」
 背後から岸 尾にからかうように言われ、思わず浩史の唇は綻びそうになったが、寸前でなんとか堪える。
「――仕方ない。奉仕させてや る」
「はいはい、奉仕させていただきます、石川くん」
 バカ、と口中で呟いて、浩史は腕組みする。巧みな肩揉みの腕 を披露しながら、岸尾が言った。
「しかしお前、疲れてるな。一年目でそんなに疲れて大丈夫か。仕事ばかりじゃ息が詰まる ぞ。そうだ、運動しろ」
「面倒だ。運動する労力があるなら、仕事に注いだほうが建設的だ」
「……ご立派な意見で」
「そういうお前は、なんでいつも精力的なんだ」
「聞きたいか?」
 そう言った岸尾の手が首の後ろにかかり、繊細 に動く指にうなじも揉むように刺激される。髪の付け根に指が触れると、ゾクゾクとするような感覚が背を駆け抜けた。
 体 に感じる心地よさとは対照的に、嫌な予感を覚えた浩史は眉をひそめる。
「やっぱり聞きたくない――」
「精力の元が、 俺にはあるからな。おかげで、精力なんて持て余しているぐらいだ」
「今すぐ献血して、血を抜いてこい」
 傍迷惑な、 と言いかけた浩史だが、言葉は声にならなかった。急に背後から強い力で抱き締められたのだ。
「お、い……、岸尾、何をし て……」
「弱っているお前も可憐だと思って」
「ふざけるなっ」
「本気だ」
 耳の後ろに触れる岸尾の息遣いは、 笑いを含んでいる。あっという間に浩史の体は羞恥のため熱くなり、なんとか岸尾の腕の中から逃れようとするが、岸尾の腕は外 れない。
「……耳まで真っ赤だ。普段は高飛車でクールなくせに、こういうウブな反応が、男心をそそるんだよな」
「ぼ くも男だっ」
 返事のつもりなのか、岸尾の唇が耳に押し当てられる。耳朶を舌先でなぞられ、調子に乗るなと、浩史は岸尾 の頬を平手で叩く。もっとも、面の皮の厚い男は、痛くも痒くもなかっただろう。
 ようやく体を離した岸尾は、悠然と笑い ながらベッドの端に腰掛ける。浩史は必死に睨みつけた。
「今度やったら、お前をここから叩き出すからな」
「話し相手 がいないと、寂しいぞ」
「お前みたいな危険な奴と一緒にいるのに比べれば、ずっとマシだ」
「本当にそう思うか?」
 前触れもなく真剣な表情となった岸尾に見据えられ、浩史は言葉に詰まる。
「……何を言わせたい」
「言いたいこ とがあるのか?」
 岸尾の、人を食った物言いも気に食わない。まるで、自分のほうが立場は上だと言われているようなのだ。
 そんなことは認められない――認めたくなかった。
 図々しく人の心をこじ開けて、ふてぶてしく心の中に居座った男 になど、弱みを晒してしまっては大変だ。きっと取り返しのつかないことになる。実際、なりかけている。
 きつく唇を噛ん でから、浩史はふいっと顔を背ける。
「……早く風呂に入ってこい」
 頑なな浩史の態度をどう思ったのか、岸尾は苦笑 を洩らして立ち上がった。
「あまり無理するなよ。無理がお前のトレードマークでも、限度がある」
 岸尾の言葉が、や けに浩史の胸に深く突き刺さった。




 仕事を終えて帰宅した浩史は、岸尾がまだ戻ってきていないことに安堵してから、さっそく行動を起こした。
 着替えなど 必要なものをバッグに詰め込み、ノートパソコンも持ち出す準備をする。
 手早くそれらの作業を終えてバッグを肩にかける。 もう一つのバッグも取り上げようとしたとき、ドアの鍵が開けられる音がした。
 ハッとして玄関を見ると、岸尾が立ってい る。浩史の格好を見て、岸尾は驚いた様子で眼を見開いた。
「――お前、その格好は一体どうしたんだ」
 岸尾の眼差し が鋭くなる。一瞬気圧されそうになった浩史だが、表面上は冷静を装って答えた。
「今夜から、ウィークリーマンションに泊 まる」
「どうして、突然……」
 ふてぶてしい岸尾も、さすがに突然の浩史の言葉に呆然としている。
 その間に浩 史はバッグを手に、玄関で靴を履こうとしたが、反対に靴を脱ぎ捨てた岸尾に腕を掴まれ、バッグを奪い取られた。
「おいっ、 石川っ」
「うるさいっ。お前と一緒にいたくないんだ」
「どうして」
「お前と一緒にいたら、ぼくは――」
 お かしくなる。そう言いかけて浩史は口ごもる。こう言ってしまうことが、とてつもない弱みを岸尾に晒すと気づいたからだ。
「……お前には、関係ない……」
 岸尾の手からバッグを奪い返そうとしたが、今度はもう一つのバッグまで奪われる。
 そのまま部屋まで押し戻され、乱暴に荷物をテーブルの上に置いた岸尾に詰め寄られた。浩史は後退ったが、丸めただけの岸尾 の寝袋に足を取られてよろめき、そのままベッドに座り込んでしまう。
 慌てて立ち上がろうとしても岸尾がのしかかってき て、浩史は簡単にベッドの上にひっくり返った。
「バカっ、岸尾、お前……。また変なことをする気だな」
「偏屈のわか らず屋には、体で教えるしかねーだろ」
「……お前に、教わることなんかない」
「ある」
 断言され、浩史は抵抗も 忘れて目を丸くするしかない。
「いい加減、認めろ」
「何、が……」
「――お前も、俺のことが好きなんだよ」
 頭で考えるより先に、手が動く。気がついたときには、岸尾を殴りつけていた。岸尾はわずかに顔をしかめただけで、次の瞬間 には凄みを帯びた目つきとなり、乱暴に浩史の両手首を掴んでくる。
「俺たちは相思相愛、これ以上なくぴったりと合ってい る二人なんだよ」
「勝手なことを……」
 ニヤリと岸尾が笑う。ふてぶてしい、いつもの笑みだ。
「お前は俺にしか、 剥き出しの感情をぶつけてこない。だから俺は最初からわかってた。お前が俺に惚れてるって」
 浩史は何も言えなかった。 ただうろたえ、体が熱い。耐え難いほどの羞恥のせいだ。
「……お前の理屈は、むちゃくちゃだ……」
「俺がむちゃくち ゃな男だって、とっくにお前は知ってるだろ」
 岸尾の顔が迫ってくる。あっという間に唇を塞がれ、喉の奥から声を洩らし た浩史は岸尾の肩を押し退けようとするが、理屈も何も通じない男は、さらに果敢に攻めてきた。
 頭を抱き寄せられ、さら にキスは深くなる。口腔を蠢く熱い舌に煽られるように、浩史の思考は次第に考えることを放棄しようとしていた。
「いきな り、何をするっ……」
 ジャケットを脱がされ、ネクタイを抜き取られそうになり、岸尾の髪を掴んだ浩史は慌てて尋ねる。
「いきなりじゃないだろ。俺はお前と初めて会ったときから、アプローチしてるだろ」
 上目遣いに岸尾は笑いかけてく る。
 どうして自分の部屋で、能天気で図々しくてふてぶてしい男に押し倒されなければいけないのか――。
 浩史は軽 いめまいを覚えたが、すでにもう、岸尾を押し退けようという気力はなかった。岸尾を相手にするのは、ひどく気力も体力も消耗 するのだ。
 浩史の抵抗がなくなったのをいいことに、あっという間に岸尾はワイシャツのボタンをすべて外してしまい、胸 元に愛しげにキスの雨を降らせてくる。
「――初めてお前を見たときから、ずっとこんなふうに触れたかった」
 独りご ちるように洩らされた岸尾の言葉に、浩史の胸の奥がズキリと疼く。
 こんな男の言葉に、何をうろたえているのかと思いな がらも、反射的に浩史はこう尋ねていた。
「本当、か……?」
 上目遣いに浩史を見上げた岸尾が、ニヤリと笑う。その 笑いの意味は何かとさらに尋ねようとした浩史は、次の瞬間には首を竦めて声を洩らす。
 いきなり岸尾に胸の突起を吸い上 げられたのだ。ささやかな尖りだが、受ける感覚は鋭敏で甘い。
「んあっ」
 舌先で執拗に突起を弄られ、甘噛みするよ うに歯を立てられると、浩史はゆっくりと仰け反りながら息を吐き出す。もう片方の突起も油断なく指で摘まみ上げられ、意識し ないまま息が弾んでくる。
 そんな浩史の反応を、岸尾は余裕たっぷりの表情で観察していた。
 浩史は必死に岸尾の顔 を押し退けようとする。
「浩史?」
 名を呼ばれ、これ以上なく浩史の顔は熱くなる。恥ずかしさのあまり、このまま蒸 発してしまいそうだ。
「勝手にぼくの名前を呼ぶなっ。それに、こんなこと、許した覚えはないぞ」
 そう怒鳴りつける と、必死に身をよじって岸尾の下から逃れようとするが、当の岸尾はにんまりと笑い、逞しい腕で容赦なく浩史を抱きすくめてく る。
「こらっ、岸尾っ。お前、人の話を聞け」
「……ほんっと、お前って可愛いよな」
「バッ、バカやろっ……」
 全身を使っての浩史の抵抗も空しく、ベッドにうつ伏せにされた浩史は、背後から岸尾にワイシャツを剥ぎ取られると、忙 しい手つきでベルトを外されていく。
「岸尾っ、何、やってるっ」
「簡単だ。お前の全部に触れるんだ。いや――、愛し てやると言ったほうがいいか」
 飄々とした岸尾の口調が、かえって浩史の羞恥を煽る。
「い、嫌だ……」
 なんと か前に逃れようとしても、このときにはもう、岸尾の手によってスラックスの前を寛げられ、入り込んだ指に敏感なものをまさぐ られていた。
 岸尾の指はごつごつとして武骨そうに見えるが、実は繊細に優しく動くことを浩史は知っている。その指が、 浩史のものの形をなぞってくるのだ。
「んくうっ」
 喉の奥から声を洩らした浩史の腰が無意識に揺れる。まるで、もっ と岸尾の愛撫をもっと欲しがるかのように。
「――浩史、力を抜け」
 普段からは想像もできない低く官能的な声で囁く 岸尾に、浩史のものは外に引き出される。
 熱く感じるほど体温の高いてのひらに包み込まれた浩史のものは性急に擦られ、 ゾクゾクするような感覚が腰から這い上がってきた。
「いっ、やだ……。岸尾の、バカやろ……。お前なんて、嫌いだ」
「俺は好きだぜ、お前のこと。お前も本当は、俺のことが好きでたまらないだろ」
 うなじを吸われながら下肢を剥かれてい く。手で制しようとするが、簡単に払われ、仰向けにされたときには、両足からスラックスと下着を抜き取られてしまった。
 両足を押し開かれて、閉じられないよう岸尾が体を割り込ませてくる。
 隠すもののなくなった体を見られる屈辱よりも、 それを上回る羞恥で、思わず浩史は顔を背ける。すると衣擦れの音が聞こえてきて、何事かと思い、そろそろと岸尾に視線を向け る。
 ワイシャツを脱ぎ捨てている岸尾と目が合った。
 覆い被さってきた岸尾と素肌が重なり合い、思いがけない心地 よさに浩史は吐息を洩らす。
 顔を覗き込んできた岸尾に唇を塞がれ、口腔を舌で舐め回され、どちらのものとも知れない唾 液が混じり合い、唇の端から滴り落ちていく。
 一度唇が離され、息を喘がせる浩史の目の前で岸尾が自分の指を舐めて濡ら す。それがなんだか浩史の目には、ひどく卑猥な光景に見えた。
「……岸尾、お前、何する気だ……」
「半年前はできな かったことに決まってるだろ」
「決まってるってなんだ、決まってるって。ぼくは、決めてないぞっ……」
 往生際が悪 い――。岸尾の言葉はその一言だった。次の瞬間、浩史をいままで体験したことのない感覚が襲う。
「んんっ」
 岸尾の 指が後方の秘められた部分に触れ、いきなり挿入されたのだ。心の準備もなく指を受け入れさせられた浩史は戸惑い、無礼な侵入 者を頑なに拒もうとするが、岸尾は乱暴ではないが、強引だった。
 長い指を一本とはいえ付け根まで含まされ、浩史は首を すくめて呻き声を洩らす。岸尾を罵倒する余裕もなかった。ただ苦しくて、それ以上に変な感じがする。
「やっ……、あっ、 岸尾っ……」
 思わず回した岸尾の広い背中に爪を立てると、浩史の強張りを解こうとしているのか、内奥に指を含ませたま ま岸尾が胸に顔を埋めた。
 濡れた舌に突起をくすぐられてから、きつく吸い上げられる。同時に内奥から、ゆっくりと指が 引き抜かれていくと、背筋に痺れるような感覚が駆け抜け、浩史は背を反らしていた。
「ふあっ」
 内奥をこじ開けるよ うにして再び指が挿入される。ここで岸尾が小さく笑みをこぼした。
 浩史は、自分の顔を見て笑われたのだと思い、いつの 間にか涙ぐんでいた目を慌てて擦る。
「……何が、おかしい……」
「別に、お前の顔を見て笑ったんじゃねーよ。ただ、 性格だけじゃなくて体も、お前そのものだと思って、感心してたんだ」
「意味がわからない」
 あまり擦るなという意味 か、目を擦っていた手を岸尾に取られて指先にキスをされ、次に目尻にも唇が押し当てられる。意外なほど、ささやかなそのキス が心地よかった。
「頑ななくせに、傍迷惑なぐらい人を惹きつけて、クールな見た目によらず、中身は熱くて激しい。お前の 体も同じだ。嫌だと言いながら俺を拒んでも、こうすると――」
 内奥に含まれた指が蠢き、痺れるような感覚が広がる。息 を詰めて顔を背けた浩史の耳に、岸尾が唇を押し当てて言葉を続ける。
「必死に締め付けて、ひくつく。俺を離したくないと でも言いたげにな」
「かっ、勝手な解釈を、するなっ……」
 どれだけ言おうが、岸尾は笑みを消さない。うろたえる浩 史の反応すら楽しいと、その表情は物語っている。
 間近で顔を覗き込まれ、必死に岸尾を睨みつけていた浩史だが、顔がさ らに近づいてくるのを見て、反射的に目を閉じる。すぐに唇を優しく啄まれた。
 キス一つで、何も言えなくなる。悔しいが、 浩史は今の自分の姿を認めていた。嫌だ嫌だといいながらも、岸尾の思う通りにことは進んでいる。
 結局、この一年間の攻 防は、ムキになる自分が負け続け、岸尾の一人勝ちだったのかもしれない。
 こうも岸尾のキスに酔ってしまうと、浩史も渋 々ながらこう考えてしまう。
「あっ……」
 キスの合間に内奥から指が引き抜かれたが、すぐにまたこじ開けられ、我が もの顔で岸尾の指が挿入されてくる。今度は本数を増やされているので、少し苦しい。
 同時に口腔にも岸尾の舌が差し込ま れ、敏感な粘膜を舐め回されて、くすぐられる。
「ふうっ、んっ、んっ、岸尾、苦、しぃ」
「大丈夫。絶対、気持ちよく してやる」
「うそ、つけ……。お前の体じゃなく、ぼくの体だぞ。簡単に言う、な」
 内奥に収まった二本の指が、秘め られた部分を暴くように奥をゆっくりと掻き回し始める。痺れるような感覚の幅が短くなり、浩史は思わず細い声を上げて腰を震 わせる。薄く目を開くと、岸尾が人を食ったような表情で言った。
「――お前の体だから、感じさせてやりたいんだよ。俺の、 大事な大事な石川浩史の体だから」
 一瞬、言葉をなくした浩史は、力の入らない手で、岸尾の背中を殴りつけてやった。
「……恥ずかしいんだ、お前は」
 ゆっくりと内奥から指が出し入れされ、次第に浩史は体から力を抜いていく。
「んっ、んあっ、はぁっ、あっ……ん」
「もう、苦しくないだろ。お前の中、トロトロに柔らかくなって、熱い。ほら、わか るか?」
 大胆に内奥を指で掻き回され、息を詰めた浩史はビクビクと体を震わせると、岸尾にしがみつく。
 確かに、 もう苦しさはない。それどころか、岸尾の指が動くたびに緩やかに快感が湧き起こり、浩史の理性を蕩けさせていく。
 それ はつまり、意地も見栄も、浩史を頑なにしていた感情すべてが、まるで砂糖が溶けていくように消えていくということだ。
  気がつけば、目から涙が溢れ出ていた。その涙を岸尾が唇で吸い取っていく。
「……本当に、見た目によらず可愛いよな、お 前は。こんなにきれいでクールなのに、実は可愛いなんて、反則だろ」
 岸尾の囁きは、欲望で掠れていた。浩史は睨みつけ る気力もなく、唇に岸尾のキスを受けながら応じた。
「うるさい、バカ。死ね」
「もう少し色っぽい言葉を言ってもらい たいけど、これがまあ、お前なりの愛情の裏返しか」
 とことん、なんでも自分の都合のいいように解釈できる男らしい。そ れが岸尾らしくて、浩史はつい笑みをこぼす。
 食い入るようにそんな浩史の顔を見つめていた岸尾が、ふいに内奥から指を 引きぬき、そのことに物足りなさを感じた自分のはしたなさに、浩史は内心で恥じ入った。
「あっ」
 ひくつく内奥の入 り口に、熱い高ぶりが押し当てられる。さすがに体を強張らせた浩史だが、岸尾を殴りつけてまで抵抗しようとは思わなかった。
 多分、これ以上の行為に及ぶことは、嫌ではない。
 浩史は岸尾の肩に手をかけ、必死に力を込める。そんな浩史を安 心させようとでも思ったのか、岸尾が眼前でにんまりと笑う。浩史はのろのろと手を上げると、岸尾の高い鼻を摘まむ。
「… …こっちは息も絶え絶えになってるのに、へらへらと笑うな」
「俺が真剣な顔すると、お前、怖がらないか?」
 岸尾が 根っからの能天気だと、本当は浩史は思っていない。誰よりも人に対して配慮できる男だと、初めて会った瞬間から、そんなこと はわかっていた。
 浩史はちらりと笑みを浮かべ、岸尾の引き締まった頬に手をかける。
「自惚れるな。お前みたいな男 を、どうしてぼくが怖がらないといけないんだ」
「そりゃ、よかった。……これで本気が出せる」
 一瞬にして岸尾の表 情が怖いほど真剣なものとなる。鮮やかな表情の変化に浩史がドキリとしたときには、逞しい熱が、まるで岸尾の存在そのものの ように、ふてぶてしく浩史の内奥に侵入を開始する。
「うああっ、うっ、くうっ」
 指とは比べものにならないほどの異 物感と痛みに、浩史は必死に岸尾の肩を叩き、行為をやめさせようとする。
「――浩史、浩史、俺を見ろ」
 岸尾に声を かけられるが、それでも顔を背けて呻いていると、業を煮やしたようにあごを掴まれて強引に正面を向かされる。途端に唇を塞が れ、口腔を舌で犯されていた。
 最初は首を横に振ろうとしていた浩史だが、熱心な岸尾のキスに、一度は冷めかけた情欲の 炎を煽られ、体の内が熱くなってくる。
 両足を抱え直され、ゆっくりと何度も内奥を突き上げられる。最初は岸尾の肩や胸 を殴りつけていた浩史だが、深々と繋がる頃には、しっかりと岸尾の首にしがみついていた。
 欲望を抑えきれなくなったよ うに、岸尾が乱暴に腰を揺すり、浩史は声を上げさせられる。
「あっ、あっ、岸、尾……。もっと、ゆっくり――」
「ゆ っくりのほうが感じるか?」
 岸尾が悪戯っぽい表情を浮かべる。よく知っている岸尾の表情に、浩史は少し安心した。
「……初めてなのに、そんなこと、わかるか」
「初めてか……。そうか、今日は俺たちの初夜か」
 真顔で恥ずかしいこ とを言うなと、浩史は小さな声で抗議するが、当然のように無視された。
 ゆっくりと律動が刻まれ、浩史は目を閉じて岸尾 の肩に掴まる。痛みが少しずつ引いていき、敏感な部分で自分たちが繋がり、擦れ合っているのだと、妙に生々しい感覚が伴って きた。
 岸尾の動きに促されるように、ゆっくりと浩史は乱れていく。岸尾の視線を意識しながら、ベッドの上で背をしなら せ、顔を仰のかせて伸びやかな声を上げていた。
「んああっ――。あっ、いぃ……」
 浩史の声に誘われるように、岸尾 の唇が震える喉元に這わされる。内奥深くを重々しく突き上げながら、岸尾の片手は浩史の濡れそぼったものにかかり、扱かれて いた。
「ふうっ……ん、岸尾、い、やだ。そんなふうに、されたら、もう――」
 甘えるように舌足らずになる口調で、 浩史は懸命に訴えようとする。すると岸尾が、ゾクリとするような声で囁いてきた。
「イけよ。お前がイク瞬間の顔が見たい」
「やっ……」
「お前は、俺の前だといろんな顔を見せてくれたけど、この顔だけはまだ見たことがないからな」
 当 たり前だ、という言葉は声にならなかった。歓喜の涙をこぼし続けるものの先端を、強く擦り上げられたからだ。
「んくうっ」
 息を詰め、浩史はその瞬間を迎える。岸尾の手の中で達してしまい、熱い飛沫を振り撒く。
 一気に全身の力が抜ける が、その瞬間を見逃さず、岸尾が激しく内奥で動く。感覚は鈍くなるどころか、ますます鋭敏になっていき、浩史は休む間もなく 岸尾に翻弄される。
 苦しい息の下、苦痛以上に強烈に押し寄せてくる肉の愉悦に喉を鳴らしながら、浩史はこう言わずには いられなかった。
「やっぱり、お前はケダモノだ。……聞いているのか。岸尾慶介」
 汗の浮いた顔で岸尾がちらりと笑 う。ちょっと見惚れてしまいそうなほど、いい表情だった。
「聞いてるぜ。俺はいつでも、お前の言葉を聞いてる」
 照 れてしまい、浩史はすぐには言葉が見つからない。
「……う、うそを、言え。いつも、人の言うことなんて聞いていないくせ に」
「聞いてないふりをしたほうが、お前はたくさん話してくれるだろ」
 今度こそ照れを隠すことができず、たまらず 浩史は両手で顔を隠す。
「お前は……バカだ」
 バカと言ったことへの腹癒せか、一際深く内奥を突き上げられ、抉られ る。
「あうっ、うっ、うっ……」
 岸尾に骨が砕けそうなほどきつく抱きすくめられ、この男にもとっくに余裕はなかっ たのだと知る。
 浩史は唇にそっと笑みを刻んでから、岸尾の背中にしっかりと両腕を回して抱き締め返してやる。
「浩 史っ……」
 岸尾の体が緊張して、内奥で逞しいものが震える。次の瞬間、浩史は驚いて目を丸くした。
 体の奥深くで、 熱い奔流が生まれて叩きつけられる。その感触に身震いしてから、浩史は吐息を洩らす。
 岸尾の欲望の名残りを注ぎ込まれ たのだとわかると、肉体的にも、精神的にも不思議な充溢感が生まれ、気持ちよかった。
 顔を覗き込んできた岸尾に荒々し く唇を塞がれ、激しく貪り合う。
 快感を極め合ったあとも、体が離せなかった。
 呼吸が鎮まるのを待ってから、もう 一度唇を重ね、互いの情欲が再び高まるのを待つ。
「――隣の部屋に筒抜けかもな」
 突如として岸尾がそんなことを言 い出し、ぎょっとして浩史は埋めていた肩から顔を上げる。
「何っ?」
 動揺する浩史とは対照的に、岸尾が意味深に笑 う。
「あの声。もったいないな、浩史のイイ声をタダで誰かに聞かせるなんて」
「有料ならいいのかっ」
 そんな言 葉を返しながら浩史は、素早く隣の部屋の住人の生活パターンを思い出す。確か、帰りはいつも遅く、今の時間なら多分まだ、帰 宅していないはずだ。
 一人で表情をクルクルと変える浩史がおもしろいらしく、声を洩らして笑った岸尾に、急に抱き締め られる。
「岸尾?」
「男二人だと狭い部屋だが、俺たちが初めて同棲する部屋としては、こんなものだろ。人間、最初に どん底を味わっておけば、あとはなんでも天国だ」
「……ときどき、お前が何を言っているのか、わからないときがある」
「ここで新婚生活を送るのもありだな、ってこと」
 あまりに恥ずかしい言葉に、今すぐにでも岸尾を殴り飛ばして逃げ 出したいところだが、あいにく、二人の体はまだしっかり結ばれたままなのだ。
「初夜に新婚に――、お前は見た目によらず、 ロマンティストだな」
「可愛いだろ?」
 なぜか嬉しそうな岸尾の顔を見て、能天気が移ったのか、つい浩史も、可愛い かも、と思ってしまう。
 一瞬あとには、激しく心の中で否定したが。
「……自分で言うと、価値が下がるぞ」
 素 っ気なく応じた浩史だが、岸尾の顔を眺め続けているうちに胸の奥がくすぐったくなってきた。
 もう、あれこれ考えるのが 面倒だ。
「……ぼくは、お前みたいな男とこの狭い部屋で暮らすなんて、冗談じゃないからな。――二カ月が限度だ」
  岸尾は驚いた表情のあと、優しい眼差しを向けてくる。
「今の研修が終わったら、いい物件を見つけてきてやるよ。お互い、 通勤がちょっとつらくなるが、愛の力でなんとかなるだろ。――お前のために、毎日俺が掃除してやる。当然、毎日たっぷり愛し 抜いてやる」
「……最後の項目は遠慮しておく」
 力なく笑ってから、浩史は乱暴に岸尾の頭を引き寄せ、自分から唇に キスしてやる。すぐに岸尾は、それ以上の濃厚なキスで返してくる。
 どうしてこんなことになったのかと思いながらも、当 分、この狭苦しい部屋で、このふざけた男と『甘い生活』でも送ってみようかという気になっていた。
 案外、悪くはないは ずだ――。







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