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朝 顔
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 こうも生い茂ると、鬱陶しいというより、怖くなってくる。
 縁側に腰掛けた広瀬誠一は缶ビールを片手に、庭の一角を我が物顔で占領している植物をぼんやりと眺める。
 エンゼルトランペットなどと可愛い名で呼ばれることもあるらしいが、ようは、朝顔だ。木立朝鮮朝顔という種類だと教えてくれたのは誰だったか、もう覚えていない。
 十数年前、この家を新築したときに親戚が植木鉢でくれて、庭に植え替えたのだが、気がついたときには、どんどん増えていた。
 今では、やけに存在感のある花は、鬱蒼とした小さなジャングルを形成してしまった。
 朝顔というと、華奢な蔓が伸びていくイメージがあるが、この花は木に咲いているため、茎はしっかりとしており、何より背が高い。ラッパを逆さにしたような大きな花をいくつもぶら下げて、それでも折れはしないのだ。
 花の色の種類はいくつかあるらしいが、広瀬の自宅の庭に咲いているものは白だ。
 真っ白の花は可憐ではあるのだが、薄闇に包まれた庭に、白く大きな花がいくつもぽっかりと浮かび上がっている様は、きれいである以上に、異様だった。
 夜になるとよく立ち上る花の芳香が、夏の夜の湿気を含んでこちらにまで運ばれてくる。ビールよりも、その芳香に酔いそうになりながら、広瀬は軽く鼻を鳴らす。
 広瀬しかいない家がガランとしているのとは対照的に、白い花で彩られた庭のにぎやかさが、妙に腹立たしい。
 明日にでも、木をすべて切ってしまおうか――。
 漠然とそんなことを考えた瞬間、ガサッと物音がして、白い花が揺れた。
 一瞬、猫か鳥が庭に飛び込んできたのかと思った広瀬は、驚きのあまり身動きが取れず、ただ目を見開く。
 ガサッ、ガサッという音に合わせて花が揺れ、ようやく姿を現したのは――人間だった。しかも、男だ。  ジーンズにシャツという軽装で、年齢は、広瀬の息子と同じぐらいに見えた。いや、多分、同じ年齢だ。
 広瀬がそう思ったのには理由がある。突然庭に姿を現した青年が、こう言葉を発したからだ。
「達彦――って、ありゃ、違った……」
 冴え冴えと整った容貌の持ち主の口から出るには、やけに間の抜けた言葉かもしれない。青年は、広瀬の存在にひどく驚いた様子で大きく目を見開き、一歩だけ後退る。すると、また花が揺れた。
 数秒ほど二人は視線を交わし合ったが、広瀬はやっと、この状況が只事ではないと理解する。
 木立朝鮮朝顔のジャングルの向こう側にはコンクリートの塀しかない。つまり青年は、塀を乗り越え、よく生い茂った木の間を掻き分けて、広瀬の自宅への不法侵入を果たしたのだ。
 一喝しようと立ち上がりかけた広瀬だが、こちらが声を発するより先に、青年が鮮やかな笑みを浮かべながらこう言った。
「もしかして、達彦のオヤジさん?」
 完全に虚を突かれた広瀬は、思わず縁側に座り直してしまう。青年の言葉に反応したこともあるが、庭にもう一つの花が開いたような青年の笑顔に目を奪われていた。
「……君は……」
「あー、覚えてないかな。達彦と高校まで同じだった、正木真也。あいつと仲がよくて、けっこう何度も遊びに来てたんだけど」
 襟首にかかるほど伸びた髪を指先で梳きながら青年はそう説明してくれたが、あいにく、広瀬の記憶にはなかった。そもそも、子供たちが遊んでいるような時間に、自宅にいたことがない。
 広瀬の戸惑いを感じ取ったように、青年は皮肉っぽく唇の端をわずかに動かした。
「まあ、もっともおれも、達彦のオヤジさんのことは、ほとんど記憶にないんだけど。ただ、この家にいるから、そうかなって。というか、達彦とばっちり面影が重なる。あいつ、ハンサムだったからなー。オヤジさん似だ」
「――で、達彦の友人だという君が、なんで夜中に、その友人の家にいるんだ」
 正木は腰に手を当てながら、背後を振り返った。
「花が……見ごろだと思って。おれ、この花が朝顔だと知って、ガキの頃はびっくりしたんだよね。おれの知っている朝顔じゃないと思って」
「木立朝鮮朝顔」
「そう、そんな名前。最近になって、久しぶりにここを通りかかったら、昔と変わらずこの花が咲いていて、毎日立ち寄って眺めるのが日課になったんだよ。で、今日になって、木の間から電気がついているのがちらっと見えたから、達彦が戻ってきたのかと思ってお邪魔したら……」
 そう言いながら、正木から視線を向けられる。ゾクッとするような、冷ややかで鮮烈な流し目だった。
 妙に絵になる青年だなと思いながら、広瀬はビールを一口飲む。
「達彦なら多分、もうこの家に来ることもないだろう。……あいつの母親も」
「俺の妻、とは言わないんだね」
 正木の指摘に、広瀬は唇を歪める。
「……この家は、しばらく誰も住んでなかったんだ」
「オヤジさんの海外赴任に、家族もついて行ってたんでしょ?」
 このことを知っているということは、息子の友人を騙った泥棒ではなさそうだ。広瀬はわずかに警戒を解き、持っていた缶ビールを傍らに置いた。
「せっかく来てくれたんだ。飲むか?」
 正木は薄く笑って頷いた。
「煙草も吸いたいんだけど」
 広瀬は一度その場を離れてキッチンに行くと、缶ビールを取り出し、ついでに、灰皿になりそうな陶器の入れ物を持って縁側に戻る。
 正木は、白い花に片手を伸ばして触れていた。
「あまり迂闊に触らないほうがいい。その花は――」
「毒がある、だっけ? ガキの頃、おばさんによく注意された記憶がある」
「葉から根から、全体に毒を持っているような植物だが、特に花の毒が強いらしい。念のため、帰ったら着ているものはよく洗ったほうがいい」
「――了解」
 振り返った正木に缶ビールを出して見せると、ふらりと縁側に歩み寄ってきて、広瀬の隣に腰掛けた。この瞬間、一際強い花の香りがした気がして、広瀬は軽い眩暈に襲われた。
「それで、さっきの話だけど」
「えっ?」
 広瀬が隣を見ると、髪を掻き上げた正木がまた流し目を寄越してくる。本人が意図しているわけではなく、こういうふうに人を見るのが癖らしい。
 正木は薄く笑んだ。
「達彦とおばさんが、この家に戻ってくることもないだろう、って……」
「ああ……。海外にいる間に、離婚した。達彦は向こうの大学を卒業して、向こうの企業で勤め始めて、母親も一緒に暮らしている。俺は、海外赴任が終了して、一人で戻ってきたというわけだ。数日前」
「海外にいる間、この家は? 庭はちょっとしたジャングルみたいだけど、だからといって荒れてるようにも見えないし」
 正木と話していると、妙な気持ちだった。いくら友人が住んでいた家だからといって、勝手に入り込んできたような青年と、こうして並んで腰掛けているのだ。その状況に違和感があるような、ないような。
 息子と同じ年齢の青年は、敬語も使わず気安く話しかけてきて、広瀬もなんとなくそれを受け入れて、こうして会話が成り立っている。別に気分が悪いとか、腹が立つわけでもないので仕方ない。
 それというのも――。
 広瀬は、缶ビールを呷ってから、煙草に火をつける正木の横顔に視線を向ける。
 不思議な青年だった。若いのに浮ついたところも青臭さもなく、だからといって大人びているというほどでもない。場の空気に溶け込んで、馴染んでしまう存在感を持つくせに、容貌はハッと息を呑むほど端整だ。
 煙草を咥えた正木がこちらを見て笑ったような気がして、柄にもなくうろたえた広瀬は庭に視線を移す。
 薄闇に沈んだ庭に咲く白い花が視界に飛び込み、なんとなく納得した。
 正木は、この花のイメージと重なるのだ。パッと見はきれいで存在感があるが、迂闊に触れるのをためらわせる、毒を持つ花と――。
「……さっきまで、この庭の植物を、全部処分してしまおうかと考えていたんだ」
「植物って、でかい朝顔しかないじゃん」
「確かに」
 二人は小さく声を洩らして笑う。
「もったいないよ、これだけ見事に育ってるのに」
「だけど、中年の男が一人わびしく住む家で、これだけ派手な花が咲き誇っているのも、なんだか癪に障る。さっきの君の質問だが、家と庭の手入れは、近くに住む親戚に頼んでいたんだ。あの朝顔に、たっぷり栄養を与えてくれていたようだな。……見事な咲きっぷりだ」
「処分するなんて言わないでよ」
 正木がぽつりと洩らした言葉に、一瞬広瀬はドキリとする。まるで花の気持ちを、正木が代弁したような錯覚を覚えたのだ。
 目を丸くする広瀬の見ている前で、正木はふっと煙草の煙を吐き出す、その仕草が、ひどく婀娜っぽかった。
「古きよき子供時代の思い出として、おれの記憶に刷り込まれてるんだ、この花。あの頃の無邪気な自分に浸れる。今じゃもう、すっかり大人の世界で擦れちゃってるから、なおさら、この庭の花に惹かれる」
「俺の息子と同い年の君に、古きよき、なんて言われると、俺はどうすりゃいいんだ……。今の君ぐらいの年の頃から働き続けた挙げ句に、妻と息子に見捨てられたんだぞ」
「――心配しなくても、苦労を重ねて、〈素敵なオジさま〉になってるって」
 カラカラと笑いながら言われたところで、褒められている気はしない。ただ、悪い気もしなかった。
 この家に戻ってきてずっと塞ぎ込んでいたのだが、正木と話しているうちに、久しぶりに気持ちが浮上する兆しを見せている。
 だから、正木にこう提案されても、否とは言えなかった。
「理由があれば処分しないと言うなら、おれが毎日見に来るから、という理由じゃダメかな?」
「……明日から、きちんと玄関から入ってこいよ」
 正木は、唇の端をわずかに動かすだけの笑みを浮かべる。
 冴え冴えとした美貌には、この笑い方のほうが似合っていると広瀬は思った。




 翌日から、正木は言葉通りに、夜、家に通ってくるようになった。きちんと玄関から。
 海外赴任を終え、それなりの役職についた広瀬は、夜遅くまでの残業から解放され、早い時間に会社を出られる身分となった。これがありがたいかというと、そうでもない。
 外で夕食を終えて帰宅すると、あとはもう、引っ越しの荷物を解いて片付けるぐらいしか、やることがないのだ。ただ、広くなってしまった家に、一人分の荷物を収納していくのはひどく寂しい。そんな思いがあるせいか、作業は遅々として進まない。
「――繊細だなあ、広瀬さんは」
 いつものように縁側に並んで腰掛け、ビールを飲みながらの広瀬の話に、正木は笑いを含んだ声でそう言った。
「ものは言いようだな。未練がましいと言って、バカにされるかと思ったんだが」
「するわけないじゃん。……一人は、誰だって嫌だよ」
 正木の口調が切実な響きを帯びる。だからといって真剣な顔をしているかというとそうでもなく、缶ビールを置くと、広瀬の見ている前で廊下に仰向けで転がった。
「はあっ、酔った」
 頭上に両腕を投げ出した正木は確かに、心地よさそうに目を細め、いかにも酔った表情をしている。ビールを欲しがるわりには、あまりアルコールには強くないことを、ここ半月ほどのつき合いで広瀬も把握してしまった。
 寝転がった勢いで捲れ上がった正木のシャツの下から、白い肌が覗き見える。真夏で、この年齢の頃なら、いくらでも強い陽射しを浴びる機会はあるはずだろうが、正木は少しも日焼けする様子はない。
 夜の月明かりの下でそんな正木を見て、広瀬の中に、ある好奇心が湧き起こった。
「……いつもこの家で会うのも芸がないな。どうだ。明日は外で、一緒に昼飯を食わないか」
 ムクッと体を起こした正木が婀娜っぽい仕草で首を傾げる。
「どうして昼飯?」
「いや、それは……」
 真夏の陽射しの下で、正木を見てみたい――。こんなことを、息子と同年齢の青年には言えなかった。改めて考えてみると、なんとも気恥ずかしい好奇心だ。
 正木は急に真剣な顔となり、ある一点を見据える。
「広瀬さんとは、こうしてのんびり会いたいんだ。誰にも邪魔されずに。だけど、おれと広瀬さんて、昼間はまじめに労働してるだろ? そうなると必然的に会うのは夜になっちゃうと思うんだよね」
「……働いているのか」
 意外に思って広瀬が言うと、正木はニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべる。
「何、おれって、昼間からフラフラしてるように見えるんだ」
「そういうわけじゃないんだ。ただ、生活感がないと思って。俺にとっては、夜になるとポッと姿を現す存在なんだ、君は。会うのは夜だけだから、仕方ないが」
「昼間もおれが存在しているか、不安になった?」
 まさに、その通りだった。広瀬が何も答えられないでいると、正木は気を悪くしたふうもなく、一人納得したように頷く。
「繊細な広瀬さんに思い悩まれて、胃に穴でも開けられたら大変だから、善処するよ」
「俺はそこまで柔じゃないぞ。……離婚のことで協議しているときも、胃が痛んだことは一度もなかった」
 自嘲気味に広瀬が洩らすと、ふいに頬に何かが触れる。知らず知らずのうちに伏せていた顔を上げると、正木がスッと手を引くところだった。頬に触れたのは、正木の手だったのか、ふいに吹いた風の感触だったのか、広瀬には判断できない。
「おい――……」
「広瀬さんが休みの日に、そのうち昼間に現れてあげる。おれは気まぐれだから、期待はしないでよ」
 悪意のない傲慢さが、正木にはよく似合っていた。広瀬は、楽しみにしている、と応じる。
「今日はもう帰るよ。いつもより酔いが回るのが早い……」
 緩慢な動作で正木が立ち上がろうとしたので、見送るために広瀬も倣う。正木はいつも気ままにやってきては、気ままに帰っていく。十分もいないときもあれば、一時間以上、縁側に腰掛けて庭を――朝顔を眺めているのだ。
 足を一歩踏み出した正木の体が揺れる。広瀬は咄嗟に、正木の肩に腕を回して支えていた。この瞬間、広瀬は自分の中に走った衝撃をなんとか表に出ないよう抑え込む。
 これまで、目の前に存在していながら、どこか掴みどころのなかった正木を実体を、ようやく捉えたような気がした。広瀬は、別に本気で、正木は幽霊ではないのかと疑っていたわけではないが、とにかく驚いた。
「……大丈夫か」
「平気。今日は喉が渇いてたから、早いペースでビール飲みすぎたかな」
「なんなら、タクシーを呼ぶか?」
 正木は答えず、ただ軽く片手をあげただけだった。
 向けられた背を引きとめたくなったのは、広い家に一人で取り残される寂しさからなのか、それ以外の感情からなのか、軽い酩酊感を覚えた広瀬はあえて深く考えなかった。




 日曜日の昼間、別に待っているつもりではないのだが、広瀬は何度となく縁側に出ては、庭を見ていた。正木なら、いつの間にか庭に立っていても不思議ではないという意識もあるせいかもしれない。
 なんとなく手持ち無沙汰であり、息子と同じ年齢の青年の訪れを待っているというのが面映くもあり、落ち着かない。
 縁側を離れた広瀬は書斎に行き、窓を開けて室内の空気を入れ替える。ついでなので、部屋の片隅に積み重ねたままの段ボールの中身も片付けることにする。仕事に使いそうなものだけは早々に荷物を解いてしまったが、蔵書などについては、いまだ手付かずだ。
 数個の段ボールを開け、どの本から本棚に並べていくかと考えていたが、もう一つの段ボールを引き寄せて開けたところで、広瀬は思わず片手を伸ばしていた。
「これは――……」
 中に入っていたのは本ではなく、アルバムだった。もともとアルバムは段ボールの中に仕舞ったままだったのだが、引っ越しの準備でバタバタしている中、手伝ってくれた息子が間違って、引っ越し用の荷物と一緒にしたのかもしれない。
 もしくは、家族の形ある思い出を持たない父親に対する優しさとして、あえて紛れ込ませてくれたのか。
 デスクの上に置いてある眼鏡をかけた広瀬は、数冊のアルバムを取り出して、床の上にあぐらをかいて座り込む。懐かしさから、アルバムを開いていた。
 あまり写真を撮らない家庭だと思っていたが、広瀬の知らないところで、息子の写真はたくさんあった。仕事に奔走している広瀬に代わり、別れた妻が熱心に撮っていたようだ。記憶にない風景とともに写っているものが半分はあった。
 残りの半分は、この家や近所、学校で撮ったものだった。
 ほろ苦さを感じる反面、こんなことがあったのかと、新鮮な気持ちで写真を見ていた広瀬だが、次第にある違和感を覚え始め、気がついたときには眉間にシワを寄せ、もう一度最初からアルバムを見返していた。
 どれだけの間そうしていたか、玄関の呼び鈴が鳴って我に返る。ハッとして顔を上げると、いつの間にか窓からは西日が差し込んでいた。
 広瀬はアルバムを置いて玄関に向かい、相手を確かめることなくドアを開ける。目の前に立っていたのは、見慣れてはいるが、意外でもある人物だった。
「君は……」
「――明るいときに、おれと会いたかったんだろ? これでも苦労して、仕事を抜けてきたんだけど」
 陽射しに透けると、正木の髪はきれいな薄茶色に見えるのだなと、まずどうでもいいことに目がいき、それから広瀬は、やっと驚くことができた。
 夜にしか姿を現さないはずの正木がようやく、まだ明るいうちに広瀬の前に姿を現したのだ。よく見知っているはずの青年が、陽射しの下では、見知らぬ人間のようにも感じられ、正直戸惑う。
「入っていい?」
「あっ、ああ……」
 気軽な様子で正木は靴を脱ぎ、いつものように縁側へと向かう。広瀬も、いつものように缶ビールと灰皿を手に、あとから縁側に向かう。
 正木はすでにサンダルを引っ掛け、木立朝鮮朝顔の木の前に立っていた。昼間、水をやったのだが、真夏の陽射しのせいでとっくに乾いてしまっている。
 すでに煙草を咥えていた正木が、煙を吐き出してから言った。
「あー、やっぱり明るいうちは、そんなに匂いは強くないね」
「昼間は、この前は通らないのか?」
 広瀬は縁側に腰掛け、手にした缶ビールと灰皿を傍らに置く。ジーンズのポケットに片手を突っ込みながら正木が振り返った。
「明るいうちから人の家を覗くのは、さすがに大胆すぎてしないな」
「……むしろ、夜、覗いているほうが不審者だろう」
「どこから見ても好青年のおれが、そんなものに見える?」
 悪びれることなく正木に笑いかけられ、つられて笑みで返しそうになった広瀬だが、寸前のところで、唇を引き結ぶ。時間が経つのも忘れるほど、さきほどまで自分が何をしていたか思い出したのだ。
「――君は……正木真也という青年は、本当に、俺の息子の友人だったのか?」
 広瀬の問いかけに、正木は動じたふうもなく肩をすくめる。
「おれはそのつもりだったけど」
「さっきまで、アルバムを見ていたんだ。そこに、達彦と友人たちも写っているが、どれだけ探しても、君らしい子の姿はない。家に遊びにきていたぐらいなら、写真の一枚ぐらいあってもいいものじゃないか?」
「……子供の頃から、けっこう顔は変わったし、見逃したんじゃないかな」
「だけど、面影ぐらい残っているはずだ。それだけ印象的な顔立ちをしているんだから」
 小さく声を洩らした正木は、言い逃れる理由を考えるように視線をさまよわせ、髪を掻き上げる。
「おれ、照れ屋だったから、写真を撮られるときは逃げていた、とか……?」
「答える気はないということか」
 広瀬が低い声を発すると、肯定するように正木は唇の端に笑みらしきものを刻んだ。
「こうして知り合ったんだから、おれが、広瀬さんの息子と本当に友人だったかどうか、いまさら重要じゃないと思うけど」
 正木の言うことには確かに一理ある。知り合ったきっかけは、庭に入り込んだ正木が息子の名を呼んだことだったが、何度も会っているうちに、それはさほど大事ではなくなった。
 しかし、正木が息子の友人でないとしたら、ますます彼は謎の存在になる。広瀬に一切の事実を告げていないことになる。
 それが広瀬は、自分でも不思議なぐらい許せないのだ。
「……なんの目的があって、この家にやってきた」
「目的?」
「言っておくがこの家には、財産なんて大したものはないぞ。ほとんどを、離婚の慰謝料で――」
「財産ならあるじゃん」
 そう言って正木が片手を伸ばし、木立朝鮮朝顔の枝に触れる。次いで、白い花を指先で軽く揺らした。
「……刺激的な植物だ」
 正木が挑発的な眼差しを向けてくる。広瀬にしてみれば、植物の毒などより、この青年のほうがよほど刺激的で、強烈だった。側にいると花の匂いに惑わされ、油断し、迂闊に触れた途端、どうなるか。
「この植物の毒ってさ、体に入ると、苦しんで暴れ回って大変らしいよ。錯乱したりさ。理性が吹っ飛んじゃうんだよ。そして正気に戻ると、記憶が飛んでることもあるって。昔は麻酔薬として使ってたって聞いたことがある」
「……そんなことは、知っている……」
「おれ、好きなんだ。こいつが。理由は聞かないでよ。ただなんとなく、引き寄せられるんだ」
 正木の言葉に、広瀬のほうが意識を引き寄せられそうだった。
 まとわりつく毒を振り払うように、広瀬は告げた。
「――その木は、もう処分する。もともとそのつもりだったんだが、君のせいで予定が狂っていたんだ。だが、それも今日までだ。切って、根も引き抜いて、燃やす」
 このとき初めて、悠然とすらしていた正木の態度に変化が現れる。顔が強張り、心なしかいくぶん青ざめたように見えた。もしかすると、強い西日のせいで広瀬の目がおかしくなっているのかもしれないが、それでも、正木の顔から一切の表情がなくなったのは間違いない。
「……こいつらがいないと、おれはもう、ここに来ることはできないな」
「ああ。もう二度と、ここに来ないでくれ」
 そう、と返事をして、正木がこちらにやってくる。灰皿に吸いかけの煙草を押し付けてサンダルを脱ぐと、何も言わないまま広瀬の横を通り過ぎた。
 この瞬間、夜でもないのに木立朝鮮朝顔の強い香りがして、眩暈に襲われる。広瀬が頭を振って背後を見たとき、正木の姿はすでになかった。
 唐突な喪失感を噛み締めながら、広瀬は西日を浴びている白い花に視線を向けた。




 その日を境に、正木はぴたりと姿を見せなくなった。同時に広瀬は、自分は今、たった一人で生活しているのだという、当たり前の現実を痛感させられていた。
 待っていたところで誰も自宅にやってこないし、電話もかかってこない。だったら外で時間を潰す術を行使すればいいのだが、広瀬は、会社と自宅の往復以外、外での時間の過ごし方を知らなかった。
 本来、そんなふうに無味乾燥で面白味がないのが広瀬という人間であり、正木が通ってきていた頃の広瀬のほうが変だったのだ。
 だいたい正木も、木立朝鮮朝顔を眺めるのが目的とはいえ、わざわざ広瀬の元に通ってこなくてもよかったはずだ。希少な植物というわけでもなく、探せばどこかに野生していても不思議ではない。
 広瀬は縁側に座り、取り留めなく考え続けていたが、ビールを一口飲んでやっと覚悟を決めた。
 ホームセンターで買ってきた小型のこぎりを手にすると、庭に出る。
 正木にここに来ないよう告げたあとすぐに、行動を起こすつもりだったのだが、仕事の忙しさや暑さの厳しさのせいにして、結局何日も経ってしまった。しかしそんな曖昧な状態も今日までだ。
 木立朝鮮朝顔の前に立った広瀬は、枝に手をかける。もうそうする必要もなかったのだが、朝、水を与えたため、葉や花にはまだ水滴が残っている。
 数日前から、この植物の異変に気づいていた。いくら暑いとはいえ、しっかり水をやっているはずなのに、急速に元気をなくし、萎れ始めているのだ。
 枯れる花がある一方で、新しく開く花もある。例年であれば、それを秋頃まで繰り返しているのだが、木全体がこの時期から元気をなくすのは、初めてのことだ。まるで生気が感じられない。
 何か悪い病気にでもかかったのだろうかと、これから木を切ろうとしていることも忘れ、広瀬は葉や花を手にのせて間近から観察する。虫に食われた形跡はなく、特に変わったところもない。ただ、元気がないだけだ。
 いまさら気にしても仕方ないと、広瀬は枝を切り落とすため、のこぎりの刃を当てはしたものの、手を動かせなかった。
 正木が来なくなったから、この植物たちは元気がなくなったのだろうかと、非科学的な考えが頭に浮かんでしまったからだ。
 実際、正木がこの庭に足を運んでいる間、生育状態はよかった。次々に花をつけ、青々とした葉を茂らせていた。これまで、庭にある植物になどさほど関心を示さなかった広瀬が、溢れる生命力に惹かれるように世話をしていたぐらいだ。
 下を向いて風に揺れる花を、てのひらに包み込むようにして触れる。
 ふいに、正木が言った意味深な言葉が思い出された。
『……こいつらがいないと、おれはもう、ここに来ることはできないな』
 この言葉を聞いたときは、花を理由にして、ここを訪れることができないという意味で捉えたのだが、今の広瀬は、本当にそうなのだろうかと思い始めていた。
 本当に正木は、花がなければ姿を現せない存在なのでは――。
 広瀬は、茎に当てていたのこぎりの刃をスッと退ける。無意識に苦々しい笑みを浮かべていた。
「バカな。何を考えてるんだ、俺は……」
 口ではそう言いながらも、もうこの植物を刈り取ることはできなかった。正木自身を傷つけているような痛々しい気分になるのは、目に見えていたからだ。




 ふっと目が覚めたとき、闇を見据えながら広瀬が聞いたのは、耳に優しい音だった。
 この音はなんだろうかと、まだ覚醒しきれていない頭で考える。
「雨……?」
 正体がわかってしまうと、なんのことはない。広瀬は再び目を閉じる。
 この雨で、庭の植物が元気を取り戻せばいいが、と考えた次の瞬間、ハッとしてまた目を開く。
 何かに呼びかけられたように、唐突に庭の様子が気になった。〈何か〉がいると、直感が告げている。
 体を起こした広瀬は、わずかな逡巡のあとベッドから抜け出し、庭に面した廊下へと向かう。このときには、直感は確信へと変わっていた。
 廊下の電気をつけてカーテンと窓を開ける。ムッとするような湿気を含んだ生暖かな風が、雨とともに吹き付けてきた。
 そして庭には、白い花以外に、ぼんやりと浮かび上がるほの白い人影があった。
「……何を、してるんだ……」
 囁くような声で広瀬が問いかけると、人影の正体である正木は、ゆっくりと振り返って笑いかけてきた。いつから庭にいたのか、全身ずぶ濡れで、髪先から水が滴り落ちている。
「――まだ、処分してないんだ、こいつら」
「仕事が、忙しかったんだ……」
「そう」
「放っておいたら、枯れるんじゃないかとも思っていた。そうしたら、手間がかからない」
 つい余計なことまで説明してしまうが、気にした様子もなく正木は頷いた。
「確かに、おれが来たときは元気がなかった。でも今は、ずいぶんマシになったよ」
 その言葉を聞いた広瀬は、慌ててサンダルを履いて庭に出た。木立朝鮮朝顔の木に駆け寄り、雨に濡れた花や葉を手に取ると、廊下からの明かりを頼りに観察する。萎れ、枯れかけているものすらあったというのに、今はもう、瑞々しさを取り戻していた。
「何か、したのか?」
 思わず広瀬が問いかけると、おもしろがるように正木は唇を綻ばせた。
「おれが肥料でも与えたのかってこと?」
「いや……、そういうわけじゃ……」
「だったら、おれが魔法を使った?」
 からかわれているとわかったが、明らかに広瀬のほうが分が悪い。しかも、さらに自らを追い詰めるようなことを口にしてしまう。
「……この何日か、元気がなかったんだ。いくら水をやっても、どんどん萎れていって、枯れそうだった」
「広瀬さんは?」
 質問の意味がわからず、広瀬は目を細める。正木は髪を掻き上げ、大きな花の一つをてのひらにのせた。
「伝わってくるんだ。こいつらから、広瀬さんの気持ちが。――どうしようもない孤独と寂しさ、人恋しさ。それと、諦観も」
「でたらめを言うなっ」
「広瀬さんだけがこの家に戻ってくるまで、こいつらにあるのは、かつて住んでいた家族の思い出だけだった。それはそれで、おれは気に入ってたけどね。だけど、その思い出に上書きされたのが、広瀬さん個人の濃密な孤独だ。……おれは、放っておけなかった」
 ウソか本当かわからない正木の話に、広瀬は胸を抉られるような思いがした。もう、誰も読み取ってくれることはないだろうと諦めていた、広瀬の切実な感情を、正木が明確な言葉にしたからだ。
 正木は、幼いのか老成しているのかよくわからない、印象的な笑みを向けてきた。
「――おれが来なくて寂しかった?」
 この問いかけは決定的だった。
 広瀬は正木のすぐ側まで歩み寄ると、のろのろと手を伸ばして、白い額に張り付いた前髪を掻き上げてやる。
「ああ……」
「素直でいいな」
 広瀬はやっと笑うことができた。
「一つ、教えてくれ」
「何?」
「こいつらが枯れかけていたのは、君のせいなのか? 君が、来なくなったから……」
「〈普通の人間〉が、そんなことできると思う?」
 挑発的な眼差しを向けられ、広瀬は追及を諦めた。多分真相を知ったところで、あまり意味はないだろう。結局のところ、この庭の中で起こる、些細な出来事だ。誰かに語って聞かせるようなことでもない。
 何より広瀬自身、正木がこうして目の前に存在している限り、理由も原因も、どうでもよくなっている。
 ただ、これだけは言っておきたかった。
「――……煙草は毒だから、あまり吸うな」
「おれ自身に毒があるのに、そう心配いらないと思うけど」
 正木はそう言いながらも、広瀬のパジャマの胸ポケットに、煙草とライターを捩じ込んでくる。
「捨てておいてよ」
 ああ、と応じた広瀬は、自らに毒があると言った青年の体を強く抱き締めると、夜になると一際強く放つ芳香を、思いきり吸い込む。
 広瀬は眩暈に襲われながら、抱えた孤独が淡く溶けていくのを感じた。







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