サプライズ

[7]

 大橋が何を考えているか、すべてを把握するのは不可能だ。だが、一部だけなら推測することができる。
 助手席に座った 藍田は、いつになく速くなっている自分の心臓の鼓動を感じていた。前髪を掻き上げながらさりげなく、ハンドルを握 っている大橋の横顔に視線を向ける。
 ふざけた口調で強引な誘いをしてきた男は、今は真剣な顔をしていた。怖いぐらいに。 少なくとも、今夜の〈男の手料理〉の献立を考えているようには見えなかった。
 多分、と藍田は心の中で呟く。大橋の中に は、堤の影がちらついているだろう。
 大橋は、藍田と堤が食事をしたときに何があったか知りたがっている。もしかすると、 何かあったことを薄々感じ取っているかもしれない。
 大橋との行為の意味を確かめるために、堤と同じ行為に及んだと知っ たら、大橋はどんな顔をするのだろうかと考えて、藍田はゾクッと身を震わせた。
 大橋の反応を気にかけるということは、 藍田の中で大橋の存在が重みを増しているという、何よりもの証明だった。仕事上のパートナーだから知られたくないという理由 だけではない。
 見た目に反して聡い男が、いつもと変わらない声で問いかけてくる。
「――寒いか?」
 我に返っ た藍田は、前髪を掻き上げる途中で止めたままだった手を下ろし、ぎこちなく傍らのウィンドーに顔を向けた。
 確かに外は 涼しいというより肌寒くはあったが、大げさに身をすくめるほどではない。それが車内ともなれば、なおさらだ。
 むしろ藍 田は暑いぐらいで、返事の代わりにウィンドーをわずかに下ろし、ひんやりとした風を車内に入れる。
 車が走り出してから、 二人はほとんど会話を交わしていなかった。電話ではあれだけ遠慮ないやり取りができたというのに、いざ本人を目の前にすると、 表情一つに気をつかうし、発する声音の抑揚すら意識してしまう。
 今、隣でハンドルを握っていると男と、手を握られるど ころか、唇を重ねて求め合ったのだと思うと、普通の会話をしろというほうが無理だった。
 やはり断ればよかったと、内心 で藍田は、大橋の誘いに乗って――乗せられたことを後悔する。しかし、いまさら車から降ろせとも言えない。
「あー、俺の 部屋に行く前に、ちょっとつき合えよ」
 大橋の言葉に、藍田は首を傾げる。
「えっ?」
「途中、スーパーに寄る。 冷蔵庫が空っぽだから、いろいろ買い込まないとな」
「……そういえば、わたしと一緒で、普段は外食が多いと言っていたな」
「一人で食うなら、外で食ったほうが楽だ。下手に買い込んで、腐らせてももったいないだろう。だから、必要なときに、必 要なものだけ買っておけばいい」
「だったら今夜も、外食でよかったんだ」
「そう言うなよ」
 大橋が楽しそうに口 元を緩め、ようやく車内の空気も和らいだ気がする。つい藍田も、肩から力を抜いていた。
「料理は得意なのか?」
「離 婚してから、必要に迫られて料理本を買った。――材料を切るのは得意だぞ」
「そのレベルでは、料理が得意とはならんだろ う」
 大橋の料理の腕に最初から期待はしていなかったが、もしかすると、期待の半分以下の実力かもしれない。危惧する藍 田とは対照的に、大橋は堰を切ったように話しかけてくる。
「お前は作らないのか? 大抵のことは器用にこなしそうに見え るんだが」
「……一通りのことはできる。わたしの母親が料理人の家系の人で、今も店をやっているから、その影響でわたし も、子供の頃からいろいろと手伝わされた」
「ほお、いいことを聞いた。さっそく今日は、藍田副室長に手伝ってもらうか」
「あんたの〈男の手料理〉を楽しみにしている」
 聞こえよがしに大橋が舌打ちした。
 車は、途中にあるスーパー の駐車場に滑り込み、さっそく大橋が車を降りる。藍田は待っているつもりだったが、大橋は許してくれなかった。
 ニヤリ と笑って手招きされ、仕方なく車を降りる。
「買い物ぐらい、一人でさっさと済ませればいいだろう」
 スーパーに入り、 カゴを押し付けながら藍田が言うと、大橋は悪びれたふうもなくこう答えた。
「お前の好き嫌いを把握しておかないとな」
 大橋がもう一つのカゴを手にして押し付けてきたので、反射的に藍田は受け取る。
「……わたしは子供じゃないぞ」
 はいはい、とおざなりな返事をした大橋の足元を蹴りつけてやろうかとも思ったが、人目があるところではそれもはばから れる。それでなくても、スーツ姿の男二人が並んで買い物をする姿は、妙に浮いているように感じるのだ。
 自意識過剰だろ うかと思いながら、藍田は周囲にさりげなく視線を向ける。だがやはり、藍田と大橋以外、いい歳をした男二人で買い物をしてい る客は見当たらない。
「藍田、ビールでいいか?」
 周囲がどうであろうが、まったく意に介した様子もなく、大橋が声 をかけてくる。
 聡いくせに、変なところで鈍感な男だと思いながら、藍田は頷いた。
「ああ……」
「ついでだから、 日本酒も買っておくか。ウィスキーはうちにあるし、ワインも、この間もらったものがある――」
 不自然なところで言葉を 切った大橋が、うかがうように藍田を見た。
「どうした?」
「……いや。やっぱり、ワインも買おうかと思ってな」
 大橋がわずかに動揺したように見えたが、訝しむまでには至らなかった。それというのも、当然のように大橋に腕を掴まれ、引 っ張られたからだ。藍田は慌てて手を振り払う。
「あんたは、子供と一緒に歩いているとでも思っているのか」
 自覚は なかったらしく、驚いたように目を丸くした大橋は自分の手を見てから、うろたえたように歩調を速める。このとき、悪い、と小 さな声で謝られた。
 ワインとビールをカゴに入れ、次に生鮮食料品を見て歩く。
 キャベツを手に取る大橋に、手持ち 無沙汰で藍田は問いかけた。
「熱心にキャベツを選んでいるが、もう献立は決まったのか?」
「まあな」
 手にした キャベツを、大橋が藍田の持つカゴに放り込んでくる。大橋が持つカゴは、ビールとワイン、ミネラルウォーターのボトルで満杯 なので仕方ない。
 他に野菜を選ぶと、大橋は再びさっさと歩き出す。向かったのは精肉売り場だ。
 ショーケースに並 ぶ肉を、あごに手を当てながら大橋は真剣な顔で眺めている。その姿は、他に肉を眺めて選んでいる女性たち同様、妙に様になっ ていた。
 だが、隣にはいたくない――。
 藍田は他人のふりをして大橋から距離を取り、少し離れたところから、肉を 眺める大橋の姿を眺める。
 今、熱心に肉を選んでいる男は、世間では一流企業で名を知られた東和電器で、三十代半ばにし てオフィス企画部部長補佐という役職につき、なおかつ、移転推進プロジェクトという、会社の大変革を担う仕事のリーダーを務 めているのだ。さらに付け加えるなら、これだけ恵まれた容貌と体躯を持ちながら、二度の離婚歴がある。
 藍田は口元に手 をやり、小さく噴き出していた。生活感漂う大橋の姿と、大橋の肩書きのギャップに、急におかしさが込み上げてきて、堪えきれ なかった。
 ようやく肉を選んで戻ってきた大橋が、顔を背けて必死に笑い声を押し殺している藍田を見て目を丸くする。藍 田はなんとか表情を取り繕い、包んでもらった肉を受け取った。
 手にズシリとくる肉の重みに、寸前まで笑っていたことも 忘れて眉をひそめる。
「あんた、二人でバーベキューパーティーでもするつもりか。一体どれだけ買ったんだ」
「惜しい な。やるのは、焼肉パーティーだ」
 なぜか胸を張る大橋に対し、ため息を洩らした藍田は肉をカゴに入れる。
「……別 にケチをつける気はないが、焼肉は料理とは言わない。というか、あんた本当に、肉が好きだな」
「普段は摂生してるんだぜ。 肉をがっつり食べるのは、特別なときだけだ」
 先日も、自分の前で肉を食べていたなと思い出した藍田は、つい、大橋の発 言を深読みしてしまう。つまり、藍田と食事をするときは、特別だと言いたいのだろうか、と。
 そんなことを考えた自分が、 恥ずかしくなってくる。藍田は小さな声で、好きにしろ、と応じた。
「俺のお手製スープをつけてやる。別れたカミさんは、 これだけは文句言わずに飲んでくれてた――」
 藍田が冷ややかな一瞥をくれると、見ていておかしくなるほど大げさに大橋 がうろたえ、片手を振って何か言おうとする。藍田は気づかないふりをして、スッと顔を反らした。
「米はあるのか?」
「えっ、あっ……、いや、米は切らせてる。炊く時間もないから、おにぎりも何個か買っておくか。あと、タレも。そういえば、 油も少なくなってたな」
「結局、何から何まで買わないといけないんだな」
「普段は一人だからな。何かしようなんて思 わない。だから、たまにはいいだろう? はしゃいだって」
 ふっと優しい眼差しを向けられて、今度は藍田がうろたえる番 だった。同時に、恥じ入ってもいた。
 大橋の口から自然な感じで出た、〈別れた妻〉の話題に、胸に一瞬、不快な感情が広 がったのだ。この感情がなんであるか、鈍いと自覚がある藍田にもわかる。だから、恥じ入ったのだ。
「――さっき、笑って たな」
 惣菜を置いてあるスペースに向かう途中、必要なものをどんどん藍田のカゴに入れながら、さりげなく大橋が切り出 す。藍田は頬の辺りが熱くなるのを感じながら、なんでもないことのように答えた。
「そうだったか」
「あれだけおかし そうに笑っていて、誤魔化そうとするなよ」
「なんだ。わたしが笑ったら悪いのか」
 スーツ姿の男同士が、買い物をし ながら交わす会話ではないかもしれない。傍らを通り過ぎる中年女性の耳が気になり、藍田は歩く方向を変えようとしたが、この とき、すぐ側に立つ大橋に低い声で言われた。
「……堤の前でも、笑って見せるのか?」
 藍田はハッとして大橋を見る。 大橋は怖いほど真剣な表情をしていたが、次の瞬間には、凍りついた空気を察したのか、いつもの能天気そうな顔となった。
「怖い上司と生意気な部下の間で、どんな会話をしているのか気になったんだ。お前なんて、どんな冗談を聞かされようが、クス リともしないイメージがあるからな」
 誤魔化そうとしているのは、大橋のほうだ。藍田と堤の仲が只事でないことを察して おり、本心では真相を知りたいと思いながら、冗談で藍田を煙に巻こうとしている。もっともそのことを、藍田に責める権利 はない。お互い様なのだ。
「――……堤の冗談は、あんたと一緒で、笑えないものが多い」
「俺の冗談はおもしろいだろ う?」
 藍田はじっと大橋の顔を見つめる。
「本当にそう思っているか? あんたの部下は、上司に気をつかって笑って いるのかもしれないぞ」
「……嫌なこと言うなよ」
「最初につまらないことを言ったのは、あんただ」
「つまらない、 ね……」
 意味ありげに洩らした大橋の手がいきなり背にかかって押される。
「アイス買ってこうぜ、アイス。焼肉のあ とは、アイスで口をさっぱりさせるのが、俺の流儀なんだ」
「あんたはガキか――」
 口ではそう言いながらも、話題が 堤から逸れたことに、内心で藍田はほっとしていた。
 それに、本心からか演技かはわからないが、やけに楽しげな大 橋を見ていると、今は複雑なことは考えたくなくなってくる。
 純粋に大橋との食事を楽しめばいい。
 そう自分に言い 聞かせながらも、藍田の頬はやはり熱いままだった。




 藍田が大橋の部屋を訪れるのは、これで二度目だった。一度目は――。
「ベロベロに酔っ払っていたよな」
 スーツを 着替えながら大橋が言うと、隣のダイニングにいる藍田が心外だと言わんばかりに訂正してきた。
「ベロベロに酔っていたの は、あんただけだ」
「そうだったか?」
「あのときの記憶なんて、あんたにはないだろう」
「お前に尻を撫で回され たのは覚えている」
「……帰る」
 慌ててトレーナーを着込んだ大橋は、部屋から飛び出す。だが藍田は、帰る素振りを 見せるどころか、ジャケットを脱いで寛いだ様子でイスに腰掛けて足を組んでいた。背もたれに片腕をかけた姿勢で見つめられ、 大橋は胸の奥がざわつくのを感じる。
 見慣れた自分の部屋なのに、そこに藍田がいるというだけで、何もかもが一変して見 える。部屋の空気すらも違っているようだ。
 さきほどの会話ではないが、確かに藍田は一度、この部屋に来て、泊まったこ とがある。しかしあのときは、同僚というのもはばかられるほどつき合いは薄く、しかも大橋は意識もはっきりしないほど酔って いた。今とはあまりに、状況も関係も違う。
 大橋がまっすぐ向ける眼差しを避けるように、藍田がふっと視線を逸らし、テ ーブルの上を指さした。
「大橋部長補佐、早く自慢の〈男の手料理〉を食べさせてくれ」
「なんか引っかかる言い方だな」
 キッチンに向かおうとした大橋だが、藍田が着ている淡いグレーのワイシャツを目にしてから、隣の部屋に引き返す。普段 着を入れているボックスからトレーナーを取り出してダイニングに戻ると、藍田に投げ渡した。
「これ……」
「鉄板を使 うと、油が跳ねてワイシャツが汚れるだろ。この部屋には前掛けなんてないからな。食うときは、ワイシャツの上からそれを着ろ。 大きいサイズだから、お前ならワイシャツの上に着てもきつくないはずだ」
 トレーナーを広げて眺める藍田を見ていると、 こちらが照れくさくなってくる。大橋はガシガシと頭を掻くと、さっそく夕食の準備を始める。
 キッチンに入った大橋はト レーナーの袖を捲り上げて手を洗うと、鍋に水を入れて火にかける。久しぶりに使う鉄板も洗い、慌ただしく調味料や野菜などを 作業台に並べて、作業の手順を思い出しながら計量スプーンを手にした。
「――なんだか怪しい手つきだな」
 いつの間 に側にきたのか、大橋の手元を覗き込んだ藍田に言われてしまう。
「安心しろよ。腹を壊すようなものは食わせないから。あ ー、お前は、鉄板をテーブルに持っていって、コードを繋いでくれ。延長コードはそのカゴの中にある。コンセントは、そこのを 使ってくれ。あっ、まだ温めなくていいからな」
 意外に素直に藍田は動き、鉄板を運んでいく。大橋は肩越しに振り返り、 カゴの中に片手を突っ込んでいる藍田の様子をうかがう。
 やはり、この部屋に藍田がいるというのは妙な感じだ。それでい て、ついつい口元が緩んでしまいそうになる。
 最初は、外で一緒に食事をしようかとも思ったが、咄嗟とはいえ、自宅に藍 田を招いたのは正解だったようだ。おかげで、藍田の雰囲気もいつになく柔らかく感じる。
 堤と食事したときも、藍田はこ んな感じだったのだろうか――。
 実際に見たわけでもないのに、大橋の脳裏にふっとその情景が浮かぶ。
 生意気で皮 肉っぽさが鼻につく堤が、藍田に対しては甘さを含んだ眼差しを向け、当の藍田も気づいているのかいないのか、そんな堤の眼差 しを当然のように受け止める。堤の冗談を素っ気なく躱す藍田だが、唇には微笑が刻まれているのだ。
 勝手な想像をした挙 げ句に、大橋の胸は苦しくなってくる。
 こうして二人で食事をすることにしたのは、藍田の体調を気遣うためと、藍田との 関係を進めるため。そしてもう一つ、堤が体験したであろう藍田との二人きりの時間を、自分も味わいたかったからだ。
 藍 田に言えば、つまらない対抗意識だと鼻先で笑われるかもしれないが、大橋にしてみれば、大事なことだ。
 鍋の水が沸騰し たので、しょうゆに酒に塩、鶏がらスープを次々に入れて味を調える。最初はきちんと計量していたが、作るのは久しぶりなので、 結局自分の舌が頼りだ。
「大変そうだな。何か手伝おうか?」
 何度も味見をしている大橋を見て本気でそう思っている のか、大橋の手つきの悪さに単に呆れただけなのか、藍田が声をかけてくる。
「そこにある、肉と一緒に焼く野菜を切ってく れ」
 ワイシャツの袖を捲り上げた藍田がすぐ隣に立つ。何げなく肩先が触れた感触に意識が向きそうになり、大橋はスープ 作りに意識を引き戻す。
「ところで、なんのスープを作っているんだ」
「卵スープ」
 藍田は物言いたげに唇を動か しかけたが、途中でやめてしまう。
「……お前今、簡単な料理だな、とか思っただろう」
「そこまでは思ってないが、ど うせならスーパーでインスタントのものを買っておけば、手間がかからなかったのに、とは思った」
「言っただろう。男の手 料理なんだよ」
「奥さんが、文句を言わずに飲んでくれたんだったな」
 どういう意図で藍田がこんなことを言ったのか、 クールな横顔からはうかがい知れない。ただ、大橋はドキリとした。
 部屋で夕食を一緒にとるだけだというのに、一 瞬の気も抜けない。藍田の些細な言動に対して過敏になっていた。
 見た目に似合わない大胆な手つきで野菜をザクザクと切 っている藍田に対し、大橋はまな板の隅を借り、控えめにニンジンを細切りにする。
「切ってやろうか?」
「この危なっ かしい手つきが、いかにも男らしいだろ」
「……あんた、意地になってないか」
 そんなことはないと反論しようとして 顔を上げた大橋は、心配そうな藍田と目が合う。
 何があったというわけでもないのだが、数秒の間、互いにしっかりと見つ め合ったまま、視線を逸らせられなかった。
 衝動的な欲求に突き動かされ、包丁を置いた大橋は藍田に手を伸ばしかけたが、 この瞬間、携帯電話の不粋な呼出音が聞こえてきた。
「わたしの携帯だ……」
 独り言のように洩らした藍田が、素早く 手を洗ってダイニングに行ってしまう。大橋はその後ろ姿を見送るしかなかった。
 再び包丁を手にニンジンを刻みながら考 えるのは、この時間、藍田の携帯電話に連絡してきた相手のことだ。
 否応なく堤の顔が脳裏をちらつくのは、我ながら腹が 立つが条件反射だ。
 藍田はすぐにキッチンに戻ってきたが、さきほどまでクールそのものだった顔には心なしか、苦い表情 が浮かんでいるように見えた。その表情を目にした途端、大橋の中で何かが弾けた。
「――堤からか」
 自分でも驚くよ うな冷たい声が出ていた。藍田も驚いたように目を見開く。
 考えのないことを言ってしまったと後悔したがもう遅い。大橋 が開き直るのは早かった。
「お前と携帯電話というと、この間のこともあるから、どうしても堤のことを連想するんだ。…… 仕事の呼び出しか?」
 口調がきつくなるのは、どうしようもなかった。藍田は短く息を吐き出すと、何事もなかったように 包丁を手にする。
「今夜はもう、何があっても会社に戻る気はない。それに、携帯の電源は切った。電話の相手は――母親か らだ。自宅の電話にかけてもいつも出ないと、文句を言われた」
「母、親……」
「なんなら着信を調べるか?」
 淡 々とした藍田の口調に、かえって責められているような気分になったが、今の大橋は、軽い自己嫌悪よりも、自分勝手な怒りのほ うが勝っていた。
「――……聞かせてくれないか。お前と堤の間に、何があったのか。いや、違うな。お前たちの間には、ず っと何かがあり続けているんだ。俺とお前の間に、いろいろあり続けているように。この間は、指先に唇を当てられたと言ってい たが、本当はそんなものじゃないだろう、とか……、いろいろと考える」
「どうして聞きたがる。……わたしと、 堤のことだ……」
 藍田からどれだけ冷たく容赦ない言葉を浴びせられようが耐えられる大橋だが、この言葉だけは我慢でき なかった。
 包丁を持つ藍田の手首を掴み、ぐっと力を込める。
「何してっ……。危ないだろうっ」
 藍田はすぐに 慎重に包丁をまな板の上に置き、きつく睨みつけてくる。しかし大橋は、それ以上の激しい眼差しで藍田を見つめた。
「俺は、 あいつがお前の携帯に出た以前から、ずっと聞きたかったぞ。お前と堤の間に、本当は何があるのかってな」
 少し前まで緩 やかな空気が流れていたというのに、今はもう、その余韻すらなかった。
「……あんた、そんなことが言いたくて、最初から わたしを……」
「理由の一つとしては、それもある」
 正直に答えると、藍田はキッチンから離れようとしたが、それを 大橋は許さなかった。
 掴んだ手首を引っ張り、藍田が軽くよろめいたところを狙って肩を掴み寄せると、そのまま冷蔵庫に 痩せた体を押し付けた。










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