サプライズ

[5]

「――忙しいのに、大丈夫なんですか」
 オフィスを出ると、隣を歩く瀬口にそう話しかけられた。その瀬口の小脇には、帳票がしっかり抱えられている。藍田が持って いこうとしたのだが、あっさり奪い取ったのだ。
「何がだ」
「副室長自ら、こういう仕事で出向かれて」
「いままで のわたしなら、部下に任せるか、相手を電話で呼びつけるか、か」
「まあ、そうですね。それに、副室長のお供は、堤しかで きないのかと思っていました」
 だから瀬口はさきほど、オフィスで背後を振り返ったのだ。瀬口が振り返った先にあったの は、堤のデスクだ。
「……堤は、わたし相手に遠慮がないからな。ふてぶてしい分、多少手荒く扱っても、壊れる心配がない。 ただそれで、堤自身が勘違いすると困る。いろいろと」
 いろいろと、と小声で反芻した瀬口が、トレードマークである愛嬌 のある笑顔を見せる。大橋もよく笑う男だが、あの男の場合、飄々としているからこそ、食えなさ加減を感じさせる笑顔なのに対 し、瀬口の場合、おっとりとした性格だけを際立たせる。
「だったらぼくも、副室長に頑丈さを保証されたということですか。 そりゃ嬉しい」
 本気で言っているのか怪しいものだが、藍田の隣にいてこれだけ話せるのなら、おっとりとした性格は、図 太い神経に裏打ちされているのかもしれない。
 エレベーターを待ちながら、瀬口との会話にわずかに気が緩んだ藍田は、思 わず本音を洩らしていた。
「――……オフィスを出てきたのは、気分転換も兼ねているんだ。プロジェクトを任されるまでは、 閉じこもっているほうが心地よかったんだが、最近はそうでもなくなった」
「デスクに座っている限り、絶えず仕事に追われ ますからね」
 そうではないのだと、藍田は心の中で応じる。
 オフィスにいて自分のデスクについている限り、藍田は 絶えず、同じオフィスにいる堤と、向かいのオフィスにいる大橋の存在を意識しないといけない。我ながら自意識過剰だと思うが、 それでも藍田は、二人が自分を意識していると肌で感じるのだ。だから藍田も、必然的に意識せざるをえない。
 それは、仕 事で感じるどのプレッシャーよりも強烈で、ときには甘美さすら覚える。
 だからオフィスから逃れてきた。二人の視線から ――。
「しかし、素直に検討データを出してくれますかね、各事業部とも」
「対策は考えた」
 本当ですか、と言い たげな視線を瀬口が向けてくる。藍田はその視線には、自らの行動で応えた。
 検討データを取り立てに各事業部に足を運び、 判で押したような、『現在作成中』という返答を聞かされたあと、検討データを未提出の事業部の、担当本部へと向かう。
  そこで藍田は、次回の検討会議は延期する旨を告げた。
 電器事業本部の事業部管理課の課長は軽く目を見開いたあと、わず かに意地の悪い表情となる。藍田には他人の心を見通す能力などないが、今回の事業部の動きに、各担当本部もやはり関わってい ることを確信していた。
「会議を控えて、検討データが未提出という事態は、初めて聞きましたよ」
 課長の言葉に、素 っ気なく藍田も頷く。
「わたしもです」
「何かトラブルでもあったんでしょうか」
「わたしが聞きたいぐらいですね」
 オフィスの一角に置かれた応接セットのソファに腰掛けた藍田は、お茶を断り、さっそく本題に入った。
「――各事業 部のトラブルは、担当本部内で処理していただきたい。そうでなければ、他の本部や事業部の迷惑になります」
「それは、も ちろんです。こちらから注意して――」
「注意も大事ですが、のちほどお届けする、新機能事業室で書面にした内容を、各事 業部に通達という形で伝えてください」
 淡々と告げた藍田の言葉を理解するのに、相対した課長は十秒ほどかかったようだ。 薄笑いを浮かべていた顔が、怪訝そうなものへと変化していった。
「どういうことでしょうか?」
「検討会議のあり方を 変えることにしました。事業部の管理はあくまで、担当本部が行うもので、事業部の過失を、新機能事業室や他の本部が負うもの ではありません」
 あなた方の管理が悪いと言い放ったも同然だった。そして、新機能事業室は一切の負担を負う気がないと、 こちらはしっかりと釘を刺す。
「今後、検討データの提出が遅れた事業部に関しては、それ相応のペナルティーを受けてもら います。具体的には、検討会議への出席を禁じます。つまり、その事業部が提案する企画が検討されることはない――」
「し かし、そんなこと、我々の本部長が納得するわけがありません」
「ですから、事業部を管理する本部として、責任を果たして もらいましょう」
 藍田は冷ややかに切り出す。
「検討会議にかけられなかった事案について、担当本部内で取りまとめ てください。そのうえで、検討データを含めた必要書類をこちらに提出してください。そこまでしてもらえるなら――本部会議に かけるかどうか、こちらで判断します」
 ただし判断基準はあくまで、新機能事業室の一存のみ、と付け加えると、課長が眉 をひそめる。
「それだと、新機能事業室内ですべてが処理され、本部の意向が反映されないと思うのですが……」
「もと もと検討会議は、あくまで報告を目的とした場であって、本部や事業部の意見を汲み上げるための場ではありません。そう、わた しは記憶しています」
 重苦しい沈黙が二人の間を流れる。一方、藍田の隣に座っている瀬口は、無表情の藍田とは対照的に、 にこやかな表情を浮かべている。この状況だと、藍田の無表情より、得体の知れない迫力を感じるかもしれない。
 課長はち らりと瀬口を一瞥して、視線を伏せつつ早口で言った。
「……とにかく、藍田副室長がおっしゃるような提案は、お受けでき るかどうか、わたしでは判断が……」
「提案ではなく、新たな方針です。どうやら、こちらの事業部のいくつかは、検討会議 に対してやる気が見えないようですし、むしろ喜んでいるのではないでしょうか。何より、こちらとしても今後、検討データの提 出を求めて奔走する〈雑務〉を請け負うつもりはありませんし」
 これだけを告げると、藍田は瀬口とともにオフィスを出て、 もう一つの本部にも立ち寄り、同様のことを告げた。
「――今言うのもなんですが、大丈夫なんですか。あんな大事なことを あっさり決めてしまって」
 自分たちのオフィスに戻る前に、瀬口に誘われるまま休憩スペースに立ち寄り、藍田はコーヒー を啜っていた。そんな状況での瀬口の言葉だ。
 藍田は軽く唇の端を動かし、皮肉を込めた笑みを浮かべる。
「賢しい嫌 がらせをさせないために手を打ったんだ。それに、検討データを提出できなかったのが純粋な過失だとしても、新機能事業室が検 討会議に割く労力を削減するための、いいきっかけを作ってくれた。まあ、いまごろ、あの課長からの連絡が入って、本部長同士 でわたしを罵っているかもしれないがな」
「そういうのは……嫌ですね」
「わたしの耳には届かないんだから、平気だ。 届いたときは、それなりに対応するが」
 瀬口は声を上げて笑ったあと、藍田を見て慌てて表情を引き締めた。その瀬口も、 平然とした顔で藍田について回っていたのだから、やはり図太い神経をしている。
「検討会議は、新機能事業室にすべての裁 量が任されているんだ。会議の内容に関しても。それどころか、決議のための多数決を必要としないぐらい、我々の発言権は強い。 さっきも言ったが、本来は報告会とされるべき場だ」
「……そうは、見えませんよね。あくまで、室長や本部長たちの発言力 が誇示される場というか」
「そうやって運営されてきたからだ。実際のところ検討会議は、出席者の面子を保つために必要と いう程度のものだ。――いままでは、な」
 藍田がコーヒーを飲み干すと、すかさず瀬口が片手を出してくる。反射的に紙コ ップを渡すと、瀬口は素早く立ち上がってゴミ箱に捨てに行った。
 わたしの周囲にいる男はマメな奴が多いなと、妙なとこ ろで藍田は感心する。藍田は神経質な性質ではあるが、決して気が利くほうではないと自覚がある。だから、細々とよく動く同性 に対しては、持って生まれた感覚が違うのだと思うことにしている。
 堤もそうだが、外見に反して大橋も、よく気遣いがで きる男だ。
 ふいに藍田は、昨日の合同プロジェクトの会議後の出来事を思い出す。堤が、勝手に藍田の携帯電話に出て、履 歴まで消していたのには驚いたが、それ以上に藍田を動揺させたのは、大橋の反応だ。
 堤と一緒にいたことに関して、気ま ずさもあってつい、関係ないと大橋に向けて言い放ってしまったのだが、そのとき、大橋が一瞬見せた表情が脳裏から離れなかっ た。
 ハッと胸をつかれるような、傷ついた表情だった――。
 あの表情を目にして、自分と大橋の関係は特別なものに なったのだと痛感させられた。その証拠に藍田は、大橋の表情を目にして冷静ではいられなかった。だから、会議室から逃げ出し たのだ。
「副室長?」
 瀬口に呼びかけられ、我に返った藍田は背筋を伸ばす。すかさず瀬口に鋭い眼差しを向けた。
「瀬口、今日はこれから忙しいぞ。検討会議を実務的なものにするために、いろいろと動いてもらわないといけない。どうせ 嫌われるなら、とことん嫌われることをやっておくのも悪くないだろう」
「コーヒーを奢ってもらったので、なんでもします よ」
 にこにこと笑いながらの瀬口の言葉に、藍田もちらりと笑って頷いた。




 取引先である電子機器メーカーが、大型ショールームをオープンし、大橋はそのレセプションに出席していた。
 忙しいこ の時期、席を空けるのは極力避けたいところだが、顔を出してほしいと、担当者から土下座する勢いで頼まれたのだ。
 オフ ィス企画部は、システム運用だけでなく、オフィス構成そのものも手がけるため、必然的に電子機器メーカーとのつき合いも深く なる。これまで、こちらの無理を何度も聞いてもらっているため、頼みごとをされると嫌とは言えなかった。
 どうせ出席し たのだからと、大橋はセレモニーの後、展示されている最新の電子機器の実物を見て歩く。その傍らにはしっかりと、数人のメー カー社員が張り付いていた。
 東和電器の本社移転は、彼らにとっては大きなビジネスチャンスだ。ここぞとばかりに商品を 売り込まれる。基本的にオフィス企画部が入札を取り仕切り、購入備品のすべてのメーカーを指定するため、必死だ。
「ここ であまりいい返事をすると、他のメーカーの担当者に怒られるんだよなー。商談会や入札会もまだだから、特定のメーカーにいい 顔しないでくれ、と他の部署の連中にも言われるし」
「それでも、うちのレセプションに出席してくれたということは――」
 気心が知れているメーカー担当者が、冗談交じりで意味深な視線を送ってくる。大橋は苦笑しながらヒラヒラと手を振った。
「出席してくれないと自分の首が飛ぶ、と脅してきたくせに、妙な期待はしないでくれよ」
「そんなこと言いましたか、 わたし?」
「……メーカーの人間は食えないな」
 自分のことは棚に上げ、聞こえよがしにぼやいた大橋は、担当者と笑 い合う。
 すると、ジャケットのポケットの中で携帯電話が震え始めた。大橋は携帯電話を取り出すと、表示された名を見て 軽く首を傾げる。
「すまない。会社からだ」
 担当者にそう告げて背を向けると、電話に出た。
「どうかしたのか。 電材営業本部の課長さんが、午前中から電話くれるなんて」
 つい気安さもあり、ニヤニヤと笑いながら大橋が言うと、電話 の向こうでは織田が、いつものノリではなく、やけに真剣な口調で切り出した。
『今、大丈夫か? お前に報告しておいたほ うがいい話があってな』
 正確には、電材営業本部第三課課長という肩書きを持つ織田は、大橋に似て非常にノリがよく、二 人の間で交わされる会話は、大半が冗談交じりだ。しかし今は様子が違った。この男がこんな声で話すということは、深刻な何か があったということだ。
 織田には、大橋の元にはなかなか入りにくい営業部門に関する情報収集を頼んでいるため、そちら の方面かもしれない。
 少し待つよう織田に言って、吹き抜けとなっているショールームの階段まで移動する。人の行き来が 多いうえ、大橋のように携帯電話で話しているビジネスマンの姿もちらほらある。多少込み入った話をしたところで、目立ちよう がなかった。
「悪い、場所を移動したから、話していいぞ」
『お前今、会社じゃないのか? なんかざわついてるし、音 楽が聞こえてくる』
 音楽とは、ショールーム内で流れているBGMのことだ。
「今、出先だ」
『それは、こっちこ そ悪かったな。なんならかけ直しても――』
「この時間にわざわざ連絡くれるぐらいだ。かまわんから、言ってくれ」
  さっそく織田は本題に入ったが、それは、衝撃的な報告だった。
『――電材営業本部第一課の主任が、自殺を図った。病院に 担ぎ込まれて、命に別状はないらしい。薬を飲んだそうだ』
 思いがけない話題に、さすがの大橋も咄嗟に言葉が出なかった。 口元に手をやり、どういう事態が起こっているのかと、めまぐるしく頭を働かせる。ただ、織田が言う、肝心の〈主任〉の顔が思 い浮かばない。
「その主任っていうのは――」
『白石っていう、三十二歳の女性社員だ』
「……仕事ができるんだな。 うちの旗谷とそう変わらない……」
『お前のところほど、気は強くない。が、しっかりした女性だ。ただ、ここ二、三日ほど 落ち込んでいる様子だから、気にはかけていたんだがな。課が違うから、細かく詮索するわけにもいかないし、と思っていた矢先 だ』
 本題はここからだと、織田が声を潜める。
『俺がわざわざお前に連絡したのは、嫌なことを聞かされたからだ』
「未遂とはいえ、自殺したこと以上に嫌なことなんてあるのか」
『彼女、遺書を残していたらしいんだ。どうやら、事業 部の統廃合のことで思い悩んでいた、とか……』
「課の主任が、なんで事業部の統廃合を思い悩む」
 誰も彼も、藍田を 悪者にしたいのかと、瞬間的に腹が立つ。そんな自分の姿に気づき、大橋は強く自分の唇を擦ってから、努めて冷静であろうとす る。
『第一課のほうで、事業部の設立申請の準備が進められていたんだが、それが直前になって、本部のほうからストップが かかったらしい。どういう意図からかは、わからんがな。で、新しく設立する予定だった事業部というのが、白石の企画も含んだ プロジェクトを起動させるためのものだった――というのが、俺が伝え聞いた話だ』
「他人の主観が混じると、事実は覆い隠 される。客観的に、確かなことだけ述べろ」
 意識しないまま、つい口調が刺々しくなる。別に織田に八つ当たりしたいわけ ではないのだ。
『確かなことは、白石が自殺を図って、命は助かった。それ以前に、第一課で、事業部の設立申請にストップ がかかっていた。白石も、どの程度かまではわからないが、その事業部設立に多少の関わりがあった。そして遺書が残されていた が、何が書かれているかまでは会社に伝わってきていない。自殺を図ったのは、昨夜だそうだからな』
「……親御さんも神経 すり減らしているところだ。その状況で、遺書に何が書いてあったかなんて、聞くわけにはいかんな」
『第一課は大騒ぎだ。 そのせいでうちまで、浮き足立っている』
 この状況はマズイ、と織田が洩らし、大橋も頷く。織田がなんのために連絡をく れたのか、ここまでの説明を聞いて理解した。
「自殺の理由がはっきりしていないというのは、彼女には酷なようだが、よく ないな。はっきりしないということは、いくらでも邪推できる。噂好きの連中がちょっと憶測を吹き込めば、いくらでも悪意を孕 む」
 例えば、女性社員が自殺を図るほど思い詰めたのは、事業部統廃合のせいだ、と誰かが騒げば、責められるのは藍田だ。 社内での藍田の立場は、ますます厳しいものになる。
「……藍田の胃が、また音を上げそうな事態だな……」
『奴の心配 をしている場合じゃないだろう。お前だって、合同プロジェクトになって、無関係じゃないんだ』
「俺は、無責任な噂を立て る奴を一人ずつ締め上げるだけの行動力はあるが、藍田の場合、一人で全部、内に抱え込むから性質が悪い」
『無責任な噂じ ゃなく、事実だとしたら?』
 織田の鋭い指摘に、大橋はもう一度強く唇を擦る。
「だとしたら、受け止めるしかない。 もとより、社員からの反発覚悟の仕事だ。こちらも相応のもの背負って仕事してるんだ。甘い感傷や綺麗事を抜かしてる余裕はな い。引くわけにはいかんな」
『お前のそういうところが、上の連中は鼻について仕方ないんだろうな。少しは凹めば可愛げが あるものを、無駄に打たれ強いというか。まあ、そんな図太い神経でもしてないと、今の会社を改革なんてできんか』
「さら りと、社内改革の役目を俺に押し付けようとするな」
『――お前と藍田に全部押し付けようとは思ってない。お前に協力する ってことは、俺たちも綺麗事だけ言う立場でいる気はないってことだ。そのつもりで、あのとき集まったんだろう』
 そうい えば、と大橋は思い出す。ここのところ忙しくて出かけていないが、最後に織田と飲んだとき、今回のプロジェクトを任された直 後だった。社内クーデターという物騒な話題を酒の肴にしつつ盛り上がったのだ。
 あのときはまだ、苦難の一端すら味わっ てはいなかった――。
 さほど時間は経っていないというのに、ずいぶんと自分は遠い場所に来たような気がして、大橋は微 かなほろ苦さを感じる。
 だが次の瞬間には、それを上回る甘い感覚が胸に広がった。
 織田たちと飲んだとき、藍田も 一緒にいたのだ。
 自分以上の厄介な仕事を押し付けられた男という以外、藍田に対する認識は必要でなかったはずが、あっ という間だ。あっという間に大橋の中で藍田は、特別な存在になってしまった。
 同性だという最大の障害すらものともせず、 惚れてしまったぐらいに。
『おい、大橋、どうした。急に黙り込んで』
「俺はこの先、この手の衝撃的な報告を、何度聞 くことになるのかと思ってな。……堪えてないとは言わんが、戦略的にどういう影響があるか、咄嗟に考えているんだよ、今の俺 の頭は」
『そういうのは、無神経とか冷血漢とは言わねーから、安心しろ。お前みたいな奴は必要なんだよ。力技でもなんで も、人をぐいいぐいと引っ張って、ときには振り回すような奴が』
 大橋はそうかもしれないが、肝心の藍田がそうとも限ら ない。ツンドラのように冷たく、ロボットのように精密なように見えて、ストレスで胃を悪くするような繊細な男だ。
 大橋 は、自殺未遂を図った女性社員より、このことを知った藍田の反応のほうを心配していた。
 案外、ツンドラという名を冠す るのに相応しいのは、大橋のほうかもしれない。
「自殺未遂の件に託けて、妙な動きが起こらないか探ってくれ。動きがある 場合は――俺が当事者をなんとかする。それと、自殺を図った原因についても調べてくれ。伝聞はあてにならん」
『任せてく れ』
 織田の、抑え気味ではあるが力強い言葉を受けて電話を切る。
 携帯電話を畳んだ大橋は、数十秒ほど動きを止め て、じっと考え込む。ようやく自分がこれから取るべき行動が決まると、素早く踵を返した。
 ショールームに引き返すと、 律儀に同じ場所で立ち尽くしている担当者に、急用ができたので戻ることを告げる。
 会社へと車を走らせながら大橋は、嫌 な胸騒ぎを感じていた。
 おそらく女性社員の自殺未遂の話は、あっという間に社内中に広まるだろう。いや、大橋がこうし て社外に出ている間に、すでに広まったのかもしれない。とにかく、藍田の耳に入るのは時間の問題だ。
 大橋が、レセプシ ョンをわざわざ抜け出して会社に戻っている理由はただ一つ、藍田の様子が気にかかるからだ。
「あれっ、補佐、帰りが早い ですね。予定じゃ昼頃になると――」
 会社に戻った大橋が、足早に自分のデスクに向かっていると、顔を上げた後藤が声を かけてくる。
「あー、気になることがあってな。オフィスを空けてる場合じゃなくなった」
 意味深な大橋の言葉に、部 下の何人かが心配そうな視線を向けてくる。オフィス内の空気からして、まだ〈あの〉話は伝わってきていないようだ。
 イ スに身を投げ出すようにして腰掛けた大橋は、何よりも先に、視線を向かいのオフィスへと向けた。幸運にも、藍田が見える窓の ブラインドは上がっていた。
 藍田はいつもと変わらず、背筋を伸ばし、冷たい横顔を見せて仕事をしていた。その姿を見て 大橋は、ゆっくりと目を細める。
 藍田の様子からは、自殺未遂の件を知っているのかどうか、察することはできない。
 一応、電話するべきだろうかと考えはするのだが、内心はどうあれ、わたしには関係ない、と言われるのは目に見えている。藍 田はそういう男だ。
 悩ましいところだと、軽く息をついた大橋はデスクに頬杖をつき、本格的に藍田を観察する。
 人 形のように端然とした男の姿を眺めながら、自分の思考を冷ます必要があった。
 今回のことで藍田が責められるようなこと になれば、大橋は本気で、悪意ある煽動をした人間をどうにかする――潰すぐらいの覚悟はあった。仮に、藍田のプロジェクトが 原因だとしても、それは同じだ。
 善悪の問題ではない。やらなければならないことのために、藍田の存在は必要なのだ。も ちろん、個人的な理由からも、藍田が傷つくのは見たくなかった。
 思考が次第に熱を帯び始め、大橋はデスクを指先で叩く。
 すると、仕事中だというのに、あまりに熱心に見つめすぎたらしい。前触れもなく藍田がこちらを見て、睨みつけてきた。
 その眼差しの強さが心地いいと思い、大橋は自分の度し難さに、つい低く声を洩らして笑ってしまう。おかげで、近くにい た部下から、ぎょっとしたような視線を向けられた。
 一方の藍田は勢いよく立ち上がったかと思うと、あっさりブラインド を下ろしてしまう。
「シャイだねー、あいつは」
 藍田が聞いたら殴りかかってそうな言葉を呟いて、大橋はイスに座り 直す。
 藍田の眼差しに気合いを入れてもらい、ひとまず、すでに山積みとなっているデスクワークを片付ける気になった。










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