と束縛と


- Extra60 -


 リビングのソファに腰掛けた和彦は、テレビの天気予報を眺めつつ、せっせと両手を動かしていた。
 明日も寒いのだろうかとぼんやりと考えていると、ドアが開き、バスローブ姿の賢吾が姿を現す。上機嫌といった面持ちで目の前を通り過ぎていったかと思うと、数十秒後に戻ってきたときには、手に缶ビールを持っていた。
 和彦がちらりと一瞥すると、賢吾に問われた。
「先生も飲むか?」
「ぼくはいい。あんたのせいで、水をがぶ飲みしたばかりだ」
「……俺より先に風呂から上がったくせに、のぼせたのか?」
「あんたが長湯すぎるんだ。最後までつき合ってたら、こっちはのぼせるどころか、茹で上がる」
「まあ、風呂に入る前に、たっぷり運動してたしな」
 芝居がかったニヤニヤ笑いを向けられ、和彦は短く息を吐き出す。今の格好といい、情人を囲った部屋で寛ぐヤクザの組長らしい表情と発言だと思ったが、反応すると賢吾を喜ばせるだけだ。
 わざわざ和彦のすぐ隣に腰掛けて、さっそく賢吾が缶ビールを呷る。その様子を横目で眺めつつ、やはり和彦はせっせと両手を動かしていた。
 軽く鼻を鳴らした賢吾がふいに言う。
「――最近、香りが変わったな」
「えっ?」
「先生が使っているハンドクリームだ。前に使っていたものから替えたのか?」
 和彦は、手にハンドクリームを塗り込むのをやめ、思わず鼻先に手の甲を近づけていた。ほんのりとカモミールの香りがする程度なのだが、前に使っていたブランドのものとさほど違いは感じない。
「どういう鼻をしているんだ、あんた……」
「先生の匂いには敏感なんだ」
 相変わらずニヤニヤと笑いながら、缶ビールをテーブルに置いた賢吾が肩先に顔を寄せてくる。その顔を軽く押し退けようとしたが、あっさり手を取られたうえに、てのひらに柔らかく唇を押し当てられた。
「きれいだが、性質の悪い手だ。この手に撫でられると、大抵の男はおとなしくなるだろ。俺みたいに」
「おとなしくって……、よくまあ、ぬけぬけと言えるな」
 風呂に入る前、ベッドの上で自分をどう扱っていたか言ってやりたくなったが、賢吾のニヤニヤ笑いがますますひどくなる気がして、やめておく。
「別に、あんたを喜ばせるために、手入れしているわけじゃないからな。寒いと、すぐ乾燥してひび割れするんだ。患者の肌に触れるから、かさつくなんてもってのほかだし」
「先生の立派な職業意識のおかげで、俺はいい思いができるということだな。――で、いつ買ったんだ。そのハンドクリームは。先生が買い物に出かけたなんて、俺は報告を受けてないんだが」
 和彦の指先にそっと唇を這わせてから、ちらりと賢吾がこちらを見る。口調は穏やかだが、大蛇の潜む目はゾッとするほど冷ややかだ。寸前までニヤニヤと笑っていた男がする目とは思えない。
 しかし和彦も慣れたもので、いまさらこの程度で身が竦んだりはしない。この男の執着心と独占欲の強さを思えば、まだ可愛い反応だ。
「もらったんだ」
「ほお、貢ぎ物か」
 賢吾の鼻先を指で弾いてやりたくなったが、ぐっと堪える。
「妙な言い方はやめてくれ。……三田村がくれたんだ。何か欲しいものはないかと聞かれて、ちょうどなくなりかけていたから、ハンドクリームがいいと答えたら、わざわざデパートまで買いに行ってくれた」
 妙な誤解だけは解いておきたくて説明したのだが、なぜか賢吾は苦笑を洩らした。
「……ときどき本気で、よくまあ先生みたいな人間が、ここまで刃傷沙汰に巻き込まれずにきたもんだと感心する」
「どういう意味だ?」
「わからない辺りが性質が悪い」
「だから、はっきり言ってくれ」
 わざとらしいため息をついた賢吾が、和彦の手の甲をスッと撫でてくる。
「俺は、三田村が贈ったハンドクリームを塗った先生の手を、せっせと撫で回していたということか……」
「捻くれた言い方だな」
「俺は性格も捻くれているからな」
 知っていると、心の中で頷いておく。
「――どうして三田村が、ぼくにプレゼントをくれたか、わかるか?」
「あいつはいつだって、先生を喜ばせる方法を考えているだろ。もちろん、俺もだが」
「そういうことを言ってるんじゃなくてっ……、ぼくがこの間、甘いものを配っていただろ。あんたには酒だったけど」
「甘いもの、なんて言い方をせずに、チョコレートと言えばいいだろ。何かと慌ただしいバレンタインになったな、あのときは」
 バレンタインデーを意識していたわけではないと、これまで何度も繰り返してきたことをもう一度言いたくなったが、きっと賢吾は都合よく忘れてしまうだろう。うろたえながら訂正する和彦の反応をおもしろがっているのだ。
 今も、賢吾が横目でこちらをうかがっているので、努めて無表情で続ける。
「三田村にはハンカチを贈ったんだ。そのお返しというわけだ」
「ホワイトデーは来月だろ」
 さらりと賢吾に返されて、和彦は咄嗟に言葉が出なかった。もごもごと口ごもっている間に、賢吾は楽しげな様子でまた手を撫でてくる。
「なんだ、俺がホワイトデーを知っていると、おかしいか?」
「……誰があんたに、そういう余計なことを教えてるんだ――って、千尋しかいないか……」
「いやいや、教えられるまでもなく、俺だって、バレンタインデーもホワイトデーも知っていたぞ。先生と知り合う前までは、それなりにモテていたんだぜ」
 また、賢吾がこちらの反応をうかがっている。たかがハンドクリームで、話題はここまで転がるのかと、和彦は内心で微妙な苦々しさを味わっていた。
「ぼくは、嫉妬したりしないからな。あんたはいかにも、モテそうな組長さんだから、いまさらだ」
「そうか。だが俺は、嫉妬する。俺のオンナは、モテまくりのくせに隙だらけで、男心にも鈍い。危なっかしくて仕方ない」
「それは……、傍迷惑な存在だな」
「まったくだ」
 生まじめな顔で賢吾が頷き、和彦もいかめしい表情を作っていたのだが、すぐに我慢できなくなり、顔を背けて噴き出してしまう。すかさず、ここぞとばかりに賢吾に体ごと抱き寄せられ、膝の上に乗せられていた。
 甘やかすように唇を啄まれているうちに、誘われるように和彦も応え、バスローブに包まれた背に両腕を回す。
「それで先生、お返しは何がいい? なんでも買ってやるぞ」
「別に、何も……。着物を仕立ててもらっているのに、これ以上何かもらおうなんて――」
「欲がないな。着物は、俺のワガママだ。先生自身が欲しいものを言ってくれ。三田村には素直におねだりをしたんだろ」
 大蛇がちろりと舌を出す姿が脳裏に浮かぶ。改めて賢吾の嫉妬深さを思い知り、和彦がブルッと身を震わせると、勘違いしたのか賢吾が両腕でしっかりと抱き締めてくる。
「寒いのか、先生?」
 耳元で優しく囁かれ、そうではないと首を横に振る。
「……欲しいものは、今夜寝ながら考える」
「だったら俺は、先生の手を撫でながら、のんびりと待つことにしよう」
 和彦はそっと息を吐くと、賢吾の肩にあごをのせた。









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