サプライズ [4月期間限定/Extra 12]  



(1)

 俺はけっこう、藍田春記に懐かれているのかもしれない――。
 手にしたシャープペンをブラブラと振りながら、大橋 龍平はそんなことを考えていた。決して、春の陽気でおかしくなったわけではない。
 ふむ、と洩らした大橋は、視線を 藍田のデスクへと向ける。藍田は、きちんと背筋を伸ばした姿勢で、何か書いているようだった。
 四月も終盤に差し掛 かり、藍田が入社してそろそろ一か月経とうかという時期だが、職場への馴染みっぷりだけ見れば、藍田はかなり、〈できる 新入社員〉だった。
 一度言ったことはしっかりメモに取って覚えてしまい、自分から仕事を捜して真面目にこなしてく れるので、とにかく手がかからない。電話対応もソツがなく、一年先輩である大橋から見ても、大したもんだと感心するぐら いだ。顧客を任せてみれば、けっこうおもしろい営業マンになるかもしれない。
 俺には及ばないだろうが、と余計な注 釈を心の中で付け加え、大橋は口元を綻ばせる。
 入社初日から一か月という期間、藍田はあくまで研修として、首都圏 電材営業部第一課に配属されているのだが、残念ながら五月から、正式な配属先へと異動する。確か、経営管理部門のどこか の部署だったはずだ。
 つまり、もう五日もすれば、この部署――いや、このビルからすらいなくなってしまう。
  首都圏電材部や特需部は、東京支社とは別のビルに入っており、藍田が配属される経営管理部門は、その東京支社のビル内に ある。つまり、部署が変わると同時に、勤務地域も変わるのだ。
 そうなれば、もう顔を合わせる機会もほとんどなくな ってしまうだろう。
 やたら整っているくせに、愛想の欠片もない顔を見なくなるのは、それはそれで寂しい。迷惑そう にしている藍田に、あれこれと話しかけるのが大橋の密かな楽しみだったのだ。
 仕事での質問はしてきても、それ以外 では決して自ら誰かに話しかけることのない藍田。仕事や職場には馴染めても、社員には馴染もうとしない。それが、一か月 近く藍田を観察してきての、大橋の感想だった。
 先輩の社員の中には、そんな藍田を可愛げがないと言う人間がおり、 大橋も大部分でその意見には賛同している。
 ただ、可愛げがないから、話しかけても楽しくないかというと、そうでも ない。積極的に話しかける大橋に迷惑そうにしながらも、義務感からか生真面目に答える藍田の反応は、案外おもしろいのだ。
 藍田を相手にこんな屈折した楽しみ方をしているのは、大橋一人ぐらいだろうが。
 とにかく、大橋が一方的に話 しかけ、迷惑そうに藍田が答えるという関係のまま、藍田はいなくなるはずだった。
 ――昨日までは。
 実は昨日、 大橋に対して藍田が、驚くべき行動を取ったのだ。


 難しい顔をして、明後日に迫った事業方針発表会の準備をしていた大橋は、考えに没頭するあまり、加減を忘れてシャープ ペンをブンブンと振っていたが、勢い余って手から離れて飛んでいく。
「うあっ」
 慌ててシャープペンが飛んでい ったほうを見ると、いつからそこにいたのか、大橋のデスクの傍らに立っていた藍田が、床に落ちたシャープペンを拾い上げ ていた。
「おっ、サンキュー」
 黙って差し出されたシャープペンを受け取り礼を言った大橋だが、すぐに首を傾げ る。藍田が物言いたげな顔をして立ち尽くしているからだ。
 仕事で質問があれば、絶妙のタイミングで話しかけてきて、 質問を終えるとさっさと立ち去る藍田が、今は戸惑っているように見えなくもない。愛想がないのはいつものことだ。
  こいつのこんな顔は、初めて見たかもしれない。
 そんなことを思いながら大橋は、ニッと笑いかける。気が置けなくて 頼りになる先輩を演じるには欠かせない表情なのだが、他の新入社員たちには効果抜群でも、無愛想なツラを変えない藍田に 通用しているのかは、甚だ疑問だ。
「どうした、藍田」
「……聞きたいことがあるんですが」
「おう、なんでも 聞けよ」
 こう答えても、藍田は微妙に言いにくそうな空気を漂わせる。大橋はそんな藍田を、半ばおもしろがって眺め る。率直にものを言わない藍田が珍しかったのだ。
 一体何事かと思いながら、隣のデスクのイスを引き寄せて示す。デ スクの主は営業に出ているため、夕方まで戻ってこないはずだ。
「まあ、座れよ」
「微妙に仕事の質問とは言いがた いので、あとでもいいんですが……」
「固いこと言うな。俺も息抜きをしたかったんだ。方針発表会で、俺も壇上に立つ ことになったからな。その下準備がいろいろと面倒で」
 明後日開かれる事業方針発表会は、営業部においては欠かせな い、四月最大の行事だ。
 エリアごとに分かれた営業部がホテルなどの広間を貸しきって、今期の営業方針や数値目標、 前期の反省などを行うもので、若手営業マンとしては、なかなかの試練の場だ。
 営業畑に骨を埋める気のない大橋とい えど、しっかりとした発表内容を求められる。しかも、今年初参加だ。昨年は別の部署で研修中の身で、まったくの他人事だ った。
 イスに腰掛けた藍田に問いかける。
「そういや、お前も方針発表会には出席するんだよな」
「見学とい う形で」
「羨ましいねー」
 気楽に言って笑った大橋だが、対照的に藍田は、ぐっと眉をひそめた。
「……どう した?」
「やっぱり、参加しないとダメなんでしょうか」
「そりゃやっぱり、会社行事だからな。営業にとっちゃ、 方針発表会は大事なんだよ――と聞いた。正直俺もピンとはきてないんだが。とにかく大きな行事だ」
「いえ、そちらじ ゃなくて――……」
 本当に今日は珍しい。藍田が困ったような顔をしているのだ。どれだけ落ち着いて見えたとしても、 こうしていると、藍田が自分より一学年下で、まだ入社して一か月にも満たないのだと実感できる。
 おかげで大橋の中 で、先輩としての正義感と義務感が頭をもたげ、この無愛想な後輩の相談に真摯に乗ってやろうではないかという気分が盛り 上がる。
 思わず身を乗り出していた。
「なんだ。そちらじゃないなら、どちらだ?」
 わずかに口ごもったあ と、藍田はとうとう切り出した。重々しく、憂鬱そうに。
「……方針発表会のあと、打ち上げがあると聞きました」
「馴染みの料亭の座敷を押さえてるそうだぞ」
「また、ですか……」
 藍田のその言い方に、大橋は短く噴き出す。 確かに、また、なのだ。
「うちの会社は、社員間の親睦を深めるとかいって、この手のイベント多いよな。しかも、営業 は特に」
「今月はすでに、新入社員の歓迎会と、花見がありました」
「お前は知らないだろうが、その前に、異動し てきた人間の歓迎会もあったんだ」
 顔を背けた藍田がため息をつき、腕組みしてその様子を眺めた大橋は、声を上げて 笑う。ようやく、藍田が何を言おうとしているのか理解できたのだ。
「ああ、そうか。お前、飲み会が苦手なんだな」
「あまり酒は強くないので」
「黙ってジュースでも飲んでいればいいだろ」
 のん気な大橋の言葉に、藍田がキ ッと鋭い眼差しを向けてくる。なまじきれいな顔をしているだけに、迫力があると同時に、妙な気分になる。こいつにも喜怒 哀楽があるのだと、当然のことに気づかされるのだ。
「歓迎会も花見もそうやってましたけど、お茶やジュースを飲んで いると気づかれると、強引に酒を飲まされるんです。……あまり強く断ると、場の空気が悪くなるし……」
「お前もそう いうことを考えるんだなー」
 しみじみと洩らすと、また藍田に睨まれた。意外にこいつは、俺のことを先輩とは思って ないのかもしれないなと考えた大橋だが、悪い気はしない。睨みつけてくるのだって、無愛想な藍田からすると、打ち解けて いる証かもしれないのだ。
 なんとなく、機嫌の悪い子供の相手をしているような微笑ましい気分になりながら、大橋は こう提案してみた。
「だったら、打ち上げの間は、俺がお前についていてやるよ。お前の代わりに、俺が飲んでやる」
 眉をひそめていた藍田だが、その表情は次第に戸惑いを含んだものになる。
「……大橋さんに迷惑をかけるつもり で相談したわけじゃ……」
「気にすんな。俺は酒が好きだから。だいたい、悪しき風習とまでは言わないが、盛り上がっ ているからって、酒が苦手な奴にまで強引に飲ませてやろうっていう空気は、俺も好きじゃないしな」
 はあ、と気のな い返事をした藍田の肩を、乱暴に叩いてやる。スーツを着ていてもわかる、痩せた肩だった。
「だからまあ、打ち上げに 出ろよ。お前も一か月営業にいて、最後の最後で不義理するのも嫌だろうし、気分よく送り出してもらいたいだろう?」
「それは、確かに……」
 頷いた藍田が、探るように大橋を見る。
「……本当に、大丈夫なんですか? その――、 大橋さんを頼りにしても。こんなことを話せるの、大橋さんしかいないから、話だけでも聞いてもらおうと思ったんですが」
 殊勝な藍田の言葉を、大橋は心の中で反芻する。藍田に言われると、妙にくすぐったいというか、感動的だ。
「ド ンと任せろ」
 大橋が自信満々に断言すると、心なしか藍田の口元が綻んだ気がした。


 藍田が取った驚くべき行動とは、大橋を頼ったということだ。しかも、笑ったのだ――と大橋は思っている。
 人によ っては、そんなことかと呆れるだろう。だが、相手が藍田だと、これはもうすごいことなのだ。
 こうして大橋の出した 結論は、『俺はけっこう、藍田春記に懐かれているかもしれない』ということになる。
 一か月近く、藍田の迷惑顔も気 にかけず話しかけ続けた甲斐があるというものだ。
 昼休みを告げる音楽が流れ、オフィスにいる社員の何人かが昼食を とりに出かける。大橋も、書きかけの見積書を閉じると、ふらりと立ち上がった。
「藍田、昼飯食いに行かないか?」
 デスクに歩み寄って声をかけると、手を止めた藍田が顔を上げる。何を書いていたのかと覗き込むと、仕事の内容を書 き留めるノートをつけていたらしい。几帳面な性格を表すように、端正で細かな字が、びっしりと書き込まれている。
「俺のときもあったなー、そのノート。俺は、ほとんど使わなかったけど」
「言われたことを一度で覚えられる人は使わ ないでしょう。〈わたし〉は、あまり器用じゃないので、なんでも書くようにしているんです」
 藍田は学生時代からこ んな話し方をしていたのだろうかと、つい、そんなことを考えるぐらい、かしこまった話し方が板についている。大橋ですら、 取引先と話すときでない限り、ほとんど〈俺〉で通しているというのに。
「まあ、それより、メシ食いに行こうぜ。もう すぐお前とお別れだから、一度ぐらい昼メシを奢ってやろうと思ってたんだ。少し歩くが、美味いメシ屋がある」
「…… いえ、わたしはけっこうです」
「誰かと約束しているのか?」
 藍田は首を横に振る。それを見た大橋は、ふと、あ ることに気づいた。そういえば藍田は、昼休みになってもいつもオフィスにいる。大橋が営業に出ているときもあるため、さ ほど気に留めていなかったが、少なくとも大橋がオフィスにいる限りは、いつもデスクにいて、ときどきパンを齧っていた。
 不審そうな大橋の表情に気づいたのか、藍田は仕方なさそうに説明してくれた。
「あまり、食べることに興味ない んです。わざわざ食べに出かけるのも面倒ですし」
「――お前、変」
 大橋の率直な言葉に、ムッとしたように藍田 が唇をへの字に曲げた。
「誰でも、大橋さんのように大食漢だと思わないでください」
「だったらお前は、食わない からそんなに痩せてるんだよ」
「余計なお世話です」
 今度は大橋がムッとする番だった。
「お節介なのは、俺 の性分だ。だからお前も、俺に頼みごとをしてきたんだろう」
 一瞬藍田は、わけがわからないという顔をしたが、すぐ に昨日のやり取りを思い出したらしく、冷めた顔で言った。
「あれはもう、いいです。どうせ、数時間のことですから、 わたしが我慢すればいいことです。大橋さんにご迷惑はかけません」
「お前っ……」
 怒鳴りつけてやろうかとも思 ったが、当の藍田が何事もなかったようにノートをつけ始めたので、言おうとした言葉が行き場をなくす。
 腸が煮えく り返るような思いをしっかり堪能した大橋は、ようやくこれだけを言えた。
「――お前は可愛げがなさすぎるっ」
  藍田の反応は実にクールで、胸がざわつくような冷ややかな流し目を寄越してきただけだった。




 事業方針発表会は、昼から、ホテルの広間を貸し切って行われる。当日、自分の発表の準備をしっかり調えて会場を訪れた 大橋だが、思いがけないトラブルに見舞われた。
 上司が顔色を変えて歩み寄ってきたかと思うと、腕を掴んで会場の外 に引っ張り出されたのだ。
 そして告げられた内容を聞くと、自分の発表の心配をするどころではなくなった。
 大 橋はつい最近、会社を辞めた先輩から取引先の何社かを引き継いだばかりなのだが、そのうちの一社との取引で、行き違いが あったらしい。処理をしたのはその先輩で、大橋はまだ完全にすべてを把握しているわけではない。だが、とにかく、今の担 当は大橋だ。
 頼んでいた商品が届いていないと言われれば、なんとしても手配しなければならないのだ。
 事業方 針発表会はいいから、すぐに一緒に会社に戻れと言われ、一も二もなく頷いた大橋は上司とともにホテルをあとにした。
 誰もいないオフィスに戻ると、東京支社や関連会社、取引先の倉庫などに片っ端から電話をかける処理に追われる。
  なんとか商品の配送のメドが立つと、今度は上司とともに取引先に頭を下げに出かける。商品は確保できたとはいえ、指定さ れていた時間に半日も遅れてしまい、迷惑をかけたことに変わりはない。
 相手が、大橋の事情にも理解を示し、次から は気をつけてほしいという言葉だけで許してくれたのは、救いだ。
 会社に戻って報告書を書き上げたときには、すでに 夕方になっていた。
 予定ではもう事業方針発表会は終了し、料亭に移動して打ち上げが行われている頃だ。どうしよう かと思ったが、打ち上げだけでも顔を出せと上司が言ってくれたので、申し訳ないと思いつつも、オフィスをあとにする。
 営業部のみんなが、どんな顔をして出迎えてくれるかと思いつつ料亭に着いたとき、さらに日は暮れ、すでに辺りは暗 くなっていた。
 案内された座敷に身構えながら入ると、すでに、これ以上ないほど盛り上がっていた。
「――大橋、 たっぷり叱られたかー」
 こっそり入ったつもりだが、目敏く気づいた先輩の一人に、からかうように声をかけられる。 下手な慰めをかけられるより、よほどありがたい。
 大橋は豪快に笑ってみせた。
「先輩たちの前で緊張して発表す るより、よほど気が楽でしたよ」
「バーカ」
 ドッと座敷中が湧き、なんとか気まずさを感じなくて済む。すでに座 敷のあちこちでは、見るからに酔っ払っている社員もおり、いまさら大橋が戻ってきたことなど、気にもかけていない様子だ。
 大事な行事に出席できず、トラブル処理で半日以上を費やしてしまったが、一日の締めで美味い料理が食えて、美味い 酒が飲めるなら、ある意味、有意義だったかもしれない。
 どこに座ろうかと座敷を見回していると、同期の男に手招き される。ちょうど隣が空いていた。
「……あー、疲れた」
 座布団の上に座ると同時に、大橋は大きく息を吐き出し て、心の底からの言葉を洩らす。
「さすがのタフ男でも、疲れたか」
「当たり前だ。俺、取引先にあんなに頭下げる の、今日が初めてだぜ。何もこんなときに、って気がするけどな」
「まあ、飲め。飲んで、嫌なことはすっぱり忘れろ」
 突き出されたグラスを受け取ると、乱暴にビールが注がれる。大橋は片手でネクタイを緩めると、気合いを入れて一気 に飲み干した。


 空きっ腹に、調子に乗ってガンガンと酒を流し込んだせいか、いつになく酔いの回りが早いようだった。
 ただし、気 分は悪くない。辞めた先輩の置き土産ともいえるトラブル処理で奔走したとはいえ、この失敗は今後、大橋自身がフォローし ていけばいいことなので、いつまでもクヨクヨと落ち込んではいられないのだ。
 こういうとき、自分の能天気さがあり がたい。あと、ノリのよさも。
 仲間内で冗談を言い合って笑っていた大橋の視界に、新入社員の一人の姿が飛び込んで くる。すでに泥酔状態なのか、一応座ってはいるが、体が前後に揺れている。
 他の新人たちはどうしているかと、なん となく気になって見回してみる。うまく先輩社員たちに馴染んでいる者もいれば、一人で所在なく座っている者もいる。
 新入社員に限ったことではないが、何人かの社員の姿が見えないことに気づいて、大橋は傍らの同期に尋ねた。
「何人 かいないみたいだが、帰ったのか?」
「トイレじゃねーの。あと、救護室」
 なんだそれ、と洩らして大橋が同期を 見ると、顔を真っ赤にして笑いながら、隣の座敷に通じる襖を指さした。
「先輩が言うには、去年の惨状を参考にして、 隣の小さな座敷も貸し切ったらしい。うちの飲み会は容赦ないから、死人が出ないようにっていう配慮なんだと」
 どれ だけ凄かったのだと苦笑した大橋は、ようやく事情が呑み込めた。
「つまり――」
「ここにいる間はガンガン飲まさ れるから、つらいと思った奴は、隣の座敷で休め、ということらしい」
「人道的だ……」
「いやいや違うだろ。回復 したら戻ってこいってことなんだから、むしろ鬼畜だ」
 笑っていいものかと思いながら座敷内を眺めた大橋は、あるも のが足りないことに気づく。そこでもう一度、今度は、大勢いる社員たちの顔を確かめながら、辺りを見回す。
「……あ いつがいない……」
 何が足りないのかといえば、無愛想な藍田のツラが見当たらないのだ。思わず、同期の肩を乱暴に 小突く。
「おい、あいつ知らないか」
「あいつ?」
「藍田だ。というか、あいつは飲み会に出席したのか」
 まさか、事業方針発表会のあとに帰ってしまったのではないかとも心配したが、次の瞬間には、それだけはありえないと思 い直す。なんといっても藍田は、律儀だ。苦手だからという理由で、イベント事から遁走することはありえなかった。
  実際、同期の言葉がそれを裏付けた。
「いたぜ。乾杯したあと、先輩たちに囲まれて、飲まされていたから」
「…… 人気者だな、あいつ」
 昨日の、自分と藍田のやり取りを思い出し、大橋は苦い気分になる。酒が弱いという藍田が、勧 められるまま飲んだらどうなるか、なんとなく想像はつく。今はここにいないということは、考えられる事態は限られる。
 放っておくわけにもいかず、ため息をついて大橋は立ち上がった。
「大橋?」
「ちょっと冷たい水をもらって くる」
 一度座敷を出た大橋は、ちょうど忙しそうに廊下を歩いていた仲居に頼んで、大きなグラスに氷を浮かべた水を 持ってきてもらう。そのグラスを手に、隣の座敷を覗いた。
 こちらは小規模の団体が使う座敷らしく、広いとは言いが たいが、狭苦しさもない。一応テーブルには、酒を除いた飲み物が用意されており、数人の社員が憔悴しきった様子で、ちび ちびとウーロン茶を飲んでいた。
 ただ、座っている人間の中には、藍田の姿はない。
「トイレか……」
 呟い た大橋が何げなく座敷の隅に視線を向けると、ワイシャツ姿の男が畳の上に転がっていた。
 慌てて座敷の奥まで行き、 壁のほうに体の正面を向けた男の顔を覗き込む。
「――……藍田」
 藍田は、自分のジャケットを枕代わりにして目 を閉じていた。苦しげというより、ひたすら不機嫌そうな顔を見て、無意識に大橋は口元に笑みを浮かべる。
「座布団ぐ らい使えよ」
 小さく呟くと、藍田の傍らに座り込む。気分が悪そうなら水を飲まそうかと思ったが、横になっているの を強引に起こすのも可哀想だ。
 大橋は、藍田を見下ろす。いつも藍田の端然とした佇まいばかり見ていただけに、こう いうしどけない姿は新鮮だった。つい、珍しさもあって、まじまじと観察してしまう。
 畳の上に投げ出された両手や、 ワイシャツ越しだとよくわかる、薄い体。白い額にかかっている真っ黒の髪に、密度の濃い睫毛や神経質そうな眉。色の薄い 唇と、深くゆっくりとした息遣い。整っているというより、繊細に近い顔立ち。
 藍田春記とはこんな姿形をしていたの だと、一か月近くも側にいて、初めて知った気がする。
 愛想はないが、生真面目で律儀なこの男がもうすぐ目の前から いなくなるのかと思うと、大橋の胸にふっと寂しさが過った。
 後輩として、藍田はなかなか申し分のない存在だったか もしれない。
 昨日はひどいことを言ってしまったと、今になって罪悪感が湧き起こる。藍田があんな物言いなのは最初 からで、それがわかっていながら話しかけていたのは他でもない、大橋自身だ。
 昨日ムキになったのは、無愛想な藍田 に、感謝の言葉でも言ってもらいたかったからだろうかと考えると、自分で自分が恥ずかしい。
 鋭い藍田は、大橋のそ んな浅い考えを見抜いて、嫌がったのかもしれない。
「……それとも俺は、お前を買い被りすぎてるか?」
 目を閉 じたままの藍田は答えなかったが、代わりに、寒そうに体を丸めて肩を震わせた。隣の座敷は人の熱気で暑いぐらいだが、こ の座敷は、畳の上に転がっている人間にとっては、少し肌寒いかもしれない。
 大橋は、藍田の手の届かないところにグ ラスを置いて立ち上がると、隣の座敷に行き、放り出していた自分のジャケットを取り上げる。
 再び藍田の元に戻り、 そのジャケットを痩せた体にそっとかけてやった。
 なんとなく、立ったまま見下ろしていると、モゾリと動いた藍田が ジャケットを引き寄せて顔を埋めてしまう。
 噴き出したいのを懸命に堪えながら、大橋はこう思った。
 こいつも 案外、可愛いじゃないか、と。
 隣の座敷から大橋を呼ぶ大きな声が聞こえ、少しだけ〈可愛い後輩〉への離れがたさを 覚えながら、大橋は静かに藍田から距離を取る。
「よーし、張り切って飲むか」
 そう呟くと、隣の座敷に繋がる襖 を勢いよく開けた。








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