サプライズ [Extra 05] Clap  





 藍田から、朝食は和食がいいと要望が出たので、ホテル内にある和食レストランで朝食をとることに決まった。藍田の食事に関してお節介を焼き始めてから、この男が自分から食べたいものを口に出したのは、初めてかもしれない。
 朝食セットについてきた卵焼きを食べながら大橋は、目の前で黙々と箸を動かしている藍田を盗み見る。魚の食べ方がきれいだと、どうでもいいことに気づいてしまった。
「……お前、魚が好きなのか? 少し前も、お前がちびちびと魚を食っていた記憶が――」
 思わずそんなことを尋ねると、箸を止めた藍田が視線を上げる。
「あんたは、ガツガツと肉を食べてそうだな」
「若いときは毎日食っても平気だったけどな。さすがに三十過ぎたら、肉を食いたいって衝動はあっても、胃が言うことを聞いてくれない。太るのは嫌だしな。甘いもの同様、肉も摂生している」
 大橋がそう言うと、意外そうに藍田は軽く目を見開いた。
「そういうこと、気にするんだな」
「そういうこと、って、どこを指しているのか気になるな」
「傍迷惑なぐらいエネルギーを放出してカロリーを消費していそうだから、何をいくら食べても気にしていないのかと思った」
 なぜこう、いちいち刺がある言い方をするのか――。少し前までの大橋なら、こんなことでカッカとしていただろうが、今は様子が違ってきた。
 藍田は他人に対して基本的に冷ややかで無関心だが、それが皮肉っぽい言い方をするということは、少なからず相手に対して関心があるということだ。だから藍田が持つ刺は、大橋の心に引っかかる。
 藍田なりの人間関係の構築の仕方だと思えば、不思議に腹も立たない。
 大橋は頬杖をつくと、藍田の顔を覗き込むまねをする。
「そういうお前は、極端にカロリー消費が抑えられてそうだよな。そのくせ、痩せているし――」
 この瞬間、藍田から鋭い視線を向けられ、大橋も即座に、その視線の意味を理解した。蘇ったのは、今朝まで腕の中にあった藍田の体の感触だ。頬杖をついた手を口元に移動させ、大橋は不自然に沈黙する。
 これだ、と思った。この空気を、藍田と共有するのが怖かったのだ。気をつけようと思いながらも、会話の地雷は何げないところに潜んでいる。特に、黙ってはいられない大橋にしてみれば厄介だ。
 一方の藍田は、何事もなかったような顔でお茶を一口啜り、口を開いた。
「――大橋さん」
「なんだよ」
「食事中に頬杖をつかないほうがいいんじゃないか。行儀が悪い」
 お前が指摘するのはそこかよ。心の中で呟いた大橋は、おざなりな返事をしてから姿勢を正す。
 周囲では、家族連れや、いかにも大橋たちと同じような出張中といった感じのスーツ姿の男たちが食事をしているが、辛気臭い空気を漂わせているのはこのテーブルだけだ。
 もっとも藍田と一緒だと、どんな出来事があろうがなかろうが、大して空気が変わるとも思えないが――。
 もそもそと卵焼きを食べ始めた藍田を眺めながら、大橋は自分の皿を指さす。卵焼きがまだ一切れ残っていた。
「藍田、食うか?」
 藍田が、呆れたような、物言いたげな表情を浮かべてから首を横に振る。
「あんたと食事していると、なんだか子供扱いされているような気がする」
「人が言わなきゃメシを抜こうとするんだから、子供より性質が悪いかもな」
「……わたしはいいから、あんたもしっかり食べたらどうだ。その体と行動力を維持するにはエネルギーが必要だろう。わたしに気をつかわずに、お代わりを頼んでもいいし」
 皮肉を炸裂させたわりには、藍田の唇はわずかに綻んでいる。大橋というサンドバッグ相手には、何を言ってもいいと思っているらしい。
 藍田がここまで言ってくるのは、自分に対してだけだと思えば、腹も立たない。それどころか、妙な優越感もくすぐられる。
 昨夜からどこかが壊れている大橋だが、まだ本調子ではないようだ。同僚から好き放題言われながら、微笑ましい気分になっているのだ。自分がマゾになった心境だった。


 朝食を終えると、その足でフロントに向かった大橋は、藍田を待たせて精算を済ませる。領収書を手にカウンターを離れ、ついさっきまで藍田が立っていた場所を見たが、そこに藍田の姿はない。
「あいつっ……」
 一瞬、先に行ったのかと思ったが、そうではなかった。
 ロビーを歩き回るまでもなく、すぐに藍田の姿を見つける。大きな柱の陰に立っていたのだ。
「……かくれんぼうか? それで、柱から飛び出して、俺を驚かせるつもりだったんだな」
「何を言ってるんだ。あんたは。団体客が来たから、突っ立っていると邪魔になると思って移動したんだ」
「俺が気づかなかったら、一人で駅に行くつもりだったんだろう」
 藍田は否定しなかった。この野郎、と思ったが、だがよく考えれば、大橋が精算をしている間に、さっさとタクシーに乗ってしまえばよかったのに、そうしなかったのだ。
 徹底して大橋と行動を共にしたくないなら、藍田なら平気でそれぐらいの行動力は見せるはずだ。だが、こうして一応、大橋を待っていた。
 いまさらながら、この男は何を考えているのかよくわからない。そんなことを思っていると、隣を歩く藍田には大橋が何を考えているのか筒抜けだったらしく、こう言われた。
「わたしが一人でさっさと行ったところで、嫌でも空港であんたと出くわして、嫌でも飛行機の中で、あんたの隣に座らないといけないんだ。その間ずっと、文句を言われ続けるのはかなわない」
「……失敬な。俺は竹を割ったようにさっぱりとして、清々しい性格の男だぞ」
「はいはい」
 さきほどの仕返しとばかりに、藍田におざなりな返事で返された。
 弾んでいるとはいいがたい会話をぽつりぽつりと交わしながら駅に向かい、空港行きの電車に乗り込む。混雑しているわけではないが、あいにく席はどれも埋まっており、藍田と並んでつり革に掴まる。
 窓の外を流れる景色を眺めながら、大橋は妙な気分だった。
 大橋が東京へ出張した場合、ほとんどは一人だ。それが当然だと思っていたし、かえって部下と連れ立って行動すると感覚の違いに戸惑うものだ。
 それが今は、部署も違い、会話を交わすこともほとんどなかった藍田が隣にいる。そのうえ――違和感はなかった。昨夜からの出来事のせいでぎくしゃくはしているなりに、一緒にいて息苦しいというわけではない。
 陰でツンドラと呼んでいた存在が側にいることに、こちらが慣れてしまったのか。
 昨夜からずっと、仕事のことはそっちのけで、藍田のことばかり考え続けている自分の姿に気づき、大橋は急に気恥ずかしさに襲われる。そもそも、『あんなこと』があったのも、大橋自身が藍田との距離感が取れなくなったせいだ。
 いままで通り、冷たくて嫌な奴だというイメージが先行してくれていたら、どれほど事態は単純だったか――。
 電車が停まり、やはり空港に向かうらしい大きな荷物を持った数人のグループが乗り込んでくる。
 出入り口の側にいた大橋に大きなバッグが勢いよく当たり、バッグにそのまま押される。
つり革を掴んだまま身じろぐと、大橋がよろめいたとでも勘違いしたのか、咄嗟に藍田の手が腕にかかった。
 ぎょっとした大橋は目を見開き、藍田を凝視する。藍田もすぐに事態を把握したのか、不自然に視線を伏せると、何事もなかったように手を離した。
 たった数秒ほどの、大したことのない出来事だ。他人から見れば。
 大橋はしっかりとつり革に掴まり直すと、窓の外に見えるホームへと視線を向ける。ただ、表面上はいくら落ち着いて見せても、心臓はドクドクと脈打っていた。不意打ちのように藍田に触れられると、心臓に悪い。
 大の男が、頭が真っ白になるほどうろたえてしまうのだ。
 それから空港に到着するまで、大橋は不自然なほど藍田を見ようとはしなかった。正確には、見られなかった。
 おかげで、ようやく電車から降りたときは、滅多に凝らないはずの肩がガチガチに強張っていた。
 大橋は自分の肩を片手で揉みながらエスカレーターに乗り、前に立つ藍田の後ろ姿を見つめる。つい、この体をずっと抱き締めていたのだと、生々しいことを考えながら、ぼんやりしてしまう。
「うおっ」
 エスカレーターが終わったことに気づかず、足元がよろめく。振り返った藍田に、思いきり呆れたような視線を向けられた。
「……あんた、酔ってるのか?」
「いや……、ちょっと考え事をしていた」
『考え事』に心当たりがある藍田は、それ以上は何も言わなかった。大橋としても、突っ込んで尋ねられると困る。
 空港の出発ロビーは、昨日の台風の影響もあって普段以上の混雑ぶりだった。
 二人はなんとか搭乗手続を済ませたが、ここで手持ち無沙汰となる。腰掛けようにも、この混雑でどのイスも埋まっている。
「藍田、土産を買いに行こうぜ」
 男二人がただ突っ立っているのは、あまりに間が抜けている。そこで大橋が提案すると、藍田の返事は案の定、素っ気なかった。
「あんただけ行けばいい。わたしは買う必要もないしな」
「まあ、そう言うな」
 藍田の背を押し、半ば強引に出発ロビーから移動する。
 まずは、旗谷の希望である洋菓子を、他の女性社員の分と一緒に買わなくてはならない。
「……あいつらが好きそうなものって、普通にデパートでも売ってると思うんだがな」
 エスカレーターで上に向かいながら大橋が洩らすと、しっかり藍田の耳にも届いていたらしく、冷ややかな声で皮肉を言われた。
「大橋部長補佐からのお土産、というのが嬉しいんじゃないか。あんたは人気があるから」
 大橋は振り返ると、必死に弁解していた。
「だから、お前は俺を誤解しているっ。片っ端から女性社員に手を出しているとでも思っているのかもしれないが、俺はそういう面倒なことはしないんだ。オフィスでの円満な雰囲気を保つために――」
「誰も、女性社員、とは言ってないだろう。上の人間以外で、あんたのことを悪く言う社員はいないから、そういう意味で言ったんだ。……自意識過剰だな」
 この野郎、と拳を握りはした大橋だが、怒ったりはしない。なんといっても、藍田との会話が一瞬とはいえ弾んだのだ。
 ただ、ささやかな意趣返しはさせてもらう。
 大橋は藍田を伴い、シックな雰囲気が漂う店の前まで来て足を止める。案の定、女性客で混雑しており、それを見た藍田は居心地悪そうに顔をしかめた。
「……チョコレート?」
「ここのブラウニーが美味い。出張で東京に来たら、帰りに買おうと思っていたんだ。お前も、自分の部下の女性社員たちに買って帰ったらどうだ。藍田副室長のポイントが上がるぞ」
「いや、わたしは――」
 一歩足を引こうとした藍田だが、大橋はかまわず腕を掴み、強引に女性客たちの中に割って入る。
 最初は逃げ出そうとしていた藍田だが、背後も女性客で塞がれてしまうと観念したのか、仕方なさそうに財布を取り出す。その様子を横目で見て、たまらず大橋は噴き出したが、このとき混雑に紛れるように誰かに足を踏まれてしまった。


 ここぞとばかりに藍田を連れ回し、土産をしっかり買い込んだ大橋は、非常に満足していた。毎回、出張の土産は数種類買い込むのが大橋の流儀で、今回もその流儀は守れた。
「最後に、東京土産の定番でも買っておくか。サブレがいいかな……」
 大橋の隣でうんざりした顔をしていた藍田が、聞こえよがしにため息を洩らす。
「最初から、それだけ買えば手間もかからなかっただろう。あんたはあれこれ目移りしすぎて、いろんな種類を買い込みすぎる」
 そう言う藍田の手にも、大橋が強引に勧めた土産の袋がある。こいつがどんな顔をして、部下に土産を差し出すのか、それはそれで一つの見物かもしれない。
「土産なんてのは、気持ちの問題なんだよ」
「……わたしは、あんたに無理やり買わされたが……」
「でも、部下に渡すのはお前だ」
 大橋が笑いかけると、じっと見つめてきた藍田が次の瞬間にはふっと視線を逸らした。
 同僚同士として、ごく自然に隣にいるような感覚に陥ったところで、ふいに現実に引き戻される。たとえば今のように、藍田が昨夜から今朝にかけての出来事を思い出したような素振りを見せたときだ。
 ぎこちなさを認識するのが嫌で、大橋が強引に藍田を連れ回しているのがバレたのかもしれない。いや、藍田のことなので、すべて承知のうえで大橋につき合っているのかもしれない。
 会社に戻るまでは、嫌でも行動をともにしなければならず、その間ぐらい、息をするのも気をつかうような緊迫感や気まずさは味わいたくない。
 大橋はともかく、ツンドラのような藍田にもそんな配慮が働いているのだとしたら、意外だ。横目でちらりとうかがった藍田は、不機嫌そうに唇を曲げており、それを見た大橋は小さく笑みをこぼす。
 いい加減、藍田をツンドラと例えるのは、やめたほうがいいのかもしれない。少なくとも、藍田の体は温かかった――。
 生々しい感触が蘇り、大橋の体温は一気に跳ね上がる。そんな自分の反応を誤魔化すように、わざとらしく咳払いをした。
「……そろそろゲートに行くか?」
 そうだな、と応じた藍田が、ふと何かを思い出したように周囲を見回して言った。
「先に行ってくれ。買い忘れたものがある」
「なんだ?」
「いや……。大したものじゃない」
 藍田がさっさと歩き出したので、気になった大橋もあとをついていく。振り返った藍田は迷惑そうに眉をひそめた。
「子供じゃないんだから、ついてこなくてもいいだろう」
「気にするな。単なる好奇心だ」
 物言いたげな顔はしたものの、藍田もそれ以上は何も言わず、さっさと歩き出す。
 どこに行くのかと思えば、藍田が立ち寄ったのは空港内のコンビニだった。昨日、飛行機に酔った藍田が水を買ったのと同じ店だ。
 大橋が外から眺めていると、藍田は迷うことなくあるものを手に取り、レジに向かう。意外というより、あまりにありふれたものを買ったため、正直大橋は拍子抜けしてしまった。
「お前、それ……」
 店から出てきた藍田の手にあるのは、プラスチック容器に入ったガムだった。藍田は、土産の洋菓子が入った紙袋に、買ったばかりのガムを放り込む。
「――土産だ」
 呆気に取られていた大橋だが、我に返って慌てて藍田を追いかける。
「おい、ガムなんて、会社の中の自販機にだって売ってるだろう」
「いつもこのガムをデスクの上に置いてあるから、同じものを買ったほうが無難でいい」
 それに、と言って藍田が振り返る。相変わらずの不機嫌そうな顔で言われた。
「土産は気持ちの問題だと言ったのは、あんただろう」
「……言った、が、ガムはどうなんだ……」
 ゲートに向かいながら大橋は、なんとなく藍田の行動が気になった。
 さんざん連れ回して、藍田に土産を勧めて買わせてたが、実は藍田が特定の『誰か』の土産を買ったのが、これが初めてだったのだ。
 たかがガムとはいえ、誰に渡すために買ったのか気になる。
 無意識のうちに難しい顔となっていた大橋に気づいたのか、藍田がわずかに首をかしげてから、ゲート近くのイスに腰掛けた。
 大橋が隣に腰掛けると、藍田は紙袋の中を探ってから、ある包みを押し付けてきた。
「これは……」
「あんたに言われるまま買ったが、よく考えたら、誰が食べるのかと思ったんだ。わたしは甘いものはあまり得意じゃないし、部下たちの分は他に買ったし」
 大橋は、受け取った包みに視線を落とす。羊羹だった。
「あんた、甘いもの好きなんだろう」
「……くれるのか?」
「代金を払えなんて言わないから、安心してくれ」
「俺は、甘いものを摂生していると言った気が――」
「心配しなくても、きちんと体型維持ができてるじゃないか、大橋部長補佐」
 今度は自分が地雷を踏んだと感じたらしく、藍田が不自然に口を閉じる。そんな藍田と、手にした羊羹を交互に見た大橋は、胸の奥で熱い塊が落ち着きなく蠢き始めたのを感じた。
 藍田の側にいると、どうしてこう、自分はわけのわからない存在に成り果ててしまうのか――。
 心の中で苦々しく思いながらも大橋は、ニッと藍田に笑いかける。
「すごいな。さっきまで土産なんて概念のなかったお前から、土産をもらった」
「……甘いものをどんどん食べて、女性社員に見向きもされなくなるまで太ってしまえ」
 いかにも藍田らしい言葉に、なぜか大橋の胸は締め付けられる。甘さを伴った痛みが、ズキリと胸に走った。










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