サプライズ


[3]


 ホテルの正面玄関前で車を停めてもらい、大橋は助手席から降りる。蒸れた空気に顔をしかめつつ、開けたドアから運転席の後藤に言った。
「まだ時間があるから、ラウンジで茶でも飲むか。暑くてかなわん」
「いいっすね。先に行っててください。駐車場に車を入れてきますから」
「おう」
 大橋は勢いよくドアを閉めてから振り返る。
 今日の午後から、ホテルの会議室を使って、トーワグループのシステム担当者たちが集まっての報告会があるのだ。準備については部下たちがやってくれているので、大橋はのんびりとしたものだ。
 普段は忙しくしているので、こういうときぐらい手抜きをさせてくれというのが、正直な気持ちだ。
 ホテルに入ろうとしたとき、正面玄関の自動扉が開き、中から慌ただしく、スーツ姿の男二人が出てきた。道を開けようとした大橋だが、相手の顔を見て思わず足を止めてしまう。相手にしても同じで、大橋の顔を見て動きを止めた。
 東京支社の管理室室長で、もう一人は同じく東京支社の革新本部部長だ。なぜここに、と思ったが、今日本社で会議が入っていたのを思い出した。
 しかし、と次の瞬間には大橋は首を傾げる。いくら外は暑いとはいえ、涼しいホテル内にいたはずの二人が、なぜこうも顔を真っ赤にしているのかと疑問に思った。
「やあ、どうも。これから本社ですか?」
 煙たい相手だからといって露骨に無視するわけにはいかず、大橋は愛想よく声をかける。すると管理室室長は、予想外の反応を示した。
 突然、詰め寄ってきたのだ。
「お前といい、藍田といい、東京支社をないがしろにするのもいい加減にしておけよっ。どうせ、期間限定で与えられた権力だ。さんざん振り回してから、あとで後悔しろっ」
「……はあ? さっぱり話が見えんのですが、なんかあったんですか……」
 表面上は穏やかな物腰を保ちながらも、大橋は体格差を見せつけるようにして管理室室長を威圧する。
 二人が怯んだ表情を見せる。大橋はピンとくるものがあり、いくぶん低い声音で問いかけた。
「藍田、とおっしゃいましたよね? 彼とはプロジェクトの関係でいろいろと協力し合っているものですから、彼に何か用件があるというなら、わたしの口から伝えるようにしますが……」
「用件ならもう伝えた。だがあいつは、我々の話を聞く耳など持たん」
「あいつ、とは穏やかではありませんね。どんなことを話されたのです?」
 薄々とながら事情が読めてきて、大橋は穏やかな物腰をかなぐり捨てる。
「藍田の元には、殺到しているらしいですよ。自分たちがいる事業部に対しては、今回の統廃合の選考から外してくれないか、と頼んでくる輩――輩というのはまずいですな。なんといっても、わたしなどより立派な方々ばかりだ」
 ここで、わざとらしく大橋は目を丸くして見せる。
「まさか、管理室室長たちも、そんなみっともないことをするために、藍田を呼び出したわけではないでしょうね」
 二人がぐっと言葉に詰まったのを見て、心底、藍田の苦労を思わずにはいられない。藍田の元に陳情が殺到しているというのは単なるハッタリだったのだが、この様子ではあながち大げさでもないようだ。
 毎度毎度こんな連中を相手にあの男は、人の神経を逆撫でる無表情と、無愛想な口調で対応しているのだろう。
「我々は、これから本社で会議だ。君と無駄話をしている暇はない。これで失礼する」
 大橋は、待っているタクシーに乗り込む二人の中年の姿を見送る。
 タクシーが走り去ると、思いきり顔をしかめて髪を掻き乱しながら、やっとロビーに足を踏み入れる。
 程よく効いた空調のことよりも今は、藍田のことが気になった。
「――ホテルからあの二人が飛び出してきたということは……、ここに藍田はいるのか?」
 独りごちてから、ぐるりとロビー内を見回す。
 そして、大橋が向かおうとしていたティーラウンジに、ソファに腰掛けても変わらない、真っ直ぐに背筋を伸ばしている藍田の姿を見つけた。
「やっぱりか……」
 歩み寄ろうとした大橋は、ここで意外な光景を目にする。藍田が隣に座っているワイシャツ姿の男と何か話していた。
 藍田がハンカチらしきものを男に手渡そうとして、手を掴まれる。ふざけ合っているようにも見えるが、相手の男はともかく、藍田はいつもの無表情だ。ここで大橋は、男が新機能事業室にいる藍田の部下だと思い出す。
 藍田に、特定の部下を可愛がる人間らしいところがあったのだと、なぜか複雑な気持ちになりながら、大橋は藍田の傍らに立った。藍田ではなく、その部下が先に気づいて顔を上げる。
「大橋部長補佐……」
 部下の声に応えるように、藍田も顔を上げる。どういう意味か、大橋を見た途端、険しく目が細められた。
「よお、意外なところで会うな。何してるんだ」
 大橋の問いかけに、藍田は質問で返してきた。
「あんたこそ、何をしているんだ」
「俺はこれから、このホテルの会議室で報告会があるんだ。で、お前は何をしているんだ」
 一瞬藍田は、迷惑だ、と言いたげな顔をしてから、ぶっきらぼうに答えた。
「――何も」
「ほお、堅物で有名なお前が、部下とホテルのラウンジでさぼりか? 今さっきホテルの前で、茹でダコみたいに顔を真っ赤にした、東京支社の管理室室長と革新本部部長に会ったぜ。お前への恨み言をぶつけられた」
「わかっているなら聞かなくてもいいだろう」
 藍田が、テーブルの上に置かれた綴じられた書類を手に取ろうとしたので、大橋は素早く先に取り上げてパラパラと捲る。
「おいっ……」
「お前に圧力をかけるために、準備万端で乗り込んできた、ってとこだな。こんなものまで作って。東京支社の人事に余計な手を出すなと、言われたんだろうが」
 あっという間に手から書類が奪い取られ、藍田は封筒に突っ込んでしまう。
 ここで大橋は、藍田の周囲の惨状に気づく。テーブルの上でカップが倒れ、コーヒーが床の上に飛び散っている。それに部下が手にしているジャケットも汚れている。
 大橋の視線に気づいたように、部下が唇に皮肉っぽい笑みを浮かべて答えた。
「田山管理室室長が、藍田さんにコーヒーをかけようとしたんで、俺が身代わりになったんですよ」
「堤、この人に余計なことを言うな」
 藍田の言いように、大橋はムッとする。
「あのなあ、俺は心配しているんだぞ。火傷しなかったのか」
「堤がわたしの前に出て庇ってくれた」
 大橋は、先日の取材のあと、藍田が言っていた言葉を思い出した。
「ああ、もしかして、こいつか。転職前におもしろいことに首を突っ込みたいからと言って、お前のバリアー役を買って出た変わり者の部下は」
 藍田が堤と呼んだ部下は、皮肉っぽい笑みを浮かべたまま大橋に会釈してくる。
 なるほど確かに、藍田には劣るものの、一癖ありそうな男だ。藍田は藍田で、堤に対しては、微妙に他に部下に対するよりもガードを緩めているのかもしれない。
 ここで大橋は我に返る。どうして自分は、こうも藍田の変化に詳しいのだと思ったためだ。
「――堤、帰るぞ。仕事は済んだ」
 藍田は封筒とアタッシェケースを手に立ち上がる。
 呼び出されて恫喝され、嫌味を言われるのも仕事。コーヒーをひっかけられそうになるのも仕事。特に怒りを露わにしてもいない藍田に、大橋は感嘆にも近い感情を持つ。自分なら、怒鳴りつけて
クリーニング代ぐらい相手に出させているだろう。
 すでに大橋の存在など目に入っていない様子で、藍田が目の前を通り過ぎようとする。反射的に大橋は、藍田の腕を掴んで引き止めていた。
 藍田は平然としているが、背後をぴったりとついていた堤のほうが驚いたように目を見開く。
 上司はツンドラのようでも、部下のほうはそうでもないらしい。
「……まだ用があるのか」
「この間のこと、真剣に考えろ」
「この間?」
「俺たちに取材があっただろう。あのときに俺が話したことだ」
 思い出したらしく、藍田は『ああ……』と小さく声を洩らした。気のない声なのは、いつものことだ。
「あんたと手を組んで、事業部にしがみつく人間から睨まれろというのか?」
 堤が怪訝そうに眉をひそめる。藍田はそんな堤の反応を無視して、大橋を射竦めるように見つめてくる。
 極寒の凍土――ツンドラとは、自分もなかなかの表現者ではないかと、大橋は藍田の眼差しに怯むことなく見つめ返しながら、そんなことを思う。
 降り積もった雪しか心に抱えていないように見える、冷ややかな男。
 余計なものが入り混じっていないものというのは、人間を不安にさせるし怖がらせる。反面、どうしようもなく人間を惹きつけるのだ。藍田の目は、そういう目だ。
 もっとも、一瞥しただけで凍らされそうな藍田の目を、まともに見つめる人間がそうそういるとも思えない。
「俺も、お前と一括りにされているんだぜ? 憎まれ者同士、手を組んだほうが何かと便利だ。お前みたいな奴に入らない情報も、俺は握っている」
 他人を寄せ付けない藍田は、表面上はわからない人間関係の情報には疎い、と大橋は踏んでいる。不快そうに唇を歪めた藍田の表情からして、あながち読み外れでもないようだ。
「数字だけでは計れないものも、あるってことだ。お前も、どこの事業部も仲良くやっているなんて、おめでたいことを思ってないだろう。下手なもの同士くっつけたら、後で苦労するぞ」
 藍田はようやく、まともな反応を示した。あごに手を当て、思案し始めたのだ。大橋はスラックスのポケットに両手を突っ込み、そんな藍田の様子を眺める。
 ふと、自分に向けられる眼差しに気づく。藍田の背後に立つ堤だ。睨みつけてくるわけではないが、なんとも食えない表情で、大橋を値踏みするような目で見つめてくる。
 自分が警戒されているのだとわかり、大橋は小さく苦笑する。藍田の素っ気ない性格に何を感じているのか知らないが、堤は見た目は生意気そうでも、なかなか忠義に厚い部下らしい。
「――堤、このホテル内に店があるから、そこでワイシャツを買ってこい」
 急に藍田が堤を振り返り、自分の財布の中からお札を取り出す。それを堤に押しつけた。
「着替えたら、車で待っていてくれ。なるべく早く終わらせる」
「……わかりました」
 堤が立ち去るのを待ってから、藍田が再び向き直る。大橋は提案した。
「場所を変えよう。ここは目立ちすぎる」
 藍田が返事をしなかったので、承諾したと受け取った大橋は歩き出す。
 ティーラウンジを出るとき、藍田はボーイにテーブルを汚したことを詫びた。一部始終を見ていたのか、ボーイは気の毒そうに藍田に応じていた。
「――うちの会社の重役や、その子飼いになっている管理職たちは、なかなか一般社員に人気がなくてな」
 大橋が切り出すと、隣を歩く藍田が淡々とした横顔で応じる。
「そうなのか」
「コーヒーひっかけられそうになって、クソッとか思わなかったのかよ、お前」
「かけられたのは堤だ。あいつは思ったかもしれないな」
 ため息をついて大橋は話を続ける。
「俺たちは、大阪本社が仕掛けた、東京支社に対する主導権奪取の人柱にされたんだ」
「……わかっている。だが、従うしかないだろう」
 藍田の声には、憤然とした響きがある。一応この状況を、藍田なりにおもしろくないと感じているのだと知り、大橋は思わず笑みをこぼしていた。
 いくら感情が表に出なくても、感覚は大橋と共通したものを持っているのだ。
「本社移転と事業部統合で、東京支社に大阪本社の血を一気に流し込む、という考えだろうな。おかげで下の人間は、いい迷惑だ。お互い反目し合って、こだわっているのは上だけだしな。上のケンカに巻き込まれるだけでも迷惑なのに、挙げ句が早期退職者の募集だ」
「自分たちの子飼いにしている管理職はなるべく温存したい、ということか」
 二人は階段を使って吹きぬけとなっている二階に上がる。手すりにもたれかかりながら、一階のロビーを見下ろした。
「いいや、上はもっと悪辣だ。ある程度、自分たちの身内も切り捨てるつもりだ。お互いそうやって、体力を削ぎ合う気だろうな」
 どういう意味か、藍田はため息を吐き出す。思いがけず悩ましい響きに、大橋はぎょっとして隣の男を凝視する。なんだ、と言いたげに藍田は首を傾げた。
 うろたえながらも大橋は、自分でもわざとらしいと思いつつ、本題に入る。
「とにかく、俺たちは都合よく巻き込まれただけだ。仕事を円滑に進めるためにも、俺と手を組んだほうが得策だぞ。それにお前は、無用な敵を作りすぎる。さっきの管理室室長たちの様子を見ていたらな。上からも下からも、孤立するだけだぞ」
「――わたしと組んで、あんたにメリットはあるのか? わたしは、他人から借りを作るのは嫌いだ」
 ひねた考え方をしやがる――。
 一瞬そんな言葉が大橋の脳裏を過る。だが、改めて考えてみると、確かに藍田の言う通りだ。
「メリットねー……」
 大橋はガシガシと頭を掻く。自分でも、どうしてこんな提案をしたのか、よくわからないのだ。しかも、大して親しくもない、ツンドラのような藍田のために。
 藍田は怜悧な眼差しをじっと向けてくる。生半可な答えをしたら、何も言わず立ち去ってしまいそうな感じだ。
「俺も、円満に今回の仕事を進めて、出世したいからな。切り捨てられるのはたまらない。だから、事業部の統廃合という、強力な切り札を持つお前と手を組むのは、損にはならない。敵は増えるが、もともと田山管理室室長みたいな連中からは、受けが悪かったからな、俺は」
 藍田が切れ長の目を丸くする。
「……なんだよ、藍田。言いたいことがあるなら、はっきり言え」
「あんたにも、普通に出世欲があったのかと思って」
「お前には俺がどう見えているのか、心底聞きたいぞ」
 大仰に顔をしかめる大橋を、藍田が流し目で一瞥してきた。藍田お得意の眼差しで、無機質そのものなのだが、次の瞬間の藍田の変化に、不覚にも大橋は目を奪われてしまった。
 酷薄そうな藍田の薄い唇に、わずかな笑みが刻まれたからだ。妙な感動とも興奮ともつかない気持ちの高ぶりに、大橋はつい、思ったままを口にしてしまう。
「――……お前って、笑えたんだな」
 余計なことを言ったと反省したときには、すでにもう藍田は、凍りついたような無表情に戻っていた。
「とにかく、だ、手を組んだほうが、お互いのメリットになる。あの若造だけじゃなんだから、俺もお前のバリアーになってやる」
「わたしは女ではない。守ってもらわなくてけっこうだ」
「もののたとえだっ。というかお前、あの部下にはバリアーになると言われてOK出したんだろうが」
 怒鳴ったあとで、なんでこんなにムキになっているのかと、大橋は我に返る。そして、一階を見下ろしたままの藍田の白い横顔に視線を向ける。また、唇に薄い笑みを浮かべていたが、今度は指摘しない。
「――堤は、あと半年もすれば会社を辞めるからだ。だから、今回の仕事で禍根が残ったとしても、あいつには迷惑をかけなくて済む」
 藍田が淡々と言う。つい藍田の唇の動きを目で追っていた大橋は、十秒ほどの間を置いてから反応した。
「……へえ、優しいじゃねーか。部下の将来を心配するなんて」
「あんたこそ、わたしをなんだと思っているんだ」
 藍田の言葉に、大橋は声を上げて笑う。おかしすぎて、藍田の肩を叩いてしまったぐらいだ。とんでもない仕事を背負わされるには少し薄い肩の感触が、てのひらを通して伝わってくる。
「悪い、悪い。じゃあまあ、手を組むってことでいいな? 役立ちそうな情報はお前に全部流してやる、という条件で」
「……自分の仕事はいいのか」
「やってるだろう? 大阪本社と東京支社に大号令を出した。昔のゴミは捨てろ、ってな」
 藍田がまたため息をつき、ボソリと答えた。
「わかった……」
「何?」
 大橋がニヤニヤと笑いながら藍田の肩を抱いて顔を覗き込むと、思いきり睨みつけられた。
「わかった、と言ったんだ」
 言葉とともに肩にかけた手を払い退けられた。大橋は、もっと藍田をからかってやりたい衝動をぐっと堪える。ここでさらに機嫌を損ねると、二度と口をきいてもらえないと容易に想像できたからだ。
「いやあ、一度お前とは、腹を割って話したいと思っていたんだ」
「……白々しい」
 背を向けた藍田に、大橋はまじめな顔で語りかけた。
「できる限り、今よりマシな環境にしてやるよ。お前の仕事が滞ると、引っ越し担当の俺としても、何かと困るからな」
「期待しないで待っている。――大橋先輩」
 振り返った藍田に無愛想な顔で言われ、大橋は口元を引き攣らせる。
 可愛くねー。心の中で呟いた大橋だが、三十を過ぎた男に可愛げを求めた自分の認識に、多少の危うさを覚えた。
「……お前が、俺の前で笑ったりするからだ」
 用は終わったとばかりに、さっさと階段を下りていく藍田の姿を目で追いながら、大橋は今度は声に出して毒づく。
 だが、口ではどう言おうが、藍田の同意を取り付けて、俄然やる気になったのは確かだった。




 パソコンの画面に並ぶ数字を眺めながら、藍田はイスに深くもたれかかって足を組む。
 ふと視線を上げると、すでにオフィスからは、半分の社員の姿が消えていた。時間を見ると、終業時間を一時間ほど過ぎている。
 藍田は、部下が遅くまで残業するのを嫌い、効率的に仕事をこなして定時で帰宅することがまったく気にならない性分だ。
 そのおかげか、夜、新機能事業室に行っても一般の社員が誰もいないと、よく他の部署の責任者から皮肉を言われる。もちろん藍田は、そんな皮肉すら気にならない。
 もっとも、自分の残業には何時間であろうが寛容になれる。それが責任者の務めというものだ。
 オフィス中を見回したところで、堤のデスクに目を止める。いつもなら藍田ほどでないにせよ、遅くまで残っていることの多い男だが、今日はもう姿はない。
 藍田はデスクの引き出しをそっと開ける。
 中には、今朝堤から、書類に隠すようにして渡された薄い包みが入っていた。中身はハンカチなのだそうだ。 
 一週間前、ホテルのティーラウンジで藍田はハンカチを駄目にしたのだが、律儀にも堤は、本当に新しいものを買って返してくれたのだ。
 周囲をちらりと確認してから、藍田は引き出しから箱を取り出し、丁寧にデパートの包装紙を剥がす。別に剥き出しで渡されたところで藍田は気にもしないのだが、堤はそうではないらしい。
 妙にむず痒い感覚を味わいながら、包装紙をたたんでデスクの上に置き、薄い箱を開ける。取り出したハンカチは、有名なブランドのものだった。
 ハンカチを眺めていると、突然内線が鳴る。藍田は反射的に受話器を取り上げる。
「はい、新機能事業室、藍田――」
『よお、俺だ、藍田』
 不躾な電話の相手は大橋だった。藍田は窓のほうに顔を向ける。外はすでに薄暗くなっているが、中庭を挟んで向き合っているオフィスはどこもまだ、煌々と電気がついている。
 向かいのオフィスで、大橋がこちらに向かってヒラヒラと手を振っていた。藍田はすかさずデスクに向き直り、頭と肩で受話器を押さえながら怒鳴りつける。
「恥ずかしいことをするなっ」
 滅多にない藍田の怒声に、まだオフィスに残っている社員の何人かが、弾かれたようにこちらを見る。なんでもないと、藍田は軽く手を振った。
『怒鳴るようなことでもないだろ。笑って流せよ』
「そんなことはどうでもいい。用はなんだ」
 言いながら藍田はハンカチを箱に仕舞う。まさかデスクの上で何をしているのか、大橋に見えているとも思えないが、決まりが悪かった。
『お前、これから帰る準備をしろ。そうだな、十分でどうだ。たまには早く帰れよ』
「……なんであんたに、そんなことを言われないといけないんだ」
 藍田は再び窓の外をうかがう。大橋はイスごと体の正面を窓のほうに向け、藍田を見ていた。まるで、二人の間に巨大なテーブルでもあって、向き合って座っているようだ。
 物珍しそうに、大橋の部下たちまで腰を屈め、上司である大橋の背後からこちらを見ている。まるで、動物園の猿山の猿だ。――もちろん、向こうが。
『言ったろう。俺たちは協力し合うことにしたんだ。それで、俺なりに準備したことがある。お前にも立ち合ってもらいたい』
 急に大橋の声が真剣味を帯びたので、藍田も即座に断ることができなかった。
「立ち合うというのは、どういうことだ?」
『行けばわかる。どうだ、十分で出られるか? 多分もう、今夜は会社には戻れないぞ』
 なんだか大事のようなので、仕方なく藍田はパソコンのデータを保存して、電源を落とす準備をする。
「急ぎの仕事はないから、出ることはできる」
『なら、十分後に会社の正面玄関を出たところで待っていろ。車は置いていく。タクシーで移動するぞ』
 慌ただしく電話が切られ、向こうのオフィスでは大橋はバタバタと立ち上がり、集まっていた部下たちに何か話しかけている。そして突然こちらを見て、藍田に向けて手を振ってきた。
 藍田はあえて無視する。
 パソコンの電源を落とすと、アタッシェケースをデスクの上に置いて帰り支度を始める。堤からもらったハンカチも収めてアタッシェケースを閉じると、残っている部下に声をかけてオフィスをあとにする。
 ビルの正面玄関から外に出ると、まだ生ぬるさを残した夜風に頬を撫でられた。
 帰宅する社員たちの姿を目で追うが、まだ大橋の姿はない。十分どころか、五分ほどで帰り支度を整えて下りてきたのだが、どうやら急ぎすぎたらしい。
 藍田がそっと息を吐き出そうとしたとき、辺りに響き渡るような大声で呼ばれた。
「おいっ、藍田っ、こっちだ」
 ハッとして藍田が振り返ると、ビルからわずかに先の車道脇に、大橋が立って大きく手招きしていた。傍らには、タクシーがドアを開けて停まっている。
 大橋の元に駆け寄ると、ガードレール越しに大橋に腕を掴まれる。
「早く乗れ。みんなもう、集まっているそうだ」
「みんな?」
 訝しむ藍田の手からアタッシェケースを取り上げて、大橋がタクシーの後部座席に放り込む。
「おいっ……」
「いいから」
 容赦なく腕を引っ張られるので、藍田はガードレールを跨ごうとする。このとき足がガードレールに引っかかり、前のめりに倒れ込みそうになる。寸前のところで大橋に受け止められた。
「意外に鈍くさいな、お前」
 藍田はムッとして顔を上げる。藍田の体を受け止めてもびくともしない大橋の胸を拳で叩いた。
「あんたが引っ張るからだ」
 奇妙な表情をした大橋の両手が、しっかりと自分の肩を掴んでいるのを感じる。藍田は多少うろたえながら、大橋の胸に手を突く。
「みっともないから、さっさと離せ」
「あっ、ああ……」
 慌てた様子で大橋の手が背から離れる。次の瞬間には、強引にタクシーに押し込まれた。
 体勢を立て直す前に大橋も乗り込んできて、奥に押しやられる。何から何まで強引な男だ。
「――それで、どこに行くんだ」
 タクシーが走り出してから、不機嫌な声で藍田は問いかける。相手のペースで物事が進むのは、仕事であろうが私生活であろうが、藍田がもっとも嫌うことだ。
「ああ? まだ言ってなかったか」
 藍田がキッと睨みつけると、大橋は悪びれるふうもなくにやりと笑う。
「冗談だ。仕事が終わったんだから、少しは肩から力を抜けよ」
「どこに行くんだ」
 肩をすくめた大橋が口にしたのは、聞いたことのない店の名だった。眉をひそめた藍田が疑問を口にする前に、大橋が説明する。
「俺がよく使っている、居酒屋だ」
「はあ?」
「日本酒もいいのを揃えているが、メシもうまいぞ。独り身に戻ってから、ずっと世話になりっぱなしだ」
「あんたの独り身の生活なんてどうでもいい。どうしてわたしが――」
「会社でよく使っている店だと、まずい顔ぶれなんだ。何かと上から睨まれているような連中ばかり集まったからな」
 抗議は口中で消える。どうやら大橋は、ただ飲み食いするためだけに人を集め、藍田も合流させようとしているわけではないらしい。
 藍田は口を閉じ、目的地に着くまで余計なことを言うのをやめた。









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