サプライズ


[9]


 受話器を置いた藍田に、すかさず堤が言った。
「俺、今から倉庫に行ってきます」
 立った姿勢のままデスクに片手をついた藍田は、ゆっくりと堤に視線を向ける。一瞬、なんのことを言っているのだろうかと思ったが、すぐに自分を取り戻せた。
 寸前までの大橋の電話のことを言っているのだ。
 らしくないことだが、大橋に怒鳴られた藍田は、まだ少し動揺していた。別に、怒鳴られたことがショックだったというわけではなく、受話器越しに聞いた大橋の真剣な声そのものに反応してしまった。
 意外なほどあっさりと、大橋の声が胸の奥に届いた、というべきか。
 会社では常に完璧なガードを身につけている藍田の耳と心には、特殊なフィルターがかかっている。そのフィルターのおかげで、他人の言葉で傷つくことも、動揺することもない。
そのはずだった――。
 なのに大橋の怒声は、簡単に藍田のフィルターを通ってしまったのだ。
「藍田さん?」
 堤が訝しむように眉をひそめたので、大丈夫だと小声で答えた藍田は、ブラインドを下ろした窓のほうを見る。思わず、こう洩らしていた。
「……面倒な男だな」
 さすがの藍田も、大橋が怒っていたのはよくわかった。怒っていた理由は、資料倉庫の件だけではないだろう。おそらく、一週間前の藍田自身の発言のせいだ。あれは大橋を遠ざけようと思って、わざとひどい言葉を選んだので、ある意味、大橋の反応は当然だといえる。
 それでもなお、藍田に直接電話をしてきたのだから――面倒なのだ。こんな表現が適当なのかどうかよくわからないが、他に言葉が浮かばない。
「他の部署から頼まれて回収した資料を、倉庫に移動させたのは俺の判断ですから、俺が大橋部長補佐に説明して、謝罪してきます」
「いい。わたしが行く」
 咄嗟に出た言葉に、堤が目を丸くしたのはともかく、言った藍田自身が驚いた。大橋とはもう関わらないと心に決めていたはずなのに、それをたった一週間で翻すことになったのだ。
「しかし――」
「お前に仕事を頼んだのはわたしだ。それに、ここに使わない資料を置いておくわけにはいかないから、次の回収日まで倉庫に置いておくのは当然の判断だ。わたしでも、そう指示を出す。……まあ、いままでの対応が悪かったのは、反省すべきだな。うちは、どんな資料でも大事に抱え込む性分だから」
 そう言って小さく苦笑を洩らした藍田はすぐに、堤だけでなく、他の部下たちの視線に気づいて無表情に戻る。
 なぜそう、人が笑うといちいち反応するのかと、部下たちに問い詰めたい衝動に駆られていた。
 堤に言って、念のため新機能事業室が使っている資料倉庫の鍵を受け取ると、何か言いたそうな顔をしている堤の気持ちを藍田は代弁してやった。
「残念だったな。大橋さんがここに怒鳴り込んできたんなら、追い返せたのに」
「……別に、あなたがわざわざ地下まで出向かなくていいのに。そういう仕事は、俺がやりますよ。バリアーって、そういう意味も含んでいると思いました」
 いつもは生意気で挑発的な堤が、このときは単なる駄々っ子のように見え、うまく宥める言葉が思いつかなかった藍田は、堤の肩を軽く叩いた。
「様子を見たら、すぐに戻ってくる」
 そう言い置いてオフィスを出た藍田は、エレベーターホールに向かいながら、自分自身の言動に正直戸惑っていた。
 大橋には堤を行かせると言っておきながら、当の堤を制して、こうして自分が出向いていっているのだ。大橋と関わるのを面倒だ、厄介だと感じていながらの、今の自分の行動はなんなのか、藍田自身、よくわからない。
 もしかすると心のどこかで、大橋との関わりを完全に断ち切ることを是としていないのかもしれない。
 大橋は利用価値のある男だが、アクも強すぎる。あの男をコントロールできると考えるほど、藍田は自分の能力を過大評価していない。むしろ、藍田のほうが大橋に引きずられる傾向がある。
 そう考えると、より藍田は混乱してしまうのだ。自分はもっとうまく立ち回れるはずなのに、なぜ大橋に対してはそうできないのか、と。
 答えが出せないままエレベーターに乗り込むと、地下二階へと向かう。最初は混み合っていたエレベーターも、さすがに地下までいく社員はおらず、藍田一人となってしまった。
 資料階の入り口で社員証を提示して、名簿に部署と名、現在の時間を書き込む。いつもは人の出入りがあまりない資料階だが、最近は大橋の大号令のおかげで盛況のようだ。すでに名簿にはぎっしりと社員たちの出入りが記されている。
 藍田の名の上には、すでに大橋の名が記されていた。
 資料階には、夏という季節をまったく感じさせない空気が漂っている。ひんやりとして、少し乾燥した空気だ。これだけでも心地いい空間なのだが、何より静かなのがいい。
 人気のない廊下にはズラリとドアが並んでおり、藍田は奥へと歩いていったが、角を曲がったところで立ち止まった。
 新機能事業室の資料倉庫の前で、鍵を手にした大橋が今まさにドアを開けようとしているところだった。思わず藍田は持っていた鍵を落としてしまい、その音で大橋がこちらを見る。
「なんで、お前が……」
「あんたの八つ当たりを、堤が受け止める義理もないだろう」
「八つ当たり?」
 大橋の表情が急に剣呑となる。向けられた鋭い眼差しから逃れるように、藍田は鍵を拾い上げながら言った。
「この間のことで、わたしのことを怒っているんじゃないのか」
 顔を上げると、大橋は一瞬、決まり悪そうな表情をする。
「怒らせるようなことを言ったと、自覚はあるんだな」
「別に。ただ、あんたが機嫌を損ねる理由が、それしか思いつかない」
 大橋は何も言わずドアを開けたが、驚いたように目を見開く。その反応が気になった藍田も側まで行って中の覗き込んだが、惨状を目の当たりにして、思わず洩らしてた。
「……ひどいな」
「お前が言うな、藍田。お前のところが使っている倉庫だぞ」
 大橋に背を押されるまま資料倉庫に足を踏み入れると、中の電気をつけてから、改めて辺りを見回す。
 一年前に藍田が見たときは、まだ書類などはまとめて棚に収まっていたのだが、今は、棚から書類やファイルが溢れ出し、床のあちこちに段ボールが積み上げられていた。それに、新機能事業室が資料として使用した書籍の類までが、資料倉庫を侵食しており、気をつけないと足を取られそうだ。
 資料として分類できるものは、とりあえずここに放り込んだといった様子だった。
 それなりに広いスペースを与えられているはずなのだが、やけに狭く感じられるのは、やはり容量が限界に近いからだろう。
 いつだったか資料倉庫の様子を語った堤の表現は、決して大げさではなかったのだ。
 藍田は天井近くまである満杯の棚を見回しながら、淡々とした口調でとりあえず謝った。
「悪かったよ、大橋さん。あんたが怒るのも、もっともだ。わたしも、ここまですごいとは想像してなかった」
「俺も、ここまでひどいとは想像できなかった。……本当に、ひでーな。なんでもかんでも溜め込むなよ」
「そうは言っても、わたしが副室長になる前からのものも多いだろう」
 ここで藍田はあることに気づき、大橋に視線を向ける。ドアの横に立った大橋は、なぜか藍田を見ており、いきなり目が合った。二人同時に、うろたえたように視線を伏せる。
「なんだ、藍田」
「……ここの様子はわかったから、もう帰っていいか? 次の紙ゴミの回収日までには、少しはここをマシな状態にしておく。堤の話だと、他の部署に提供したままになっていたうちの事業室の資料が、まとめて返却されてきたんだ。オフィスに置いておくわけにもいかないから、一時的にここに移動させたらしい。別に、横着にかまえていたわけじゃない」
「お前にしては長台詞をしゃべったな。そこまでして庇ってやるほど、あの生意気そうな部下が可愛いか」
「あんたは、部下が可愛いと甘くなるのか?」
 真顔で藍田が問いかけると、大橋は目を吊り上げる。乱暴にドアを閉め、目の前まで歩み寄ってきた。
「どういう意味だ」
「深い意味はない。ただ、あんたはいつも部下と楽しそうにしていると思ったんだ。特に、女性社員と。オフィス企画部は仲がいいと評判だしな。うちと違って」
 大橋が口を開きかけたが、言葉を発する前に藍田はスッと距離を取り、無秩序に資料が詰め込まれた棚を見上げる。
 言わなくていいことを言ったと思い、まともに大橋の顔が見られなかった。そもそも大橋の職場環境など、藍田にとってはどうでもいいことだ。
「――俺たちは別に、馴れ合っちゃいないだろう?」
 突然、大橋に切り出され、ドキリとする。なるべくなら避けたかった話題を、大橋は簡単に口にしたのだ。藍田は棚に視線を向けたまま動けなかった。
「仕事上必要だから、顔を合わせたり、会話を交わしているだけだ」
「あんたは仕事の範囲を超えて、わたしのことに口出しをしている」
「許容しろ。目の前で弱っている人間がいたら、気にかけるのは当然のことだ」
「……それであんたは気が済むだろうが、わたしはペースを乱されるから嫌なんだ」
 言いながら藍田は、少し緊張していた。さすがに能天気な大橋でも、ここまで言えば激怒すると思ったのだ。まさにそこが狙いなのだが、感情的になった大橋の言葉が藍田は怖かった。
 大橋の言葉は、藍田が持つ見えないフィルターを貫いてくる。
 しかし予想に反して大橋は、苛立ったように自分の髪を掻き乱しながら、低く唸る。それから思い切ったように足を踏み出し、藍田の腕を掴んできた。
 腕から伝わってくる大橋の手の力強さにビクリと体を震わせ、反射的に藍田は後退ろうとしたが、ちょうど足元に置いてあった段ボールに足を取られる。
「あっ……」
 どちらが声を上げたのかよくわからなかった。咄嗟に見つめた先で、大橋も驚いたような表情をしていたからだ。
 藍田は後ろ向きのままひっくり返りそうになり、その藍田を引き戻そうとして、大橋も何かを蹴飛ばしてバランスを崩したようだった。
 大橋の大柄な体を受け止めきれず、藍田は背後の棚に思い切りぶつかりそうになったが、寸前のところで大橋の腕に背を庇われる。ただし、あとがよくなかった。
 二人が勢いよくぶつかったため、その拍子に棚からファイルや書類が落ちてきたのだ。
 素早く大橋の大きな手に頭を引き寄せられる。それだけではなく、全身を使って藍田を庇ってくれていた。
 重みのあるファイルが落ちる派手な音はいつの間にか止み、紙が床に舞い落ちる音だけが、資料倉庫内に響く。少し遅れて、大橋の声も。
「――いってー。角は、痛い……。ファイルの角は痛い」
 間の抜けた台詞に、我に返った藍田はそっと視線だけを動かすと、思いがけず大橋の顔が間近にあり、心臓の鼓動が大きく跳ねる。同時に、後頭部と背に大橋の手がかかったままなのだと気づく。
 一方の大橋も、藍田のほうを見て驚いたように目を見開き、なぜかそのまま動きを止めた。食い入るように、ただ藍田を見つめてくるのだ。
 咄嗟のこととはいえ、藍田も大橋のジャケットを握り締めていた。
 この瞬間、藍田は激しく動揺していたのかもしれない。その証拠に、どうして自分たちがこんな近い距離で見つめ合っているのか、わからなくなっていたからだ。もしかすると大橋も同じだったかもしれない。
「あー……」
 意味なく声を洩らした大橋が、戸惑ったように視線を伏せる。藍田は視線を壁のほうに向けながら、やっと声を発することができた。
「……痛いんだ。そろそろ、離してくれ」
 数秒の間を置いてから、飛び退く勢いで大橋が体を離す。
「大、丈夫、か……、藍田」
「あんたにギリギリと締め上げられるんなら、ファイルに降られたほうがよかったかもな」
「バカ野郎。ファイルの角は立派な凶器だぞ」
 そう言って頭を撫でた大橋が、フッと笑いかけてきた。藍田が段ボールに足を取られる寸前まで、自分たちがどんなやり取りをしていたか忘れたようだ。
 大橋を怒らせ、遠ざけようとしていた気持ちが空回る。自分は何をムキになっていたのかと、藍田自身も拍子抜けしていた。
 だから、大橋の側にいるのは嫌なのだ。こうしてペースを乱されてしまう。
 まだ身構えている藍田に対して、大橋は大きな段ボールの一つを指さした。
「座れよ。そう急いで帰ることもないだろう」
 大橋が段ボールに腰掛けたのを見て、少しの間逡巡してから、藍田も結局、向き合う形で座っていた。それでなくても資料などで狭くなっている場所だ。二人はほとんど膝を突き合わせる格好となっていた。
 すぐ目の前に大橋がいるということで、藍田は居心地が悪くて落ち着かない。すぐに資料倉庫から出るべきだったと後悔するが、もう遅いようだった。
「――きちんと検査は受けたのか」
 突然話しかけられ、ハッとして藍田は顔を上げる。大橋が真剣な顔をして身を乗り出してきていた。
「なんのことだ……?」
「一週間前のことだろうが。病院で胃カメラの予約を入れたと言ってたのは」
「入れたんじゃなく、入れられたんだ」
 どっちでもいい、と言いたげに大橋が軽く鼻を鳴らす。
「で、受けたのか」
 なぜそんなことを知りたがるのだろうかと思いながら、仕方なく藍田は答えることにする。大橋の性格からして、答えなければここから出ることを許してくれないだろう。
「……昨日、受けた。ついでに、血液検査の結果も聞いた」
「それでどうだったんだ」
「胃潰瘍は良性で、ストレスが原因だろうと言われて薬を出してもらった。それで一か月後に再検査だ。血液検査は、やっぱり軽い貧血だった。……胃潰瘍が原因だったみたいだ。栄養をうまく吸収できてないらしい」
 藍田が素直に話したことに、大橋は満足そうに頷く。その仕草が、なんとなく癪だ。
「つまり、よく食って、ストレス解消すればいいってことか。簡単だな」
「どこが簡単だ。あんたと違ってわたしは、日ごろから神経を使って仕事しているんだ。ストレスと無縁でいられるはずがないだろう」
「――なら、しっかり食え。それはお前の意思でどうにでもなることだ」
 急に厳しい表情で大橋に言われ、咄嗟に言葉が出てこなかった。藍田はぎこちなく視線を伏せると、ぼそぼそと応じる。
「努力は、する……」
「何? 聞こえんぞ」
「努力すると言ったんだっ。だいたい、あんたはなんのつもりだっ。わたしの保護者にでもなったつもりか」
 本人に自覚はなかったのか、大橋は目を丸くしてから、ガシガシと頭を掻く。藍田も、自分がどうしてこんなにムキになるのか、よくわからなかった。とにかく、大橋にかまわれると落ち着かないのだ。
「お前みたいにクソ生意気な奴の保護者になる気はないが、俺たちは手を組んだし、お前のバリアーになるとも言ったしな。最低限、お前には健康でいてもらわないと困る。俺の仕事にも関わってくるんだ」
 前触れもなく、大橋の顔にファイルを投げつけたい衝動に駆られたが、さすがにそれは、藍田の中の常識が引き止めた。これでも大橋は年上だし、何より社内での立場も、上なのだ。
 なのに大橋は、さらに余計なことを言う。
「お前のことだから、どうせ俺ぐらいしか、心配してくれる奴もいないだろう」
 藍田は素早く立ち上がり、帰ろうとしたが、すかさず手首を強い力で掴まれた。思いがけず大橋の高い体温を直に感じ、うろたえた藍田は振り返ったまま一歩も動けなくなり、見つめる先で大橋も、不自然に動きを止めている。
 時間が止まったような気がした。
 藍田は半ば呆然として大橋を見つめるが、その大橋も、どこか惚けたような表情で藍田を見上げてくる。強く意識するのは、掴まれた手首から感じる大橋の力の強さと、生々しい体温だけだ。
 ようやく、こうして見つめ合っていることに不自然さを覚え、わずかに視線を逸らして藍田は訴えた。
「――……大橋さん、手、離してくれないか。痛いんだ」
「あっ、ああ……」
 完全に立ち去るタイミングを逃した藍田は、恨みがましく大橋を睨みつける。肩をすくめて苦笑した大橋は、再び向かいの段ボールを示した。
「座れよ」
 逆らう気力も湧かず、藍田は素直に腰掛け直す。
「まだ何かあるのか……」
「お前に言おうと思って、ずっと忘れていることがあったんだ」
「くだらないことなら――」
「俺たちの味方のことだ。いや、敵には回らない人間、といったほうがいいな。でも、頼りにはなるし、おそらく信頼もできる」
 大橋の眼差しが真剣すぎて、まっすぐ見つめ返せない藍田は何げなく自分の手首に視線を落とす。大橋に掴まれたばかりの手首には、うっすらと指の跡が残っていた。
 バカ力、と藍田は心の中で洩らす。
「……この間、居酒屋であんたに引き合わされた人間の中にいたとか言うんじゃないだろうな」
「わが社の監視者、といえばわかるか?」
 それが誰を指しているのか、すぐに理解できた。藍田は即座に顔を上げる。
「管理室の宮園室長、か?」
「この間、呼び出されてな。珍しいだろう? 一歩引いたところから、会社を眺めているような印象のある人が、騒ぎの渦中にいる俺を自分の執務室に呼ぶなんて。何を注意されるのかと身構えていたんだが――何を言われたと思う?」
 こう尋ねてきたときの大橋の表情は、まるでイタズラの相談を持ちかけてくる悪ガキそのものだった。
 不思議なほどその表情は憎めなくて、こういうところがきっと、他人を惹きつける魅力の一つなのだろうなと、漠然と藍田は考えていた。
「おい、藍田、少しは考えてるか?」
 段ボールから腰を浮かせた大橋に顔を覗き込まれ、心の中を覗かれたような気がした藍田はうろたえる。誤魔化すように顔を背けていた。
「知らない。早く言ったらどうだ」
「……おもしろみがねーな、お前は。今に始まったことじゃないが。――管理室として、できる範囲で協力すると言ってくれた。藍田さんにも、そうお伝えください、だそうだ」
 背けた顔を、藍田は再び大橋に向ける。それぐらい、意外なことだったのだ。一方の大橋は、藍田の反応に満足そうだ。
「厳格なはずの監視者も、退屈していたらしい。宮園さんはどうやら、俺とお前という組み合わせをおもしろがっているようだな。会社そのものについても、思うことがあるんだろう。会社が目指すものとは逆の方向も見てみたいし、イレギュラーな存在を認めるのもおもしろい――」
「宮園室長の言葉か?」
「そう。面と向かって言われたら、お前ならムッとくるだろう」
 ムッとはしないが、少し複雑な心境にはなる。
 自分と、管理室室長である宮園は似ている部分を持っていると、藍田は常々感じていた。自分は数字で、宮園は法規によって、物事や他人を常に冷静に判断しているという点だ。
「……社内に、自分の感情を持ち込む人だとは思っていなかった」
「宮園さんか?」
「ああいう人でも、今の会社に多少の不満を感じているんだな……」
「お前はないのか?」
「わたしは――」
 返事に窮して藍田は唇を引き結ぶ。不満はあるが、その現状を受け入れることに、あまりに慣れすぎたのだろう。任されたプロジェクトは、そういう意味で、藍田の目を覚まさせたといえるかもしれない。
 胃薬を服用しながら仕事をこなしていた挙げ句が、捨て駒扱いだ。
 つい藍田は、引き結んだばかりの唇を歪めるようにして笑ってしまう。すると今度は、大橋がうろたえたように目を剥き、まじまじと見つめてきた。
「ど、した……? 急に笑ったりして」
 誰もかれも、わたしが笑うと、そんなに珍しいのか。
 藍田は心の中で呟いたが、口にしたのは違う言葉だった。
「どこまでいっても、わたしは誰かの駒なのかと思ったら、笑えてきた」
 藍田は口元に手をやり、歪な笑みを消す。こういう笑い方をすると、ただでさえ乾いた心が、さらに荒みそうだ。それに、物珍しげに見つめてくる大橋の視線が、なんだか腹立たしい。
 もう戻る、と低く告げて立ち上がった藍田に、大橋はこう声をかけてきた。
「だったら俺たちも、宮園さんを利用すればいい。あの人も、そのつもりで俺に声をかけてきたんだ」
 ドアノブに手をかけて振り返ると、大橋も立ち上がるところだった。
「利用……?」
「お前なら、あの人の利用の仕方が思いつくだろう。俺は腹芸が専門だからな、ああいう人の相手をするのは苦手なんだ。その点、お前と宮園さんは気が合いそうだ」
「なんだか含みがあるな」
 藍田の言葉に答えず、毒気が抜けるような笑みを浮かべた大橋がこちらに近づいてこようとしたので、すかさず鋭い声で制する。
「あんたは、もう少しここにいろっ」
「えっ、なんでだ」
 抜け目がないかと思えば、妙なところで大橋は間が抜けている。
「こんな密談にうってつけの場所で、あんたと二人でこそこそしているところを誰かに見られたら、何を言われるか――」
「いまさらという気もするが」
 飄々とした口調と表情で返され、一瞬カッとした藍田は、段ボールの上に置かれたファイルを掴み上げると、大橋に向かって投げつける。
「おわっ。お前なあ、さっき言っただろ。ファイルの角は痛いんだよ」
「うるさいっ。五分間、そこでじっとしていろっ」
 藍田はそう言い放ち、乱暴にドアを開ける。最後にもう一度振り返り、念を押した。
「……動くなよ」
 大橋は苦笑しながら頷いた。
「わかったよ」
 ここで急に冷静になった藍田は、寸前の自分たちのやり取りを恥ずかしく感じながら、逃げるようにして資料階をあとにした。









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