サプライズ

[6]

 胃を絞り上げられたような痛みを感じ、藍田はわずかに歩調を緩めて口元に手をやる。今朝起きたときから薄々感じていたが、 どうやら、最近は治まっていたはずの胃痛がぶり返したようだ。
 肌寒さを感じる季節となり、例年であれば体調的には負担 がかからなくなるはずなのだが、今年はその実感が乏しい。
 常に感じる心理的負担や圧力は、一番弱いところを攻めてくる らしい。藍田の場合、それが胃だった。
 そして、週末に聞かされた衝撃的な話は、柔な胃に確実な一撃を加えてきた。
 ほとんど眠れなかったせいで、頭が重い。その状態で、自分の直属の上司と会わなければならないのは、非常に憂鬱だった。 仕事中は常に冷静であろうとする藍田にも、子供じみた感情が湧き起こることがあるのだ。
 できるなら今は、高井とは顔を 合わせたくない。声も聞きたくない。
 そう思いながらも、藍田の足はロボット並みの自制心を持って動き続け、新機能事業 室室長の執務室の前まで行く。
 さきほどまで部下たちと打ち合わせ中だった藍田だったが、高井に突然、話したいことがあ ると言って呼ばれたのだ。
 心当たりがないとは言わない――というのは、過小すぎる表現だろう。
 先週、大橋が吊る し上げられている会議室に乗り込み、二つのプロジェクトを合同にすると、その場にいた人間たちに向かって言い放ったが、そこ には高井の姿もあった。怒りからか屈辱からか、顔を真っ赤にして会議室を出ていく姿を見かけたが、あれ から今日まで、高井からはプロジェクトの件で何も言われていない。
 そもそも言われる義理も立場もないのだが、それでも、 高井のリアクションのなさは、藍田には少々不気味だった。
 だからこそ今日呼び出されたことに警戒する反面、奇妙な安堵 感も抱いてしまう。水面下であれこれ動かれるより、率直に悪意でも憎悪でもぶつけられたほうが、マシだ。
 胃に刺激を与 えないよう、静かに息を吐き出してからドアをノックする。中から応じる声があり、執務室に足を踏み入れた。
「――何がご 用でしょうか」
 藍田が声をかけると、デスクについた高井から不機嫌そうな視線を向けられる。先日の会議のこともあり、 多少は決まりの悪さも見せるかと思ったが、そういった素振りは一切ない。高井のこの神経の図太さが、正直藍田は羨ましかった。
「……これを」
 短く言った高井が、手にした薄い冊子を突き出してくる。受け取った冊子は研修の参加案内で、表紙を 目にして、藍田は一切の表情を消した。意識しないと、おそらく不快な感情がそのまま表に出ていただろう。
「リーダー研修 の案内ですね」
「わたしの代理で、君に参加してもらいたい」
 またですか、という言葉を呑み込む代わりに、率直に意 見を述べた。
「できればわたしも、今回は参加を見合わせたいのです」
「それは困る。室長クラスのリーダー研修に参加 できるのは、室長か、代理を務める副室長となっている。いまさら説明するまでもなく、わかっているとは思うが――」
 藍 田は、冊子の表紙と、自分の上司の顔を交互に見る。胸の奥では、怒りと苛立ちという、不快な感情が瞬く間に広がっていた。
 高井は、現在藍田が抱えている事情のすべてを把握したうえで、こんなことを言い出したのかもしれないと疑念を抱く。
「……申し訳ありませんが、わたしの仕事が手一杯で、研修のために時間を取るのは難しい状況です」
「生憎だが、わた しもだ。だから、こうして君に頼んでいる。そもそも、君が抱えている仕事のいくつかは、わたしの代理としてのものだ。わたし も忙しいが……、君が研修に参加できるよう、こちらも努力しよう」
 恩着せがましく言っているが、実のところ高井の台詞 はおかしい。研修に参加できるようサポートしなければならないのは、本来は藍田なのだ。普段から、藍田が室長の業務の大半を 代行しているため、こんなときに妙な捻れが生じる。
 ただ、高井が言うのではあれば、反論のしようがない。実務レベルで は藍田は高井以上の力を持っているが、肩書き上、高井は上司だ。新機能事業室副室長としての仕事だと言われれば、藍田は従う しかない。
 それに先日の会議で、派手にやり過ぎたという自覚もあり、避けられるトラブルは避けておくべきだという計算 も働いた。
「――……研修は、二泊三日でしたね」
「そうだ。行ってくれるか?」
「参加者の変更をお願いします。 航空チケットの手配は、こちらで済ませておきますから」
 藍田は淡々とした口調で応じ、高井は満足そうに頷いた。何を企 んでいるのだろうかと思いつつ、再び冊子の表紙に視線を落とす。
 研修への参加を渋るのには、それなりの理由がある。仕 事が忙しいだけならまだいいが、藍田が現在抱えているのは、かなり重い問題だった。
「藍田くん、もう行っていいぞ。リー ダー研修のことを頼みたかっただけなんだ」
「はい……」
「その案内は持っていってかまわん。よく目を通しておいてく れ」
 一礼して高井の執務室を出た瞬間から藍田の頭を支配するのは、押し付けられた研修のことではなく、昨日部下から聞 かされた、他部署の女性社員が自殺を図ったという話だ。
 同じ会社に勤めているとはいえ、顔を合わせたことがあるのかど うかさえわからない社員ということもあり、普通であれば藍田に動揺を与えることはないだろう。一命を取り留めて幸いだったと いう言葉ぐらいは呟いたかもしれないが。
 だが自殺未遂の原因に、事業部統廃合の件が関わっているかもしれないと聞かさ れると、さすがに無関係な顔はできなかった。
 電材営業本部第一課の主任であるという女性社員も加わり進めていた新事業 部の設立計画が、藍田のプロジェクトの影響を受けて本部からストップがかかり、それが彼女を自殺に追い込んだ――という噂が、 昨日のうちに一気に社内に広まったらしい。
 人の噂にとことん疎い藍田は、部下からこのことを知らされなければ、一週間 は社内の話題から取り残されていただろう。
 不確定な噂に振り回されないようにと部下たちには言ったが、無視はできない。 少なくとも藍田は昨日からずっと、思い煩わされていた。
 多くの敵を作り、中傷や罵倒されることは想定内だった。平気と は言えないが、覚悟はしていた。しかし今回の女性社員の自殺未遂の話は、噂レベルとはいえ、大きな一撃を藍田の心に与えてき た。
 動揺していると周囲の人間に悟られたくないため、努めて平素と変わらぬ言動を取っているが、それが過ぎて、今は冷 然とすら見えているかもしれない。
 ただ藍田自身は、自分がどんな場所を踏みしめて仕事をしているのか思い知らされ、怖 さを感じていた。踏みしめているのは、これから社内で切り捨てるであろう、たくさんのものだ。
 事業部という括りの中に、 たくさんの社員がいる。そこに連なる社外の人間も、取引先もある。それをこれから藍田は選別し、切り捨てていかなければなら ない。
 何人もの人間が味わうであろう痛みを、自分はどれだけ共有できるのか。共有しようとすることは、それ自体が偽善 なのか――。
 自分の立っている場所がひどく不安定に思え、藍田はふと立ち止まり、足元に視線を落としていた。
 足 元が揺れたような気がしたが、なんのことはない。軽いめまいに襲われたのだ。昨夜から一睡もしていないうえに、過度のストレ スもあって、久しぶりに体調は最悪だ。
 胃を圧迫されるような苦しさに、重いため息を洩らしかけたとき、そんな時間すら 許さないように携帯電話が鳴る。反射的に再び歩き出しながら、藍田は冷ややかな声で電話に出た。
「もしもし――ああ、今 戻っている。先に会議室に行っててくれ」
 電話の相手は部下で、これから一緒に会議に出ることになっている。高井に突然 呼び出されたせいで、午前中は特に慌ただしい藍田のスケジュールは狂いっぱなしだ。
 ちょうど停まって扉を開いていたエ レベーターに駆け込むと、オフィスに戻り、イスに座る間もなく準備を整え、すぐにデスクを離れた。途中、女性社員の一人にメ モを手渡す。急遽、参加することとなった研修のため、飛行機の往復チケットの予約を頼んだのだ。
 腕時計に視線を落とし、 すでに会議の開始時間から数分ほど過ぎていることを確認すると、早足というより、ほとんど小走りとなる。
「あっ」
  ちょうどオフィスを出たところで、誰かにぶつかって藍田はよろめく。すかさず腕を掴まれて体を支えられた。
「大丈夫です か」
 ぶつかった相手は堤だった。無意識に体を強張らせた藍田は、小さな声で平気だと答えながら、さりげなく堤から距離 を取る。
 大橋に対する以上に、藍田は堤との接し方に迷っていた。表面上、上司と部下として会話を交わすのは簡単だが、 不意打ちのように向き合うと、どう反応していいか戸惑う。
 まさに今が、その瞬間だった。堤に対してどんな反応を示せば いいのかと考えたあと、いつも通りでいいのだと自分に言い聞かせる。
「……悪い。急いでいたんだ」
「俺は平気ですが、 藍田さんのほうは大丈夫ですか? 顔色が少し悪いですね」
 藍田は、つい堤の顔をじっと見つめていた。
 藍田の耳に も入るということは、当然堤も、女性社員の自殺未遂の件は知っているだろう。そのことについて、どう思っているのか意見を求 めたい気もするが、すぐに思い直す。きっと、堤以外の部下に対して、自分はこんなことは考えないと気づいたのだ。
 思い 悩んでいることを打ち明けるのは、心に立ち入らせることと同義だというのが、藍田の感覚だ。
 これ以上、堤を自分の中に 立ち入らせたくないというのは、ある種の防衛本能だった。
「――会議が終わったら、一緒に昼メシ食いに行きませんか?  あー、会議のあとなら、昼休みが終わってますね。まあ、俺が昼休みをずらせばいいかな」
 これまでと変わらない笑みを堤 が向けてくる。藍田は露骨なぐらいに視線を逸らすと、早口で応じた。
「わたしを待つ必要はない。一人で行ってこい。…… スケジュールが立て込んでいて、会議のあとすぐに、今度は事業部内の打ち合わせが入っているんだ」
「待ってますよ」
「いいっ」
 咄嗟に鋭い声を発してから、気まずさを覚えた藍田は、今度は抑えた声で言い直した。
「……別に、一緒に 食べないといけないものでもないだろう。子供じゃないんだから、一人で済ませろ」
 堤がどんな表情をしたのか――おそら く表情を表に出すことはなかっただろうが、堤を一瞥することなく藍田は背を向ける。
 廊下を歩きながら、背には堤の視線 を感じ続けていた。




 デスクに肘をついた行儀がいいとはいえない姿勢のまま、大橋は顔を上げ、目を眇める。
「なんの話だ?」
 大橋の言 葉に、後藤が呆れたように首を左右に振る。
「今の俺の話、聞いてなかったんですね」
「……素晴らしい内容の書類を、 つい貪り読んでいた」
「それ、単なる始末書でしょう。うちの新人が、システムダウンさせた件での」
「――俺の耳は、 最近バージョンアップしたんだ。面倒な案件は、自動的に遮断するようになった」
 始末書にポンッと判をついて、ボックス にひらりと入れる。にんまりと笑いかけると、せっかくの上司の冗談に対して、後藤はクスッともしなかった。
「そんなこと 言って、疲れてるんじゃないんですか。バリバリと、ブルドーザーのように仕事を処理していく補佐に対して、出張の件を相談す るのは、正直俺も心苦しいんですよ」
「出張……」
 後藤が一枚の用紙を差し出してきたので、ようやく姿勢を正した大 橋は受け取る。見ると、地方支部に出向いての、通信インフラ整備に関するミーティングの案内だ。導入促進の指揮を執るのはオ フィス企画部で、大橋が顔を出す予定になっている。
「時期も近いので、ミーティングの内容を詰めておこうと思いまして」
「そういや、そっちの事案を進めているのは第二企画室だったな」
 大橋は用紙を眺めながら、万年筆のキャップの尻で 軽く頭を掻く。
 ミーティングとはいっても、いくつかの会社の視察も兼ねているので、泊まりの出張となる。だからといっ て、大橋が実際に現場で何かするわけではない。あくまで現場で動くのは、部下たちだ。
 フットワークの軽さが取り柄であ る大橋は、基本的に自分で動くことを惜しまない性質だ。そのため、動きながら考える癖が身についている。しかし今回の出張は、 気乗りしなかった。
「――……悪いが、今回は第二企画室のチーフに行ってもらってくれ」
「いや、でも――」
「つ いでに、社内SEも同行させろ。あとで報告をもらうのに、手間が省けていい」
「了解、しましたが……何かあったんですか ? 出張を取りやめるなんて」
 後藤から当然の疑問をぶつけられ、大橋は再び片肘をつき、無意識のうちに向かいのオフィ スに視線を向けていた。
 さきほどまでいなかったはずなのに、いつの間に戻ってきたのか、デスクについた藍田の姿があっ た。
 今日は一際、藍田は忙しそうだった。ゆっくりと腰掛ける時間すらない様子で、慌ただしく自分のデスクの上を引っ掻 き回しては、すぐにまた席を離れてどこかに行っていた。社内のあちこちを移動しながら、会議や打ち合わせなどをこなしていた のだろう。
 仕事をしながら、何を考えているのか――。
 大橋はもう一度目を眇め、後藤を見上げる。
「社内が穏 やかならざる状況だから、今はここを留守にしたくないんだ。何かあるかもしれないというより、何かあるかもしれないと身構え て、俺が不安なんだ。まあ、ここにいるのは精神安定みたいなものだな」
 納得したように神妙な顔で後藤は頷き、ぐるりと オフィスを見回した。
「補佐にここにいてもらうと、みんなも安心しますよ。見てないようで、けっこう補佐の表情を気にす るんですよね、俺たち。補佐がこんなにのんびり構えているなら、まだ全然大丈夫だな、とか思ったりして」
「ということで、 出張の件の処理は頼む。……決して、出張が面倒くさくて、他人に押し付けたわけじゃないからな」
 ニヤッと笑って後藤が 行ってしまうと、大橋はさりげなさを装いながら、向かいのオフィスに視線を戻す。藍田は、少し疲れたようにイスの背もたれに 体を預けていた。
「……あいつ、昼メシ食ってないんだろう……」
 確認したわけではないが、気だるそうな藍田の様子 を見ていると、察するものがある。多少の疲れぐらいなら、表に出すような男ではないのだ。
 それとも、と大橋は口中で付 け加える。
 大橋が、女性社員の自殺未遂の件を知らされてから、三日経っている。それだけあれば噂は社内に十分広がる。 世俗的な話題に興味がなさそうな藍田といえど、さすがにもう、何が起こったのか耳に入っているはずだ。
 まったく無関係 とはいえない話が、どれだけの衝撃を藍田に与えたのか、それが大橋には気がかりだった。見た目よりずっと強靭な精神力を持っ た藍田は、一方で、ひどく繊細でもあるのだ。
 出張を断ったのは、大橋がいない間の、誰かのよからぬ動きを牽制する意味 もある。自分だけに悪意や中傷が向けられるのは構わないが、部下たちに余計な負担は与えたくない。それに、藍田のバリアーで あることが、大橋の役目だ。
 きつく抱き締めた藍田の体の感触が、ふいに腕の中に蘇る。その感触を消さないよう、心の中 で大事にいとおしむ。
 藍田が抱えているかもしれない心配事を気遣いながら、実は大橋は、個人的な要望をこの機に叶えた いと思っていた。
 非常に不埒で不謹慎だとわかっているが――。
 大橋が向ける悩ましい眼差しに誘われたように、藍 田が胡乱そうにこちらを見て、次の瞬間、驚いたように目を見開き、姿勢を正した。取り繕ったように怜悧な横顔を見せた藍田だ が、すぐに立ち上がる。窓に近づき、ブラインドを下ろそうとしたのだ。
 すかさず大橋はイスごと体の向きを変え、右手を 忙しく動かして見せる。藍田は怪訝そうに眉をひそめたが、やっと、大橋の意図を察したようだ。
 メシを食ったかという、 ジェスチャーによる大橋の問いかけに対して、藍田は、余計なお世話だといわんばかりにブラインドを下ろしてしまった。しかし、 大橋はめげない。
 携帯電話を掴み上げると、素早く藍田の携帯電話にかける。呼び出し音が二回なる前に藍田は電話に出た。
「――お前、今日は昼メシ食ったのか」
『あんた、今何時だと思っている。午後三時過ぎだぞ』
「おやつは食ったの か、と聞き直してやろうか?」
『切るぞ』
 迷惑だと言いたげに藍田は短く息を吐き出したが、電話を切る気配はない。 思わず大橋は、喉の奥から笑い声を洩らす。
「機嫌が悪そうだな。しかも、疲れてるみたいだ。メシ食ってないから、低血糖 でも起こしてるんじゃないか。そういうときは、アメ玉でも口に放り込んでおけ」
『用がないなら、本当に切るぞ――』
「今夜、一緒にメシを食おうぜ」
 電話の向こうで、藍田が静かに息を呑んだ気配がした。
 藍田の反応の意味は、理解 しているつもりだ。会議室でキスをして以来、二人はぎこちなく距離を取り続けている。確かにそれが、普通の反応ともいえる。 同性で、同僚で、今は共闘関係でもある二人が、あんな出来事のあと、意識するなというほうが無理だ。それでなくても大橋と藍 田は、微妙な既成事実を積み上げてきているのだ。
 キスしたという事実から目を背けるか、直視するか――さらに一歩進むか。 大橋の前には選択肢が並んでおり、その一つを選んだ。
「お前ももう、〈あのこと〉は聞いてるんだろう? メシを食いなが ら、それも含めてじっくりと話したい」
 藍田はまだ黙ったままだ。大橋は足を組みながら、じっと向かいのオフィスを見つ める。ブラインドが下ろされているため、藍田がこの瞬間、どんな様子なのか見ることができないのは残念だ。
 あの男の困 った顔を見てみたいと思うのは、わずかながら加虐的なものを含んだ欲望からだった。いままで、大橋にはこんな性癖はなかった はずだが、あまりに藍田がクールすぎるせいで、変なものが目覚めたようだ。
 他人のせいにするなと、藍田は怒るかもしれ ないが。
 お前がいけないのだと、大橋は声に出さずに呟く。誰に対しても平等に、ツンドラのような物腰を貫くなら、大橋 は妙な感情を刺激されたりしなかった。
 つい先日、藍田と二人きりで食事をして、藍田の携帯電話から大橋の着信履歴を消 した堤に対して、対抗意識もある。あの生意気な男への嫉妬と焦りは、いまだ大橋の胸の奥で燻ったままだ。何かの拍子に簡単に 燃え上がる。
 不埒で不謹慎というのは、女性社員の自殺未遂という深刻な事態を、藍田と二人きりで会うために利用しよう としていることだった。おそらく今の藍田は、大橋と顔を合わせるだけでも神経質になっているはずだ。社外で二人きりになると したら、よほどの〈何か〉が必要なのだ。
『……話なら、会社でもいいだろう』
 藍田の答えは、大橋が想定していたも のだった。
「忘れたか。俺は、世話好きのお節介だぜ。それに、お前の食生活の管理は、俺の役目だ」
『あんたのお節介 は知っている。だけど――』
「だけど、なんだ?」
 こんなやり取りを交わした刹那、大橋の脳裏を過ったのは懐かしい 記憶だった。過去につき合っていた恋人と、似たような会話を交わしたことがあるのだ。何年前だったか、どんな相手だったかす らもう覚えていないが、ただ、こんな会話を交わしたことだけは、やけにはっきり覚えていた。
 大橋は無意識に唇に苦い笑 みを刻む。恋人を甘やかそうとするとき、自分はこんな口調になるんだろうなと、気づいたのだ。
 否定はできない。今、大 橋は、藍田との約束を取り付けようと必死で、藍田が同性でも、気難しい奴でもなければ、そしてここがオフィスでなければ、い くらでも甘く優しい台詞を囁くところだ。
『――……今日は、仕事が終わったあとまで、他人に囲まれた場所で、気をつかい ながら食事をする気分じゃない。それでなくても、上から面倒を押し付けられてうんざりしているんだ』
 もしかして弱音を 吐かれたのだろうかと考えながら、ニッと笑った大橋はすかさず計画を一部変更した。
「他人がいなけりゃいいんだな。だっ たら簡単だ。俺の家で食えばいい」
『はあっ?』
 完全に虚を突かれたような藍田の声だ。こいつのこんな声は初めて聞 いたと思いつつ、大橋は口元を綻ばせる。視界の隅で、驚いたように目を丸くする女性社員の様子が目に入り、慌てて表情を取り 繕い、低い声で告げた。
「俺が、男の手料理を食わせてやる」
『……店で食べるより疲れそうだから、遠慮する』
「さーて、何作ろうかな」
『露骨に聞こえないふりをするな。わたしは――嫌だからな』
 強い拒絶ではなかった。藍田 の声には、わずかな感情の揺れが滲んでいる。
 本当に嫌なら、そんな声を聞かせるな――。
 大橋は心の中で呟いてか ら、まるで藍田を恫喝するように怖い声で囁いた。
「仕事が終わったら、そっちのオフィスまで迎えに行くぞ。大きな声で、 お前たちの部下に教えてやろうか? 今日はこれから、こいつとメシを食いに行くんだと。仕事を離れても、大橋部長補佐と藍田 副室長は仲良しだと、すぐに評判になるぞ」
『あんたという男は――……』
 藍田は、怒っているというより、呆れたよ うな声を洩らした。
「俺にそうされるのが嫌なら、午後七時に一階のロビーにいろ。お前は車を置いていけよ。俺の車で移動 するからな」
『……面倒だ』
「だが、気はつかわなくていいぞ。いるのは、俺とお前だけだ」
 大橋の強引な誘いに 対して、藍田はため息混じりに返事をした。
 もちろん、大橋が求めていた返事だ。










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