サプライズ


[19]


 バスタブの縁に腰掛けた大橋は、髪に指を差し込もうとして、寸前で思いとどまる。セットしたばかりなのだ。
 すでに着替えも済ませ、身支度は完璧だ。なのに大橋は、バスルームから出られない。出る勇気が、持てない。
 昨夜は、藍田がバスルームに閉じこもったのかと焦った大橋だが、今朝は自分が、本当にバスルームに閉じこもっているのだから笑える。ただし、失笑のほうだ。
「……どんな顔して、朝メシ食うかなんて、あいつに言えばいいんだ」
 大橋は低く呻き、考えすぎて頭まで痛くなってくる。
 今朝の目覚めは、衝撃的だった。やたら窮屈だと思いながら目が覚めると、同じベッドに藍田が眠っていたのだ。それだけで、夜中の自分たちのやり取りを思い出すのは簡単だった。
 夜中、大橋は藍田をベッドに引き入れ、抱き締めたのだ。
 藍田ほどではないにせよ疲れと眠気に苛まれ、そこに程よいアルコールが入ったせいで、いつになく大橋の神経は高ぶり、剥き出しだった。自分を取り繕うということが、できない状態だったのだ。
 自分のことをペラペラと話すだけならまだ、藍田は酔っ払いが軽く絡んできたぐらいに受け止めてくれただろう。だが大橋は、衝動を抑えることができなかった。
 むしょうに藍田を抱き締めたいという、欲望を――。
 大橋の腕にはしっかりと、藍田の体の感触やぬくもりが刻みつけられている。その感触をバスルームで思い返すたびに、耐え難い後悔や羞恥に襲われるわけでもなく、それどころか、ゾクゾクするような興奮が湧き起こっていた。
「俺は、度し難いっ……」
 夜中の抱擁を、酔っていたとかふざけていたとか、苦し紛れでもなんとか言い訳することは可能だったかもしれない。なのに大橋は、自らその言い訳を――藍田ではなく、自分自身に対する言い訳を、放棄してしまった。
 朝、目が覚めて、狭いベッドの上で密着している藍田の体を感じたとき、大橋は抱えた衝動が少しも冷めていないことを痛感した。同時に、理性が自分の手を離れたままだということも。
 大橋の腕の付け根辺りに潜り込むようにして、藍田は熟睡していた。覗き込んだ寝顔は夜中見たときと同じように静かで、眺めているうちに、衝動が抑えきれなくなった。
 大橋は寝ぼけたふりをして、藍田の体を再び抱き締めたのだ。腕の中で藍田は小さく声を洩らしたが、それだけだ。一時間近く、大橋は大胆にも藍田を抱き締め続け、自分が抱えた『欲望』の正体を考え続けた。
 もっとも、答えが出る前に藍田が起きてしまい、大橋は冷や汗をかきながら寝たふりを続けた。叩き起こされるのを覚悟していたが、藍田は、大橋を怒鳴ることも、殴りかかってくることもなく、数分ほどベッドに腰掛けじっとしていた。
 そして、冷や汗がたっぷり浮いた大橋の額を撫でてから、バスルームに入ったのだ。
 藍田が着替えを終えて出てくるのを待ってから、わざとらしく今起きたという芝居をした大橋は、何事もなかったふうを装いながら、入れ違いにバスルームに逃げ込んできた。
 もう三十分は経っているだろう。しかし、さすがにもう限界だ。
 藍田に腕枕を提供し続けていたため、まだ少し痺れが残っている腕を軽く動かしてから、ようやく覚悟を決めた大橋は立ち上がる。ついでにバスルームを出る前に最後に鏡を覗き込むと、いつになく緊張した男の顔が映っていた。
 大きく息を吐き出して部屋に戻った大橋は、いきなり厳しい言葉をぶつけられるかと身構えていたが、予想外の藍田の姿を見ることになる。
 ベッドに腰掛けた藍田が、顔をしかめながら携帯電話で誰かと話していたからだ。藍田の、厳しかったり不機嫌そうな表情は珍しくない。だが、それとは様子が違う。
 まるで、子供から難しい質問を投げかけられ、その答えに四苦八苦しているような、そんな微笑ましさすら漂っている。
 思わず立ち尽くした大橋に気づき、こちらを見た藍田が、しまった、と言いたげに眉をひそめた。つまり、本人にとっても見られたくない表情だったということだ。
 大橋はさりげなくもう一つのベッドに腰掛けると、耳だけは藍田のほうに向けながら、テレビをつける。
「……だから、今夜は無理だ。わたしは忙しい。それに今日は自分の部屋でゆっくり休みたい。お前だって、ふらふら遊び歩けるほど、暇じゃないだろう」
 聞こえてくる藍田の口調は、どこか砕けた柔らかさがある。とにかく親しい相手なのだろう。
 家族か、友人か、――恋人か。
「ああ、感謝はしている。埋め合わせは必ずするから、それは安心しろ。お前と違ってわたしは、約束を反故にしたことはないはずだ」
 ちらりと横目でうかがった大橋は、目を見開く。藍田が笑っていたからだ。なんとも自然な笑みで、造作が整った藍田の顔を鮮やかに彩っている。もっとも、大橋が見ていると知り、すぐに笑みを消してしまった。
 こちらから連絡すると言って電話を切った藍田が、おもむろに携帯電話を畳む。パタンッという音を聞いた途端、大橋は反射的に背筋を伸ばしていた。
 朝になってから初めて、まともに話せる雰囲気になる。藍田が夜中から今朝にかけてのことをどう切り出してこようが、大橋は受け止めるしかない。
「――大橋さん」
 静かな、むしろ硬いとすら感じる声で藍田に呼ばれる。大橋の体中の血は凍りつきそうになっていた。
「なん、だ……」
「あんたはしなくていいのか」
「へっ?」
 藍田は無表情のまま、自分の携帯電話を軽く掲げて見せてくる。
「会社への連絡だ。日帰り出張ということになっているんだから、出社が遅くなることを知らせておかないと、まずいだろう」
「あ、あ……。お前は、したのか?」
「あんたがバスルームに閉じこもっている間に」
 藍田の冷ややかな声に、ゾクリと背筋が冷たくなる。大橋とは違い、藍田には動揺がまったく見られなかった。
 二人の間にあった突拍子もない出来事をうまく処理できたのか、そもそも、なかったことにしてしまったのか、それは大橋にはわからない。ただ、普段通りの怜悧な藍田を見ていると、やけに寂しくなると同時に、切なかった。
「……そうだな。連絡しておかないと」
 大橋は自分の携帯電話を取り出すと、さっそくオフィスに電話をかける。始業時間にはまだ少し早いが、確実に誰かは出社しているはずだ。
『あら、補佐』
 電話に出たのは、旗谷だった。大橋は、なぜか藍田の視線を気にしつつ応じる。
「おう、旗谷か、ちょうどいい、あのな――」
 今の状況を説明していると、テレビに視線を向けていた藍田が急に立ち上がり、こちらに向ってくる。そして腰を屈めたかと思うと、大橋に顔を近づけてきた。
「うわっ」
 思わず声を上げたとき、大橋がもう片方の手で握り締めていたテレビのリモコンを取り上げられた。動揺する大橋とは対照的に、藍田は何事もなかった顔で自分のベッドに腰掛け、テレビのチャンネルを替える。
『補佐、どうかしましたか? というか、誰かと一緒ですか?』
 まだ電話中だったことを思い出し、焦りながら大橋は答える。
「藍田と一緒だ。俺と同じで東京支社に用があったらしい。で、成り行きで同じ部屋に泊まった」
『……あー、本当だ。いつもなら出社しているはずの藍田副室長の姿が見えない』
「こんなことでウソをついてどうする」
 旗谷の口ぶりから察するに、上司である大橋を見習って部下たちは、日ごろから向かいのオフィスの藍田を観察しているのかもしれない。だとしたら、藍田が抱えているストレスのいくらかは、オフィス企画部の責任だろう。
「まあ、そういうことだから、会社に顔を出すのは昼前になると思う。みんなに伝えておいてくれ」
『了解しました。あっ、それと、お土産を頼みます。できれば、スイーツ系で』
「太るぞ」
 呆れた口調でそう告げると、旗谷から電話を切られてしまった。
 携帯電話を仕舞っていた大橋は、視線を感じてふと顔を上げる。いつからなのか、藍田がじっと大橋を見つめていた。
「ど、どうした?」
「……別に」
 スッと視線を逸らした藍田の白い横顔を、ぼうっと眺めていた大橋だが、我に返り、聞かれてもいないのに話していた。
「今の電話の相手は旗谷っていうんだが、俺には甘いものを摂生しろと言うくせに、土産には甘いものを買ってきてくれって言うんだ。気がきくし、仕事もできるんだが、俺を上司と思ってないところもあるんじゃないかって――」
「ときどき、あんたと並んでわたしを見ている女性社員だろう」
「うっ……」
 やはり藍田は、見てないようでいて、オフィス企画部の様子をしっかり把握しているのだ。藍田には、さぞかしマヌケ面に見えているはずだ。
「旗谷は、いい男を眺めるのが趣味なんだ。すぐ側に、俺みたいないい男がいるっていうのにな」
「あんたの側に寄る口実じゃないのか、それ」
 男女のことになど関心なさそうな藍田の口から、予想外に鋭い指摘をされて、大橋はうろたえる。
「あんたと並んで、わたしを眺めている彼女は楽しそうに見える」
「い、や、そんなことは……」
 藍田の目にはそんなふうに見えていたのかと、正直大橋は焦っていた。誤解だと言いたかったが、わたしには関係ない、という藍田の一言で終わらされてしまうに決まっている。
 朝だというのに、息も詰まるような緊張感を味わいながら、大橋はなんとか話題をすり替えようとした。
「そういうお前は、さっきの電話で楽しそうに話していたな」
「……電話の相手は、そんな微笑ましい気分になれるような奴じゃない」
「そうか? 少なくとも俺は、お前があんなふうに笑うのは初めて見た」
「わたしの大学時代からの友人だ。しかも、東和電器のライバル会社に勤めている」
 言葉をなくした大橋は、黙って藍田を見つめる。藍田はわずかに唇を曲げたあと、不機嫌そうな口調で言った。
「――あんた今、こいつにも友人なんているのかと思っただろう」
「思ってねーよ。世の中には、変わり者なんていくらでもいるだろうからな」
 いつもの調子で余計なことまで言ってしまった大橋は、次の瞬間には身構える。しかし藍田は冷ややかな眼差しを向けるでもなく、なぜか納得したように頷いた。
「そうだな。あんたみたいな男と結婚する女性が二人もいたぐらいだ」
「お前……、俺の男としての価値を過小評価するなよ」
 こんな会話を交わしながら大橋は、昨夜から今朝にかけての行為は、実は自分の妄想だったのではないかという錯覚に囚われる。そう感じるぐらい、藍田はいつもの藍田だ。それにつられるように、大橋もいつもの調子で応じてしまう。
 軽く頭が混乱していると、藍田がテレビの電源を切って立ち上がる。
「藍田……?」
「ホテルのレストランで朝食をとるんだろう」
「そう、だったな」
 朝食をとったその足でホテルを出て、空港に向かうことにする。土産なら空港で買ったので十分だ。
 アタッシェケースを手にした大橋は、部屋を出ようとドアノブに手をかけたところで、洗面台に腕時計を置いたままなのを思い出す。顔を洗ってから身につけようと思って、そのまま忘れてしまったのだ。
「藍田、先に出てくれ――」
 体ごと振り返った途端、藍田とぶつかる。驚いたように藍田が目を見開き、後ろにバランスを崩しかけたが、大橋は咄嗟に背に腕を回して支える。
 この瞬間、確かに二人の間の時間は止まっていた。何も言えず、即座に体も離せず、ただ目を見つめ合ったまま動けない。
 藍田の顔を見て、直感できた。藍田は意識して冷静なふりをしているだけで、大橋との間にあったことを処理しきれたわけではないのだと。藍田も戸惑っている最中なのだ。
 ふいに大橋の中に熱いものが込み上げ、胸苦しさに襲われる。なんとか言葉を発することができた。
「悪い、急に振り返って。……洗面台に忘れ物をしたから、先に出ていてくれ」
 体を離した藍田の顔を見ることなく告げると、半ば逃げるように大橋はバスルームへと入る。よく見てみれば、スリッパから靴へと履き替えてもいない。
「大丈夫か、俺……」
 おぼつかない手つきで腕時計をしながら、鏡に映る自分に話しかける。自分では落ち着いたつもりだったが、みっともないボロが出ていた。
 これから藍田と一緒に朝飯をとり、空港に向かって、帰りの飛行機、会社までの道のりまで同じだ。
 その間に自分がどんな醜態を晒すのか考え、大橋は心底、その場に座り込みたくなった。
すべては、自業自得なのだが。




 昨日からずっと、藍田の体は熱に侵されていた。
 ただし病的なものではなく、自分でもどう表現していいのかわからない、曖昧な感覚だ。ただ、とにかく体の芯が熱を持っているようで、その熱が藍田を苛み、集中力を奪う。
「――ですから、その件でいくらわたしに抗議されても無駄ですと、何度も申し上げたはずですが」
 予想外の出張のおかげで、それでなくても藍田の仕事は溜まりに溜まり、昨日の昼前に会社に戻ってから、本来の日常業務の傍ら、目の前に詰まれた書類仕事を必死に片付けているのだ。
 事務的に数字や文字を読み、機械のように正確な判断を下す。藍田の仕事は、いうなればそれだけのことだ。そこに感情が入る余地はないし、思い悩む必要もない。
 なのに、出張先の東京のホテルの出来事が頭から離れず、藍田の仕事の進捗に少なからず影響を与えていた。
 動じている自分に我慢できず、半ばムキになって仕事に取り組んでいると、今度は嫌がらせとしか思えない、東京支社からの電話の嵐だ。
 東京支社での藍田の行動すべてが、とにかく気に食わなかったらしい。機密情報を漏洩させた社員の処分だけでなく、開発部門全体の責任を問うという姿勢、事業室統廃合に関する説明会の内容も。とにかく、藍田が悪いといいたいのだ。
 都合の悪いことをすべて他人のせいにできれば、気は楽だろう。もっとも、一時的な現実逃避でしかないと、藍田の元に電話をかけてきた人間のうち、何人に自覚があるのか。
 そもそも、自覚があれば八つ当たりのような電話などしてこない。藍田は冷ややかにそう考える。
 電話の向こうから、感情的な怒声がまだ上がっている。
「少し声を抑えていただけませんか。聞こえていますから――」
『すみません、お電話を代わりました、兵頭です』
 突然、申し訳なさそうな声で兵頭が電話に出て、藍田は目を丸くする。寸前まで、耳が痛くなるような怒声を聞いていたので、兵頭の丁寧な口調に拍子抜けすらしてしまった。
 兵頭は、部下が失礼なことを言ったと何度も詫び、気にしていませんと儀礼的に藍田は応じる。
 受話器を耳に当てたまま、仕事を再開しようとパソコンのキーに指を置いたとき、気になることを言われた。
『……ところで、オフィス企画部の大橋部長補佐が東京支社のことで、何かしら上に働きかけたという話は本当なんですか? あの人は東京支社とも馴染み深い人なので、本当だとしたら、事業室の統廃合の話で、こちらの事情をわかってくれる方が間に入ってくれるのかと、今ちょっと、噂になっているものですから』
 話の内容そのものより、藍田は大橋の名のほうに過剰に反応してしまう。無意識のうちに向かいのオフィスに視線を向けていたが、ブラインドを下ろしているので外の景色を見ることはできない。藍田自身が下ろしたのだ。
「大橋さん……」
 姿勢を戻して呟くと、小さな声が聞こえたわけではないだろうが、何かに呼ばれたように堤がこちらを見た。藍田はさりげなくパソコンの画面に視線を落とす。
『噂が本当だとしたら、こちらの事情などを説明する窓口は、大橋部長補佐になっていただいたほうが、正直ありがたいと言いますか――』
 こちらが把握していないところで、事態が妙なことになっている。
 藍田は眉をひそめると、冷ややかな口調で告げた。
「噂の内容を教えていただけませんか。少なくともわたしには、該当するような話をまったく聞いた覚えがないので」
 えっ、と声を洩らして、兵頭が黙り込む。自分が余計なことを言ったことに気づいたらしい。
『あっ……、あくまで噂なので、こちらできちんと確認してから、またご連絡します』
 慌てたように電話を切られ、受話器を置いた藍田は結局立ち上がり、ブラインドの隙間から外を覗いていた。大橋のデスクは空席で、そのことに藍田は内心安堵して席に戻る。
 昨日、出張から戻ってきて以来、大橋とはまったく会話を交わしていないし、顔も合わせていない。結局、大橋がなんのために東京支社に出向いたのか、その理由も知らなかった。
 ただし出張の理由について大橋に告げなかったのは、藍田も同じだ。
 仕事上の不可侵がある――と堅苦しく言えばそうなるが、実際のところは、睡魔と疲労に教われていた藍田に、仕事のことを話せるだけの余裕がなかった。それは大橋も同じだったらしく、移動のタクシーの中でも、一緒に食事をとっている間でも、二人は必要最低限の言葉しか交わさなかった。
 そのくせ、ベッドの中では、たくさんのことを話した。
 ふいに大橋の体の感触を思い出し、激しい羞恥に襲われた藍田は反射的に立ち上がる。何事かと一斉に部下たちがこちらを見たが、数秒遅れて昼休みを告げる音楽が流れ、すぐに彼らの意識が藍田から離れる。一人を除いて。
「藍田さん、どうかしましたか?」
 さっそくデスクの前までやってきた堤に声をかけられる。藍田はイスに座わり直して仕事を再開しようとしたが、完全に集中力が切れたことを感じて諦めた。
「藍田さん」
 いつになくきつい口調で呼ばれ、仕方なく藍田は顔を上げる。
「……些細なことで、飛んでこなくていい。最近は体調もいいから、心配しなくても卒倒したりしない」
「出張の疲れが取れたようにも見えませんけど」
 藍田は軽く息を吐くと、電話を指さす。
「東京支社からの電話が鬱陶しいからだ。わたしは向こうの人間の精神安定剤じゃないぞ。好き勝手言って、すっきりする人間はいいだろうが、わたしは溜め込む一方だ」
「向こうで、台風並みの暴風雨を巻き起こしたんじゃないんですか」
 意味深に笑っている堤を一瞥して、藍田は手早くマウスを操作する。処理したトラブルに関しては、もちろん部下にも告げていない。堤のように鋭い社員でない限り、出張の理由など深く考えたりはしないだろう。
「――他に用はないのか、堤」
 一方的に会話を打ち切る藍田に慣れている堤は、気を悪くしたふうもなく、にっこり笑って切り出した。
「昼、食べに行きましょう」
 藍田はデスクに頬杖をつくと、呆れながら呟いた。
「なぜそう、人の食生活に干渉したがる」
「藍田さんがいかにも健康的な人なら、干渉なんてしませんよ」
「……最近は気をつかって、きちんと食べている――とも言えないな」
 空港で大橋と交わした会話を思い出し、つい苦い表情となる。誰かから食事を気遣われるというのも、三十歳を過ぎて情けない話だった。
 藍田は視線を、ブラインドを下ろした窓へと向ける。大橋のことを考えた途端、体に残る感触がまた蘇ってしまった。
 種火が灯るように、胸の奥に小さな疼きが走った。この瞬間藍田は、一昨日から自分を苛み続けている『熱』の正体を理解する。
 奥歯を噛み締めて、全身に広がろうとする疼きを堪えると、努めて冷静な声で堤に言った。
「昼食なら一人で行ってくれ。わたしは先に済ませておくことがある」
 堤は何か言いたげな顔をしたが、素直に受け入れてオフィスを出ていった。
 人気が乏しくなったオフィス内を見回した藍田は、デスクの引き出しを開け、中から鍵を取り出す。昨日、堤から返却されてきた資料倉庫の鍵だ。
 堤が片付けの段取りと、作業担当の社員を何人か決め、必要に応じて藍田が、荷物を運び出す人間に鍵を手渡すことになったのだ。資料倉庫の出入りは必ずチェックされるので、別に堤が鍵を持っていたところで不都合はないのだが、堤は几帳面だった。
 その几帳面さのおかげで上司である藍田は、社内で数少ない、人目を気にしなくて済むスペースの存在に思い当たってしまったのは、なかなか皮肉かもしれない。


 隠れ場所としては、資料倉庫は最適としかいいようがなかった。
 短期間のうちに片付けられはしたが、荷物が多いのは相変わらずの空間は雑多で、だからこそ身を隠せて落ち着く。何より、静かだ。
 名簿に名を記入するときに確認したが、昼休みに資料階に下りている人間は、今のところ藍田一人だった。おかげで資料倉庫に入るまでの間、誰かとすれ違う心配すらしなくてよかった。
 積み重ねられた段ボールの一つに腰掛けた藍田は、天井を見上げて深く息を吐き出すと、自分の体を両腕で抱き締めるようにして身震いする。一人になって気が抜けてしまうと、胸の疼きが一際強くなったようだった。
「あの男のせいだっ――……」
 忌々しく思いながら、藍田は小さく毒づく。
 必要があるのかどうか知らないが、資料倉庫は防音加工もしっかりなされている。小声で呟くどころか、多少大声を張り上げ、壁を蹴りつけたところで外に洩れることはない。
 もちろん、藍田はそんな野蛮なことをするつもりはない。深いため息を洩らすだけに留めたが、そのため息は自分でもうろたえるほど悩ましい響きを帯びていた。
 大橋に抱き締められたときに感じた疼きが、いつまで経っても体から消えない。体の感覚に引きずられるように、意識も大橋の行為のすべてをなぞってしまう。
 時間が経てば経つほど、ホテルの部屋での自分たちは異常だったのだと痛感する。
 何を思って男同士で抱き合ってしまったのかと考えるが、結論は出せない。
 抱き寄せてきた大橋もおかしかったが、その腕の中から抜け出さないだけでなく、自ら大橋の体に腕を回した藍田自身が、何よりおかしかったのだろう。普段であれば――否、どんなに取り乱した状況であっても、あんなことはありえないのだ。
 だが現実は、藍田は大橋を拒めなかったし、受け入れた。
 疲れや、二日続けての徹夜でまともな判断が下せなかったというのは、我ながら卑怯な逃げだと思う。
 大橋に抱き締められて、純粋に心地よかったのだ。
 ――快感に近いほど。
 苦痛に近い羞恥を押し殺しながら、藍田は誤魔化しようのない事実を認める。昨日から体に残る熱の正体は、大橋の抱擁によって植えつけられた興奮の欠片だ。その欠片が疼きを生み出し、藍田を苦しめる。
 大橋の息遣いや、張り詰めた筋肉の重み、熱い肌の感触に汗の匂いが、今でもリアルに思い出せる。それだけでなく、この感触に浸っていたいという自分の衝動すらも。
 大橋と同じベッドで一夜を明かしたあとの自分の行動を思い返し、このまま消え入りたくなる。
 藍田は大橋よりも先に目を覚まし、自分がいまだに熱い体に寄り添っていることを知ってうろたえた。だが、ベッドから抜け出すことも、大橋を叩き起こすこともできなかった。
 では、何をしたかというと――、眠っているふりをしたのだ。
 間もなく大橋の起きた気配を感じたときの、自分の鼓動の速さすら藍田は覚えている。大橋に、起きていると知られることが怖かった。夢から覚めたような声を上げられるのが怖かった。
 だが大橋は、藍田の体を再び抱き締め、寝入ってしまった。本当は藍田と同じく眠ったふりをしていたのかもしれないが、確認できなかった。
 確認することが二人のためになるとは思えない、というのは単なる言い訳だろう。
 藍田はずっと、興奮している大橋の熱い体を感じていた。薄い浴衣を通してなので、体の変化はある程度感じ取ることができたのだ。
 男である藍田の体を抱き締めながら大橋は、肉体的な反応を示していた。そのことに不思議なほど嫌悪感は湧かなかった。むしろ藍田は――。
 急にドアがノックされ、飛び上がりそうなほど驚く。心地よい夢から引きずり出されたような苦痛も感じていた。
 今の時間、ここにやってきそうな人物はそう多くない。
 大橋の顔が脳裏に浮かんだ途端、藍田は激しくうろたえる。一瞬、出ないでおこうかとも思ったが、名簿に藍田の名を記入したため、それはできない。
 仕方なくドアの前まで歩み寄ると、覚悟を決めてドアノブに手をかける。
 目の前に大橋が立っていて、冷静でいられる自信はなかった。まだ、二人きりで会える状態ではない。
 思考がどんどんまとまらなくなってきて、勢いのみでドアを開けていた。
「――……どうして……」
 藍田の前に立っていたのは大橋ではなく、堤だった。









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