サプライズ [Extra 02] Clap  





 頼まれたものを届けに会議室に入った大橋は、上司と会話を交わしつつ、席についている新入社員たちに視線を向ける。
 今日は午前中から、電材マーケティング本部に配属された新入社員たちを集め、座学が行われていた。
 ビジネスマナーといった社会人として必要なことは、来月行われる新入研修合宿でみっちり教え込まれるが、入社二日目の新入社員はひとまず、東和電器株式会社のみなからず、東和グループの成り立ちから説明される。
 もっとも組織が複雑すぎて、一度説明されたぐらいでは理解できないだろうが。
 昨年の新入社員だった大橋も受講したが、座って話を聞くだけだったので、死ぬほど眠かったのは覚えている。
 今年の新入社員たちも、必死に眠気を堪えた顔をしているか、すでに半分目を閉じている者が半分以上を占めている。
 午前中いっぱいだからがんばれよと心の中で思いつつ、用が済んだ大橋がドアに向かっていると、見覚えのある顔が視界に入る。
 大橋がいる首都圏電材営業部第一課で研修を行う、新入社員の藍田春記だ。
 まじめに講義に耳を傾けているらしく、しっかりと前を見据え、シャープペンを持つ手は休みなく動き続けている。
 この場にいる新人たちの誰もが、まだ学生気分が完全に抜けきっていない中、藍田だけは別だ。落ち着きすぎた物腰が異彩を放っているとすらいえる。
 顔立ちのせいだろうかと、ふと大橋は思う。
 藍田はやけに整った顔立ちをしているが、何より印象的なのは、表情を変えないという点だ。新人の誰もがこの時期、緊張や気負いが表情に出るものだが、藍田は違う。とにかく淡々としている。
 本当に新入社員か、というのが、藍田春記と最初に接したときの大橋の感想だった。
 大橋の視線に気づいたのか、手を止めた藍田が前触れもなくこちらを見る。反射的に笑いかけてみたが、案の定、無視された。
「……愛想がない奴だな」
 会議室のドアを閉めたところで、ぼそりと洩らした大橋は、ガシガシと頭を掻きながら歩き出す。
 気を悪くするほどの出来事ではない。この先ずっと顔をつき合わせる関係でもないのだ。
 藍田は、あくまで研修の一環として営業部に籍を置いているだけで、一か月もすれば別の部署へと移動するのだ。
 だから先輩面をする気もないのだが、あの愛想のなさだと、他へいっても苦労するだろうなと大橋は予想する。
 心配する義理もないのだが――。




 夜になり、ようやく出先から戻ってきた大橋は、夕飯代わりのファストフードの袋とアタッシェケースを持ってオフィスに入った途端、あれっ、と声を洩らした。
 営業部のオフィスはどこも、夜遅くまで電気が消えることはない。誰かしら残業をしているのだ。
 今も、何人かの社員が仕事をしているが、その中に新人の藍田の姿があった。
 真剣な表情で、帳票を綴じたファイルと、分厚いストックフォームを交互に見比べては、ときおり何かを書き込んでいる。
 気になった大橋は、静かに藍田の背後に移動すると、そっと手元を覗き込む。藍田が目を通しているのは納品書のコピーのようだ。それと、取引先ごとに打ち出された取引明細書も。
 目が痛くなりそうなほど細かい字に、それでなくても疲れている大橋はめまいがしそうになる。
 すると、ふいに藍田が振り返った。大橋のほうが驚いてしまい、屈めていた上体を慌てて起こす。
「あー、悪い。何してるのか気になってな」
 そう言ってから大橋は、オフィスを見回す。藍田以外に新人はいるのかと思ったが、どうやら藍田一人らしい。
 珍しいこともあるものだと思った。入社してまだ一か月にも満たない新人に、普通は残業などさせたりしない。むしろ、さっさと帰れと促すぐらいだ。
「その仕事、どうしたんだ?」
「……照会を頼まれたんです。入力したデータと合わないと言うことで」
 藍田が隣のデスクを一瞥する。一応、藍田の面倒を見ることになっている先輩のデスクだが、藍田に仕事を押し付けた張本人だろう。だが、当人はすでに帰宅したようだ。
「それ、取引先を受け持たないお前の仕事じゃないだろ。ひっでーな。で、どこまで遡ってるんだ」
「半年分です」
 さらに、ひどい。
 大橋は、その先輩のイスに腰掛けると、びっしりとデータが打ち出されたストックフォームをパラパラと捲る。よりによって、取引のデータが一番複雑な企業のものだ。だから処理にミスも起きやすい。
「多分、経理から文句言われたんだろうな。だからといって、お前に押し付けて、自分だけ帰るなんて――……」
 自分がひどい仕打ちを受けたかのように文句を言う大橋の隣で、藍田は作業に戻っている。
「……クールな奴だな、お前」
 つい、声に出して言うと、手を止めることなく藍田が応じた。
「どうせ、早く帰ったところで予定はないですから」
「いや、そういう問題じゃないだろう……」
 軽く息を吐き出した大橋は、ファストフードの袋とアタッシェケースを持って自分のデスクに戻る。
 とにかく腹が減っているので、ハンバーガーの一つにかぶりつく。さっさと報告書を書いてしまうつもりだったが、視線は藍田の後ろ姿へと向いてしまう。
 融通がきかなそうな藍田のことなので、ちょっと休憩して夕飯を買ってくるなどということはしていないだろう。
 そう思うと、一人で無神経にハンバーガーを食べていることに罪悪感を覚え、大橋は袋の中からハンバーガーの包みを取り出す。実は、人一倍よく食う大橋は、念のためにハンバーガーを三つ買っておいたのだ。
「おい、食うか」
 再び藍田の元に歩み寄り、ハンバーガーの包みをポンッとデスクの上に置く。藍田は訝しげに、ハンバーガーと大橋の顔を交互に見てから、首を横に振った。
「……けっこうです」
「食えよ。買いすぎたんだ」
 仕方ない、といった顔をして藍田は包みを剥き始め、それを見て満足した大橋は、今度はコーヒーを入れてきてやる。自分の分は、ハンバーガーと一緒に買ってきたのだが、一人だけコーヒーを飲むのも居心地が悪い。
 結局、藍田の隣のデスクに再びついて、なんとなく一緒に夕飯をとる。
 思い出したようにハンバーガーをかじりながら、藍田は作業を続けていた。
「その仕事、別に今日中に済ませておけとは言われなかったんだろう?」
 沈黙に間がもたず、二個目のハンバーガーを平らげたところで大橋は話しかける。
 一年とはいえ、先輩である自分のほうが気をつかうというのも妙な話だと思いながら。
「今日中に済ませておけば、明日は別の仕事ができますから」
「優等生だな。俺なんて、細かいことが苦手だから、その照会作業が面倒でな。自分以外の分なんて、頼まれても嫌だね」
 藍田の返事は、そうですか、という素っ気ないものだった。藍田は、必要ないことで他人から話しかけられるのが煩わしくて仕方ないのだろう。それでも無視しないのは、一応、大橋を先輩として見てくれているのか――。
 大橋はデスクに頬杖をつくと、藍田の手元を覗き込みながら尋ねた。
「藍田、お前って、営業希望なのか?」
 このとき藍田の眉がわずかにひそめられる。迷惑だと言いたげだが、ここで引かないのが、大橋だった。世話好きではないのに、気になる相手にはつい、かまってしまうタイプなのだ。つまり、好奇心が強いとも言えるかもしれない。
「……違います。経営管理が希望です。営業部での研修が終わったら、配属されることにはなっているらしいですけど」
「羨ましいな。俺はシステム希望だったのに、研修が終わっても、営業部のままだ。上司に、営業としての才能に目をつけられたらしくてな」
 冗談として受け流されるかと思ったが、藍田は生真面目な顔で頷いた。
「大橋さんはそんな感じですよね」
 どんな感じなのかは知らないが、やっと会話らしい会話を交わせた気がする。
 すっかり気をよくした大橋は、勢いでこんなことを言っていた。
「一人じゃ大変だろうから、手伝ってやるよ。いくら苦手とはいっても、俺のほうがコツもわかってるからな」
「でも――」
「お前は短い間しかいないんだ。その営業部で嫌な思い出は作ってほしくない」
 藍田がゆっくりとまばたきをする。表情さえもう少し柔らかくなれば、女に不自由はしないのではないかと思わせる整った顔は、よく見ればどこか学生っぽさを漂わせており、大橋は少しだけ微笑ましい気持ちになった。
「大橋さん」
「なんだ」
「……ありがとうございます」
 藍田はそう言って、控えめに頭を下げてきた。




 卓に頬杖をつき、ニヤニヤと笑っている大橋に対して、藍田は心底気味悪そうな視線を向けてきた。
「なんなんだ、あんたはさっきから、ニヤニヤと笑って。酔ったのか?」
 飲み会の席で、周囲が盛り上がる中にあっても、藍田だけはクールだった。このクールさは、十二年前、首都圏電材営業部第一課のデスクについていた新人の頃の藍田と、まったく変わっていない。
 いや、もっと研ぎ澄まされた『何か』になったかもしれない。
「そうやって、もそもそとメシ食っている姿を見ていたら、お前が新人の頃を思い出した。
覚えているか? 俺たち短い間だったけど、同じ部署にいただろ」
「……そういえば、そんなこともあったかな」
 憎たらしい奴だと思いながら、大橋は声を上げて笑う。一方の藍田は、相変わらずクールな視線を向けてくる。
「あんた、ついさっきまで社内クーデターだなんだって物騒な話してたのに、よく能天気に笑えるな」
「あんた、か……。お前、新人の頃は俺のこと、大橋さん、と呼んでたんだぞ」
「今だってそう呼んでいるだろう」
「敬意が足らない」
 眉をひそめた藍田が、呆れたように顔を背ける。かまわず大橋は話し続ける。なんだかよくわからないが、気分がよかった。
 曖昧な記憶に埋もれていた藍田との過去の思い出が、鮮やかに蘇ったせいかもしれない。
「あのときのお前は、けっこう素直だったぞ。俺が何か手伝ってやると、ありがとうございます、と礼を言っていたが、その言い方が、いかにもぎこちなかった。無理をすれば、初々しいと言えなくもない」
「……もう黙ってくれ、大橋さん……」
「あっ、お前が残業しているとき、俺、ハンバーガーやっただろ? 上手かったか?」
 調子に乗って話し続けていると、こちらを見た藍田にキッと睨みつけられる。
「今だから言うが、わたしはジャンクフードが嫌いだったんだ。それを、先輩のあんたの顔を立てて、食べてやったんだ」
 思いがけない藍田の告白に、大橋は目を丸くしたあと、ニヤリと笑いかけた。そして、藍田の肩に腕を回す。
「覚えてたんだな、お前。十二年も前の、たった一度のことを」
「酔った勢いで思い出せたあんたと違って、わたしは記憶力がいいんだ」
 澄ました顔で、さらりと藍田が言い放つ。大橋は顔では笑いながら、改めてこう思わずにはいられなかった。
 可愛げのない奴だ――。
 昔からわかっていたが。










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