不器用な買い物



「恋の主導権」



「――実はですねー……」
 楽しげにあずみが声を潜めるので、恋する者の条件反射か、信彦もついつい顔を綻ばせ、ついでに身を乗り出す。
 陽射しの強烈さもいくぶん和らぎつつある、九月の昼下がりのことだった。ちなみに日曜日だ。あずみと街中をぶらつき、ようやく腰を落ち着けたのは、洒落た店でもなんでもなく、信彦の実家である藤木工房の縁側だ。
 本格的デートへの道のりは、まだまだ遠いらしい。
 それでもあずみと二人、休日の一時を過ごせるということに幸せを感じる自分に、信彦はいじらしさを覚えずにはいられない。
「実は、何?」
 まばゆいほどの金髪を揺らしてあずみは笑った。
「橘さんのことなんです」
「ああ、先輩……。何、また会社で暴れたとか?」
 信彦は、高校時代からつき合いのある、二年先輩の橘悟史の顔を思い描く。
 怜悧を形にすれば、おそらく橘のような人間になるのだろうと、知り合った当初は思ったものだ。整っているというより、きれいと表現したほうがしっくりくる顔立ちをしているのだが、性格は、外見に輪をかけてすごい。
 熾烈とは、橘の性格のためにある言葉だ。
 もっとも、子供っぽくてわかりやすい部分があるからこそ、ここまでつき合ってこられたのだし、これから先も、信彦は橘とつき合っていくつもりだ。
「違いますよー」
 そう言ってあずみは笑い、信彦は小さく声を洩らして足を組む。このとき、隣に座るあずみの、ミニスカートから伸びた足をちらりと見てしまい、内心でドキリとしてしまう。
 男として正直すぎる自分の反応を誤魔化すため、つい話の核心を口にしていた。
「――恋をしているな、あれは」
 多少芝居がかった物言いだが、あずみにはウケている。華奢な肩を震わせながら、あずみは何度も頷いた。
「そうっ、そうなんですっ。なんか、雰囲気が柔らかくなったっていうか……。仕事で厳しいのは相変わらずなんですけど、それ以外だと、ふわっとしているっていうのかな。イイ感じ、なんです」
「先月の出張から戻ってきたあたりかな。俺が、あれっ、と思ったのは」
「うん。あたしもなんです」
 信彦はあずみと顔を見合わせ、ニッと笑う。こういうところで、あずみとはフィーリングが合うのだ。
 お互い、橘の恋の相手が誰であるか、十分すぎるほど察しはついている。正確には、その人物以外には思いつかないのだ。
 タイミングを合わせ、二人は同じ名を口にした。
「――宮脇さんっ」
 やっぱり、とあずみの大きな目が言っていた。信彦も腕を組んで何度も頷く。
 選んだ人に会わせてくれと言ったとき、橘はなんとも嬉しげな顔をして答えたのだ。
『もう会ってるよ、お前』
 まだ一度しか会ったことがない、宮脇という男だと、結論が達するのは早かった。そして、これは誰にも言えないことだが、宮脇に対して少しばかりの嫉妬をしてしまった。
 片思いの相手を奪われそうだからではなく、大事な親友をどこかに連れ去られてしまいそうな気がしたからだ。
 もっとも今は、幸せになってくれという感想しかない。
 信彦は、喉を鳴らして笑い声を洩らす。
「あれは……、苦労するな」
「しますね。なんたって、相手が橘さんですもん」
「別名――怪獣。あんな細い体して、もうパワー全開。なんにでも食ってかかるから、間近にいる人間はハラハラし通しだ」
「うんうん、そうですね。でも、可愛いところもあるんですよ、橘さん」
 あずみが楽しそうに笑いながら、信彦の背を背を叩いてくる。
 同じ会社の同じ部署、しかも席が橘の前ということで、あずみはいい情報を持っているらしい。もったいぶることなく、微笑ましいエピソードを披露してくれた。
「企画会議で、橘さんが宮脇さんと派手にやり合ったんです」
「……恋が人間変えるって、あれウソなのか。それとも、先輩には通じないだけか」
「いえ、やっぱり変えるみたいですよ。会議が終わったら、言われっ放しの宮脇さんより、言いっ放しの橘さんのほうが落ち込んでたんです。そうしたら、宮脇さんが慰めてて――。でも、橘さんは意地張って、そこでまた、宮脇さんが言われっ放しになって。すでに尻に敷かれちゃってますよ、宮脇さん」
「目に浮かぶ光景だなあ」
「でもね、宮脇さん、それでも優しい顔して橘さんを見てるんですよ。肩なんか叩いてあげたりして。橘さん、照れちゃってて。うー、いいなあ。あたしもあんなイイ男から、慰めてもらいたいなあ」
 あずみが身もだえながらそんなことを言うものだから、信彦は顔を強張らせる。すると、そんな信彦の顔をあずみが覗き込んできて、無邪気に笑いかけてきた。
「あたしが落ち込んだら、ここに来ていいですか? 橘さんと一緒じゃなくて、あたし単品で」
「単品……」
 さすがに、あの橘とやり合えるだけはある。あずみの感性も表現も、独特だ。
 乱暴に髪を掻き上げ、信彦は視線を足元に落とす。
「単品なら、落ち込んだときだけじゃなくて、楽しいときでも、怒っているときでも、なんでもないときでも、いつでも来てよ。……そうしてくれると、俺は嬉しい」
「――やっと口説いてくれましたね」
 さらりとあずみが言ったので、信彦は一瞬息を詰め、次に、やられた、と天を仰いだ。あずみは軽やかな声で、歌うように告げた。
「覚悟してくださいね。あたし、尻に敷いちゃうタイプなんで」
「……俺、尻に敷かれるほうが好きなんだ」
 負け惜しみのようだが、あずみに対してはこれは本音だ。幸せなら、一緒にいられるなら、なんでもいい。
 信彦は胸に広がる感動を噛み締めつつ、照れ隠しのように呟いた。
「先輩と宮脇さんって、どっちが先に好きだって言ったのかな」
 あずみは勢いよく立ち上がり、にんまり笑った。
「決まってます。尻に敷かれているほうですよ」
 なるほど、と妙に納得してしまった。
 宮脇はいまごろ、至上の幸せを堪能しているのだろう。
 今の信彦がそうであるように――。





 きれいな横顔だな、と悟史はぼんやりと思う。
 熱心にページを捲っている宮脇は、ドキリとするほど男の雰囲気を漂わせている。普段は穏やかで優しい空気でぼやかされてしまうのだが、実際宮脇は、ため息が洩れるほどの端正な顔立ちをしているのだ。
 悟史は冷めかけた紅茶を口に運ぶ。舌の上に柔らかく広がるのは、悟史の好きなアールグレイの芳香だ。
 ふと、目の前で宮脇が嬉しげな笑みを浮かべる。広げているのは通販カタログで、すかさず手に取ったのはポストイットだ。何か気に入った商品でも見つけたらしい。
 悟史と宮脇の関係において、もしかして最大の障害となるのは、共通の趣味である通販かもしれないと思う瞬間だ。
 想いを伝え合い、同じ気持ちで体を重ねたからといって、悟史は恋愛における溶けるような幸福感といったものは期待していない。だいたい、そんなものが存在するのかすら、知らない。
 今現在、宮脇と恋愛関係にあると考えるだけで、恥ずかしさで落ち着かない気分になるぐらいだ。
 そういえば、あずみと信彦は恋愛を満喫しているようだ。鈍い悟史にもわかるぐらい、つき合い始めた二人は楽しそうなのだ。
 もっともあの二人の関係は、あずみが信彦を尻に敷くことで成り立っているらしい。
 紅茶を飲み干し、することもなくなった悟史は、自分の部屋に帰ろうかと思う。そのとき、顔を上げた宮脇と目が合った。包み込むような眼差しが、まっすぐ悟史を捉えてくる。
「――紅茶、もう一杯どうです?」
「もういいです」
 こう答えると、宮脇が通販カタログを閉じる。悟史の目の前からカップを取り上げ、手早く洗ってしまった。手持ち無沙汰になった悟史は、所在なくイスに腰掛け直す。
 会社では傍若無人で、怪獣呼ばわりまでされる悟史だが、宮脇が相手だとそうもいかない。二人きりだとなおさらだ。穏やかなのに油断できない空気に支配される。
 二人の間で、その場での主導権は、一時間、一分、一秒と、油断なく行き来を繰り返している。今のところ、主導権は宮脇が握っている。
 こんなことにこだわるあたりが、同性同士の恋愛の弊害かと、悟史は内心でため息する。ときどき、宮脇に優しくされ続けると、反抗してみたくなるのだ。それは、悟史が男であるという証明のようなものだ。
 カップを片付けた宮脇が目の前に立つ。差し出された手を取ると、ベッドルームへと移動した。
 トレーニングマシンは処分され、ぽっかりと空いたスペースができている。何かを買うつもりらしい。ベッドに腰掛けながら悟史は、そんなことを漫然と考える。そうでなければ、正直、間がみたない。
 目を伏せると、待っていたように宮脇にそっと唇にキスされる。抱き締められると、心地よさに吐息が洩れた。
 大事に大切に、壊れ物でも扱うように宮脇は悟史に触れていき、服を脱がしていく。反対に、悟史は腰掛けたまま、宮脇のシャツを強引に脱がせた。悟史から宮脇にキスして、強引に舌を割り込ませて吸う。
 すぐに宮脇が悟史に覆い被さってきて、ベッドに倒れ込む。大きなてのひらがいつになく手荒く悟史の体をまさぐり始めた。
 声を出すものかという悟史の決心は、ものの五分も持たなかった。
 微かな声を洩らしながら、悔し紛れに宮脇の肩に歯を立てる。低い呻き声が一度だけ上がった。


「――怖い、と思ってしまうんですよね」
 ようやく呼吸を落ち着けてから、悟史は隣の男にそう声をかける。艶っぽい横顔を見せていた宮脇が、体ごと悟史のほうを向いた。こうも見つめられると照れてしまうが、言い出した手前、仕方ない。
 宮脇は気遣うような表情を浮かべた。
「すみません。乱暴でしたか?」
「うっ……。いえ、その、宮脇さんとの行為そのもののことを言ってるんじゃなくて――」
 これまで生きてきて、こんなにアダルトな内容の会話は初めてかもしれない。ある意味、恋愛の醍醐味だ。
 悟史は汗に濡れている髪を掻き上げつつ、懸命に言葉を模索する。すると宮脇に前髪を撫でられた。
 その優しい感触に促されるように悟史は話し始める。
「女の人なら、好きな男に抱かれるとき、怖いなんて思わないだろうなとか、考えるんですよ。おれは男だけど、宮脇さんは実際優しいですし……」
「橘くんは、ぼくが怖い?」
「――……押し潰されるかもしれない、と考えるんです。体ごと、心もプライドも、男としての意地とかも。何もかも、なくなりそうで……。実際は、そんなことないんですけど」
「橘くんがそう思うのも、無理ないかもしれませんね」
 吐息を洩らすように宮脇は笑う。その表情に、鎮まりかけていた欲望が刺激され、少し悟史は戸惑う。これは、男としての仕方ない衝動だ。
「初めてのとき、君がぼくを抱いていても、少しも不思議じゃなかった。いままでも」
 引き寄せられ、宮脇の胸に体を預ける。好きにしていいと、暗に示されているのだ。
 悟史は宮脇の唇にキスして、首筋や胸元に唇を押し当てる。不思議だが、宮脇の肌に触れているうちに欲望はどこかにいってしまい、悟史は心のどこかでほっとする。
 宮脇の胸に顔を伏せ、笑い声を洩らした。
「……なんか、いいですね」
 宮脇の手が肩にかかる。素直に、与えられる温かさが心地よく、安心できる。自分の場所はここしかないと、痛感させられた。
「通販カタログを難しい顔して眺めていた人と、今は性について哲学しているなんて、なかなか、できませんよ」
「――なんでも話し合える恋人同士、というのは、都合よく解釈しすぎですかね」
「そうです。恋人同士ですよ、おれたち」
 だから、他人からすれば、戯言にしか聞こえないような会話を大真面目に交わしながらも、こんなにも楽しい。この楽しさは、幸福感に直結している。
 これがつまり、宮脇との関係を表している。
 顔を上げ、宮脇と唇を啄ばみ合う。両手を重ね、強く握った。
「なんでもいいです。二人が一緒にいる形なんて。おれはどんな形でも、満足です」
「だったらぼくは、もっと欲張りですね。満足以上のものを見つけようとしていますから」
「……通販カタログには、載っていないと思いますよ」
「あはは。君と二人で、気長に見つけていきますよ」
 君とじゃないと意味がない――。
 宮脇にそう囁かれると、意識が遠のきそうになる。
 いい性格してますね、と憎まれ口を利きながらも、悟史の理性はあえなく宮脇の胸の上で溶けた。
 宮脇を怖いと感じるのは、もしかすると自分と宮脇の関係が対等であることを証明しているのかもしれない。対等だから、張り合いたくなるし、反発もしたくなる。
 とりあえず今は、そう考えることにする。
 主導権はいつでも、悟史が取り戻すことができるのだから――。







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