サプライズ


[13]


 藍田は少しの間、現状が何も認識できなかった。まばたきもせずに立ち尽くしていたが、実は、目の前の景色がまったく見えておらず、すべての音すら遮断されていた。ただ呆然としていたのだ。
 心臓すら止まっていたのではないかと思ったが、ふいにドクンッと大きな鼓動を感じ、胸を強く圧迫されたような息苦しさに我に返る。
 この瞬間から、藍田は世界を取り戻す。目の前の景色を見て、耳が音を感じ取っていた。
 遠ざかる足音を聞き、ハッとして振り返ると、入れ違いのように別の足音が近づいてきて、パーティションの向こうから人影が現れる。いつになく厳しい表情をした堤だった。
 いつの間に、と思ったのは一瞬で、さきほど呼びかけられたことを思い出した。
 まだ頭が混乱しているらしい。物事が順序立てて考えられず、寸前まで自分の身に何が起きていたのか、そんなことすら思い出せない。
 いや、思い出すのを拒絶しているのかもしれない――。
「藍田さん?」
 堤に呼びかけられ、ビクリと体を震わせる。いつの間にか堤は目の前に立っていた。記憶が飛びかけているのか、意識がおかしいのか、もう藍田自身にもよくわからない。
「……堤、か……」
「堤ですよ」
 そう言って堤は笑い、手にした袋を掲げて見せてきた。
「まだだろうと思って、メシ買ってきました。この時間、テイクアウトできる店って近くにないんですよね。コンビニ弁当ってわけにもいかないし」
 堤はさっさとデスク上の空いたスペースに、袋の中から取り出した容器を並べていく。
「適当に買ってきたんで、好きなものだけ食べてください。えーと、これがリゾットで、こっちはトマトソースのパスタに、カルボナーラもあります。それと、サンドイッチの詰め合わせと、サラダとスープ。飲み物は、紅茶とウーロン茶。他の飲み物がいいなら、自販機で買ってきます」
 藍田はデスクに並べられたものを眺め、小さく苦笑する。
「……多すぎだろう、これ」
「俺も食べるんで、ご心配なく」
 緩慢に視線を上げた藍田は、堤の顔を見つめる。そんな藍田を安心させるように、堤は恭しくイスを示した。
「座ってください。立ったままだと食べられないですよ」
 ただイスに座るだけなのに藍田は決断できず、その間、堤は急かしもせずに辛抱強く待っていた。
 藍田は、大橋が消えたパーティションの向こうを気にする。
「――大橋さんなら帰りました」
 堤の言葉に微かに肩が揺れた。急に足元が大きく揺れる感覚に襲われ、結局藍田は、イスに腰掛けていた。
 近くのデスクからイスを持ってきた堤が傍らに座ったが、今は気にならない。
 容器の蓋を外していく堤の動きを無意識に目で追いながら、藍田はさきほど自分の身に起こったことを思い返す。
 資料倉庫で偶然触れ合ったのとは違う。大橋は、自らの意思で藍田を――抱き締めてきた。きつく。
 スーツを着ていても大橋の体温の高さや、逞しさを感じることはできた。突然のことに藍田の頭の中は真っ白になっていたが、それでも感覚だけはやけに研ぎ澄まされ、与えられた大橋の感触はすべて覚えていた。首筋に触れた熱い息遣いすらも。
 同性同士で、同僚同士で、ありえない接触の仕方だ。あれではまるで、恋人に対する抱擁そのものだ。
 藍田が心配だと言った口で大橋は、どうして藍田を抱き締めているのかかわからないとも言った。なのに、体を離そうとはしなかったのだ。
 大橋が錯乱したと、まず最初に藍田は思ったのだが、抱き締めてくる腕の強さを感じているうちに、そうではないと気づいた。行動はおかしかったが、別に大橋は錯乱していたわけではない。
 大橋に何が起こったのか知りたかったが、その前に、大橋が身にまとう甘い香水の香りを嗅いだ。
 頭の中が真っ赤に染まるほどの激しい感情に襲われ、大橋を突き飛ばしていた。行為そのものよりも、大橋からした香水の香りのほうが、ひどく許せなかったのだ。
 大橋もおかしくなったが、自分もおかしくなってしまった、と藍田は思う。おかげでまだ、思考が空回りしている。起こった出来事を整理するのがやっとで、それに感情が伴わない。
 いままで経験したことがないほど、藍田の感情はあらゆるものが入り乱れ、自分でコントロールができなかった。
 大橋の行為に対して、怒ればいいのか、悲しめばいいのか、戸惑うべきか、鼻先で笑うべきか、それとも――。
 藍田の体はカッと一気に熱くなる。本当は、大橋の腕の中に閉じ込められた瞬間からわかっていたのだ。
 自分が、身を焼かれそうなほど羞恥していたことを。
「藍田さん、準備できましたよ」
 堤に声をかけられ、考えることに没頭していた藍田の意識は現実に戻される。
 視線を上げると、優しい表情をした堤が見つめていた。ただ、そういう表情に慣れていないのか、口元の辺りがぎこちない。やはり堤は、挑発的で生意気な表情が生来のものなのだろう。
 些細なことに気づく程度には、藍田の頭は冷静さを取り戻している。だが、肝心の感情が心もとない。まだ、意識と体の半分が、大橋の腕の中に捕らえられているようだ。
 プラスティックのフォークを差し出され、食欲はなかったが無視するわけにもいかず藍田は片手を伸ばそうとする。そこでやっと、自分の異変に気づいた。
 伸ばしかけた手が、小刻みに震えている。動揺はまだ、藍田の中から去っていなかったのだ。
「あっ……」
 咄嗟に手を引こうとしたが、その前に堤に素早く掴まれる。
「震えてますね」
 強い眼差しを向けてきた堤は、そう言って藍田の片手をきつく握ってくる。
 思いがけない行動に藍田は軽く目を見開きはしたものの、どう反応していいかわからず、声を荒らげることすらできない。
 生理的な嫌悪感でも湧き起これば、手を抜き取るぐらいしたのだろうが、それもない。考えてみれば大橋に抱き締められたときも、嫌悪感だけは抱かなかった。
 自分はもしかすると危機感が乏しいのかもしれないと、心の中で呟きながら、藍田は体から力を抜く。
「……ためらいもなく、よく男の手なんて握れるな」
 すると堤が唇を綻ばせる。
「なんだ?」
「やっと、藍田さんがまともに話してくれたと思って」
 いろいろあったんだ、という言葉は声となっては出てこなかった。藍田はゆっくりと息を吐き出したが、その息もまだ震えを帯びている。体の奥から震えが湧き起こって、止まらない。
 そんな藍田を真っ直ぐ見据えてきながら、堤に問いかけてくる。
「――怖いんですか」
 示し合わせたように二人の視線は、重なった手へと向けられる。藍田の震えを吸い取ろうとするかのように、堤はきつく手を握り締めたままだ。
 熱いほど体温の高い大橋とは違い、堤の手はひんやりとしている。そんな比較をした自分に、藍田はさらに羞恥心を刺激された。
「空調が寒いわけではないでしょう。それに藍田さんの手、熱があるのかと思うぐらい熱くなっていますよ」
「……回りくどい言い方をするな」
「だったら、一人でオフィスにいて、不気味だったとか」
 藍田が目を丸くすると、堤は笑みを向けてくる。どうやら堤なりの冗談らしい。
「お前の冗談は、基本的に笑えない」
「それは藍田さんが手厳しすぎるんですよ」
「わたしだって冗談ぐらい解する」
「――……さっき、大橋さんと何かあったんですか」
 反射的に手を引きそうになったが、しっかり堤に握られているため、動けなかった。
 藍田に言う気がないと察したらしく、堤は肩を竦める。
「わかりました。俺が来る前に何があったかは聞きません。だから――」
 堤の提案を、普段の藍田なら目を吊り上げて一蹴するだろう。だが今の藍田は、とにかく気持ちが大きく揺さぶられていて、普段とは違う。自分の身に起こったことの意味がわからなくて、混乱したままだ。
「……好きにしろ」
 小さな声で藍田が応じると、堤は両手で、まだ震えている手をしっかりと包み込んでくる。堤の手は、見た目よりずっと硬い感触をしていた。
 男の手など握ってくる堤をよくわからないと思ったが、藍田が何よりもわからないのは、男の体を抱き締めてきた大橋の存在だ。
 ここで藍田は、ああ、そうか……、と口中で洩らす。
 わからないからこそ、自分は不安でたまらないのだ。だから、いつまで経っても震えが治まらない。




 総務部の福利厚生センターから回ってきた資料に目を通した大橋は、今日何度目かになる絶望的なため息を洩らした。
「人間も箱に詰めて、まとめて送れねーかなあ。それで、一か所にまとめて管理できたら最高だ」
「――派手なため息をついて、気色の悪いこと言わんでくださいよ。想像したじゃないですか」
 非難の声に顔を上げてみると、後藤が呆れた顔でデスクの前に立っていた。至急目を通してほしいという書類を渡され、大橋はもう一度ため息をついてイスに座り直す。
「なんの資料を読んでたんですか?」
 後藤の問いかけに、大橋は綴じられた資料を投げ渡す。別に誰かに読まれて困る類のものではなかった。
「福利厚生センターからですか……」
「本社が移転すると、会社の荷物だけじゃなく、社員もけっこうな数が引っ越すことになるからな。今から社宅やなんやと、いろいろと調べてもらってるんだ。荷物は、ビルに適当に放り込めるが、人間には住むところが必要だからな」
「肝心の会社はどうするんです? やっぱり、東京支社に乗り込んで、看板付け替えるだけなんですかね」
 上の人間は、まず最初にそれをやりたくて仕方ないだろう。その瞬間の愉悦を想像して、今からほくそ笑んでいるかもしれない。
「でっかいビルを建てるらしいが、それまでは、東京支社のビルに荷物も社員も押し込んで、あとは、あちこちのビルのフロアを借りるらしい。が、さすがにその物件を見つけるのは俺の仕事じゃねーな。経営企画室の担当みたいだ。俺はあくまで、手間がかかって細かい仕事担当ってことだろう」
 大橋のやる気のない説明を聞いて、後藤はわが事のように憂鬱そうな表情となった。
「……よりによって補佐がしないといけない仕事ですかねー」
「まあ、俺は命令するだけなんだがな。何をどう命令するか、段取りを組むのが一苦労だ」
 後藤が持ってきた書類に目を通し終え、引き出しから自分の判を取り出そうとした大橋は、吸い寄せられるように向かいのオフィスに視線を向けていた。
 ブラインドは朝から下ろされたままだった。藍田の気持ちを端的に表しているのだろう。
 大橋に対する、明確な拒絶の気持ち――。
 いつもの大橋なら、あいつは神経が細かなすぎるんだ、と毒づいているところだが、さすがに今は違う。
 どう考えても、大橋が悪かった。藍田が怒り、こちらを見たくないと言わんばかりに、ブラインドを下ろしたままなのもわかる。
 昨夜の出来事を思い返し、大橋は自分の手を見つめていた。同性である藍田を、強く抱き締めた手だ。
 もう何度も繰り返しているが、改めて、昨夜の自分の感情をなぞっていた。大橋自身、どうして藍田を抱き締めたのか、わからない。ただ、衝動に突き動かされた。
 激昂する藍田の表情の鮮やかさに目を奪われ、同時に胸の奥で熱い塊が蠢いた。そして、一瞬だけ理性が揺らいだ。
 気がつけば藍田を抱き締めて、痩せた男の体の思いがけない心地よさに酔ってしまった。
 あの行為を冗談にしてしまうのは、さすがに無理がある。一方で理由を問われれば、大橋は困るだろう。もっとも、藍田がそんなことをわざわざ追及してくるような男でないのは、救いになるのか、ならないのか。
「補佐?」
 後藤に声をかけられ、我に返った大橋は向かいのオフィスから視線を引き剥がす。取り出した判を書類に押すと、後藤に突き返した。
 一連の大橋の動作を見た後藤が、怪訝そうに尋ねてくる。
「もしかして今日、調子悪いですか?」
「悪いな。絶不調だ」
「確か昨夜は、最初の元奥さんとメシ食いに行ったんじゃ――」
 微妙な視線を向けられ、後藤が何を邪推したのか気づいた大橋は、力なく首を横に振る。
「元奥さんのわがままに振り回されるのはいつものことだ。それ以外に、いろいろあったんだ」
 後藤は好奇心を刺激された様子だったが、大橋がひらひらと手を振ると、あっさり自分のデスクへと戻る。
 再び資料に意識を戻そうとして、結局また、向かいのオフィスを見ていた。いまさら見慣れているはずなのに、下ろされたブラインドに心理的な圧力を感じてしまう。
 藍田の頑なさからいって、もう二度とあのブラインドが上がることはないかもしれないと思ったとき、部下に呼ばれた。
「補佐、営業部の福澤さんから、四番にお電話です。どの営業部か、おっしゃらなかったんですけど……」
 かまわないと、大橋は軽く片手を上げる。営業部と福澤という組み合わせには、すぐにピンときた。相手もそれを承知で、詳しく部署を名乗らなかったはずだ。
 大橋はさっそく受話器を取り上げボタンを押す。
「はい、大橋です」
『――嫌な仕事任されて、髪が薄くなったんじゃないの?』
 いきなりの言葉に、大橋は苦笑を洩らす。
「大丈夫ですよ。俺より、福澤さんのほうが心配なんですけどね」
『あー、危ないかもな。毎日、こっちはピリピリしちゃってるから。愚痴こぼしてやろうかと思って、仕事中にかけてやったんだけど』
「情報提供なら大歓迎です」
 軽い探りを入れてみると、それが本題だったらしく、すぐに福澤の声は真剣なものに変わった。
『……東京支社の電材営業部の中が、騒がしくなっているようだ』
 腑抜けていた状態から素早く覚醒した大橋は、他人から物騒だと言われる笑みを浮かべて、こう洩らす。
「俺の古巣ですよ。といっても、一年半で追い出されたんですが。とにかく、おもしろそうな話ですね。――これからデスクを離れるんで、一分後に、俺の携帯のほうにもう一度連絡もらえますか」
 OKという返事を聞いて受話器を置いた大橋は、デスクの隅に放り出した携帯電話を取り上げて席を立つ。
 なんでもないふうを装いながらオフィスを出ると、エレベーターホールへと移動する。
 窓の外の景色に目を向けたと当時に、手の中で携帯電話が鳴った。
「――で、どんなおもしろいことを教えてくれるんですか」
 電話に出た大橋がさっそく尋ねると、福澤はのんびりした口調で話し始める。
『リスクマネジメント委員会の設置を求める気らしい。今回の統廃合はあまりに横暴で、このプロジェクトを認めることは社員の士気を低下させ、会社の秩序にも関わってくる、だったかな。俺にも賛同してほしいと、血判状を持ってきたよ』
「本当ですか」
『血判状は大げさだが、名簿に賛同者の名前を書いて、判が押してあったな。俺は、急いで行くところがあると言って、さりげなく拒否した。今時期、変なことで目立ったら、クビ切ってくれと立候補してるようなもんだよ』
 あくまで飄々とした福澤の物言いに、つい大橋は苦笑を洩らす。他人事のように言っている福澤だが、事業部の統廃合問題は決して無関係ではない。
 福澤は東京支社にある、首都圏システム営業部第二室の室長という肩書きを持っており、いくつかの事業部を統括する立場だ。
 もう一、二年もすれば、本社の特需営業本部に栄転するのは確実といわれる人物で、とにかく仕事ができる。つまり出世のための査定に、事業部の統廃合はなんらかの影響が出ても不思議ではない立場だ。
 そんな福澤は、年齢が大橋より二つ上で、先輩・後輩という節度を保った距離感を保ちつつ、ときどき情報をやり取りしている。
 揉め事には絶対首を突っ込まず、どんな理不尽な要求をされようが会社には逆らわない、という福澤の姿勢は徹底しており、卑屈にならない程度に上手く立ち回る様は、要領の良さが大橋と似ているようで、実は正反対だといえる。
 何より正反対なのは、福澤は愛妻家で、そのうえ娘二人を溺愛している家庭人だということだろう。
 家族との生活を守るためならなんでもすると言い切る福澤を、大橋はけっこう好きで、尊敬すらしているのだ。
「福澤さんのところも、統廃合は無関係じゃないんでしょう。第二室で持っている事業部がいくつか減るなんてこと――」
『別に、営業部にいるから事業部の統廃合に反対って人間ばかりじゃない。そもそも、事業部が多すぎだよね。管理するほうも大変なのよ。だったらここらで、すっきりさせてくれたら、将来的に俺も楽かなー、と』
 事業部の統廃合に猛反発している人間たちが聞いたら、目を吊り上げそうなことを、福澤は相変わらずの飄々とした口調で言う。思わず大橋は本音を洩らしていた。
「みんな、福澤さんみたいに大らかな性格だったら楽なんでしょうけどね。俺なんて、移転を任されているだけなのに、事業部によっては目の敵ですよ」
『――消えた事業部の後片付けをする始末屋、とでも思われてるんじゃないの? 不気味だよ、そういう存在。大鉈振るう役も確かに怖いけどさ、大橋くんは、笑いながら容赦ないことしでかしそうな怖さがあるから』
 大橋は十秒ほど、電話の相手の真意を推測していた。これはもしかして、鎌をかけられているのだろうか、と思ったのだ。藍田とともに、事業部の統廃合に一枚噛んでいると警戒されているのだとしたら、本意ではあるが、喜ばしくはない。
 そこで、単刀直入に福澤に尋ねてみた。
「福澤さん、どこまで把握しているんです?」
『大阪と東京の主導権争いという嵐の中心で、実は若手たちが、古い会社の体質を変えたがっている……と、聞いたような、聞いてないような。大橋くんの性格だと、担ぎ出されそうだよね、そういう厄介事に』
 福澤の表現に声を上げて笑ってしまい、エレベーターホールを歩いていた社員たちの視線が一斉にこちらに向く。隠すまでもなく、福澤にはある程度、こちらの動きが読まれているようだった。
 別に、読まれて困るほど動いてはいないのだが――。
「俺の望みは、任された仕事を円満に片付けて、それなりに出世の道を残すことですよ」
『まあ、君がそんな性格だとわかったうえで、俺もこんな情報を知らせているんだけどね。本当は、事業部の統廃合は藍田くんの担当だと知っているけど、何しろ俺は、ツテがない。だからまあ、大橋くんなら有効に使ってくれるだろうと思ったんだ』
 大橋は笑みを消すと、表情の鋭さを誰にも見られたくなくて、改めて窓の外に顔を向ける。
「――それで福澤さんは、リスクマネジメント委員会の設置を求めるという計画はどう思っているんですか」
 低い声でズバリと問いかけると、福澤の返答は明快だった。
『時間の無駄だな。まず、社長が許可するはずがない。だがそうなると、下の意見を上が握り潰したという事実が残り、東和電器はなんて閉塞的な会社だと言って、今度はマスコミに訴えるバカが出てくる』
「はあ、そこまで計算しているわけですか。東京の電材営業部の連中は」
『いや、半分は俺の推測。でも、手を打っておく価値はあると思うよ。何かとマスコミに騒がれると鬱陶しいし、東和電器の株価に関わってくる。最近、うちの会社の株価、いい値動きしてるんだよ』
 近くに誰か来たのか、突然福澤が派手な笑い声を上げた。
『そういうことだから、そっちで適当に動いてくれよ。俺は今のところ、仕事が手一杯で』
「貴重な情報をありがとうございました。本当に助かりましたよ」
『俺ができることは、これぐらいだから、あまり期待しないでくれると助かるよ』
 十分ですよ、と応じて電話を切った大橋は、一声唸ってから腕組みする。情報を流してくれるのはありがたいが、こちらはどう対処すべきか考えなければならない。
 本当は、藍田に相談したいところだ。
 大橋は、エレベーターホールの窓から見えないとわかっていながら、藍田のオフィスがあるほうへと視線を向けていた。
 ここで考え込んでいても仕方ないと思い、オフィスに戻った大橋を、再び部下が呼ぶ。
「補佐、さきほど管理室の宮園さんからお電話があって、折り返し連絡が欲しいそうです」
「了解。……俺、モテモテだな」
 くだらない独り言を洩らしつつ、自分のデスクに戻った大橋は、イスに腰掛けると同時に受話器を取り上げ、内線番号を押す。待ち構えていたらしく、すぐに宮園は出た。
『――お忙しそうですね』
 穏やかな声で宮園に言われ、大橋は微妙な返事をする。
「俺よりも、周りのほうが忙しそうですよ」
『ここぞとばかりに張り切る方もいるでしょうからね』
 大橋はニヤリと笑ってしまう。
「携帯から、かけ直しましょうか? なんでしたら、今からそちらに向かっても――」
『この電話でかまいませんよ。それにもうすぐ人と会うので、せっかく来ていただいても、あまりお話ができません」
 大橋だけでなく、宮園も忙しそうだ。その状況で電話をくれたのだから、単なる世間話はないだろう。
 イスに座り直した大橋は、声を潜めて告げた。
「それで、宮園さんも情報提供ですか?」
『おや、わたし以外に情報提供者が現れたんですか。人徳ですね』
「どうでしょう。自覚はないですけど、トラブル処理に向いた人の良さそうな顔をしているのかもしれませんね、俺は」
『相談はしやすいと思いますよ』
 喜んでいいのだろうかと、大橋が首を傾げようとしたとき、宮園は本題を切り出した。
『一部社員が、マスコミを集めて記者会見を開く予定があるそうです』
「……もしかして、東京支社の電材営業部の人間が関わっているんじゃ……」
『さあ、そこまでは。わたしのほうは、マスコミから情報が流れてきたんですよ。でも大橋さんの口ぶりだと、何か掴んでいるようですね』
「俺は、その記者会見を開くのに至る経緯――計画ってやつですかね、それを知らされたんですよ。まあ、なかなか頭の痛い事態になりそうで」
 電話の向こうで宮園が声を洩らして笑う。本人はそのつもりはないのだろうが、宮園の笑い声を聞くと、背筋にムズムズとした感覚が走る。笑い声の奥に、何か含んだようなものを感じるのだ。
 情報を流してくる全員が善意だけを持っているとは限らない。何かしらの打算を持っていると考えるほうが、こちらも気楽だ。
『でも、対処は考えているんですよね?』
「さっぱりです。正直、俺一人の手に余りますよ」
 すると宮園が意外そうな声で言った。
『おや、藍田さんは?』
 大橋は反射的に向かいのオフィスに視線を向け、思わず目を見開いていた。いつの間にかブラインドが上げられていたからだ。ただし、そこに藍田の姿はない。
 なぜか大橋の体温は一気に上昇し、鼓動が速くなる。急に落ち着かなくなり、意味なくイスから腰を浮かせたりもしたが、宮園の声でなんとか、表面上は平静を保てた。
『……大橋さん?』
「あ、ああ、聞いてます。――あいつを巻き込んでいいものか、正直迷っているんです。向かうは向こうで、いろいろ抱えているでしょうからね。それに、俺に持ち込まれた話でもあるわけだし……」
『矛盾してますよ、その発言。事業部の統廃合に関するトラブルなら、当事者なのは藍田さんのほうだと思いますが』
 鋭い指摘に、大橋は苦い表情となる。視線を感じて顔を動かすと、視線の先で旗谷が不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。
 やはり携帯電話を手に移動すればよかったと、いまさらながら大橋は後悔する。藍田の話題が出ているときに、他人に表情を見られるのは非常にまずい。
 大橋の沈黙をどう受け止めたのか、やけに楽しそうな口調で宮園が言う。
『先日、藍田さんとお話させていただいたんですよ』
「俺の……悪口を言ってませんでしたか」
『さあ、どうでしょう』
 この男はやはり食えないと、大橋は痛感していた。
『――あまり藍田さんに対して過保護になると、本人が気を悪くするかもしれませんよ』
「か、過保護って……」
 ふふ、と宮園は笑い声を洩らし、その声を聞いた大橋の背筋にまた、ムズムズとした感覚が走っていた。
『わたしが伝えたかったことは以上です。それでは、また何かあればお知らせします。それと、ときどきは大橋さんのほうから何か報告をいただけるとありがたいです』
「……善処します」
 電話を切った大橋の全身に、福澤と話したときとは比較にならない疲労感が襲いかかる。気安く話しているようで、宮園と話すと緊張するのだ。
 宮園は信用しているが、すべてを話してしまえるほど打ち解けているわけではない。
 しかも不意打ちで藍田の話題を出されると――。
 受話器を置いた大橋は、デスクに突っ伏す勢いで深いため息をつく。頭を痛める余裕もないほど、事態は切迫しているようだった。そこに、昨夜の藍田との出来事が加わると、大橋の頭はオバーフローを起こしそうになる。
 顔の下半分をてのひらで覆いながら、もう一度洩れそうになったため息を堪えた大橋は、再び向かいのオフィスを見る。
 正確には、窓際からよく見える、主のいないデスクを――。
 理屈で処理できない問題は後回しにして、解決のメドが立ちそうなものから手をつけるしかない。
 大橋はそう自分に言い聞かせると、そっと目を細めて頭を働かせる。
 眼前に突きつけられている問題を片付けてしまわなければ、それだけ藍田に負担がかかるのだと考えれば、大橋は動かざるをえないのだ。
 今にして、藍田の部下である堤は上手いことを言ったものだと、癪に障るが感心する。藍田のバリアーになるということは、つまりこういうことなのだ。できるだけ、藍田が負う負担と傷を減らさなければ意味がない。
 堤に対して張り合おうとしている自分の姿に気づき、大橋は密かに苦笑を洩らす。
 藍田のデスクを眺めながら、言い訳がましく口中で呟いていた。
「――……俺は、お前のためじゃなく、俺自身の出世のために動くんだからな」
 次の瞬間、表情を引き締めて姿勢を正した大橋がデスクに向き直ると、部下たちの笑いを含んだ視線がこちらに向いていることに気づく。どうやら、仕事もせずに百面相をして、落ち着きなく体を動かしている上司の様子がおもしろかったらしい。
 こっちを見るなと軽く手を振った大橋は、緊張しながら受話器を取り上げる。
 電話をかけた先は――。









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