サプライズ


[8]


 ジャケットを腕にかけ、ワイシャツのボタンを留めながら藍田は診察室を出る。
 広い待合室に向かうと、藍田が訪れたときと変わらず、混雑していた。滅多に病院には足を運ばないので、昼間はこうも人が多いものなのかと、最初は驚いたぐらいだ。
 会計の前に、隣のカウンターの薬局で薬が出るのを待たないといけない。
 診察してもらうだけでもかなり待ったのだが、さらにまた時間がかかるのかと思うと、藍田は憂うつになる。
 診察を待っている間、何度となく帰ろうと思ったのだが、結局できなかった。
 それというのも――。
 藍田は壁際に置かれた長イスの一脚に歩み寄る。そこでは、大橋が腕組みして、壁に上体を預けて眠り込んでいた。
 藍田が隣に腰掛けると、その気配に気づいて大橋が目を開く。
「終わったか?」
「ああ」
 大橋の目から隠すようにして、藍田は捲り上げていたワイシャツの袖を下ろす。検査のため、右腕から血を抜いたのだ。
 会社の医務室で胃薬をもらうだけのつもりだったのだが、病院に行って検査してもらうよう紹介状を渡され、なぜか藍田の付き添い人の顔をしている大橋に半ば強引に連れてこられてしまった。
 早く自分の仕事に戻れという藍田の言葉は、端から無視されていた。
「それで、医者はなんだって?」
 当然のように大橋に尋ねられる。あんたに教える義理はないと突っぱねるだけの気力は、今の藍田にはなかった。
「……胃炎だと言われた。ストレス性の。潰瘍もできているかもしれないからと、胃カメラの予約を入れられたうえに、貧血の症状が出ているからと言って、血を抜かれた」
「俺とは無縁の単語だな。ストレスに貧血……」
 軽い調子で大橋に言われ、バカにされたように感じた藍田は思わず睨みつける。大橋は軽く声を洩らして笑った。
「睨むなよ。俺と違って繊細に出来ていると思ったんだよ。俺は、ガサツだからな」
「……そんなこと、見たらわかる」
「このヤロー」
 腕時計に視線を落とした大橋の動作に気づく。そういえば、藍田はともかく、大橋も仕事を放り出してきているのだ。一応連絡は入れたとはいえ、のんびりはできない。
「大橋さん、帰ったほうがいいんじゃないか。わたしはもう、一人で大丈夫だ。……最初から一人で大丈夫だったが」
「気にするな。最後までついててやる」
「わたしが気にする」
「――俺は気にしない」
 断言した大橋が大きなあくびをして、再び腕組みしたかと思うと、目を閉じる。
 放っておかれるような形となった藍田は、ムッとしながら大橋の顔を睨みつける。だが、すぐに空しくなり、肩から力を抜いた。
 改めて大橋の顔を眺めて、気づいてしまったのだ。藍田だけでなく、普段は陽気そのものの大橋の顔にも、疲労の色が滲んでいることを。大橋も普段から激務の中を過ごしているのだ。
 さぼりたい、という言葉は案外本心からのものだったのかもしれない。ただ、それで自分が運転手役を買って出ているのだから世話はない。
 人につき合って無理をするなと言ってやりたかったが、他人に干渉しない藍田の主義に反する。それに、疲れて寝ている男を叩き起こして、また小言を言われるのもご免だ。
「――……変な男だ」
 藍田はぼそりと呟く。
 大橋がここまでお節介な男だというのは、藍田にとっては意外だった。
 二度離婚したことを除けば、大橋は要領がよく、適度に手を抜くことを知っているタイプだと思っていたのだ。それはつまり、厄介なことには手出ししないともいえる。
 なのに大橋は、今の藍田ほど厄介なものはないと思うのだが、ためらいもなく関わってくる。
 車中で言った、機嫌取り云々というのは、大橋の本心を探り出すための方便だ。藍田と関わることで得る利益より、藍田と手を組むことで長期的に得る不利益のほうが、どう考えても大きい。大橋は、目先の権力で惑わされるほど、愚かな男ではない。
 そう思う程度には、藍田は大橋を評価している。大橋は、計算ができる男なのだ。
 なのにそんな男が、自分に関わってくる――。
 疑問が堂々巡りをしていることを知り、我に返った藍田は周囲を見回す。自分が不自然に突っ立ったままなのに気づいたのだ。しかし、どこかに腰掛けようにも、大橋の隣のスペース以外、空いている席はない。
 仕方なく藍田は少し間を空けて、大橋の隣に腰掛ける。
 何もせずただ名を呼ばれるのを待っているのは、手持ち無沙汰だった。貧乏性というか、せっかちなのだと、藍田は自分の性格がわかっている。
 数年ぶりに病院にきたこともあり、最初は殊勝な気持ちで待っていた藍田だが、あまりに待ち時間が長いため、さすがにイライラしてくる。
 そこに突然、右肩に重みがかかる。ハッとして見ると、寝込んでいる大橋が藍田にもたれかかってきて、右肩に頭を載せてきたのだ。
「……図々しい男だな」
 呟いてから、片手で大橋の頭を押し退けようとする。だが、髪に触れたところで手が止まってしまった。大橋の部屋に泊まった日の夜、思わず前髪を掻き上げてやった自分の行動を思い出したからだ。
 大橋の存在は、自分からわけのわからない衝動を引き出しそうで、藍田は不安になる。
 うろたえて手を引きかけるが、すぐに思い直して乱暴に大橋の頭を押し退けた。
「いてっ」
 声を上げて目を覚ました大橋は、何が起こったのかわからない顔をしていたが、立ち上がった藍田を見上げて察したようだった。
「殴ったな、お前」
「あんたの頭が重かったんだ。……もう、わたしにつき合わなくていいから、さっさと会社に戻れ。診察も検査も済んだんだ。あとは精算をして薬を受け取るだけだ」
「まだそんなこと――」
 大橋を追い返すいい機会だったが、運悪く精算カウンターから名を呼ばれる。大橋がニヤリと笑った。
「早く行ってこい。――待っていてやるから」
 藍田は唇を引き結ぶと、精算を済ませてから、別のカウンターで胃薬を受け取り、その足でまっすぐ病院を出た。だが、藍田の行動など読んでいたのか、当然のような顔をして大橋がついてきた。
 足早に歩く藍田の隣を、余裕で追いついた大橋が歩く。
「ここで待っていろ。車回してくるから」
「……いい。タクシーを使う」
「ああ? そんな無駄なことするな。おいっ」
 かまわず歩き出した藍田の腕が、大橋に掴まれる。藍田はムキになって振り払おうとするが、容易なことでは大橋の手は外れない。
「離せっ」
「あー、くそっ、なんだよ、お前はっ。いいから来いっ」
 藍田がこの場で待つ気がないとわかったらしく、大橋に強引に引きずられるが、藍田は必死に足を踏ん張る。
「わたしは一人で戻ると言っているんだ。放っておいてくれ」
「俺も戻るから、ついでに乗せていくと言っているだろうっ。つまらん意地を張らんで、人の好意は素直に受け取れっ」
 頑固な男だと心の中で毒づいてから、藍田の口から容赦ない言葉が飛び出していた。
「――……わたしは、あんたと馴れ合う気はない」
 ここまで頑なに藍田を引きずり続けていた大橋の動きが、ピタリと止まる。
 これまで聞いたことのない、低く抑えた声で言った。
「なんだと……?」
 藍田は気圧されそうになるのを堪え、きっぱりと告げた。
「あんたに周囲で動かれると、迷惑なんだ。わたしはわたしのやり方がある。あんたはあんたで、自分の仕事だけしろ。……もう、わたしのことは放っておいてくれ」
 力の抜けた大橋の手を払い退けると、藍田は踵を返して一人で歩き出す。
 少し間を置いてから、背後から大橋の怒鳴り声が聞こえてきた。
「俺だって、お前と馴れ合う気はないっ。だがな、俺のいままでの行為を、お前がそんなふうに取っていたんだとしたら――残念だよっ。望み通り、お前にかまわないでいてやる。おとなしく、数字の温室にこもって、あのクソ生意気そうな部下に守ってもらっていろ」
 感情任せに言い放つ子供のケンカのような言葉だった。
 藍田は大橋を一瞥することなく、病院前に停まっているタクシーに乗り込み、走り始めると、体から力を抜いてぐったりとシートに体を預けた。
 大橋に対して、言いたかったことをようやく言えたはずなのに、藍田の気持ちはすっきりするどころか、底がない沼にますます深く入り込んだ気がする。
 その理由を考えられるほど、今の藍田には気持ちの余裕はなかった。


 会社のビル前でタクシーを降りた藍田は、条件反射のように周囲を見回す。大橋の姿がないか、探してしまったのだ。病院を出た時間はほぼ同じなので、寄り道でもしない限り、また会社で顔を合わせる確率は高い。
 もっとも大橋は地下駐車場に車を入れ、そのままエレベーターでオフィスに上がるはずだ。ビル前やロビーで顔を合わせることはない、と思う。
「……あの男の行動は、こっちの予想を超えているからな……」
 ぼそりと呟いた藍田は腕時計に視線を落とす。診察や検査は、なんとか午前中のうちに終わらせられたが、そこから時間がかかりすぎた。とっくに昼休みは終わっている。
 昼休みの間に、何事もなかった顔をしてオフィスに戻るつもりだったのだが、予定が狂った。部下たちが揃っている状況で戻れば、好奇の視線に晒されるのは見えている。
 それもこれも、派手に自分を連れ出した大橋のせいだ――。
 いまさらながら腹立たしさを覚えつつ、藍田が足を踏み出そうとしたとき、ロビーを歩いてくる一人の男性社員の姿が視界に飛び込んできた。
 相手も藍田に気づいたらしく、一度足を止めたと思ったら、すぐに小走りでビルから出てきた。
「――藍田さん、大丈夫なんですか?」
 開口一番に堤に問われ、藍田は眉をひそめながら頷く。
「わたしがいない間、何か問題は起きなかったか?」
「安心してください。少なくとも俺がいる間は、藍田さんの所在を尋ねる電話はありませんでした。何かあっても、所用で席を外しているとだけ告げるよう、みんなとは申し合わせていますし」
 機転が利く堤の存在が、こういうときありがたい。余計なことを言われて、あとで誰かにあれこれ詮索されるのは、煩わしい以外の何者でもない。
「助かった。……手間をかけさせたな」
 いいえ、と応じた堤が、何かを期待するような表情で藍田の前に立ちはだかる。
「……まだ何か用か」
「藍田さん、昼は食べましたか?」
 意外な質問に目を丸くした藍田は首を横に振る。
「医務室からまっすぐ病院に行って、いままでかかったから、何も食べてない」
「だったら俺と一緒に食いに行きましょう。いまさら帰りが少し遅くなっても、誰もなんとも思いませんよ」
「お前、昼はまだなのか……」
 仕事の都合で昼食を遅れてとるのは、多忙な社員にとって別におかしいことではない。藍田もそうだ。
「いつもは、適当に弁当を頼んだりするんですけどね。今日は医務室を覗いたついでに、外に食いに行こうかと思ったんです」
「医務室って、まさか――」
 堤は頷き、夏の強い陽射しに目を細めながら、さまになる仕草で髪を掻き上げる。
「帰りが遅いので、点滴を受けているのかと思ったら、病院に行ってたんですよね」
「きちんと検査を受けろと言われたんだ」
 ここで藍田は口を閉じる。アスファルトから立ち上る夏の熱気に、わずかに残っていた体力も気力も奪い尽くされそうで、正直、会話を交わすのも億劫になっていた。表情に出ないので誰も気づいていないだろうが、藍田は暑さに弱い。
「……堤、食事なら一人で行ってくれ。わたしは食欲がない」
「近くのビルの中に、美味い中華レストランがあるんですよ。そこに行きましょう。近い
し、今ならそんなに混んでませんよ」
 人の話を聞いているのか、と叱責する気にもならなかった。藍田は半ば呆れながら、部下である男を見つめる。
 予想を超えているというなら、堤もそうだ。大橋とは違った意味で言動が意表をつきすぎて、何を考えているのか藍田にはまったくわからない。
「胃の調子がよくないんだ。油っこいものは見るのも嫌だ」
 暑さにうんざりしながら藍田が言うと、ここで堤はニヤリと笑う。
「ちょうどよかった。今から行くところ、ランチでお粥が選べるんですよ。それに蒸し餃子だから油っこくないし、単品で薄味の野菜スープを頼みましょう。デザートは、杏仁豆腐とマンゴープリンのどちらかを選べますよ」
「……詳しいな」
「ときどき行くんで」
 さりげなく堤の腕が背に回され、軽く押される。強引ではないが、断れない状況へと追い込まれた形となっていた。
 結局堤と一緒に歩きながら、藍田は会社のビルを振り返る。今からオフィスに戻って、向かいにいるであろう大橋を意識するのが嫌だった。正確には、大橋を意識するであろう自分自身が、嫌なのだ。
 これまでの藍田なら、仕事に必要ないものは意識の外へと完全に切り離すことができたし、だからこそ煩わしい感情を自覚することもなかった。なのに今は違う。
 面倒な仕事を押し付けられてから、状況が一変した。騒々しい人間たちが、否が応でも視界に入ってきて、無視することを許さないのだ。
 藍田は横目でちらりと堤を一瞥する。この男もそうだ。いままで、遠巻きに藍田を観察しているような節はあったが、必要以上に近づいてこなかったはずなのに、今は違う。少なくとも、上司を気軽に食事に誘ってくるタイプではなかった。
 ふいに堤がこちらを見たので、藍田はスッと視線を正面へと向ける。
「――堤、来週また、少しオフィスを空けることになると思う」
「仕事ですか?」
「私用だ。今日行った病院で、胃カメラの予約を入れられた。それに、今日した検査の結果も聞かないといけない」
「ついていきましょうか?」
 数秒の間を置いてから、藍田は顔をしかめて隣を見る。目が合った堤は、肩をすくめて笑った。
「冗談ですよ」
「わたしが反応に困るようなことを言うな」
「藍田さんの口から、『困る』なんて言葉を聞くとは思いませんでした」
 この男は上司をなんだと思っているのだ――。
 いろいろ言いたいことはあったが、藍田はため息一つで勘弁してやる。それでなくても今日は午前中から、仕事に託けて他部署に呼び出され、事業部の統廃合について露骨に探りを入れられ、長々と嫌味を聞かされたのだ。挙げ句に、病院まで行くことになった。
 そのうえ、この暑さだ。頭上を見上げた藍田は、忌々しい太陽を目を眇めて睨みつける。
 何もかもが忌々しいし、苛立たされる。連日のように人を呼びつけて嫌味を言う暇人にも、胃薬程度をすぐに出してくれないどころか、病院への紹介状を押し付けてきた医務室の勤務医にも。
 何より、お節介な大橋や、上司を上司とも思わない堤にも。
「暑い……」
 藍田は小さく洩らすと、暑い中を歩くことが今になって嫌になり、会社に戻ろうかという気になる。実際、食事を抜くのはよくないとわかってはいるが、食欲がない。
「堤、悪いが――」
 食事は一人で行ってくれ、と言おうとしたとき、突然、堤の手に背を押された。
「信号が変わりますよ。急ぎましょう」
 そんな言葉とともに堤が駆け出し、藍田も勢いに圧されて小走りで横断歩道を渡る。
 渡りきったところで、堤に言われた。
「さっき、何か言いかけましたか?」
 短い距離を走っただけなのに息が切れる。藍田は大きく深呼吸を繰り返してから、首を横に振った。
「……なんでもない」
「じゃあ、急ぎましょう。俺、腹が減って限界なんですよ」
 この陽気の中、嫌味のように爽やかな笑みを向けられ、さすがの藍田も引き返すとは言えなくなっていた。堤に振り回されていると自覚するのも癪だ。
 再び並んで歩き出してすぐ、藍田は背の違和感に気づいた。本人は無意識なのか、背に堤の手がかかったままなのだ。まるで、女性をエスコートするかのように。
 普段から女性相手にこういうことばかりしているから、妙なときに癖が出るのだと思った途端、唐突に藍田の脳裏にある男の顔が浮かんだ。大橋だ。
 女性相手にこういうことをしていそうだというなら、大橋の存在を忘れてはならないだろう。藍田が向かいのオフィスを見る限り、かなりの確率で大橋の傍らには女性社員がいて談笑しており、本当に仕事をしているのかと、藍田は苦々しく感じることがある。
「どうかしましたか?」
 突然、堤に隣から顔を覗き込まれる。藍田は眉をひそめたまま首を傾げた。
「何がだ」
「急に難しい顔をしたので」
「……暑いんだ」
「それは俺に言われても」
 藍田は唇を引き結び、堤を睨みつける。部下にからかわれているのかもしれないという疑念を深めたとき、当の堤が目の前のビルを指さした。
「ここの十階です」
 相変わらず背に手を置かれたまま、藍田はビルを見上げる。ビルそのものは知っているが、中にどんな飲食店が入っているかはまったく知らない。基本的に、食べることに興味がなく、腹に溜まればそれでいいという性質なのだ。
 ビルに一歩入った瞬間、猛烈な冷気に襲われる。外が猛暑である分、ビル内の冷房はかなり低めに設定してあるせいだ。
 涼しいと感じたのは二歩目を踏み出すまでで、すぐに寒いと感じた藍田は大きく身震いする。このとき、頭からスッと血の気が引いていく感覚に襲われ、足元がよろめいた。
 思わず、先を歩く堤の肩に片手をかけると、素早く振り返った堤が顔を強張らせる。
「藍田さんっ」
「悪い……。立ちくらみがした」
 視界が大きくぶれて、目の前のものすらまともに見えない。顔を伏せた藍田は軽く頭を振る。
「座りますか?」
「いや、すぐ治まる」
 藍田が目を瞬かせている間、堤は肩越しに振り返ったままじっと動かず、ただ肩を貸してくれていた。大げさに騒ぐより、藍田にはただこうしているほうがいいとわかっているのだ。
 静かに息を吐き出した藍田は、そっと堤の肩から手を離す。軽い立ちくらみだが、こうも頻繁に続くと忌々しい。とにかく今日は、体調が最悪だった。
「大丈夫ですか?」
「ああ。大したことはない」
 藍田の答えを信用していないのか、気遣うようにしっかりと、堤の手が背にかかる。
「――すごいですよね」
 いくぶんゆったりとした歩調で歩きながら、ふいに堤に言われる。
「何がだ」
「大橋部長補佐ですよ」
「……なんでここで大橋さんの話題が出る」
 応じながら藍田は、会社の地下駐車場でのことを思い出していた。やはり立ちくらみを起こした藍田を、大橋が支えてくれたのだ。その後、余計なことまで言われたが。
 咄嗟に大橋の胸元に掴まったことが、いまさらながら失態だと思える。大橋に、弱みを見せてしまったのだ。一方で、体を支えてきた大橋の腕の力強さに、柄にもなく動揺した。
 普通の生活を送っていて、同年代の同性の体の感触を強く意識することは、そうないだろう。だから動揺したのだと、藍田は自分の反応をそう解釈していた。
 体の感触といえば、ついさきほど触れた堤の肩の逞しさや、今、背に触れている手の大きさも、強く意識している。
 思わず堤の横顔に視線を向けると、前を見据えたまま堤は話を続ける。
「あの人、藍田さんが少しふらついたところを見て、向かいのオフィスから飛んできましたよ。あの場にいた人間では、藍田さんの異変に気づいたのは俺ぐらいだったのに」
「暇人のお節介なんだ、あの人は」
「だったら俺も、ということですか?」
 堤から薄い笑みを向けられ、思わず返事に詰まる。
 大橋と堤は、年齢から物腰、性格に至るまで、何から何まで違うが、藍田にかまってくるという点では、行動が似ていると思った。
「……そうだな」
 ぽつりと洩らした藍田は、無意識のうちに唇を綻ばせる。驚いたような堤の視線に気づき、すぐに藍田は表情を消した。
「だけどもう、あの人はわたしにかまってこないはずだ。……よほど鈍感でない限り、な」
「鈍感かもしれませんよ?」
 さらりと堤に返され、ムッと眉をひそめる。
「お前、わたしのバリアーになるんだろう。大橋さんが今度うちのオフィスに乗り込んできたら、叩き出せ。あの男は、火のないところに煙は立てるし、妙な騒動にわたしを巻き込もうとするし、何より、騒々しい」
「――本気で実行しますよ」
 どこか楽しげな口調で堤が言い、藍田は頷く。
「やれるものならな」
 素早く動いた堤がエレベーターのボタンを押し、手で示されるまま乗り込む。あとから乗り込んだ堤が扉を閉める様子を眺めながら、ふっと肩から力を抜いた藍田はため息交じりに洩らした。
「本当に今日は調子が悪い……」
 おかげで藍田の今日のペースは、二人の男によって乱されっぱなしだ。




 ここ一週間の大橋の機嫌は、自分でいうのもなんだが、近年稀にみるほど悪かった。だからといって部下たちに八つ当たりすることはない。あくまで大橋は紳士を自認している。
 それに、他人にぶつけられるほど激しい感情というわけではない。その感情は、自分でも戸惑うほど、曖昧な『怒り』だった。
 怒りの炎が燃え上がることもなく、だからといって燃え尽きることもなく、ただひたすらくすぶり続けているのだ。
 いっそのこと怒りを爆発させることができたらどれほど楽か、と思わなくもない。
 妻が家を逃げ出したときですら、理不尽だと思いはしたが、ここまで怒りが持続することもなかった。あのときはひたすら呆然としていたため、明確な怒りという感情を忘れていた。
 つまり大橋にとってはそれほど、藍田に容赦なく言われた言葉が、体と心の奥底まで突き刺さったということだ。
 自分にこんな傷つきやすい部分があったなど、三十五年生きてきて、初めて知った。
 大橋はパソコンから顔を上げ、くしゃくしゃと髪を掻き上げる。何気なさを装いながらイスの向きを動かし、窓の外へと目を向ける。あることを確認してから、心の中で吐き出した。
 あの、ツンドラ男、と。
 大人気ないが、仕方ない。本当にそう思うのだ。
 向かいの新機能事業室のオフィスは、今日は曇りの天気ということもあり、日よけのブラインドは下ろされていない。一か所を除いて。
 藍田が座っている窓際だけは、まるでたった一人の人間の視線を遮断するかのように、ブラインドが下ろされている。たった一人とは、もちろん大橋自身を指している。
 ブラインドが下ろされているのは今日だけでない。病院の前で藍田と別れてから、ずっとだ。
「あの偏屈ぶりは、徹底しているよな」
 ここまで拒絶されていながら、どうして自分があの、藍田が見える窓を気にしてしまうのか、大橋にもわからない。
 わかれば、どうしても藍田をかまってしまう理由もおのずと見えてくるだろう。
 そういえば、と大橋はもう一つ大事なことを思い出す。何も怒っているのは、大橋と藍田だけではないのだ。
 イスの向きを戻して、旗谷のデスクに目をやる。旗谷はイスから腰を浮かせ、厳しい横顔を見せながら部下と何か話していた。
 彼女もまた、怒っている。
 怒りの理由は明白だ。大橋が、社内改革に関して協力したいという旗谷の申し出を断ったこと以外、考えられなかった。
 旗谷の気持ちはありがたいが、男ですら、踏ん張れるかどうかの厳しい状況だ。そこに、女である旗谷を巻き込むわけにはいかなかった。
 それに、オフィス企画部全体の仕事のサポートに、旗谷には集中してもらいたい。
 これが大橋のエゴだと言われれば、返す言葉はない。だが、自分の部下を巻き込みたくないという最大のエゴを、曲げるわけにはいかない。
「……あっちで怒らせ、こっちで怒らせ……。俺は昔から、物事を丸く収める才能には欠けているよな」
 大橋なりに深刻なため息をつくと、まじめに仕事をやるかと、デスク上のボックスに片手を突っ込む。大橋がどれだけ懊悩しようが、仕事だけは着実に溜まっていくのだ。
 書類に目を通して一枚ずつ判を押しながら、ときおり部下を呼んで指示を出す。
 精力的に書類を片付けていた大橋だが、ある書類を手にしたところで、軽く眉をひそめていた。数枚の用紙が綴じられているのだが、表紙の文字を読んですぐに、書類の内容は理解した。
「本社の移転関係の書類は、全部俺に手渡ししろと言っておいただろうが」
 大橋は低く呟くと、顔を上げてオフィス内を見回す。この書類の作成を頼んだ部下の姿を探したが、どこにもなかった。旗谷が主任を務めるシステム環境事業部の男性社員で、移転推進実行プロジェクトのメンバーでもある。
 仕方なく大橋は書類に目を通すが、記されている結果にすぐにうんざりしてしまい、デスクに頬杖をついてぼやいた。
「――おいおい、まじめに取り組んでくれよ」
 書類にまとめるよう頼んでおいたのは、会社ビルの地下二階にある資料階の整理状況だった。資料階は、各部署にあてがわれた資料倉庫があるフロアで、徹底した湿度管理が行われている。
 どれだけデータベース化が進められようが、紙の資料のありがたみは、なかなか抜けない。そのため設けられている資料倉庫は、資料そのものの重要度はともかく、活用度は高い。どの部署も、とにかくいろんな資料を詰め込んでいる。
 しかしどれだけ大事に保管しようが、本社が移転するときは半分以上が確実に処分されるものだ。
 それがわかっている大橋は、資料倉庫に眠る資料の処分を各部署に命じている。
 そう、移転推進実行プロジェクトのリーダーとして、『命じている』のだ。
 提出された書類に書かれている各部署の作業進捗度を見ると、本気で殺意が湧く。あまりにひどい数字だといわざるをえない。
「余計なゴミを持って東京に行きたいなんて言ったら、そのゴミに火をつけるぞ、こいつら……」
 物騒な言葉を呟いてから、大橋は書類を指先で弾く。そして、勢いよくイスの向きを変えて、窓のほうに体の正面を向けた。
 忌々しくも、数ある部署の中で、最低の作業進捗度を誇っているのが、向かいの新機能事業室だった。
 下ろされたままのブラインドが、腹立たしくて仕方ない。
 すぐにイスの向きを戻した大橋は、電話に手を伸ばしたが、受話器を取り上げたところで自分の行動を戒める。
 新機能事業室に電話して文句の一つでも言ってやろうと思ったのだが、さすがにそこまですると大人げないと、自分で気づいた。
 新機能事業室の作業が捗っていないから腹が立つのではなく、そこに藍田がいると思うから腹が立つのだ。これは、立派に私怨だ。
 メンバーに命じて、大橋の手にある書類をコピーして赤線を引き、嫌味たらしく藍田のデスクの上に置いてこさせるのが、仕事としては正しいやり方だろう。少なくともこの方法なら、大橋の時間はまったく取られない。
 一度はそう自分を納得させようとした大橋だが、改めて向かいのオフィスの、下ろされたブラインドを目にすると、じっとしていられなかった。ここ一週間の間、くすぶり続けていた怒りを、とうとう堪えきれなくなったのだ。
 すっかり覚えてしまった藍田のデスクの内線番号を押すと、すぐに本人が出た。
『――新機能事業室の藍田です』
 誰が相手でも変わることがないのだろう淡々とした声に、苛立ちを覚える。唐突にまた、一週間前に藍田に言われた言葉を思い出してしまったのだ。
 大橋はぶっきらぼうな口調で名乗った。
「移転推進実行プロジェクトの大橋です」
 滅多にない大橋の不機嫌な様子に、何事かと部下たちがこちらを見たので、なんでもないと手を振る。それでも周囲の視線が気になるので、大橋はまたイスごと、窓のほうに体の正面を変えた。
 すると、いつの間にか向かいのオフィスのブラインドが上げられ、同じく藍田がこちらを見ていた。
『……ふざけているのか、あんた』
 冴え冴えとした表情を向けられ、反射的に大橋に睨み返す。
「俺はそんなに暇じゃねーよ。仕事で用があるんだ」
『で、その用というのは?』
 明らかに大橋からの電話を迷惑がっている様子が、ありありと伝わってくる。しかも窓に視線を向けられば電話をしている最中だというのに、藍田はパソコンに向かい、キーを叩いていた。
 まともな会話を交わす前から、大橋の怒りの火に油が注がれたようなものだ。
「――今から、お前のところの資料倉庫に踏み込むぞ」
 大橋の言葉に、ふっと藍田がこちらを見る。あからさまに迷惑そうな顔をしていた。
『何?』
「今、俺の手元に、資料倉庫の使用状況を数字で出した資料が来てるんだが、お前のところだけ、なぜか数字が跳ね上がってるんだよ。つまりだ、資料倉庫をとっとと片付けろと指示したのに、お前のところは反対に、せっせと新たな荷物を運び込んだということだ。それとも何か? 俺は新機能事業室にだけ逆の指示を出していたのか?」
 大橋の皮肉は、ツンドラ地帯の藍田の心にも届いたらしい。不愉快そうに唇を歪めた藍田は、ふいっと窓から顔を背け、イスから腰を浮かせて誰かを探す仕草をする。
「おい、藍田、聞いてるのか」
『資料の処分については、堤に任せてあるんだ。言いたいことがあるなら、堤にたっぷり言ってやってくれ』
「奴の上司はお前だろうが」
『細事にかまっていられるほど、わたしは暇じゃない』
 藍田のこの一言に、大橋は完全にキレた。
「細事とはなんだっ、細事とはっ。俺はな、円滑に、必要最低限の費用で仕事を進めるよう言われてるんだっ。費用使い放題なら、このビルの中身丸ごと移してやるよ。そもそもガキじゃあるまいし、自分たちが使っていたものは片付けましょうね、なんて命令を出さなきゃいけねーんだ。それはな、お前んとこみたいに、横着にかまえて動かない奴がいるからだ。……いいか、俺が無駄だと認めたものは、一切荷造りさせねーからな」
 窓越しに藍田に対して指を突きつけると、イスから立ち上がった姿勢で藍田はこちらを見ていた。華はないが、やたらきれいな造りの顔には、珍しく困惑気味の表情が浮かんでいる。
 さすがにムキになって言い過ぎたと思った大橋は、悪い、と言いかけて動きを止めた。
上司の異変に気づいたのか、堤が藍田の元に駆け寄ってきたのだ。
 堤が何事か話しかけると、送話口を押さえながら藍田が応じる。その光景を見た瞬間、大橋はひどい胸焼けにも似た感覚に襲われた。
 どうしてだか、藍田の周囲でよく見かける堤という部下の存在が気にかかる。生意気そうだというだけでなく、大橋に対して何か含んだような言動を取っているように感じるせいかもしれない。
 ここで大橋は本題を思い出し、慌てて電話口で怒鳴る。
「おい、こら、藍田、聞いてるのか」
 大橋が窓越しに自分の受話器を指さすと、藍田は再びに電話に応じた。
『本当に資料倉庫に行くのか?』
「合鍵なら持っている。状況を確認して、仰々しい警告文を送ってやる」
『……もう少し待ってほしい。別に今すぐ移転作業に入るわけじゃないだろう』
「状況を確認してから考える」
 暇人、と言いたげな視線を藍田から向けられる。そんな藍田を見つめ返しながら水を向けた。
「ところで藍田、お前は資料倉庫の惨状は把握しているのか?」
『書類で満杯だと、堤から聞かされた』
「――お前も今から資料倉庫に来い。少しは切迫感が増すかもしれんぞ」
 わざと、意地の悪い笑みを浮かべて言ってやると、藍田はあっという間にブラインドを下ろしてしまった。
「あっ、あいつっ……」
『なんだ』
 冷ややかな声が受話器から聞こえてきて驚く。考えてみれば、電話は切っていないのだ。
 大橋は動揺を押し隠しつつ、低い声で告げた。
「とにかく俺は、お前のところの資料倉庫に入ってみるからな。どうせ、資料階は全部チェックしないといけないんだ。一足早い査察だと思え」
『……好きにすればいい。立ち合いがいるなら、堤を行かせる。わたしは忙しい』
 堤の名が出た途端、大橋は即答していた。
「いらん。俺一人で勝手に見て回る」
 電話を切ると、すぐにイスを戻す。すると、いつからそこにいたのか、旗谷が呆れた表情でデスクの前に立っていた。
「……なんだ」
 決まりが悪くて、怒ったような口調で尋ねると、旗谷は大げさに首を横に振る。
「いいえ。補佐が、ずいぶん楽しそうに電話していると思って」
「楽しいわけないだろう。藍田のところが、余計な仕事を増やしやがったんだから」
「その藍田副室長をいじめて、楽しそう、という意味です」
 旗谷の指摘に、不覚にもドキリとしてしまう。いじめなどと子供じみたことをしているつもりはなかったが、鬱憤晴らしの感情があったかと問われれば、否定できない。
 そんなわけあるか、と真剣な表情で言い返しながら、引き出しから合鍵の束を掴み出して大橋は立ち上がる。
「資料階に行ってくる。多分、三十分ぐらいで戻ってくる」
「いってらっしゃい」
 にっこりと笑いかけてきた旗谷に見送られ、多少の落ち着かなさを感じながら大橋は、半ば逃げるようにしてオフィスをあとにした。









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