サプライズ


[7]


 受話器を置いた大橋は、イスの背もたれに乱暴に体を預けてからネクタイを少し緩める。
「あー、うっとうしいな」
 忌々しく呟くと、大橋のデスクの前を慌ただしく通り過ぎていた旗谷がピタリと足を止め、わざわざ引き返してきた。
 今日は、ブラウスの胸元をはだけさせているのは相変わらずながら、細く白い首元にはブランド物のスカーフを巻いており、よく似合っていた。
「いつものメーカーからの電話ですか?」
 旗谷の問いかけに、大橋は首を横に振る。部署が部署なので、OA機器メーカーからよく電話が入るのだ。
 だがさきほどの電話は、関連企業からの本社移転に関しての問い合わせだ。説明会を予定しているといくら言っても、この手の電話はあとを絶たない。
 本社移転は大阪本社と東京支社のみに関わることだが、物流などの問題からどういう問題が起こるかは、他の支社や関連企業にも気になるところなのだろう。何より、事業部の統廃合問題も加わるため、一大事だ。
 ただ大橋としては、社員や従業員たちの不安解消の仕事まで、こちらに回さないでほしいとも思うのだ。それでなくても大橋の両手は、抱えた仕事でいっぱいだ。
「補佐、コーヒーを飲みますか?」
「ああ。ミルクと砂糖をたっぷりぶち込んだやつな」
「……後藤くんじゃないけど、本当に糖が下りるのを心配したほうがいいんじゃないですか」
 その後藤はシステム講習会のため、また出張だ。
「俺はイライラしたときに飲むコーヒー以外は、摂生をしているぞ」
「そうなんですか? 節制するのは甘いものだけじゃないんですよ。数日前の飲み会では、ずいぶん派手に飲んで潰れていたそうだし」
 予想外の話題が出て、大橋は顔をしかめる。
「誰から聞いたんだ。あれは、秘密の会合だったんだぞ」
「ということは、飲み会の様子を教えてもらえたということは、わたしも補佐の一味だと思われているということですね。よかった」
 よかったのか、それは――。
 首を傾げながら、部下の行く末を案じる大橋の前で、旗谷は自分の部下の女性社員に、コーヒーを頼んでいる。
 余計なことに、ミルクと砂糖はナシで、と注文をつけて。
「――ずるいですね。自分たちだけで楽しんで。わたしも仲間に入れてくださいよ。……補佐が、若手の頼りになる人たちに声をかけている、と一部で噂になっていますよ。わたしは、頼りになりませんか?」
「機密情報がダダ漏れだな」
 デスクに身を乗り出してきた旗谷に対して、大橋は苦笑を向ける。しかし旗谷は誤魔化されず、怒ったように眉を吊り上げた。
「わたしは本気で言っているんですけど。補佐が、今回のプロジェクトに指名されたことで、若手の立場から社内改革に乗り出す好機だというのは、誰でも想像がつきます。それに、この部内での社内改革への賛同者は、わたしだけじゃないんですから。補佐が一声かければ、人はもっと集まりますよ。だから、とぼけるのはナシです」
 誰だか知らないが、ずいぶん端的な説明を旗谷にしたものだと思う。
 案外、旗谷のきつい追及から逃れるため、こう言ったのかもしれない。詳しくは大橋に聞け、という言葉を付け加えて。
「……俺は自分で思っていたより、人望があるんだな」
「ええ」
 冗談で言ったのだが、旗谷に大きく頷かれてしまった。
「旗谷、誤解しているようだが、俺たちが動いているのは社内改革が目的だからじゃない。あくまで、俺たちが背負わされた仕事が円滑に進み、なおかつ事後処理で、俺たちの立場が悪くならないために、保険をかけているようなものだ。だから、大げさにしたくない」
 旗谷は不服そうに唇を歪める。
「それはつまり、わたしに深入りするなと言っているのですか?」
「俺は、優秀な片腕をごたごたに巻き込みたくないからな」
「……嬉しいような、嬉しくないような言い方ですね」
 コーヒーが運ばれてきて、大橋のデスクの上に置かれる。このときだけは大橋も旗谷も黙り込んだ。
「――で、その優秀な片腕が覚悟を決めて、ごたごたに巻き込んでくれと言ったら、どうします?」
 大橋はつい周囲を見回す。誰も二人の会話に聞き耳を立てていないと確信しているとはいえ、大胆な申し出だ。
 もっとも、大橋と旗谷がこうして話している姿は珍しくもないので、誰もおかしくも思わないだろう。
 旗谷の言葉にいつにない響きを感じ取り、大橋はわざとふざけた口調で言った。
「もしかして俺は今、お前に口説かれている最中か?」
 それに対する旗谷の返答は堂々としたものだった。
「そう取れるというなら、取ってもらってもかまいませんよ。わたしとしては、好都合といえますし」
「……仕事中に上司を口説くなよ」
「だって補佐、仕事が終わると、絶対わたしと二人きりになってくれないでしょう」
 大橋の小細工など、とっくにバレていたらしい。これだから、女は怖いのだ。大橋はつい、いつもこの大事なことを忘れてしまう。
 決まりの悪さを感じながら、旗谷の視線から逃れるようにイスの向きを変える。
 何気なさを装い、窓の向こうオフィスに目をやる。最近、何かあるたびに向かいの新機能事業室のオフィスの様子をうかがうのが、癖になっていた。
 窓際の藍田のデスクに、主の藍田の姿はない。会議にでも出席しているのだろう。
 大橋がそう思ったとき、タイミングよく藍田が姿を現し、デスクの上にぞんざいにファイルを投げ置いた。大橋がするならなんでもないことだが、几帳面な藍田には珍しく、投げ遣りな動作だと感じた。
「――……ありゃあ、今日もネチネチとやられたな」
 そう思うのには、他に理由がある。藍田の姿勢がいいのはいつもと変わらないが、心なしか立ち姿から疲れのようなものを感じるのだ。ここ最近、いつもだ。
 確か昨日の検討会議でも、藍田一人が吊るし上げを食らい、さんざん嫌味を言われたらしい。その情報が耳に入ったとき、陰湿なことを、と大橋は密かに舌打ちした。今日もまた、何かあったのだろう。
 藍田は無愛想な男だが、感情がないわけではない。蓄積されていくストレスが、少しずつ表に出てきているようだ。まだ午前中だというのに、なんだかひどく疲れて見える。
 イスに座ろうとした藍田に、部下らしい男が近づいて話しかける。早く座らせてやればいいものを、立ったまま何か相談し合っている。
 見ている大橋のほうがイライラしてきて、今すぐ内線をかけて、早く座れと藍田に言いたくなっていた。
「……わたしよりも、藍田副室長のほうが気になりますか、補佐」
 急に傍らで旗谷に言われ、驚いたというより動揺した大橋は、ピクリと肩を震わせる。顔を上げると、いつの間にかデスクを回り込んだ旗谷が隣に立ち、大橋と同じ方向を見ていた。
「いや、そういうわけでも――。珍しく、あいつがぐったりしているように見えたからな」
「へえー、わたしが風邪で熱を出しながら出社しても、まったく気づかないぐらい鈍感な補佐が、ねー……」
「意味深だな、お前の言葉は」
 これ以上チクチクと皮肉を言われるのも嫌で、イスの向きを元に戻そうとした大橋の視界の隅で、何かが揺れる。
 ハッとして、もう一度向かいのオフィスを見ると、藍田が顔を伏せてデスクに両手を突いていた。
 只事でないのは、堤という部下が駆け寄ってきて、藍田の背に手を置いていることから推測できる。その手を押し退けようとする藍田だが、離れて見ていてもわかるほど、足元がふらついていた。
「何やってるんだ、あいつはっ……」
 そう吐き出した大橋は立ち上がると、一気に駆け出してオフィスを飛び出す。このとき背後から旗谷に呼ばれた。
「補佐っ」
「俺宛てに電話があったら、席を外して行方不明だと言っておいてくれ」
 振り返ることなく答えた大橋は廊下も走り続ける。
 大橋がいるオフィス企画部と、藍田がいる新機能事業室のオフィスは、中庭を挟んで向き合っているとはいえ、ビルの形が入り組んでいるので、ただ廊下を走ればいいというものではない。
 同じ階にあるはずなのに、なぜか途中で階段を上り下りし、半円のラインを取る廊下を走り抜けて、ようやく新機能事業室に着く。
「藍田っ」
 オフィスに大橋が飛び込むと、ただでさえ静かな新機能事業室内は水を打ったように静まり返る。そこに電話の音が鳴り響き、社員の一人が慌てて受話器を取り上げた。
 大橋はズカズカと窓際の藍田のデスクに歩み寄る。
「――何してるんだ、お前は」
 何事もなかったように平然とイスに座っている藍田の姿を見て、大橋は怒気のこもった声を発する。
 さきほど藍田がふらついていたのが目の錯覚でなかったのは、藍田のデスクの傍らに立っている堤が証明している。
 オフィスに飛び込んだ瞬間、確かに藍田と堤は何か言い合っていた。堤が何を言っていたのか、だいたい想像はつく。大橋も同じ心境だったからだ。
「……何、平然と座っているんだ、お前は」
「――……あんたこそ、いきなりなんだ」
 カッと頭に血が上り、大橋は堤を押し退けてから藍田の腕を掴む。
「来い」
「何するんだっ」
「お前、今さっき、倒れそうになったんだろうが。仕事なんてしている場合かっ」
 大橋は一喝して、強引に藍田を引き立たせる。無表情だった藍田が、ここで初めてうろたえた表情を見せ、抑えた声で言った。
「軽いめまいだ……。大げさに騒ぐほどのことじゃない」
「お前が決めることじゃない。とりあえず医務室に行くぞ」
 藍田の腕を引っ張りながら、大橋は堤に視線を移す。堤は、じっと藍田を見つめていた。その眼差しに引っかかるものがあったが、今は些細なことだ。
「堤、あとのことは頼む」
「わかりました。……大橋部長補佐が来てくれて、助かりました。俺も休むよう言ったんですが、藍田さん、聞いてくれなかったんです」
「余計なことを言うな、堤」
 藍田が声を荒らげるが、まったく効いていないらしく、堤は軽く肩を竦めただけだ。
 大橋は、嫌がる藍田を引きずって歩き出しながら、一度だけ堤を振り返る。スラックスのポケットに両手を突っ込み、堤も大橋を見ていた。
 さきほどの堤の言葉は、口では『助かりました』と言いながらも、しゃしゃり出てくるなと大橋に暗に釘を刺していたようにも感じられた。
 被害妄想――ではないだろう。
 あの場には藍田の部下たちがいて、もし本当に藍田が卒倒するようなことにでもなければ、医務室に運ぶなり、救急車を呼ぶなりしただろう。本来は大橋の出る幕などなかったのだ。
 調子の悪そうな藍田の姿を目にして、何も考えずにオフィスを飛び出した自分が、いまさらながら恥ずかしくなってくる。
 そう思える程度には、大橋は冷静になっていた。
「――ここでいい」
 藍田が苦しげに洩らし、大橋は隣に目を向ける。まだ藍田の腕を掴んだままだが、なぜだか離す気にはならなかった。この男のことだ。離した途端、回れ右して自分のオフィスに戻るのは明白だ。
「いい。医務室まで連れていく」
「自分で行ける」
「お前は信用できん。きちんと診てもらうまで、俺がついている」
「なぜっ――」
 一瞬の激高を抑えきれないように藍田が大きな声を出したが、すぐに肩で息をして、あとの言葉が続かない。やはりまだ調子が戻っていないのだ。
「……しっかりメシを食わないからだ。顔色が真っ青だぞ。これからしばらく踏ん張らないといけないんだ。体は大事にしろ」
 エレベーターを待っていると、藍田が小さく身じろぐ。腕を掴んでいる大橋の手に力が入って痛いのだと気づき、仕方なく手を離す。
「逃げるなよ」
「あんた、人をなんだと思っているんだ」
 ジャケットの上から藍田が自分の腕を撫でる。大橋が掴んでいた辺りだ。藍田の白く長い指が動く様に思わず大橋は見入ってしまい、すぐに我に返って内心でうろたえる。
 今一瞬、俺は何を想像したのかと、心の中で自問していた。
「――……ない……」
 藍田が小さな声で洩らす。思わず大橋は尋ね返した。
「何? 今、何か言っただろう」
「……弱みを見せるようなことはしたくない。誰に対しても」
 藍田の言葉を聞いた瞬間、甘い疼きにも似た感覚が大橋の全身を駆け抜ける。思わず身震いしてから、硬い声で応じた。
「つまらんことを言うな。……お前がそうやって片肘張ったところで、ああやって部下に心配かけてりゃ、同じことだ。いや、もっとタチが悪い。体調管理はしっかりやれ。本格的に体を悪くしたらどうする気だ」
 エレベーターに乗り込むと、二人きりだ。
 なんだか居心地が悪いと思いながら、大橋は傍らの藍田を見る。顔を伏せがちにしている藍田の後ろ髪が目に入った。艶やかな黒さのおかげで、うなじや首筋の白さが際立って見える。
 日ごろから日光を嫌って生活しているせいだ――。
 自分の動揺を誤魔化すようにそんなことを思ってみたが、同時に大橋の脳裏を過ったのは、藍田を自宅に泊めたときの光景だ。バスルームから出てきた藍田の胸元が、目の前をちらついた気がした。
 急に体温が跳ね上がり、大橋は慌てて階数表示を見上げる。
 ふと藍田が、思い出したように尋ねてきた。
「――ところで大橋さん、あんた向かいのオフィスにいて、よくわたしの調子が悪いとわかったな。同じオフィスにいた部下たちでさえ、堤以外は気づいていなかったのに」
 うっ、と一声洩らした大橋は、苦し紛れに答えた。
「たまたま、だ」
 お前を観察していた、と冗談交じりで言えば済む話なのに、なぜか言えなかった。観察していたのは確かだが、妙な気恥ずかしさがあったのだ。この歳で、こんな感情に襲われるとは思わなかった。
 しかも相手は、藍田だ。
 盗み見るように藍田に視線を向けると、愛想のない男はいつになく疲れたように唇を歪めている。色をなくしたその唇に、不覚にも大橋は艶めいたものを感じてしまい、慌ててエレベーターの天井を見上げた。


 嫌がる藍田をなんとか医務室に連れて行った大橋は、それで安心して自分のオフィスに戻る――ことはしなかった。
 ここまでする必要もないのに、医務室内のイスに腰掛けて、足と腕を組んで律儀に藍田が出てくるのを待っている。
 大橋は、まさに見た通りだが、病気とは無縁だった。風邪ですら、ウイルスが避けて通っているのではないかと思うぐらい、ここ何年もひいたことがない。せいぜいが、二日酔いで顔色が悪いと言われるぐらいだ。
 おそらく会社でもっとも大橋と無縁な場所は、今いる医務室だろう。おかげでなんだか落ち着かない。
 待合室には大橋以外、別々に座った女性社員二人の姿しかなかった。どちらも具合が悪そうなので、付き添いとしているのは大橋だけだ。ますます、今ここにいる理由がなくなった気がして、居心地が悪い。
 それでも、先にオフィスに戻ろうという気にはならないのだ。困ったことに。
 ふいに藍田の声がして、大橋はハッと診察室のドアを見る。ゆっくりとドアが開き、片手に一枚の用紙を持った藍田が出てきた。
「――おい、どうだった」
 大橋が声をかけると、驚いたように藍田が目を見開く。その理由は、藍田が放った次の言葉でわかった。
「なんで、待っているんだ、大橋さん……」
 答えにくいことを聞くなよと、大橋は苦笑しながらガシガシと頭を掻く。それから勢いをつけて立ち上がると、藍田に歩み寄った。
「俺のことより、お前のことだ。なんか言われたか? えらく早かったが、点滴か注射ぐらいしてもらったのか? それに、その紙――」
 わざと大橋を無視しているのか、目の前を通り過ぎようとした藍田の手から、素早く用紙を奪い取る。あっという間に藍田に奪い返されたが、それでも目を通すには十分だ。
 手続きを済ませて医務室を出ると、大橋は問いかけた。
「藍田、これから病院行くんだろ?」
 藍田が持っていた用紙は、病院への紹介状だ。会社の医務室には勤務医が常駐しているため、わざわざ紹介状を出すとなると、よほどのことだ。それとも、藍田の気難しさに、勤務医がサジを投げたか、だ。
 先を歩く藍田は肩越しにちらりと大橋を振り返ると、短く応じた。
「……行かない」
「行かない、じゃねーよ。先生も、大事だと思って、紹介状を書いたんだろう。急いで病院に行けってことだ。一日ぐらい仕事は放っておけ」
「別に、大事じゃない」
 さきほどまでふらついていたくせに、藍田が歩調を速めて逃げようとしたので、舌打ちした大橋は咄嗟に藍田の腕を掴んで引き止めた。
 藍田は苛立ったような表情を一瞬浮かべてから、人目を気にしたように周囲に視線を向ける。その仕草が、大橋は気に食わなかった。藍田が今気にするべきなのは、他人の視線ではなく、自分の体調だ。
「大事かどうかは、きちんと病院で診てもらってから決めろ。――俺が車を出してやる」
 特に考えもなく出た言葉だったが、確かにそれが一番だろう。タクシーで行けと言ったところで、この男は絶対、大橋の目がなくなったところで仕事に戻るに決まっている。だったら大橋自身で監視していたほうが、確実だ。
 眉をひそめた藍田は、忙しく視線をさまよわせる。
 どうやって俺から逃げようかと考えているのだろうなと、勝手に藍田の心理を推測して、大橋は口元に笑みを浮かべる。
 藍田の抵抗が緩んだ隙に、すかさず腕を引っ張って歩かせる。
「大橋さんっ……、本当に、大したことじゃないんだ。ただ、あんまり頻繁に医務室に胃薬を出してもらいに行くから、一度検査を受けろと言われただけだ」
「それを、大事って言うんだ。いい加減、覚悟を決めろ。あんまりごちゃごちゃ言うと、ここで大声出すぞ」
 ペースを乱しているように見えた藍田だが、さすがにこれはマズイと思ったのか、ムッとしたように唇を歪めた。
「……病院には行く。だけど、あんたの付き添いはいらない」
「サボりの理由として、ちょうどいいんだ。お前について病院に行くってのは」
「蹴るぞ」
 大橋は鼻先で笑ってやる。憎たらしくて仕方ないと、他人からおそろしく評判の悪い表情だ。藍田も同じ感想を持ったらしく、目を吊り上げる。
「大橋さん――」
「早く治したほうがいいんじゃないか? 弱ってフラフラしているところを見つかったら、誰かに嫌味を言われるぞ? そうしてまた、胃薬を飲み続けないといけないほど、お前の胃は弱る一方だ」
 藍田は吐き出すように言った。
「意地が悪いな、あんた」
「初めて言われた、そんなこと」
 物言いたげな表情をしたものの、藍田は結局唇を引き結んでしまい、それをいいことに、大橋はエレベーターに乗り込むと、自分の車を置いてある地下駐車場まで向かう。オフィス企画部の社用車もあるのだが、さすがにそれを使うのははばかられる。
 藍田にしても、個人的な用で外出するのに、社用車を使うのは抵抗があるだろう。藍田の律儀さは、大橋以上だ。
「……あんたには呆れた」
 紹介状を折り畳んでジャケットのポケットに突っ込んだ藍田が、言葉に違わず心底呆れた表情で大橋を見る。だるいのか、いつも嫌味なほど姿勢を正している男は、壁にもたれかかっていた。
「そうか?」
「手を組むからといって、仕事とは関係ない場面までわたしの機嫌取りをしなくていいだろう。それとも、わたしと仲良く見せておかないと、不都合があるのか?」
 大橋は軽く眉をひそめる。藍田の言おうとしていることが、漠然とながら理解できたからだ。
 自分と藍田、任されているプロジェクトのどちらがより、大きな権力を行使できるかといえば、間違いなく藍田だ。つまり藍田の側にいるということは、その権力の行使に多少は関われる――と他人は思うかもしれない。
 底の浅い人間に見られたからといって怒るほど、大橋は柔ではない。怒る代わりに、また鼻先で笑ってやった。
「お前、性格が捻くれてるな」
 藍田は何も言わなかったが、わずかに唇をへの字に曲げた。人間らしい反応に、思わず噴き出しそうになったが、その前にエレベーターが到着し、扉が開いた。
 地上の駐車場とは違い、地下駐車場には人の姿はあまりいない。当たり前だ。この時間、自分の車に用がある社員は多くはないだろう。
 大橋は先にエレベーターを降りて歩き出したが、すぐに藍田がついてきていないことに気づいて振り返る。藍田が、露骨に嫌そうな顔をして睨みつけていた。
「おい――」
「やっぱり一人でタクシーで行く」
 そう言って藍田が操作ボタンを押そうとしたので、大橋は大股でエレベーターに戻ると、体で扉が閉まるのを防ぎ、藍田の腕を掴んで引っ張り出す。
「お前は往生際が悪い」
「どっちがだっ……」
「俺に気づかれたのが運の尽きだと諦めろ。いや、感謝しろ、だな。こうでもしないとお前、病院に行く気なんてなかっただろう」
 余計なお世話だ、と小声で藍田が応じたが、さすがにもう大橋に逆らう素振りは見せなかった。諦めたのかと思ったが、神経質そうな眉が苦しげにひそめられているのを見て、すぐにそうではないと気づく。
「藍田、大丈夫か?」
 ちらりと視線を上げた藍田が無愛想な口調で応じる。
「あんたと言い合っていたら、無駄な体力を使った」
「……あー、そうかい」
 大橋は自分の車の前まで来てドアロックを解除すると、わざわざ助手席のドアを開けてやって、藍田に乗るよう示す。
 ため息をついた藍田が乗り込もうと体を屈めた瞬間、不自然にその体が揺れた。頭で考えるより先に、大橋は手を伸ばして藍田を支える。腕に藍田の重みがかかり、ジャケットの胸元をしっかりと掴まれ、大橋はうろたえた。
 リアルに、藍田という男の存在を感じたせいかもしれない。細身だが、柔らかさとは無縁なしっかりとした硬さを持つ男の体の感触が、スーツ越しとはいえ大橋にはわかった。
 ゾロリと、胸の奥で不可解な塊が蠢いた気がして、大橋はうろたえる。それを感じたのか、藍田が訝しむような鋭い視線を向けてきて、大橋の腕を押し退け助手席に乗り込んだ。
 大橋は澄ました藍田の表情を確認すると、何事もなかったように装いながらドアを閉め、自らも運転席側に回り込む。
「――藍田」
 シートベルトを締めた途端、話しかけるなといわんばかりにウィンドーのほうに顔を向けた藍田に、大橋は声をかける。藍田は身じろぎすらせず応じた。
「なんだ」
「お前、もう少し肉をつけろ。痩せすぎだ。しっかり食ってりゃ、胃も弱る暇もないし、血も体重も増えるぞ」
 ここで藍田が振り返り、奇妙な表情で大橋を見つめてくる。
「……あんたは、わたしの生活指導までする気か」
「誰かがかまってやらないと、お前は自分にかまわないだろう」
「それなら別に、あんたでなくてもいいはずだ」
「俺以外に友達がいないくせに」
 勢いよくシートから体を起こした藍田が、睨みつけてくる。間違いなく、藍田の部下なら凍りつくような迫力だが、大橋には通じない。むしろ、藍田が素の反応を見せたことに心の中でニヤリとしていた。
 藍田は何か言いかけていたが、大きく息を吐き出すと、乱暴にシートに体を預け直し、自分の携帯電話を取り出す。
「……事業室に連絡を入れておく。医務室に行くとしか言ってなかったからな」
「ついでに、俺のところにも連絡入れておいてくれ。今のままだと俺は、行方不明扱いだ」
「自分ですればいい。それと、わたしの名前は出さないでくれ」
 大橋が横目でちらりとうかがうと、藍田は不機嫌そうな顔で答えた。
「会社をさぼってまで、わたしたちがつるんでいると思われたくない」
 頑な奴だと苦笑を洩らしてから、大橋は頷いた。









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