サプライズ

[10]

 マーケティング本部から出た藍田は、足早に歩きながら、さきほどまで嫌というほど眺めていた電器事業本部本部長の不愉快そ うな顔を、さっさと頭の中から追い払うべく努力していた。
 いきなり電話がかかってきて、藍田はわざわざ電器事業本部ま で呼び出されたのだ。
 用件は、十日ほど前に藍田が通告した、検討会議の変更に関するものだった。新機能事業室内で早急 に新しい検討会議の形式やルールについてまとめ、内容の決裁後に、それを書面にして各部署に配布したのだが、さっそく反応が あったというわけだ。
 異議があるということで話し合いをしていたが、今のところ藍田は、結論を変える気はなかった。新 機能事業室を甘く見ての自業自得の事態だ。
 ただ、突っぱねる一方なのも、さらに反感を煽るだけなので、一応こうも言っ ておいた。
 時期を見ての改善の余地は残しておきましょう、と。
 言い換えるなら、今のところ考え直す気はないとい うことだが、藍田なりに示した譲歩を相手も無碍にできない。
 こうして、半ば強引に話し合いをまとめて、藍田は電器事業 本部のオフィスをあとにしてきたというわけだ。
 エレベーターホールまで来たところで、藍田はわずかに動揺して足を止め る。大橋の部下である旗谷弥生が、荷物を抱えてエレベーターを待っていたからだ。
 一瞬、引き返したい心境になったが、 行動に移す前に旗谷のほうも藍田に気づき、笑いかけてきた。
「――藍田副室長もこちらにご用だったんですか」
 話し かけられると、もう無視はできない。何事もなかった顔をして藍田は旗谷の隣に立った。
「ああ、ちょっとした打ち合わせに」
 ここで一度、沈黙が訪れる。当然だ。藍田は、大橋の部下であるという以外、旗谷という女性のことを知らないため、何を 話せばいいのかわからない。
 いや――。藍田は横目で、ちらりと旗谷を一瞥する。
 もう一つだけ、旗谷に関して重大 なことを知っていた。
「この間は、すみませんでした。ずっと謝らないといけないと思っていたんですけど、なかなかお会い する機会がなくて」
「えっ?」
 面食らう藍田に、旗谷が照れたように視線を伏せた。
「先日の……、わたしが、新 機能事業室に乗り込んで行ったときの……」
 そこまで言われて、やっと藍田は理解した。
「ああ、あのときか」
  旗谷にとってもいろいろあっただろうが、それ以上に、藍田と大橋にとって衝撃的で、予想外の出来事が起こった日だった。
 大橋一人が会議に呼び出されて吊るし上げられ、心配した旗谷が、藍田なら事情を知っているかもしれないと新機能事業室にや ってきたのだ。あのときの自分の心理と、旗谷に対する態度を思い出し、藍田は罪悪感に苛まれる。
 ひたむきに大橋を心配 する旗谷を見て苛立ちを覚えたのだが、今なら、その苛立ちが何からきたものなのか、わかる。
 大橋とキスした、今の藍田 なら――。
「補佐に何かあったのかもしれないと思ったら、頭に血が上ったんです。気がついたら、オフィスを飛び出して… …」
 エレベーターが着いて扉が開いたが、人の耳を気にしながら話すことではないため、藍田は旗谷を促して、エレベータ ーホールの隅へと移動する。
「君の様子が尋常でないのは、見てすぐにわかった。ひどい顔色をしていたからな」
 藍田 の言葉に、旗谷はちらりと笑う。
「プロジェクトを任されてから、補佐の周囲がいろいろとごたついていたものですから、す っかり、心配する癖がついていたみたいなんです。だから、あんな大騒ぎをしてしまって。藍田副室長だけでなく、堤くんにも迷 惑をかけました」
「わたしは気にしていないし、堤も、君のところの事情はよくわかっているから、心配こそすれ、迷惑なん て思っていないだろう。こちらも、似たような状況だ」
「そう言っていただけると、わたしも気が楽になります」
 訪れ る沈黙を予期して身構えた藍田だが、次の瞬間、旗谷が堅苦しい口調を変えて、ふっと洩らした。
「――……鉄砲玉みたいな 人だから、側にいるほうがハラハラするんですよね。あっと思ったときには、もう飛び出していく感じで。わたしも補佐のことは 言えませんけど」
 高柳から大橋の吊るし上げの話を聞いて、オフィスを飛び出してしまった藍田としても、大橋や旗谷のこ とは言えない。
 曖昧な相槌を打つと、特に気にした様子もなく旗谷は話を続けた。
「それでなくても、今任されている プロジェクトはいろいろと大変そうで……。誰かに逆恨みされても不思議じゃないというか――」
 ここまで言って、小さく 声を洩らした旗谷が口元に手をやり、うかがうように藍田を見た。こんなときに笑みを浮かべられるほど器用でない藍田は、代わ りに首を横に振る。
「気にしなくていい。本当のことだ。大橋さんはそれでなくても、わたしに降りかかる厄介事の矢面に立 ってくれているし。わたしの知らないところで、いろいろと大変だと思う」
「……補佐自身、上からは睨まれる性格ですから。 その分、部下からは慕われているんですけど」
 いかにも仕事ができ、気丈そうな旗谷の口調に、少女めいたはにかむような 響きが混じる。その響きを感じ取っただけで藍田は、旗谷が大橋に向ける気持ちを改めて、汲み取った。
 上司に向ける以上 の信頼と――愛情。
 旗谷が新機能事業室のオフィスに来て取り乱している姿を見たときから、鈍い藍田といえどさすがに察 していた。ただ今は、胸をつかれた気がした。
 美人だという以上に、なんとなく匂い立つような雰囲気を漂わせた旗谷は、 十分すぎるほど魅力的だ。そんな旗谷から思いを寄せられ、悪い気がする男はいないだろう。
 会社で大半の時間をともにし ている大橋は、彼女に対して気持ちが揺れることがないのだろうかと、藍田はぼんやりと考える。
 本来なら、大橋のような、 やはり魅力的で精力的な男が、抱擁したりキスしたりするべき相手は、旗谷のような女性なのだ。少なくとも、同性であり、おも しろ味のない人間である藍田ではないはずだ。
 自らを卑下して、藍田の胸が痛んだ。
 胸が痛むということは、大橋と の間にあった行為に、なんらかの感情が伴っているということだ。それがなんであるか、今は直視したくなかった。きっとさらに、 胸が痛くなる。息もできなくなるほどに。
「君が――」
 藍田が口を開くと、旗谷が驚いたように見上げてくる。あえて 旗谷のほうを見ないようにしながら言った。
「君たちが、大橋さんを支えてやってくれ。わたしは自分の仕事で手一杯で、大 橋さんをフォローするどころじゃない。それどころか、わたしが大橋さんにフォローされているのが現状だ。これからもっと大変 な状況になるだろうから……、何より心強いのが、信頼できる部下の支えだ。特に君は、大橋さんから一番頼られている気がする」
 わかりました、と旗谷が強い口調で応じる。ここで即座に返事ができる旗谷に、羨ましいというより、嫉妬のような感情の 芽生えを藍田は覚えた。




 心なしか、旗谷の機嫌がいつになくいい気がする――。
 仕事をしながら大橋は、ちらちらと旗谷の様子をうかがっていた。 いつでも、どんな状況でも有能すぎるほどできた部下の旗谷だが、今日は特に、いつになく動作がきびきびとしている。何より、 愛想が普段の三割り増しだ。
 午前中、打ち合わせで席を外していたのだが、戻ってきてからずっとあの調子なのだ。どこか の部署の命知らずの男から、口説かれでもしたのだろうかと考えてはいるが、本人に確かめようという気はない。
 機嫌が悪 いよりずっといいではないか。大橋は自分に言い聞かせてから、仕事に集中しようとする。
 そのとき、ジャケットのポケッ トに入れたままの携帯電話が震えた。取り出して表示を確認した大橋は、スッと表情を消した。相手は、電材営業本部第三課課長 の織田だった。今、仕事中に織田が電話をかけてくる用件は、一つしか思い浮かばない。
 大橋は素早く立ち上がると、ちょ っと席を外すと言い置いて、オフィスを出る。足早に歩きながら電話に出た。
「ちょっと待ってくれ。今、場所を移動してい る」
 たまたま目に入った喫煙室の中を覗くと、運よく誰もいない。中に入った大橋は、ドアを閉めると同時に話し始めた。
「何かわかったか?」
『いろいろと。いいか、俺が知った情報の順番に話すぞ』
 ああ、と返事をした大橋だが、到 底落ち着いてイスに座る気にもなれない。窓際に歩み寄り、形だけは外の景色に視線を向ける。
『――白石は、五日前に退院 していたらしい』
 自殺を図ったと聞かされたのが一週間ほど前だ。入院していた期間からして、重篤なものではなかったの かもしれない。
『白石は当然ながら、自宅療養。その代わり、母親が会社に来て、白石の上司に説明と、騒動の謝罪にきた。 母親が、白石の部屋にあった日記を読んで、事情がわかったそうだ。遺書っていうのは、日記に書いてあった内容がそれだったみ たいだな。……電材営業本部の品質管理課の課長とつき合っていて、最近うまくいってなかったらしい』
「もしかして……」
『不倫だ。揉めたあと、発作的に薬を呑んだようだな』
 思わず舌打ちをした大橋だが、自分でも何に苛立ってそうした のか、よくわからなかった。はっきりしているのは、聞いて気持ちのいい話ではないということだけだ。
『白石の母親として は、自分の娘だけが傷ものにされたという意識もあるんだろうな。その不倫相手を出せといって、一悶着あったようだ。会社とし ても、今の大事な時期に、不倫騒動で女性社員が自殺未遂なんてこと、表沙汰になったら困るからな。早々にその課長を呼び 出して、事情聴取だ』
「認めたのか?」
『ウソをついたところで、つき通せるものじゃないだろう。相手は、自殺未遂ま でしたんだ。どっちを信じるかと言われれば――』
 大橋は大きくため息をつき、前髪に指を差し込む。
「……織田、お 前は知ってるのか。その課長っていうの」
『若手の中じゃ、やり手だろうな。俺たちよりいくつか下だ。何年か前の、お前み たいな存在だといえばわかりやすいか? 仕事はできて人望があり、そのうえイイ男』
「やめろよ。少なくとも俺は、結婚し ているときに、他の女に手を出したりしなかったぞ」
『迂闊そうに見えて、お前はそこのところは隙がなかったからな』
 俺は同期の間で、どう見られていたのかと、今になって気になる。だが、あえて問いかけるほどのことではない。
『法務 の人間に聞いたわけじゃないが、社内法規に照らし合わせて考えると、白石は自主退社という形を取らされるだろうな。迂闊な男 のほうも、自宅待機と減給を命じられて、その間に辞表を準備するよう耳打ちされるんじゃねーかと……』
「迂闊、か。だっ たら、ドジを踏まないようにやれと言っているようで、なんだかすっきりしないな」
 大橋の脳裏に浮かぶのは、藍田の姿だ った。自分が藍田に惚れたのも、また、抱き締めてキスしたことも、〈迂闊〉という単語に括られてしまうのだろうかと、考えて しまう。
 善悪の問題ではなく、他人の目からどう見えるかという話だ。確実に、異質の目で見られ、人間関係も仕事環境も 変わるだろう。だが、他人から断罪されることではない。そんなことは、大橋が許さない。
 面倒だからと社内恋愛を避けて いた大橋だが、実際は、社内恋愛であると同時に、さらに困難な恋愛に片足を突っ込んでいるのだ。片足であるのは、あくまで今、 大橋の完全な片思いだからだ。
『まあ実際、こんな形で不倫がバレるのは、最悪だ。社内には、もっと上手くやっている奴は 他にいるだろう。……統計を取ったわけじゃないがな。俺は不倫願望はないし』
「お互い割り切れる相手を見つけるのが大事、 ってことか」
 自分で言って、心底嫌な気分になる。仕事のためとはいえ、こういう下世話な話は好きではなかった。
「不倫の話はいいんだ。つまり、白石という女性社員の自殺未遂の原因は不倫で、今回のプロジェクトは関係ないと思ってもいい んだな」
『当事者じゃない俺が断言はできないが、プロジェクトの件云々というより、不倫のもつれというほうが説得力はあ るだろう。母親が会社に来て、日記には不倫の記載。相手の男が事情聴取もされたとなると。事業部の設立申請が止められたこと も、白石が精神的に不安定になる原因の一端として説得力はあるかもしれないが――不倫騒動のほうがインパクトはでかい。本当 のところは、不倫をして、自殺未遂をした当人にしかわからん』
 その白石という女性社員も、おそらくもう、会社に顔を出 すことなく辞めるだろう。
「……その話は、すぐに間に社内に広がるだろうな」
『まあな。もう電材営業部全体に広がっ てる。ちなみに、白石の母親がやってきたのは、今朝なんだがな』
「それだけインパクトのある話なら、女性社員が自殺を図 ったのは、事業部統廃合のプロジェクトのせいだなんて地味な噂話、あっという間に消えるだろうな」
 ぼんやりと大橋が洩 らした言葉に、電話の向こうで織田が短く笑い声を洩らした。
『お前、怖いねー。思考の基本が、プロジェクトが順調に進む かどうかになってるだろ』
 それもあるが、社員の自殺を図った原因に関して藍田が思い悩むことが、大橋には心配なのだ。 起こってしまったことを、大橋はどうすることもできない。ただ、無責任な噂が広がらないよう、努力はできる。
 残酷なよ うだが、そのためにはある程度、不倫話が広まってもらうほうがありがたい。
 こういうところで、エゴイストの本領発揮な んだろうなと、大橋は苦々しさに唇を歪める。
「俺は、物事にはっきり優先順位を決めるんだ。一番大事なものを優先するた めには、二番目も三番目もけっこう平気で犠牲にする。……これまでのカミさん二人は、多分、こういうところが嫌だったんだろ うな。冷たく感じられて」
『だが言い換えるなら、お前の一番目になると、何を犠牲にしても大事にしてもらえるってことだ。 もっとも、今のお前の優先順位一番は、仕事だろうがな。仕事には、情はないぞ。ありったけの感情を注いだからって、見返りが あるとは限らん。下手な女より、薄情だ』
 耳に痛い忠告だと思いながら、大橋は短く笑い声を洩らす。
「わかってる。 俺だって、十年以上サラリーマンをやってるんだぞ」
『仕事が一番もいいが、そろそろ、三番目の奥さん候補はいないのか』
 思わず咳き込んだ大橋の反応に、同期であり友人でもある織田は感じるものがあったらしく、電話の向こうで意味ありげに 声を洩らした。
「……なんだ」
『いーや、なんにも。――今の彼女は、しっかり捕まえておけよ。いくらイイ男の大橋部 長補佐でも、さすがに三番目の奥さんになろうなんて肝の太い女は、なかなか見つけられんぞ」
 バカヤローと怒鳴ろうとし たが、その前に電話は切られ、大きく口を開けていた大橋は、寸前のところで言葉を飲み込む。
 少しの間、次に自分が何を すべきか、まったく考えられなかった。実は最後の織田の言葉に、思いがけず動揺していたのだ。
 単なる冗談だと言ってし まえばそれまでだが、居たたまれなくなるほどの気恥ずかしさを味わう。それと、多少の後ろめたさも。
 藍田に対して特別 な感情を抱いていることは、犯罪ではないと胸は張れるが、誰にでも吹聴できることではない。大橋個人で済む話ではなく、あま りに周囲に与える影響が大きすぎる。
 惚れた腫れたという状態は、一つの病だ。自分では手の施しようがなくなった挙げ句 の例として、電材営業本部第一課の主任という肩書きを持ちながら、不倫の果てに未遂とはいえ自殺を図った白石という女性社員 のことがある。
 肩書きで恋愛をするわけではないのだが、肩書きに責任が伴うのは事実だ。
 ここであれこれ考えてい ても仕方ないと、大橋は携帯電話を握り直す。今頃、この件で胃を痛めているであろう男のために、一刻も早く情報を知らせてや りたかった。




 仕事中、突然電話がかかってきて、今すぐ資料階まで降りてこいと言われたら、本来であれば、『何様だ』の一言で電話を叩き 切っているだろう。そんな無礼な電話をかけてきたのが、向かいのオフィス企画部部長補佐であれば、なおさらだ。
 しかし、 電材営業本部第一課の主任のことで知らせたいことがあると言われれば、藍田は否とは言えなかった。
 自殺を図ったという 女性社員の身に何かあったのかと、藍田は反射的にイスに座り直していたが、気配を察したように電話の向こうから大橋に言われ た。
『安心しろ。彼女はとっくに退院している』
 だったら何が、と言いたかったが、周囲の部下たちの耳と目を気にし て、藍田は短く低く応じた。
「今から行く」
 受話器を置いてすぐに立ち上がると、部下の誰とも目を合わせることなく、 足早にホワイトボードの前まで行く。『離席』とだけ書き込み、半ば逃げるようにオフィスをあとにしていた。
 後ろめたさ よりも、羞恥心のほうが藍田の心を染めてしまう。
 何も知らない社員たちにしてみれば、合同プロジェクトのリーダー二人 が社内のどこで立ち話をしていても、奇異の視線を向けられることはないだろう。別に、コソコソと資料階まで降りる必要はない のだ。やましいことがなければ――。
 歩きながら藍田は、無意識に唇を噛んでいた。もう二度、大橋とキスしている。それ どころか、部下である堤とも。
 やましいところだらけだ。
 藍田は心の中で呟くと、乱暴にエレベーターのボタンを押 す。意味ありげに資料階に呼び出す大橋に腹が立ったが、それ以上に、今この瞬間、旗谷の顔が脳裏にちらつく自分自身にむしょ うに腹が立った。
 自分と大橋が動くたびに、事態も環境も人間関係も複雑になっていくようだ。
 資料階に降りたら、 すぐに大橋とともに地上に移動するつもりだった藍田だが、いざ、人気のない資料階に降りると、八つ当たりに近い苛立ちは萎え、 ひどく緊張してしまう。
 どんな顔をして大橋と会うか、初心な小娘のようなことまで考えていた。
「――藍田」
  呼ばれてハッと顔を上げると、資料階の入り口の前に大橋が立っていた。ここで一度、藍田の心臓の鼓動が大きく鳴る。
 向 かいのオフィスでたびたび大橋の姿は見かけているが、こうして顔を合わせるのは、実は大橋の自宅で別れて以来だった。しかも 別れる間際、大橋は藍田に何をしたかというと――。
 藍田は無表情を取り繕いながら、社員証を提示して、名簿に必要事項 を書き込む。
 すでに手続きを済ませていた大橋に伴われ、オフィス企画部の資料倉庫に向かった。
「……それで、〈あ のこと〉で話したいというのはなんだ」
 大橋の気合いの表れか、すっかり荷物が片付けられ、閑散とすらして見える資料倉 庫内を見回しながら、素っ気ない口調で藍田は尋ねる。
「俺も今聞いたばかりなんだが――」
 そう切り出した大橋の口 から語られた話に、藍田はまず目を丸くしてから、次第に眉をひそめ、最後は自分でも、渋い表情になるのを抑えることができな かった。
「不倫……。しかも、なんというか……最悪だな」
 芸のない藍田のコメントに、大橋は生まじめな顔で頷いた。
「最悪だ。当事者たちにとってはな。不倫するほうが悪いと言っちまえば、それまでだが、大人の男と女として、もっと他に やり方がなかったのかと――他人は簡単に言えるんだよな」
 口元に手をやった藍田は、深々と息を吐き出す。現金だが、大 橋の話を聞いて、肩から力が抜けていた。もっとはっきり言うなら、安堵もしていた。
 女性社員の自殺未遂の原因が、不倫 の挙げ句のトラブルで、しかもそのことが会社にまで知られる事態となっている。センセーショナルではあるが、わかってしまえ ば、拍子抜けするようなトラブルだ。時期が時期でなければ、藍田は気にもとめなかっただろう。
「あんたが今言ったこと、 確かな情報なのか?」
「俺の同期からの情報だ。そいつも電材営業本部にいて、いままで、そいつから流してもらった情報で ガセだったものは一つもない。お前も会ったことがある奴だ。前に、みんなで飲み会したときにいた。まあ、今は信じられなくて も、明日には営業部門全体に広がってるだろうから、それから信じても遅くはない」
「……信じないとは言ってない。ただ、 わたしが想定していた事態とは、あまりに違うから……」
 口元に微かな笑みを浮かべた大橋が、ふざけた動作で顔を覗き込 んでくる。
「俺たちのプロジェクトのせいだと責められて、社員たちから石でも投げられる覚悟をしていたか?」
 藍田 は、悪びれた様子もなくそんなことを言った大橋の顔を睨みつけてから、ふいっと視線を逸らす。この男を相手に、いままでの自 分はどうやって頑なな態度を取っていたのか、思い出せなくなっていた。性質が悪いことに大橋は、藍田の内側に入り込んでしま ったのだ。そして、居座ってしまった。
「似たようなことは……、想定していた」
「だからお前、胃を悪くするんだ」
「あんたみたいな能天気のほうが、存在としては稀有だ」
「お前みたいな、寒風吹き荒れるツンドラ地帯のような奴のほ うが、珍しい。……まあ、それだけじゃないって、今はわかってるけどな」
 大橋が照れ臭そうにぼそぼそと言った言葉より、 その前半の言葉のほうが藍田は気になる。
「――……ツンドラ……?」
「こっちの話だ。気にするな」
「わたしが冷 たいと言いたいんだろう」
 冷ややかに藍田が指摘すると、大橋がここで初めてうろたえた様子を見せる。
「だから、こ の間俺のところでメシを食ったときに言っただろっ。今は思ってないって。人よりクールだとは思うが、そのクールさが俺は――」
 勢い込んで話していた大橋だったが、唐突に言葉を切る。藍田は、そんな大橋をじっと見つめていたが、互いに目が合った のを機に、話が妙な方向に行っていることを自覚した。
 藍田は足元に視線を落としながら、強引に話を元に戻す。
「… …なんの話をしているんだ。とにかくあんたは、女性社員が自殺を図った原因が、不倫のもつれだと言いたいんだろう」
「あ、 ああ。まあ、そういうことだ。実際のところ、いくつかの要因が重なって自殺を図ったのかもしれないが、大多数の人間は、不倫 ネタのほうに飛びつくだろうし、会社としても、男女の問題がこじれたという理由のほうがありがたいはずだ。――俺としても」
 藍田は軽く目を見開いて、大橋を見た。
「わかりやすい理由が表沙汰になってくれて、助かったと思っている。少なく ともそれで、こちらが抱える心理的負担はずいぶん軽くなった」
 今は二人きりで話しているのだなと、藍田は実感していた。 大橋の言葉は率直で、正直だ。藍田の複雑な心理を、明確に代弁もしてくれている。他の人間が側にいたなら、絶対に口できない 内容だ。
 藍田は口元に淡い苦笑を浮かべた。
「この間、言っただろう。……わたしも、あんたと似たようなものだ。面 倒事は一つでも少ないほうがいい。理由はどうあれ、社員が自殺を図ったというのに、それすら面倒事の一つだ。わたしにとって は」
「藍田……」
「別に、自分を貶めているつもりはない。綺麗事で取り繕うつもりもないし、何より……わたしと似た ような男が、今目の前にいるしな。あんたが清廉な男だったら、わたしだけが現金な人間なのかと腹が立って仕方なかっただろう が、そうじゃない」
 気持ちが焦り、自分でも止めようがないまま口が動く。大橋に指摘されたとおりだ。やはり藍田は、焦 ると言葉数が増えてしまう。
「これから先、社員たちにいくらでも嫌な思いをさせて、実際につらい目にも遭わせるだろう。 その現実を目にするたびに思い悩んで、胃を痛めるつもりは、わたしはない。わたしはとにかく動き続かないといけないし、落ち 込む時間も惜しい。……そのために、あんたの図太さを分けてもらいたいと思っている」
 何か言葉が返ってくるかと思った が、大橋から返事はない。ただ、見つめられていた。
 まじまじと見つめてくる大橋に、そんなに見るなと怒鳴りつけたくな る。自分がとんでもないことを言ったような気になって、落ち着かなくなるのだ。
「……何か言いたそうだな」
「いや、 やっぱり不思議だと思って。こうしてお前が、心情を吐露してくれているという状況が。プロジェクトを任される前には、せいぜ い向かいのオフィスから、お前に冷たーい視線を向けられるぐらいだったのにな」
「その頃に戻りたいか?」
 何げなく ぶつけた問いかけに、大橋は思いがけない反応を見せた。いきなり、藍田の肩に両手をかけ、顔を覗き込んできたのだ。
「― ―お前はどうだ」
 肩にかかった大橋の手に力が込められ、少し痛い。
 純粋に仕事の話をするためだけにここに来たの だが、その前提はもう脆く崩れかかっている。藍田は、真正面からぶつけられる大橋のまっすぐな眼差しにたじろぎ、わずかに視 線を伏せた。
「質問に、質問で返すな……」
「俺がまじめに答えたら、お前もきちんと答えるか? 俺は、逃げ出したく なるようなこっ恥ずかしい言葉を、臆面もなく言える図太い神経の持ち主だぞ」
 冗談に紛れ込ませた言葉の内に、空恐ろし くなるような本気を忍ばせていると、肌で感じてしまう。
 藍田が臆しているとわかったのか、大橋は子供のように得意げに 笑って言葉を続けた。
「いいか、俺はお前と――」
 とんでもないことを言われそうな予感がして、藍田は咄嗟に反応し ていた。










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