[11]
普段は痺れるほど冷ややかでクールな男が、目の前で動揺し、頼りない表情を見せたものだから、つい大橋のイタズラ心に火がついて
しまった。
好きな子をイジメてしまうガキの心理で、楽しくなった大橋が言葉を続けようとしたが、一瞬早く、ぴしゃりと
藍田が言い放った。
「聞きたかったことは聞いたから、わたしはもう戻るぞっ」
肩を突き飛ばされ、不意を衝かれた大
橋がよろめくと、その隙に藍田が逃げるように足早に立ち去ろうとする。咄嗟に、動物並みの条件反射で藍田の腕を掴んでいた。
振り返って睨みつけてきた藍田の顔は――うっすらと赤く染まっている。すかさず大橋は、心の底から反省した。
「…
…悪かった。ちょっと、調子に乗った……」
「ちょっと?」
きつい口調で藍田に返され、大橋は言い直す。
「かな
り、調子に乗りました……」
そのまま藍田は行こうとしたが、大橋が掴んだ腕を離さなかったため、抵抗らしい抵抗もせず、
側に戻ってきた。
藍田に呆れたような顔をされ、叱られる子供のような居たたまれなさを覚えながら大橋は、大柄な体を小
さくする。あくまで、その努力をするだけだが。
「――わたしたちは、ほんの数分前まで、まじめな話をしていたはずだが…
…」
「そう、です」
「気が楽になったというのもわかる」
「……はい」
これ以上なく大まじめに返事をしたと
いうのに、藍田が黙り込んでしまう。大橋は、うかがうように藍田を見て、目を丸くする。なぜか藍田が、戸惑ったような表情を
浮かべていたからだ。
「藍田?」
「今のふざけた雰囲気は、ちょうどいいのかもしれない」
藍田が洩らした独り言
の意味がわからず、首を傾げる。だが次の瞬間には、大橋は姿勢を正すことになる。藍田の腕を掴んだ手に、その藍田の手がかか
ったからだ。
「――……大橋龍平という男がどういうつもりなのか、よくわからない」
藍田の手にわずかに力が込めら
れ、手を握られる感触に大橋の体は熱くなる。まるで、初心なガキのような反応だった。
「えっ、あっ……、どういう意味だ」
ふっと藍田の表情が変わり、大橋がよく知っている冴えた眼差しを向けられる。何を言われるのかと身構えた大橋に対し、
藍田は予想外のことを口にした。
「さっき偶然、彼女に会った」
「彼、女……」
「旗谷弥生。あんたの部下だ」
はあ、と声を洩らすしかない。同じ会社で働いており、しかも互いのオフィスは中庭を挟んでいるとはいえ、向かい合っている。
ほぼ毎日、顔を見ていると言ってもいい存在だ。
何が珍しいのかという大橋の感想は、そのまま表情に出たらしく、藍田は
ムッとしたよようにわずかに眉をひそめた。
「エレベーターを待つ間、少し話したんだ。……この間、あんたが吊るし上げを
食らった会議の最中、心配した彼女が、新機能のオフィスに来たんだ」
「ああ、それなら聞いた。お前に何か聞けばわかるん
じゃないかと考えたって、旗谷の奴は笑いながら言ってたが――」
冷ややかだった藍田の眼差しが、今度は険を帯びる。
〈何か〉に怒っているらしい。心なしか、大橋の手を掴んでいる藍田の手が少し熱くなってきたように感じる。
それらの藍
田の反応に感化されるように、大橋の心臓の鼓動はいくぶん速くなっていた。
「わたしが見たあのときの彼女は、必死だった。
……鈍いわたしでもわかる。彼女は……旗谷弥生は部下の立場を超えて、オフィス企画部部長補佐ではなく、大橋龍平個人の心配
をしていた。彼女はあんたを、男として好いている」
言われた内容よりも、藍田の口から出た『好いている』という響きに、
大橋の胸はズキリと疼き、藍田の体温や体の感触、吐息や髪の匂いすら鮮やかに蘇る。生身の藍田春記が、たった一言から透けて
見えたのだ。
大橋は掴まれている手を素早く抜き取り、反対に藍田の手を握る。うろたえたように藍田が目を見開いた。
「大橋さんっ……」
「気にするな。続けろ」
自分でも勝手を言っていると思ったが、もっと藍田の言葉が聞きたか
った。藍田の、仕事という建前を取り払った言葉を。
藍田は逡巡するように視線をさまよわせてから、腹が据わったように
まっすぐ大橋を見つめてきた。その眼差しに負けないよう、大橋も見つめ返す。
「――あんた、気づいているんだろう。彼女
の気持ちを」
「気づいているが、応えてやれない。だったら気づかないふりをして、いい部下として接し続けているほうがい
い」
ここで藍田が、とんでもない切り返しをしてきた。
「どうして、応えてやれない……? 旗谷弥生は、あんたとお
似合いだと思うが。向かいから見ていて、よく楽しそうにしているし、他の女性社員とは、あんたの彼女に対する態度は違う気が
する」
大橋は天井を仰ぎ見て、大きくため息をついていた。嫌というほど思い知らされたのは、藍田は、大橋がしたキスの
意味を理解していないということだ。もしかすると、理解していながら、信用していないのか――。
気を取り直し、藍田の
肩に再び両手をかける。真摯な気持ちで問いかけた。
「お前は、俺がいい加減な男に見えるか?」
見えない、と即答し
てもらいたかったわけではないが、藍田は困惑した表情同様、困惑気味に答えた。
「……わたしは、大橋龍平という男がいま
だによくわからない。知り合ってから十二年経つが、そもそもつき合いは浅かったし、滅多に顔を合わせなかった。頻繁に話すよ
うになったのは最近だ。それが、今日までの短期間の間にいろいろありすぎて、いまだに自分の中で整理できていない」
藍
田が語る〈いろいろ〉の中には、きっと堤のことも含まれているのだろう。瞬間的に湧き起こった激しい感情が暴発しそうになっ
たが、ギリギリのところで大橋は堪える。代わりに、ジャケットを通してもわかる藍田の骨ばった肩をぐっと掴んだ。
触れ
るだけで、自分が抱えた狂おしく激しい感情が伝わってくれないだろうかと、そんなバカげたことを考えてしまう。
暴走し
かける気持ちとは裏腹に、大橋は余裕があるふりをした。
「まあ、お前が納得するまで、俺のことをじっくり知っていけばい
い」
「……何を」
「なんでも。聞いてくれれば、俺に関することならなんでも教えてやるぜ。なんなら、身長・体重・ス
リーサイズから教えてやろうか?」
「必要ない」
藍田に素っ気なく返され、ガクッと肩と落とす。藍田と冗談を交わせ
るようになるには、かなりの忍耐が必要かもしれない。
その前に、自分の神経がズタズタになるかも――と、顔を伏せたま
ま大橋が苦笑を洩らしたとき、ふいに髪に何かが触れる。上目遣いに見上げると、藍田がまじめな顔をして大橋の髪に触れていた。
一体何が起こったのか、すぐには理解できなかった。藍田が、自分から触れてきているのだ。大橋は呆然としたまま動けず、
声も発することができない。
その間にも、藍田は大橋の髪を撫で、頬に指先を這わせてくる。この瞬間、大橋の背筋には強
烈な疼きが駆け抜け、小さく身震いしてしまう。一方の藍田は、まるで商品の検品でもするかのような淡々とした様子で、とうと
う両手で大橋の顔に触れてきた。
てのひらで頬を撫でられ、鼻や唇、目元は慎重に指先が這わされる。耳の輪郭すらなぞら
れたときには、大橋は腰が砕けそうになっていた。
首から肩にかけててのひらが這わされるようになると、なんとなくだが
大橋にも、今のこの状況がわかりかけてきた。藍田なりに、大橋という人間を知ろうとしているのだ。多分。
何を考えてい
るのかわからないから、まずは外側から、といったところか。
堪えきれずに笑みをこぼした大橋は、両手をあげて降参のポ
ーズを取る。気が済むまで好きにさせようと思った。
そのつもりだったのだが――。
藍田がふいに体を寄せてきて、
ドキリとする。ジャケット越しに脇腹に触れられ、無意識に背筋が伸びてしまう。
実は挑発されているのではないかとすら
考えてしまうが、当の藍田は相変わらず無表情――というより、至極真剣だ。
抱き締めたいという欲求が当然のように芽生
え、抗う術もなく即座に行動に移そうとしたが、大橋の邪気を感じ取ったのか、我に返ったように目を見開いた藍田が、次の瞬間
にはパッと体を離した。
「あっ……」
うろたえたように藍田が短く声を洩らし、何を言い出すのかと大橋は待ち構える
が、表情を変えないまま内心ではうろたえているのか、藍田は微かに動かした唇をすぐに引き結んでしまう。
そんな藍田の
様子を目の当たりにして、大橋までうろたえ、いつもの要領のよさが発揮できない。
なんでもいいから話題を、と焦りなが
ら頭をフル回転させていると、先に藍田に言われてしまった。
「――……あんた、肉の食べすぎで、少し太ったんじゃないか」
予想外の方向からきた話題に、完全に大橋は虚を衝かれ、目を丸くする。藍田は、大橋が向ける視線に居心地悪そうに顔を
しかめた。
案外、自分の話題の選択の悪さを、内心で罵っているのかもしれない。
「さっきのは、最近、あんたの腹が
出てきているように感じたから……、確認してみただけだ」
そう言い置いて藍田が、半ば逃げるように足早に立ち去ってし
まう。大橋は、ただその場に立ち尽くして見送ることしかできなかった。
「まいった……」
重々しくドアが閉まった音
を聞いて、ぽつりと洩らす。次に大きく息を吐き出すと、頑丈な棚にもたれかかった大橋は、数秒の間を置いてから噴き出してい
た。普段の藍田からは考えられない言動に、おかしくてたまらなかったのだ。
だがそれもわずかな間で、あっという間に笑
みを消すと、深刻な顔をして腕組みをする。苦々しく独りごちていた。
「〈あれ〉は、反則だろう。なんなんだ、〈あれ〉は。
凍えるほどクールな、ツンドラみたいな男が、なんだってあんなことするんだ。しかも、あの言い方……。俺は常に、ベスト体重
維持だぞ。腹の肉が掴めるわけねーだろ」
冷静を装えたのは、ここまでだった。急速に、顔どころか全身が熱くなってきて、
大橋は口元に手をやる。
あれは反則だ、と心の中で呟く。完璧に、ヤられてしまった。ノックアウトだ。
顔や体に触
れられたことだけではない。その前に、旗谷のことを話していたとき、藍田はいつにない〈色〉を帯びていた。ふわりと柔らかく、
艶かしい、そんな色だ。
藍田が残したものを心の中で堪能したいがために、すぐにはその場を動けなかった大橋だが、数分
ほどして、舌打ちをすることになる。
女性社員の自殺に関することだけではなく、実は藍田に、もう一つ報告しておくこと
があったのを思い出したのだ。東京支社内にある福利厚生センターから派遣されてきた、鹿島のことだ。
宮園に、鹿島とい
う男についての調査を依頼したのだが、藍田にはまだ、鹿島の存在自体を知らせていない。大橋自身、たったいままで忘れていた
ぐらいで、特別重要視しているわけではない。世間話のネタ程度のことだ。
「……まあ、あとで電話すりゃいいか……」
そう呟いた次の瞬間には、頭の中から鹿島のことを追い払う。不粋な現実に引き戻される前にもう少しだけ、さきほどの藍田と
のやり取りの余韻に浸っていたかった。
ただでさえ忙しい藍田だが、急遽、週末からリーダー研修の予定を組み込まれたおかげで、忙しさに拍車がかかっている。でき
ることなら、オフィスから一歩も出たくないほどに。
研修中の間に進めておくべき仕事の段取りや、指示をまとめながら、
藍田は自分でも気づかないまま、眉をひそめ、不機嫌に唇を引き結んでいた。もっとも、部下たちにとっては藍田の変化など些細
なものとして気づきもしないだろう。
大橋のプロジェクトから回ってきた書類を手にしたところで、藍田はふと、あること
を思い出した。一昨日、資料倉庫で大橋と会ったとき、研修の件について話すのを忘れてしまったのだ。
困ったことに、藍
田が二泊三日の研修に出かけているときに、合同プロジェクトの報告会がある。藍田がいなくても困らないよう、今、顔をしかめ
ながら資料を作り上げたところなのだが、さすがに、この資料を渡すとともに、大橋に知らせておかなければならないだろう。な
んといっても、藍田のパートナーだ。
短く息を吐き出した藍田は、さりげなく向かいのオフィスに視線を向ける。相変わら
ず大橋は、見るからに精力的に仕事をしている最中だ。
何か書いていたかと思うと、弾かれたように立ち上がり、どこかに
行ってしまう。しかし数十秒もすると、勢いよくデスクに戻り、猛然と仕事を再開する。すると、そんな大橋を追いかけるように
部下がデスクにやってきて、促された大橋はまた立ち上がり――。
「……いい歳なんだから、少しは落ち着けないのか、あの
男は……」
小さく呟いた藍田は、手にした書類に署名してから、一冊のファイルを引き出しから取り出す。この書類と一緒
に、ファイルも大橋に回さなくてはならない。
ただ、一昨日のことがあり、顔を合わせにくいというのが、正直なところだ
った。
〈あれ〉は、なんだったのか、藍田自身にもわかりかねていた。気がついたときには、大橋の髪に触れ、頬を撫で、そ
れ以外の部分にもてのひらを這わせていた。大橋について知りたいこと、と考えているうちに、意識に妙なスイッチが入ったのか
もしれない。そんな無理やりな理屈でなければ、あの行動に説明がつかない。
驚きと同時に戸惑ったような表情で両手を上
げていた大橋の姿を思い出すたびに、藍田は必死に仕事に逃げ込まなければならないのだ。
ファイルに書類を挟んでから、
周囲を見回す。手が空いていそうな部下に、大橋に届けてもらおうと考えたのだ。
そして運が悪いことに、しっかりと堤と
目が合ってしまった。勘がいい男は、藍田が部下の手を必要としていることを素早く察し、あっという間にデスクの前までやって
きた。
「――どうかしましたか?」
「あっ、いや……。わざわざ、お前に頼むほどの用では……」
「俺、これからオ
フィス企画部の旗谷さんのところに持っていくものがあるので、何かあるなら、一緒に持っていきますよ」
堤のあまりの察
しのよさに、思わず視線をファイルに落とす。表紙には、[オフィス企画部・大橋]と、藍田自身の字で書かれている。これでは、
誤魔化しようがない。
藍田は軽くため息をついてから、ファイルを差し出す。
「これを大橋さんに渡してくれ。それと
――」
来週から研修に出かけることを大橋に伝えてほしいと言いかけたが、さすがにそれはやめた。堤と大橋が長々と会話
を交わす光景は、あまり眺めたくはなかった。藍田は横目でちらりと、向かいのオフィス見る。
「いや、それだけだ。頼む」
頷いた堤がオフィスを出て行くのを見送ってから、すぐに仕事に戻ろうとした藍田だが、やはり向かいのオフィスの様子が
気になり、そっと視線をやる。何度かちらちらと見ていると、そのうち大橋のデスクに歩み寄る堤の姿が視界に入る。
反射
的にデスクに向き直った藍田だが、間を置いてからさりげなく再び視線を向けると、いつからそうしていたのか、大橋がこちらを
見ていた。しかも、思いきり不機嫌そうな顔で。デスクの前には堤が立っており、同じく藍田のほうを見ていた。
藍田が気
づかないうちに、何かしらのやり取りが二人の間であったようだ。
大橋は、用件はわかったと言いたげに堤に対して軽く手
をあげ、十秒ほど何事もなかったような素振りを見せたあと、いきなり猛烈な勢いで受話器を取り上げ、どこに電話をかけ始める。
すると、藍田のデスクの電話が鳴った。まさかと思いながら、わずかに目を見開いた藍田は、思わず電話と向かいのオフィ
スを交互に見たが、いつの間にか大橋が、イスごと体をこちらに向けていた。
ため息をついて藍田は受話器を取り上げた。
「……何か用か、大橋さん」
堤にイジメられたか、と危うく言いかけたが、事実としても冗談だとしても性質が悪すぎ
る気がして止めておく。
『今、堤から聞いたんだが――、お前、週明けからリーダー研修に行くそうだな』
返事をする
前に、藍田はもう一度ため息をついた。堤に使いを頼んだ時点で、やはりこうなる定めだったらしい。心配をするだけ無駄だった
のだ。
大橋は機嫌が悪そうに顔をしかめている。到底、気さくさが売りの上司がする顔ではないが、それぐらい不機嫌だと
いうことだろう。
藍田が口を開きかけた瞬間、大橋のデスクの側を通りかかる堤の姿が目に入った。さりげなく、ちらりと
視線を向けられて思わず藍田は鋭い視線を返していた。漠然とだが、堤の真意を感じ取った気がしたのだ。
堤は、藍田を中
心にした奔流を作り出そうとしている。しかも、大橋を巻き込んで。
『おいこら、藍田、聞いてるか――』
「子供を叱る
ように言うな。心配しなくても聞いている」
何かを感じ取ったのようにふいに大橋が振り返ったが、そのときには堤は、大
橋のデスクから離れていた。
眉をひそめつつ堤の姿を目で追っていた藍田は、自分に向けられる大橋の視線に気づいてドキ
リとする。いつになく鋭い視線だった。
思わず背筋を伸ばしてから、何事もなかったように会話を再開する。
「……そ
れで、わたしがリーダー研修に行くから、なんだというんだ。わたしがいない間のプロジェクトの報告会の進行については、渡し
たファイルを見たら支障はないはずだ」
『そういうことを言ってるんじゃねーよ』
呆れたように言った大橋が、苛立っ
たように乱暴に髪を掻き乱す。せっかくセットしてあるのに、台無しだ。
『――……われ、なかったのか……』
周囲を
気にするように、大橋が声をひそめてぼそぼそと何か言ったが、さすがに聞き取れなかった。藍田が首を傾げると、露骨に怪しい
挙動で大橋は周囲を見回して前屈みとなり、デスクに隠れるような姿勢となった。
『断れなかったのかと聞いたんだ。そもそ
もリーダー研修なんて、本来なら副室長のお前が行くべきものじゃないだろ。何より、お前が今、会社を空けられる状況じゃない
と、上司なら把握してるはずだ』
「そう、高井室長に主張してやってくれないか。どうやら把握してないようだから」
藍田の洩らした皮肉は、もちろん大橋に向けたものではない。第三者――というほど無関係ではないが、部署が違う大橋が聞いて
も腹を立てるほど理不尽な仕事を押し付けてきた高井に対するものだ。上司命令だと言われれば逆らえないからこそ、藍田がスト
レスを抱え込むことになる。
だから大橋に対しても、『関係ない』の一言で済ませることなく、こうして、まともなやり取
りをしていた。
藍田の言葉を受けて大橋は、どういう意味かイタズラっ子のような笑みを浮かべた。自分の容貌がどれほど
映えるか、実は計算しているのではないかと問い詰めたくなるような、そんな魅力的な表情だ。
『お前がそう言うなら、本当
に高井室長のところに行くぞ。俺ではプロジェクトの進行が覚束ないので、藍田を遠くにやらないでください、と』
「バカか
っ、あんたはっ……」
咄嗟に反応してしまったのは、大橋ならやりかねないと思ったからだ。腹が立つことに大橋は、前屈
みのまま爆笑していた。
さすがに、大橋の近くにいる社員たちが、不思議そうに大橋を見ている。一方で藍田のほうも、部
下たちから何事かと言いたげな視線を向けられ、居心地の悪い思いをすることになる。
「……とにかく、わたしの研修の件は
どうにもならない。いくら、人望のある大橋部長補佐がかけ合ってくれたところでな」
『棘のある言い方だな、おい』
ようやく笑い収めた大橋が、今度は苦笑を浮かべる。
『俺なんて、出張の予定を他人に押し付けたぞ。とてもじゃないが、今
は会社から離れたくない。こんなときぐらい、部長補佐権限を発動しても、許されるだろう』
それは藍田も同じだが、あい
にく、持っている人望と人徳が大橋とは差がありすぎる。上から睨まれているという点では同じだろうが、いざとなれば庇ってく
れる人間がいるのは大橋だ。藍田は――よくわからない。あまり他人の善意はあてにしたくなかった。
「わたしは、あんたほ
ど神経が太くないんだ」
『他人に苦労を押し付けるより、自分が苦労を背負ったほうがマシ、か。バカまじめで律儀なのもい
いが、加減を覚えろよ。短期戦じゃないんだから』
「……大橋部長補佐がまともなことを言っている……」
藍田がぽつ
りと洩らすと、大橋はうろたえたようにまた周囲を見回してから、小声で抗議してきた。
『お前なー、俺は一応、お前より先輩だぞ』
「そうだな……。こうして話していると、新人研修の頃を思い出す。あんたが堂
々と、わたしに対して先輩風を吹かせていたときだ」
『先輩風じゃねーだろ。実際、頼りになる先輩だっただろ』
自分
で言うなと口中で呟いた藍田だが、胸の奥では不思議な感覚を味わっていた。少し前なら、あまり褒められたことではないが大橋
と仕事中、こんなふうに電話で話しをするなど考えられなかったことだ。それが今は、当然のように自分は行っている。
デ
スクに向き合い、ひたすら数字のみを分析している生活は変わっていないが、しかしこういうやり取りは、確実に藍田の日常に吹
き込んでいる新しい風だ。
ただ――。
藍田の視界に、旗谷とともに歩いている堤の姿が入る。お互い楽しそうな顔を
しているので、堤と旗谷の間に何かあるのではないかと噂になるのも時間の問題かもしれない。もしかすると、もう噂になってい
るのだろうか。
藍田は堤から視線を引き離しはしたものの、わずかに眉をひそめていた。
今、藍田の日常に吹き込ん
でいる風は、大橋が生み出すものばかりではない。堤も、藍田に向けて、強い突風を予期させる風を起こしていた。
奔流を
作り出すと言われた藍田だが、どれだけ強い流れだったとしても、強い風は水を巻き上げ、逆流させることだってできるのだ。
『――藍田』
突然、大橋が真剣な声を発したので、驚いた藍田は反射的に背筋を伸ばす。声に違わず、大橋は真剣な顔
をしていた。
キスする前、こんな顔をしていたなとふと思い、次の瞬間、藍田の頬は瞬く間に熱くなる。大橋と距離がある
のが、せめてもの救いだ。
「なんだ……」
『お前の性格だから仕方ない部分もあるだろうが、少しは妥協と手抜きってこ
とを覚えろ』
「……部長補佐の肩書きを持つ人間の言葉とは思えないな」
『お前が副室長っていう肩書きを持ってるから、
言ってるんだ。肩書きがあるってことは、それだけ責任も仕事も背負ってるってことだ。……一部例外もあるが』
大橋らし
い注釈に、小さく失笑を洩らした藍田の脳裏に浮かんだのは、申し訳ないが、自分の上司である高井の顔だ。
『だからこそ、
理不尽な仕事まで引き受けるまねはするな。お前は今、藍田春記でないと進められない仕事を背負っているんだ。しかも周りの連
中は、お前を頼りにしてる。そんなお前が、神経と体力を余計なことで磨耗させるな』
大橋らしい言葉だと、藍田はわずか
に唇を綻ばせる。危うく、丸め込まれてしまいそうだ。
会社とは、正論がまかり通り、正当に評価される仕事ばかりをする
聖域のような場所ではない。ある社員にとっては、理不尽で、納得がいかない仕事をいくらでもこなさなくてはならない場所でも
ある。実際、そうやって藍田は、今この地位にいるのだ。それは大橋も同じはずだ。
それでも、電話越しに聞く大橋の言葉
を鼻先で笑う気になれないのは、気遣われているという気持ちが伝わってくるからだ。気恥ずかしくなるぐらいに。
加減を
知らない大橋は、そんな藍田をさらに居たたまれない気持ちにしてくれた。
わざとらしく咳払いをした大橋が、やけに慎重
に周囲をうかがい、大きな体が隠れるはずもないのに身を屈めた。オフィス企画部にいる社員たちには気づかれないかもしれない
が、向かいの新機能事業室のオフィスからは、大橋の間の抜けた姿は丸見えだ。
藍田のデスクの近くを通りかかった女性社
員が大橋に気づき、クスクスと小さく笑い声を洩らしている。さすがに藍田は、オフィス企画部部長補佐の名誉のためにも、何を
しているんだと窘めようとしたが、口を開くのは大橋のほうが早かった。
『つまり俺が言いたいのは……、あー、お前一人の
体じゃないと――』
反射的に立ち上がった藍田は、羞恥か怒りかわからないが、全身を熱くしながら、それでも懸命に声を
押し殺して言った。
「大橋さん、あんたに致命的に言語センスがないのはよくわかった。……わたしは忙しいんだ。これで切
るからな」
いくぶん乱暴に受話器を置いた藍田は、迷うことなくブラインドを下ろし、大橋の姿が見えないよう遮断してし
まう。
イスに座り直しながら、心の中では静かに大橋を罵倒していた。さらりとあんな言葉が出た大橋に、自分とはまった
く違う人生を歩んできた男の過去を感じたのだ。
〈二度も結婚した男〉という事実が、いまさらながら藍田の中にズシリと響
く。甘い台詞もキザな台詞も、大橋にとってはさほど意味がないのだろう。だから、あんなにも簡単に言える。
一方の藍田
はといえば、自分でもおかしいほどうろたえてしまう。相手が大橋以外の人間であれば、必要のない言葉など、いくらでも遮断で
きるというのに。
わずかな間、大橋との会話の余韻に浸ってから、藍田は何事もなかったように仕事を再開した。
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