サプライズ


[11]


 自分を守る手段を考えるべきかもしれない――。
 パソコンのキーボードを打つ手を止め、ふとそんな言葉が藍田の脳裏を過ぎった。直感めいたものだったが、さほど時間を置かずに、じわじわと言葉が心で重みを増す。
 藍田は無意識に、自分の右手首に左手を這わせていた。大橋に掴まれた指の跡はとっくに消えてなくなってしまったが、どうしてだか、いまだに感触は生々しいほどはっきりと残ったままだ。その感触が一日のうちに何度も、藍田の心を揺さぶる。
 高柳から言われた言葉は、自分でも意外なほど心に大きな波紋を広げていた。
 別に、高柳から探りと牽制を入れられたことが怖いわけではない。
 あんな反応は予想の範囲内だ。予想外だったのは、煩わしいと感じている大橋からの接触を、高柳に告げなかった藍田自身の行動だ。
 大橋と高柳を互いにぶつけ合わせれば、一時的であったとしても、藍田の面倒事は減ったはずだ。わかっていながら、藍田はそうしなかった。
 大橋を危険だと言ったのは、予想しえない変化を自分にもたらすからだ。
 藍田はキーボードから手を離すと、オフィスを見回す。すでに昼休みに入っているため、残っている社員の姿はまばらだ。
 常に静寂に包まれ、淡々と仕事が進む、藍田にとっては心地のよい恵まれた環境だ。ずっとこの環境で仕事ができるなら、別に出世など望まない。大きな環境の変化など、災厄を生む原因にしかならないはずだ。
 藍田にとってこのオフィスは、いつだったか大橋が言っていたように、最上の温室なのかもしれない。
「――わたしは、自分を守るための手段を取ってきたか?」
 小さな声で自問してから、さらに心の中で問いかける。
 自分を守るための手段とは、なんなのか――。
 大橋との関わりを断ったところで、藍田自身が背負った仕事は変わらないし、そこから生じるリスクもまた、変わらない。そんなことは最初はからわかっていた。わかっていながら、大橋と関わりを持つまいとしていたのだ。
 だったら、根本的な対応を考えなくてはならない。大橋は敵ではなく、それ以外の誰かが、敵なのだから。
 藍田はイスの向きを変え、窓のほうに体の正面を向ける。今日は朝からブラインドを下ろしたままなので、向かいのオフィスを見ることはできない。それでも藍田はじっと、大橋がいるはずの方向を見据える。
 仕事という枠から抜けると、自分がさほど器用ではないと自覚している藍田は、真剣な表情をしたまま、内心では困惑していた。
 プロジェクトを終えるまでの間、自分を守る手段など本当にあるのか、と。
 それに――。藍田は立ち上がって窓際に歩み寄ると、ブラインドに手をかける。
 向かいのオフィスにいる、能天気なのか豪胆なのかよくわからない男も守りきれるのだろうか。
 無意識のうちにそう考えていた藍田は、次の瞬間には眉をひそめていた。
「……あの人は関係ないじゃないか……」
 なぜ大橋の心配などしてしまったのだろうかと、うろたえながら藍田は、自分の右手首に視線を落とす。
 この瞬間、数日前に大橋に言われた言葉を思い出し、ゆっくりと目を見開いた。
 急いで振り返ると、ちょうどこちらを見ていた堤と目が合う。見られたくない場面を見られたような落ち着かなさを感じながら、藍田は立ったままパソコンの電源を落とした。
「これから昼ですか?」
 慌ただしく堤の後ろを通って行こうとすると、その堤に声をかけられる。イスごと振り返った堤の顔から微妙に視線を外しながら藍田は頷く。
「だったら俺も一緒にいいですか?」
「……断る」
 藍田が顔をしかめて答えると、堤はおかしそうに声を洩らして笑う。
「どうしてですか」
「お前は、人が食べるものにあれこれと口を挟んでくるだろう」
 最近になってから堤と何回か昼食を一緒にとった経験を踏まえて、藍田は苦々しく告げる。すると堤は、悪びれたふうもなくニヤリと笑った。
「だって藍田さん、自分の食生活に無頓着でしょう。誰かが気にかけないと」
「それなら、別にお前でなくてもいいだろう」
「他に誰かいますか?」
 珍しいことだが、藍田は反論できなかった。堤は満足したように頷く。
「ですよね」
「とにかく、昼はわたし一人で行く」
「でも――」
「人と会うんだ」
 堤に押し切られてしまいそうで、仕方なく藍田は本当のことを告げる。このとき一瞬にして堤の表情が冴えた。
「大橋さんですか?」
 突然堤の口から出た名に、藍田は眉をひそめる。
 数日前、高柳と顔を合わせたあとにエレベーター内で交わした会話が、堤の中では強烈に印象づけられているのだろう。
 さきほど自分が考えたことを思い出し、わずかに鼓動が速くなる。この変化は堤に悟られてはいけないと思った。
 藍田はいつも以上に素っ気ない口調で応じる。
「……なぜわたしが、あんな危険人物と用もないのに会わないといけないんだ」
 堤が口を開きかけたが、何も言わせなかった。
「用があればお前を呼ぶ。それでいいな」
 堤が目を丸くしたあと苦笑したのを確認して、藍田は足早にオフィスを出る。
 廊下を歩きながら、堤のここ最近の変化はなんなのだろうかと思わずにはいられなかった。もともと、皮肉屋なところがあるわりには、愛想も要領もよかったので、社員同士のつき合いはうまくやっていた男だ。馴れ馴れしくない程度に他人と親しくできる。それに、藍田相手にも物怖じしないふてぶてしさもあった。
 だが、事業部統合のプロジェクトに加わりたいと切り出してきた日を境に、堤の藍田に対する態度は確実に変化した。
 必要以上に親しげになったというか、干渉してくると表現すべきか――。
 藍田が不快にならないギリギリのところで引くことを知っているだけに、対応に困る。おかげで、他の部下に対するよりも、堤へのガードはわずかに緩くなっていた。
 バリアーになると言い出した変わり者の部下を、藍田なりにおもしろい奴だと思ってはいるのだ。だからこそ、今以上の面倒事には巻き込みたくない。
 そんなことを考えながら藍田は、管理室のオフィスに向かう。大橋が資料倉庫で名を出した、宮園に会うためだ。
 宮園とは、仕事の報告で何回か話をしたことはあるが、あくまでそれだけの関わりだ。深く関わるべき相手ではないし、関わる必要がない――と、今日までは思っていた。しかし、そうもいっていられない事態だろう。
 有益な関係を結べる相手かどうか、藍田自身で判断する必要がある。大橋とは違い、藍田には使える人脈は少ないのだ。
 もっとも、使えるかもしれない人脈が、大橋からの紹介だというのも情けない気がする。
 多数の社員が苦手とする管理室があるフロアでエレベーターを降り、さっそく歩き出した藍田だが、すぐに足を止めることになる。
 廊下の向こうから、これから藍田が会いに行こうとしている人物が歩いてくるのだ。
「――おや、珍しいところでお会いしますね」
 藍田の前まできて、にこやかな表情で宮園が声をかけてくる。
 相変わらず、物腰だけは柔らかい。心の中でひっそりと呟いた藍田は、頭を下げた。
「突然申し訳ありません。少しお時間をいただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
「ああ、わたしにご用だったんですか。だったら、ちょうどよかったですね。わたしは午後から出かける予定があったものですから、すれ違いにならずに済んで」
「でしたら、用件は手短に……」
 宮園は口元に穏やかな笑みを浮かべたまま、怜悧な眼差しを向けてくる。一見して、まだ青年のような若々しい外見で、そのうえ物腰まで柔らかい宮園だが、ときおり見せる怜悧な雰囲気には、藍田ですら緊張することがある。
 社内のすべてを知り尽くし、秩序を保つ監視役である宮園のような社員でも、会社になんらかの不満を抱き、燻ぶる火を煽ろうとしているのだ。
 宮園の視線を受けながら、そんなことを考えた藍田はふいに、ここに足を運んだ自分の判断は正しかったのだろうかと、不安に駆られる。
「藍田さん、昼は食べましたか?」
「えっ……」
「社員食堂にご一緒しませんか。ご馳走しますよ。――賭けに勝てて、機嫌がいいんです」
 宮園に食事に誘われたことにまず戸惑ったが、最後の言葉の意味がわからなくて、さらに戸惑う。
「賭け、というのは?」
 生まじめに問いかける藍田とは対照的に、宮園はなんだか楽しそうだ。
「わたしが一方的に、心の中で賭けていたんですよ。勝負の相手は、大橋さんです」
 ここでも大橋の名が出て、藍田はピクリと肩を震わせてしまう。意識したことではなく、体がなぜか、大橋に反応してしまうのだ。
 そこにエレベーターの扉が開き、他の社員たちが乗り込んでいく。すると宮園がエレベーターを手で示した。
「どうしますか?」
「……ご一緒します」
 二人はエレベーターに乗り込むと、社員食堂に向かう。
 藍田と宮園という組み合わせは、かなり意表をついた組み合わせだった。社内の事情に多少通じている社員なら、藍田の人嫌いぶりと愛想のなさ、宮園の外見と雰囲気を裏切る容赦のなさと怜悧ぶりを知っている。
 日替わり定食を選んだ宮園は、さっさとフロアの中央辺りのテーブルに向かい、同じもを選んだ藍田もトレーを手にあとに続く。このとき、社員たちから好奇心交じりの視線を向けられたのは、気のせいではないだろう。
「――藍田さん、そんな目立つ外見をしていて、注目を浴びるのが嫌いでしょう?」
 向かい合ってテーブルにつくと、いきなり宮園に指摘される。藍田は思わず自分の格好を見下ろしていた。スーツはいつも通り、地味な色合いのものを選んだはずだ。
「そんなに派手な格好はしていないつもりですが……」
「そういう意味じゃありません。格好ではなく、あなたの外見そのもののことを言ったんです」
 あっという間にペースを乱された藍田は戸惑いながら、穏やかに微笑む宮園を見つめる。もっとも傍から見れば、いつも通り無愛想な藍田と、いつも通り表情だけはにこやかな宮園が、空恐ろしい密談をしているようにしか見えないだろう。
 宮園が割り箸を差し出してきたので、反射的に藍田は受け取っていた。
「まあ、いい。食べながら話しましょう」
 言われるがまま、食事を始めた藍田だが、正直、味はよくわからなかった。胃にはよくないだろうが、あれこれ考えていると、味のことなどどうでもよくなる。
「正直、意外でしたよ。藍田さん自ら、わたしの元に足を運んできてくれるなんて」
 食事の流れを切ることなく、ごく自然に宮園が言葉を挟んでくる。藍田は水を一口飲んでから、まっさきに頭に浮かんだことを尋ねた。
「……大橋さんが、何か言ったんですか。わたしのことを」
「シャイだ、と」
 どういう顔をしてそんなことを言ったのかと、藍田は複雑な表情になる。そんな藍田をちらりと見て、宮園は唇を綻ばせた。
「大橋さんがそう言うなら、わたしは、あなたが来ることに賭けてみることにしたんです。自分でも勝つとは思っていない賭けでしたけどね」
 それがさきほどの、賭けに勝てて云々という言葉に繋がるというわけだ。
 この会話をきっかけに、藍田と宮園の雰囲気が砕ける――わけではなく、宮園が人が変わったようにスッと表情を消し、『監視者』の異名を取る管理室室長としての顔になった。
「わたしに会う必要を感じる状況になった、ということですか?」
 藍田は背筋を伸ばすと、素早く周囲に視線を向ける。周囲のテーブルについた社員たちがこちらの会話に聞き耳を立てているようには見えないが、それでも声を抑える必要はありそうだ。
「ある程度のことは我慢できると思っていたのですが、甘かったようです。わたしは自分が思っているより、普通の人間だったらしい……」
 曖昧な藍田の表現だが、宮園は読み取ってくれたらしい。冴えた表情のまま食事を続けながら、小さく頷いた。
「藍田さんは、十分タフな方だと思いますけどね。だけど、誰かに相談を持ちかけるというのは、懸命な判断ですよ。特に、わたしに会いに来たという判断は」
「……大橋さんから聞かされなければ、管理室室長の名前を思いつくことはなかったと思います。あなたから、大橋さんに連絡を取られたそうですね」
「アドバイザーは必要かと思って。社内コンプライアンスは法務室に任せればいいですが、それでは補いきれない、社内でのあらゆるもののバランスを、わたしは監視しなければなりません」
 宮園のいうバランスに、善悪は関係ない。大事なのは、社内にとって有益か否かだけだ。藍田が、理解しているという意味を込めて頷くと、宮園はわずかに唇の端を動かす。
「だけど今回、あなた方が任されたプロジェクトが巻き起こすであろう混乱は、そのバランスを簡単に壊すでしょう。特に大橋さんは、人を惹きつける分、嵐の源となる可能性が高い。……一度起きた嵐を制御するのは不可能なんですよ」
 しかし、と言葉を続けたところで、宮園は何事もなかったように食事を再開し、藍田も続きを促すようなまねはせず、ご飯を口に運ぶ。
 食事が終わりかけた頃、やっと宮園は口を開いた。
「――嵐の源である大橋さんの動きは、コントロールできる」
 定食を三分の一ほど残して藍田は箸を置くと、ジャケットのポケットからピルケースを取り出す。
「ある程度、大橋さんの自由にさせるのもいいでしょう。破壊したいものに嵐をぶつけるのは効率的ですから。余計なものが壊れるのは、わたしも見てみたいですし。ただ、壊されて困るものもある」
 ようやく、宮園の目的が見えてきて気がした。
 藍田は苦い粉薬を水で流し込んでから、錠剤も口に放り込む。堤と一緒に食事をすると、薬を飲むのでさえ視線を気にしなくてはいけないが、相手が宮園だとその点は気が楽だ。宮園も、藍田の目の前で薬を服用し始めたのだ。
 お互い顔を見合わせると、微苦笑に近い表情を交わす。
「こういう仕事をしていると、ストレスだけが溜まりますね」
「宮園さんも、ですか……」
「何かを『保つ』仕事は、神経を使いますよ。おかげで、神経が図太い人が羨ましくて仕方ない」
 名を出さなくても、大橋のことを言っているのだとすぐにわかった。藍田は羨ましいと思ったことはないが、腹が立つことはある。それはもしかすると、羨ましいという感情の裏返しなのだろうか。
 藍田はピルケースをポケットに戻し、率直に尋ねた。
「――わたしに、大橋さんをコントロールできると思いますか?」
「藍田さん以外に、誰ができます? あの人はもう、あなたのパートナーのつもりでいますよ」
「なっ……」
 言葉に詰まって動揺する藍田を見て、宮園はわずかに目を見開く。よほど意外な反応だったらしい。しかし、さすがというべきか、宮園は次の瞬間には元の穏やかな表情に戻る。
「野心もあるけど、大橋さんの根本にあるのは、人の良さですよ。藍田さんを利用しようという思惑があるにせよ、敵が多いあなたを放っておけないのも事実でしょう。それが、大橋龍平という男です」
「……今おっしゃられたことが、どうしてわたしが、大橋さんをコントロールできるという結論に繋がるんですか」
「放っておけない、という気持ちを相手に抱かせたら、相手を支配したも同然ですよ。加えて、あなたと大橋さんの組み合わせはバランスがいい。あなたは常に冷静で、暴走しがちな大橋さんを理論で説き伏せられる」
 自分は別に、大橋の行動を支配したいとは思わないと、藍田は心の中で呟く。
 支配とコントロールは似ているようで、まったく違う。少なくとも支配となれば、相手のすべてを背負わなければならず、一方のコントロールは、あくまで介入でしかない。
「わたしが大橋さんをコントロールできたとしても、結果として共倒れになる可能性が高いのではないでしょうか。どうやらわたしたちは、上から捨て駒のように思われているようですし」
「だから、わたしに会いに来たんでしょう?」
 宮園はそう言って、鋭い刃が光を反射したような、冷ややかな笑みを浮かべた。藍田も冷ややかな表情はいくらでもできるが、こんな笑い方はできない。
 見ているだけで、息苦しく感じるような笑みは――。
「今回のプロジェクトに限っては、わたしはあなたと大橋さんの敵には回りません。そんな口約束、と思われるかもしれませんが、けっこうな手札になりますよ。少なくとも今、わたしと藍田さんがこうして親密に話していたということで、あなたへの妨害を企んでいた人物たちへの牽制になる。意外にわたしは、社内で恐れられているようなので」
 最後の言葉は冗談のつもりだったらしく、宮園は機嫌よさそうに声を洩らして笑う。もっとも藍田は、愛想笑いすらできなかった。ここで笑えるような性格をしていれば、物事はこんなにこじれなかったのかもしれない。
 藍田は笑う代わりに、頭を下げた。
「ありがとうございます」
「今日は本当に意外でした。あなたがわたしに会いに来ただけでなく、あなたが大橋さんの心配をしているというところが」
 頭を上げたとき、すでに宮園はトレーを手にテーブルを離れるところだった。
 宮園が社員食堂から出て行く姿を見送ってから、藍田は大きく息を吐き出して、肩から力を抜く。
 いつの間にか、頬が熱くなっていることを知ったが、それは緊張のせいにした。
 別に、宮園の最後の言葉に反応したわけではない――はずだ。




 最後の書類に判を押して部下に渡したところで、大橋は半ば条件反射のように窓のほうに視線を向けそうになり、寸前で堪えた。危うく、イスごと体を動かしそうになった。
 ここまで無意識だと、もう癖といっていいが、向かいのオフィスを見そうになったのだ。正確には、向かいのオフィスにいるはずの藍田を。
 しかしそうするためには、まず大橋側のブラインドを上げなくてはならない。
 三日前から大橋は、意地になってブラインドを下ろし続け、なおかつ窓の向こうを意識の外に追い払う努力を続けていた。
 素直には認めがたいが、藍田の生意気な部下・堤に言われた言葉を引きずり続けているのだ。下ろしたブラインドは、怒りと意地の表れだ。
 もっともこんなことをしたところで、通じるのは堤だけだ。藍田はいつもと変わらず、澄ました顔で仕事をしているはずだ。裏で自分の部下が、他の部署の上司にケンカを売ったと知りもせずに。
 堤は、自分の行動を誇らしげに藍田に語ったりはしないだろう。堤という男がどんな奴なのかは知らないが、これだけは確信を持っている。
 三日前、堤から一方的な釘を刺された大橋は、二度目の離婚をして以来、まったく手を出していなかった煙草を買ってしまった。妙に吸いたい気分になったのだ。
 だが現実は、喫煙ルームに入って煙草に火をつけはするものの、吸うまでには至っていない。
「くそったれ、男なら煙草の一本ぐらい勢いで吸ってみろってんだ」
 上品とは言いがたい独り言を洩らしたところで、煙草の横に置いた携帯電話が鳴る。表示された名を見て、大橋は思わず眉をひそめていた。
 ここで出るわけにもいかず、携帯電話を掴んで足早にオフィスから廊下へと出る。
「――なんの用だ」
 傍迷惑だという気持ちを隠しもせずに大橋が電話に出ると、外からかけているのか、人のざわめきと音楽が聞こえてくる。
『今夜、わたしに食事を奢らせてあげる』
「……俺の周りには、なんでこう、態度がでかい奴ばかり……」
『何か言った? 龍平』
「言ってねーよ。で、なんだって?」
 意識せずとも口調が荒くなる。電話の相手は、大橋の別れた妻である敦子だった。
 説明を加えるなら、大橋が一番目に別れた妻で、気が強いだけでなく、浪費家で男好きときている。いくら見た目はイイ女だったとはいえ、こんな女と結婚生活を送れたことは、大橋にとって最大の奇跡だ。
 別れたあとも、サバサバした性格のせいか、よく大橋はこんなふうに呼び出されては、
食事を奢らされている。
『イイ女が、一緒に食事してあげる、と言っているのよ』
「お前なあ……、俺は忙しいんだよ。何が楽しくて、五年も前に別れた女房とメシなんて食わないと――」
『新しい恋人ができたのよ、わたし。結婚するかもしれないから、未練が残らないよう、最後の晩餐はどう? と誘っているわけ』
 これで何度目だ、と思ったが、あえて口に出して言うことではないので、大橋はぐっと言葉を呑み込む。
「わかった。祝福してやる。場所は……いつもの店でいいな」
『芸のない男ね』
「なくてけっこうだ。男ごとに店を決めておくと、他の男と一緒にいてばったり出くわす可能性が低いから楽だぞ」
『それもそうね。ええ、わかった。なら、八時に待っているから』
 悪びれずにそう答えて、ブツリと乱暴に電話が切られる。相変わらず、勝手な女だ。
 短い電話のやり取りながら疲労感を覚え、オフィスに戻ろうとして大橋はギョッとする。いつからそこにいたのか、ニヤニヤと笑いながら後藤が立っていた。
「なーに、こそこそと話してたんですか?」
 一緒にオフィス内を歩きながら、後藤に尋ねられる。
「こそこそしてたか?」
「してましたよ。秘密の匂いを感じましたね。俺の勘がそう告げてます」
「だったら、お前の勘もあてにならんな」
 大橋は素っ気なく答えた。
「――俺の元奥さんだ。一番目のな」
 目を丸くした後藤の言葉がなかなか振るっていた。
「……ああ、もしかして、強烈なほうの奥さんですか?」
「そう、強烈なほうの奥さん、だ。今晩メシ食わせろって脅迫された」
 答えながら大橋は、堪え切れずに苦笑を洩らした。









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