サプライズ


[2]


 こんな時期に取材を受けさせるなと、表向きは爽やかな笑みを浮かべつつ、大橋は心の中で広報室を罵倒していた。
 ただでさえ抱えている通常業務が忙しいうえに、厄介な『引っ越し』の準備係まで押し付けられたのだ。プロジェクトのメンバーを招集して、それ以外に独自に社員に声をかけ、なんとかプロジェクトとしての形を保てるところまできた。
 昨夜は――正確には今日の明け方まで、仕事をどう進めるか、大まかながら作業の進行表を作っていた。
 全ての部署で古い書類は処分させる。これは基本だ。余計な荷物まで持って、大阪から東京まで移動するのは、物理的にというより、予算的に問題がある。
「経済界にも、今回の発表は少なからず驚きを与えましたが、その辺りでプレッシャーというものはありますか?」
 やけにせっかちな口調の記者の質問に、そうですね、と応じながら大橋は視線を窓の外へと向ける。あえて、取材に同席している広報室室長のほうは見ない。睨みつけられるのはわかっている。
 すでに脚本のできあがっている取材だ。
 会社側としては、大阪から東京への移転構想はあくまで大胆な改革の一つであり、トーワグループの本拠地を東京に据えることで、経営基盤を強化するという姿勢を示したことになる。
 確かに、経済界にある程度のインパクトは与えただろう。あの東和電器がとうとう動いたのだ、と。
 動かざるをえなかった、と人の目に映ってはまずいわけだ。
 たかが『引っ越し』ながら、なかなか事情は込み入っている。目の前の、いかにも知識だけは頭に詰まっていそうな経済誌の記者が、どこまで把握しているのかは知らないが。
 大橋もできることなら何も気づかず、与えられた職務に邁進できればいいのだが、生来、勘は働くほうだし、好奇心も旺盛なのだ。
 おかげで、知りたくもない事情を知ることになった。
 自分ですら気づいたのなら、もう一人、厄介な職務を押し付けられた『奴』の頭にも、とっくに織り込み済みだろう。
「東和電器の歴史的な革新の場面に立ち合うどころか、若輩者のわたしが指揮を執るのですから、もちろんプレッシャーは感じます。でもだからこそ、やり甲斐も感じますし、期待にも添えたいと思っています」
 空々しすぎて、かえって言っていて爽快な台詞のオンパレードだ。
 大橋は苦笑を洩らす代わりに、嫌味なほど自信満々の笑みを浮かべる。すかさず、カメラマンが
シャッターを押す。
 多少、能天気な人間を演じているほうが何かと動きやすいという、大橋の計算だ。キレ者すぎると、牽制されるか、反感を買うか。とにかくロクな目に遭わない。
 再び窓の外に目を向けると、澄みきった青空に意識が吸い込まれそうになる。
 気軽な雰囲気のほうがいいからと、明るいミーティングルームで取材を受けているが、こんなに天気のいい日に自分は何をしているんだという気になる。
「それで、今後の進行についてなのですが、業務を続けながらとなると、何かと制約もついて大変ではないですか?」
 まだ質問があるのかと、危うく出そうになった舌打ちを寸前のところで呑み込み、大橋はにこやかな表情で答える。
「まあ、そうですね。わたしもまだ、詳細を聞かされていない部分もあるので、今後どうなるかはわかりません」
「事業部統合で、社内の枠組みが大きく変わるようですから、その点についての配慮も何か考えてらっしゃるようなことは?」
「そうですね、もう一つのプロジェクトと連動できれば、仕事はずいぶんやりやすくなるでしょうね。ただ、あちらのプロジェクトのほうが気苦労は多そうだ――」
「大丈夫です。執行部でも、サポートは惜しみませんし」
 横から口を挟んできたのは、広報室の室長だ。事業部の大幅な統合について、さすがに大橋が意見するのはまずいようだ。
 これ以上危険なことを言われてはまずいと判断したらしく、ここで強引に取材は打ち切られる。大橋はあっさりと解放され、ミーティングルームから放り出された。
 あまりまともにインタビューには答えなかったが、雑誌が出る頃には、広報室室長によって見事な創作が行われているはずだ。その点については大橋は心配していない。
「はー、やれやれ、やっと終わった」
 大きく体を伸ばしてから歩き出した大橋は、スラックスのポケットに手を突っ込む。
 自分がズブズブと、社内の暗部にはまっているのを実感する。だが、面倒だから嫌だと訴える機会は逃してしまった。もっとも最初から、そんな機会を与えられていたのかどうか、甚だ疑問だが。
 エレベーターホールまできて、エレベーターの扉の前に立つ。ちょうどエレベーターが到着したのを知らせる音に続いて、扉が開いた。
 最初にエレベーターから降りてきた人物の顔を見て、大橋は目を丸くする。さすがに、というべきか、相手はいつものように無表情で大橋を見つめ返してきた。
「……よ、よお」
 らしくないことだが、大橋はいくぶん緊張して声をかける。
 声をかけたことが迷惑なのかと問い詰めたくなるほど、エレベーターから降りてきた藍田は無愛想な表情を崩さない。
 いまさら目新しくもないが、やはり辛気臭い男だ。
 いつもなら声もかけず、見て見ないふりをする大橋だが、今はそうもいかない。なんといっても、こんな男でも大橋にとっては唯一の『心の支え』なのだ。
 自分のように上から厄介な仕事を押しつけられ、しかもその仕事は、自分よりも困難ときている。成功しようが失敗しようが、確実に敵を作る嫌な仕事だ。
「お前とは、専務室で顔を合わせて以来だな。これからミーティングか?」
「取材らしい。予定になかったが、どうしてもわたしから話を聞きたいんだそうだ」
「へえ、俺もいままで、その取材だった。お前が任された仕事についても質問されたが、広報室長に余計なことを言うなと、部屋から追い出された」
「――あんたはしゃべりすぎだ」
 きっぱりと、他人の欠点を言ってくれる男だ。
 大橋は唇の端をピクリと動かしてから、負けずに言い返した。
「だったらお前は、愛想がなさすぎる。一日中数字を相手にしてるにしても、お前の場合はひどすぎる」
 憎たらしいことに、藍田は眉一つ動かさない。大橋のほうも、なんで子供のようにムキになっているんだと内心で反省する。
 互いに軽いジャブを交わし合ったところで、大橋は自分がしている腕時計の文字盤を藍田に見せて問いかける。
「取材まで、まだ時間はあるのか?」
「ああ」
「だったら、少し俺につき合え。お前とは一度じっくり、膝を突き合わせて話したいと思っていたんだ」
 藍田は頷かなかったが、嫌と言わなかったということは、OKだということだろう。嫌という意思表示だけはしっかりする男だ。
 ちょうど喫煙ルームが空いているので、そこに二人で入ったが、このとき藍田がわずかに眉をひそめた。
 隣合ってイスに腰掛けると、さっそく大橋は切り出す。
「――他から、もうすでに何か言ってきているんじゃないのか」
「何か?」
 正面を見据えたまま藍田が応じる。向けられている端整を極めたような横顔はピクリとも動かない。
 わかっていてとぼけているのは確かだろうが、大橋はガシガシと頭を掻いてから仕方なく説明する。
「もう社内中の人間が知っている。事業部の統合とはいっているが、実際は廃止のほうが目的だってことは。部署によっては……特に営業部門の不安は強いだろう。だからこそ、数字の温室で生きてるようなお前相手なら、どうとでも丸め込めると考えるバカがいても不思議じゃない」
「新機能事業室の仕事をバカにしているのか」
「……誰もそんなこと言ってねーだろ。というかお前、一年とはいえ俺は先輩なんだから、もう少し柔らかな言葉づかいをしろよ」
 ささやかな抗議をすると、藍田から冷めた視線をちらりと向けられる。
「わたしの記憶では、あんたのところの部下たちは、もっと砕けた言葉づかいで、あんたと接していたと思うが」
「つまんねーこと覚えてやがるな」
「そんなことが言いたいのなら、わたしはもう行くが――」
 立ち上がろうとした藍田の肩を、慌てて大橋は押さえる。
「知り合って十二年経つが、変わらねーな、お前は」
 藍田が入社してきたとき、研修で一時同じ営業部門の仕事をしたことがあったのだ。
 決して大橋は、オフィス企画部一筋でやってきたわけではない。だからこそ営業部門の苦境は理解できるのだ。だが今は同情よりも、どう冷徹に乗り切るかのほうが重要だ。
「……取り付くしまがないというか、なんというか。そんなだと、部下も苦労しているんじゃないか。ただでさえ、お前が任された仕事は敵を作りやすいんだ。お前自身が、うまく立ち回るなんて考えない奴だからな。だからせめて、信頼できる部下を持つために――」
「わたしのバリアーになると言った部下がいる」
 そりゃ物好きな……、と思った大橋だが、口には出さない。しゃべりすぎる大橋でも、言っていいことと悪いことの分別はつけているつもりだ。
「いい部下じゃないか」
「本社が移転を完了させる時期には転職するらしいから、その前におもしろいことに首を突っ込んでおきたいらしい」
 大橋は、ゴホッと咳き込む。そんな話をする部下も部下だが、おそらく藍田は淡々として聞いていたのだろう。容易にその場面が想像できる。
「上司が上司なら、部下も部下で変わっているな」
「あんたに言われたくはない」
「俺は柔軟だからな。つき合いやすい上司だと思われているんだ。お前とは種類が違う」
 ここで藍田が何を思ったのか、薄い唇を歪める。笑っているのかバカにしているのか、実に微妙な表情の変化だ。
「……なんだよ。言いたいことがあるならはっきり言えよ」
 藍田が、ゾクッとするような冷めた流し目を寄越してきた。
「いや、柔軟すぎたから、あんたは二度も離婚を経験したのかと思って」
「あー、あー、どうせ俺は、女を幸せにできない甲斐性なしだ」
「――だが、人望はある。仕事もできる。どういうわけだかな」
 人望もなく仕事ができる人間のほうが、才能としては上だ。大橋は苦々しく顔をしかめてから、ふと視線を喫煙室の外に向ける。
 大橋と藍田が話している様子がどんなふうに見えるのか知らないが、喫煙室に入ってこようとした社員たちが、二人に気づくと即座に回れ右して引き返してしまうのだ。少なくとも、和やかに談笑しているように見えていないのは確かだ。
 藍田が自分の腕時計で時間を確認してから立ち上がり、まっすぐドアに向かった。
 大橋は、その藍田の後ろ姿に視線を奪われる。身長が高いせいもあるが、すらりとした痩身は姿勢がよく、何者も寄せつけない毅然とした迫力がある。それでいて、人目は引くのだ。
 こいつはこいつで、中身と外見のバランスは取れているのかもな。
 そんなことを漠然と思った大橋だが、急に藍田が振り返ったので、内心慌てる。
「で、あんたの言いたかったことは、結局なんなんだ」
「お前は、俺の心の支えだ」
 大橋の突拍子もない発言に、さすがの藍田も軽く目を見開く。
 いい気味だ、と内心で手を叩きながら、大橋はニヤリと笑いかける。
「俺とお前は、不幸をともにしているんだ。上からとんでもない仕事を押しつけられた、っていうな。だがお前のほうが、不幸の度合いは少しばかり上だ。だから、心の支え、だ」
 怒るかと思われた藍田だが、納得したように頷く。この程度で感情的になっていては、『藍田春記』ではないということか。
「……春なんてノンキな字がついているのに、ツンドラみたいな男だな……」
 大橋は小さく独りごちる。さすがに藍田の耳には届かなかったようだ。
「――それであんたは、わたしの不幸を笑いたいから、ここに連れ込んだのか?」
「俺はそんなにヒマでも、陰険でもねーよ。俺とお前の違いなんて、ほんのわずかなもんだ。俺も、一歩どころか、半歩違えば、お前の立場だ」
 手を組むべきだ、と大橋は声を潜めて告げる。藍田はわずかに眉をひそめた。大橋の話に興味を示した証拠だ。
「潰れても惜しくない若手として、俺とお前は上に認知されたんだ」
「そうだな」
「だからこそ、上のいいようにならないためにも、俺とお前は手を組むべきだ。共闘だ」
「……あんたの話は物騒だ。今回のことはあくまで、単なる仕事だ」
「本気でそんなめでたいことを考えているのか? 藍田春記ともあろう男が」
 藍田は返事をしないまま、もう一度腕時計に視線を落としてから、喫煙室を出ていった。
 一人となった大橋は、腕組みをして首を傾げる。なぜあんなにも熱く藍田に話しかけたのか、自分でもよくわからなかった。
 藍田に合わせて、クールに話すつもりだったのだ。
「まあ、ほいほいと俺の話に乗るような男じゃないのは、わかっているが……」
 大橋も立ち上がり、オフィス企画部に戻る。
 デスクにつくと、待ちかねていたように旗谷が歩み寄ってきた。
「どうでした、取材は?」
「俺の素晴らしい受け答えに、記者の目からウロコだ」
「――まともに答えさせてもらえなかった、というところですか。その口ぶりなら。どうせ、広報室の室長でも同席していたんでしょう」
 まあな、と答えた大橋は頭の後ろで両手を組み、勢いをつけて窓のほうに体の正面を向ける。向かいのオフィスの、空席の藍田のデスクを眺める。
「あら、藍田副室長がいない……」
「あいつも取材だ。途中でばったり出くわしたとき、いつもの仏頂面でそう言ってた」
「でも、写真映りは抜群だと思いますよ」
「……それは認めてやろう」
 藍田の毅然とした後ろ姿を思い返し、大橋は頷く。背後から、旗谷が洩らすクスクスという笑い声が聞こえてくる。
 確かに自分の部下たちは藍田が言う通り、多少上司に対して砕けすぎかもしれない。
「それで、藍田副室長とは、楽しく歓談でもされたのですか?」
「あいつとそんなものができるわけねーだろ。まだ、宇宙人とのほうが見込みがある」
「今度、藍田副室長と会うときがあったら、補佐がそうおっしゃっていたと報告しておきますね」
 大橋はイスの向きを元に戻すと、上目遣いに旗谷を見上げる。昨日、飲みに連れていってくれという誘いを断ったのを、根に持たれているかもしれない。咄嗟に大橋はそう考えてしまった。
「――ズバリ聞くぞ、旗谷。お前は、俺と藍田、どっちの味方なんだ」
「イイ男の味方です」
「女として、ある意味あっぱれな意見だ……」
 大橋は軽く手を振り、仕事に戻れと示す。旗谷は素直に自分のデスクに戻り、パソコンと向かい合う。このときにはもう旗谷の表情は、やり手の主任のものに戻っていた。
 藍田はオフィス企画部を、秩序のない動物園か何かだと思っているのかもしれないが、ケジメはしっかりつけているつもりだ。
 もっとも、大橋は新機能事業室に足を踏み入れたことがあるが、あの、電話も滅多に鳴らない静かな空間で仕事をしていると、確かにここは騒々しすぎるだろう。
「だからといって、閉じこもってばかりはいられないだろ、藍田……」
 大橋はイスの背もたれ越しにもう一度、新機能事業室のオフィスを振り返った。




 電話を切った藍田は、静かに息を吐き出してから、腕組みをする。
 いよいよ動き始めたか、という感じだ。ここから動きたくはないが、だからといって無視するわけにはいかない。
 藍田はすぐに腕を解くと、足元に置いてある自分のアタッシェケースをデスクの上に置き、必要なものを無造作に詰め込んでいく。
 ふと視線を堤に向ける。ワイシャツ姿で袖を捲り上げた堤は、パソコンとファイルを交互に見ながら、一方で片手では忙しなくシャーペンをクルクルと回している。藍田は他人のあの動作が嫌いだ。
「――堤」
 静かなオフィス内に、藍田自身の冷ややかな声が響く。ピタリと堤の手の動きが止まり、こちらを見る。藍田は軽く指先を動かして呼び寄せた。
「どうかしましたか?」
 藍田の反応をうかがうというより、観察するような堤の眼差しが見下ろしてくる。藍田はアタッシェケースを閉じながら、低く抑えた声で堤に問いかける。
「お前、先週わたしに対して言ったことは本気か?」
 堤は考える素振りすら見せず、ゆったりと笑いながら頷いた。
「本気ですよ。バリアー、ですよね? 別に弾除けと呼んでもらってもいいです――」
「余計なおしゃべりをしている余裕はない。さっさと出かける準備をしろ。これから出かける。運転はお前がしろ。それと、きちんとジャケットを羽織ってこい」
 藍田が端的に指示すると、目を丸くした堤はすぐに薄い笑みを浮かべてから、自分のデスクに引き返す。立ったままパソコンの電源を落とし、ワイシャツの袖を下ろすと、素早くジャケットを着込んでブリーフケースを脇に抱える。
 それを待ってから藍田もアタッシェケースを手に立ち上がり、近くの部下に外出することを告げる。
「――それで、俺が運転するのはかまわないんですが、行き先を教えてくれませんか」
 エレベーターに乗り込んで二人きりになったところで、堤が口を開く。藍田は行き先であるホテルの名を告げた。
「打ち合わせですか?」
「東京支社の管理室室長が宿泊されている。今日の午後からの本社の会議に出席されるらしいが、その前にわたしと話がしたいそうだ」
「……午後にはここに来るのに、藍田さんを呼びつけたんですか」
 こう言った堤の声には嘲るような響きがあった。その理由を、本人が口にする。
「やることが露骨ですね。どちらの立場が上かわからせるために、そんなことをやるなんて。理由をつけて断ればよかったのに。会社でお会いしましょうとでも言って」
「わたしが出向いて気が済むなら、それでいい。それに、本社の人間にはなるべく見られたくないらしい」
 藍田の考えが理解できたらしく、堤は声を洩らして笑う。
「つまり俺を同行させるのは、嫌がらせですか」
「バリアーになるんだろう。わたしの」
「両手が届く範囲で、藍田さんをお守りしますよ」
 女ではないのだから、と言いかけて、藍田はやめる。考えるだけでむず痒いのに、口に出すと鳥肌まで立ちそうだ。
 藍田が反応を示さないでいると、堤は露骨に大きなため息をついた。
「つれないですね、藍田さん。せっかくの冗談には、何かしらの反応が欲しいですよ、俺は」
「――ここで別れるか?」
「……はいはい。おとなしく、お供させていただきます」
 よくしゃべる男だ、と思った藍田はふと、つい三日ほど前に取材の前に会話を交わした大橋のことを思い出す。あの男もよくしゃべるが、堤とは根本的にタイプが違う気がする。
 大橋は、感情表現がストレートなのだ。だから向き合って話していると、本音を言っているかどうか、ある程度把握できる。また大橋自身、相手に把握させることで安心感を与えるという、妙な高等テクニックを使う節があった。本人が意図しているかどうかは謎だが。
 一方で堤は、話すことすべてに何か裏があり、打算を含んでいるのではないかと思わせる。本人にその気があろうがなかろうが、これもまたある種の話術であり、才能だ。
 もっとも藍田にとって共通しているのは、どちらと話していても疲れる、ということだ。 藍田の一言が効いたのか、堤は黙って車のハンドルを握る。おかげで藍田は助手席で、仕事の資料を開くことができる。
 しかしそれも十分ほどのことで、信号で車が停まったのを機に、堤が口を開いた。
「――聞かないんですね」
 藍田は言葉では応じず、堤にちらりと視線を向ける。堤も心得たもので、話を続ける。
「俺がどこの会社に移るのかとか、今の会社のどこに不満なのかとか」
「不満の中に、上司が嫌だった、というのはないのか」
「それはないですね。嫌どころか、俺は藍田さんの下で働くのは好きですよ。あなたは、鮮烈です。毎日、何時間眺めていても飽きない」
 わたしは珍獣か、と藍田は心の中で呟く。
「ただ、東和電器という会社には、正直愛想が尽きました。旧態依然としすぎて、息苦しくて仕方ない」
 そして堤が口にしたのは、外資系銀行の名だった。
「そこで、今と同じ仕事に就く予定です」
 藍田は返事をしなかった。半年後に堤がどこでどんな仕事をしようが、さほど興味はない。重要なのは、この先半年間、自分の片腕としてしっかり仕事をしてくれるかどうかだけだ。
 藍田の無反応の意味を正確に把握したのか、堤は低く笑い声を洩らした。
「大丈夫です。引き受けた仕事は完璧以上にこなすよう、努力はします。こんなに藍田さんの側にいられるなんて、これまでなかったですからね。はりきっていますよ」
 どこまでが本心なのかと推し量る気はなかった。そうか、と短く応じ、また資料に視線を落とす。
 どういう意味か、堤はハンドルを握ったまま肩を竦めた。
 ホテルに着くと、藍田は堤を伴ってロビーを歩く。待ち合わせの時間より五分ほど早く着いたが、ティーラウンジには、すでに東京支社の管理室室長である田山の姿があった。
しかも一人ではない。記憶にない男が隣に座っている。
 ただ、誰かを伴っているというのは、予測していた事態だし、堤を連れている藍田も人のことはいえない。
「待ち構えてますね」
 斜め背後で堤がぼそりと洩らす。藍田は振り返り、余計なことを言うなと軽く睨みつけた。
「――お待たせしました」
 田山の傍らに立ち、声をかける。新聞を広げていた田山は、じろりと威圧するように藍田を見上げてきた。田山は五十代前半の小柄な男で、尊大な態度が名刺代わりとなっている。ただ、その尊大な態度と体格のギャップがありすぎて、人によっては失笑を洩らしかねない。
 おざなりに正面の席を示されたので腰掛ける。その隣に堤も腰掛けると、田山は不機嫌そうな表情を隠しもせず尋ねてきた。
「その男は?」
「わたしの部下です。それに、今回のプロジェクトの一員でもあります」
「堤です」
 すかさず堤が一礼するが、このときには田山の視線は藍田に戻されていた。藍田は静かに田山を見つめる。
 藍田の眼差しに居心地悪そうな顔をしてから、田山は隣の男を紹介した。
「東京支社の革新本部の部長だ。君の話に興味を持っていたから、同席させた」
 藍田は名乗って会釈するが、相手は口を開くどころか頭も下げない。ただ探るような眼差しを藍田と堤に向けてくるだけだ。そこにあるのは、明らかな敵意だ。
 東京支社の存在を、もう一つの『本社』と揶揄する声がある。実際、大阪本社と東京支社の間には、確執がある。どちらがトーワグループの主導権を握っているのか、裏で激しく競い合っているのだ。
 大阪に比べ、流通も情報も、人脈すら把握しやすい環境にある東京支社は、『支社』としての立場を忘れていると、大阪本社の上層部はよく憤慨している。
 一方の東京支社の上層部は、本社は自分たちがいないとやっていけないという、自尊心とも驕りともつかない態度を隠そうともしない。
 そのおかげで、同じ会社内で衝突が起き、行き着く先が本社移転であり、現在存在するパワーバランスを崩すための事業部統合なのだ。
 東京支社をトップに置こうとしている人間にとっては、事業部統合プロジェクトのリーダーである藍田は、忌々しいというより、憎悪の対象だろう。
 田山も、藍田にそんな感情を抱く人間の一人だ。
「プロジェクトの準備は進んでいるかね」
「ええ、なんとか人は集まりました。今は手分けをして、各事業部の資料を集めています。新機能事業室にはある程度のものは揃っていますが、さすがに人事も絡んでくることですから。今後は事業部の管理者の方々へ、面談を行いたいとも考えています」
「……君が、やるのかね?」
 念を押すように問われたが、藍田は気づかなかったふりをして頷く。
「わたしがリーダーですから」
「この、新人に毛が生えたような若造を片腕にかね」
「堤は優秀な社員ですよ。だからわたしも、プロジェクト参加に推薦しました」
「――本社の人事部部長に、何か吹き込まれたわけではないと?」
 藍田はまっすぐ田山を見据える。
「あのプロジェクトを一任されたのはわたしです。人事部長はあくまで、アドバイザーとして加わっていただいているだけです」
「どうだかな」
 そう言ったのは革新本部部長だ。確かに、何かと口を出したがる人事部部長だが、藍田は完全に牽制して動きを抑えている。しかし、こちらの内情を他人に説明する義理も義務も藍田にはない。
 だいたい、まわりくどい話は嫌いだった。
「――言いたいことがあるようでしたら、単刀直入におっしゃってください。わたしもこれでも、忙しい身ですから、こうしてホテルに足を運ぶだけでも、部下たちに負担をかけています」
 藍田の発言に鼻白んだ表情となった目の前の二人だが、田山はすぐに気を取り直したように、傍らに置いてある封筒を藍田の前に突き出してきた。
 受け取った藍田は、さっそく中から綴じられた書類を取り出す。
「これは?」
「東京支社独自にシミュレーションした、事業部統合による東京支社への影響だ」
 愚にもつかないものを作ったものだと、内心冷ややかな感慨を覚えながら、藍田は気のない視線で書類をめくる。
 ようは、東京支社としては、これだけの統廃合にしか応じられないという、決意表明のようなつもりで作成したのだろう。
 最大の目的は、藍田に対するプレッシャーだ。東京支社が示した以上の統廃合は考えるなという。
「我々としては、君を評価しているし、新機能事業室の時期室長としても申し分ない人材だと思っている。だからこそ、君には今ここで下手な孤立はしないでもらいたい。それでなくても、何かと反感を買いやすい部署に身を置いているのだからな」
 書類から視線を上げない藍田に、田山は恩着せがましく話しかけてくる。
 ふと、傍らで気配が動く。見ると、堤も身を乗り出して、藍田の手元を覗き込んできていた。書類の意味を知ったのか、口元には皮肉っぽい笑みが浮かんでいる。
「言いたいことはわかるね? 君は聡い人間だと、理解しているのだが……」
 藍田は書類を閉じて顔を上げると、淡々として告げた。
「参考資料にはなりませんね、この書類は」
「なっ……」
「どの事業部を統合――統廃合するかは、これから決定することです。こちらで納得のいく資料を揃え、論議をして。ですから、余計な情報は入れたくありません」
 このときも藍田は、他人の神経を逆撫でると言われる、おもしろみのない表情と口調は崩さない。
「はっきり申しますが、今回のような依頼をされてくるのは、あなた方だけではありません。もっとも、東京支社の方が、わざわざこういったものまで用意して、検討を依頼されてくるのは初めてですが」
「……つまり、我々の提案を受け入れる気はないということか。我々を……東京支社を敵に回すということだぞ」
「なんとおっしゃられようと、わたしはわたしの考えを変えるつもりはありません」
 陰でこんなやり取りを何度交わしただろうかと、藍田は辟易していた。誰も彼も、保身のために出る言葉は同じだ。
 だがこれで気が済むのなら、いくらでもつき合うつもりだった。公の場以外で、他人と激しい議論を交わすほど、藍田に余分な体力はないが、どうせ禍根を残すなら、言いたいことは言ったほうがいい。
 これは議論というより、言いがかりというレベルだが――。
「若くして出世して、いい気になるなよ。藍田。お前は所詮、会社にとって都合のいい若手でしかないんだ。おだてられていい気になっていると――」
「あなた方のようになりますか」
 さらりと出た藍田の言葉に、この場の空気が凍りつく。だが次の瞬間には、田山と革新本部部長は顔を真っ赤にする。そこに、怒りの火に油を注ぐように、堤が噴き出す。
 藍田は、ひとまず書類は預かることにして、封筒に入れようとする。何か問題が起こったとき、こういった証拠は一つでも揃えておくほうがいい。藍田としても、上の思惑でいい様に扱われたいわけではない。
「貴様っ、調子に乗るなよっ」
 そう声を荒げた田山が、テーブルに置かれたカップを乱暴な手つきで掴み上げる。中には、まだコーヒーが入っていた。
 コーヒーをかけられるとわかった藍田だが、咄嗟に体は動かない。
 このとき、藍田の目の前に堤の顔が迫る。自分に覆い被さってきたのだと理解した次の瞬間には、藍田は押し退けた堤の背を確認する。ジャケットにコーヒーがかかってきた。
「何をしてるんだ、お前はっ」
 藍田は声を荒げると、強引に堤のジャケットを脱がせる。夏物のジャケットが薄いせいで、ワイシャツにまでコーヒーが染み込んでいる。
 堤はこの状況で得意げに笑った。
「言ったでしょう。あなたのバリアーになると。コーヒー程度なら、まだ軽いものですね」
「バカかっ。火傷したらどうするんだ」
 自分のハンカチとおしぼりを使いながら、堤のワイシャツやジャケットにかかったコーヒーを拭く。その傍ら、藍田は田山と革新本部部長を鋭い眼差しで見据える。
「――もう、用はお済みでしょうか?」
 藍田の迫力に気圧された様子だったが、一拍置いてから田山が口を開く。
「とにかく、我々の気持ちは伝えた。それに応えたほうが君のためだということだけは、忘れるなよ」
 二人は慌ただしく席を立ってティーラウンジから出ていく。だが藍田はその後ろ姿に一瞥すら向けず、ジャケットを叩くようにしてハンカチにコーヒーを染み込ませていく。
「お前は洗面所に行って、コーヒーがかかった部分を冷やしてこい」
「大丈夫ですよ。コーヒーは冷めていましたから」
 悠然とした口調で答える堤を、藍田は睨みつける。
「ああいう危ない真似はするな。わたしがバリアー云々といったのは、議論の場でのことだ」
「ダメですよ。俺は決めてますから。――藍田さんを体ごと守るって」
 しれっとして返してきた堤は、妙に楽しげな表情で藍田を見つめてくる。
「……さっき痺れましたよ。藍田さんが怒鳴った声を聞いて。あなた、厳しいくせに、滅多に人を怒鳴るなんて野蛮なことはしませんからね」
 俺がやります、と言って堤が藍田の手からジャケットを取り上げる。そして、さらに手を差し出してくる。
「ハンカチ、くれませんか?」
「もう汚れているぞ、これは」
「かまいません」
 自分のハンカチぐらい持っていないのかと思いながら、堤の手の上にハンカチをのせようとして、前触れもなく藍田はハンカチごと手を握られた。
「おい――」
「新しいのを買ってお返ししますよ」
 手からするりとハンカチを取られる。堤は、汚れているうえに濡れた藍田のハンカチを、無造作にジャケットのポケットに入れてしまう。一連の堤の動作を、藍田は黙って見つめるしかできなかった。
 まだ、さきほどの田山や革新本部部長の言動のほうがよほどわかりやすい。
 彼らに比べれば、堤という男は、藍田の理解を遥かに超えた奇妙な存在だった。









Copyright(C) 2007 Nagisa Kanoe All rights reserved.
無断転載・盗用・引用・配布を固くお断りします。



[1] << Surprise >> [3]