サプライズ [Extra 06] Clap  





 いつもならとっくに出勤しているはずの『あの人』が、始業時間間近になっても、まだ姿を見せていなかった。
 堤はイスごと体の向きを変え、藍田のデスクを見つめる。主のいないデスクは、藍田の性格そのままに整然と片付いている。
 藍田が研修以外で出張することは滅多になく、端正な姿は常に新機能事業室にあるといってもいい。
 だが昨日は、その滅多にない日帰り出張に出かけ、姿を丸一日見ることはできなかった。堤が帰るときになっても、藍田は戻ってこなかったのだ。
 涼しくなってきたとはいえ、東京支社で慌ただしく過ごして、また体調を崩していなければいいがと、堤は昨日、ずっとそのことを気にかけていた。大人の男に対して過剰な心配の仕方だと思うが、藍田の場合、大げさともいえない。
 仕事に関しては切れ者すぎるほどの切れ者で、オフィスの隅々にまで神経を行き渡らせている藍田だが、人間、やはり弱点はあるものだ。藍田は他に神経が向いている分、自分のことに関しては、おそろしく無頓着だった。
 堤が知る限り、毎年夏になると藍田は目に見えて痩せる。普段から食が細い人なのだが、暑さに極端に弱いらしく、夏場はさらに食べ物が喉を通らなくなるようだった。しかも今年の夏は、プロジェクトのこともあって神経まですり減らしている。胃を悪くして当然だろう。
 出張の疲れが出て、今日は欠勤なのではないかとまで心配し始めた堤は、落ち着きなく爪先を小刻みに動かす。
 そんな堤の耳に、仕切りの向こうに座っている女性社員が電話でやり取りする声が聞こえてきた。
「申し訳ございません。本日藍田の出社は、午後からになっております。折り返し、ご連絡を差し上げるようにいたしますが――」
 そんなことは初耳だ。堤は姿勢を直すと、急いでホワイトボードに視線を向ける。今朝出社したとき、藍田の予定は昨日から変わっておらず、『出張』と書いてあるままだったのだ。
 だが改めて見てみると、いつの間にか予定は書き換えられ、『昼頃に出社予定』となっていた。
 いつの間に、と小声で呟いた堤は、電話を終えた女性社員に声をかける。
「藍田さん、何かあったのか?」
 女性社員は大仰に目を丸くしてから、堤をからかうように笑った。
「珍しいですね。堤さんにまだ、藍田副室長の情報が伝わってないなんて」
「……俺はあの人の、なんだと思われてるんだ」
 信奉者じゃないんですか、と真顔で言われ、堤は返事に窮する。自覚はあるが、他人から言われると、案外反応に困る。
「それで、藍田さんに何かあったのか。出張は昨日だっただろう」
「今朝連絡が入って、台風の影響で飛行機が飛ばなくて東京に一泊されたそうです。それで、今日の午前中の飛行機で帰って、昼には出社できる、とのことです」
「ああ、台風か……」
 こちらにはこないと知ってから、台風情報をチェックしていなかった。
 気が抜けた堤はイスに座り直すと、髪を掻き上げてから再び藍田のデスクに視線を向ける。
 いつもそこにいる人がいないと、やはり落ち着かない。藍田はオフィスの隅々にまで神経を行き渡らせる人だが、一方の堤は、藍田にだけ神経を配っている。それが堤にとって自然であり、日常なのだ。
 おかげで昨日から、調子が出ない。それに、不安でもあった。
 厄介なプロジェクトを任されてからの藍田を見ていると、唐突に堤は不安感や危機感を覚えることがある。藍田本人がいないとなると、その感情はより切迫感を増していた。
 こんな気持ちになる原因を、堤自身、よく理解している。
 ゆっくりと立ち上がると、何げないふうを装いながらブラインドが上げられた窓に歩み寄り、向かいのオフィスを見る。
 藍田ほど早くはないが、この時間にはいつも出社しているはずの男の姿がなかった。
 堤は軽く眉をひそめる。忌々しいが、胸の奥で不安感と危機感が大きさを増していた。


 オフィス企画部に足を運んだ堤は、さりげなくホワイトボードに視線を向ける。薄々予測はしていたが、このオフィスの実質的な主である大橋部長補佐は、出張中らしい。
「――……今日は静かですね、ここ」
 声をかけると、他の女性社員と話していた旗谷が、楽しそうな表情のまま堤を見上げる。
「あっ、いらっしゃい。はい、これが、言っていた資料」
 これからうかがうと事前に連絡を入れておいたため、旗谷はすぐにファイルを差し出してくる。礼を言って受け取った堤は、ファイルの内容を確認するふりをしながら、会話のほうに意識を集中する。
「静かなのは、補佐がいないからよ」
「出張って書いてありますね」
「そう。昨日から東京支社に出張なの。何があったのか知らないけど、突然。本当は日帰りだったんだけど、東京に台風が直撃したでしょう? それで飛行機が飛ばなくて、帰りが今日にずれ込んだのよ」
 頭の芯がスッと冷える。一瞬のためらいを覚えながらも堤は、こう切り出した。
「……偶然ですね。うちの藍田さんも、昨日から東京支社に出張です。しかも、日帰りだったのに、台風のせいで帰れなくなったのも同じです」
「一緒に行動してるみたいよ、補佐と藍田副室長」
 予測以上の事実だ。
 軽く目を見開いた堤を、悪戯っぽい表情で旗谷が見上げてくるので、少したじろぐ。
 大橋は、中身はいかに切れ者でも、どこか適当そうな雰囲気を漂わせているが、部下である旗谷は女性ながら、どんなに砕けた様子で会話をしていても、常に油断できない鋭さがある。
 いくら美人であっても、正直堤は――旗谷のような女性は苦手だった。
 それでもたびたび会いに来るのは、仕事上の必要性もあるが、このオフィスでは誰よりも大橋のことについて詳しそうだと思ったからだ。実際旗谷の、大橋に対する観察眼はかなりのものだった。
「……そうなんですか? 藍田さんからは連絡があったみたいですが、そんなことは……」
「藍田副室長的には、不本意なのかもね。補佐のこと、苦手にしているみたいだし」
「大橋さんも、同じみたいですけど」
 それがね、と言葉を続けた旗谷は、声を押し殺して笑う。
「そんな二人が、ホテルの同じ部屋に泊まったみたいなのよ。昨夜はどんなやり取りがあったのか知らないけど、多分台風のせいで部屋が取れなくて、やむなくそうなったんでしょうね」
「へえ……」
 いつものように笑えている自信はなかったが、旗谷が奇異の視線を向けてこないということは、うまく表情は取り繕えているらしい。
 堤は、床を蹴りつけたい衝動をなんとか堪えるが、胸の奥ではどす黒い感情が吹き荒れていた。
 怒りや苛立ち、それに焦燥――。あらゆるマイナスの感情が、大きな塊になっている。
「今朝、補佐からの電話でそのことを聞かされたときは、わたしもう、笑いを堪えるのが大変で。いい大人が部屋で掴み合うなんてことはないでしょうけど、クールな藍田副室長と、カッカしやすいうちの補佐が一緒にいて、どんな空間になっていたかと思うと……」
「楽しそうですね、旗谷さん」
「気にならない? あの二人がケンカしなかったのか、って」
 堤は微苦笑を浮かべて、首を横に振る。
「いくらなんでも、そこまでは……」
 傍で見ているほど、藍田と大橋の関係は険悪ではない。いやむしろ、親密だとすら言っていい。何をもって親密というか、基準は人それぞれだろうが、少なくとも堤の目から見てあの二人の関係は、危ういほど急速に親密さを増している。
 だから堤は嫌なのだ。まるで自分が、藍田から置き去りにされているようで。
 聞き出すべきことを聞き出して、堤は手にしたファイルを掲げて見せる。
「それじゃあ、ファイルをお借りします。明日には返せると思いますから」
「慌てなくていいわよ」
 堤は頭を下げてオフィス企画部をあとにした。
 考え込むときの癖で、歩きながら唇を指で強く擦る。藍田と大橋がホテルの同じ部屋に宿泊したと聞いてから、胸が悪くなる感覚とは別に、ひどく嫌な予感がしていた。
 同僚同士、男同士が同じ部屋に宿泊したところで、普通はなんら心配することはない。だが、藍田と大橋は別だ。大橋は、藍田にとって危険だと断言できる。
 震えていた藍田の手の感触が、いまさらながら思い出される。夜のオフィスで藍田は、普段の冷然とした姿を取り繕うこともできず、ただ混乱していた。その姿に堤は、柄にもなく庇護欲を刺激され、大胆にも藍田の手を握ったのだ。
 ただ、藍田があんなふうになったのは、大橋がなんらかの行動を起こしたせいだ。
 忌々しいと思う反面、藍田が片手だけとはいえ、信頼してくれたことが堤は嬉しかった。同時にあの時点で、堤の中で何かの歯止めがなくなったのは確かなのだ。
 だから今もこうして、どす黒い感情に気持ちが翻弄されている。
 堤は小さく舌打ちすると、脳裏に大橋の顔を思い描く。
「またあの人に、何かしたら……」
 許さない――。
 はっきりと心の中で呟いた瞬間、ジャケットのポケットの中で携帯電話が鳴り始める。足を止めて携帯電話を取り出した堤は、目を見開く。藍田の携帯電話からだった。
「もしもしっ」
 慌てて電話に出ると、ひんやりとしていながら不思議に耳に馴染む声が応じた。
『堤、今、電話は大丈夫か?』
「ええ」
『だったら今から、一階のロビーに来られるか?』
「……すぐに行きます。もしかして藍田さん、もう会社に?」
 うんざりしたように藍田がため息をついたが、思いがけず悩ましい響きに、聞いていた堤のほうがドキリとしてしまう。
 この人は自分のことに関しては、どうしてこう無防備なのか。
 寸前までどす黒い感情に翻弄されていたというのに、藍田の声を聞いただけで、堤はいつもの自分を取り戻せていた。
 藍田相手にも物怖じしない、ふてぶてしさと生意気さ。それが、堤らしさだ。
「藍田さん?」
『会社に戻ってすぐにバタバタするのが嫌だから、昼に戻ると言っておいたんだ。……みんなにはまだ言うなよ。こちらはまだ用があるから、呼び出されても身動きが取れない』
 それでも堤にこうして連絡してくれたのだ。すぐに行きますと、もう一度告げてから電話を切り、ちょうど停まっていたエレベーターに乗り込む。
 一階のロビーの隅に、藍田の姿はあった。片手には見慣れたアタッシェケースがあるが、意外だったのは、もう片方の手には土産らしい袋がいくつかあることだ。
 駆け寄ると、藍田はまだ昼前だというのに疲れた顔をしていた。だが、顔色そのものは悪くはない。
「台風は災難でしたね」
 堤が開口一番にこう言うと、らしくなく藍田は微妙に視線をさまよわせ、ああ、と声を洩らした。
 藍田の異変には敏感な堤は、あることを察していた。おそらく、大橋との間に何かがあった。それがなんであるか、推測するのはさすがに不可能だった。
「それで、どうかしましたか?」
「わたしはこれから、専務に報告に上がらないといけないのだが、その前にこれを――」
 突き出された袋を、条件反射で受け取る。中を覗けば、確かにお菓子らしい包みなどが入っていた。
 出張そのものが滅多にないということもあるが、藍田が土産を買ってきたのは、これが初めてかもしれない。
 思ったことがそのまま表情に出たらしく、藍田に怖い目で見つめられた。しかし堤は、かえって微笑ましさを感じてしまい、笑みをこぼす。
「これ全部、俺にくれるんですか?」
「そんなわけあるか。……わたしの代わりに、みんなに配っておいてくれ。女性社員は、こっちの紙袋で、あとは適当に分けろ」
「たくさん買いましたね」
「……東京支社で偶然一緒になった大橋さんに、言われるまま買ったんだ」
 露骨に顔が強張ったが、視線を伏せている藍田には気づかれなかったようだ。
「そうですか」
 不自然に沈黙が訪れそうになり、藍田のぎこちない態度を意識するのが嫌で、堤は冗談混じりに切り出した。
「で、俺だけの土産はないんですか?」
 こちらを見た藍田が、ちらりと笑みを浮かべる。その笑みを見た途端、堤の背筋は痺れていた。
 藍田が、堤が持つ紙袋の中に片手を突っ込み、見慣れた容器を取り出した。堤がよく買っているガムの容器だ。
「それ――……」
「前にお前の口に、ガムを放り込んだことがある。すっぱり煙草は止めたようだから、もう必要ないかとも思ったが、いまだにずっと、お前のデスクの上にはこのガムが常備してあるからな」
 藍田の手からプラスチックの容器を受け取った堤は、まばたきも忘れ、端正な上司の顔を凝視する。藍田は居心地悪そうに顔をしかめた。
「なんだ、気に食わないのか? 他の土産に手を出すななんて言わないから、好きなものを食べていいぞ」
「いえ、そうじゃなくて……嬉しいです」
「大げさだな。ただ思い出したから、買っただけだ。とにかく、頼むぞ」
 そう言い置いて、藍田は慌ただしく行ってしまう。その背を見送った堤は、土産に視線を落とす。
 藍田の性格からして、部下たちが自分の買ってきた土産を目の前で開けるのが、照れ臭くて見ていられなかったのだろう。
 ただ、堤が微笑ましい気分に浸っていられたのはわずかな間だ。
 土産を買ったのが大橋の勧めだと聞いて、一瞬カッとしかけた。藍田本来の行動が、大橋という男によって変えられていくのは、歓迎すべきことではない。
 大橋の存在に、猛烈に苛立たされる。
 正確には、藍田に関わり、藍田を変えようとする大橋が、嫌いだった。
 なんとかしなければ――。そう口中で呟いた堤は、オフィスに戻るため歩き出した。










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