サプライズ


[17]


 背に、藍田の視線が突き刺さる――。
 振り返って確認したわけではないが、確認するまでもない。藍田はきっと、射抜くほど鋭い視線を、自分の背に向けている。
 静まり返った廊下を歩きながら、大橋は妙な緊張感を味わっていた。
 決して悪気も他意もなかったのだ、と心の中で言い訳しながら。
 台風が直撃している中、なんとか無事にホテルに着いたとき、藍田は目に見えて憔悴していた。胃痛がひどいとか、貧血を起こしているとか、そういう病的なものではなく、とにかく眠くてたまらないのだろう。
 ホテルに着くまで、ぼんやりしていたかと思うと、急に思い出したように目を擦っては、口元を押さえていた。本人は懸命に自分を保とうとしていたようだが、ときおり覗く無防備な姿は、普段の冷徹な新機能事業室副室長とはまるで別人だった。
 タクシーの中で咄嗟に抱いた藍田の肩の感触がふいに蘇り、動揺した大橋の歩調がわずかに乱れる。すぐに我に返って足を速めたが、後ろをついてくる藍田の歩調は変わらない。
 ようやく大橋が振り返ると、思ったとおり藍田は、まっすぐこちらを見つめていた。そのくせ、目が合うと不自然に視線を逸らす。
 意識していると、藍田の態度が物語っている。もちろん大橋も、ホテルにチェックインしたときから藍田を意識していた。
 そう、タクシーの中で微妙な緊張感は漂っていたものの、ホテルに着いてから夕飯を済ませるまではよかったのだ。大橋も藍田も、態度には出さないものの、なんとか一線を保っていた。一昨日の行為は匂わせない、という一線を。
 それが――。
「……藍田、怒っているか?」
 思わず尋ねると、藍田は静かな表情のまま、投げ遣りな口調で答えるという高度な技を使った。
「怒っているが、疲れと眠気が上回っている。いまさらもう、ロビーに戻って時間を潰すのも嫌だしな」
 正直な奴だ、と苦笑した大橋は、ガシガシと頭を掻く。
「悪気はなかったんだ。俺もフロントから聞かされるまで、大丈夫だと思っていた」
「いい。あんたに任せっきりだった、わたしにも責任がある」
 責任、という言葉を他人が聞けば、どれだけ重大な出来事が起こったのかと思うかもしれない。しかし事情を知れば、大半の人間は拍子抜けするだろう。そんなことか、と。
 ただし大橋と藍田にとっては、そんなこと、では済まない。今のところ二人の関係は、非常にデリケートなのだ。
 藍田と並んで歩きながら、大橋はこんな提案をしてみた。
「――どうしても俺と同室が嫌なら、お前一人でツインの部屋を使え。俺はフロントに言って、シングルの部屋を取ってもらう」
「準備するのに時間がかかると言われただろう。それにもう、部屋は満室かもしれない。部屋の準備に手間取っているということは、それだけ急に予約が入ったということだ。この台風だから仕方ない」
「まあな……」
 二人がこんな会話を交わす理由は、つまりこういうことだ。
 ホテルに着いたその足で、やはり早めにチェックインとシングルの予約を済ませておこうとしたのだが、予想以上にフロントが混み合っていたため、結局二人は、当初の予定通り、先にホテル内にあるレストランで夕飯を済ませた。
 その後、再びフロントに行って手続きをしようとして、予想外のことを告げられてしまった。すでにシングルもダブルも満室になってしまったというのだ。
 空いているツインにしても、部屋を準備するため、しばらく待ってもらえないかと言われた。
 確かに、事前にシングルの予約を入れておかなかったこちらが悪い。文句を言える立場ではないし、だからといって暴風雨の中、近くの別のホテルに移動するのも手間だ。しかも、行った先のホテルも空いているとは限らない。
 何より今の藍田は、十分でもラウンジに座らせておいたら、眠り込んでしまうのが目に見えている。冷房がよく効いたラウンジでそんなことをさせたら、風邪をひきかねない。
 そこで大橋は、ツインの部屋のみのチェックインと支払いを済ませ、藍田に手短に状況説明をすると、半ば強引に腕を取り、エレベーターに乗り込んだというわけだ。
「俺はまだ体力があるから、ロビーでコーヒーでも飲みながら時間を潰す」
 大橋なりに気遣いと優しさを示したつもりだが、なぜか藍田にさらに厳しい視線を向けられた。
「……なんだよ、藍田。まだ不満か」
「違う。あんたの言い方が卑怯だと思っただけだ。……あんただって疲れているのは、わたしにもわかる。そんなあんたを部屋から追い出したら――、わたしはわがままを言っているだけの、薄情者になってしまう」
 大橋は戸惑いながら藍田を見つめる。高飛車な口調はともかく、藍田は藍田なりに自分を気遣ってくれているのだと知ってしまうと、大橋の胸の奥で不可解な熱い塊が蠢いていた。これはまずい、と思う。
 一昨日、オフィスで衝動的に藍田を抱き締めたときにも、同じような感覚に襲われ、わけがわからなくなったのだ。
 うろたえる気持ちを必死に抑えつけようと大橋が四苦八苦している間に、部屋に着いてしまい、カードキーを差し込みながら大橋は緊張していた。
 部屋に入ると、二人きりの空気を意識するのが嫌で、すぐにテレビをつける。興味もないバラエティー番組に視線を固定したまま、大橋は早口に告げた。
「藍田、先にシャワー使え。俺はビールでも飲んでるから、慌てなくていいぞ」
「……そうさせてもらう」
 そう答えた藍田の声から、完全に覇気がなくなっている。エネルギー切れ寸前といったところだろう。
 ベッドの一つに腰掛けた大橋は、横目で藍田の様子をうかがう。スリッパに履き替えた藍田は、億劫そうにジャケットを脱ぎ、ネクタイを解く。なんでもない一連の動作を、自覚もないまま大橋はじっと見つめていた。
 照明が落とし気味のホテルの室内では、藍田の横顔の白さがやけに際立って見える。それに、ワイシャツ姿が新鮮に感じられる。暑ければ気軽にジャケットを脱いでしまう大橋とは違い、藍田はどんなに暑かろうがジャケットを脱ぐことはないので、そのせいだ。
 袖口のボタンを外す指の動きすら目で追ってしまい、そんな自分に気づいた大橋は、慌てて視線を藍田から引き剥がす。
 藍田を意識しすぎだ、と自分を戒めていた。なんということはない。同僚とホテルの同じ部屋に宿泊するだけなのだ。出張先でこれまで何度も経験してきたことだ。
 ただ、今は、相手が藍田というだけで――。
 その藍田に自分が何をしたのか思い出し、大橋は髪を掻き毟りたくなる。できなかったのは、視線を感じたからだ。
 藍田が訝しむような表情で見ていた。
「大丈夫か? 苦しそうな顔をしていたが……」
「またお前の、不機嫌そうな寝顔を見ることになるのかと思ったら、そんな顔になったんだろうな」
 咄嗟の言い訳としては上手かったが、藍田の機嫌は確実に損ねた。
 軽く眉をひそめた藍田は、大橋の相手などしていられないとばかりに、浴衣を手にさっさとバスルームに行ってしまったのだ。


 三本目の缶ビールを空にしたところで、大橋の気分は少々よくなっていた。正確には、そうなるよう、自販機で買い込んできたビールを立て続けに飲み、酔いに逃げたのだ。
 悪酔いする要因はない。仕事のトラブルはひとまず片付き、緊張から解放されると同時に、普段の夕飯に比べてずっと美味いものが食え、その充足感をツマミに、ホテルの部屋でのんびりとビールを飲んでいる――。
 そこまで考えてから、大橋はガクッと肩を落として独り言を洩らす。
「ポジティブに持っていくにしても、無理がありすぎだろう、俺……」
 本当は、バスルームから響くシャワーの音を聞き続けているうちに居たたまれなくなって部屋を出て、外は台風で大荒れという状況でホテル内をぶらつく気にもなれず、ビールを買い込んですごすごと帰ってきたのだ。
 この部屋に入ったときから、今日片付けたトラブルのことなど微塵も思い出さなかったぐらいだ。
 ビール程度の酔いでは、藍田から意識を引き剥がすことができない。
 大橋はテーブルに投げ出した自分の片腕に視線を向け、ゆっくりと動かす。この腕で藍田を抱き締めたのだと思うだけで、頭が沸騰しそうだった。
 一人でいてこの状態なら、藍田がバスルームから出てきたらどうなるのか、考えるだけで、部屋中を駆け回りたくなる。
 一昨日の夜は自分の行動に頭が混乱し続け、昨日はトラブルの処理で追われ続けていた。今夜になったようやく、冷静になって考える余裕が生まれたのだ。よかったのか、悪かったのかは別にして。
 ここでふと、大橋はあることに気づいた。缶ビールの二本目を飲み始めた頃、水音は止まったのだが、いまだにバスルームから藍田が出てくる気配がない。髪を乾かしているにしては、ドライヤーの音も聞こえない。なんにしても、時間がかかりすぎる。
 大橋は空になった缶を倒しながら、慌てて立ち上がっていた。
「おいっ、藍田、大丈夫かっ?」
 バスルームのドアの前に立ち、声をかける。しかし中から返ってくる声はなく、大橋がドアを開けようとしても、中から鍵がかかっていた。
「藍田、聞こえてるんなら返事しろ。慌てなくていいとは言ったが、お前、どれだけ入ってる気だ。それとも、のぼせて動けないのか?」
 ドアをノックしながら必死に話しかけ続けても、やはり藍田の声は聞こえない。この時点で、酔いは完全に払拭される。もともと、酔っていた『つもり』になっていただけで、たかが缶ビール三本ほどで酔えるほど酒に弱くはない。
 大橋の背を、冷たい嫌な汗が伝う。ホテルの人間を呼んで来るべきかと迷った瞬間、中で派手な水音がする。
「どうしたっ、なんかあったのか?」
 必死に何度も問いかけるが、やはり返事はない。ただ、中で何かしている気配は感じ取れるので、のぼせて動けないわけではないようだ。だったら声ぐらい聞かせろと、思わず怒鳴りそうになる。
 そうできなかったのは、ある可能性に思い至ったからだ。
 気を静めるため大きく息を吐き出してから、大橋はいくぶん抑えた声で問いかけた。
「――もしかして、俺がいるから、出たくないのか? やっぱり俺と一緒の部屋じゃ、怖くて仕方ない……か?」
 改めて言葉にしてみて、自分がした行為に落ち込みそうになる。確かにそうだろう。
 いままで単なる同僚で、苦手とすらしていた男――同性に、理由もわからず抱き締められたのだ。大橋が藍田の立場なら、怖くて、気持ち悪くて仕方ないはずだ。藍田だからこそ、なんとか態度に出さずにいてくれたのだ。
「そうだよな、当然だ。一緒の部屋で安心して寝られないよな。……わかった。俺はやっぱり、別の部屋を取って、そこで寝る。帰りも、俺は新幹線にする。お前が顔を見たくないっていうなら、仕方ないからな。ただ、仕事は仕事で割り切ってくれ。お前の胃にストレスで負担をかけて悪いとは思うが、これだけは俺の一存ではどうにもならん」
 懸命に言葉を紡ぎながら、大橋は必死に考える。まだ、言い足りないことはないかと。言葉で藍田の警戒を解けるとは思ってないが、悪気はなかったということだけは伝えておかなければならない。それに、敵ではないとも。
「……お前が謝れというなら、土下座でもなんでもする。とにかく、出てきてくれ。一応、お前が倒れてないと確認しておかないと、俺も出ていくに出ていけんからな」
 ここまで言って、数分ほど耳を澄ませる。しかし、藍田は頑なだ。中から出てくる気配がないどころか、声すら聞こえてこない。
 大橋は乱暴に髪を掻き上げながら、次第に切羽詰っていく自分の気持ちを感じる。すでにもう、何をどう言えばいいのかわからなくなっていた。そのためつい、きつい言葉を発してしまう。
「藍田、お前本当に、意識があるのか? 返事がないなら、ホテルの人間にドアを開けさせるぞ。手遅れになったら大事だから――」
 なんの前触れもなく、大橋の中で気持ちの糸が切れる。まるで外で吹き荒れる台風のように、感情を爆発させていた。
 ただし、憤激とはまったく別の方向で。
「頼むから藍田、出てきてくれっ。何もしないっ。もう、お前に変なことはしないから、とにかく顔だけでも出してくれっ」
 ほとんど哀願だった。そのことを恥だと感じる神経すら、麻痺していた。もしかするとやはり酔っているのかもしれないが、今は些細なことだ。とにかく、藍田に出てきてもらわないと、安心して部屋を出ていけない。
「藍田っ、本当なんだ。変なことはしない。……お前を抱き締めるようなことは――」
 バスルームの鍵が解かれる微かな音がして、大橋は目を見開く。その目の前でゆっくりとドアが開き、浴衣に着替えた藍田が姿を見せた。そしていきなり、睨みつけられた。
「――あんたは頭がおかしくなったのか」
 開口一番に鋭い言葉を投げつけられ、大橋は呆然とする。すると、ワイシャツなどを抱えた藍田がバスルームから出てきて、邪魔だと言わんばかりに押し退けられた。
「藍田……」
「どうかしたんじゃないか。いい歳をした男がバスルームの前で、変なことはしない、なんて叫ぶな。他の人が聞いたら、何事だと思うだろう。それより、『変なこと』ってなんだ。あんたは、変なことをしたという自覚があるのか」
 クロゼットから取り出したハンガーにスーツ一式をかけていきながら、淀みなく淡々とした口調で藍田は話し続ける。だが、いつもより少しだけ早口だ。そこに藍田の動揺が滲み出ているように思えた。
 何より大橋が気になるのは、向けられている藍田の横顔だ。バスルームに入る前は白かった顔色は、今は紅潮している。
 再び藍田に押し退けられ、仕方なく大橋はベッドに腰掛ける。スーツをクロゼットに仕舞った藍田は、やっと人心地ついたように息を吐き出し、濡れた前髪を掻き上げた。
 部屋に、テレビの音と、外の強い風音が響く。
 ようやく、二人の間の空気が落ち着いた。奇妙で間の抜けたやり取りのおかげで、気が抜けたのかもしれない。
 大橋は、まだクロゼットの前に立ち尽くしている藍田に声をかけた。
「お茶飲むか? 買ってきたんだ。少し温くなってるかもしれないが」
 テーブルの上に置いたペットボトルのお茶を指さすと、素直に藍田は歩み寄り、ペットボトルを手にした。迷う素振りを見せてから、もう一つのベッドに腰掛け、大橋の見ている前で飲み始める。
 露わになった藍田の喉元が動く様が、やけに艶かしく感じられ、さりげなく視線を落とす。ここで大橋の異変を感じたら、藍田は今度こそバスルームに閉じこもって出てこないかもしれない。
「――藍田、バスルームで何してたんだ。俺はてっきり、お前がのぼせて動けなくなったかと思って、心配したんだぞ」
「バスタブに湯を張って浸かっていたら、そのまま寝てたんだ」
 それを聞いた大橋は、咄嗟に言葉が出なかった。さすがの藍田も決まり悪そうに顔をしかめ、また髪を掻き上げる。
「そうしたら、あんたの騒々しい声が聞こえてきたんだ。……すぐに返事をしなかったのは、驚いたからだ。あんたがあんまり、切羽詰ったような声を出すから」
「切羽詰ったって……」
「だいたい――」
 急に藍田に睨みつけられ、大橋は背筋を伸ばす。
 いつになく藍田の目は危うかった。極度の眠気と怒りと長湯のせいで、怜悧なはずの目が濡れたように見えるのだ。
「変なことはしない、と言われて、どんな返事をすればいいんだ、わたしは。あんたはどんな返事を求めていた」
「いや、それは……」
 藍田に圧されっぱなしの大橋は、まともに返事ができない。さらに何か言おうとした藍田だが、きつく目を閉じて額に手をやる。波のように強烈な眠気が押し寄せてきた、といったところだろう。
「……もう、いい。このことに拘泥していたら、わたしたちの会話はいつも同じところをグルグルと回ることになる。それに、あれこれ考えるには、今のわたしは不利すぎる」
 なんとも藍田らしい言い回しに、つい大橋は笑ってしまう。
 藍田はナイトテーブルにペットボトルを置くと、布団を捲ってベッドに上半身を横たえ、枕に片頬を押し当てた。体を起こしているのもつらいといった様子だ。
「お前、本当に大丈夫か? 湯に浸かって寝てたんなら、のぼせたんじゃないのか」
 大橋はそう声をかけながら、藍田の白い額にかかった乱れた前髪を掻き上げてやりたい衝動に駆られる。
 考えてみれば、バスルームから出てきた藍田からずっと目が離せないでいた。
「眠い、だけだ……。湯に浸かったまま寝るのは、家でもよくやる」
「お前そのうち、風呂で溺れるぞ。家に一人なら、誰も気づかないだろう」
「……あんたも、一人だ」
 吐息を洩らすように呟いて、藍田は笑った。その表情を目にして、大橋の胸の奥でまた熱い塊が蠢き、身震いしたくなるようなくすぐったさを覚えた。
 息を詰め、口元に手をやる。急に心臓の鼓動が速くなり、全身の血が沸き立つような感覚に襲われていた。冷静になれと、大橋は必死に自分に言い聞かせる。
 一方の藍田は、大橋の動揺と混乱など知るはずもなく、本格的にベッドに潜り込んでしまい、小さく呟いた。
「空調の温度、低すぎるんじゃないか……」
 藍田は物言いたげな視線を向けてきたが、大橋の顔を見るなり、眉をひそめる。
「暑いのか? 汗びっしょりだ」
 こう指摘されて初めて大橋は、自分が汗だくになっていることに気づいた。こめかみから汗のしずくが伝い落ちているどころか、ワイシャツも濡れている。
 大橋の中で起こっている異変が、実にわかりやすい形で表れたということだろう。
 何も知らない藍田は、口元までしっかり布団に包まりながら、ため息交じりに洩らした。
「まあ、いい。凍えるほどじゃないし」
 大橋が見ている前で、藍田の瞼が少しずつ落ちていく。
 神経質そうに見えて――実際そうなのだろうが、意外に藍田は鈍いところがあると思った。普通、一昨日あんなことをしてきた男の前で、こうもあっさり無防備にはなれない。たとえ同性同士だとしてもだ。
 単に、警戒心より眠気が勝っているのか、藍田の中では処理しきれたということなのか。
 難しい顔で大橋が考え込んでいると、前触れもなくしっかり目を開けた藍田が、天井を見上げたまま呼びかけてきた。
「――大橋さん」
「なんだ」
「さっきあんたが叫んでいた言葉だが……、わたしも、本当はこんなことを言いたくはないんだ……」
「らしくないな。はっきり言え」
「わたしは大橋龍平のことを、寝ている人間に『変なこと』をしない、と確信する程度には、紳士だと思っている」
「バカ野郎っ……」
 言いたいことを言いながら、藍田の瞼は再びゆっくりと落ちていく。
「あんたは、わたしの一日分の睡眠時間を奪った責任がある。だから今夜、その責任を取ってほしい」
 好き勝手言いやがる、と口中で毒づいた大橋だが、異論はない。
 案外、藍田の妙に律儀な性格に、今の自分は救われているのかもしれないと思うと、ついさきほどまで襲いかかってきていた動揺や混乱が、波が引くように静まっていった。
 大橋はほっと安堵の吐息を洩らして、唇に微かな笑みを浮かべる。
 一緒にいておもしろみのない、窮屈な男だと思っていた藍田に対して、大橋は初めて親しみのような感情を抱いていた。
 今なら、話せると思った――。
 藍田にも大きく関わりがありながら、その藍田に一切告げず、大橋が独断で判断して実行したことがある。つい、昨日のことだ。
 藍田が怒るのはわかりきっていたので、今日、仕事が終わってから話そうと思っていたのだ。しかしタクシーの中でも、ホテルのレストランでも、タイミングを失い続けて話せなかった。雰囲気が悪くなるのが嫌だったからだ。
 ツンドラのような男と一緒にいて、雰囲気が悪くなるというのも変な話だと、今になって笑えてくる。
「――藍田、お前に報告しておくことがあるんだ」
 表情を改めて、真剣な口調で大橋は切り出す。
「プロジェクトを任されて、お前とよく顔を突き合わせるようになってから、ずっと考えていたことがあったんだ。だが、なかなか行動を起こす踏ん切りがつかなかった。しかし、昨日起こったトラブルで、俺も覚悟が決まった。……本当は事前にお前に相談するべきだとわかっていたんだが、時間がなかった。お前のほうもトラブルを抱えていると聞かされたしな。とにかく、いい機会だと思ったんだ」
 一気にここまで話してから、藍田の反応を待つ。すでに藍田は瞼を閉じていたが、まだ意識はあると思っていたのだ。だが、いくら待っても藍田は返事をしない。
 さすがに察するものがあり、大橋はベッドから腰を浮かせて様子をうかがう。
 藍田は、完全に寝入っていた。
「お前……、寝るの早すぎだろう……」
 よほど睡眠不足が堪えて、疲れていたのだろう。
 大橋はベッドに座り直し、まあいい、と心の中で呟く。明日の朝でもできる話だし、頭がすっきりした分、藍田もいつもの怜悧さと冷静さを取り戻しているはずだ。
 すぐにはシャワーを浴びる気にもなれず、大橋は少しの間、藍田の穏やかな寝顔を眺め続けていた。









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