サプライズ

[2]

 管理室のオフィスに入ると、その場にいた社員たちが一斉に、微妙な視線を藍田に向けてきた。その視線の理由を誰よりも、藍 田は知っている。
 さすがに、先週の出来事があまりにインパクトがありすぎて、数日そこらで忘れろというのが無理なのだ ろう。
 応対に出た社員に用件を告げると、話は聞いているということで、すぐに管理室室長の執務室へと通された。
  藍田は執務室のドアをノックしながら、先週、ここを訪れたときに自分はドアをノックしただろうかと、妙なことが気になった。 あのときは頭に血が上っており、オフィスを飛び出して、大橋がいる会議室に飛び込むまでの記憶が曖昧だ。
 ひたすら、大 橋を守ることだけに意識が集中していたのだろう。
 実に自分らしくない行動だと思い、だからこそ、羞恥にも似た感情を 覚える。らしくない行動に走るほど、大橋の存在感は藍田の中で重くなっていると、自らの行動で証明したようなものだった。
 執務室に入ると、宮園は大きなシェルフの前に、資料らしき本を手に立っていた。藍田を見て穏やかな笑みを浮かべたが、宮園 の場合、表情が穏やかだからといって緊張を解く合図にはならない。
「早いですね。もう、おっしゃっていたものを持ってき ていただけたのですか」
「……本来は、先週の不躾な訪問のときに持参しなればいけなかったものですから」
 促される ままソファに腰掛けた藍田は、持ってきた大判の封筒をテーブルの上に置く。宮園も正面に座ると、藍田が置いた封筒を取り上げ た。
「本当に、かまわないんですか?」
 宮園の穏やかな問いかけに、藍田は鋭い刃先を喉に突きつけられたような圧力 を感じる。自分の覚悟が試されていると思いながら、頷いた。
「わたしが宮園さんにお聞きすべきことです。失礼 で性急な申し出にもかかわらず、好意的な返事をくださったんです。もし、なんらかの問題が起こったとか、やはり考え直したと いうことなら――」
「お互い、計算ができる人間だという前提で返事をしたんですよ、わたしは」
 藍田は、相変わらず 穏やかな表情を浮かべている宮園の顔をじっと見つめる。口元には笑みも浮かんでいるが、目だけは、冷徹な光を湛えていた。決 して感情に流されることのない人間の目だと思う。
 そんな人間に協力を仰いだのは、他でもない藍田自身だ。大橋を守るた めに、藍田は一つの大きな選択をしたのだ。
 大橋が会議室で尋常でない事態に見舞われていると知った藍田は、即座にオフ ィスを飛び出しはしたものの、まっすぐ会議室に向かったわけではない。
 頭に血が上っていたとはいえ、思考だけはめまぐ るしい勢いで動き続け、一つの切り札に賭けることにしたのだ。それが、宮園だ。
 確実であるうえに、効果は絶大。その分、 相応のリスクは覚悟しなければいけない。
 宮園とは、そんな存在だ。
「――先週は驚きました。突然現れたあなたに、 わたし〈たち〉の切り札になってほしいと言われたときは」
 封筒から取り出したレポートを一枚ずつ捲る宮園にそんなこと を言われ、藍田の心臓の鼓動が一度だけ跳ねる。頬が熱くなりかけたが、最大限の努力でなんとか防いだ。
「そんなことを、 言いましたか、わたしは……」
「ええ。意外な発言だったので、よく覚えています。どんな心境の変化が、あなたの中で起こ ったのだろうかと思ったんですよ。あのときの発言はまるで――大橋さんと一蓮托生になることを選択したようでした」
 や はり、あのときの自分は動揺していたのだと、藍田は苦々しい気持ちで認める。普段であれば、迂闊な発言を自分がするはずがな かった。しかも、宮園を相手に。
 藍田は緩く首を横に振る。
「仕事のためです。……大橋さんは、わたしの防波堤です。 あの人が目立ってくれていると、少なくともわたしに対しての風当たりは、気休め程度とはいえ弱まります」
「その防波堤の ために、切り札を使ったんですか」
 本末転倒だと、暗に宮園はほのめかしていた。
 口調の穏やかさとは裏腹に、宮園 の指摘は一つ一つが鋭い。動じないよう、藍田は努力して冷静さを装った。
「――防波堤には、あと半年はその役割を果たし てもらわないと困ります。むしろ、これからのほうが、いろいろと防ぐものも多いでしょう」
「あくまで、自分を守るためだ と?」
「その結果として、他に何かを守れたなら、幸運だといえるかもしれません」
「二律背反と紙一重の状態で、藍田 さんが何を守りたいと願うのか、興味ありますね」
 レポートを掲げて見せた宮園が、ニヤッと笑う。宮園の指摘の正しさを、 藍田は認めていた。
 事業部を統廃合という形で切り捨てることが藍田の仕事で、その過程に、何かを守りたいと願うのは、 確かに矛盾を孕む可能性がある。もしくは、自分の誠実さとの問題かもしれない。
 自分が所属している事業部がなくなるか もしれないという不安を、何人もの社員が抱えている中、藍田は大橋を守るために動いた。利己的だと批判されても仕方ないが、 それを許されるだけの力が、今の藍田にはあるのだ。
「……わたしは、途中で仕事を放り出すことも、引き返すこ もできません。任されたプロジェクトを完璧に遂行するだけです。そのために、わたしは自分の立場を堅固なものにしておく必要 があります」
「それでいいと思います。あなたの仕事は、綺麗事だけ言っていても進まない。むしろ、他人に憎まれ、疎まれ ることのほうが多いでしょう。――顧問の話を引き受けた時点で、わたしもあなたの仲間ですよ」
 あとでしっかりと読ませ てもらうと言って、宮園はレポートを大事そうに封筒に仕舞った。ある立場にいる人間にとっては、喉から手が出るほどほしいレ ポートかもしれない。
 事業部統廃合に関するプロジェクトのメンバーに指示して集めさせたデータを元に、藍田が分析を済 ませた結果の一部が、レポートに記されている。これからまだ精査していく必要があるが、少なくとも事業部統廃合についてどん なデータに重点を置き、数値化しているか、このレポートを読めばわかる。
 藍田以外、存在を知らないレポートを、宮園に 渡したことに意味はある。宮園は、藍田の意図を明確に理解していた。
「わたしにリスクを負わせる代償として、あなたもリ スクを背負うということですか」
「ええ。そのレポートが部外者に流れると、非常に困ります」
「背負ったリスクを担保 に、わたしを利用したいというわけですね」
「……わたしには、大橋龍平という男は未知の存在すぎる。でも、宮園さんは― ―」
「冷徹な計算ができるという点で、わたしとあなたは、よく似ているかもしれませんね」
 肯定するのも否定するの も失礼な気がして、藍田は返事を避ける。
 そもそも自分が宮園が言うような人間であったなら、何より先に、大橋と距離を 置いていたはずだ。
 しかし現実は――。
 会議室での大橋との出来事が蘇り、藍田はわずかに身じろぐ。どれだけ冷静 でいようと努めても、無駄な足掻きだと思い知らされる瞬間だった。
「藍田さん?」
 宮園に呼びかけられ、咄嗟に声も 出せずに目を見開く。何かを感じ取ったかもしれない宮園だが、穏やかな表情は崩さない。
「わたしの気は変わっていません。 さきほども言った通り、合同プロジェクトでの顧問の話を、お受けいたします。あなたと大橋さんのプロジェクトで、連名の書面 を用意してください。そこに署名しますから」
「それなら明日中にお持ちします」
 宮園が頷いたのを合図に藍田は立ち 上がる。
 執務室を出ようとした瞬間、宮園から思いがけない攻撃を食らわされた。
「――……あのような藍田さんを、 もう一度見てみたいものですね」
 ドアノブに手をかけたまま藍田は振り返る。
「なんのこと、ですか……?」
「鮮 烈でしたよ。どんなに激しても、深い湖の隅々まで行き渡るような波紋を起こさない人だと思っていただけに、その湖面が波打つ ぐらい感情を乱したあなたは」
 咄嗟に脳裏に浮かんだ光景を、そんなはずもないのだが宮園に読み取られたような危惧 を覚え、藍田は軽く頭を下げて執務室を出る。
 宮園からかけられた最後の言葉に、藍田は動揺していた。
 宮園のよう に表現するなら、冷たく深い湖に投げ込まれた石が、大きな波紋を広げている、というべきかもしれない。投げ込まれた石は、大 橋だ。
 自分は決断は正しかったのだろうかと、歩きながら藍田は考えていた。
 プロジェクトを合同にしたこと以上に、 会議室で大橋の腕の中に閉じ込められ、唇を重ねられたとき、大橋の広い背に両腕を回した自分の決断は。
 いまだに生々し い感触が消えない唇を、顔を伏せながら指できつく擦った。
 ふと、伏せた視線の先に誰かが立っていることに気づき、藍田 はゆっくりと顔を上げる。本人は、影のように存在感を消して壁際に立っているつもりなのだろうが、ときおり行き交う社員たち が不思議そうに見ている。
 なのに――堤は一向に気にしていない。ひたすら藍田を見つめてくる。
「……いい度胸だな。 さぼりか」
 側まで歩み寄って、半分呆れながら堤に声をかける。堤は余裕の笑みを浮かべながら、腕時計を示した。同時に、 終業時間を告げる音楽が流れた。
 もうこんな時間かと、藍田はほっと息を吐く。先週、合同プロジェクトの件で騒動があっ てから、こちらの予定を無視して押し付けられる関係部署との話し合いや、提出する書類の作成などで忙殺されており、正直時間 の感覚が麻痺している。
 終業時間だと知った途端、藍田の肩から力が抜けた。さすがに今日は、熱心に残業ができるほど体 力が残っていなかった。
「わたしに何か用か」
「心配で追いかけてきたんです。会議での騒動の余韻で、まだ社内がざわ ついてますし」
 藍田と大橋が会議で何かやらかしたという不名誉な噂は、あっという間に社内に流れてしまっていた。もし かすると、会議の出席者が腹癒せに悪意を込めて吹聴したのかもしれないが、どうでもいい。
「……管理室に寄っただけだ。心配は杞憂だったな」
「そうでもないですよ」
 藍田はきつい眼差し を堤に向ける。さきほどの宮園とのやり取りもあり、本能的に警戒したのだ。
「何が言いたい」
「管理室から出てきた藍 田さんは、誰かに迷いを読み取ってほしそうな顔をしていました。きっと俺は、藍田さんの迷いに誘われたんでしょうね」
「――……誰にでも、そんな甘い言葉をくれてやっているのか?」
 人目と耳を気にかけながら、藍田はあえて無機質な声で 低く問いかける。なぜか堤は嬉しそうに目を輝かせた。
「藍田さんにも甘く聞こえたということは、自分のキザな台詞に自信 が持てそうですよ」
「持ってどうするんだ」
「もちろん、藍田さんのために囁きます」
 大仰にまじめな顔で言われ、 会話の内容と表情のギャップに呆気に取られた藍田は、数秒後に短く声を洩らして笑った。
「バカだな、お前」
「道化で すよ」
 さりげなく言われた言葉にドキリとした。一瞬胸に広がった動揺は、堤に対する罪悪感の表れだ。
 藍田は、宮 園だけでなく、すでに堤を利用しているのだ。
「……ここは笑ってくださいよ。俺の冗談が滑ったみたいじゃないですか」
 藍田を促して歩きながら、堤が拗ねたような口調で言う。普段が皮肉げで、斜に構えたような言動を取る男だけに、おそろ しく似合っていない。
「今の、冗談だったのか……?」
「これからは、藍田さんを相手に冗談を鍛えますよ」
 迷惑 だ、と藍田は一言で片付けたが、堤は楽しそうだ。
 そんな堤の横顔をちらりと一瞥してから、痛感する。堤の存在は、藍田 にとってひどく苦くあると同時に、甘かった。
 大橋は、藍田の気持ちの揺れなど気にかけず、いつも唐突で強引だ。その強 引さに、藍田は自らを重ねてしまい、抗えない。対照的に堤は、藍田の心の揺れを敏感に読み取り、その揺れに寄り添うように重 なってくる。
 そんな堤だからこそ、藍田は利用しているといえるのかもしれない。
 決して大橋と印象が重ならないか らこそ。
「――堤」
 並んでエレベーターを待ちながら、堤に話しかける。
「はい?」
 思考の冷静な部分が制 止の声を上げるが、その部分だけが自分から切り離されているように感じながら、かまわず藍田は唇を動かした。
「これから 一緒に、夕飯を食べに行くか?」
 堤が返事をするまでに、藍田は自分の鼓動の音を二回聞いた。
「喜んで」
 その 答えに、自分が安堵したのか狼狽したのか、もう藍田にも判断がつかなかった。




 乱暴に受話器を置いた大橋は、思いきりイスの背もたれに体を預けながら、ネクタイをわずかに緩める。
「あー、しつこい っ」
 朝から晩まで、溜めに溜めた鬱憤を、短い言葉に込めて吐き出す。周囲は部下たちだけとはいえ、これでも遠慮した挙 げ句に、上品にしたつもりなのだ。
 会議室での騒動がきっかけで、大橋の移転推進プロジェクトと、藍田の事業部統廃合に 関する管理実行プロジェクトが合同になるという話は、半ば公然のものとなっていた。皮肉なことに。
 この話を潰したかっ た高柳としては、歯噛みしたい状況だろうが、生憎、今の大橋も似たような状況だ。
 休み明けの社内ではヒステリックな反 応が続いており、大橋はその対応に追われている。説明しにこいという高飛車な要求に関しては、後日、正式な書類で告知をする といって、断り続けていた。
「俺ですらこの状態なら、あっちはもっと大変か……」
 デスクに頬杖をついた大橋は、向 かいの新機能事業室のオフィスに視線を向ける。四日前――正確には会議室での出来事があってから、ブラインドは下されたまま で、藍田の姿を見ることはできない。
 あのブラインドは、藍田の心を覆う頼りないベールだと思うと、なんとなく艶かしい 気持ちになってくる。きっと自分は重症だと、大橋は無意識に自嘲の笑みを洩らしていた。
 大橋と藍田の関係は何かしらの 変化があると、反発するように一時的に距離を置く傾向がある。主に藍田が。そうやって、慎重でありながら急速に、二人は互い の距離を縮めてきたのだ。
 気がつけば、大橋は藍田に惚れていた。
 藍田にキスしたときの情景が感触とともに蘇り、 大橋は軽く身震いする。時間が経っても、あのときの興奮は身の内で燻ったままだ。
「――補佐も、たまには早く帰ったらど うです」
 ふらりと大橋のデスクに近づいてきた後藤が声をかけてくる。姿勢を正した大橋は、差し出された書類を受け取り、 ちらりと目を通してからボックスに投げ込む。急いで決裁する必要はないようなので、処理は明日だ。
「どういう意味だ?」
「ちょっと前に、向こうのエレベーターの前を通りかかったときに出くわしたんですけど、藍田副室長、今日はお早い帰りの ようでしたよ」
「へえ、珍しいな。いつも遅くまで残業しているあいつが」
「補佐も人のこと言えないでしょう。先週末 からずっと忙しくしているんですから、一段落ついているうちに帰って、息抜きしたほうがいいんじゃないですか」
 旗谷の 口うるささが移ったんじゃないかと思いながら、大橋は後藤の言葉に曖昧な返事をする。
「……そう、かもなー」
「なん ならつき合いましょうか。藍田副室長と堤くんも、一緒にメシ食いに行く相談をしていたみたいだし、こちらも見習って――」
 大橋は、自分の顔が強張っていくのがわかった。思わず後藤の顔を見据える。
「藍田と堤が、一緒だったのか?」
「ええ。二人とも帰る格好をしていたし、会話がちょっと聞こえたので、ああ、藍田副室長でも、部下とメシ食いに行くことがあ るんだなあ、と思ったんです。別に、直接尋ねて確かめたわけじゃないですよ」
 自分が何か重大な発言でもしたとでも思っ たのか、後藤が焦ったように身を乗り出してきたので、大橋は軽く手を振る。
「わかってるよ」
 答えた大橋の声は、自 分でもわかるほど不機嫌そのものだった。
 後藤から話を聞いた途端、胸に不快な感情が広がり、肩にのしかかる疲労が重さ を増したような気さえする。
 再びデスクに頬杖をつき、向かいのオフィスに視線を向ける。下されたブラインドの向こうに はすでに、覆い隠すべき相手はいないというわけだ。
 それを、焦がれるように眺めていた自分があまりに惨めに思え、猛烈 に大橋は腹が立ってくる。誰にぶつけていいのかわからない感情だ。
「補佐……?」
「なんだ」
 無愛想な声で応じ ると、後藤は小声でごにょごにょと何か言いながら、ススッと後退って行ってしまう。大橋の八つ当たりを、絶妙なタイミングで 回避したともいえる。
 藍田が残業をさっさと切り上げて退社するのは、正直いいことだと思う。そもそもあの男は、限度を 超えて働きすぎなのだ。誰も文句を言うまい。
 問題なのは、なぜ藍田が堤と一緒にいたかということだ。しかも後藤の話で は、食事に出かけたらしい。
 しっかりしているようで、藍田には警戒心というものがないのだろうかと考えた瞬間、自分の 怒りの源にあるものを大橋は理解した。
 嫉妬という感情だ。
 藍田が一緒にいた相手が堤でなければ、大橋はこんな激 しい感情に駆られたりはしない。だが、堤だけはダメなのだ。
 あの男は、藍田に触れている。その一点のみで、大橋は嫉妬 に狂いそうだった。
 藍田にキスして、貪り合ったという事実があるだけに、知らず知らずのうちに胸の奥で育った藍田への 独占欲が、嫉妬に拍車をかける。
 いい歳をして、自分はこんなに余裕のない人間だっただろうかと苦々しく思いながら、大 橋は乱暴にボックスに手を突っ込む。
 なんとか仕事を続けようとしたのだが、運悪く、また大橋宛ての電話がかかってきて 相手をすることになる。
 プロジェクトが合同になるという件で問い質したいことがあると、尊大な口調で切り出され、神経 が焼き切れそうだった。
 大橋はイライラしながらデスクを指先で叩き、一方的に捲くし立てられる話を意識して聞き流す。 会話を遮ぎってこちらが何か言っても、大半の人間はさらに感情的に怒鳴るだけなのだ。忌々しいことに、そんなくだらないこと を学習してしまった。
 加速度的に疲労が増していくのを感じながら大橋は、ブラインドが下りている向かいのオフィスに再 び視線を向ける。あそこには藍田はもうおらず、しかも堤と一緒だと思うと、ただこうしてデスクについている自分に腹が立つ。
「あー、申し訳ありません。これからちょっと席を外さないといけないので、明日にでも、またお電話ください」
 何を すべきか考える前に勝手に口が動き、そんなことを言って電話を切ってしまう。一方的に捲くし立てられたことに対して、ささや かな報復を果たしたようなものだ。
 もう電話を取り次ぐなと部下に命じて、大橋は仕事を再開しようとしたが、我慢できな かった。
 携帯電話を掴んで立ち上がると、部下たちの視線を避けるように足早にオフィスを出る。向かったのは、エレベー ターホールだった。社員の行き来が多いだけに、目と耳を気にしなくて済む。
 大橋は窓に歩み寄り、すっかり暗くなった外 に顔を向けつつ携帯電話を操作する。かける先はもちろん藍田の携帯電話で、このときの自分の顔を他人に見られたくなかった。
 おそらく、みっともないほど狭量な男の顔をしているはずだ。
 呼び出し音を聞きながら大橋は、この状況になって初 めて、藍田になんと言えばいいのだろうかと考えていた。無難なところで、明日行われる、合同プロジェクトの会議の相談といっ たところか。
 今、何をしている、と聞けるなら、どれだけ楽か。だが、そんな気安い用件でかけられる仲ではない。さすが の大橋も、それぐらいはわきまえている。
 藍田にキスしてから、仕事の打ち合わせのため電話でやり取りはしたが、その内 容は実に事務的で、機械的だった。だからといって藍田が何も感じていないというわけではなく、何事もなかったように装いなが ら、大橋の反応をうかがっているのだろう。
 藍田は、そういう人間だ。頑なで慎重で警戒心が強い。
 反面、こちらの 意表をつくような言動を取ることもあり、大橋は勝手に翻弄されている最中だ。
 現にこうして、藍田が部下と一緒に食事に 出かけたかもしれないというだけで、大橋は落ち着きをなくして電話をかけているのだ。
 だが、大橋の心配は皮肉なことに、 杞憂では済まなかった。
『――もしもし』
 電話に出たのは、藍田の落ち着きのあるテノールではなく、わずかな毒を含 んだ張りのある若い男の声だった。堤だ。
 一瞬、針を突き立てられたような痛みが大橋の胸に走る。次に押し寄せてきたの は、激しい動揺だった。
 まさか、堤が藍田の携帯電話に出るとは思わなかったのだ。普通の状態であれば、自分の携帯電話 に他人を――部下を出させるなんてことはありえない。
 即座に言葉が出ない大橋の反応をどう思っているのか、堤が楽しげ な口調で言った。
『どうかなさったんですか、大橋さん』
「いや……、藍田に聞きたいことがあってかけたんだ。オフィ スにはもういないようだし。それで、どうしてお前が藍田の携帯に?」
 わけのわからないことを口走るのではないかと自分 自身を危惧したが、予想外に大橋の声も言葉も冷静だ。堤に動揺を悟られたくないという意地が勝ったのかもしれない。
『藍 田さんは、少し席を外しています』
「それで、勝手に電話に出たのか?」
『電話をかけてきたのが大橋さんじゃなければ、もち ろんこんな失礼なことはしません』
「なら――」
『藍田さん、ひどく疲れているようなので、今日はもう仕事から解放し てあげたいんです。先週から、いろいろと忙しくしていますし』
 暗に大橋のせいだと責められているようだった。被害妄想 なのかもしれないが、相手が堤だというだけで、大橋の気持ちは刺々しくなる。
『どうしても今日でないといけないというな ら、藍田さんが戻ってきたら用件をお伝えしますけど』
「そこまでは……。わかった、明日、直接藍田と話すことにする。俺 から電話があったことだけ伝えておいてくれ」
『わかりました』
 堤を相手に言うべきことはそれだけで、すぐに電話を 切ればよかったのだが、もしかすると藍田が戻ってくるかもしれないと、淡い期待を抱いてしまう。
 なかなか電話を切れな い大橋に対し、すべてを見透かしたように堤が言った。
『そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。俺が一緒にいる限り、藍田 さんにはしっかり食事をしてもらいますから』
 カッとした大橋は、気がついたときには電話を切っていた。
 堤に煽ら れたのはわかっていた。わかっていながら、今現在、藍田と同じ場所にいない大橋にはどうしようもできない。だからこそ口惜し い。
 畳んだ携帯電話をジャケットのポケットに突っ込むと、口元に手をやる。微かに震えを帯びた息を吐き出してから、大 橋は前髪に指を差し込む。
 できることなら、今すぐ藍田の元に行き、堤から引き離したいと本気で考えていた。しかし現実 は、藍田が今どこにいるのかすらわからず、ただ歯噛みしているだけだ。
 八つ当たりだとかっていながら、心の中で藍田を 責めていた。
 藍田は確かに、頑なで慎重で警戒心が強いが、なぜか部下である堤に対してだけは、違う面を見せているよう な気がした。
 そうでなければ同性の部下に対して、体の一部といえど触れることを許すはずがない。少なくとも堤は、藍田 の指先に唇を押し当てた。――大橋より先に。
 今日はもう仕事になりそうにもないが、幸か不幸か、それでもやるべきこと は山積みだ。家に帰って一人でいるより、あれこれ考えなくて済みそうだった。
 なんの救いにもならないが。
 人目が なければ壁を殴りつけたい衝動をぐっと押し殺し、大橋は自分のオフィスへと引き返した。










Copyright(C) 2008 Nagisa Kanoe All rights reserved.
無断転載・盗用・引用・配布を固くお断りします。



[1] << Surprise >> [3]