事務所を出ると、けっこうな勢いで雨が降っていた。玄関から、待機する車までの距離はほんのわずかだが、一粒の雨すら賢吾には触れさせないとばかりに、組員から傘が差しかけられる。
梅雨特有の湿気を含んだ空気がまとわりついてきても、この時期としては気温が低いせいか不快ではない。これなら雨も悪くないかもしれないと、天候に左右されない仕事の気楽さで、そんなことを考えながら賢吾は後部座席に乗り込む。シートベルトを締めると同時に滑らかに車は発進した。
雨に彩られた風景を漫然と眺めていると、携帯電話がメールの着信を知らせる。ちらりと内容を確認してから、軽く鼻を鳴らした。午後から、組の顧問弁護士と打ち合わせを行う予定になっていたのだが、急な面会代行を頼まれたとのことで、日時を変更したいという旨のメールだった。
「――……〈先生〉も大変だな。土曜日だっていうのに、仕事とは」
俺も他人のことは言えないが、と賢吾は心の中で付け加えておく。もっとも、午後からの予定はこれでなくなったことになるのだが。
賢吾の呟きを聞いた助手席の組員が、問いかけてくる。
「佐伯先生は、今日は出張治療に行かれているんですか?」
「あー、いや、先生違いだ。うちの先生は――」
今ごろ何をしているのか。ふと気になった賢吾の決断は早い。組員も心得たもので、指示を出す前に車線を変更する。向かったのは、当然、和彦が暮らすマンションだ。
いつものように事前連絡もなく部屋にやってきた賢吾は、靴を脱ぎながら何げなく、玄関隅に置かれた傘立てに目をやる。覗いて見えるのはビニール傘だ。しかも二本。
賢吾は、自分がわがままな男だと自覚があり、特にその気質が発揮されるのは、和彦に対してだ。自分が選んだ部屋に住まわせて、自分が選んだものを身につけさせる。和彦は我が強いタイプではないので、そういう意味では賢吾と相性がいい。自分の好みを押し付けても、なんだかんだで受け入れる。
あんたは傲慢だが、趣味がいいから困ると、いつだったか和彦は苦笑いを浮かべながらそう言っていた。
確か和彦は、前の住居から持ち込んでいた傘があったはずだがと、賢吾は玄関に立ち尽くしたまま、ビニール傘を見つめる。すると、たまたま廊下に出てきた和彦が賢吾に気づいて、珍しく素っ頓狂な声を上げた。
「先生、腰を抜かすなよ」
澄まし顔で賢吾が声をかけると、足音も荒く和彦が歩み寄ってくる。
「びっくりしたっ……。でかい男が、黙ってそんなところに立たないでくれっ」
「先生の可愛い声が聞けて、俺としては得した気分だ」
本気かと言いたげな視線を和彦が向けてくる。
「雨で鬱々としていたが、来てよかったと思わせてくれる」
「……もうわかったから。雨宿り感覚で、ここに来てるだろ。まっすぐ本宅に帰ればいいものを」
「そう邪険にするな。仕事終わりにまっすぐやってきたというのに」
恩着せがましい、という和彦の呟きはしっかりと耳に届いたが、聞こえなかったふりをする。
二人でダイニングに移動したところで、賢吾は気になっていたことを尋ねてみた。
「――先生、玄関に置いてある傘はどうしたんだ」
「どうした、とは?」
「ビニール傘しかない」
ああ、と声を洩らした和彦が、なんでもないことのように教えてくれた。
「クリニック近くのコンビニで買った」
「……いや、そうじゃなくてな――」
「前から持ってた傘は、ファミレスで盗られたんだ」
「もう一本あっただろ」
和彦が少し言い淀む素振りを見せたので、賢吾は顔を覗き込む。細かいところが気になるのは性分だが、それが和彦のこととなると、なんでも知りたくなる。傘程度でも、隠し事をされるのが許せなくなるのだ。
和彦はため息をついたあと、こう念を押してきた。
「聞いても、絶対笑うなよ。あと、からかってくるのも禁止だからな」
「俺はそんなにガキじゃないぜ」
和彦は反論したそうな顔をしたものの、面倒だと思い直したらしい。早く上がってこいと手招きされた。
思ったことが全部表情に出るのも考えものだなと、革靴を脱ぎながら賢吾はニヤニヤする。愛でるべき和彦の特性だが、正直すぎて少々不安になってくるときがある。
賢吾をソファに座らせて、和彦はキッチンに立つ。部屋に入ったときからいい香りが漂っていたが、コーヒーを淹れている最中だったようだ。
「今なら、ホットかアイスを選べるけど、どっちがいい?」
「せっかくだから、アイスにしてもらおうか」
注文を受けた和彦はグラスをもう一つ出す。アイスコーヒーなど、市販のボトル入りのものが手間がかからなくていいのではないかと指摘するのは野暮だろう。和彦が手ずから淹れたコーヒーだからこそ、味わいが増すというものだ。
「それで、傘の行方は?」
氷で満たしたグラスに慎重に熱いコーヒーを注ぎながら、一瞬和彦がこちらを見る。覚えていたか、といいたげな顔だ。
蛇は執念深いのだ。
「……〈お宅〉の坊ちゃんに没収されたんだ」
ため息交じりの和彦の言葉を受け、賢吾は目を丸くしてから、自分を指さす。
「お宅?」
「千尋のことだ」
迂遠な言い回しに微苦笑を浮かべた賢吾だが、すぐに首を傾げることになる。
「傘を貸したわけじゃないのか?」
「没収だ。……ずいぶん前にもらった、いい傘だったんだ。柄の握り具合とかちょうどよくて、運よく盗まれることなくここまで大事に使ってきたのに」
「あいつはガキだが、理由なく先生相手にそんな無体を働くとは考えにくいんだが――と言うと、親バカか?」
和彦が顔をしかめる。言うのではなかった、という心の声がしっかりと賢吾に届く。
「……父子揃って、嫌になるほど鋭い」
「いくらでも褒めてくれ」
乾いた笑い声を洩らした和彦がグラスを二つ持ってやってくる。賢吾の隣に腰掛けてアイスコーヒーを一口飲むと、味に満足したように頷く。倣って賢吾もさっそく口をつける。すっきりとした苦味が舌の上をさらりと伝い、強烈すぎないコーヒーの風味があとに残る。素直に美味いと思ったし、口に出して呟いてもいた。
照れたように視線をさまよわせた和彦に、すかさず短く問いかける。
「で?」
言いたくなさそうに、和彦はグラスを揺らしてカラカラと氷を鳴らしていたが、賢吾が足を組み、じっくりと待つ姿勢を取るとさすがに諦めたらしい。大きくため息をついて肩を落とした。
「――……前につき合ってた人が、贈ってくれた傘なんだ」
「そんなことだろうと思った」
「嫌な思い出の残る相手じゃないから、ずっと使い続けていただけなんだけど、千尋は気に食わなかったらしくて……」
「先生は妙に男心に疎いところがあるな。そんなことを打ち明けられて、〈あの〉千尋がニコニコ笑って聞き流せると思うか?」
「〈あの〉千尋だということを、失念していたんだ。あとで新しい傘を一緒に買いに行こうと言ってたが、あいつ、まだ顔を出さないんだが」
千尋は先週、今週と、守光から言いつけられて、総和会本部に張り付いている。ほぼ小坊主のような扱いで、賢吾としては忌々しい反面、この世界でのしきたりや礼儀を叩き込むには、あそこほど適した場所はない。
見栄を張っているのかなんなのか、和彦にはそのあたりの事情を説明していないのだろう。
賢吾も鬼ではないので、息子の顔は立てておいてやる。
「あれで、千尋も忙しいんだ。急な仕事で予定が変わるなんてこと、最近はよくある」
「……わかってる。それぐらい。別に怒っているわけじゃないし」
少し逡巡する素振りを見せたあと、和彦はぼそぼそと言った。
「没収なんて大げさに言ったが、本当は、譲ってくれと言われて、渡したんだ。……たかが、傘だ。それで千尋の気が済むなら、まあ……」
先生は千尋に甘いと、賢吾の心の中で呟いておく。ただ、父親という立場では、息子のわがままを躾けなくてはならない。ぶん殴るという野蛮な方法ではなく――。
「今からの予定が決まったな。――傘を買いに行くぞ」
「はあ……?」
「俺のオンナに、ビニール傘は似合わない。ついでだ、レインブーツも買ってやろう」
「買ってやろうって……、履いてどこに行くんだ。ぼくの移動はほとんど車なのに」
もっともな疑問なのは、認めざるをえない。和彦に過保護ともいえるような生活を提供しているのは、他ならぬ賢吾自身だ。
ふと賢吾の脳裏に、昨日たまたまニュースで流れた映像が蘇る。その映像を一目見て懐かしいと感じたのは、ずいぶん昔に、どこにも遊びに連れて行ってやれなくて可哀想だと、母親が自分の習い事に賢吾も伴い、その帰りに立ち寄った公園が映っていたからだ。
母親との外出など滅多になく、興奮していたことを覚えている。レインコートは蒸して苦手だったが、下ろし立てのレインブーツを履けるのは嬉しかった。いつも着物姿だった母親が、この日ばかりは軽やかな洋装だったのも、特別な日なのだという思いを強くした。今なら、雨の日に着物で出歩くのを避けたかっただけだとわかるが。
「――蓮の花が見ごろだそうだ」
薄い笑みを浮かべて賢吾が言うと、和彦は目を丸くする。
「新しい傘とレインブーツで、雨の公園を歩くのもいいものだろ。帰りに、公園のすぐ側にある蕎麦屋に寄るのもいいな。あそこの天ぷら蕎麦は美味かった」
賢吾の提案を、和彦は検討に値すると思ったようだ。思案するように視線をあちこちにさまよわせて、賢吾はソファにゆったりと身を預け、そんな和彦の様子を見守る。行くぞ、と強引に連れ出すのもいいが、こんなふうに返事を待つのも楽しい。
「……仕方がない。あんたが行きたそうだから、つき合ってもいい」
アイスコーヒーを飲み干した和彦がいそいそと出かける準備を始め、賢吾はソファに腰掛けたまま待ちながら、携帯電話を取り出す。素早く文章を打ち込みながら、意識しないまま意地の悪い笑みを浮かべてしまう。
メールの送り先は、いまごろ総和会本部か総本部に詰めている千尋だ。内容は、これから和彦と傘を買いに行くついでに、少し足を延ばして公園を散歩してくるというものだ。他愛ない内容ともいえるが、千尋への躾けとしては効果的なはずだ。
自分のわがままで、結果として、〈クソオヤジ〉が美味しい思いをすることを学習するのだから。
メールを送信してふと顔を上げると、ドアの陰から和彦がこちらを見ていた。
「ものすごく、楽しそうだな」
「先生とのデートが楽しみなんだから、当然だろう」
堂々と賢吾が言い放つと、和彦は大仰に顔をしかめたあと、もう準備ができたと小さな声で応じた。
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