サプライズ


[4]


 二十分ほど走ってから、タクシーがようやくある路地に入ったところで停まり、大橋が支払いを済ませる。元々飲み歩く習慣のない藍田は、この辺りの地理にはさっぱり疎い。
「ほら、こっちだ」
 タクシーから下り、アタッシェケースを手に周囲を見回していた藍田は、大橋に腕を掴まれて引っ張られる。
 勢いに圧されて素直に従ってしまった藍田だが、すぐに自分の姿に気づいて慌てて大橋の手を振り払う。
「あんたはさっきから、人を幼稚園児か女かと思っているのか」
 目を丸くした大橋は自分の手を見てから、戸惑った様子で言った。
「ああ、すまん。つい……」
「つい、なんだ」
「――新機能事業室の副室長の追及は厳しいな。かるーく流すってことを覚えろや」
 藍田は何も言わず引き返そうとしたが、ガシッと肩を掴まれて、目の前にある店に強引に連れ込まれた。これでは、肩を組んで歩くほどの『仲良し』に見えてしまう。
 必死に抗おうとする藍田の肩を、意地になったように大橋は離さない。
 店内は混雑していた。カウンター席とテーブル席はすべて埋まっており、にぎやかというより騒々しい。
 顔をしかめる藍田にかまわず、大橋はどんどん店の奥へと進み、座敷席があるスペースに入ると、藍田も無駄な抵抗はやめた。
 バカ力、と内心で毒づきながら。
 座敷席の一番奥は、周囲を襖で囲んで目隠しはしているが、一番騒々しいため注目の的だ。まさか、と思って藍田は大橋を見る。その通り、と言いたげに大橋は頷いた。
「冗談じゃない。酔っ払いどもと同席しろと言うのか」
「大丈夫だ。まだ、頭は使い物になっているはずだ」
 不安になるようなことを言って、大橋が一気に襖を開ける。
 外から想像していたより、広い座敷だった。そしてテーブルに、スーツやワイシャツ姿の男たちがついていた。見覚えのある顔もいくつかあり、即座に、彼らが東和電器の人間なのだとわかった。
 藍田の眼差しを受けて、大橋は悠然と笑う。
「少なからず、社内の今の体制を不満に思っているのは、俺やお前だけじゃないってことだ」
「……勝手にわたしを含めないでくれ」
「若手は若手で結束するべきだと言ってるんだ」
 背を押され、仕方なく藍田は靴を脱いで座敷に上がる。
「おっ、来たな、我が社の反体制のシンボル」
 はやし立てるように物騒な言葉をかけられ、藍田は内心でギョッとする。
 声をかけてきたのは、電材営業本部第三課の課長だ。確か、大橋と同期だったはずだが、名に関する記憶は曖昧だ。藍田は自分がいる部署と直接関わりのない部署の人間には、ほとんど関心を示さないのだ。
 大橋は微かに苦笑を洩らす。
「物騒なこと言うなよ。上の連中に知られたら、引っ越し前に俺のクビが飛ぶ」
「今だって、ライン上ギリギリだろうが、お前は」
 口ぶりからして、同期というだけでなく、大橋とは友人同士らしい。
 藍田の視線に気づいたのか、大橋が紹介してくれた。
「こいつは俺の友人の織田。電材営業本部第三課の課長だ。口が悪いせいで、よく上に睨まれている」
「正直者と言ってくれよ、大橋」
 そう言って織田がニヤリと笑う。なんとも一癖ありそうな男だ。飲む気満々らしく、すでにネクタイを取って、ワイシャツの胸ポケットに突っ込んでいる。藍田と目が合うと、軽く片手を上げて寄越された。
 大橋は続け様に、他の人間も紹介する。十数人いて、本社の営業部門や管理部門、支社の人間までと、部署はバラバラだ。ただ共通しているのは、全員若手と呼ばれる世代で、しかも役職付きということだ。
 藍田としては、管理部門の人間はともかく、営業部門の人間まで集まっている中に、自分がいていいのだろうかという気になる。なんといっても藍田の仕事は、事業部――特に営業関連の事業部の統廃合に関するものだ。
 いわば、統廃合される側の人間からは、敵と呼ばれても不思議ではない。
「藍田、こっちに座れ」
 大橋に手を引っ張られ、藍田は座布団の上に正座して、隣で大橋はあぐらをかく。並んで座った藍田と大橋を、この場にいる全員がしみじみといった様子で眺めてくる。
「……しかし、お前の口は怖いな、大橋。本当に新機能事業室の藍田を連れてくるなんて。どうやって騙したんだ」
「どう見てもお前ら、水と油といった感じだもんな。藍田なんて、大橋みたいな厚かましいタイプ、苦手そうだし」
 顔を合わせたことはあっても、言葉を交わしたこともない男たちが、好き勝手に藍田と大橋の組み合わせを評し始める。
 居心地の悪さに、藍田はこのまま帰ろうかという気にすらなってくる。だいたい、この男たちが集まっている趣旨がいまいちよくわからないのだ。
「――藍田」
 大橋に呼ばれてグラスを突きつけられる。反射的に受け取ると、すかさずビールを注がれた。続いて大橋がグラスを持ったので、仕方なく藍田も注ぎ返してやる。そんな藍田の手つきのぎこちなさに、大橋は小さく声を洩らして笑った。
「慣れてないな、お前。誰かと飲みに行かないのか? 新機能は、接待とも無縁そうだしな」
「放っておけ」
 大橋が一気にグラスのビールを飲み干し、仕方なく藍田も口をつける。帰りは一度会社に戻り、車を取りに行くつもりだったが、この一口で帰りはタクシーに決定だ。
「で、これはなんの集まりなんだ?」
 座敷内の熱気に負け、藍田はジャケットを脱いでから大橋に尋ねる。
「親睦会」
 軽い調子で答えた大橋を横目で睨みつける。藍田のグラスのビールが少し減っていると知って、すかさず大橋はビールを注ぎ足してくる。
「そう怖い顔するな。――お前も薄々気づいているんだろう」
「反体制のシンボル、と言われていたな。あんた、妙なことを考えているんじゃないだろうな」
「社内クーデターか?」
 藍田がそっと眉をひそめると、大橋は肩をすくめる。
「安心しろ。俺はそんな騒動を起こすほど会社に愛着はない。物騒なことも考えていないしな」
「なら――」
「ただ、会社が今のままじゃマズイ、というのも感じている。上のやりたい放題に、下は振り回されるだけというのもな……」
 大橋が言うことは藍田も感じてはいるが、だからといって、実際に行動を起こそうという気はない。
「――わたしを巻き込むな」
 素っ気なく藍田が言うと、大橋は苦笑する。仕方ねーな、という心の声が聞こえてきそうだ。しかし大橋はめげない。
「そういうわけにはいかない。俺はお前のバリアーになることになったからな。ということは、必然的にお前も俺に、ある程度合わせる必要があるというわけだ」
「どういう理屈だっ」
「俺とお前は一心同体ということだ」
 ニヤリと大橋は笑い、藍田は睨みつけて立ち上がろうとしたが、しっかり肩を抱かれて動けない。事情がわかっているのかいないのか、向かいの席に座っている男に酔った顔で言われた。
「仲がいいな、お前ら」
 冗談ではない。藍田は心の中で猛烈に反論する。口に出さなかったのは、余計なことは言いたくないという性分ゆえだ。
「仲がいいってさ。意外に俺とお前って、性格的に合うんじゃないか」
「……嬉しいのか、あんた」
 冷静に藍田が指摘すると、大橋は微妙な表情となって一度口を閉じる。わずかながら藍田は溜飲を下げた。
「――で、彼らが集まっていることと、わたしが連れてこられたのはどう関係するんだ」
 誰が注文してくれたのか、藍田と大橋の前に刺身の盛り合わせが運ばれてくる。生憎ながら、藍田は生魚を食べないので、さり気なく皿を大橋の前に移動させる。目敏く気づいた大橋に呆れたように言われた。
「なんだお前、生魚は駄目なのか? なんか食えよ。先は長いぞ」
 最後にぎょっとするようなことを言って、大橋が周囲に声をかける。
「おい、メニューないか、メニュー。それと店の人間も呼んでくれ。注文の追加だ」
 どこからともなくメニューが回されてきて、藍田の前に置かれる。この様子では、どこかで食事をとる時間もなさそうなので、今のうちに食べておくしかないだろう。そう考えた藍田は、やってきた店員に数品を注文する。
「――自分の意志に関係なく、俺とお前は、今の会社のやり方に反対するための、神輿にされる」
 前触れもなく大橋が言い、グラスに口をつけていた藍田は眉をひそめて横目で大橋を見る。寸前までへらへらと笑っていた男は、今は真剣な横顔を見せていた。
「どういう意味だ」
「温室生活のお前にはわからなかっただろうが、社内での、俺たちの世代の不満は溜まっているということだ。東和電器だけじゃなく、トーワグループそのものが、とにかく閉鎖的だ。上が独断で物事を進めすぎる。そのわりを食うのが、今集まっている若い管理職の連中だ。そのうえ切り捨て覚悟で、俺とお前のプロジェクトリーダーの就任だ。ここら辺で、何かしらの主張はしておくべきだというのが、ここにいいる奴らの統一見解になる」
「……本当にクーデターでもする気か」
「まさか。俺たちはトーワグループの屋根の下で生活しなきゃいけないんだ。クーデターというのは外聞が悪すぎる」
 藍田は、集まっている男たちの顔ぶれを改めて眺める。単なる陽気な飲み会の参加者たちにしか見えないが、部署が違うのに、大橋が言ったような意思疎通を図っていたのは驚きだ。
 中心にいるのは――。藍田は再び大橋に視線を移す。
「それで?」
「ここにいる奴らは、俺たちのプロジェクトが円滑に進むよう、協力してくれる。情報が欲しいといえば集めてくれるし、ある人間に会いたいといえば、ツテを総動員してくれる。顔と名前をしっかり頭に叩き込んでおけよ。俺たちの裏方を買って出てくれたんだ」
 言われなくてもそうしているが、藍田には、大橋の言葉を素直には受け入れられない部分がある。
「……あんたはともかく、わたしに協力的になるとも思えない。わたしは、自分が所属している事業部をなくすかもしれない人間だ」
「お前が、敵を作る仕事を押し付けられた事情は、わかっている。そのことでお前につらく当たるような人間は、ここにはいない」
「――つまり味方にはなってくれるが、それと引き換えに、社内改革にも影響力を残せるような成功を収めろということか」
「俺は、頭がいいというより、勘の鋭い奴と話すのは好きだ。すべて言わなくても、察してくれるからな」
 察するだけならまだ可愛げがある。短期間で、これだけの人間を自分側に引き込める大橋という男は、底が知れないと藍田は思う。それでいて、当人はのん気に笑っているのだ。
 もし藍田が普通の感覚を持ち合わせていたなら、大橋という男に狂おしいほどの羨望を感じていたかもしれない。努力だけでは手に入らないものを、大橋は持っているのだ。
 藍田が向ける眼差しに気づいたのか、大橋がこちらを見て首を傾げる。
「どうした?」
「……これだけ器用に仕事ができて、そのうえ同僚には信頼され、部下から頼られて――」
「あまり誉めると照れるだろう」
「それなのになんで、二度も離婚しているのか、心底不思議だ、あんたという男が」
「離婚のことは言うなっ」
 大橋はそう怒鳴りながらも、さほど気を悪くしたふうもなく、わざとらしく胸を押さえる。心の傷が痛む、と言いたいらしい。
 そこに、追加で頼んだものが運ばれてきたので、藍田は大橋を無視してテーブルの上に置いていく。
「――お前は誰かいないのか」
 新たなグラスが藍田の前に置かれ、そこに遠慮なく日本酒を注ぎながら大橋が尋ねてくる。丁寧に焼き魚の骨を取っていた藍田は、手を止めないまま答えた。
「いない。わたしは煩わしいのは嫌いだ。あんたもそうだから別れたんじゃないのか」
「お前、俺の前で『離婚』と『別れた』は禁句にするぞ。……反対だな。俺が煩わしがられたんだ。仕事人間が視界に入ると鬱陶しいらしい。自分以外のものに熱中している夫を見ていると、死ぬほど腹が立つんだと。最初の奥さんに言われた」
「へえ、その辺りは器用そうに見えるのにな」
「八方美人とでも言いたいのか」
「解釈はどうとでも」
 藍田は一緒に頼んだ焼きおにぎりを口に運ぶ。大橋が通っているという理由もわかる気がする。味が素朴で美味しい。
「美味いだろ?」
 藍田の心の声が聞こえたかのように、絶妙のタイミングで大橋に言われる。
 ちらりと視線を向けると、なぜか得意げな顔で大橋に言われた。
「お前は無表情か、嫌そうな顔しか表情のレパートリーはないかと思ったが、側で見ていると、意外に考えていることがわかるもんだな」
「わたしは美味いなんて言ってない」
「なら不味いか?」
 藍田は返事をせず、黙々と箸を動かす。呆れたように大橋に言われた。
「大人げない奴だな」
「人が食事しているのに、美味いか不味いかしつこく聞いてくる男のほうが、大人げない」
「お前が無表情を保とうとするからだろう」
 どうでもいいことだろう、と藍田が答えようとしたとき、大橋を呼ぶ声がかかる。
「おうっ、今行く」
 大橋は自分のグラスを持って立ち上がる。なぜか藍田はしっかり釘を刺された。
「お前もさっさとメシ食って、こっち来いよ。他の連中が潰れる前に、しっかり友好を深めておけよ」
 藍田の返事など求めていないらしく、大橋はさっさと他の男たちの元に行く。向けられた背を一瞥した藍田は、こう思わずにはいられなかった。
 大橋と関わったばかりに、自分はますます面倒な事態に巻き込まれていくのではないか、と。これは予感ではなく、確実に訪れる未来となるだろう。


 本当に面倒なことになった――。
 藍田はうんざりしながらため息を吐く。
 飲み会という名の、物騒な打ち合わせがひとまず終わった座敷内を見回すと、数人の人間は何事もなかったような足取りで出て行ったが、他の男たちはふらついているか、壁にもたれて座り込んでいる。ようは、泥酔だ。
 こんなに加減を知らない飲み会は、藍田は初めてだ。そして自分の隣を見ると、大橋が実に幸せそうな顔で畳の上に転がって目を閉じている。
 深刻で重大な話をしていたはずなのに、あちこちで笑い声が上がり、ついには途中から、わけのわからない乱痴気騒ぎとなってしまった。挙げ句、全員その波に呑まれたのだ。
 始めのうちは藍田も、集まっていた男たちの中に、興味のある事業室を統括している本部の部長補佐がおり、その男と話し込んでいた。
 だが、周囲から強引に酒を勧められて飲んでいるうちに、話していた相手の呂律が回らなくなって会話が不可能となり、藍田自身、口を開くのも嫌なほど酔ってしまった。
「……ここまで無様には酔っていないぞ……」
 口元を押さえながら、傍らに転がる大橋を見下ろす。
「おい、みんな、そろそろ座敷の貸切時間が終わるから、とりあえずここ出ろよ」
 座敷を出た一人がそう声をかけてから、よろよろとした足取りで帰っていく。
 藍田はグラスに残っていた氷水を一気に煽ると、ジャケットを羽織り、アタッシェケースを掴む。
 聞こえてはいないだろうが、一応大橋に声をかける。
「大橋さん、先に帰るからな。あんたもいつまでも転がってないでさっさと帰れよ」
 藍田は、よれよれになっている大橋のジャケットを取り上げると、ぞんざいな手つきながらも大橋の体にかけてやる。外が暑いせいか、店内の冷房が強いのだ。
 この飲み会に連れてこられたときは、余計なことを、と思ったが、極端に狭い藍田の社内での交友関係が広がったのは確かだ。
『恩人』を放って帰って風邪でもひかれたら目覚めが悪い。
 そっと立ち上がろうとした藍田だが、すぐに眉をひそめて動きを止める。正確には、動けなかった。何事だと思い振り返ると、目を閉じている大橋にジャケットの裾を掴まれていた。
「……何をしてるんだ」
 ジャケットを引き抜こうとするが、まるで子供が自分のものだと主張しているかのように、大橋はまったく離す気配を見せない。仕方なくアタッシェケースを置き、大橋の指を一本ずつ外そうとする。すると今度は、指を掴まれた。
「あんた起きているのか? それでわたしをからかっているのか?」
 藍田は思わずムキになり、大橋の顔を覗き込む。この間にも他の男たちは、比較的まともな者に引きずられるようにして座敷をあとにしている。
「藍田ー、大橋のことは頼むぞ」
「えっ……」
 声を洩らして振り返った藍田は、すでに座敷に自分たち二人の姿しかないことを知り、舌打ちしてから、仕方なく大橋の体を片手で揺さぶる。
「起きろっ、大橋さんっ。大橋部長補佐っ」
 必死になって自分の指を引き抜き、ジャケットも解放されたついでにその場を立ち去ろうとしたが、大橋の呻き声を聞いて足を止める。
 こんな場所に大橋一人を放置して帰ることに、煩わしいことが何より嫌いな藍田もさすがに良心が咎めた。それに、放って帰ったとして、明日は誰から何を言われるかわからない。特に、大橋がうるさそうだ。
「なぜわたしが……」
 小さく洩らしてから、藍田は何度となく大橋の体を乱暴に揺さぶり、なんとか目を開けさせることに成功する。もっとも、目の焦点はこれ以上なく怪しく、顔を覗き込む藍田を認識できていないようだ。
 大橋がすぐにまた目を閉じようとしたので、ネクタイを引っ張って怒鳴る。
「寝るなっ。帰るから体を起こせ。仕方ないから、タクシーであんたの家まで送っていく」
 自発的に起きるというより、藍田がネクタイを掴んで引き起こす。苦しげな呻き声が聞こえたが、藍田は気にしない。
 大橋のジャケットのポケットをまさぐってから、次に大橋のスラックスのポケットに手を突っ込み、それらしい感触に触れたので引っ張り出す。大橋の免許証だ。これを見ないと、藍田は大橋の住所がわからない。
 ぐったりと顔を伏せている大橋の大柄な体にジャケットを着せてから、藍田は自分のアタッシェケースと大橋のブリーフケースを手に立ち上がる。
 大橋をどうにか立たせて支えるが、足がよろめく。二人一緒に畳の上に倒れ込みそうになり、壁にもたれかかって堪える。大橋ほどでないにしても、藍田もさんざん人に勧められて酒を飲んだのだ。
 冗談ではない、と心の中で毒づきながら、藍田はアタッシェケースで大橋の腰の辺りを殴りつける。
「いてっ……」
 大橋が声を洩らす。
「大橋さん、できる限り自分の足で歩いてくれ。あんたは重いんだ」
「失礼なこと、言うな、藍田……。人をデブみたいに。筋肉美だぞ、セクシーな筋肉」
「……あんた、ベロベロに酔っ払ってるだろう」
 どんな戯言を抜かそうが、自分の足で歩いてくれるのならかまわなかった。
 しかし大橋の足は、しっかり歩いていたかと思うと、次の瞬間には膝から崩れ込みそうになり、結局危なっかしくて、藍田は肩を貸すしかない。
 ふらつきながらも店をあとにして路地に出る。だが、ここまで入ってくるタクシーはなく、藍田は大通りまで歩いていき、そこでようやくタクシーを捕まえる。
「――……重いっ」
 先に大橋を乗せようとしたが、肩に回された手が離れず、二人一緒に雪崩込むようにタクシーの後部座席に乗り込む。
 大橋の胸の上に倒れ込んだ姿勢のまま、藍田は自分のジャケットのポケットに突っ込んでいた大橋の免許証を取り出し、そこに書かれた住所を運転手に告げる。
 このまま力尽きてしまいそうだが、いつまでも大橋の上に乗り上がっているわけにもいかない。藍田は体を引きずるようにして座り直し、酒臭い息を大きく吐き出して両瞼の上にてのひらを置いた。
 ようやく息を整えててのひらを退けると、もうすでに熟睡している大橋を、横目で忌々しく睨みつける。
 こんなことになるのなら、ついてくるのではなかったと後悔するが、遅い。泥酔して意識をなくしている大橋を放置してタクシーを降りたら、運転手もいい迷惑だ。
 タクシーは十分ほど走ってから、大通り沿いにあるマンションの前で停まった。
 東京からの赴任者は、会社が借り上げているマンションに住むことが多いのだが、大橋は違うようだ。ちなみに藍田も、会社とは関係ないマンションを借りて住んでいる。
 仕事を離れてから、会社の人間と顔を合わせたくない。大橋のような陽性な人間でも、そう感じることがあるのだろうかと、ふと考える。
 だが、藍田にはどうでもいいことだ。
 タクシーが停まると、支払いを終えた藍田はまずアタッシェケースとブリーフケースを下ろし、続いて大橋の腕を掴んで引っ張る。
「起きろっ、大橋。わたしに手間をかけさせるな」
 寝入っていた大橋の頭が動き、唸るように言った。
「……藍田、お前今、俺を呼び捨てにしたな」
「うるさい、酔っ払い」
「お前、なあ、俺が先輩だってわかっている、のか……」
 酔っ払いの言葉にいちいち反応するのも疲れるので、藍田は強引に大橋をタクシーの外に引きずり出すと、大橋がしっかりとしがみついてきた。鬱陶しくて仕方ないが、道端に寝転ばれるよりは遥かにマシだと、藍田はぐっと堪える。
 すでに藍田の残りの体力と気力は乏しく、マンションの中に入るまでに、何度も転びそうになる。
 集合郵便受で大橋の部屋を確認してから、エレベーターに乗り込む。
 飲んだあとに、こんな筋肉の塊を引きずって歩いたせいか、急激に酔いの回りが早くなった気がする。視界が揺れてなんとも不快だ。もともと藍田は、そんなに酒を飲むほうではないのだ。
 肩をきつく抱かれた感触に我に返る。見ると、大橋が肩に顔を埋めていた。
「……人の肩に吐くなよ」
 小声で呟いたところで、エレベーターの扉が開く。あと少しだと自分に言い聞かせてから、藍田はふらりと足を踏み出す。
 さすがにこの時間ともなると、マンションの通路は静まり返っていた。なるべく足音を立てないようにと気をつけているのだが、大橋を引きずるズルズルという音がなんとも耳障りだ。
 大橋の部屋の前に着いたところで、藍田は苛立ちを押し殺しながら尋ねる。
「大橋さん、部屋の鍵っ」
 んあっ、と大橋の間の抜けた声が返ってくる。頭を殴りつけてやろうかと思うが、そんなことで余計な体力を使いたくない。
 藍田は大橋の体に腕を回すと、スラックスの後ろポケットに手を突っ込む。
 大橋に抱きついているようで不本意な格好だが、どうせ人目はない。居酒屋で大橋のスーツのポケットをあちこちまさぐったとき、鍵がどこにもなかったのは確認している。残るのは、財布を突っ込んであるスラックスの後ろポケットだ。
「……何、人のケツを撫で回してるんだ、藍田……」
 寝ぼけたような大橋の言葉は無視する。財布を抜き取ってポケットの奥をまさぐる。指先に触れた金属の感触を引っ張り出すと、思った通り部屋の鍵だ。
 苦労しながらもようやく部屋のドアを開けると、藍田はすぐに大橋を突き飛ばすようなことはせず、玄関の電気をつけてから靴を脱がせ、荷物をその場に置いてから、大橋を引きずって廊下を歩く。
 藍田はダイニングの電気もつけてから、顔をしかめる。なんとも汚いダイニングだったのだ。生ゴミは一応片付けてはいるが、さまざまなものがテーブルや床の上に転がっている。いかにも、片付けのできない男の独り暮らしといった風情だ。
 ここに、女の気配はまったくない。
 藍田はダイニングやキッチンを見回してから、冷静に判断する。どこかで、大橋は今は結婚していなくても、部屋で待っている女がいると思っていたのだ。
「独り者同士、か」
 声に出して呟いた藍田だが、すぐに否定する。少なくとも大橋は二度、他人と生活をともにしたことがあるのだ。一方の藍田はといえば、一度もない。また、他人と一緒にいたいと望んだこともない。
 生来、人間関係に対して執着が希薄すぎると、自覚はしていた。
 藍田はテーブルの上に財布や鍵を置くと、ガラス戸が開いたままの隣の部屋へ行く。朝起き出したままの寝乱れたベッドの上に大橋を転がした。
 肩を落として大きく息を吐き出した藍田だが、こんなとき、几帳面な自分の性格が心底嫌になる。最低限の義理は果たしたので部屋を出てもいいはずなのに、できなかった。
 枕元のライトをつけて、辺りを見回す。この部屋も、片付いていないと思った。
 デスクの上には本や書類が出したまま。部屋のすみにはワイシャツが丸めて放り出され、クリーニングから返ってきたままのスーツもまとめて置いてある。
 こんな部屋に住んでいるのかと思いながら、藍田は大橋が着ているジャケットを脱がせ、ネクタイも解いて抜き取る。ワイシャツのボタンを三つほど外してから、スラックスのベルトも緩めてやった。
 さすがにここまでしてやると、藍田も息が切れる。意識のない男の体を相手にするのは疲れるのだ。それでなくても大橋は、忌々しいことに大柄だ。藍田も身長はあるのだが、逞しさとは無縁の体つきだ。
 中腰でいるのがつらくなり、大橋が横になっているベッドの端に腰掛ける。ついでに、大橋の体に夏布団もかけてやった。
 自分がここまでしてやる義理もないのだが――。
 藍田はそう心の中で洩らしながら、安らかな寝息を立てている大橋の顔を見下ろす。少し前まで、大橋の顔をこんなふうに眺めるときがくるとは、思いもしなかった。
 藍田が大橋について知っていることといえば、自分より一つ年上で離婚歴二回。いい加減な性格かと思えば、部下からは信頼され、仕事もできる。たまに顔を合わせる研修では、屈託なく誰とも会話を交わしていて、少し声の大きなうるさい男だということぐらいだ。
 向かいのオフィスから見る大橋は、常に精力的で明るかった。それがなぜか藍田の神経に障り、見ないようにしているのに、どうしても目についてしまうのだ。
 ふっと息を吐き出す。疲れと酔いで、実のところもう一歩も歩きたくない。だがそういうわけにもいかない。早く帰宅しないと、明日の仕事がつらいのは目に見えている。
 立ち上がりかけた藍田だが、何気なく見下ろした大橋の顔から目が離せなくなり、再びベッドに座る。ベッドが微かに軋んだ音を立てた。
 藍田は自分が何をしようとしているのか意識しないまま、片手を伸ばしてそっと大橋の頬に触れる。
 二人もの妻を持った男の顔とはどういったものなか、純粋に知りたかった。
 ビル内での仕事がほとんどとは思えないほどよく日に焼けた肌に、ハンサムな顔立ち。年齢相応の雰囲気を持ちながら、どこか青年っぽさが残っている、不思議な男だ。そんなところが、女には魅力的に映るのかもしれない。
 あごに指先を這わせると、少し伸びたヒゲの感触が当たる。ハッとして手を引きかけたが、乱れた前髪を目にして、慎重な手つきで掻き上げてやった。
 気がつくと、藍田の心臓の鼓動はわずかに速くなっている。
 顔が熱くなるのを感じ、急いで立ち上がる。逃げるように部屋を出ようとすると、背後で大橋が動いた気配がした。
「――……藍田……、まだ、いるか……?」
 さきほどの自分の行為について何か言われるのだろうかと身を硬くした藍田は、立ち止まったまま動けない。背後ではベッドが軋む音が続く。
「なんだ、いるんなら、返事しろ……。悪い、水、一杯くれ」
 何かに突き動かされたように、藍田はすぐにキッチンに行き、グラスに水を注いで戻る。
 大橋はうつぶせになってわずかに頭を起こすと、藍田の差し出したグラスを受け取って水を一気に飲み干した。そのままベッドに突っ伏す。
「――泊まっていけ」
 グラスを持って部屋を出ようとした藍田は、突然言われた言葉に驚いて振り返る。大橋は突っ伏したまま言葉を続けた。
「布団なら押し入れに入っているから、敷けよ」
「……いや、わたしは……」
「お前もふらふらだろう」
「タクシーがある」
「この時間、なかなか捕まらないぞ」
「しかし――」
「今から帰ったって、どうせ寝るだけだ。それなら、ここで寝ても同じだ」
 着替えは、と言いかけて藍田は口を閉じる。こうやって言葉のやり取りをするのも、億劫になってきていた。
 少し考えてから、こう結論を出す。
「……なら、そうさせてもらう」
 大橋の返事は、さきほどまでの会話は寝言だったのではないかと思わせるような、深い寝息だった。
 やはり帰ろうかと一瞬頭を過った藍田だが、ここから帰宅して自分の部屋で寝るまでの流れを考えるだけで気疲れしてしまい、結局、息を吐き出してネクタイに手をかけた。









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