サプライズ


[16]


 思いがけず、福利厚生センターでの打ち合わせが長引き、大橋がオフィスを出たときには、すでに昼休みに入っていた。
 少し前に空港で朝食を食べたばかりだと感じていたが、時間を認識した途端、腹が減る。本格的に仕事に入る前に、何か食べておきたいところだが、その余裕もないようだ。
 気疲れを覚えつつ歩いていた大橋は、携帯電話の電源を切ったままなのを思い出し、慌てて取り出す。
 電源を入れると、さっそく留守電が入っていた。メッセージを聞いた大橋は、ニヤリと笑って周囲を見回す。
 一階が見下ろせる廊下へと移動して、メッセージ通り、ある人物へと電話をかけた。
「――大橋です。連絡ありがとうございました」
 大橋がこう名乗ったとき、相手がどんな顔をしたのか、なんとなくだが想像できた。笑いを噛み殺しつつ、大まじめな顔を取り繕っているだろう。
『もうこっちに来たの?』
「俺はフットワークが軽いんですよ。福澤さん」
『昨夜、連絡もらったときは驚いたけど、もう動くとはね』
「早いうちに打てるだけの手を打っておこうかと思って。ついでに、本来のプロジェクトのほうで済ませておきたい用もあったんです。会社の荷物だけじゃなく、人も移動しますから」
『本来の仕事をしつつ、本当に大変だ……』
 当たり前だが、福澤の口調はあくまで他人事だ。電材営業部の動きを大橋に知らせて、気が楽になったのかもしれない。
 一方の大橋は、昨夜から大変だったと恨み言を言う気にもなれなかった。どうせ誰かが動かなければならないことだ。むしろ、自分に知らせてくれたことを感謝すらしている。
「昨夜は、家族団らんの時間をお邪魔して、すみませんでした」
 大橋は、昨夜福澤の携帯電話に連絡したときの様子を思い出す。すでに自宅に戻っていたという福澤の声とは別に、なんとも楽しそうな子供の笑い声が聞こえてきたのだ。それをたしなめる、柔らかな女性の声も。
 これが家庭の声なのかと、少しだけほろ苦い気持ちになったのは、大橋の秘密だ。しかし、妙なところで福澤は鋭かった。
『――君なら、三度目の結婚でもいいって言う女性もいるだろう。もう家庭を持つ気はないの?』
 ドキリとした大橋は、誤魔化すように笑い声を洩らす。まさかこの状況で、こんなに答えにくい質問をされるとは思わなかった。
「さすがに二度失敗すると、痛感しますよ。俺は誰かと家庭を築くのに向かない男だってことを。それに今は、一人暮らしのほうが居心地がよくて」
『別に一緒に暮らさなくてもさ、恋人ぐらいはいたほうが楽しいよ。まだ若いんだし、仕事だけの毎日も味気ないだろう』
 これは世間話なのか、それとも親身になってくれているのかと、大橋は判断に迷う。結局、福澤が納得しそうな返事をしていた。
「寂しくない程度に、相手をしてくれる人はいますから、ご心配なく」
 少々慌てて大橋は電話を切り、ほっと息を吐く。
 家庭人である首都圏システム営業部第二室の室長は、実は世話好きなのかもしれないなと思いながら、頭を掻く。いつもならもっと気楽に躱せるはずの話題なのだが、なぜか今は、大橋の背中はじっとり汗ばんでいた。突然の質問に焦ったのだ。
 本来ならここで休憩でもしたいところだが、予定のせいでそうもいかない。昼なら時間が取れるという、相手側からの要望だ。
 大橋がエレベーターで向かったのは、企業倫理室のオフィスがあるフロアだった。
 このフロアは、一般社員には馴染みの薄い部署ばかりが入っているため、慌ただしい空気はあまり感じない。それに、緊張感のようなものが漂っていた。
 大橋は危機管理室のオフィスを横目に見ながら通り過ぎ、その隣の企業倫理室のオフィスへと足を踏み入れる。
 いかにも誰かを待っているという風情で、いかめしい顔をした男が立っており、目が合った。
 その男が、横幅に大きな体を揺するようにして大橋の元へと歩み寄ってくる。
「――君のせいで、昼食の約束をキャンセルしたよ」
 開口一番に非難がましい口調で告げられた言葉に、目を丸くしたあと、大橋は失笑を洩らす。重厚な雰囲気を漂わせた五十代半ばぐらいに見える男が、まっさきに言うことだろうかと思ったのだ。
 ただ、自分が歓迎されていないということを知るには、最適な言葉だったかもしれない。
 大橋は、悪びれずに飄々として応じた。
「わたしも食べていません。よければ、これからご一緒しますか?」
「……話を聞こう。移転推進実行プロジェクトのリーダーである君が、夜遅くに連絡を入れてくるぐらいだ。話に集中したい」
「恐れ入ります、小野谷室長」
 小野谷に伴われて執務室へと移動すると、手で示されるまま大橋はソファに腰掛ける。すぐに小野谷も腰掛けるかと思ったが、デスクに歩み寄った小野谷がまずやったのは、コーヒーは持ってこなくていいと内線で部下に告げることだった。
 あまりに露骨な対応に、大橋は本気でおかしくなってくる。
「それで、用というのは?」
 正面のソファにやっと腰掛けた小野谷が、警戒した様子で切り出し、鋭い視線を向けてくる。大橋は必要以上ににこやかな表情を浮かべた。
「用、というほど大層なものではありません。ただ、東京支社の企業倫理室のお考えをうかがったほうがいいと思える事案がありまして――……」
「問い合わせ程度なら、電話で対応する。それに、わたしでなくてもよかっただろう。もったいぶって、わざわざ押しかけてくるようなことなのかね?」
 大橋はソファから身を乗り出し、小野谷に強い眼差しを向ける。
「東和電器の面子がかかっていますから、ぜひ、小野谷室長に――いや、東京支社の企業倫理室室長に、ご意見をうかがいたかったんです。直接お会いして」
 淡々とした口調で大橋は、昨日自分のもとにもたらされた情報について、端的な説明をする。
 つまり、東京支社の電材営業部に不穏な動きあり、ということを。
 最初は訝しげな顔をしていた小野谷だが、やっと真剣に話を聞く気になったらしく、大橋同様、ソファからわずかに身を乗り出してきた。
「不穏な動きというのは、具体的には」
「事業部の統廃合に対する抗議のために、リスクマネジメント委員会の設置を求めるつもりらしいです。それが認められないようなら、マスコミに訴える気らしいとも」
「何をバカなっ……」
「そうですよね。そんなことをしたところで、東京支社のイメージが失墜するだけです」
 こう答えた途端、小野谷に睨みつけられた。なぜうちだけが、と言いたいらしい。
 大橋は薄い笑みを浮かべたが、すぐに消し、テーブルの上を軽く指で叩く。
「内乱を起こすのは、本社ではなく、東京支社の人間ですよ。本社はあくまで、困惑の表情を浮かべて、<遺憾です>とでも答えれば、対応したことになりますし、合理的に事業部のいくつかを潰すことができる――と、上は考えるかもしれませんね」
 ここで執務室内に息苦しいほどの沈黙が訪れる。
 大橋は小野谷の言葉を待ちながら、何げなく視線を窓のほうへと向ける。どうやら、雨足がさらに勢いを増しているだけでなく、風も出てきたようだ。
 藍田が観てきた天気予報は当たっているらしい。
「――それで、なんで君がここに来たんだ」
 突然の小野谷の問いかけに、一瞬目を眇めた大橋は視線を戻す。今の小野谷の顔にあるのは、疑心だ。
 もっともな疑問だと、大橋は小さくため息をついた。
「事業部の統廃合を任されているのは藍田で、わたしが任されているのは本社移転の仕事です。が、もちろん情報のやり取りはありますし、互いにサポート体制は敷いています。信頼関係を結んでいますから」
 これぐらいのウソは可愛いものだ。
「今日、藍田もこちらに別件で来ていますが、この件には関わっていません。藍田が動けば確実に、電材営業部に懲罰的な処断を下さざるをえなくなるでしょう」
 あえて厳しい言葉を使ってみたが、効果はてき面だった。小野谷の顔色が変わり、何かを思案するように忙しく視線が動いている。
「……確かに、そうだろうな。ここぞとばかりに本社は、東和電器全体の問題ではなく、東京支社の問題として片付けようとするはずだ」
「しかしそうはいっても、本社だって無傷というわけにはいかないでしょう。会社の外にいる人間からすれば、本社だろうが支社だろうが、東和電器であることに間違いはない」
 ここでデスクの上の電話が鳴り、忌々しそうに眉をひそめた小野谷が立ち上がる。きつい口調でしばらく電話を繋がないよう告げ、すぐに受話器を置いてしまう。
「それで君は、どうしてわたしのところに来たんだ」
 振り返った小野谷に問われ、大橋はほっと息を吐き出す。やっと肝心なことを切り出せると思ったのだ。
「リスクマネジメント委員会の設置のためには、事前審査が必要ですよね。社員の申し立て内容が、委員会設置に相応しいものかどうか判断するために。その審査をするのが、リスクマネジメント室室長と、経営企画室室長、そして企業倫理室室長の――あなただ」
「……申し立てがあった場合、それを揉み消せというわけか」
 大橋は会心の笑みを浮かべ、首を横に振る。
「逆ですよ。承認してほしいんです」
「つまり……」
「設置しろと言うなら、リスクマネジメント委員会を設置させて、言いたいことを言わせればいい。ただし、あなたから十分に釘を刺してほしいんです。会社の通常業務を阻害し、名誉を傷つけるような活動に、どういったリスクが伴うか。法務部の誰かを伴うのが効果的かもしれませんね」
 自分は意外に悪役が似合うかもしれない、などと考えながら、大橋は淀みなく話し続ける。
「正義感に駆られてやっているのかもしれませんが、結果として自分たちの行動が、同じ東京支社にいる社員たちに負担を強いることになると、行動を起こす人間は知らなければいけない」
「しかし、その役目はわたしでなくても……」
「小野谷室長でないとダメです。実績も人望もおありになる、あなたでないと。他のお二方には、専務から説明がいくことになっています」
 専務、と出た途端、ぎょっとしたように小野谷は顔を強張らせる。
「専務が……?」
「すでに専務には、すべてお話してあります。計画のことも。おそらく小野谷室長がお力を貸してくれることも」
 これは、遠回しな脅迫だ。ここで小野谷が協力を拒めば、大阪本社としては、今後の小野谷の処遇をどうするか自由にできる口実を手に入れられる。
 瞬時にそれを悟ったのだろう。小野谷は、疫病神でも見るような眼差しを大橋に向けてきた。
 その目を見た大橋としては、やはりこの役目は自分が負ってよかったのだと、妙な満足感を覚える。藍田は、こんな眼差しを向けられていい男ではない。
 地均しのような嫌な仕事は、ワイヤーロープ並みに図太い神経をした人間にこそ相応しい。例えば、大橋のような。藍田は、提示された資料を基に、冷ややかに決断を下していけばいいのだ。
 しばらく黙り込んでいた小野谷だが、呻くように低い声で言った。
「――……こんな悪辣な方法を考えついたのは、藍田という男か?」
「まさか、俺ですよ。昨日、ほんの数時間で思いついたんですが、なかなか有効な手だと自負していますよ。半年後はどうなるかわかりませんが、少なくとも今は、事態を丸く収められる……かもしれない。それは小野谷室長にかかっているわけですが」
 今にも大橋を射殺しそうな目で睨みつけてきた小野谷だが、すでに結論は決まっている。この場で出せる結論など、一つしかないのだ。




 ふと足を止めた藍田は、窓の外に視線を向ける。台風の接近を物語るように、雨と風の勢いが、時間とともに少しずつ増している。
 憂鬱な仕事に、憂鬱な天候。それに、憂鬱な気分。
 重大なトラブルでもなければ、誰が好きこのんで東京出張などするものか、と藍田は心の中で毒づく。それぐらいしなければ、とてもでなければやっていられない。
 はあっ、と乱暴に息を吐き出すと、先を歩いていた先進技術開発部の男性社員が怯えたような表情で振り返った。
 上司から何を吹き込まれたのか知らないが、さきほどからこの調子だ。藍田の一挙手一投足に大げさに反応し、やたら怯えるのだ。大阪本社から災厄がやって来たとでも吹き込まれたのかもしれない。
「何か気になるものでもありますか?」
 まだ二十代半ばぐらいに見える若い男性社員に控えめな声で問われ、藍田は首を横に振った。
「いや。ただ、風が出てきたと思って」
 ああ、と声を洩らした社員も、つられたように窓に視線を向ける。
「夕方から夜にかけて東京に直撃らしいです。……帰りに電車が走るか、それが心配で」
「だったらわたしは、帰りの飛行機の心配をしないといけないな」
 淡々と応じた藍田に、男性社員はうかがうような視線を向けてくる。
「……別に、怒っているわけじゃない。台風は自然災害なんだから、こちらの予定に合わせて来るなとも言えない。むしろ怒っているとすれば――」
 ここに来ざるをえない状況を作り出した張本人だ。
 藍田はわずかに唇を歪めて、込み上げてきた怒りを押し殺すと、歩きながら低い声を発する。
「それで、該当する社員は?」
「ええと……、本社移転に伴うオフィスの配置換えで相談があるといって、開発研究所から呼び戻しています。上からの指示通り、開発部のオフィスには立ち入らせていませんし、パソコンや携帯電話にも触れない環境に置いています」
「完璧だ」
 そう言って藍田が冷ややかな笑みを浮かべると、なぜだか男性社員は意外そうに目を丸くしてから、慌てて視線を伏せた。うろたえた様子はまるで新入社員のようで、なんとなく藍田は微笑ましい気持ちになる。
 思わず唇を綻ばせそうになったが、寸前で堪える。朝から大橋と一緒にいたせいで、どうやら緊張感が少し緩んでいるようだ。藍田は自分を戒めると、完全に気持ちを切り替えた。
 先進技術開発部のオフィスの前まで来ると、一人の男が強張った顔で立っていた。男性社員が小声で、東京支社の技術開発部門統括責任者だと教えてくれる。昨夜、人事部長と話していてちらりと話題が出たが、確か兵頭といったはずだ。
 その兵頭と名刺交換をしたところで、男性社員の役目はここまでだ。
 彼がオフィスに戻る姿を一瞥してから、兵頭に促されるまま藍田は再び歩き出す。
「――わざわざお越しいただくような事態になり、申し訳ありません」
 抑えた声で兵頭が苦しげに言う。いえ、と応じた藍田は、隣を歩く兵頭の横顔を素早く観察する。まだ四十代前半で、部門の統括責任者を任されるということは、よほど有能なのだろう。ただし、研究者として。
 会社を揺るがすようなトラブルを部下が引き起こして、対応に苦慮していると、ありありと感じ取れる。もしかすると、自分の今の立場すら危ういかもしれないのだ。
 やはり部下を持つ身である藍田としては、兵頭の感じる不安が他人事とは思えない。一方で、管理者として甘いといわざるをえないだろう。
「昨夜のうちにお願いしておいた調査の結果はどうでしたか?」
 あえて事務的な口調で尋ねると、兵頭の表情が曇る。
「……関わっていないはずの研究データに、何度かアクセスした形跡がありました。どこも同じでしょうが、うちの研究所もデータの管理は厳重に行っていて、外に持ち出すことはできません。ただ、審査の関係で、データはこちらの開発部でも一括管理していて、印刷したものが社員たちの手に渡ることがあります。もちろん、それは破棄することになっていて――」
「しかし、流出した。いや、させた、というべきですね。彼は、特許申請を控えた大事な研究データを持ち出した」
「まだ本人から確認を取ってないので、断定はできません」
 兵頭の言葉に、藍田は眉をひそめる。
「そうですね。断定はできません。わたしもあくまで、関係者からもたらされた情報を元に、あなた方に動いてもらっているだけですから。ただ、だからこそ、本人を問い詰めなくてはならないでしょう。単なるハッタリで動くほど、彼が接触していた会社は甘くはないですよ」
 二人は、開発部が使っているというミーティング室のうち、使用中となっている唯一の部屋の前で足を止める。
 極秘裏の打ち合わせが多い開発部らしく、ミーティング室はフロアの奥まった場所にあり、ここにくるまでの廊下も入り組んでいるため、人の出入りがわかりにくい造りになっていた。
 ミーティング室のドアを見据えながら藍田は、淡々とした口調で話す。
「――本来ならわたしは、情報流失に関する事案には一切タッチしません。ただ、こんなバカなことをしようとした理由が、事業部の統廃合に関わりがあると言われれば、動かざるをえないんです。本人が本当にそう言ったかどうかは不明ですが、第三者の口から語られたのなら、確かめる必要はあります」
「彼は……、自分がいる研究室が思う通りの結果を出せていないことを気にかけていました。だから、研究室どころか、事業部そのものがなくなると思い詰めたのかもしれません」
「わたしには、事業部の統廃合を口実にして、自分だけ甘い汁を吸おうとしていたようにしか思えませんが」
 ハッとしたように兵頭がこちらを見て、納得したように小さく頷いた。
「ないとは言い切れません。いや、そうなんでしょう。そうでなければ、自分が関わったわけでもない研究データにアクセスする理由がない」
 藍田はもう一度、乱暴に息を吐き出す。
 昨夜、逢坂に耳打ちされた情報というのは、つまり、こういうことだった。
 東京本社の先進技術開発部で、ある商品の開発に関わっている社員が、他社へ情報を売っているというのだ。その他社というのは、逢坂が電話で話したという投資会社の人間だ。おそらく投資会社の人間は、逢坂が食いつくかどうか探ってみたのだろう。
 どの程度の情報が持ち出されているのか、今、開発部の一部の人間が調べているが、藍田にとって大事なのは、今回の騒動が、事業部の統廃合にどれだけ影響を及ぼすかだ。
 社員の心理になんらかの悪影響を及ぼした挙げ句の愚行だとすれば、対応を考えなければならない。もちろん、厳しい方向で。
 あえて兵頭には言わないが、東京支社の開発部部門に、それなりのペナルティーを受けてもらうことは、すでに藍田の中で決定している。
 社内での懲罰は上が決めることだが、藍田は営業部門だけでなく、開発部門の事業部の統廃合にも大鉈を振るうつもりだったので、皮肉なことに今回の騒動は、そんな藍田にとっては好都合だった。
 開発部門が起こした不祥事は、開発部門がケジメをつけるべきなのだ。
 疲労と睡眠不足で、頭の半分が膿んだように熱くなっているが、残りの半分はいつもと変わらず、冷静に動き続けている。その冷静な部分で、藍田は物事を淡々と処理し続けていた。
「――とりあえず、彼と話をしてみます。わたしが事業部統廃合を任されていると知ってどんな反応をするか見てみたいですし。あなたには、同席をお願いしたい」
「わかりました」
 頷いた兵頭がさっそくドアをノックしようとしたが、藍田はそれを制する。
「先に、開発部門の各事業部の責任者に連絡を取ってください。二時間後に大会議室で説明会を行いたいと思っています」
「説明会、というのは……」
 何かを察したように表情を曇らせた兵頭に対して、あくまで淡々と藍田と告げた。
「事業部の統廃合がどのような手順で進められるか、一度みなさんときちんと顔を合わせて、お話しておきたいんです。営業部門への説明はすでに終えていますが、開発部門は後回しになっていましたので、この機会に」
 ぜひ、という一言を付け加えると、弾かれたように肩を震わせた兵頭が一礼してオフィスに戻ろうとしたが、このとき、ちらりと藍田を見た目に、ありありと怒りが滲み出ていることに気づいたが、見なかったふりをした。
 他人からこんな眼差しを向けられることに、すっかり慣れてしまったのだ。
 きっと、他人が感じる痛みにも鈍感になってしまったのだろうなと、壁にもたれかかりながら、藍田は漫然とそんなことを考えていた。


 最悪だ――。
 心の中でそう洩らした藍田は、重苦しいため息を洩らす。もっとも、あからさまに落胆の感情を表しているのは藍田だけではなく、空港の運航状況を確認した人たちの大半は、似たような反応を見せた。
 台風がすぐそこまで迫っている中、電話ではラチが明かないため空港まで足を運んだのだが、物事はそう都合よく運ばない。そんな当たり前のことを痛感する。
 藍田が搭乗する予定だった飛行機は、すでに欠航が決定していた。最終便だけでなく、夕方からの便すべてだ。他の航空会社も同じ対応を取っており、つまりもう今日は、飛行機は飛ばないということだ。
 ありうることだと予測はしていたが、いざそのトラブルが自分の身に降りかかると、ため息しか出ない。同時に、ひどい脱力感に襲われていた。
 皮肉なことに、欠航の字を目の当たりにして、やっと今日の自分の仕事は終わったのだと実感できたようだ。
 だるい体を引きずって、電車を乗り継いできた甲斐はあったのかもしれない。
 ちらりと苦笑を浮かべた藍田は、混雑しているカウンターにすぐに向かう気にはなれず、並んでいるイスの一つにひとまず腰掛ける。
 顔を伏せて目を閉じると、深い場所にまで引きずり込まれそうな、強烈な睡魔が一気に押し寄せてきた。さすがに、丸二日もまともに眠っていないため、気を抜くと立ったままでも眠れそうだ。
 東京支社にいる間は気が張っていたため、なんとか自分を保っていられたが、一人になると、もうダメだ。この場から一歩も動きたくなくなる。
 意識が宙を漂っているような感覚を味わいながら、それでも藍田は考え続けていた。
 今日の、東京支社でのことだ。
 藍田が面談した社員は、確かに情報を流出させていた。ただし、取引には至っていない。接触を持っていた投資会社も慎重で、取引をする相手がどれだけの情報にアクセスできるか確認するため、まずは重要度の低い情報から持ち出させていたのだ。あとは、東和電器の内輪揉めに関する情報も。
 一日かけて調べさせた限りでは、特許申請間近の研究概要までが社外に流出したようだが、それが即、会社に打撃に与えることはないらしい。ただ、研究内容のすべてが把握されたことに間違いはない。
 しかし藍田にとって大事なのは、なぜ社員の一人がそんな愚行に走ったかという理由だ。
 ヒステリックに投げつけられた社員の言葉が、頭の中で反響していた。すると、間断なく痛み続けていた胃が、一際鋭い痛みを発し、思わず喉の奥で声を洩らす。
 朝から胃薬を飲み続けているが、感じるストレスがそれ以上なのか、効いている気がしない。
 情報を流出させていた社員の言い分は、開き直り以外のなにものでもなかった。
 曰く、事業部統廃合の話を聞き、安心して働ける環境でなくなった。自分は開発でがんばってきたが、それが報われることはなく、そのうえ一方的に切り捨てられるのは我慢できない。会社に裏切られたと感じた。
 だから――背信行為に及んだ、と聞かされたときは、藍田はあまりのバカバカしさに、このときだけは胃の痛みを忘れて笑い出してしまった。
 その後、愚かだ、という一言で切り捨てた。
 愚かな行為の代償が、自分の仲間たちがいる事業部を結果として減らすことになるのだ。他に言いようがない。
 くだらない後始末のために出張までしたという事実を何度も噛み締めるたびに、藍田の疲労感は増していく。
 あとに設けた、開発部門の各事業部の責任者に対する説明会も荒れてひどい内容だったのだ。
 疲労感に腹立たしさまで加わり、正直、座っていることすら嫌になる。とりあえず強引に思考を切り替えてみた。
 まずは、航空チケットをカウンターに持っていき、予約変更をしてもらわなければならない。いや、もしかすると新幹線ならまだ走っているかも――。
 藍田は取り留めなく考え続けはするのだが、体が動かない。新幹線すら無理なら、ホテルも探さなければならないのに。
 本格的に自分は疲れ果てているなと思い、唇にそっと苦笑を浮かべかけた藍田だが、次の瞬間、体を強張らせていた。すぐ隣に誰か立っている気配を感じたのだ。
「――おい、こんなところで寝るな」
 そんな言葉が頭上から降ってくるのと同時に、髪に何かが触れた。ハッとして藍田が頭を上げると、驚いたように大橋が手を引く。何が起こったのか、よくわからなかった。
 藍田はゆっくりと目を細めると、大橋をじっと見つめる。大橋は落ち着きなく視線をさまよわせてから、ぎこちなく笑いかけてきた。
「飛行機、飛ばないんだろう?」
「あ、あ……」
「ここに来る前に確認してきたが、新幹線もストップだ。つまり今夜は、東京に足止めってことだ。まあ、オフィスに連絡さえ入れておけば、明日中に帰れば問題はないだろう。ダメだと言われたところで帰りの足がないしな。トラブル対処の報告は、帰ってからじっくりすればいい」
 大橋がいつになく早口で話してから、藍田の前を通って隣のイスに腰掛ける。見回してみれば、イスに腰掛けている人の数がずいぶん少なくなっていた。
 時間を確認してみれば、二十分ほど目を閉じていたらしい。居眠りしていたのかどうか、藍田自身、よくわからなかった。ただ、頭がぼんやりしている。
 髪を掻き上げて大きく息を吐き出すと、大橋が顔を覗き込んできた。
「精根尽き果てたって顔だな」
「……疲れた……」
 思わず本音を洩らしてから、藍田は口元に手をやる。大橋に対して弱音を吐くつもりはなかったのに、自然に口をついて出たのだ。一方の大橋も、目を見開いている。
 互いに不自然に顔を背けたが、すぐに大橋は何か思い出したように、藍田のほうに体を寄せてきた。
「お前、チケットは持ってるか?」
 大橋がチケットを振って見せたので、頷いてジャケットのポケットから取り出す。あっという間に奪い取られた。
「あっ……」
「まだ予約変更はしてないな。一緒にしてきてやる。明日、一番早く予約が取れる便でいいだろう」
 藍田の返事を聞きもしないで、アタッシェケースを置いた大橋が素早く立ち上がって行ってしまう。その背を見送ってから、藍田はぐったりとイスにもたれかかり、天井を見上げた。
 あの男はタフだ、と思う。東京支社で、藍田と同じくトラブル処理に奔走したのだろう。明らかに大橋も疲れているように見えるが、それでも動きには、まだ精力的なものが感じられる。
 正直、大橋が現れて助かったのかもしれない。何かのきっかけがなければ、藍田は時間が許す限り、この場から動かなかったかもしれないのだ。少なくとも大橋がいれば、情けない姿を見せたくないという気になる。
 だから、もう少しだけこうして休んでいたい――。
 ぼんやりと天井を見上げ続けていると、ひょいっと大橋の顔が視界に飛び込んできた。真上から藍田の顔を覗き込んできたのだ。慌てて姿勢を戻した藍田に、大橋は意味ありげに笑いかけてくる。その表情は、藍田の無防備な姿を見てやった、といっているようにも見える。もちろん、考えすぎだろうが。
「さすがに朝早い便は無理だった。台風がどうなるかわからないし、機体のやりくりがつかないんだと。とりあえず、ここを十時に出る便でいいだろう? 並びでシートに座れるようだし」
 飛行機に乗れるのなら、別に並びで座れなくてもいいではないか。そう思った藍田だが、あえて口に出すほどのことではない。
 代わりに、差し出されたチケットを受け取って礼を言った。
「――で、これからどうするんだ」
 いつの間にか笑みを消し、まじめな顔で大橋に問われる。藍田は少し考えてから、曖昧に首を振った。
「適当にホテルを取る。……どこでもいい。寝るだけだから」
「だったら都内まで引き返して、俺が出張のときにいつも使っているホテルに泊まるか。そこの予約用の電話番号なら、携帯に入れてあるし――」
 言いながら大橋が携帯電話を取り出し、かけ始める。藍田は漫然と、大橋の行動を眺めていた。思考が緩慢になりすぎて、大橋が何をしようとしているのかよく理解できなかったのだ。
 大橋は電話で短く会話を交わしてから、奇妙な表情を浮かべて藍田を見下ろしてくる。何事かと思った藍田が眉をひそめたとき、ある言葉がはっきりと耳に届いた。
「――部屋はツインで」
 数秒の間を置いてから、ぼんやりしていた藍田もさすがに事態を理解する。目を見開いて訂正させようとしたが、それに気づいた大橋が素早くこちらに背を向けてしまった。
「はい、予約は東和電器株式会社の大橋で。チェックインは……一時間後に」
 早口にそう告げると、大橋は電話を切って再び藍田を見た。何事もなかったように澄ました顔をしているのを見て、藍田はやっとまともに言葉を発することができる。
「なんで……ツインなんだ。シングル二部屋ぐらい、空いているだろう」
「経費削減。支払いは俺がする。そのほうが、経理に回す伝票が一枚少なくて済むしな」
「……わたしは別のホテルに泊まる」
「必要ない。それに、動けずにぐったり座り込んでいたくせに、自分でホテルを探せるのか? この天候だと、空港近くのホテルは諦めたほうがいいぞ。都内のホテルだって、そろそろ埋まり始めている頃だろうしな」
 ひどく腹立たしい気持ちなのだが、今の藍田は、大橋の相手をするには体力も気力もなさすぎた。
 ただ、大橋にはこう問いたかった。
 どうして自分にかまうのだ、と。
 口にできなかったのは、自意識過剰だと切り返されるのが嫌だったからだ。いや、そもそも藍田が大橋を意識してしまうのは、オフィスで抱き締められたせいだ。つまり、大橋が悪い。
 眠気とも、めまいとも取れる感覚に襲われ、藍田は片手で両目を覆う。考えていたことが一気に頭の中で霧散して、わけがわからなくなくなっていた。はっきりしているのは、とにかく落ち着いた場所で、体を休めたいということだ。
 藍田はため息交じりに告げた。
「――妥協する。あんたと同じホテルでいい。ただ、予約を変更して、わたしにはシングルを取ってほしい」
「はいはい」
 なんとも誠意のない返事をした大橋を、緩慢な動作で顔を上げた藍田は睨みつける。すると大橋がにんまりと笑いかけてきた。
「ほら、行くぞ。のんびりしていたら、タクシーがなくなる」
 ふっと息を吐き出した藍田は、アタッシェケースを手に立ち上がる。驚くほど体が重く感じられ、またすぐに座り込みたい衝動に駆られる。そうできなかったのは、同じくアタッシェケースを手にした大橋が、気遣うような眼差しを向けていたからだ。
 腹が立つような、気恥ずかしいような、そんな奇妙な感情を覚えながら、藍田は必死に平静さを取り繕う。
 だがその姿勢も、空港の建物から一歩出た瞬間に、どこかにいった。
 叩きつけるような強い風に襲われ、身構えていなかった藍田の体は持っていかれそうになる。
「あっ……」
 小さく声を上げてすぐ、強い力が肩にかかり、引き戻された。
「しっかり踏ん張っておけよ。痩せているお前なら、飛ばされるぞ」
 顔をしかめた大橋が大声で怒鳴る。風の音がすごくて、これぐらい声を張り上げないと聞こえないのだ。藍田はなんとか頷いたが、とてもではないが話せる状況ではない。
 吹き込んでくる雨で顔を濡らしながら、大橋に半ば肩を抱かれるようにしてなんとかタクシーに乗り込んだとき、藍田はぐったりとしてシートにもたれかかっていた。
 空港までは電車で来たため、雨風がすごいとは思っていても、肌で感じることはなかったのだ。今の状況はまさに暴風雨だ。
「ひっでーな、こりゃ」
 運転手に行き先を告げた大橋が、大雑把な手つきで髪を掻き上げながら洩らす。
 藍田は自分のハンカチを取り出してスーツを簡単に拭いていたが、すぐに億劫になってやめてしまい、ウィンドーの外に視線を向ける。
 走り出したタクシーは、強い雨風のせいでスピードは抑え気味だ。
 車の震動に、眠気が刺激される。藍田が目を擦っていると、隣で大橋が噴き出した。
「……なんだ」
 大橋を見ると、思ったとおり、肩を震わせて笑っている。
「いや……。普段はツンドラみたいなお前でも、眠気には勝てないのかと思ったら、妙に微笑ましい気持ちになってな」
「あんたも二日続けて徹夜すれば、わたしが今、どんな気持ちかわかるはずだ」
 不機嫌な口調で藍田が応じると、大橋が身を乗り出し、悪戯っぽい表情を見せた。
「参考に教えてくれ。どんな気持ちだ?」
「眠気と疲労でふらふらの人間の隣で、のん気に笑っている男を殴ってやりたい、という気持ちだ」
「こえーな」
 芝居がかった仕草で肩をすくめる大橋を、本気で殴ってやろうかと思う。そうしなかったのは、強引にせよ、空港から連れ出してくれたからだ。一応、藍田なりに感謝はしているのだ。
 能天気に笑っている大橋を見ると、到底素直に礼を言う気にはならないが。
 藍田は無意識に、大橋の横顔に見入っていた。こんなふうに笑う男が、どうして一昨日、オフィスであんな行為をしたのだろうかと考えながら。
 酔ったうえでの冗談――で、納得してしまいたいが、釈然としない気持ちは藍田の中に残ったままだ。
 明確な理由を求めているのだろうかと思った藍田は、途端に自分の鼓動が速くなるのを感じる。これ以上深く考えてはいけないと、自分の中の何かが制止しているようだった。
 藍田の視線に気づいたのか、ふいに大橋がこちらを見て、思いがけず優しい表情を浮かべた。
「どうした?」
「……なんでも、ない……」
「チェックインする前に、先にメシ済ませようぜ。一度部屋に入ると、もう出たくないからな」
「わたしは別に――」
「食えよ。俺と一緒にいて、メシ抜きで済むと思うな。今日はたっぷり食って、しっかり寝ろ」
 こんなことを言い出した大橋に逆らうのは不可能だと、これまでのつき合いで身をもって知ったつもりだ。
 仕方なく、わかった、と答えようとした瞬間、運転手が急にハンドルを切る。車が強風に煽られ、道路の左に寄ったのだ。藍田の体は車に合わせて大きく揺れ、すかさず大橋の腕が肩に回され受け止められる。
 強風の勢いよりも、急に肩にかかった感触に驚く。藍田は咄嗟に腕を振り払うこともできず、体を強張らせる。藍田の様子に気づいたのか、大橋は何も言わず、ぎこちなく肩に回した腕を退けた。
 この瞬間、互いの心の内などわかるはずもないのに、藍田は大橋と同じ気持ちを共有したと確信する。
 藍田は大橋に抱き締められた感触を、大橋は藍田を抱き締めた感触を思い出し、言葉も出ないほどうろたえたのだ。
 やはり別行動を取ればよかったと痛いほど後悔した藍田だが、もう遅かった。









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