サプライズ

[12]

 昼休み時間もあとわずかという中、大橋は休憩スペースの観葉植物の陰で、こそこそと携帯電話に向かって話していた。
「――ということは、福澤さんでもよくわからない、ということですか……」
 そんなつもりはなかったが、声に少々の失望 が出てしまう。遠慮のいらない相手だけに、つい素直な反応が出たのだ。
『悪いね。安請け合いしたわりには、力になれなく て』
 電話の相手は、大橋の反応に気を悪くした様子もなく応じる。
「いえ……。こっちこそ、この間の騒動のときには、 大事な情報を教えてもらって世話になったのに、そのお返しもできないうちに、頼み事なんてしてしまって、申し訳ないと思って るんですよ」
『今度東京に来たとき、俺に一杯奢って、娘たちにお土産をくれたら、チャラにしてあげるよ』
「心の広い 先輩で助かります」
 大橋の言葉に、電話の向こうで福澤が声を上げて笑う。どこで電話をしているのか知らないが、少なく とも周囲の耳を気にしなくてもいい場所のようだ。
『俺も、営業絡みの情報なら、比較的入手はしやすいんだけど、さすがに、 福利厚生センターとなるとなあ……」
 東京支社首都圏システム営業部第二室室長である福澤には一か月ほど前、大橋がわざ わざ東京出張までするきっかけとなった、貴重な情報を教えてもらったことがある。
 大橋は、こちらに協力的な福澤の姿勢を見 込んで、あることを頼んでいた。突然大阪本社に、そして大橋の目の前に現れた、鹿島という男の調査だ。
 自分でも不思議 なのだが、なぜだか鹿島の存在が引っかかる。ちょうど、喉に刺さった小骨のように。大したことではないと頭の大半では思うの だが、完全に無視できない。
『あそこは、位置的になかなか微妙だよ。一応、別会社ってことになってるけど、社員間が出向 し合ってるから、身内のような感覚もある。だけど一般の社員なんて、詳しい業務内容は把握してないだろ? 社内に、旅行会社 の出張所がある程度の認識だ。実際俺も、家族旅行でたまに保養所を利用するんだが、センターで手配してもらってる。つき合い なんて、それぐらいだ。知り合いもいないし』
「うちの会社が持つ保養所、世間でも評判いいですよね。金かかってる し」
『使ったことがないなら、一度行ってみるといい』
 話が逸れてしまったことに気づき、大橋は軽く眉をひそめる。 切迫感がないとはいえ、なんのためにわざわざ福澤にまで調べてもらったのかわからない。
「……まあ、時間ができたときに でも。何しろ春まで、旅行に行く時間なんて取れそうにもないですし」
『それもそうか。――それで、他人に洩れると困るか と思って、俺一人で動いたんだが、なんなら、俺の部下にもあたらせてみるけど』
 休憩スペースに、数人の社員たちがやっ てくる。大橋はさりげなく背を向けながら、いくぶん声をひそめた。
「あー、そこまで大ごとにするほどじゃ……。ただ、世 間話程度のことでいいから、聞けたらと思っただけなんです」
 鹿島という男に何かあるのかと、本来なら福澤も聞きたいと ころだろうが、大橋の立場などを慮ってくれているのか、深く尋ねようとはしない。それどころか、こう言ってくれた。
『今 回は力になれなかったが、何かあったらまた連絡してよ。協力するから。家庭持ちの平和主義者なんて、大して戦力にならないだ ろうけど』
 お互い声を上げて笑ってから、大橋は福澤に礼を述べて電話を切る。
 オフィスに戻ろうかとも思ったが、 福澤から情報が得られなかったこともあり、次の瞬間には気が変わる。
 大橋はふらりと休憩スペースを出ると、自分のオフ ィスではなく、エレベーターホールへと向かっていた。
 実は鹿島の情報を得るために協力を求めたのは、福澤だけではない。 言葉は悪いが、情報収集の本命がいた。福澤には本当に、世間話・噂話程度のものを拾ってもらいたかったのだ。案外、社員間で 交わされるそういった話はバカにはできない。ただ、そちらが期待できないとなると、求めるのは、精度の高い情報だ。
 プ ロジェクトのメンバーに、福利厚生センターから出向してきている社員がいるため、一応それとなく鹿島のことを尋ねてみたが、 部署が違うということで、まったく情報は得られなかった。人事部から回ってきた書類によると、鹿島は福利厚生センターの業務 管理部に所属しており、勤務態度にも特に問題はないそうだ。
 書類からわかるのは表層的なもので、鹿島の人となりを把握 するのは不可能だった。
 エレベーターを降りると同時に、昼休みの終了を告げる音楽が流れる。かまわず大橋は管理室のオ フィスへと向かう。
 管理室の社員は大橋の顔を見るなり、こちらが用件を告げる前に、宮園の在席を教えてくれ、執務室へ と通された。
 何も知らない社員たちからは、大橋が宮園の元に通っては悪だくみをしているように思われているのだろうか と考えつつ、執務室のドアをノックする。
 応じる声があってドアを開けると、大橋の登場は意外だったのか、デスクについ ていた宮園が目を丸くする。
「あっ……、通してもらったから大丈夫かと思ったんですが、今はまずかったですか?」
「いえ、部下の誰かかと思ったので、驚いただけです。――大橋さんが見えられたということは、もしかして、電話で依頼されて きた〈あの件〉ですか?」
「そうです、〈あの件〉です」
 宮園に手で示され、大橋は執務室に足を踏み入れる。宮園が デスクから動かなかったので、あえて応接セットに移動するほどの報告はないのだと判断し、デスクの前まで行く。それでなくて も宮園の執務室は膨大な資料に半分のスペースを占められているが、デスクの上も例外ではない。
 さまざまな部署から回っ てきたのであろう書類の束の上に、よく使い込まれた会計法規集が置かれている。こんなものまで熟読しているのかと感心してい ると、宮園が切り出した。
「申し訳ないのですが――」
 大橋は慌てて視線を上げ、宮園を見る。申し訳ないと言いつつ、 宮園はいつもと変わらず穏やかな表情だ。
「先日依頼された、福利厚生センターから派遣されてきた鹿島という社員のことで すが、まだ何もわかっていません。わたしもここのところ忙しくて、もう少し身を入れて動けばなんとかなるんでしょうけど」
 宮園から連絡がないということで、予測はできていた答えだった。しかも、鹿島が本社に派遣されて、まだ一週間ほどしか経っ ていない。宮園の動きがのんびりしているというより、大橋が性急だというべきだろう。
「あー、いや……、単に俺がせっか ちなだけで、どうにもじっとしていられなかったものですから。頼み事をしておいて、急かすようなまねをして、気を悪くしない でください」
 気にしていませんよと言って、宮園が折り目正しい笑みを見せる。考えていることを完璧に読ませない表情だ。
 あっという間に大橋の用は終わってしまい、所在なく頭を掻く。本当は電話で済む話だったのだが、電話だと、小事も大事 もすべて、宮園の手の上でうまく操られてしまいそうで落ち着かない。だからこそ、心の内が読めないにしても、こうして顔を合 わせるのは大事だ。
 何より宮園は、合同プロジェクトの顧問で、大橋たちにとっては大事なパートナーなのだ。
 立ち 去るタイミングを計っていた大橋を、宮園が上目遣いで見つめてくる。一見穏やかに見えて、冷徹さを潜ませた目だ。思わず、頭 を掻いていた手を止めていた。
「……それじゃあ、仕事のお邪魔でしょうから、俺はこれで……」
「――先日、あなたか ら電話があったとき、ちょうど来客があったので聞くのを忘れてしまったのですが」
「なんでしょう」
「福利厚生センタ ーから一時的に派遣されてきた社員の、何が気になるんですか」
 至極当然の宮園からの質問に、小さく声を洩らした大橋は あごに手をやる。何が、と言われても、明確な理由はない。真剣な顔で問いかけられると申し訳なくなってくるぐらいだ。
「うーん、言葉にするのは難しいんです。ただ漠然と、何か気になったというか……。そんな理由で自分に頼み事をしてきたのか、 なんて言わないでくださいね。俺も、わざわざ宮園さんのような人に頼むようなことだったのかと、反省しているんで」
「わ たしは、嬉しいですよ。基本的に、あなたも藍田さんも、よほどのことがない限り、ここに顔を見せに来てくれませんから。気軽 にお茶を飲みに来ていただいたら、歓迎するのに」
 とんでもない、と大橋は口中で応じる。それが聞こえたのか、宮園は低 く声を洩らして笑った。だが次の瞬間には、怜悧な表情となる。
「……つまり、得体の知れない者は、今は自分の側に近づけ たくないということですか」
「そこまで露骨じゃないですよ。ただまあ、何かあったとき、小さなミスでも藍田の責任問題に なりそうな空気なので、できる限り俺が気を配ろうかと。ガサツな俺が言っても、あいつには鼻で笑われそうですがね」
 大 橋は、自分の言葉に能天気に笑ってみせたが、宮園は口元に笑みを浮かべはしているものの、目は少しも笑っていない。
「あ の、何か……?」
「いえ、相変わらず過保護だと思って、藍田さんに対して」
 そのことを言われると、今の大橋は受け 流せない。仕事上のパートナーのバリアーとなっているだけだと強弁する余裕すらない。
 事実大橋は、藍田春記という人間 そのものを、自分のエゴのままに守りたくて仕方ない。最前線でともに戦い、そうできるだけの実力を持っている〈男〉だとして も。
 さすがの大橋も、まっすぐ向けられる宮園の眼差しからわずかに視線を逸らしつつ、ぎこちなく髪を掻き上げた。
「――……ちょっと、脅されましてね」
「どなたに」
「高柳本部長です。藍田の手足をもぐようにして身動き取れなくす るのは簡単だと言われて、あいつにこんな言葉を伝えるのも胸が悪いんで、代わりに俺が気をつけようかと」
「ああ、あの人 は……」
 高柳なら言いかねないという宮園の口ぶりだった。
 実際に起こったことを告げたのだが、咄嗟の誤魔化し方 としては上手いほうだろう。ただし、告げ口をしたような微かな不快さはあった。
「藍田さんには、いないんですか?」
「えっ……」
 目を丸くする大橋とは対照的に、宮園は軽く目を細めた。この執務室に入って初めて、宮園が心の内をわずか に覗かせた瞬間かもしれない。ひどく楽しげな表情に見えた。
「大橋さんが甲斐甲斐しく藍田さんを守ろうとしているのはわ かるんですが、オフィスが違うんですから、始終目を光らせるわけにもいかないでしょう。ですから、藍田さんの側に誰かいないのか と思って。誰しも、高柳本部長のように〈大人〉じゃありませんよ。ボディーガードは常に側にいないと、意味がありません」
 宮園らしい皮肉も耳を素通りして、大橋の脳裏に浮かんだのは腹が立つことに、堤の顔だった。藍田を守っているという点 では、この男の名を挙げても間違いではないのだが、大橋のプライドは認めたがらなかった。
「どうでしょう。あいつは厳し い人間だが、部下にとってはいい上司ですから、義理堅い部下は何人かいると思いますよ」
 わざとらしく腕時計に視線を落 とした大橋は、オフィスに戻ることを告げ、宮園に頭を下げてから執務室をあとにした。
 宮園から情報を得るために会いに 行ったのに、結局、自分だけが宮園に余計なことを言ったようで、歩きながら大橋は首を傾げていた。




 忙しくて目が回るとは、まさに今の状況のためにある言葉だった。
 中間決算後の後期の予算配分のため、藍田は設立を控 えた新しい事業部やプロジェクトのための資料作りに追われていた。新機能事業室としては、設立に深く関わった関係で、予算配 分までがパッケージとなっている。
 これは、建設的といえば建設的だ。設立に値するかどうかを判断するため、検討データ を集めるが、それを、予算配分に必要な資料として、そのまま流用するのだ。ただし、新機能事業室としての真価が発揮されるの は、数字の分析においてだ。
 現在は、予算配分の指標となる数字データ収集に奔走しており、類似したケースなら仕事も早 いが、まったく新しいケースとなると、仕事も手探り状態だった。
 毎年二回訪れる地獄の進行だが、今回はよりによって、 藍田にリーダー研修の予定が強引に組み込まれ、いつも以上に余裕のないスケジュールとなっていた。そのため、藍田だけでなく、 新機能事業室全体に負担がかかっている。
 回ってきた帳票に素早く目を通した藍田は、すでに作成しておいた書類も手に立 ち上がり、各事業部のリーダーに手渡すと同時に指示を与える。そして、並んで待っている部下たちの手から新たな書類を受け取 ると、立ったままチェックをして決裁印を押して返す。
「さっき渡した資料の一部は、これと差し替えてくれ。あとは、さっ き、先に進めろと言った分は――」
「はい、ここにあります」
 手をあげた女性社員にデータをリンクさせるよう指示を 出し、別の社員には、データが揃ったものから配分表の下書きを作成するよう言う。
「副室長、FAX届きました」
 横 から手渡されたFAX用紙の束を手にして、藍田は顔をしかめる。
「……遅いな。送るよう言ってから、どれだけ時間が経っ てるんだ……」
 送られてきたものの内容について、数人の部下をデスクの周りに呼んで相談すると、それぞれの事業部のリ ーダーに進行の指示を与える。
 藍田はデスクに片手を突き、次に何をすべきかじっと考える。同時に進めている事案が多す ぎて、少し頭が混乱している。それに、指先の感覚がおかしい。
 自分の手を見つめ、ゆっくりと指を動かした藍田は、壁に かかっている時計に視線を向ける。今日は当然のように残業なのだが、終業時間を告げる音楽が鳴ってからは、一切時間を意識し ていなかった。
 考えてみれば昼食を軽く済ませてから、夜となった今まで、カップ一杯の日本茶を飲んだだけだ。空腹を感 じる余裕もなかったが、体のほうが素直な反応を示したようだ。
 甘いコーヒーでも飲めば、多少はマシになるだろうか。そ んなことを考えていた藍田は、デスクの前に誰かが立った気配を感じて顔を上げる。堤だった。
「……どうした?」
「戦 略概要の各分類も進めているので、大枠だけでも確認してもらえたらと思って」
「あ、ああ……。そうだったな、事業部の統 廃合の件に関連して、上から注文がついたんだった」
「事業部の統廃合をきっかけに、予算の配分も渋くなってますよね。数 字を見たときは、びっくりしましたよ」
 堤からデータを打ち出した用紙を受け取って目を通そうとした藍田は、次の瞬間、 ビクリと体を震わせる。堤の手が肩にかかったからだ。
 驚いて目を見開く藍田に対して、堤は笑いかけてきた。
「座っ たらどうですか。さっきから、立ったまま仕事してますよ」
 今、気がついた。藍田は唇を引き結ぶと、多少決まり悪い思い をしながらイスに腰掛ける。
 藍田がパソコンを操作する間も、堤はデスクの前に立ったままで、少々やりにくい。しかし退 くように言うのも、意識しすぎのようではある。
 少し前までなら、こんな些細なことに迷うことはなかったのだが、と思い ながら、藍田はそっと息を吐き出す。
「――こんなふうに修羅場になるのも、しばらくはないかもしれませんね」
 堤の 言葉に、マウスの動かす手を止めた藍田は、画面から顔を上げる。堤は、オフィス内を見回していた。
 堤が何を言おうとし ているのか瞬時に理解して、意識を画面に戻しながらも会話に応じる。
「しばらくないどころか、これが最後かもしれない。 事業部を増やしすぎたことを、会社は今になって苦々しく感じているからな。これまでのように、何かあればすぐに事業部を設け るようなことはしないかもしれない。プロジェクトを動かすぐらいに留めるということもありうる」
 考えてみれば、藍田の 今のこの状況は皮肉なものだった。新しい事業部やプロジェクトの設立計画を進める一方で、これまで新機能事業室が設立に関わ ってきた事業部のいくつかを、プロジェクトも含めて廃止していくのだ。
 言い方を変えるなら、これまで新機能事業室がや ってきたことの尻拭いを、今になって藍田がしているともいえる。
 なんにしても、とにかく現状は大変だ。
 やはり反 感を買ったとしても、リーダー研修への参加は断るべきだったのではないかと、改めて考えてしまう。自分一人のことなら、無理 やりでも納得してしまうのだが、藍田のスケジュールが狂ったせいで、部下たちにも遅くまでの残業を押し付けてしまったのは不 本意だし、高井の顔を思い出すと腹まで立ってくる。
 画面を見つめる表情を険しくしていると、身を屈めた堤に顔を覗き込 まれた。
「……もしかして、俺が作った資料、何か問題がありますか?」
 藍田はゆっくりと目を見開いてから、小さい 声で応じる。
「あー、いや……」
 マウスから手を離した藍田は、片手を閉じたり開いたりしてみる。指先が微かに震え ているのを見て、ようやく素直に認めた。多分、低血糖だ。
 指先の震えに、考えがまとまらず、体に力が入らない。唐突に 腹が立ってきたのも、症状の一つかもしれない。
 前までなら、半日ぐらい何も口にしなくても平気だったのだがと、藍田は ため息をついた。
「藍田さん?」
「堤、データの確認はもう少し待ってくれ」
 そう言って立ち上がった藍田は、オ フィス内に響き渡るように声を上げた。
「集中力が切れた者は、遠慮なく休憩をとってくれ。夜食を買いに行くのも自由だ。 まだ、先は長いからな。――ということで、わたしも少し休憩する」
 最後の言葉はいくぶん声を抑えたが、近くにいる部下 たちには聞こえたらしく、笑い声が起こった。堤も、楽しそうに表情を綻ばせている。
 どこか殺伐として張り詰めていたオ フィス内の空気が、ふっと緩んだ瞬間だった。


 普段ならありえないほどの砂糖とミルクを入れたコーヒーを一口啜ってから、ほっと息を吐き出した藍田は、頭上を仰ぎ見る。
 中庭から空を見上げると、自分が小さくなって箱の中にいるような、妙な錯覚に陥る。箱とはもちろん、四方を囲んでいる ビルのことだ。
 目を凝らすと、深夜の空に微かに星が光っているのが見える。しかし藍田の視線はすぐに、東和電器の本社 ビルで、唯一、電気が煌々とついている新機能事業室のオフィスへと向いていた。
 いつも遅くまで電気がついている営業部 門のオフィスですら、今夜は真っ暗だ。さすがの藍田も、こんな時間までの残業は滅多にしないので、中庭から見回す光景は案外 新鮮に感じられる。
 もっとも、無邪気にこの時間を楽しんでいる場合ではない。
 手にしたカップを、腰掛けているベ ンチに置いた藍田は、片手で首筋から肩を揉む。疲れが凝り固まっているようだ。
 休憩に入った部下たちは、数人が近くの コンビニに買い出しに出かけ、帰りを待つオフィスはずいぶんとにぎやかだ。藍田は、上司がいては息抜きもできないだろうと、 コーヒーカップを手に一人で中庭に下りてきた。
 他のフロアも人気がないどころか真っ暗で、中庭もぽつりぽつりと照明が 灯されているだけで、薄暗い。よほどの物好きでない限り、ここまでやってくる人間はいないだろう。おかげで藍田も、人目を気 にせず気が抜ける。
 ベンチの背もたれに深くもたれかかってから、空を見上げたまま瞼を閉じる。気温は低く、夜風はそれ 以上に冷たいが、ずっとオフィスの中にいて火照っていた頬にはひどく心地よく感じられた。
「――コーヒーだけだと、また 胃を悪くしますよ」
 耳に痛いほどの沈黙が、ふいに破られる。目を開けた藍田は、じっと空を見上げていたが、声をかけて きた人物の気配がこちらに近づいてくるのを感じ、ゆっくりと頭を動かす。思った通り、片手に袋を提げた堤がベンチに歩み寄っ てくるところだった。
 すぐにここから立ち去るべきだと思いはしたが、疲れている体は、素直にいうことを聞かなかった。
 堤にベンチを指で示され、仕方なく頷く。
「……よく、わたしがここにいるとわかったな。誰にも言ってなかったのに」
 藍田の問いかけに、隣に腰掛けた堤は、袋からあれこれ取り出しながら答えた。
「藍田さんの匂いを辿ってきたんです よ」
 あまりにさらりと言われたので、さすがに藍田もすぐには反応できなかった。すると堤が、ちらりと視線を寄越してき て、口元に笑みを浮かべる。どうやらからかわれたらしい。藍田は短く息を吐き出す。
「お前の冗談は、やっぱり微妙だ……」
「厳しいですね。――オフィスに藍田さんの姿がなかったから、多分ここだと思ったんです。あまり、暗いのとか気にしない でしょう、藍田さん」
 そう言いながらも、堤は楽しそうだ。ベンチの上に、ペットボトル入りの温かな紅茶や日本茶、サン ドイッチや菓子パン、おにぎりを並べ、好きなものを取ってくれと言われ、藍田はやや呆れながら堤を見た。
「……癖、なの か? 前も確か、二人で食べきれるのかというぐらいの量の夜食を買ってきたことがあっただろう」
「俺、藍田さんの好みを まだ完全に把握してないんです。嫌いなものを買ってきてしまって、藍田さんが無理して食べるなんてこと、したくありませんか ら」
「顔をしかめるほど嫌いな食べ物はないから、そんなに気をつかわなくても……」
「それに、選択肢が多いほうが楽 しくありません?」
 ふうん、という声を洩らしてから、藍田はありがたくサンドイッチを取り上げる。藍田が選ぶのを待っ てから、堤はおにぎりを剥き始めた。
「何か言いたそうですね、藍田さん」
「いや、選択肢が多いほうがいいというのは、 夜食のメニュー以外のことも含んでいるんだろうかと思ったんだ」
 おにぎりにかぶりついた堤が、次の瞬間には顔を背けて 咳き込む。珍しく、本気で焦っている堤の姿に、藍田はまじめな顔で頷いた。
「あー、なるほど」
「勝手に納得しないで くださいよ。藍田さん今、俺のことを誤解して納得したでしょう」
「誤解じゃないのか?」
 また咳き込んだ堤に、日本 茶のペットボトルの蓋を開けて差し出してやる。
「ほら、お茶だ。落ち着いたらどうだ」
 すみませんと応じた堤が片手を 伸ばしてきたが、藍田はすぐに体を強張らせることになる。
 堤が掴んたのはペットボトルではなく、それを持つ藍田の左手 だった。
「堤っ……」
 反射的に手を引こうとしたが、堤の力は強かった。自分が持っているペットボトルが気になり、 乱暴に振り払うこともできず、藍田はただ堤を見つめる。堤は、動揺して咳き込んでいたのがウソのように、落ち着いた眼差しを 向けていた。
「お前――」
 さきほどまでの態度は演技だったのか問いかけようとしたが、藍田の言葉に被せるように、 強い口調で堤が言った。
「俺は、唯一のものを選べます。それ以外のものは、どれも一緒なんです。だからこそ、選択肢は多 いほうがいい。どれだけ選択肢があっても迷わない。だからこそ、俺の〈絶対〉は揺るがないと自信が持てますから」
 目を 丸くして堤の言葉を聞いていた藍田だが、そっと柔らかな苦笑を浮かべた。
「……傲慢だな」
 堤がやっともう片方の手 でペットボトルを受け取ったが、藍田の手は掴んだままだ。誰かに見られているのではないかと気になり、思わず周囲を見回した が、もちろん二人以外に人の気配はない。
「傲慢ですか?」
「お前の選択肢に入った他のものの立場はどうなる。〈絶対〉 に選ばれないんだろう」
「なら、俺も大橋さんのことは言えないということですね」
 唐突に大橋の名が出て、藍田は微 かに肩を震わせる。藍田のわずかな反応を感じ取ったのか、堤にしっかりと手を握り締められた。
「――俺も、エゴイストと いうことです。自分が本当に欲しいもののことしか考えていない」
 皮肉と自嘲が交じった言葉とは裏腹に、きつく指を握っ てくる堤の手からは、必死な気持ちが伝わってくるようだった。
 いつも藍田の心の揺れに重なるように寄り添ってくる堤だ が、今のこの瞬間は、藍田のほうが堤の揺れる気持ちに寄り添っているような感覚に襲われる。
 手を抜き取ろうとしない藍 田に対して、堤は即座に大胆な行動に出た。急に身を屈めたかと思うと、藍田の左のてのひらに唇を押し当ててきたのだ。
「堤っ」
「……これは、〈あの人〉のあとを追いかけてないですよね?」
 声を抑えた堤の問いかけが、熱い吐息となっ ててのひらに触れた。藍田は再び、素早く周囲を見回してから、慌てて堤の肩に手をかけて押し退けようとする。
「堤、やめ ろっ……。こんなところ、誰かに見られたら――」
「うちのオフィスからじゃ、ここは死角になってますよ。それにもう、ビ ルには他に社員はいないし、仮にいたとしても、誰がわざわざ、中庭を観察したりします?」
「わたしが困るんだ」
 堤 は上目遣いに藍田を見上げてきて、悪びれた様子もなく笑う。
 堤に悪意がないのは、嫌というほどわかっているのだ。冗談 でないことも。だからこそ、藍田は困る。それでも強く言えないのは、堤を利用しているという罪悪感があるからだ。反面、罪悪 感しかないというのが問題なのかもしれない。
 嫌悪感というわかりやすい感情があれば、堤を押し退けるのは簡単なのだ。 それができないのは――。
 困惑し、体を強張らせている藍田の見ている前で、堤は臆することなく、恭しい仕草でてのひら に再び唇を押し当ててきた。
 藍田は柔らかく熱い感触をてのひらに感じながら、さきほど堤が言った言葉を頭の中で反芻し ていた。
『……これは、〈あの人〉のあとを追いかけてないですよね?』
 堤は、大橋が藍田にした行為を、自分もでき る権利が欲しいと言った。藍田はそれを、大橋と自分との間にあった行為の意味を知りたくて、それ以上に、大橋との行為をたど るために許容した。
 その後、理由は変化して、急速に進んでいく大橋との関係の歯止めのために、堤を利用することにした。 ただ、堤に与えた権利だけは変わっていない。
 てのひらに優しいキスが何度も落とされる。愛しげに、宝物に唇を寄せるよ うに。
 優しい感触とは裏腹に藍田の胸は、切ない感情によって切りつけられる。
 やめてくれ、と声に出さずに呟くと、 もう片方の手を堤の頭にかける。押し退けられると思ったのか、一瞬堤は動きを止めたが、藍田はそうはしなかった。そっと堤の 髪を撫でてやる。ハッとしたように堤が顔を上げた。
「藍田さん……」
「わたしの手に触れたところで、腹は膨れないぞ。 ――わたしも、膨れない」
 呆気に取られたように目を丸くしていた堤だが、参った、と言いたげに肩をすくめてから手を離 してくれた。
「俺、一応、藍田さんの食事には気をつかっているつもりなんで、そういうふうに言われると逆らえないんです よ」
「お前の弱点は掴んである。……お前の上司だからな。春までは」
 ベンチに座り直した堤がちらりと苦笑を浮かべ てから、おにぎりにかぶりつく。その姿を少しの間見つめてから、藍田もやっとサンドイッチを食べ始める。
 吹き付けてく る風が急に冷たさを増したように感じ、藍田は小さく体を震わせた。










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