サプライズ


[14]


 藍田には珍しく、この日は定時を少し過ぎた時間には帰り支度を整え、アタッシェケースを手に立ち上がる。
 反射的に視線は、堤のデスクに向くが、肝心の堤の姿はそこにはない。朝、わずかな時間だけオフィスに顔を出したあと、あるプロジェクトの企画をまとめるため、東和電器の子会社に向かったのだ。
 予定帰社時間では、そろそろ戻ってきても不思議ではないが、藍田が堤の帰りを待つ必要はない。
 ホワイトボードの名札を裏返してから藍田がオフィスを出ようとすると、珍しく早い帰宅に、女性社員が目を丸くして眺めていた。
 エレベーターホールに立った藍田がまず先にしたのは、上の階に向かうエレベーターから降りてきた社員たちの顔を素早く確認することだった。その中に堤がいるのではないかと思ったのだ。
 昨夜、あんなことがあったせいで、堤とどう接すればいいのかわからない。
 藍田はアタッシェケースを持ち替えると、昨夜堤にしっかりと握られた自分の手を見つめる。
 あのときは、大橋に抱き締められた動揺から、自分もおかしかった、と藍田は認める。そうでなければ、部下に、しかも同性に手を握られる行為を許すはずがない。挙げ句、手の震えが治まるまで、そんな異常な行為を許していたのだ。
 今日になって、まともに堤の顔が見られなかった。上司としての威信が崩れたとかいう大層な気持ちからではなく、とにかく自分の不甲斐なさを恥じたからだ。
 当の堤は何事なかったような態度だったが、かえってそれが、気をつかわせているようにも思える。
 しかも、昨夜から一睡もできなかったせいもあり、体調がよくない。最近は少しはマシになっていた胃痛もぶり返したようで、一日中、シクシクと痛み続けている。
 こんなときは、早めに仕事を切り上げて、自宅で静養するのが一番いいのだ。
 だから今日は、残業もせず帰途に着いている――わけではなく、よりによって人と会う約束が入っていた。
 断ってしまおうかと、考えなかったわけではない。ただ、誰もいない部屋に帰ったところで、今夜もまた、昨夜の出来事を何度も思い返すのはわかりきっている。
 堤に手を握り締められるきっかけとなった、大橋の行為を。
 ふいに、大橋の力強い腕の感触が蘇り、小さく体を震わせる。
 これだ。この感触が昨夜からずっと、藍田を苦しめ続けているのだ。何かの拍子に蘇っては、一気に集中力を奪われる。手の震えは止まっても、いまだに動揺し続けているということだろう。
 今この瞬間、大橋が目の前に現れ、いつもの笑みを向けてきたら、無駄にハンサムな大橋の顔を殴りつける自信が藍田にはある。激しい羞恥と怒りを処理できるなら、それぐらいの暴挙はたやすい。
 しかし現実は、藍田は大橋と顔を合わせる勇気を持たない。大橋と会いたくなかった。だから一日中、外を見ないためにブラインドを下ろしていた。
 夕方は混雑しているエレベーターがようやく着き、扉が開く。すでに満員に近い状態だったがなんとか乗り込むと、なぜか藍田は安堵の吐息を洩らしていた。これで今日は、会社から解放されるという気持ちの表れだ。
 一階に着いたエレベーターから出ると、歩きながら広いロビー見渡す。大橋と堤、どちらを警戒しているのか、もう藍田自身にもよくわからなくなっていた。
 このとき、ジャケットのポケットの中で携帯電話が鳴る。足を止めないまま携帯電話を取り出した藍田は表示された名を見て、すぐに電話に出た。
「――今向かっている。おとなしく待っていろ」
 素っ気なくそれだけを告げ、相手の言葉も待たずに通話を打ち切り、ついでに電源も切ってしまった。電源を入れておくと、いつ仕事絡みの電話がかかってくるかと思い、気が気でない。
 それでなくても今日は、一刻も早く仕事から離れたい気分なのだ。
 藍田は会社近くでタクシーを停めて乗り込むと、行き先を告げる。向かう先は、藍田の数少ない行きつけの店の一つだった。
 夕方の渋滞をなんとか抜け出し、三十分後にタクシーを降りた藍田の目の前にあるのは、小さなビルの前だった。
 このビルの三階にあるワインバーが、待ち合わせ場所だ。
 店の扉を開くと、入り口からもっとも遠いカウンター席についた男がすかさず手を上げて寄越してきた。すでにスーツのジャケットを脱いでおり、ワイングラスを片手にすっかり寛いでいるようだ。
「お前に会う前に酔っ払うかと思った」
 藍田が隣に腰掛けると、澄ました顔で『友人』がさらりと嫌味を言ってくる。
「……人の予定も聞かずに、勝手に待ち合わせ時間を決めるからだ」
 グラスワインと生ハムなどを頼んでから、藍田は改めて隣の席に視線を向ける。
 藍田にとって数少ない友人である逢坂は、チーズをつまみに美味しそうにワインを一口飲んでから、意味深に横目で笑いかけてきた。
「仕事上がりなんだから、もう少し楽しそうにしろよ。相変わらず、辛気臭いな」
「お前は相変わらず口が悪い」
 淡々と言い返すと、何がおかしいのか、逢坂は声を上げて笑う。もう酔っているのではないかと、藍田は少々心配になる。実は今日、重大な話があるといって、逢坂に強引に呼び出されたので、まともに頭が働いてくれないと困るのだ。
 眉をひそめる藍田の前に注文したものが置かれると、促されるままワイングラスを手にする。逢坂が自分のグラスを軽く触れ合わせてきて、小さく澄んだ音が鳴った。
「――藍田、お前は薄情だ」
 いきなりの逢坂の言葉に、藍田はそっと眉をひそめる。別に気を悪くしたわけではなく、逢坂の言動の唐突さに呆れていたのだ。これは今に始まったわけではなく、大学時代に知り合ったときから、こうだ。
「薄情が嫌だというなら、わたしに情熱的なものでも求めているのか」
「暑苦しいから、感情的な奴は嫌いなんだけどな、ぼくは」
「……帰るぞ」
 藍田の洩らした一言に、逢坂は低く声を洩らして笑いながら、容赦なく背を叩いてくる。いつになく機嫌はよさそうだが、逢坂の場合、機嫌がいいから周囲の人間も幸せな気分になるかというと、そうでもない。
 基本的に、他人の不幸に愉しみを見出す、嫌な嗜好を持った男なのだ。
 逢坂が機嫌がいいということは、自分に関する不幸を何かしら掴んでいるということだろうか――と推測し、藍田は心底、帰りたい気分になる。
 逢坂の、邪気がありすぎるからこそ天真爛漫ともいえる人間性と友情を保てるのは、鋼のようなタフな神経か、すべてを凍り尽くすほどの冷めた性格をした人間のどちらかだ。
 幸か不幸か、藍田は後者の持ち主だった――。
 こんなエキセントリックな男を上司に持つと、部下は毎日、胃が痛い思いをしているだろう。
 藍田はワインを少し口に含んで味わってから、逢坂の横顔を眺める。
 曽祖父がロシア人だったという逢坂は髪と瞳の色素が少し薄いが、顔立ちは日本人以外の何者でもない。ただし、無駄に華やかで端麗な容貌をしている。着ているスーツも、自分の姿が一番映えるということを念頭に置いているらしく、ヨーロッパの高級ブランドのものだ。
 自分の地味な存在感に安堵を覚え、華美で目立つことが嫌いな藍田とは、外見から嗜好まで、何から何まで対照的だ。それでいてつき合いは、大学時代から続いている。アクの強すぎる逢坂もまた、友人が少ない男なのだ。
 しかも、お互い性格に問題があるのか、そもそも執着そのものがないのか、いい歳をして、いまだに独身同士だ。
「――雑誌、読んだぞ」
 藍田の前に置かれた皿から、勝手に生ハムを摘まみ上げて逢坂が言う。一瞬ピンとこなかった藍田は首を傾げたが、楽しげな逢坂の顔を見て、やっと察した。
「ああ、あれか……」
 藍田と大橋がそれぞれ取材を受け、記事になったものが掲載された雑誌が発売になったのだ。見本誌をもらったが、藍田はまだ目を通していない。
「そう。あれ。偉いねー、出世したねー、藍田。東和電器内の権力争いを左右するような一大プロジェクトを任されて」
 逢坂が皮肉混じりで言っているのは明らかだ。しかし、そんなことで目くじらを立てるほど、藍田も狭量ではない。二人の間での嫌味や皮肉など、日常会話だ。
「ぼくなんて一介の、特許管理室の室長だから、大層なプロジェクトを任されることなんてない」
「……細かい部分まで目を凝らして、人の揚げ足を取るのが得意なお前には、天職だろう。知的財産管理部での仕事は」
 逢坂は、東和電器とはライバル関係にある大手電器メーカーに勤めている。肩書きは、本人が語ったとおりだ。電器メーカーにとって、扱う商品に関わる特許は、いわば生命線に等しい。何かあれば、即座に特許侵害だといって、訴訟を起こされるのだ。たとえ、言いがかりのような理由であろうとも。
 それだけシビアな世界で、大企業の特許戦略の一翼を担っているだけあって、逢坂は有能だ。誰にも臆せず、ワイヤー並みのふてぶてしい神経をしている逢坂にとって、世界中の大小を含めた企業を相手にする仕事は、楽しくてたまらないだろう。
 藍田も今の仕事が気に入っているが、事業部の統合というプロジェクトに関しては、正直、複雑な心境だった。
 別に、他人から恨みを買うのが嫌なわけではない。ただ、この仕事でどんな充足感を得るべきなのだろうかと、ずっと疑問に感じているのだ。
 また胃が痛んだ気がして、藍田が軽く顔をしかめる隣で、逢坂が新しいワインを頼む。
「仕事柄、アメリカの特許管理会社の人間と話すことがあるんだ。まあ一種の、投資ファンド会社みたいなもんだな。目をつけた特許を、出資者を募って買い取り、他の企業に高く売りつけるんだ。いやらしいことも平気でする連中だから、ぼくは好きじゃないんだが、そういう連中は総じて鼻が利く――」
 また逢坂が、唐突に話を始める。しかしこれは重大な話らしく、逢坂の端麗な横顔は真剣な表情を浮かべている。
「やけに、東和電器の内輪揉めに詳しいんだよ、ぼくが話した相手。特許専門に扱う弁護士で、ニューヨークにいるんだが。で、ぼくはすぐにピンときたね。東和電器の中の人間と通じているって。だから、適当な相槌を打ちながら聞いてたんだが、そいつの口から、ロクでもない話が出た」
「……お前がそこまで言うなら、わたしが卒倒するレベルの話かもしれないな」
 憎たらしいことに、逢坂がニヤリと笑いかけてくる。
「何、繊細ぶってるんだよ、藍田。お前が動揺するところなんて、十五年以上のつき合いになるけど、ぼくは両手の指で足りるぐらいしか見たことないぞ」
「わたしは、お前が動揺した姿は、片手の指で足りるぐらいしか見たことない」
 お互いすぐに、不毛な言い合いだと気づき、一度口を閉じると、黙ってワインを味わう。もっとも藍田のほうは、表面上は落ち着いたように見せていても、話の続きが聞きたくて焦っていた。確信に近いほど、嫌な予感がする。
「社内がごたついているときほど、社員はしっかり締め付けろよ、藍田。言っちゃなんだが、東和電器――トーワグループは、いままで社員を甘やかしすぎた。その挙げ句が、今の事態だ。甘やかされていた連中ほど、よく喚いているだろう?」
 逢坂こそ、東和電器の中の人間と通じているのではないかと、疑いそうになる。あまりに逢坂の言うとおりだった。
 藍田は余計な口は挟まず、逢坂の取り留めない話に耳を傾ける。世間話をしているようでいて、逢坂が言っているのは紛うことなく『重大な話』だ。
「ぼくは、愛社精神なんてものは持ち合わせていない人間だが、契約は重んじる。雇われている身だからこそ、会社にとって利益となるなら、犯罪にならない限りはなんでもしてきたし、今後もそうだ」
 お前もそうだろう? と問われ、考える前に条件反射で頷いていた。確かに、逢坂の表現に違和感はなかった。会社そのものに愛着や執着は感じていないが、これまで自分の身を置いていた場所だ。守るためなら多少の無理はする。
「それでだ、ぼくは今、一つのジレンマに陥っている」
 逢坂ともあろう男に、そんな曖昧な感覚があったのかと、藍田は長年の友人に対して新鮮な驚きを感じる。もちろん、口には出さない。
 藍田が何を思ったのか察したように、皮肉っぽく唇を歪めた逢坂はチーズを口に放り込み、ワインを一気に飲み干す。いつもよりピッチが早いということは、逢坂の機嫌の良さは本物のようだ。
「電話の相手から聞いた話を、ぼくが黙っていると――」
 逢坂の手が肩にかかり、ふざけるようにしなだれかかってくる。そして藍田の顔を間近から覗き込んできた。
「ライバル会社に確実に打撃を与えられる。同時に、ぼくの数少ない、大事な友人が困る。そいつの困った顔を見てやりたいという誘惑もあるんだけどな。だが、ぼくは友情に厚い人間なんだよ」
「……お前の大事な友人が、忙しい中、疲れ果て、そのうえ胃も痛いというのに、呼び出しに応じてやったんだ。――少しは友情に報いる気になったか?」
 返事の代わりに逢坂の唇が耳元に寄せられる。ゲイのカップルにでも勘違いされたのか、テーブル席で飲んでいる学生風のグループから奇異の視線を向けられるが、そんなものに動じるほど、藍田も逢坂も繊細ではない。
 もたらされる逢坂の囁きに耳を傾けていた藍田だが、次第に自分の顔色が変わっていくのを感じる。
 ようやく逢坂が体を離したとき、思わず鋭い声を発していた。
「そんな大事なこと、人を呼び出す前に、電話で言えっ」
「藍田の顔を見たかったんだよ。なんといっても、ぼくの数少ない、大事な友人だからな」
 逢坂をさらに怒鳴りつけたい衝動に駆られたが、そんな時間すら惜しいことに気づき、藍田は立ち上がってアタッシェケースを手にする。財布を取り出そうとすると、逢坂がひらひらと手を振った。
「今夜はぼくの奢りだ」
 一度は出しかけた財布を引っ込めた藍田は、その場を立ち去ろうとして、どうしても気にかかることがあり、踏みとどまる。逢坂が憎らしい表情で首を傾げた。
「なんだ。感謝の言葉でも述べてくれるのか?」
「そうするのが人間としての道理なんだろうが、わたしの理性がそれを拒絶する……」
 人の気も知らず、逢坂は派手な笑い声を上げた。
「だったら、無事にこの件が片付いたとき、ぼくに奢ってくれ」
 藍田はその条件を承諾して、足早に店をあとにした。


 藍田が急いでオフィスに戻ると、すでに残っている部下たちの数は三人ほどになっていた。残業を好まない藍田の教育が行き届いている――と今は満足している状況ではない。
「藍田さんっ……」
 残っている部下の三人のうちの一人である堤が、驚いたように声を上げる。
 堤と顔を合わせづらいと考えながら一度は退社したというのに、会社に戻ってきて本人と顔を合わせる瞬間まで、藍田の頭から完全に堤のことは抜け落ちていた。自分の感情にこだわっていられるほど余裕がなかったのだ。
「なんだ、まだ残っていたのか」
 堤の側を通り過ぎながら平淡な声をかけると、堤は電源の入ったノートパソコンを示す。
「今日の打ち合わせの報告書をまとめていたんです」
「……急がなくていいぞ。わたしも、すぐに目を通せるとは思えないからな」
 まっすぐ見つめてくる堤の眼差しが、いつもと違うように感じた。考えすぎなのかもしれないと思いつつも、藍田はあえて堤の顔からわずかに視線を逸らし続ける。
 自分のデスクについてアタッシェケースを開いたところで、窓際を見る。残っている社員も少ないため、新機能事業室のオフィスはすべてのブラインドが下ろされていた。そのため、向かいのオフィスにはまだ電気がついているのか、座ったままでは確認できない。
 別にオフィス企画部に誰が残っていようが、藍田には関係ないのだが。
 必要なものを取り出したアタッシェケースを足元に置いたところで、待ちかまえていたように堤が勢いよく立ち上がり、こちらにやってきた。
 藍田はあえて気づかないふりをして、デスクの側に置いてあるキャビネットに移動すると、鍵を使って扉を開ける。
「――藍田さん、帰られたんじゃなかったんですか?」
 デスクの向こうに立った堤に声をかけられ、ファイルの背表紙に指先を這わせながら藍田は答える。
「帰ったんだが、早めに片付けておきたい仕事を思い出した」
「俺に手伝えることはありますか?」
 予測したとおりの堤の言葉に、思わずため息が洩れてしまう。
「必要ない。それより、早く帰れ。報告書は明後日まででいいから」
 必要以上に冷たい声で応じた藍田だが、堤がデスクを回り込んで近くにやってきたので、わずかに動揺してしまう。もちろん、表情に出しはしないし、堤を相手にしながらも、指先ではファイルを追い続けていた。
「……昨夜は、あなたをからかうつもりで、あんなことをしたわけじゃありません」
 突然、切り出された話題に、反射的に顔を上げた藍田は堤にきつい眼差しを向けていた。部下たちの大半が帰っているせいで、人目は気にしなくていい。ただし、人気がなくて静かな分、声を抑えての会話とはいっても、辺りに響きそうな危惧があった。
 それでなくても今は、気が急いている。込み入った話は、高ぶった神経が拒んでいた。
 藍田は凄みを帯びた低い声で、短く告げる。
「堤、今日は帰れ」
「あなたの命令なら」
「命令だ。わたしは至急、処理しなければいけない事案がある。――会社を揺るがすような問題が起こったんだ」
 大げさでもなんでもない。逢坂から聞かされたのは、まさにそんな話だったのだ。
 藍田が本気で言っていると察したらしく、堤は表情を引き締めて頷いた。
「わかりました」
 頷いた堤が次の瞬間には背を向けて行こうとしたので、咄嗟に藍田は声をかけていた。
「お前がからかっていたとか、そんなことは思ってない……。ああいう状態になったのは初めてだから、どう対処すればいいのかわらかなかったが、わたしにとっては多分、お前がしてくれた方法がよかったんだと思う」
 我ながら回りくどい言い方だと自覚はあるが、感じる羞恥を押し殺しながらだと、どうしてもこんな言い方しかできないのだ。それに、聞こえていないとは思うが、他に残っている二人の部下の目と耳が気になる。
「――……いろいろと言いたいこともあるだろうが、今晩はもう勘弁してくれ」
 肩越しに振り返った堤が、いつもの生意気な笑みを浮かべた。
「あなたを困らせるのは、俺の本意じゃありません。それと――」
 堤が窓を指さしたので、思わず藍田も同じ方向を見る。
「大橋さんも、今日は残業みたいですよ」
 眉をひそめて堤を睨みつけようとしたが、そのときにはもう、堤は自分のデスクに戻っ
ているところだった。
 藍田は言いたいことをぐっと飲み込むと、キャビネットの鍵をかけ、必要なファイルを手に乱暴にイスに腰掛ける。深く息を吐き出し、会社に戻ってくるまでの間にタクシーの中でめまぐるしく考えたことを、一度整理する。
 デスクの上に置いたファイルは、リスクマネジメント室から渡されているマニュアルだ。緊急事態が起きたとき、どう対処すべきか、まとめられているのだ。
 藍田はすでに、新機能事業室用のマニュアルを持っているが、これは事業部統合に関するプロジェクト用に、新たに配布されたものだ。
 何事もなく無事にプロジェクトが進むとは思っていなかったが、まさか早々に使うことになるとは思わなかった。
 ファイルを開いた藍田は手順を確認してから、受話器を取り上げる。このとき、帰り支度を整えて立ち上がった堤と目が合ったが、藍田の雰囲気が只事ではないと気づいたらしく、目礼だけして立ち去った。
 堤には悪いが、これで仕事に集中できそうだった。
 ブラインドの向こうにいるはずの男のことも、今は強引に頭から追い払う。あちらはあちらで、仕事が忙しく、藍田のことなど考えもしていないはずだろうから――。




 手荷物検査場を抜け、アタッシェケースを受け取った大橋は、ついでとばかりに大きなあくびをする。
 朝、自宅の洗面所の鏡を覗き込んだとき、顔色は最悪だった。当然だ。仮眠程度に二、三時間ぐらいベッドに横になっていたが、意識が冴えて眠るどころではなかったのだ。ようやくウトウトし始めたときには目覚ましが鳴り、現在、見事な睡眠不足だ。
 しかし、こんなことで不満を感じられるほど、大橋には余裕はない。とにかく素早く動くためには、一日、二日の睡眠時間など、犠牲としては安いものだ。
 大橋は強く自分の頬を擦ると、しっかりと前を見据える。先を歩くのは、大橋と同じように、しっかりとスーツを着込んだ男たちだ。
 朝一番の東京行きの飛行機の乗客たちは、大橋のようなビジネスマンが多い。大橋もよく、日帰りで大阪と東京を往復したものだ。ただ、本社が東京に移転すると、その機会もぐっと減るだろう。
 日帰りの出張はかまわないが、今回のような『仕事』で往復するのは、最後にしてもらいたい。これが大橋の正直な気持ちだった。
 昨日からの怒涛の展開を思い返し、無意識に顔をしかめる。
 福澤や宮園から、重大な情報をもたらされたのは昨日で、それから大橋は、本来のオフィス企画部の仕事どころではなくなったのだ
 対応を考え、電話をかけまくり、社内中を駆け回った。そこまでしてからようやく、リスクマネジメント室から渡されているマニュアルの存在を思い出したぐらいだ。もっとも、あまり役立ったとはいえない。書かれている手順のほとんどを、すでに大橋は終えていたからだ。
 仕上げは、東京支社への日帰り出張だった。
 今回のトラブルの場合、本来は藍田が動くべきなのだろうが、専務に単刀直入に尋ねたところ、藍田は藍田でトラブルを抱えたらしく、身動きが取れないそうだ。つまり藍田もマニュアルに従って動き、専務にトラブルの報告をしていたのだ。
 大橋が慌ただしく動いている最中、新機能事業室にも電気がついていたのは、そういう理由だったわけだ。
 自分が抱えたトラブルに、藍田を巻き込まなくてよかったと考えた次の瞬間、大橋は会社で赤面していた。この気持ちには、藍田への庇護の気持ちが含まれていると気づいたからだ。
 かつて藍田には、『バリアーになる』と宣言したが、あれは純粋に、仕事の面で支えになるという気持ちで告げたものだ。同じ男として、会社の第一線で働く者として、あくまで対等な気持ちでいた。
 しかし、庇護の気持ちはそうではない。少なくとも、同年齢の男に対して抱く気持ちではないだろう。
 お節介でも庇護でもなく、自分が取った行動に間違いはないのだと、大橋は昨日から言い聞かせ続けていた。
 自分の気持ちを突き詰めすぎると、とんでもない深みにハマって抜け出せなくなりそうで、もう一度頬を強く擦ってから、藍田のことを強引に頭から追い出す。
 これから向かう東京では、藍田云々は抜きにして、会社のためにしなければならない仕事なのだ。
 そう自分に言い聞かせた大橋だが、搭乗ゲートまで行ったところで、頭の中は藍田のことでいっぱいになった。
 仕方がない。当の藍田の姿が視界に飛び込んできたからだ。
 並んだシートの端に腰掛け、こちらに横顔を向けているが、いつも見ているその顔を見間違えるはずもない。唯一違うといえば、常に背筋を伸ばしている男には珍しく、疲れたように背もたれに体を預けている点だった。
 なぜここに、と心の中で呟いた大橋は、すぐにハッとする。おそらく、大橋が今空港にいる理由と大差ないのだろう。この搭乗ゲートにいるということは、行き先は大橋と同じ東京だ。
 藍田に声をかける前に、大橋はスタンドでコーヒーを二つ買って歩み寄る。
「――お前も、お疲れのようだな」
 声をかけると、驚いたように藍田が顔を上げ、目を見開いた。
「大橋さんっ……」
「ほら、飲めよ」
 紙コップの一つを差し出しても、藍田は紙コップではなく、ただ大橋を見上げてくる。ここに大橋がいることに、よほど驚いたらしい。
 大橋の知っているこれまでの藍田なら、予想外の人物に出会ったところで、無表情のままか、軽く眉をひそめるぐらいの反応しか示さなかっただろう。
 その藍田が驚きを露わにしていることに、複雑な心境にならざるをえない。
 さらに紙コップを突き出すと、ようやく我に返ったように藍田は受け取った。大橋は、藍田の隣の空いたシートを指さす。
「座っていいか?」
「……嫌だと言っても座る気だろう」
「よくわかってるじゃねーか」
 藍田が睨みつけてきたが、あえて無視して隣に座った。
 少しの間、二人は黙り込み、コーヒーを啜る。大橋はすぐ隣の藍田の存在を意識しながら、改めて実感していた。
 今隣に座っている男を、両腕の中に閉じ込めて――抱き締めたのだと。
 朝から艶かしい気持ちに陥り、大橋はうろたえ、微かに身じろぐ。藍田の体の生々しい感触は、まだしっかり覚えていた。だからこそ、簡単に体温は上がるし、心臓の鼓動も速くなる。
 おかげで睡眠不足の気だるさなど、一瞬で吹き飛んだ。
 一方の藍田は、コーヒーを一口飲んでは重いため息を洩らしている。いかにも、調子が悪そうだ。こちらも睡眠不足なのは、青白い顔色だけでなく、目の下にうっすらとできた隈からも察することができる。
 つい、大橋は問いかけていた。
「お前、何時まで会社に残っていたんだ。ずいぶんつらそうだが」
「明け方までいた。それから着替えに一度部屋に戻って、そのまま空港に来た」
「……一睡もしてないのかよ。俺ですら、一時間は眠ってきたぞ」
 ここで二人はやっとまともに顔を見合わせる。大橋だけでなく、藍田まで物言いたげな顔をしている。二人が互いに何を言いたいのか、明白だった。
 どうして、ここにいるのか、と。
 ただし藍田は、自分の思ったことの半分すらも口にしない男だ。しかし大橋は違う。思ったことの大半は、口に出してしまわなければ我慢できない。
「――……藍田、お前がここにいるってことは、俺たちの行き先は同じ、ということだよな? 東京支社で何かあるのか」
「ちょっとしたトラブル処理だ」
「わざわざお前が出向くほどのか」
 藍田に横目で睨みつけられた。
「そういうあんたは、どうなんだ」
「俺も、トラブル処理だ。お互い苦労するな」
「……別に」
 普段から愛想がなく、堅物でおもしろみがなく、それどころか仕事以外での他人とのコミュニケーションを避けている節がある藍田だが、今日はその兆候が極端に出ているようだった。全身から、話しかけるなという空気が漂っている。
 プロジェクトに関わる前の大橋なら、喜んで藍田の望み通りにしていただろうが、今は違う。
 こうして近くにいて痛感したが、大橋は藍田のことを知りたくて仕方なかった。例えば、一昨日の突拍子もない自分の行動を、藍田がどう捉えているのか、とか。
 もう忘れてしまった。気にもかけていない。冗談だと思っている。理解できない。ひどく怒っている。
 いろいろと考えはするが、藍田の冷徹な雰囲気から読み取ることは不可能だ。
 大橋をもう見たくないとでも思っているのか、藍田はまっすぐ前を見据えたままだ。つられて同じ方向を見た大橋は、思わず眉をひそめて呟いていた。
「――飛行機、時間通りに飛ぶんだろうな」
 大きなガラスの向こうに、雨に濡れた滑走路が見える。いつもならこの時間、すでに外は明るくなっているはずだが、まだ薄暗い。それもそのはずで、空は重苦しい雲に覆われていた。大橋が部屋を出たときより、雨足が少し強くなり、風も出てきたようだ。
「ここは、暴風域には入らないそうだ」
 突然、藍田が言った言葉の意味が、即座に理解できなかった。大橋は藍田の横顔に視線を移す。
「暴風域?」
「あんた、家に帰って仮眠をとる時間があったんだろう。少しぐらいニュースを観なかったのか」
 藍田がちらりとこちらを見たが、大橋が目を奪われたのは、いかにも呆れたような表情ではなく、藍田の眼差しだった。物憂げに伏せられた眼差しが、こちらを見るまでの一連の動きに、魅入られてしまう。
 不審げに藍田が眉をひそめたので、我に返った大橋は視線を泳がせながら応じる。
「……テレビをつけるぐらいなら、少しでも長く寝る」
「台風が近づいてきているんだ。今の進路だと、こっちを直撃することはないらしい」
「ああ、だからか。妙な天気だと思ったんだよ」
 会話が続いたかと思ったら、すぐにまた沈黙が訪れる。
 藍田は何事もなかったようにまた前を見据え、仕方なく大橋も倣ったが、ガラスを伝い落ちていく雨を眺めているうちに、ふと、今この場には、自分と藍田しかいないような錯覚に陥っていた。だが現実は、二人の周囲のシートは人で埋まっている。
 大橋はコーヒーを飲み干し、息をついた勢いで切り出す。
「一昨日は、悪かった……」
 ピクリと藍田の肩が揺れたが、それだけだった。ただ大橋には、その反応で十分だ。
 藍田は、大橋がした行為を感情で処理しきれず、まだ戸惑っている最中なのだと。当然だ。同僚の男にいきなり抱き締められたのだ。
 藍田としてはなかったことにしたいだろうが、切り出してしまうと、もう言葉が止まらなかった。
「俺もよくわからないんだ。どうしてあんなことをしたのか……。だからといって、お前にあんなことをしていいわけじゃないし、言い訳にもならない。したことは取り消せないし、忘れることもできない」
「……もう、いい」
 呻くように藍田が言ったが、大橋は聞かなかった。
「なかったことにしろとは言わない。だが、許してくれ。勝手を言っていると思うだろうが、お前とはこの先も仕事で協力し合いたいから、変なわだかまりを残したくないんだ。お前に……、これまで以上に冷淡な態度を取られると、俺はどうすればいいかわからん。いや、まあ、これも勝手を言っているんだろうが――」
「もういいと言っている。気にしていない」
「本当に?」
 やっと藍田がこちらを向くが、いつもはクールな双眸には激情が走っていた。
「わたしが気にしていると言ったら、あんたはどうするつもりなんだっ」
 予想外の切り返しに大橋は咄嗟に言葉が出なかった。その反応に、藍田は冷ややかな笑みを浮かべる。
「あんたは、口先だけの安心感が欲しいだけだろう。だからわたしは応えてやっているんだ。それで満足だろう」
 藍田の言葉に気圧されそうになった大橋だが、即座に反撃していた。
「――お前の今の言い方だと、本心では、気にしていると言ってるようなものだ」
「なっ……」
 口を開きかけた藍田だが、人目を気にしたように周囲を見回し、アタッシェケースと紙コップを手に立ち上がったかと思うと、あっという間に行ってしまう。
 藍田が立ち去った理由はすぐにわかった。これではまるで、痴話喧嘩だ。
 ここで飛行機への搭乗を開始するアナウンスが入り、気が早い乗客の中にはすでにゲート前に並んで待っている。紙コップを捨てた藍田も並ぶところだった。
 強張った白い横顔を目にして大橋は、せっかく整えた前髪をくしゃくしゃと掻き乱す。
「何やってるんだ、俺は……」
 いままで通り同僚としてやっていきたいとか、協力して仕事を進めたいとか、そういったことは藍田が決めるべきことなのだ。大橋はただ、自分の行為を謝り続けるしかない。
それなのに、藍田を責めるような形になってしまい、挙げ句が――ズルイ本心を悟られた。
 そもそも、焦っていたとはいえ、こんな場所で切り出す内容ではなかったのだ。
 大橋は前屈みとなって大きくため息をつくと、のろのろと立ち上がる。睡眠不足に、精神的ダメージがいくら加わろうが、落ち込んでいる余裕はない。
 これから、ハードな仕事が待っている。大橋にも、藍田にも。









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