[8]
「大橋さんっ……」
抵抗するかと思われた藍田だが、大橋がぐいっと体を寄せると、途端にうろたえたように視線を伏せた。
おそらく、会議室でキスしたときのことを思い出したのだろう。大橋も、ワイシャツを通して藍田の体温を感じながら、あのとき
のことが蘇っていた。
堤のことで狂おしい嫉妬を抱きながらも、同じぐらい、藍田の体温をもっと味わいたいという欲望も
頭をもたげていた。
「この間、外でメシを食ったときにも聞いて、あのときは結局はぐらかされたが、今日は時間はいくら
でもあるし、人の耳も気にしなくていい。俺は腹に何か溜めておくということができないんだ。気になることは、徹底して知りた
い。曖昧になんてしておけない。それがお前のことなら、なおさらだ。だから、言えよ」
「なんの権利があって、わたしにそ
んなことを迫るんだ」
藍田なりに、この問いかけは切り札のつもりだったのかもしれないが、きつい眼差しとともに投げつ
けられた言葉に、大橋はまったく怯まなかった。
「――お前にキスした者としての権利だ」
藍田の頬にサッと赤みが差
す。どれだけ表情はクールを装っても、この反応だけは隠しようがない。
「……あんな、恥知らずな行為、わたしは忘れた…
…」
「安心しろ。俺はしっかり覚えている」
身じろいだ藍田の体を、大橋はしっかり冷蔵庫に押さえつける。そうやっ
て威圧しながら、自分たちの間にあったことに向き合えと訴えかけた。藍田にしてみれば、恫喝されているようなものかもしれな
いが。
「なかったことにはできない。気の迷いでもない。俺たちは別に酔ってもなかったし、気は高ぶってはいたが、取り乱
すほどじゃなかった。それで、なかったことにしようなんて、ムシがよすぎだろう、藍田」
ここまで言って大橋は、藍田の
肩を掴む手の力を緩める。真正面から藍田の顔を覗き込むと、戸惑ったように見つめ返された。藍田は怒ってはいないようだが、
大橋のほうは罪悪感が疼く。
藍田を気遣うつもりだったのに、こうして追い詰めるような状況になっているのだ。確かに関
係を一歩進めたいとは思ったが、あくまで穏やかな空気を共有できればいいと、ささやかに甘い願望を抱いていただけだ。
それなのに――。
罪悪感はあるが、後悔はない。こうして行動に起こしてしまうと、引き返せなかった。ただ、突っ走るだ
けだ。
大橋が見つめ続けると、藍田は視線をさまよわせたあと、男に押さえつけられているという状況に我慢ならないよう
に、まっすぐ見つめ返してきた。冷えた眼差しだが、かえって大橋の中の熱は煽られる。
もう知っているのだ。ツンドラの
ような藍田は、脆さも熱さも内包した存在なのだと。だから、強烈に惹かれて、求めてしまう。
「――堤が、俺に言ったこと
がある。俺がお前にしたことと同じ行為を求めた、と」
手をかけた藍田の肩が強張る。その反応で、堤が大橋に対してウソ
を言ったわけではないのだと確信した。
「他にもいろいろ言いたい放題だったが、とにかく堤は、そう言ったんだ」
藍
田が唇を引き結び、苦しげな表情を浮かべる。大橋はかまわず言葉を続けた。
「あいつはまるで、追いかけてきているようだ。
俺とお前の間にあったことを。もしかすると、俺がそう思っているだけで、お前と堤の間にあったことを、俺が追いかけているの
か? お前を抱き締めて、抱き合って、指先に唇で触れて、それから――」
「やめろっ」
声を荒らげた藍田が顔を背け、
大橋の胸元を両手で付いて押し退けようとしてくる。
「……あんたとの間にあったことは、間違いだったんだ。そのせいでわ
たしは……、堤とも――」
「堤とも?」
意識しないまま、大橋の口調はきつい響きを帯びる。これは、どうしようもな
い。今の大橋は、どうしようもなく堤に嫉妬しているのだ。
そんな大橋の様子に気づいているのかいないのか、藍田は弱音
を洩らすように言った。
「あいつはいつも、正確に指摘してくる。わたしの気持ちが揺れている瞬間を。……あんたのせいで、
忌々しいぐらいわたしの気持ちは揺れる。こういうのは、嫌なんだ。自分が自分でなくなるようで」
「俺から見たら、どんな
お前だろうが、藍田春記という男だがな」
大橋がからかっているとでも思ったのか、藍田に睨みつけられた。
「――…
…わたしにしてみれば、何もかも違う。大橋龍平という男と、あんなことをしてしまった自分なんて。男と、キスするなんて、あ
りえないことなんだっ……」
「でも、そのありえないことが起こったんだろ。これからだって起こることだ。何度だってな」
藍田がまばたきを忘れたように、一心に見つめてくる。こちらが何を考えているのか探ってきているのだと察し、大橋はあ
えて、自分の抱えた欲望を隠そうとしなかった。
「お前ぐらい頭の切れる男なら、俺と二人きりになった時点で、何が起こる
か感じていたはずだ。――お前は、俺の出方を確かめたかったんだろう。もう一度行動を起こすか、キスしたことを冗談で済ませ
るか、なかったことにするか」
胸を突いたままだった藍田の手から力が抜ける。大橋はその変化を受けて、藍田の肩にかけ
た両手を冷蔵庫に突いた。これから先の行為を拒むなら、いつでも藍田が逃げられるように。
本当は藍田に、堤ともキスし
たのかと聞きたいが、聞けない。あっさりと認められると、それ以上何を聞けばいいのかわからない。だから、他の奴では――堤
では満足できないようなキスをするしかない。
いや、それすら言い訳で、単純に藍田にキスしたかったのだ。
大橋は
余裕なく藍田の唇を塞ぐ。引き結ばれた唇をきつく吸い上げながら、間近にある清冽な目を覗き込むと、その目もまた、じっと大
橋を見つめ返していた。
会議室で一度は味わった歓喜が全身を駆け巡り、大橋は高ぶる。おそらく、藍田にこうして触れる
たびに、自分は新たな刺激に興奮し、痺れるのだと確信していた。それほど、藍田とのキスは強烈だ。
ゆっくりと藍田の唇
が綻んでいき、大橋はさらに開花を促すように熱っぽく上唇と下唇を交互に吸う。
大橋は、怜悧な男の変化を敏感に感じ取
っていた。開いた唇から微かに吐息が洩れ、覗き込んでいる瞳に仄かに熱源が点るのを見る。
藍田がいつでも逃げられるよ
うにと気をつかっていたつもりだが、いつの間にか大橋は、冷蔵庫に両手は突いたまま、威圧するように体を寄せていた。それで
も藍田は逃げる素振りは見せない。
大橋は覚悟を決め、藍田の頬に片手を押し当てて撫でると、後頭部を引き寄せた。しっ
かりと唇を重ね合わせて、もう片方の腕で痩せた体を抱き締める。すると、藍田の手が支えを欲しがるように、大橋の肩にかかっ
た。
何度も藍田の唇を啄ばみながら、合間に大橋は問いかけた。
「……お前は、なかったことに、できるか?」
一瞬、藍田から鋭い眼差しを向けられたが、それも次の瞬間には揺れる。大橋が背を抱き寄せる腕に力を込めたからだ。
「俺
たちが会議室で求め合ったことを。今も、こうしていることを」
「勝手な、解釈を――……」
「勝手な解釈じゃない、現
実だ。俺はもう、直視しているし、認めているぞ。お前も、目を背けるな」
熱っぽく囁いてから、離していたわずかな時間
を埋めるように、大橋は藍田の唇を吸い上げ、味わう。
押さえつけた後頭部の髪を掻き乱すようにして求め続けていると、
大橋が与える熱に感化されたのか、ゆっくりと藍田が応え始めた。この変化は、会議室での状況と同じだ。藍田は、大橋がぶつけ
る欲情を無慈悲に跳ね返しはしない。
求めれば応じ、熱くなり、蕩けてしまう、生々しい感覚を伴った男だ。だからこんな
にも、キスだけで夢中になってしまう。
「あんたは――」
荒い呼吸の下、藍田が声を洩らす。かまわず大橋はキスを続
けようとしたが、さきほどから藍田の髪を掻き乱しているお返しなのか、髪を鷲掴まれて止められた。
「あんたは、男のわた
しとこんなことをしている現実を、受け入れていいのか?」
挑むようにきつい眼差しを向けられ、大橋は目を細める。感情
を露わにした藍田の表情はハッとするほど鮮烈で鋭くて、心地よかった。
「だからまた、こうしているんだろう。こうしたく
て、お前を俺の家におびき寄せた。お前も薄々わかっていて、あえておびき寄せられた。……お前は、俺だけじゃなく、自分の行
動も確かめたかったんだろう?」
たまらなくなって、大橋は両腕でしっかりと藍田を抱き締める。一方の藍田は、悔しげに
睨みつけてきた。
「……わたしの何もかもをわかったように言うな。腹が立つ」
「でも、当たっているよな?」
「そ
れが、腹が立つんだ」
本当に憎々しげに言った藍田だが、大橋がそっと唇を触れ合せると、ふっと視線を伏せながら、同じ
タイミングで互いを求めていた。
唇を吸い合いながら舌先で相手をまさぐり、先に我慢できなくなった大橋のほうから、温
かく湿った口腔に舌を侵入させた。
背に藍田の両腕が回されるのを感じながら、欲望のままに口腔を舐め回し、舌を絡め合
いながら熱い唾液を交わす。
キスだけでどうにかなりそうなほど、大橋は感じていた。己の欲望を深々と藍田の中に穿って
いるような錯覚すら覚え、興奮のあまり眩暈がしてくる。
藍田の舌が口腔に入り込んできたときには、ゾクゾクするような
快感が背筋を駆け抜けていた。
舌を解いて唇を離そうとした瞬間には、もう藍田が欲しくなる。後頭部を引き寄せて唇を擦
りつけると、再び藍田の中に招き入れられていた。
そんなことを繰り返すため、キスはずいぶん長かった。最初に藍田とキ
スしたときも長かったが、あれ以上だ。
ここには自分たち以外誰もおらず、また、誰も来ない。それが自制を、意識の外へ
と追いやってしまおうとする。
あるだけの理性を使い果たして、ようやくキスを終えたとき、すぐに藍田が顔を背けようと
したが、反対に大橋は、そんな藍田の顔を間近から覗き込む。あまりいい趣味とはいえないが、藍田がどんな表情をしているのか
確認したかったのだ。
藍田は、目元を赤く染めたまま睨みつけてきた。思った通りの反応に、大橋は吐息を洩らすように笑
ってしまう。そんな大橋をさらに睨みながら、ぼそぼそと藍田が言った。
「……あんたのせいで、夕飯を食べる前にキスで腹
一杯になりそうだ」
この瞬間、大橋の胸がズキリと疼く。このまま藍田を、キスだけでどこまで貪り尽くせるだろうかと、
危険であると同時に、ひどく甘美な想像をしていたのだ。
「そんなこと言わずに、たっぷり食えよ。肉はどっさり買い込んだ
し、スープも、たくさん作ってやるから」
このとき藍田は、本気で迷惑そうな顔をした。
大して興味もない夜のニュース番組をつけたままなのは、ふいに訪れる静寂を意識するのが嫌だからだ。大橋は別にかまわない
が、藍田のほうが居心地の悪さを覚えて、帰ってしまう恐れがあった。
結婚している間、妻たちに対してこれだけの気遣い
ができていれば、自分の人生は変わっていたかもしれない――。
ソファの背もたれにしっかり体を預けた状態で、天井を見
上げた大橋は笑ってしまう。心地よい酔いのせいで、いつになく笑い上戸にもなっていた。些細なことでも笑いが込み上げてくる。
もちろん、今が上機嫌だというのもある。
いつから見ていたのか、一人でニヤニヤしている大橋を、ソファにもたれるよう
にして床に座っている藍田が気味悪そうに見上げてきていた。
「……大橋さん、あんた酔ったんじゃないか。この間も思った
が、あんたは絶対、自分で思っているほど、アルコールは強くないぞ」
「潰れたら、介抱してくれ。あのときみたいに」
〈あのとき〉とは、プロジェクトを任されてすぐの頃、酔った大橋を藍田がこの部屋まで連れてきてくれたときのことを指してい
る。
藍田はうんざりしたように応じた。
「介抱というほどのことはしていない。ただ、重いあんたを引きずって、ここ
まで連れてきただけだ」
「照れるなよ」
大橋がからかった途端、ジロリと藍田に睨みつけられた。ただ、いつもよりわ
ずかに目元の雰囲気が柔らかく感じるのは、藍田も少しは酔っているからだろう。手には缶ビールが握られており、さきほどから
チビチビと飲んでいた。
二人だけの焼肉パーティーを済ませたあと、あんた一人だと心配だという藍田の言葉を受け、二人
がかりで洗いものを片付けたのだ。その後、リビングというには生活感が溢れすぎている部屋に移動して、こうして寛いでいた。
大橋としては、別に藍田が泊まったところで困りはしないのだが――。
頬の辺りがうっすら赤く染まったままの藍田
の横顔を眺める。気を抜くと、ふらふらと手を伸ばして触れてしまいそうで、大橋としては完全に酔いに身を任せるわけにはいか
ないところだ。
不思議な感覚だった。藍田はどこから見ても男で、抱き締めた体の感触も柔らかさとは程遠い、男を実感さ
せる骨格だ。なのに、それを認識すればするほど、大橋はどうしても藍田という男を欲してしまう。
男だからいい、という
のは、露骨すぎる表現かもしれないが、大橋の率直な心情としては、まさにそうとしか表現できなかった。
ソファの上でだ
らしなく体を弛緩させ続けていると、このまま横になりそうになる。その状態でも藍田を見つめ続けていると、嫌でも大橋の視線
を認識せざるをえなくなったのか、傍迷惑そうに藍田が口を開いた。
「……なんだ」
「どこから見てもお前は男だと、し
みじみ思っていた」
「当たり前のことを――」
「当たり前のことが新鮮だ。普通、そういうことはわざわざ認識したりし
ないだろう? なのに相手がお前だと、確認したくなる。俺の中のいろんなことも、な」
自分が抱えた藍田に対する気持ち
も衝動も、欲望も。すべてが、勘違いではないのだと。
大橋は、ちらりと振り返った藍田に笑いかける。ムッとしたように
眉をひそめられた。
「……暑苦しい笑顔だ」
「お前なあ、俺は繊細な男なんだぞ。傷つくこと言うなよ」
「繊細な男、
か……」
文句あるかと、姿勢を戻した大橋は、藍田の首に背後から軽く腕を回す。ふざけたふりを装いながら、実は触れた
いだけだと、藍田にバレたかもしれない。
腕を振り払うかと思われた藍田だが、おとなしく大橋の片腕の中に収まっていた。
「――……あんたが男だということは、しかも人一倍インパクトのある男だというのは、初めて会ったときからわかっている。
プロジェクトで頻繁に顔を合わせるようになってからは、なおさらだ。鼻につくほど男の匂いをさせて、男らしさを感じさせて」
褒めている口ぶりではなかった。藍田の口調にはどこか苦さが滲んでいる。その理由は、次の言葉でわかった。
「普段
は意識しないが、同性としてあんたに負けたくないと思うんだ。勝ちたいとまでは思わないが、あくまで対等でいたい。バリアー
云々と言われたときも、あんたを利用してやろうという気持ちがあるから認めた。わたしは、仕事を終える最後の瞬間まで立って
いないといけない立場だから、負う傷は一つでも少ないほうがいい」
藍田は、大橋が思っている以上に男だった。そもそも、
大橋が勝手に思い込んで、藍田を庇護する対象にしていただけともいえる。ただ、藍田が今言ったとおりでいいとも思う。
藍田は大橋を利用して、完璧にプロジェクトを終えればいい。大橋は大橋で、藍田の騎士を気取って最後まで守り通せばいい。
対等に立ちたいと願っている男を庇護していると、密かな自己満足に浸るのは、きっと罪にはならないはずだ。別に大橋は、
藍田を女扱いしたいわけではない。男だと強く認識しているからこそ、支え、守りたいと思うのだ。
「気にするな。俺は頑丈
だからな。それにお前も、いざとなれば俺を守ってくれるとわかったんだ。お互いをフォローし合っていけばいい」
それに
藍田には、もう一つのバリアーがある。
堤のことを考えた瞬間、大橋の中にふっと暗い影が差す。藍田の首に回した腕に危
うく力を込めそうになったが、寸前のところで堪える。
「――攻撃に対する防御は、基本的にあんたに任せていればいいと思
うが、今回のことは……、少し堪えた。さすがに、誰であっても防ぎようがなかっただろうな」
大橋は静かにため息を洩ら
すと、ソファに座り直して藍田の肩に手をかける。
「自殺未遂の件か」
「ああ……」
「俺は、頭をぶん殴られた気持
ちだった。薄情なようだが、なんて軽々しいことを、とも思った。こういうところで、きっと俺の冷たさは出るんだろうな」
「わたしも同じようなものだ」
肩越しに振り返った藍田がちらりと苦い表情を見せた。この瞬間の藍田の気持ちが、漠然と
だが大橋も理解できる。
上辺だけの同情より、仕事の事情を優先して考えてしまう自分は、人間として欠陥品なのではない
かと考えてしまうのだ。それとも、仕事のせいで人間らしさを失ってしまったのか――。
「……綺麗事だけでは、今回のプロ
ジェクトは何も進まない。誰かが、泥に塗れて、憎まれ役を負わないといけない」
「それが、わたしだ」
淡々とした口
調で応じた藍田に、大橋は狂おしい感情を掻き立てられる。まだ、食事の前に交わした濃厚なキスの余韻から抜け出せていないの
だ。
藍田の肩にかけた手を慎重に動かし、そっと首筋に触れる。ピクリと藍田の肩が揺れたが、手は払い退けられなかった。
「覚悟は必要だが、進んで自分を貶める必要はない。立場上や肩書きはどうあれ、お前自身が汚い存在になるわけじゃない。
それに、泥に塗れて憎まれるなら、俺も一緒だ。なんのために、プロジェクトを合同にした」
柔らかな藍田の髪を、いとお
しむように指先で掬う。こんなことをしながら話していると、まるで藍田を口説いているようだと思ったが、あながち間違っては
いない。
大橋は、藍田が自分にもっと心を預けてくれるようにと、懸命に言葉を駆使していた。ただ、藍田の心を動かすの
は容易ではない。
「――……あんたは、わたしと同じ存在にはならないさ」
「どうしてそう言いきれる」
「大橋龍平
という男は部下から慕われている。同僚からも。嫌っているのは、あんたをライバル視している奴か、あんたを手に負えないと感
じている上の人間の何人かだ。あんたを嫌う人間は、そうそういない」
藍田からそんなふうに思われていたのかと、大橋と
しては少々くすぐったくもある。なんにしても、過大評価しすぎている。
「お前は嫌われているというより、近寄りがたいと
思われているだけだ。よくわからない人間とも思われているのかもな。……数字の温室にこもって、回ってくる事案をすべて数字
で分析しているんだ。しかもお前自身、話しかけられるのは迷惑だと言わんばかりに、社内を足早に歩いている。見た目が整いす
ぎているから、冷たく見えるんだろう。言動の素っ気なさは、ちょっと問題ありかもしれないがな」
「一方で、他人の迷惑を
顧みない図々しさを持つ男もいることだしな。世の中、バランスは取れているということか」
「……図々しいっていうのは、
もしかして俺のことか?」
さあな、というのが藍田の返事だった。もちろん、こんなことで大橋は、いまさら気を悪くした
りはしない。藍田が軽口を言ってくれるようになったのだと、むしろ感動すべきかもしれない。
大橋はビールを一口飲むと、
さりげなさを装いながら、早口で告げた。
「――俺はもう、思ってないからな。藍田春記が、冷たい嫌な奴だとは」
自
分だけが藍田の実像を知っていればいいと思うのだが、おそらく堤も、大橋と同じことを考えているだろう。
藍田はすぐに
は何も答えなかったが、床の上に投げ出した両足を二度、三度と組み替えたあと、ようやくこう言った。
「わたしも、あんた
が能天気で図々しい、暑苦しい男だとは思っていない。……あんたの外見で、その神経の細やかさは、少し反則だ」
「……ひ
でー言われようだな、俺は」
「だから、あんたがそれだけの男とは、もう思ってないっ――」
ムキになったように振り
返った藍田と、思いきり目が合う。大橋は藍田の髪に触れ続けていたが、それをきっかけに藍田の頬にてのひらを押し当てた。
同性に対して、こんな触れ方をするというのはやはり不思議だが、違和感はない。それどころか、もっと触れたいという欲
求が湧き起こる。
「あっ……」
大橋の変化に気づいたのか、動揺したように藍田が体を引き、立ち上がる。缶ビールを
片手に、藍田は所在なげに大橋を見つめたあと、視線を伏せながら言った。
「もう遅いから、帰る。……今日はいろいろと、
面倒をかけた」
「藍田、そういうときは、別に言う言葉があるだろう」
逃げられた意趣返しではないが、つい意地の悪
いことを言ってしまう。大橋がニヤニヤと笑いかけると、きつい眼差しを向けられた。
「……ありがとう。それと、ごちそう
になった」
眼差しと言葉が合っていないなと思いながら、大橋は応じる。
「いーえ、お粗末さまでした」
「肉はよ
かったが、卵スープがな……」
「悪かったなっ。これから毎日作って、昼休みにお前のところに届けに行くぞ」
「それは
困る」
真顔でそう言った藍田が、次の瞬間には口元に柔らかな笑みを浮かべる。
「――……いい気分転換になった」
押しつけられた缶ビールを反射的に受け取った大橋は、半ば呆然として藍田の顔を見つめる。そんな大橋の視線から逃れる
ように藍田がダイニングに向かい、少しの間、惚けたように動けなかった大橋だが、ハッと我に返り、慌ててあとを追いかける。
藍田はすでにジャケットを羽織り、アタッシェケースを手にしたところだった。
「藍田、今タクシーを――」
「ま
だ、通りにいくらでも走っているだろう」
大橋に捕まるのを恐れるように藍田はさっさと玄関に向かい、逃すまいと大橋も
ついていく。
「――また、誘うからな」
靴を履く藍田にぼそりと告げる。顔を上げた藍田は、わずかに目を見開いたも
のの何も言わず、使った靴べらを差し出してきた。
藍田から、欲しい言葉を引き出すのは難しい。大橋は苦笑しつつ頭を掻
くと、片手を伸ばす。しかし靴べらは受け取らず、掴んだのは藍田の手首だった。
藍田の手から靴べらが落ちたが、かまわ
ず大橋は掴んだ手首を引き寄せ、もう片方の手を首の後ろにかける。
間近から互いの目を見つめ合いながら、藍田の唇にゆ
っくりと、自分の唇を押し当てる。男の唇に触れたいという衝動を――実際に触れて感じる心地よさをじっくりと味わうように。
藍田はすぐにはなんの反応も示さなかったが、十秒ほど経ってから、うろたえたように大橋の肩を押して後退る。唇に手
の甲を押し当てながら、すでに上気した頬をさらに赤くした。
「なんのつもりだっ」
「別れの挨拶」
「バッ……、バ
カかっ、あんたはっ」
そう叫んだ藍田が玄関を飛び出し、乱暴にドアが閉められる。見送るつもりだった後ろ姿はあっとい
う間に消えてしまい、大橋は壁にもたれかかって笑う。
「〈あの〉藍田春記の、声を震わせるほど動揺した姿を見たのは、俺
ぐらいかもな」
普段が怖いぐらいクールすぎる分、ギャップがありすぎる。だからこそ大橋は、強烈な一撃を食らわされた
ような気分になる。
酔いが足にきていなければ、藍田を追いかけて、思いきり抱き締めているところだ。
藍田に惚れ
てしまったと認めた時点で、年甲斐もなくこんなことを想像をしても、面映さはあっても、おかしいことだとは思わない。惚れた
相手を追いかけたいのは、当然の本能だ。
もっとも藍田のほうは、必死の形相となった大橋を見て、まず間違いなく逃げ出
すだろうが――。
「……慣らすしか、ないよなあ、あれは……」
藍田が聞いたら、興奮のあまり卒倒しそうな言葉を呟
いて、大橋は肩をすくめた。
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