[1]
自分はどうして、この男の背に両腕を回しているのだろうかと、真っ白に染まりかけた意識の片隅で藍田は考えていた。でも、そ
れすら限界だ。
思考がもう、まとまらない――。
一度受け入れてしまうと、大橋はどこまでも図々しくて、強欲だった。
まるで、藍田のすべてを味わい尽くそうとするかのように。
「んっ……」
抱き締めてくる大橋の腕の力がますます強くな
り、苦しさに藍田は小さく呻く。戸惑いながら唇を重ね、ぎこちなく舌を絡め合っているうちは、力加減をすぐに忘れる大橋でも、
藍田が苦しげに眉をひそめればすぐに腕の力を緩めてくれた。
なのに今は、藍田を気づかうことなど忘れたように、ひたすら
貪ってくる。
大橋の顔を見まいと、頑なに目を閉じ続けていた藍田だが、意識が曖昧になってくるのに比例するように、
好奇心の芽生えを抑えきれなくなっていた。
ゆっくりと目を開くと、いきなり大橋と目が合う。唇を重ねながら、ずっと藍田
を観察していたのかもしれない。
藍田は激しく狼狽し、いまだかつて経験したことのない羞恥に襲われる。できることなら、
絡みついてくる腕の中からすぐに逃げ出したかったが、悔しいことに、大橋の腕の力強さが少しだけ心地よかった。
ふっと大
橋の眼差しが優しくなる。ドキリとした藍田は、唇が離されても、何も言えなかった。そしてまた、大橋の唇が重なってくる。
さきほどから体の芯が熱く、このまま溶けてしまいそうだ。甘い危機感に急かされるように、大橋と舌を吸い合っていた。
なぜ、大橋とこんなことをしているのか、そんなことを考える余裕すらない。ただ、こうすることが今は自然なのだと、本能的な部
分で感じ取り、突き動かされている。
藍田は無意識に、大橋の背に回した手に力を込める。スーツに包まれたがっしりとして
広い背は、多少爪を立てたところで、痛痒を感じないだろう。しかし数秒の間を置いてから、大橋がハッとしたように唇を離し、慌
てた様子で藍田に問いかけてきた。
「……苦しかったか?」
意味がわかりかねた藍田は、荒い息をつきながら大橋の顔を
見つめる。そんな藍田を、大橋は見つめ返してくる。
いくら優しげな眼差しを向けてこようが、大橋の目の奥に宿った激しさ
は消えていない。何かの拍子に、すぐにまた激しさが、優しさを覆ってしまうだろう。これぐらい、藍田にも予測がつく。
だ
が、そんな大橋を怖いとは思わない。よくわからない男だとは思うが。
この時点で藍田もまた、冷静ではないのだ。多分、ぶ
つかり合う感情の嵐に放り込まれたままだ。
藍田が何も言わないことに不安を覚えたのか、大橋は視線をさまよわせてから、
ぼそぼそと言葉を続ける。
「カーッとして、力加減を忘れたんだ。頭に血が上った……。お前にバカ力と言われたばかりなのに、
力任せに抱き締めて――」
そう言う大橋の両腕は、まだ藍田の体にしっかりと巻きついており、藍田自身、大橋の背に両腕を
回したままだ。
藍田は動揺しながら腕を下したが、まだ体は離れない。大橋が離してくれない。
「……恥知らずな行為の、
言い訳のつもりか」
「言い訳してほしいか?」
いつもの飄々とした姿を取り戻した大橋を睨みつけると、やっと腕の中か
ら解放される。どれだけ大橋に強く抱き締められていたのか物語るように、一人でしっかりと立ったつもりでも、足元がふらついた。
「おいっ……」
顔を強張らせた大橋にすかさず腕を掴まれて引き寄せられ、結局また、大橋の腕の中に戻ってしまう。藍
田は体を強張らせながら、全身で大橋の感触を意識していた。
「大丈夫か?」
「よろめいただけだ。なんともない」
ここまで会話を交わしてから、二人は沈黙する。
藍田は、どうしてこんな事態になったのか考えていた。会議室に乗り込んだ
とき、大橋を救い出すことしか頭になく、ほぼ計画通りに目的は達しただはずだった。およそ自分らしくない蛮勇だったと自覚はあ
るが、今はそれは問題ではない。
大事なのは、大橋の腕の中にこうして閉じ込められるまでの過程で、藍田自身の中にどんな
感情の変化があったかということだ。
気がついたときには、大橋との距離がとても近くなり、腕の中に閉じ込められ、唇が重
ねられていた。きつく抱き締められはしたが、乱暴はされなかった。
つまり、逃げ出さなかったのは藍田自身の意思というこ
とだ。
思考が正常な流れを取り戻したのはよかったのか悪かったのか、藍田は、目を背けられない現実を真正面から受け止め
ることになる。
伏せていた眼差しを上げると、生まじめな顔をした大橋と目が合う。まだ動揺している藍田とは違い、なぜか
大橋は腹が据わったように落ち着いていた。
自分だけが余裕を失っているようで、奇妙な悔しさが藍田の胸をざわつかせる。
「……いい加減、離せ」
「こうしていても、話せるだろう」
藍田は拳で大橋の肩を殴りつける。それでも大橋は動じ
ない。
この場は完全に、大橋に主導権を握られていると認めざるをえない。大橋の中でどんな変化があったのか知らないが、
この会議室で二人きりになったときから、大橋はさらに頑丈に――したたかになったようだ。
睨みつけても無駄だと悟ると、
藍田は軽く息をついて顔を伏せる。必然的に、大橋の肩に額を押し当てるような格好になった。
「何をしてるんだ、わたしたち
は……。大変なことをしでかしたばかりだというのに、なんであんたと、こんなことになっている」
大橋の片手に後頭部を撫
でられ、指先がうなじに触れる。この瞬間、背筋にゾクリとするような疼きが駆け抜け、藍田は息を詰めていた。妙なところで勘が
鋭い大橋も、藍田のささやかな異変には気づかなかったようだ。
「大変なことをしでかしたのは、お前だけだろう」
さき
ほどまでの会議に集まっていた人間を敵に回したことを、藍田一人のせいにしようとしているのかと思ったが、生憎大橋は、そんな
にわかりやすい男ではない。
顔を上げた藍田に対して、大橋はニヤリと笑いかけてきた。
「俺は阿呆みたいに、ぽかんと
してお前を見ていただけだ。さっきも言ったが、お前があんまり男前すぎて――見惚れてた」
「バカかっ……」
藍田の言
葉に気を悪くした様子もなく、大橋は楽しげに笑っていた。そんな男の顔をしみじみと眺めてから、ため息交じりに藍田は呟いた。
「……あんたは、緊迫感が足りない」
口ではそんなことを言いながらも、実は藍田の中からも、急速に緊張感は薄れてい
く。会議室に足を踏み入れたとき、心臓を締め上げられるような苦しさに支配されていたが、それすらいつの間にか消えていた。
代わって、大橋を守れたという安堵感が胸を満たしている。
そんな気持ちを悟られたくなくて、必要以上にきつい言葉
を発してしまう。
「ヘラヘラするな。……あんたはプロジェクトリーダーの一人なんだ。しっかりしてもらわないと、わたしが
困る。迷惑するんだ」
「つまり、今度はわたしを守れ、と言いたいのか?」
「違うっ。どういう耳をしてるんだ、あんたは
……」
ムキになる藍田とは対照的に、やはり大橋は笑っていた。ただ、それもわずかな間で、すぐに大橋は怖いほど真剣な顔
となる。
「俺は、驕っていたのかもな。プロジェクトを合同にする件だって、敵が多いお前のバリアーになってやれるのは、俺
しかいないと思い込んでいた。考えてみれば、俺だって十分、敵が多いのに。しかも俺は、野心満々だと思われていて、上から睨ま
れている最中だ」
「……自覚なく、動き回っていたのか?」
「そんな呆れた顔するなよ。鈍感って詰られたほうが、まだマ
シだ」
冗談めかして言ってはいるが、大橋なりに、会議で露骨な吊るし上げを食らったことに思うことがあるのだろう。
まだ首の後ろにかかったままの手の感触を意識しながら、藍田は逡巡しながらもこう口にしていた。
「敵が多い者同士、個別
行動したところで効率が悪いだけだ。プロジェクトを合同にするのは、こちらの切り札を一枚切ったと思えばいい。……必要な手段
を講じるだけだ」
「誰に言われるより、お前にそう言われると――救われる」
囁くように優しい声だった。大橋といえば
大きな声で話し、笑う、ガサツな男だというイメージが強かったが、実際は違う。わかっているつもりだったが、正直藍田は、大橋
がこんな声も出せるのかと驚いていた。
今になって大橋の体温や体の感触を強く意識し、落ち着かなくなる。この状況でどう
振る舞うことが〈藍田春記〉らしくあるのか、わからなくなっていた。
軽く混乱しているのかもしれない。大橋に聞きたいこ
とはいくらでもあるはずなのに、藍田の頭を支配するのは、どうやって一刻も早くこの場から立ち去るかということだ。
今は
ただ、大橋の視界から消えてしまいたかった。
「――……い、加減、離してくれ……」
藍田が訴えると、ようやく首の後
ろにかかっていた手が退く。さりげなく髪の付け根を撫でられた気がしたが、あえて意識から追い払った。大橋から与えられる感触
に気を留めていると、何も話せなくなる。
「わたしはもう戻るからな。何も言わずに出てきたから、みんなが何事かと思う」
「それなら俺も同じだな」
大橋が一歩踏み出そうとしたので、思わず藍田は制する。
「動くな」
「えっ……」
「……あんたは、五分後にここを出ろ」
言いながら藍田も、自分の発言の理不尽さはわかっていた。二人きりの会議室で
何が起こったかなど、他の社員は知りようもないのだ。つまり、藍田と大橋が連れ立って会議室を出たところで、人目を気にする必
要はない。
しかし藍田にとって肝心なのは、社員たちの視線ではなく、大橋の視線なのだ。
「いいか。まだ動くなよ」
大橋の返事を聞くことなく、一方的に言い置いて藍田は足早に会議室をあとにする。
ただし、まっすぐエレベーターホ
ールには向かわず、階段を使って上のフロアに移動する。大会議室があるフロアなのだが、社内での行事ごとでもない限り閑散とし
ている。
行き来する社員の姿がほとんどないことを確認した藍田は、迷うことなく洗面所に入り、ようやく一人きりになれた。
ほっと息を吐き出して、壁に手をつく。このときになって、足が微かに震えていることに気づいた。気力だけで、平静を保っ
てここまで来たのだ。
誰も来ないうちにと、洗面台の前まで行く。ここで、鏡に映った自分の顔を見たのだが、次の瞬間には
藍田は顔を背けていた。
ひどい顔が鏡に映っていたのだ。情けない顔だとか、泣きそうな顔だとか、それならまだよかったか
もしれない。
藍田は覚悟を決め、もう一度鏡に向き直る。
血色に乏しいはずの藍田の頬は上気して、泣いた後のように
目許も色づいている。だが、唇はそれ以上に鮮やかな赤に染まっていた。
興奮と羞恥の色だと思った。
到底、人前に出
られる顔ではなく、藍田は鏡を避けるように腰を屈め、慌てて顔を洗う。どれだけ効果があるのかわからないが、大橋に激しく貪ら
れた唇は、てのひらに溜めた水に浸すようにして熱を冷ました。
冷たい水を唇に感じながら、ぼんやりしてしまう。脳裏を過
るのは、さきほどまでの大橋との行為だ。
無意識に、重ねられた唇や、口腔内をまさぐってきた熱い舌の感触を一つ一つたど
っていた。
そんな自分に気づいた藍田は、できることなら頭から冷水を浴びたい心境に陥った。
逃げられた、と思った。
閉められたドアを見つめながら、大橋はガシガシと頭を掻く。
足早に会議室を出て行く藍田
の後ろ姿を見て、引き止めたい衝動に駆られはしたのだが、平素の怜悧さを保とうとする藍田の姿勢に身震いするような興奮を覚え、
結局、あっさり逃がしてしまった。
そうしないと大橋は、今度こそ自分で自分が抑えきれないと思ったのだ。さきほどだって、
藍田の苦しげな表情に気づかなければ、とことんまで貪り続けていただろう。 同性である藍田の、唇と舌と唾液を――。
大
橋は自分の度し難さに微苦笑を洩らすと、腕時計に視線を落とす。藍田の律儀さを見習い、言いつけ通りしっかりと、五分間待つた
めだ。
テーブルに腰掛けた大橋は、胸の奥で蠢く疼きを持て余し、熱っぽい吐息を洩らす。無意識のうちに、参った、と呟い
ていた。
本当に参っていた。三十五年生きてきて、まさか自分が同性に――男にキスしたいという欲望を覚え、即座に行動に
移せる人間だとは思ってもいなかった。何より、キスしたいという衝動の根本にあるのは、強い恋慕だ。
藍田に惚れてしまっ
たという事実も驚きだが、その事実を受け入れている自分自身に、大橋は何よりも驚いていた。
抗いがたい甘さを伴った藍田
との行為の余韻から、ふっと我に返る。再び時間を確認すると、すでに五分以上が経過していた。
慌てて会議室を出た大橋は、
この瞬間、奇妙な感慨深さを覚える。
会議室に入ったときと出たときとでは、いくつかの状況が大きく変わったと肌で感じた
からだ。
二つのプロジェクトを合同にすることが決まり、宮園をこちら側に引き入れることになり、マーケティング本部と明
らかな敵対関係を築いた。
この会議室でのやり取りが社内どころか、東京支社にまで広まれば、大橋たちに反発する人間の数
はさらに増えるだろう。味方も増えるかもしれないが、これはあえて考慮に入れない。
大橋は廊下を歩きながら、スラックス
のポケットに両手を突っ込む。物事の変化を指折り数えたところで、指の数が足りない。
何より、藍田に対する強い感情を認
識したという変化は、指を折って数えられる類のものではなかった。
エレベーターホールまできて、ボタンを押した大橋は親
指の腹で強く唇を擦る。この感触だけで、藍田を貪っていた瞬間に引き戻されそうになるが、さすがに会社では迂闊に気を抜くこと
はできなかった。
エレベーターの到着を告げる音が鳴って扉が開く。乗っていた人物が勢いよく飛び出してきて、大橋とぶつ
かった。
「おっと――」
声を上げた大橋は、すぐに表情を引き締めることになる。エレベーターから降りてきたのは、マ
ーケティング本部長の高柳だった。
普段は、ダンディーという言葉を具現化したような、落ち着いて魅力的な表情を浮かべて
いる男だが、このときは顔を強張らせ、明らかに余裕がなかった。
高柳に対する大橋の認識は、なんとなく虫が好かない、と
いう程度のものだったが、会議室で藍田が言った言葉を聞いた時点で、大橋の〈敵〉に決定した。
大橋の存在がやっと目に入
ったのか、高柳は不快そうに眉をひそめた。
「――……藍田は?」
その一言に込められどす黒い感情を感じ取り、大橋も
遠慮なく眉をひそめる。
「とっくに帰りましたよ。あいつは忙しいですから。……もちろん、俺も」
いろいろと言いたい
ことはあるが、今はとにかく、この男の顔を見たくなかった。
大橋としては平和的に立ち去ろうとしたが、エレベーターに乗
り込んだ直後に、まるで呪詛のように高柳の低い呻き声が聞こえた。
「……調子に、乗るな……」
大橋は冷めた視線を高
柳の背に向けながら、わざと乱暴に操作パネルのボタンを押し、扉が閉まるのを防ぐ。
「何かおっしゃいましたか?」
「調
子に乗るなと言ったんだ。たかが、一時的に権力を与えられただけの男と、その男のおこぼれに預かろうとしている貴様みたいな奴
が」
「物騒な言葉ですね。貴様、なんて。素敵な上司として評判の高い高柳本部長らしくないですよ」
この場を丸く収め
ようと、冗談で躱そうとする。別に高柳のためではなく、会議室でさんざん毒に満ちた言葉を聞かされた大橋としては、すでに辟易
していたのだ。
少し前まで、腕の中に閉じ込めた男の感触を貪って夢心地に浸っていたというのに、すでにもう、苦い現実を
味わわされている。このことに大橋は、心のどこかで安堵もしていた。目を覚ますために平手打ちを食らわされたようなものだ。
いつになく飄々としている大橋の言動が気に食わなかったのか、肩越しに高柳に鋭い視線を向けられる。さすがに、会議室に
集まっていた連中とは迫力が違う。
「大橋部長補佐は危険だ、というのが、我々の共通した認識だ」
「具体的にどう危険な
のか、聞きたいですね」
「――藍田を煽っている」
「煽るも何も、藍田は与えられた職務を完璧にこなそうとしているだけ
です。俺の意見で、自分の判断や認識をどうこうするような男じゃありません。悪くいえば融通がきかないが、しかし、他人の意見
に惑わされないという点は、藍田の美点ですよ」
藍田のことになると、どうしても言葉数が多くなってしまう。だが大橋の力
説も耳に届かなかったらしく、高柳は唇を歪めるようにして笑った。
「美点、か。藍田を孤立させる、諸刃の剣だとも言えるが。
実際、あんな性格をしている限り、手足をもぐようにして、身動きを取れなくさせるのは簡単だ」
「だとしても、生憎、俺のほ
うは手足の数が多いんですよ。いざとなれば、あの仏頂面の男を、俺の背中に乗っけてでも足掻いてやります」
ただ、と大橋
は続け、強い敵意を込めた視線を高柳に向けた。
「あまり無体なことをやると、諸刃の剣の片方が、ご自分に向く覚悟はしたほ
うがいいですよ。まあ、若輩者からの余計な忠告ですけどね。――本気にしないでください」
大橋は冷めた口調で告げると、
ボタンから指を離す。ゆっくりと扉が閉まっていく中、はっきりと高柳の声が聞こえた。
「だから、貴様が邪魔なんだ。大橋部
長補佐」
「それはつまり、俺が存在するだけで、あんたにとって嫌がらせになるわけだ」
扉が閉まってから大橋も応じた
が、もちろんこの言葉が高柳の耳に届くことはなかったはずだ。聞こえたところで、不都合もないのだが。
「……俺は本当は、
平和主義者なんだぜ。そんな俺を、あまり怒らせるなよ」
ぼそりと独白してはみたものの、きっと誰も賛同してはくれないだ
ろうなと、大橋は肩をすくめる。
さすがに気疲れして、こんな冗談でも言ってないと、気持ちが切り替えられない。気分転換
で会社から遁走できる身分でもなく、どんな災厄が降りかかろうが、仕事は待ってくれない。淡々とこなすのみだ。
途中、自
販機で缶コーヒーを買って自分のオフィスに戻ると、いつもは活気のあるそこは、まるで不幸でもあったように静まり返っていた。
何事かと、オフィスに足を踏み入れた大橋もさすがに目を丸くする。すると、そんな大橋に気づいた部下の一人が声を上げた。
「補佐っ」
オフィスがざわつき、何人かの部下がパーティションの向こうから顔を覗かせる。一様に皆、ひどく驚いてい
た。
「よ、お……。どうしたお前ら、俺がいつも以上に男前に見えるのか」
我ながらおもしろくない冗談を言いつつ自分
のデスクに向かっていると、旗谷が勢いよくイスから立ち上がった。女にしておくのが惜しいような豪胆な性格をしている旗谷が、
真っ青な顔色をしているのを見て、ようやく大橋は事態を把握する。
なんと言葉をかけようかと逡巡してから、大橋は笑いか
けた。
「――どうやら、心配をかけたようだな」
「わかっているなら、ヘラヘラしないでくださいっ」
口調の激しさ
が、旗谷の感じていた不安をそのまま物語っていた。他の部下たちも、少なからず同じような心境なのかもしれない。
すぐに
我に返ったように旗谷は謝ってきたが、気にするなと、肩を軽く叩いてやる。
「何かあったんですか?」
デスクにつこう
とした大橋に、いくぶん声を潜めて旗谷が尋ねてくる。中腰になった姿勢のまま、旗谷の顔を見つめる。大橋の感情の揺れを見抜こ
うとしているのか、いつになく厳しい表情だった。
「……言っただろう。プロジェクトの件で会議だって」
「誰と会議です
?」
「藍田と――」
「藍田副室長は、会議のことはご存じないようでしたよ」
反射的に大橋は、向かいのオフィスを
見る。しかし藍田の姿はまだデスクにはなかった。
大橋がそうだったように、藍田も気持ちを切り替えるための時間やきっか
けが必要なのだろう。
なんといっても、大橋と藍田は――。
藍田の唇と舌の感触が唐突に蘇り、慌てて大橋はイスに腰
掛ける。缶コーヒーを開けようとしたが、動揺が指先に出てしまい、うまくできない。スッと伸ばされた旗谷の手に缶コーヒーを取
り上げられ、プルトップが開けられる。
目の前に置かれた缶コーヒーと旗谷を交互に見てから、何事もなかったように大橋は
コーヒーを一口飲んだ。
「補佐」
誤魔化されているとでも思ったのか、旗谷の声音が鋭さを増す。大橋は未処理の書類を
手に取りながら、淡々と応じた。
「会議は本当だ。いつもとは違ったメンツでな。……秘匿の会議だから、出席者は聞くなよ。
連中にとっても、あんな会議に顔を出していたなんて、知られたくないだろうしな」
「……いろいろと言いたいことはあります
が、こうして戻ってきたんだから、一応納得しておきます」
旗谷の言い方に、大橋は苦笑する。
「なんだ。俺が半殺しの
目に遭うとでも思ったのか」
「冗談になっていません、それ」
「お前なあ……」
確かに、あの会議室に藍田が現れな
かったら、状況としては似たようなことになった可能性もある。あれだけの人数が揃えば、いかにワイヤーロープ並みに図太い大橋
の神経といえど、磨耗させるぐらいのことはできたのかもしれないのだ。
「悪かった。物騒なことになりそうなときは、今度か
らきちんと手を打っておく」
「その言葉、信じますからね」
旗谷の心配ぶりに罪悪感を覚えながら、大橋は大きく頷いた。
もちろん、そのあとに礼の言葉は忘れなかった。
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