サプライズ

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 大橋がリーダーを務める『移転推進実行プロジェクト』と、藍田がリーダーを務める『事業部統合に関する管理実行プロジェク ト』が合同となる件と、本社管理室室長の宮園が、合同となったプロジェクトの顧問となる件は、あっさり正式決定となった。つ まり、社長決裁が下りたのだ。
 事業部統廃合と、本社移転という大英断を下した今、プロジェクトが合同になろうが、管理 室室長を担ぎ出そうが、些細なことだという意識が、本社上層部にあるのかもしれない。
 大事なのは、結果だ。どれだけの 嵐を引き起こそうが、結果として、事業部の統廃合のあと、速やかに本社移転が完了すればそれでいい。
 東京支社を屈服さ せるには、それ相応の覚悟をしているということか――。
 会議室のイスに腰掛け、後頭部で両手を組んで天井を見上げなが ら、大橋は事態の展開の速さをしみじみと噛み締める。下手をすると、渦中にいる自分自身が置いていかれそうになる。
 そ してもう一つ、事態の展開に置いていかれそうなものがある。
 昨日、藍田の携帯電話に出た堤との会話が思い出された。あ まりに気になるため、おかげで一睡もできないまま出社したのだ。
 藍田と堤を二人きりにするのは危険だと、嫌というほど 大橋はわかっていた。あの二人は、単なる上司と部下の関係ではない。最初は堤のこけおどしかと思っていたが、そうでないこと は、藍田自身の口から語られた。
 否が応でも認めざるをえないが、堤は藍田にとって〈特別な部下〉なのだ。
〈特別な 存在〉と表現しないのは、大橋なりの独占欲と、男の意地が許さないからだ。
「……悩ましい限りだな……」
 自嘲を込 めて呟いたところで、傍らで気配がする。何げなく視線を向けると、藍田が大橋の隣の席に腰掛けるところだった。
 イスか らひっくり返りそうになりながら、慌てて姿勢を戻す。
「来た、のか……」
 思わず声を洩らすと、いつになく冷めた視 線を藍田から向けられる。
「来なくてどうする。合同プロジェクトの最初の会議だろう」
「いや、そうなんだが――……」
 前を見ると、ぼんやりしている間に、ずいぶん社員たちが集まっていた。
「気合いが入るような挨拶をしてくれ。この プロジェクトに関わる社員の人心掌握は、大橋部長補佐にかかっている」
 非常におもしろみに欠けた口調で藍田が言い、大 橋は苦笑を洩らす。
 プロジェクト別に左右に分かれてデスクにつく、およそ三十数名の社員たちを眺めていた。現在のとこ ろ、大橋と藍田がそれぞれピックアップして掻き集めた、能力的に評価している者ばかりだ。今後も、仕事の量が増えるに伴い、 人員は増やす予定だった。
 自分の肩にのしかかる責任の重さを改めて噛み締めてから、大橋は口元を手で覆って藍田に小声 で話しかけた。
「誰か、何か言ってこないか?」
「具体的には」
「高柳本部長、とか」
 書類をデスクの上に並 べていた藍田が手をとめ、横目でちらりと大橋を見る。ただでさえ冴え冴えとした横顔が、凍りつきそうな冷気をまとった。
「……何か言ってきたのか」
「俺の吊るし上げ会議のあと、ちょっと絡まれたぐらいだ。が、あの人なら、すでにもう精力的 に動き回っている頃だろうと思ったんだ」
「高柳本部長も、暖簾に腕押しという言葉を知らないわけじゃないだろうに……」
 淡々と言われた藍田の言葉の意味を、大橋は数秒ほど首を傾げて考える。そして、藍田なりの皮肉を読み取った。
「つ まり、暖簾っていうのは、俺のことか?」
「あんたの図太い神経に、恫喝や嫌味が通用すると考えていたとしたら、あの人も 大概甘いと思ったんだ」
「鉄壁のバリアーで跳ね返すお前に比べたら、まだまだ――」
 大橋としては他意はなかったの だが、この瞬間、わずかに肩を震わせた藍田が、ちょうど会議室に入ってきた堤に視線を向けた。
 藍田は、自身がタフであ るというバリアーを持っているが、堤というバリアーも持っている。藍田のもう一つのバリアーであると自負している大橋にとっ ては、厄介で忌々しい存在だ。
 堤を見る藍田の様子から、感情を読み取ることはできない。ただ大橋の胸中には、激しい感 情の嵐が吹き荒れる。
 こちらを見ろと、藍田のあごを掴んで実力行使に出たいぐらいだ。
 会議の開始時間五分前には、 出席を予定していた社員全員が会議室に揃う。終業時間後の会議にも関わらず、気が抜けたような顔をした社員は一人もいない。
 今現在、プロジェクトに対する士気が高いことに、大橋は安心する。
 大橋と藍田は会議室の壇上に並んで座り、集ま った社員たちの視線を一心に浴びる。本当は顧問の宮園にも出席願おうかと思ったが、今のうちから宮園の存在を目立たせたくな いという藍田の意見に従った。確かに、すでに気が立っている連中を、さらに刺激する必要もないだろう。
「始めるか?」
 大橋が声をかけると、腕時計に視線を落とした藍田が頷く。
 立ち上がった大橋は、今日のミーティングの意図をまず 説明する。急な決定ではあったが、二つのプロジェクトが合同になった報告と、顧問に管理室室長の宮園が就任したこと。また、 そうなった経緯についてだ。
 念を押したのは、プロジェクトでの仕事の進め方はこれまでと変わらず、合同という括りでは あるがプロジェクトは二つのままで、情報を共有し、書類の共同発行はあっても、それぞれのメンバーを共有することはなく、二 つのプロジェクトの仕事を兼務させるようなことはしないといった、誰もが疑問を持ちそうなことだ。
 合同プロジェクトの ルールは近日中に明文化することになっており、これは、大橋と藍田の仕事だ。そこに宮園の意見を付け加えることになる。
「いろいろ事情があってバタついているが、諸々厄介な折衝については、俺と藍田が受け持つ。君らは、任された自分の仕事に集 中してくれ。それと、外野の意見は無視しろ。誰がなんと言おうが、プロジェクト参加者は、会社での本来の業務に加えて、この 大変な仕事を負ってくれているんだ」
 ここで一度言葉を切り、大橋は会議室内を見回す。後方に座っている堤と目が合った が、意識する前に、他の社員へと視線を移す。
「――むしろ、無責任にあれこれ言う人間より、会社の将来を想っていると胸 を張っていい。……プロジェクト参加を打診されたとき、上司が怖くて断れなかったなんて言うなよ。藍田はともかく、俺はにこ やかに勧誘しただろう?」
 つい、いつもの調子で冗談を飛ばし、会議室内を沸かせる。緊張感が漂っていた場の空気を和ま せることには成功したが、代償も大きく、藍田から思いきり冷たい一瞥を向けられた。
 きっとこの場にいる人間の中で、藍 田を一番恐れているのは自分だろうなと思いながら、続きを藍田に任せる。
 大橋と入れ替わりに立ち上がった藍田は、自己 紹介もそこそこに、いきなり厳しい話を始めた。
「――まずは、本社移転プロジェクトのメンバーに言っておきたい。わたし のプロジェクトのメンバーには何度も言っているが、情報の扱いに関しては細心の注意を払ってもらいたい。誓約書に署名させる なんてことはしないが、もし、事業部統廃合……名目上は事業部〈統合〉だが、プロジェクト内では統廃合として話を進める―― に関して、情報の漏洩が認められたときは、メンバーから外れてもらう。通常業務での査定にも影響すると考えてくれ」
 厳 しい、と一般の社員なら想うかもしれないが、藍田からこの提案をされたとき、大橋には異論はなかった。どんな情報であれ、簡 単に漏洩するような社員は、そもそも会社内で信用されない。
 藍田は合同プロジェクト内で、飴とムチを実行する気だと思 った。飴は大橋で、ムチは藍田だ。人あたりのいい大橋には、徹底して気さくなプロジェクトリーダー役を任せ、藍田は徹底して、 厳しいプロジェクトリーダーを演じる。そうやって、プロジェクト内のバランスを取るのだ。
 もっとも藍田の場合、素では ないかとも言えるが――。
 最初は、藍田が用意してきた書類に目を通していた大橋だが、淡々とした口調で話し続ける藍田 の横顔を一度見てしまうと、目が離せなくなっていた。この角度で藍田を見ると、数日前の興奮が蘇り、眼差しに特別な感情を込 めてしまいそうになる。
 こんなに冷ややかに見える男が、自分のために会議室に乗り込んで、多数の人間を敵に回したのだ。 なんとしても守りたいと思うのは、当然だろう。
 この男にキスしたのだと改めて実感すると、胸にゾクゾクするような興奮 が広がる。
 我に返った大橋は、小さく咳払いをしてから書類に視線を戻す。こんな場で、ツンドラのような男を熱っぽい眼 差しで見つめるのは、さすがにまずい。
「我々は、社員一人一人の、会社での命運を左右する仕事に携わっている。合同プロ ジェクトになったことで、その責任が二倍になったと思ってほしい。責任が伴うからこそ、大きな変革に携われるんだ。わたしと 大橋部長補佐は、君らが思いきり仕事ができるよう、最大限の努力をするし――、守るつもりだ」
 藍田の言葉にドキリとし て、腕組みをして聞いていた大橋は反射的に腕を解き、姿勢を正す。
「この会議室を出たら、君らになんらかの接触を持とう とする社員がいるかもしれないし、圧力をかけようとする者もいるかもしれない。自分の手に余ると感じたなら、遠慮なくわたし たちに相談するように。君らは、任された仕事以外で負担を感じるべきではない。それは、わたしと大橋さんの役目だ。――以上、 わたしが言いたいのはこれぐらいだ」
 口調は素っ気ないが、プロジェクトのメンバーに対する気遣いは、これ以上なく感じ られる。
 藍田らしいと思った大橋は、一番前のデスクについている社員に、用意してある書類を渡して全員に行き渡らせる。
 今後の定例ミーティングや、連絡網、所有する資料などの扱い方など、基本的なことを確認し、二つのプロジェクトの活動 内容を、しっかりと説明することに残りの時間を費やし、ひとまず第一回目の合同プロジェクトのミーティングは終了する。
 合同プロジェクトとは言っても、詳細な活動報告会を持つことはない。大橋が任されているプロジェクトのほうはともかく、藍 田のプロジェクトは機密の塊のようなものだ。迂闊にメンバー以外の人間に漏らしはしないだろう。
 必要なのは、大橋と藍 田が共に行動し、手を組んでいると、表から見えることなのだ。
 ミーティングの終了を告げると、メンバーの社員たちがば らばらと席を立って会議室を出ていく。
 藍田も、デスクの上の資料などをまとめて、さっさと立ち上がる。会議室に残って、 二人で話すつもりだった大橋は、慌てて藍田を呼び止めた。
「藍田っ」
 意図したように冷気をまとった藍田が振り返る。 短期間のうちに何度となく、藍田の心にズカズカと図々しく侵入してきた大橋としては、その反応に察するものがあった。
  大橋に対して無関心なのでも、怒っているわけでもなく、これ以上なく意識して、身構えているのだ。
「……なんだ」
「少し話がしたい」
 藍田は、まだ会議室に残っている社員たちに視線を向けてから、素っ気なく応じた。
「急ぎでない なら、今度にしてくれ。――仕事以外の話なら、特に」
 うっ、と言葉に詰まった大橋の反応から、だいたい話の内容は察し たらしく、藍田は表情を変えないまま背を向け、立ち去ろうとする。藍田の肩に手をかけて振り向かせるのは簡単だし、いままで の大橋ならそうしていただろう。
 だが今は――。藍田にキスしたあとの大橋は、藍田に触れることにためらいを覚える。場 所も人目も関係なく、この男に欲情しそうで怖い。
 一方で、このまま別れてしまうのも怖いのだ。
「――昨夜、電話し た」
 藍田を引き止めたいばかりに、昨夜からずっと心に引っかかっていたことがスルリと口を突いて出る。
 低く囁く ような声だったが、藍田の耳には届いたようだ。立ち止まり、怪訝そうな表情で振り返った。
「誰が、誰に?」
「俺が、 お前の携帯に」
 この瞬間、藍田がまとった冷気が揺らぎ、怖いほどの無表情となった。
 ツンドラのような藍田春記が 無表情になったところで、普通の人間は気にもとめないだろうが、大橋は違う。藍田が動揺を押し殺したのだと見抜いていた。
「……本当に、わたしの携帯か?」
「なんなら、俺の携帯を見るか? 登録してあるお前の携帯番号に間違えがないこと と、発信履歴を確認してみろ」
 強気に大橋が言うと、藍田は再び、社員の姿がほとんどなくなった会議室に視線を向けてか ら、自分の携帯電話を取り出し操作した。
「履歴は残っていないが――」
「電話には堤が出たぞ」
 大橋の一言は、 かなりの衝撃を与えたようだった。藍田は大きく目を見開き、驚きを露わにする。
「堤、が……?」
 どうやらこの様子 だと、堤は自分が電話に出たことを藍田に話さなかったらしい。
 もっとも堤としては、牽制として大橋からの電話に出たの だろうし、後々、そのことを藍田に知られてもかまわないと考えていたはずだ。
 むしろ、知られてほしいと願っていたのか もしれない。現に大橋は、藍田の素の反応を間の当たりにしながら、昨夜、藍田と堤が一緒にいたことについてあれこれ邪推する 立場にいるのだ。
 胸に広がるのは、嫉妬と焦りの感情だった。それを藍田に悟られまいと、大橋は深く息を吐き出し、なん とか平静を装う。
「……履歴、消さていたみたいだな」
「多分、わたしが席を外している隙に、そんなことをしたみたい だな」
 仕方ない奴だ、と言いたげな響きが藍田の言葉にはあった。少なくとも、怒ってはいない。そんな藍田の反応が、大 橋はおもしろくない。
「で、なんだったんだ」
 藍田に問われても、即座に思考が切り替えられなかった。大橋が唇を引 き結んだまま見つめ続けると、苛立ったように藍田の目元が険を帯びる。
「聞いているのか?」
「あっ、ああ……、悪い。 なんだ」
「何か用があって、わたしの携帯にかけてきたんじゃないのか」
「――お前の声が聞きたかったという理由じゃ、 いけないか?」
 薄く開かれた藍田の唇が微かに動く。だが、さすがというべきか、藍田の見せた反応らしい反応はそれだけ で、次の瞬間には鋭い視線を向けられた。
「そんなことが言いたかったのなら、わたしはもう行くからな」
「だったら、 堤と何をしていたのかと聞けば、教えてくれるか」
「……あんたには、関係ない」
 藍田にこう言われるのを恐れていた 大橋は、胸を切りつけられたような痛みを感じて顔をしかめたが、一方の藍田も、苦しげな表情を浮かべてから行ってしまう。
 関係ないと言うのなら、そんな顔をするな――。
 切ないものを感じながら、大橋は心の中で呟く。できることなら追 いかけて、藍田を背から抱き締めてしまいたくなるではないか。
 ほろ苦い気持ちを味わっていた大橋だが、そんなぬるい感 傷も、すぐに激しい感情の嵐の前に吹き飛ばされることになる。
 藍田が会議室を出たとき、開いていたドアの陰にいた堤が 姿を見せたのだ。藍田が出てくるのを待っていたらしいが、大橋が立っている距離から死角に入っており、いままで気づかなかっ た。
 それは藍田も同じらしく、堤の存在に軽く眉をひそめて足を止めかけたあと、何事もなかったように歩いて行ってしま う。堤も、大橋と同じく、ただ藍田の背を見送っていた。
 冷たく端然とした後ろ姿に痺れてから、大橋もデスクの上を片付 けようとする。ふと、感じるものがあって顔を上げると、とっくに立ち去ったと思われた堤が、じっとこちらを見ていた。
  このときの堤には斜に構えたような雰囲気は微塵もなく、ある意味真摯な、明確な敵意のみが大橋に向けられる。
 大橋は表 情を変えることなく、堤の視線を受ける。そうやって静かに、互いに宣戦布告しているのだ。
 もちろん、二人はどちらも視 線を逸らさなかったが、社員の一人が堤に声をかけたことで、緊迫した時間は唐突に終わりを迎える。
 大橋がデスクの上を 片付け終えたとき、すでに堤の姿はなかった。




「――……いい加減にしろ」
 無意識のうちに低く洩らした藍田の言葉に、近くのデスクについている部下の一人、瀬口が驚 いたように顔を上げる。一瞬、誰が言ったのかわからなかったようだが、もしかして、と言いたげに藍田のほうを見た。
 自 分の迂闊さを反省しつつ、なんでもないと藍田は軽く片手を上げたが、それでも瀬口のほうは気になるらしく、結局、デスクの前 にやってきた。
「どうかしましたか?」
 事業部統廃合のプロジェクトのメンバーでもある社員だ。
 最近、自分の 周囲で起こりつつある変化を、藍田は感じ取っていた。なんとなくだが、自分と部下との距離が近くなったようなのだ。それは決 して、馴れ馴れしさを感じさせる不快なものではなく、藍田や仕事に対する誠実さを表しているようで、尊大かもしれないが、清 々しく感じる。
 プロジェクトによって引き起こされる、さざ波ともいえる波紋は、藍田だけでなく、部下たちにも意識の変 化を起こしているのかもしれない。
 例えば、部下にこんな問いかけをされても、いままでの藍田なら、なんでもない、の一 言で追い払っていたが、今は違う。
 軽くため息をついてから、目を通している帳票を手に取って、デスクの上に投げ置く。
「足りないんだ」
 簡潔すぎるにも程がある藍田の説明に、数秒の間を置いてから瀬口は納得したように頷いた。
「各部署から提出される検討データですね」
 検討データとは、新しい事業部の設立や、プロジェクトの起動のために必要と なるデータだ。申請する部署から提出されたデータを元に、藍田は申請が検討に値するものかどうか判断し、会議にかけるのだ。
「検討会議で使う資料の作成が間に合わない」
「なら、ぼくが取り立ててきます」
 大柄な体でにこにこと笑いなが ら、瀬口はなかなか穏やかでないことを口にする。見た目は、女性社員いわく、〈クマのぬいぐるみ〉をイメージさせる愛嬌の ある笑顔が印象的で、性格も温和そのものなのだが、仕事に関しては案外容赦ないところがある。
 藍田もそこを見込んでプ ロジェクトのメンバーに加え、あの生意気な堤ですら、同じ戦略事業部の一つ先輩である瀬口に対して、一定の敬意を払っている ぐらいだ。
 堤ほどでないにしても、平均以上にハンサムな顔立ちをしているのだが、いかにも人の良さそうな表情や雰囲気 のほうが個性として勝っており、顔立ちや仕事の有能さは霞みがちだ。
「……君が、か?」
「ぼくが、です」
 相変 わらずにこにこと笑っている瀬口の顔をじっくり眺めてから、藍田は口元を緩める。
「今回、検討データが未提出の事業部は いくつあるか把握しているか」
「四つだと記憶しています」
「その事実から考えられることは?」
「新機能事業室に 対する、ある種の意思表明ではないかと」
 クマのぬいぐるみのような温和な顔での瀬口の発言を、藍田は肯定する。
  新しい事業部やプロジェクトを始めるには、検討会議に企画をかける必要があり、そこを通過したあとは、さらに詳細な計画書と 予算案などの資料をまとめて、今度は、本部長たちが出席する本部会議にかけなければならない。これらの会議を執り仕切るのは もちろん、新機能事業室であり、藍田だ。
 今は、検討会議にかける資料が、事前申請してきた部署から上がってこないこと を話しているのだ。
 これまで――少なくとも藍田が副室長に就いてから一度も、期日までに必要資料が手元に届かなかった ことはなかっただけに、何かしら意図がなければ、四つの部署が揃って検討データを未提出という事態はありえない。
 今回 は、四つの部署は揃って事業部で、事業部の統廃合を目指している藍田としては、そこからなんらかの意図を感じずにはいられな い。
 これで何も感じないような人間は、愚鈍と罵られても仕方ないだろう。
「……次から次に、賢しいことをよく考え つく」
 会社の決定事項に逆らう術はないが、決定事項を執行する藍田への嫌がらせの手段はいくらでもあると示したいのか もしれない。
 検討会議の準備が不十分なら、責められるのは藍田だ。出席者はみな、藍田が失敗するのを手ぐすね引いて待 ち構えているような人間ばかりだ。検討データを提出しなかった事業部に対しての責めなど、あってないようなものだろう。
 持った権限の代償として、何かあればすべて、藍田の責任になるのだ。
「その四つの事業部の事案に関しては、検討会議 にかけるのは次回に回すということにしてはどうですか?」
「そして次の検討会議で、〈跳ね返り〉の動きに賛同した別の事 業部が、さらに検討データを送ってこない事態になるのか。自分たちの首を絞めるのは勝手だが、新機能事業室が巻き込まれるの は迷惑だ」
 これまでの藍田なら、自分に火の粉が降りかかるまで、小火だろうが大火だろうが放置しておく主義だったが、 プロジェクトの仕事が忙しくなってくると、そう悠長なこともしていられない。
 揉め事の火種は小さいうちに消すという考 え方に方向転換していた。自分一人が迷惑するならいいが、あまりに巻き込むものが多すぎる。
「――さて、どうするか……」
 藍田が見上げると、瀬口は唇だけの笑みを向けてきた。すでに対策を考えついているのだろうと言いたげな表情だ。
「わたしたちは非常に忙しい。つまらない嫌がらせにつき合っていられない程度に」
「そうですね」
「物事は合理的に進 めたい。……なんでもかんでも、わたしたちが尻拭いをしなければならない道理もないだろう」
 すべてを察したような顔で 瀬口は頷き、デスクの上に投げ置いた帳票を一部ずつずらし、記されている事業部の名が見えるようにする。
「デバイス事業 部に、セキュリティ事業部、照明センター事業部、そして、中央エンジニアリング事業部、ですね。担当本部は……、電器事業本 部と情報機器事業本部になります」
「どちらもさらに、マーケティング本部の息がかかっているところだな」
 すべての 企みが高柳の元から発せられていると言う気はない。複雑な組織図だけあって、一つの事業部に複数の本部が関わっている場合も あるし、本部の成り立ちに、別の本部が関わっている場合もある。誰がどう圧力をかけているか、わかりにくい構造となっている のだ。
 ただ、圧力をかけられる権限が広範囲に亘っている人間ほど、今回の事業部統廃合に強硬に反対しているのは確かだ。 その中の一人が、高柳だった。
 先週の会議室での騒動を思い出し、藍田はそっと眉をひそめる。高柳のおかげで、こちらは 切りたくもない手札を切り、一方で、危険な手札を手に入れる事態になったのだ。
 あごに手をやり、少し考えた藍田は、再 び瀬口を見上げる。
「瀬口、今から少し時間が取れるか?」
「いくらでも。戦略事業部は、藍田副室長の手足となるため にある部署ですよ」
 芝居がかった言い回しに、思わず藍田は笑みをこぼす。
 これも、いままでなかった変化だ。かつ ての藍田なら、部下の前で皮肉っぽい笑み以外、笑顔らしいものを浮かべたことがなかった。
 もっとも、藍田の笑みに対し て瀬口は、こちらが釣りを渡さなければならないほどの満面の笑みで応えてくれる。
「なら、わたしと一緒に、検討データの 取り立てに行くぞ」
 一瞬、物言いたげな顔をした瀬口が、ちらりと背後を振り返る。何を言おうとしたのか察した藍田だが、 気づかないふりをして立ち上がった。










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