− 微笑む悪魔 −
久しぶりに日本に戻ってきた弟の廉は、空港で出迎えた聖の顔を見るなり、戸惑ったように視線を伏せてから、次の瞬間には控えめな笑みを向けてきた。
「ただいま、兄さん」
顔を合わせたのは二年ぶりだ。しかし、懐かしいという感情は湧かなかった。
聖は冷静に廉を見つめる。昔から、顔立ちがよく似た兄弟だと言われ続けてきた。実際、その通りだろう。
だが、それだけともいえる。持って生まれた性格はまるで違い、性格の違いが雰囲気に出ている。
おっとりとして従順で、まるで他人に逆らうということもなかったし、怒ることも滅多になかった。それが、聖の弟である廉という人間だ。
そうであると、二年前のあのときまでは思っていたのだ。
廉の斜め後ろには、まるで影のように長身の美貌の男が立っていた。
元神父。今は、悪魔か。
聖は冷ややかな微笑を悪魔――ではなく、首藤に向けると、二人に軽く手招きする。
「ついてこい。車を用意してある。二人とも、葛井の家に泊まればいい」
「でも兄さん……」
「おれ以外、あの家には誰もいないんだ。日本にいる間、二階は好きに使え」
母親は、半年前に亡くなった。電話でそのことを、スペインに住んでいる廉に伝えはしたのだが、廉は帰国しなかった。伯父の法事という行事がなければ、こうして兄弟で顔を合わせることもなかっただろう。
半ば強引に廉と首藤を車に乗せると、聖はまっすぐ自宅に向かった。
母親がいなくなった実家の雰囲気に、廉は最初、落ち着かない様子で歩き回っていたが、首藤に肩を抱かれて耳元に何か囁かれると、はにかんだような笑みを見せた。
コーヒーカップに口をつけながら、聖は仲睦まじい二人のそんな姿を観察する。
他人に触れられることを極端に嫌っていた廉だが、それも昔の話らしい。
二年前、まだ神父だった首藤は、誰とも肌を重ねたことのなかった廉の体だけでなく、心まで奪った。
あのとき聖がまっさきにイメージしたのは、カソックを着た悪魔が、清らかな天使を組み敷いた姿だ。
あながち、そのイメージは間違っていないかもしれない。
廉の肩を抱いたまま、穏やかに微笑む首藤の目が、ちらりと聖を見る。このとき、首藤の目に残酷な光が浮かんだのは、気のせいではない。
首藤はやはり、廉以外にとっては悪魔と呼ぶのに相応しい存在なのだ。
「……嫌な男だ」
かつて、首藤に向かって投げつけた言葉を、聖は小さく呟く。
久しぶりに兄弟が揃ったところで、会話が弾むこともなく、和やかな雰囲気とも無縁なまま、時間は過ぎていた。
聖は一階、廉と首藤は二階に上がり、そして夜は更けていく。
遅くまで仕事をしていた聖は、時計を見てからやっと、パソコンの電源を落とす。
無理して今夜進めておかなければいけない仕事ではないが、この家に今は廉がいるのかと思ったら、眠れないのだ。
ベッドに入ろうとした聖は、微かな物音を聞いて咄嗟に天井を見上げる。真上は、廉の部屋だ。
素早く事情を察し、聞こえなかったことにしようと思った聖だが、なぜかそのままベッドには入れなかった。
舌打ちしてから部屋を出ると、足音を抑えながら二階に続く階段を上がっていく。自分は何をしようとしているのか、自問しながら。
廉の部屋の前まできて、奥の部屋のドアが開いていることに気づく。そこは首藤に使わせている部屋だ。
ドアが開いている意味を、あえて考えるまでもない。
聖はなんのためらいも覚えず、廉の部屋のドアをそっと開く。薄ぼんやりとした明かりが、廊下へと伸びる。
ドアの隙間から室内を覗き込むと、まず目に入ったのは、壁に映る絡み合う二人の影だった。軽く息を詰め、聖はベッドの上に視線を移す。
廉は――聖の弟は、悪魔に裸の体を組み伏せられていた。
もちろん、無理やりでないのは明白で、サイドテーブルのライトで照らし出される聖によく似た顔は、羞恥と愉悦の入り交じった艶かしい表情を浮かべていた。
その表情を目にした途端、聖の胸の奥が甘く疼く。
「くっ、うぅ……ん」
仰け反りながら廉が鼻にかかった声を洩らす。そんな廉の喉元に唇を押し当ててから、首藤は白い胸元にてのひらを這わせ、次いで顔を埋めた。
「あぁっ」
首藤が舌先で、廉の胸の突起をくすぐるように舐める。廉は嫌がるどころか、甘えるように首藤の頭を両腕で抱き締めた。
首藤が突起を口腔に含み、濡れた音を立てながら吸い、ときおり歯を立てて引っ張り上げている。
一方で、片手は廉の両足の間に這わされ、熱心に廉の分身を扱き始める。
「廉……」
深みのある声で廉を呼んだ首藤が、熱を帯びた眼差しで廉の顔を覗き込み、応じるように微笑んだ廉と唇を貪り合う。
唇を離すと廉はうつ伏せにされ、抱え上げられた腰を突き出した挑発的な姿勢を取らされた。
廉の痴態を目にして、聖は怒りにも似た狂おしい感情を自覚していた。今にすぐにでも部屋に飛び込み、この家で恥知らずなことをするなと、怒鳴ってやりたい。
そう思うのに、聖の体は動かず、廉の反応を、切なげにシーツを手繰り寄せる指の動きすら目で追ってしまう。
「んあっ……」
廉の前方を片手で巧みに愛撫しながら、首藤のもう片方の手の指が、廉の秘密を暴くように内奥へと挿入された。
誘うように廉の背がしなり、首藤は目を細めながら、揺れる廉の腰に唇を押し当て、内奥から指を出し入れする。
「は、あぁ――。しゅ、と……。そんなふうに、されると……、声、出るから」
「出してください。そしてわたしに、今日はどこが感じるのか、教えてください」
首藤は指で丹念に、廉の内奥を蕩けさせていった。内奥の粘膜を擦り立てる湿った音が、声も出せないほど感じている廉の嬌声のように、聖には聞こえる。
顔を伏せた廉は、背をしならせ、とうとう首藤に腰を押し付けるようになる。
首藤の横顔に笑みが浮かぶ。優しい手つきで廉の後ろ髪を撫でてから、己の欲望で廉を貫いた。
「うああっ」
廉の甲高い悲鳴を聞いた瞬間、聖の中に衝撃が走る。
優しく髪を撫でていた男とは思えない激しさで、首藤が廉の腰を掴んで揺さぶる。
顔を上げた廉が、緩く首を振った。
「あっ、あっ、ダ、メ、首藤っ……。兄さんに、気づかれ、る」
「でも、そう考えることで、あなたはひどく興奮するでしょう? 中が、いつになく淫らに蠢いてますよ。――もっと想像してみるといい。感じているあなたの声が、今この瞬間、一階の聖さんに届いているかもしれない、と」
こう言った首藤が、なんの前触れもなくこちらを見る。
ドアの隙間から覗いていた聖と目が合い、薄く笑いかけてきた。聖の気持ちと体の熱を見透かしたような、残酷な笑みだ。
「ほら、あなたの中が物欲しげにわたしを締め付けてくる。やっぱり、興奮して、感じているんですね」
淫らに囁きながら首藤の片手が廉の高ぶりを弄び、少し間を置いてから、廉の体が弛緩したのがわかった。
首藤の手の中で、絶頂を迎えたのだ。
聖はふらりと後退り、そのままやはり足音を抑えて一階へと下りる。
自分の部屋には戻らず、ダイニングに入ると、迷うことなくワインを取り出し、グラスに注ぐ。一気に飲み干した。
電気もつけないまま、どれぐらい一人で飲み続けていたか、首藤もダイニングにやってきた。
テーブルについた聖を見ても驚いた様子はなく、それどころか笑いかけてくる。
「わたしもいただいていいですか」
聖は指先で食器棚を示し、首藤はそこからグラスを出した。向かいのイスに腰掛けた首藤に、聖はワイン瓶を押し出す。
「――廉がいつだったか、お前のことを悪魔だと言ったことがある」
「あなたもそう思いますか?」
「少なくとも、お前がおれの従兄弟だという現実より、素直に認められるな」
忌々しいが、聖と廉にとって、首藤が従兄弟だというのは事実だった。
首藤は薄い笑みを浮かべたまま、自分でワインをグラスに注ぎ、ゆっくりと飲む。異国の血が交じった秀麗な男の顔を眺めながら、聖は心の底からの言葉を洩らした。
「おれは、お前が嫌いだ」
「あなたの大事なものを奪ったから?」
「お前が現れるまで、廉に触れられたのはおれだけだった」
「でも、そんな彼を、あなたは大事にしなかった。それどころか、利用した」
首藤を睨みつけて聖だが、すぐに喉の奥から笑い声を洩らす。
「そうだな。おれは、廉を利用した。二年前は廉よりも、お前の父親の遺産のほうが魅力的に見えた。どうせ継いでしまえば、おれと廉のものだ、と思ってもいたしな」
二年前、もう少し違う対応をしていれば、今のこの状況は変わっていたのだろうか。
ふとそんなことを考えた聖は、何もかも見透かしたような首藤の目から逃れるように立ち上がる。
首藤の目は、聖にとって悪魔の目そのものだ。隠したものすら暴かれてしまう。
「……好きに飲んでろ」
「そうですね。しばらく、ここにいさせてください」
勝手にしろと言い置いてダイニングを出た聖は、再び二階に上がる。
ノックもせず廉の部屋のドアを開けると、思った通り、廉は疲れきったようにぐったりとして眠っていた。
聖はじっと廉の寝顔を見下ろしていたが、誘われるようにベッドの端に腰掛けて、廉の前髪をそっと掻き上げる。廉の寝息は規則正しいままだ。
髪を撫でてやりながら、廉の心も体も首藤という悪魔のものなのだと実感する。
指先で軽く廉の唇をなぞってから、聖は廉の上に体重をかけないように覆い被さる。
さきほどまで首藤が貪っていたであろう廉の唇に、聖は自分の唇をそっと重ねた。違和感などない、自分と血を分けていると、理屈ではなく細胞が感じる廉の唇の感触だ。
キス一つで、悪魔から廉を取り返せるとは思っていなかった。
ただ聖は、自分がとっくに失ってしまったものの温かさを感じながら強く思うのだ。
やはり首藤は嫌いだ、と。
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