玄関に足を踏み入れた和彦は、意外なものを目にして思わず動きを止めていた。
物騒な男たちが常時出入りし、寝泊りもしている長嶺組の本宅は、だからこそ手入れが行き届き、つねに磨き上げられている。ただ、男所帯ということもあって、彩りには欠けている。普段は。
和彦は下駄箱に歩み寄り、花瓶に活けられた花を間近から見つめる。濃いピンク色の小さな花がいくつも枝についており、なんとも可憐だ。三月に入ったとはいえまだまだ気温は低いのだが、ささやかに春の訪れを実感する。
「桃の花か……」
ぽつりと呟いた和彦は靴を脱ぎ、アタッシェケースを組員に預ける。ダイニングに向かいながら、つい口元を緩めていた。
大蛇の化身のような男が生活しているこの家に、愛らしい花を活けてあるギャップが、どうしてもおかしいのだ。
一体誰が、何を思って桃の花を選んだのか――という疑問は、まもなく解けた。
「玄関の花といい、どうしたんだ、今日のこの家は……」
テーブルの上に置かれた大皿に、彩りも鮮やかなちらし寿司が盛られているのを見て、和彦は率直に言葉を洩らす。本宅の台所を任されている笠野が、いかつい顔に満面の笑みを浮かべた。
「その口ぶりだと、先生、今日がなんの日か気づいてないでしょう」
「なんの日って――」
ここで和彦は、あっ、と声を洩らす。
桃の花とちらし寿司という組み合わせで、遅まきながら今日が三月三日だということを思い出したのだ。いや、日付自体は認識していたのだ。だが、男である自分にはまったく関係ない日だとも、認識していた。
よほど変な顔をしてしまったのだろう。笠野がとうとう声を洩らして笑い出す。
「いい反応ですね、先生。準備した甲斐がありますよ。毎年のことなので、今じゃもう、誰も驚いてくれなくて」
笠野に促されるまま、コートを脱いだ和彦はテーブルにつく。
「……この家が、行事ごとに几帳面なのはわかっているつもりだが、まさか、桃の節句まで祝っているのか?」
呆れた口調で和彦が言うと、まさか、と笠野は首を横に振る。
「さすがに、そこまでは。桃の花を飾ったり、こんな料理を作ってはいますが、桃の節句を祝っているわけではないんですよ。いや、厳密に言うと、まったく祝ってないというわけじゃないんですが」
「歯切れが悪いな。ぼくは別に、ヤクザの組長宅で桃の節句を祝ったところで、とやかく言うつもりはないぞ」
密かに笑ってしまうかもしれないが――。心の中でこっそりと付け足すと、なんの前触れもなく背後から声をかけられた。
「――そんなに知りたいなら、俺が説明してやろう」
魅力的なバリトンの響きに、ゾクリとするような疼きが背筋を駆け抜ける。慌てて和彦が振り返ると、今晩本宅で夕食をとるよう連絡してきた本人が、着物姿で立っていた。
唇を動かしかけた和彦を手で制して、賢吾は笠野を見る。
「晩メシを、俺の部屋に運んでくれ。それと、白酒も。――先生、ついて来い」
賢吾に呼ばれ、和彦は立ち上がる。てっきり賢吾の部屋に向かうのかと思ったが、まず立ち寄ったのは、和彦が本宅に宿泊するときにいつも使っている客間だった。
「ぼくは今夜は泊まらないからな」
「それは残念だ。だがまあ、中を見ておけ」
賢吾に促され、客間を覗く。文机の上に大きな花瓶が置かれ、やはり桃の花が活けられていた。華美な調度品を置いていない部屋だからこそ、桃の花の色彩の鮮やかさが際立つ。クリニックでの仕事を終えて疲れていたのだが、いくらか気持ちが和らいでいた。
和彦は小さく吐息を洩らしてから、賢吾を振り返る。その賢吾に軽く背を押され、客間に入る。
「昔、この家にも、立派な雛人形を飾っている頃があったんだ。代々伝わる、由緒正しい品ってやつだ」
「えっ?」
目を丸くした和彦の反応に満足したのか、賢吾はニヤリと笑う。
「俺のお袋が、嫁入り道具として持ってきたものだ。普段は、怖い男連中が集まるときに使う大広間が、この時期だけは、様子が一変する。長嶺の家に一人だけいる〈女〉が占領しちまうんだ。そりゃもう、立派な雛壇だった。人形から小物まで、全部お袋が一人で丁寧に並べていくんだ。男たちに手伝わせることは絶対なかった」
「……あんたにも?」
「俺なんざ、近づくなとまで言われていた。――厳しい人だった。いつも着物を着て、スッと背筋を伸ばしている姿を、今でも覚えている。ヤクザ者として後ろ指をさされる生き方をするからこそ、礼儀作法だけはしっかりしておけと、口うるさく言われたもんだ。まあ、お袋なりの愛情だったんだろうな」
そう語る賢吾の口調は、柔らかだった。母親の記憶は、賢吾にとって嫌なものではないのだろう。もしかすると珍しい場面に立ち合っているのかもしれないと思いながら、和彦は話に耳を傾ける。
長嶺の〈男〉のことはよく知っているのだが、その男と結婚した〈女〉のことをこうして教えてもらうのは初めてだった。前に、千尋がちらりと洩らしたことはあったが、詳しく尋ねるのは憚られたのだ。
「長嶺は、古くから続くヤクザの家だ。昔は、今ほど法律が厳しくなかったおかげで、顔役として表に出ることもあった。旧家のお嬢様だったお袋が、オヤジと結婚したのも、切るに切れない家同士のしがらみがあったからだ。立派な雛人形を飾り続けたのは、お袋なりの意地だったのかもしれねーな。オヤジも苦笑いしながら、雛祭りのときぐらいはお袋の好きにさせてやれと言っていたもんだ。男連中は、その時期は身の置き場に困っている様子だったな」
「話だけ聞いていると、なんだか楽しそうだ」
「そうかもな。俺だけじゃなく、オヤジも。そうじゃなかったら、お袋と別れたあとも、雛祭りの日に、桃の花を毎年飾ったりはしないだろ。お袋の意地を、オヤジなりに可愛いと思っていたのか……」
そして、跡を継いだ息子までもが、律儀に桃の花を飾っているのだ。
桃の花に視線を向けた和彦は、つい笑みをこぼしていた。すると賢吾に肩を抱かれ、顔を覗き込まれる。
「ヤクザが似合わないことを言っているなと思ってるだろ、先生」
「そんなことは思ってない。ただ、不思議な感じがしたんだ。あんたにも子供の頃があって、両親がいて――」
「昔の話だ。俺がその子供の頃に、お袋はオヤジを見限って出て行った。そして今度は、家のしがらみに縛られない相手と再婚したそうだ。俺には、顔も見たことのない異父弟妹がいる。雛人形は、その妹が継いだだろうな」
口調同様、賢吾の表情は柔らかだった。桃の花を眺めていたはずが、いつの間にか和彦は、賢吾の顔をじっと見つめていた。それに気づいた賢吾が、そっと目を細める。
「そう、物珍しそうな顔をするな、先生。俺だって、木の股から生まれたわけじゃねーんだ。……どうしたって、何十年も会ってないと、思い出は美化される。俺の記憶には、お袋と雛人形がすり込まれちまってるんだ」
「だから、雛祭りに桃の花を?」
「習慣だ。オヤジがずっと続けていたから、俺も。こういう習慣を自分の代でやめると、縁起がよくない気がしてな」
これこそ、ヤクザが似合わないことを言っているなと思ったが、口には出さない。思い出話をしている賢吾に対して、無粋なマネはしたくない。そんな和彦の気持ちが伝わったのかどうなのか、賢吾がふいに顔を近づけてくる。一瞬、唇を塞がれるのかと身構えたが、賢吾の唇が触れたのは、和彦の髪だった。
そのまま甘い雰囲気に流されてしまいそうになり、寸前のところで我に返る。和彦は内心でうろたえつつ、さらに質問をした。
「それで、どうして桃の花がこの部屋に? 雛人形を飾っていたのは、大広間なんだろ」
「――ここは、お袋が使っていた部屋だ」
ハッとして、思わず顔を上げる。
「とはいっても、長い間にこの家も、改築や増築もしたから、ずいぶん様子は変わったがな。聖域というほど立派なもんじゃなく、そうだな……、特別な人間に使わせる部屋、といったところだ。だから先生にふさわしい」
こういうとき、どういう顔をすればいいのだろうかと、戸惑った和彦は視線を伏せる。髪にかかった賢吾の息遣いが笑ったように感じたが、わざわざ確かめる気にはならなかった。
「……母親と、会いたいと思わないのか?」
沈黙では間がもたなくて、また質問をしてしまう。賢吾の手に、ジャケットの上から肩先を撫でられた。
「俺にとっての母親は、記憶の中で懐かしむ存在だ。――今は、可愛い〈オンナ〉がいるしな」
「人を複雑な心境にしてくれる言葉だな。そんなことを言われても、ぼくはまったく嬉しくないからな」
「本当か?」
突然、真剣な口調で問われて、返事に詰まる。この時点で、和彦の負けだ。いつまでも視線を伏せているわけにもいかず、渋々賢吾を見る。
賢吾は唇の端に笑みを刻んだあと、何事もなかった素振りでこう言った。
「さあ、笠野のちらし寿司を食うか。今年は先生にも味わってもらうといって、はりきっていたからな。美味いぞ」
言いたい言葉を呑み込んで、和彦は頷く。貴重な話を聞かせてもらった礼というわけではないが、今晩は賢吾の気が済むまで晩酌にもつき合うつもりだった。
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