いつもより多い荷物を手に、貴之は真壁古書店を訪れる。引き戸を開けると、すっかり違和感を覚えなくなった埃くさい空気に包まれた。
外も寒いが、店内の温度もさほど変わらない。軽く身震いした貴之に、レジのカウンターのほうから声がかかった。
「――もう少し待てるか?」
聞きようによってはぶっきらぼうな、だけど温かみも感じることができる声の主に、貴之はゆっくりと視線を向ける。
カウンター内に座った真壁が、暇そうに頬杖をついて文庫を開いていた。歩み寄ると、ほんのりと暖かい。カウンターの側にストーブが置いてあるのだ。あくまで、客のためではなく、店員のために置かれているのだ。
この店は二階までの吹き抜けとなっているので、少々の暖房器具を入れたところで役に立たないので、ある意味、自分だけ温まるのは、効率的ともいえる。
「あと十分もしたら、店を閉める」
真壁の言葉に頷きながら、貴之は一階を見渡す。見る限り、客はいない。いつものことだが――。
貴之の心の中でのツッコミが聞こえたのか、真壁がすかさず言った。
「今日は店は大繁盛。やっと客が引けたところだ。……一応、閉店時間まで店は開けておかないとな」
「……何も言ってないだろ」
「お前が言いそうなことはわかる。誰よりも、この店の経営状態を心配してくれているからな」
ニヤリと笑いかけられ、知らず知らずのうちに貴之の顔は熱くなってくる。真壁とのつき合いは、春がくれば一年になるのだが、いまだに自分だけが一方的に、真壁に翻弄されているような気がする。
「別に、心配なんてしていない」
そう応じた貴之は、カウンターの傍らに置かれたイスに腰掛け、持っていたブリーフケースと紙袋を足元に置く。
雑談のつもりなのか、急に真壁が切り出した。
「――貴之、今日がなんの日か知っているか?」
やけに得意げな真壁の顔を一瞥して、貴之は冷ややかに答える。
「バレンタインだろう」
失礼なことに、真壁は大仰に目を見開き、驚きを表現した。
「お堅い大学助教授でも、バレンタインなんて知ってるんだな」
「それを言うなら、こっちだ。古本屋の若旦那こそ、バレンタインと縁遠いだろう。ああ、近くの商店街で、バレンタインセールでもやっているのか」
言おうと思えば、貴之もそれなりの皮肉を返すことができるのだ。しかし真壁は、余裕たっぷりの様子でニヤニヤと笑っている。
「……なんだ。言いたいことがあるならはっきり言え」
貴之の言葉に、待ちかねていたように真壁がスーパーの袋を取り出し、カウンターの上に置いた。見てみろ、と言われ、貴之は訝しみながらスーパーの袋の中を覗き込む。
「これ……」
そこには、いかにも『それらしい』ラッピングがされた箱がいくつか入っていた。大きさや、ラッピングにつけられたリボンからして、明らかにバレンタインのチョコレートだ。
「俺はモテるんだよ。今日は開店したときから、チョコレートを手にした女の子たちが何人も来て、俺に手渡ししてくれた」
貴之は顔を上げ、子供みたいに自慢げに話している真壁を見つめる。すかさず、真壁がこんなことを聞いてきた。
「妬けるか?」
意外に子供っぽいところがあるのだなと思いながら、貴之は冷静に指摘してやった。
「情緒がない男だな。せっかくもらったチョコレートを、使い古しのスーパーの袋に入れているなんて」
「……お前が気になるのはそこか」
「お前のファンの『おばさま』方に嫉妬しても仕方ないだろう」
「若い子もいるぞ」
「よく絵本を買いに来る幼稚園の『お嬢さま』か?」
きまり悪げに真壁は頭を掻いて黙り込む。その様子を見て、顔を背けた貴之は噴き出したいのを必死に堪える。
実際のところ、真壁が女性からモテるのは事実だ。このチョコレートの中には、年頃の女性から渡されたものもあるだろう。気にならないといえばウソになるが、貴之はそのことを責めるつもりはなかった。
正確には、責める権利がない。
「その数でモテるということになるなら、わたしは大変だな……」
貴之の呟きに、真壁が目を丸くする。
「おい、何を――」
貴之は、持ってきた紙袋をドサッとカウンターの上に置く。立ち上がった真壁が慌てて紙袋の中を覗き、次に貴之の顔をまじまじと見つめてきた。
「なんだ、この数のチョコレートは……」
「モテるだろう?」
「そんなこと聞いてねーよ」
ムキになって答える真壁がおかしくて、貴之はまた噴き出しそうになる。明らかに真壁は焦っているのだ。
不機嫌そうな様子を隠しもせず、真壁が問いかけてくる。
「――どういうことだ、これは。お堅い助教授っていうのは表の顔で、特定の学生には甘い顔を見せてるんじゃないのか?」
貴之はカウンターにもたれかかると、身を乗り出して真壁に顔を近づける。
「妬けるか?」
すると真壁もカウンターに身を乗り出し、息が触れ合うところまで接近してきた。これには貴之のほうが動揺し、急いでカウンターから離れる。引き戸にカーテンもしていないので、店を覗き込む人でもいれば、すぐに二人の姿が見えてしまう。
「貴之、答えろ」
思いがけず真剣な声で真壁に言われ、貴之はこれ以上からかうのはやめておく。
「学生の女の子たちからもらったんだ。彼女たちにしてみれば、安上がりなご機嫌うかがいだろう。せっかく買ってきてくれたのに、つき返すのも悪いしな」
「……意外だな。こういうものは受け取らない主義かと思っていた」
「去年ならそう思っていたが、残念ながら去年まで、チョコレートを持ってくる学生なんて皆無だった。今年初めてだ。チョコレートをもらったのは」
ふうん、と意味深に声を洩らした真壁が、紙袋の中を探りながら言った。
「つまり今年は、受け取ってもらえそうだと女の子たちが思うぐらい、お前に変化があったということだな」
「何が言いたい」
「人間が丸くなったんじゃないか、ということだ」
誰のおかげで、と考えるまでもない。貴之の返事を期待しているのか、真壁がじっと見つめてくるが、慎みという言葉を知っている貴之はふいっと顔を背ける。
「さあな」
「――……素直じゃないのは相変わらずか」
思わず真壁を睨みつけたが、当の真壁はストーブの火を消している最中だった。
「親父さんは?」
「用があるとかで、先に帰った。だから、上でのんびりできる」
真壁の言葉に変なことを想像したわけではないが、気恥ずかしくなる。この古書店の二階には奥に作業用の部屋があり、二人はよくそこで会っているし、ときには泊まったりもしているのだ。つまり、二人にとっては大事な場所ということだ。
熱くなった頬を撫でていると、ストーブの火が消えたことを確認した真壁が勢いよく立ち上がり、顔を覗き込んでくる。
「先にメシ食いに行くぞ」
「あ、あ……」
促されるまま店を出ようとした貴之だが、真壁に呼び止められて振り返る。なぜか、カウンターの上の紙袋を指さしていた。
「これも持っていけ」
「どうしてだ?」
「当然の権利として、お前に本気で恋慕している子がいないかチェックする」
今日の真壁はおもしろいと思いながら、貴之はわかりきっていることを尋ねた。
「権利って、なんの権利だ」
「――恋人の権利だ」
あまりにきっぱり答えられ、聞かなければよかったと貴之はちらりと後悔した。
店の近くの定食屋に入って注文をすると、真壁はさっそく紙袋の中のチョコレートをテーブルに一つずつ出し始めた。
「これだけの量があると、ホワイトデーが大変だろ。くれた子の名前は全部覚えているのか?」
周囲にいる客たちが、何事かといった目で見ているのが気になる貴之とは対照的に、真壁はチョコレートだけに集中している。
「全員、名前を控えてある。……そんなに真剣に見ても、相手が本気なんてわかるわけないだろう。そもそも、みんな挨拶としてくれたようなものなんだから」
ここで、真壁が一つの包みを取り出した。やけに目立つ大きな箱で、貴之もその包みを誰がくれたのかは覚えていた。
「……知ってるか。この店のチョコレート、高いんだそうだ。昨日ちょうど、テレビでやっていた。チョコレートのくせに、これぐらいで一万円するらしい」
「そんなにするのかっ。あいつ、そんなこと言ってなかった――」
つい感情的に口走った貴之は、すぐに我に返る。真壁が、怖い顔でこちらを見ていた。
貴之はイスに座り直すと、落ち着くために水を一口飲む。その間も、真壁はじっと見つめ続けてくるため、息苦しくて仕方ない。結局貴之は、何も聞かれないうちに、口を開いていた。
「そのチョコレートは、違うからな」
「何が違うんだ」
「――……くれたのは、男子学生だ」
俺も便乗してみました、と言って、無理やりチョコレートを押し付けてきた隼人の顔を思い出す。あのとき追いかけてでも返すべきだったと悔やむが、もう遅い。
真壁は呆れた顔で、高級だというチョコレートの包みを眺めている。
「こういうチョコレートを贈ってくる男子学生のほうがヤバイだろ。お前の場合は」
「ヤバイとは、どういう意味だ」
「冗談で、男子学生がバレンタインに、お堅い助教授に対して、一万円もするようなチョコを贈ると思うか?」
隼人は少し普通ではない学生だが、真壁にあれこれ説明できる関係でないのは確かだ。貴之は過去に隼人と――。
今思い出しても頭を抱えたくなってきて、貴之はため息をつく。
「きっと、誰かにもらったものを、わたしに回してきたんだろう」
「――開けていいか? まだ何か、隠し玉がある気がする」
嫌、と言いたかったが、真壁の怖いほど真剣な顔を見ると、そんなことは口が裂けても言えない。貴之は力なく頷き、真壁はきれいなラッピングを剥がし始める。
ビリビリという紙が破れる音が、まるで悲鳴のように聞こえる。
「あら、祥ちゃん、そんなにチョコもらったの? 相変わらず女の子に人気あるわねー」
頼んだ定食を運んできた中年の女性店員の言葉に、真壁は顔も上げないまま応じた。
「いや、このチョコ全部、俺の連れがもらったやつだよ。大学の先生していて、学生にモテてるんだ」
そう言って真壁が貴之を指さす。女性にまじまじと顔を覗き込まれ、つい視線を伏せた。
「祥ちゃんよりもモテるの?」
「俺よりは少し劣るかな」
本気と受け取ったのか、冗談と受け取ったのか、女性は派手に声を上げて笑いながら、定食を置いて次のテーブルに行ってしまう。
貴之は、テーブルの下で真壁の足を軽く蹴った。余計なことを言うなという意味だ。その反面、『連れ』という響きに胸をくすぐられてもいた。
「真壁、確認するのはあとにして、先に食べないと冷める――」
スッと目の前に何かが差し出される。箸を手にしようとしていた貴之は何事かと思い、箸の代わりに、差し出されたものを受け取った。
よりによって、ハート型のメッセージカードだ。
「悪ふざけが過ぎるぞ、あいつはっ……」
しかも、そのカードには、とんでもない文面が綴られていた。
『そろそろ俺の気持ちも受け取ってみませんか? 九条先生』
全身の力が抜けていきそうだ。一方の真壁のほうは、全身から怒気が立ち上っている。目が合うと、鋭い眼差しを向けられた。
「ずいぶん、想われているようだな」
何か言うと、さらに事態が複雑になっていきそうで、貴之は聞こえなかったふりをして食事を始める。遅れて真壁も、黙って箸を手にとり、黙々と定食を食べる。
痛いほどの沈黙は、食べ終えたあとも続いた。
店に戻るまでの間、貴之は真壁の背を見つめ続けていたが、紙袋の一番上にある隼人からもらったチョコレートに視線を落としてから、やっと口を開く。
「……真壁、今日はもう帰る」
しかし真壁は何も言わず歩き続け、返事がないため貴之もあとをついていかざるをえない。
「真壁、聞こえているんだろう? 返事をしろっ。わたしは帰るからなっ」
店の鍵を開ける真壁に今度は怒鳴ってから、貴之はその場を離れようとする。すると、すかさず手首を掴まれ、引き戸を開けた真壁に強引に店の中に押し込まれてしまった。
乱暴に引き戸が閉められ、中から施錠してカーテンを引いた真壁に引きずられるようにして二階に連れて行かれそうになる。
反射的に抵抗した貴之だが、階段に積み上げた本を倒してしまいそうで、真壁の手を振り払うことができない。結局、おとなしく二階に上がっていた。
奥の部屋まで行き、電気をつけた真壁がやっとまともに貴之を見る。激しい眼差しを向けられ、急に怖くなった貴之は部屋を出ようとしたが、肩を掴まれて引き寄せられる。その拍子に、持っていたブリーフケースと紙袋が手から離れ、畳の上に落ちる。紙袋から飛び出したチョコレートの包みが、辺りに散らばった。
この場の雰囲気に、華やかなラッピングはひどく不釣合いに見える。
「何を怒っているんだ、お前は」
貴之が低い声で問いかけると、真壁にあごを掴み上げられた。
「お前、本気でそんなことを言ってるのか? 俺が怒っている理由がわからないのか?」
視線をさまよわせた貴之は、言い訳のように答える。
「……彼なら、本当に単なる学生だ。確かに……際どい冗談はずっと言われ続けているけど、わたしは本気にしたことはない」
「でも相手は本気、ってことか?」
「そんなことは、わからない……」
荒く息を吐き出した真壁にふいにきつく抱き締められ、貴之は目を見開く。
「真壁――」
「いままで、バレンタインなんて行事、バカにしてたんだけどな。まさか、たかがチョコ一つで、俺がこんなに嫉妬することになるなんて思いもしなかった」
思いがけない言葉に、貴之は慌てて真壁の顔を覗き込む。心底嫌そうに真壁は顔をしかめた。
「なんだ。俺が嫉妬したのが意外、って顔して」
「当たり前だ。お前がこんなこと言うなんて……」
「お前がこんなにモテるなんて、俺の想定外だった」
憂鬱そうな声で洩らした真壁を見つめていた貴之だが、そのうち、おずおずと両腕を広い背に回し、しっかりとしがみつく。
「……お前だって、チョコレートをもらっていたじゃないか」
「バカ、俺はいいんだ。近所のおばちゃんや、子供にしかもらわないからな。――お前が心配しそうな相手からは、受け取ってほしいといわれても、断った」
「自惚れてるな、わたしが心配するなんて」
そう言って、貴之は真壁と顔を見合わせ、互いに苦笑を洩らす。そして今度は、しっかりと抱き合った。
「――お前が心配しているチョコレートは、わたしが同じものを買って彼に返す」
貴之の言葉に、真壁はぼそぼそと応じた。
「いや、俺が買ってくるから、お前はそれを渡せ」
「それは、どういう意味があるんだ」
「意味はない。気持ちの問題だ」
よくわからない、と口中で呟いた貴之の髪を、真壁は無骨な優しさで撫でてくれる。しばらくそうしていたが、ぶっきらぼうな声で真壁に言われた。
「せっかくだから、お茶を淹れてきて、チョコでも食うか」
「ああ……」
口元に笑みを浮かべながら、貴之はそう答えた。すかさず、真壁がとんでもないことを忠告をしてくる。
「浮気するなよ」
「……一応、自分が本命だと自覚はあるんだな」
「当然だ」
貴之は、おもむろに真壁の足を踏みつけた。
Copyright(C) 2007 Nagisa Kanoe All rights reserved.
無断転載・盗用・引用・配布を固くお断りします。