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社内メールで回ってきた社内報や、営業部門から半ば強引に押し付けられた、自社製品のキャンペーン用チラシに漫然と目を通
しながら、堪えきれず大橋は大きなあくびをする。
社内報に掲載された支社の社内運動会の記事にも、キャンペーン用チラ
シの社員割引が利く電化製品にも興味はないが、始業時間の音楽が鳴らないと、身を入れて仕事をする気分にはなれない。
こういう状態を憂鬱というのだろうなと、大橋は今度はため息をついてから、デスクに頬杖をつく。
今朝は、なんの前触れ
もなく明け方に目が覚めた。二度寝するのも嫌で、それからベッドの上に座り込んで起きていたのだが、考えることは一つだけだ
った。
「――心配だ……」
大橋は、絶えず心の中にあった言葉を、とうとう声に出す。
そう、たまらなく心配な
のだ。――藍田が。
頬杖をつき、今にも崩れ込みそうなほどデスクにもたれかかりながら、大橋の視線は卓上カレンダーへ
と向けられる。金曜日の今日から、藍田は二泊三日のリーダー研修に出かける。
出張も研修も、大橋や藍田ほどの肩書きを
持つと珍しくはない。それに、この地位に就くまでに、嫌というほど経験もしてきた。だが今回のリーダー研修は、頼りない大橋
の直感が、やたら嫌な警報を鳴らしている。
おそらく藍田の名は今、東和電器全体の中でかなり知られ渡っているだろう。
任されたプロジェクトの内容とともに。そんな男が、参加者の大半が室長という肩書きを持つ研修に顔を出したらどうなるか、悪
い想像が簡単にできる。
藍田の上司も、そのあたりを見越して強引に出席させたのかもしれない。
なんの確証もない
まま、最悪の状況ばかりを考え続けていると、次第に大橋は胸が悪くなってくる。
濃いコーヒーでも飲めば、この気分は少
しはマシになるだろうかと思いながら、いつもの癖で、向かいのオフィスをちらりと見る。
主のいないデスクを眺めて、憂
鬱さに拍車をかけるつもりだった大橋だが、次の瞬間、勢いよくデスクから体を起こし、イスから身を乗り出す。
「なんで、
あいつ……」
向かいのオフィスには、藍田の姿があった。忙しい様子で何かに判をついており、ときおり部下を呼びつけて
は、何事か指示を与えている。
大橋は一瞬、自分がリーダー研修の日にちを間違えて覚えてしまったのだろうかと思ったが、
そうではない。藍田は、リーダー研修に出かける前に会社に立ち寄り、仕事を片付けているのだ。
几帳面というべきか、律
儀というべきか、それとも――。
「……バカがつくほどまじめだな……」
そう呟いた瞬間、大橋は自分がどんな表情を
したのか自覚はない。ただ、デスクの前を通っていた部下の女性社員が、驚いたように目を丸くし、足をとめた。大橋は慌てて表
情を取り繕い、わざとらしいほどまじめな声で問いかけた。
「なんだ、俺の顔がどうかしたか? 寝不足だから、男前がいつ
もより三割ぐらい落ちてるのは大目に見ろよ」
大橋の冗談は不発に終わる。女性社員がわずかに顔を赤くして、こう言った
からだ。
「補佐の今の顔、むしろ男前が三割ぐらい増して見えますよ。……明るい笑顔もいいですけど、そういう優しい笑い
方もいいですね。あっ、だから普段は出し惜しみしてるんですね」
笑っていたのかと、大橋は気恥ずかしさを押し隠しつつ、
自分の顔に触れる。
「サービスだからな。みんなには内緒だぞ」
女性社員は声を上げて笑いながら、楽しそうに行って
しまう。
藍田を見て笑っていたとバレてしまっただろうかと内心で焦りつつ、再び向かいのオフィスに視線をやる。すると
藍田は、慌ただしく立ち上がり、コートを手にするところだった。今から会社を出るらしい。
この時間に出発しないといけ
ないのなら、最初から会社に立ち寄らなくてもいいだろうにと、大橋は今度は苦笑を洩らす。
ブラインドを下ろそうとした
藍田が、やっと大橋の存在に気づいたのか、不自然に動きを止める。しかしそれも数秒のことで、あっという間に何事もなかった
ようにブラインドは下ろされた。
このとき、藍田が視線を伏せるような仕草を見せたのが、ひどく大橋は気になった。向か
いのオフィス同士、互いの表情はわかっても、些細な仕草ならさすがに見間違いかもしれないが、見なかったことにはできない。
素早く立ち上がった大橋は、大股でオフィスを出ると、一気に駆け出す。
何か大事な話があるというわけではないの
だが、とにかく藍田の顔を間近でしっかり見ておきたかった。バカバカしい衝動だと、これまでの大橋なら笑うだろう。藍田がこ
れから出かけるのは、たった二泊三日の研修だ。しかも土日を含んでいる。
平素でも三日ぐらい顔を合わせないことは珍し
くない。だけど――会いたいと思ったときに会える距離に藍田がいないのは、やはり不安なのだ。
目も眩むような恋慕の情
に、のぼせてしまっている。廊下で行き交う社員たちをギリギリのところで躱しながら、大橋は内心で赤面したくなるような自ら
の状態を認めていた。会議室で藍田にキスしたときにたっぷり自覚はしたつもりだが、まだ足りない。胸を掻き毟りたくなるほど、
青臭くて照れ臭い気持ちは溢れ出してくる。
ビル内を全力疾走したせいで、新機能事業室から一番近いエレベーターホール
に着いたとき、大橋の息は上がっていた。日ごろのデスクワークが、こういうときに祟る。ただ、運よく、エレベーターを待つ藍
田と会うことはできた。
突然走ってやってきた大橋によほど驚いたのか、藍田は大きく目を見開いている。その藍田の手に
はいつものアタッシェケースではなく、バッグがあった。
「――慌ただしい奴だな。朝の飛行機に乗らなきゃいけないんだか
ら、家からまっすぐ空港に行けばよかっただろ」
開口一番の大橋の言葉に、ムッとしたように藍田が眉をひそめる。
「あんたは、朝の挨拶もできないのか」
ああ、と声を洩らした大橋は、ぽんっと手を打つ。そして、これ以上ない笑顔を向
けた。
「おはよう、藍田」
この瞬間、藍田は苦虫を噛み潰したような顔となる。大人げない、と表情が言っていた。藍
田の他にエレベーターを待っていた数人の社員が、肩を震わせて顔を伏せている。
「お前は言ってくれないのか?」
「…
…おはよう、大橋部長補佐」
「仏頂面で挨拶するな。俺のように、明るく爽やかにだな――」
「どうせわたしは、ツンド
ラだからな。そんなものを期待するな」
「なんだ、俺の言葉を気にしてるのか」
藍田から返事はなく、代わって、実に
さりげなくバッグで腿の辺りを殴りつけられた。
階数表示を見上げながら、藍田が素っ気ない口調で尋ねてくる。
「そ
れで、何か用があったんじゃないのか。それとも、わたしをからかうためだけに声をかけてきたわけじゃないだろうな」
大
橋は、周囲に素早く視線を向けてから、声を潜めた。
「いや……。ただ、お前が出社してきているとわかったから、見、送り、
に……」
自分でも髪を掻き毟りたくなるような言葉への返答はなく、またバッグで殴られることを覚悟したが、そうはなら
なかった。
伏せていた視線を藍田の横顔に向けた大橋は、ゆっくりと目を見開くことになる。怒ったように唇を引き結んで
いる藍田の首筋がうっすらと赤く染まっていたからだ。頬も赤みを帯びてきたように見えたが、はっきりと確認する前に、エレベ
ーターの到着を告げる音が響いた。
「――気が済んだだろう。あんたは早く自分のオフィスに戻れ」
普段より速い口調
で言った藍田がエレベーターに乗り込もうとし、ほとんど条件反射で大橋も一緒に乗っていた。
「なっ……」
藍田が声
を上げようとしたが、大橋は唇の前で人さし指を立てる。そのまま藍田の肩を押し、エレベーターの奥に移動した。
「……な
んであんたまでエレベーターに乗るんだ」
目を吊り上げた藍田が、それでも抑えた声で問いかけてきたので、大橋はにんま
りと笑いかけた。
「言っただろう。見送りだって」
「それならもう済んだはずだ。早く降りろ――」
藍田の言葉が
言い終わらないうちにエレベーターの扉は閉まる。大橋が横目で藍田を見ると、睨み返された。
藍田との、こういうやり取
りが心地よかった。プロジェクトを任される前なら、考えもしなかった状況だ。
「空港までついてくる気か?」
「来てほ
しいなら」
容赦なく足を踏みつけられた。それでも大橋が笑っていると、藍田は露骨に顔を背けてしまった。たとえ足を踏
まれても、ここでもっと藍田をからかいたいところだが、エレベーター内にいるのは大橋たち二人だけではない。肩書きに相応し
くない浮かれた会話を聞かれてもマズイ。
動き始めたエレベーターはすぐに次のフロアで停まり、どっと社員が乗り込んで
くる。大橋は藍田の腕を掴むと、エレベーターの隅へとさりげなく移動した。
体全体を使って、他の社員たちの圧力から藍
田を守ってやるが、当の藍田は壁と大橋に挟まれて居心地悪そうな顔をしている。あまり近寄るなと言いたげに大橋の胸を押し返
そうとさえしたが、さらに二人の社員が乗り込み、大橋の体にかかる圧力が増す。わずかに顔をしかめると、さすがの藍田も諦め
たようだった。
満員のエレベーター内特有の気まずさと紙一重の沈黙に、いくら神経が図太い大橋といえど、他愛ない会話
さえ交わせない。
代わりに、というわけではないが、ここぞとばかりに間近から藍田を観察する。大橋が向ける眼差しがわ
かっているのか、不自然なほど藍田はこちらを見ようとはせず、頑なにまっすぐ前を見据えている。
痺れるほど冷たく見え
るのに、ハッとするような熱を感じさせることもある藍田の目を、正面から覗き込みたい衝動に駆られていた。もちろん、この場
でそんなことができるはずもなく、大橋は別の手段に出た。
ピクリと藍田の肩が揺れ、信じられないといった顔で大橋を見
つめてくる。何か言いたげに唇が動いたが、素早く周囲に視線を向け、あっという間に表情を押し隠してしまった。一方で、しっ
かり足は踏みつけられる。
かまわず大橋は、何もない顔をして――藍田の左手を握り締める。体で隠しているため、他の社
員に見えることはない。
最初は手を抜き取ろうと軽く抵抗した藍田だが、大橋が手に力を込めると、すぐに諦めたようだっ
た。睨みつけてきた藍田にちらりと笑いかけ、すぐに視線は天井付近へと向ける。
我ながら大胆なことをしているなと思い、
大橋は速くなっている自分の鼓動を感じていた。落ち着いて見える藍田のほうも、内心ではうろたえているだろう。
それで
も藍田は、大橋が向ける欲情や衝動を、無慈悲に跳ね返したりはしない。
藍田にそっと手を握り返されて、大橋は驚きと喜
びを同時に味わっていた。
一度手を離し、すぐに手を握り直す。今度は、しっかりとてのひらを重ね、指を組み、きつく手
を握り合い、そこから伝わってくる心地よさを味わう。むしろ、快感に近いかもしれない。
ずっとこうしていたかったが、
エレベーターが一階に着くまでの時間はあっという間だ。扉が開くと、示し合わせたように二人は手を離し、他の社員たちととも
にエレベーターを降りた。
「――気をつけていけよ」
今になって気恥ずかしさを覚えながら、ロビーの隅で大橋はそう
声をかける。意識して表情を消したような顔で藍田は頷いた。
「ああ……」
素っ気なく背を向けて藍田は行こうとした
が、名残惜しさに襲われた大橋は、咄嗟にこう言葉をかけていた。
「電話っ……、お前の携帯に、電話していいか……?」
立ち止まった藍田が振り返り、怪訝そうな顔をする。
「かけるのは勝手だ。それにわたしが出るかどうかは、別の話だ
しな」
「……捻くれてるな、藍田副室長」
「あんたはなんでも直情的すぎる、大橋部長補佐」
〈なんでも〉という言
葉の中には、藍田に対するこれまでの数々の行為が含まれているのだろうなと思うと、大橋としては苦笑を洩らすしかない。する
と、応じるように藍田も淡い笑みを一瞬だけ浮かべ、次の瞬間には背を向けて行ってしまう。
心底惚れてしまっているなと、
藍田の背を見送りながら大橋は改めて痛感する。その証拠に、短い時間、握り合っていただけの手が燃えるように熱くなっていた。
狂おしい想いを表すように――。
後ろ髪を引かれる思いだと、電車に揺られながら藍田は苦々しく唇を歪める。まだ目的地に着いていないというのに、すでにも
う、会社のことが気になって仕方なかった。
新機能事業室やプロジェクトの仕事自体は、信頼のおける人間にあとを任せて
いるため、藍田がいない数日ぐらい滞りなく仕事を進めてくれるはずで、仮にトラブルが起こったとしても、藍田に即座に連絡が
入り、非常事態となれば研修を抜け出すことも可能だ。
むしろ藍田が心配しているのは、会社内での人間関係のほうだった。
藍田は深刻なため息をつくと、窓の外を流れる景色に目を向ける。街中を走っていたはずが、いつの間にか緑の多いのどか
な風景へと変わっていた。リーダー研修は会社が所有する保養所で行われるが、その保養所は、自然に囲まれた静かな場所にある。
言い方を変えるなら、少々辺鄙な場所ということだ。
会社を出たその足で空港に向かい、飛行機で移動後、今度は電車に乗
り換えだ。しかも目的の駅に着いたあとは、保養所までバスかタクシーを利用しなければならない。単なる保養目的なら、この行
程も旅のうちだと楽しめるかもしれないが、着いたあとに研修を控えているとなると、苦行に近い。
ずいぶん乗客の少なく
なった電車内を見渡すと、藍田と同じように、堅苦しいスーツ姿で、バッグを脇に置いた男たちの姿がちらほらと見える。行き先
が同じなのかもしれない。
腕時計に視線を落とした藍田は、無意識にため息をついて外の景色にまた目を向ける。いつもな
ら会社で忙しく働いている時間、移動のためとはいえ、こうして電車にのんびりと揺られていると、どうにも落ち着かない。あら
ゆる案件に、きちんとした指示を出していただろうかと、今になって気になってくるのだ。
何より藍田を落ち着かない気持
ちにさせるのは、今日の夕方から行われる合同プロジェクトの会議のことがずっと心にあるから。リーダー研修への出席を命じら
れたとき、多少無理をしてでも、日付をずらしておくほうがよかったのではないかと、今になって後悔していた。
大橋と堤
が正面からぶつかるような事態を、どうしても危惧してしまうのだ。
あの二人は、互いに強い対抗意識を抱いている。原因
の大半は藍田にあるとわかってはいるのだが、それだけではないだろうとも思っている。タイプも年齢も、会社内における地位す
らも違う二人だが、同性として互いのプライドを刺激されるものを持っているように見えるのだ。
藍田の存在に関係なく、
そもそもあの二人は、互いに相容れない存在同士だったはずだ。年齢が近ければ、苛烈なライバル同士になっていたかもしれない。
かろうじて今は、社内では上下関係だけは取り繕っているが、それも藍田の前だけかもしれない。
大橋を強く意識している
堤のこれまでの発言が蘇り、つい自分の左手を見つめる。堤の唇を押し当てられ、大橋には今朝、強く握り締められた手だ。
堤が、大橋への対抗意識だけで、同性の上司にこれまでのような行為をしてきたのかは、疑問だ。もっとも大橋にしてもそれは
同様で、行為の理由について曖昧にすることで、藍田と大橋の関係はどんどん深まっていた。
〈どうして〉という疑問が藍田
の中に溜まっていき、同時に、大橋と堤から与えられた行為は、藍田の体に重ねられていく。
行為の意味が知りたくて堤を
利用したというのに、かえって疑問が増えていくというのは、皮肉だ。
やはり気になって仕方なく、藍田は携帯電話を取り
出す。飛行機に乗るときに電源を切ったままの状態にしてあった。
電車を降りたら、大橋に電話をかけてみようかと、ふっ
と考える。ここで車内アナウンスが流れ、到着駅が近いことを知らせる。
ハッとした藍田は、急いで携帯電話をジャケット
のポケットに仕舞った。ごく自然に、堤ではなく、大橋の声を聞くことを選んでいた自分に驚いた。今朝、大橋とエレベーターの
中であんな恥知らずなことをしてしまったばかりなのに、どんな顔をして、何を話せというのか。
電車が停まり、ホームに
降り立った藍田はコートの裾を揺らしながら辺りを見回す。思わず声を洩らしていた。
ホームの向こうには山に囲まれた景
色が広がり、その山々は見事な紅葉となっている。本当に、単なる保養で訪れたかったと思いながら、藍田は歩き出す。
駅
前のバス停で一応確認してみたが、バスが来るのは四十分後だと知って、あっさりとタクシー待ちの列に加わった。
保養所
はタクシーで十五分ほど走ったところにあり、宿泊施設は外観も中の造りもホテルとさほど変わらない。社員たちやその家族の保
養施設というだけでなく、他社からの研修も受け入れているため、サービスもほぼホテル並みと言っていいだろう。
敷地内
には少人数のグループにとって使い勝手のいいログハウスも並んで建っており、これで自然環境もいいのだから、社員たちが宿泊
のための予約を取るのに苦労するという話もわかる。
保養として訪れている人間と、うんざりするスケジュールを組まれた
研修をこなすために訪れた人間が同じ空間にいるというのも、これはこれで、会社所有の保養所ならではだろう。
藍田はフ
ロントでチェックインと同時に、研修の受付を済ませながら、隣でチェックインの手続きをしている家族連れに視線を向ける。小
学生ぐらいの男の子と女の子が、母親にまとわりつきながらはしゃいでいる姿に、つい唇を綻ばせる。
本当に、保養のため
に訪れるならいい場所なのだ。そのことを藍田は、ここに研修に訪れるたびに思う。
二人部屋の鍵を受け取ってエレベータ
ーホールに向かいながら、壁にかかっている時計を見上げる。昼前に行われるミーティングには十分間に合う時間だった。
一応ドアをノックして部屋に入ると、藍田の同室者はまだ来ておらず、遠慮なく窓際のベッドを使わせてもらうことにする。バッ
グをデスクに置いてコートを脱ぐと、カーテンを開ける。保養所の目の前にある湖がよく見えた。
小さな湖なのだが、散歩
コースとしては最適で、藍田も研修でここを訪れるたびに湖の周囲を歩いている。
散歩できるだけの気力と体力が残ってい
ればいいがと、内心でひっそりと苦笑を洩らすと、さっそく藍田は荷物を取り出していく。
途中、思い出して携帯電話の電
源をやっと入れてみたが、すでに部下から指示を仰ぐ留守電が残されており、ゆっくり落ち着く暇もなく電話をかける。
藍
田が電話で話している間に、同室者も大きなバッグを抱えてやってきて、互いに軽く頭を下げる。相手は四十代後半に見え、少な
くとも藍田よりずいぶん年上なのは間違いない。この手の研修に参加すると、年齢の差の幅が大きくなることは珍しくなく、藍田
より相手のほうが居心地悪そうな顔をするのも珍しくない。
藍田が電話をしている最中に、相手は荷物を置いてすぐにそそ
くさと出ていってしまった。
『――そちらの天気はどうですか』
出ていった同室者を気にかけていると、ふいに電話の
向こうから話しかけられる。一度だけ藍田の鼓動が大きく鳴った。いつの間に電話を代わったのか、相手は堤だった。
「……
お前も、仕事のことでわたしに質問があるのか」
『いえ、ただ、藍田さんから電話だと言っていたので、夕方の定時連絡の前
に声が聞けるのはラッキーだと思って、代わってもらったんです』
「ここに着いたら、もう指示待ちのメッセージが残ってい
たから電話したんだ。大した話じゃないなら、他に質問がある者はいないか聞いて、代わってくれ」
『もう、いませんよ。だ
から俺が出たんです』
聞こえよがしにため息をついてみたが、堤はこんなことで恐縮するような男ではない。動じた気配も
感じさせず、藍田の返事を待っている。
堤はオフィスで、どんな顔をして藍田と電話で話しているのかと想像してみる。き
っと、人によっては魅力的だと感じるが、どこか食えない雰囲気が漂う笑みを浮かべているのだろう。
本来なら、この状況
で部下と世間話などする藍田ではないのだが、さきほど電車で、大橋に電話をかけようかと一瞬でも考えてしまったため、その後
ろめたさもあり無碍にはできなかった。
腰掛けていたベッドから立ち上がった藍田は、再び窓に歩み寄り、外の景色に目を
向ける。
「天気はいいが、少し気温は低いな。ただ、そのせいかもしれないが……紅葉はきれいだ。会議室に閉じこもって研
修をするのが惜しくなるぐらいな」
『ご愁傷様です、としか言いようがないですね。この忙しい時期に、二泊三日も研修に参
加させられるなんて』
「……まあ、そう悪いものでもない。みんなが仕事をしているとき、わたしはこうしてきれいな紅葉を
眺めていられるんだからな。それに、少なくとも三日間は、残業をしなくていい」
そうおもしろいことを言ったつもりはな
いのだが、堤は声を上げて笑っている。
「無駄な話はここまでだ。早く仕事に戻れ。わたしもこれから、ミーティングなんだ」
『ええ、わかっています。――がんばってください』
「……ああ」
なんと答えればいいかわからず、藍田は短くこ
う応じるしかなかった。電話を切ろうとして、やはりどうしても気になり、結局切り出す。
「それと、今日の合同プロジェク
トの会議のことなんだが――……」
『大丈夫ですよ。書類関係の準備はできていますし、申し合わせの内容についても事前に
打ち合わせが済んでいますから、会議そのものはスムーズにいくと思います。統廃合プロジェクト単独の会議は週明けに変更とい
う連絡も回っていますし。何かあったら、サブリーダーに相談、ですよね?』
大橋とは大丈夫かと言いたかったのだが、必
要以上に多弁な堤に圧されてしまう。案外堤のほうは、藍田が本当は何を言いたいのか察して、あえてはぐらかしているのかもし
れない。
深読みするときりがなく、相手の真意を探ろうと神経を尖らせる自分が嫌になる。
「……まあ、今ここにいる
わたしがあれこれ心配しても仕方ないな」
『そうですよ。何かあれば連絡するし、藍田さんもそちらで気詰まりしたら、電話
をください。愚痴ぐらい、いくらでも聞きますから』
「期待しないで待っていろ。――夕方、オフィスには定時連絡を入れる」
やや性急に電話を切った藍田は準備を整えると、施設内にある大会議室に向かう。昼食前に、今日の研修の流れが説明され、
必要な教材が配布されるのだ。
渡り廊下で別館に行き階段を使って二階に降りる。すでに人が集まってきているらしく、大
会議室が近づくにつれ、会話のざわめきが聞こえてくるようになる。
漠然と嫌な予感めいたものを感じ、手前で立ち止まっ
た藍田はゆっくりと深呼吸する。そして足を踏み出し、大会議室に入る。
大半が藍田より年上の、おそらく実績もたっぷり
積み重ねているであろう『室長』の肩書きを持つ男たちが、胡乱げな視線をちらちらと向けてくる。
リーダー研修に参加す
るのが初めてでないからこそ、この独特の空気に迎えられるのはわかっていた。何より今回は、事業部を統廃合するというプロジ
ェクトのリーダーを任されている。今回のリーダー研修で藍田を取り巻く環境は、厳しくなっていると容易に推測できた。
適当に空いている席に腰掛けてから、フロントで渡された名札をジャケットにつける。
一見、こういった場に慣れてしまっ
た人間たちらしく、余裕のある和やかな会話が交わされているが、一方で、藍田には鋭い視線が絶えず誰かから向けられる。
「――……あれが、事業部統廃合の……」
低い声でそんな言葉が聞こえてきたが、藍田は一切の表情を消して聞こえないふ
りをした。新人でもあるまいし、この程度のことで身構えるほど、藍田の神経は繊細ではない。
窓のほうを見ると、並んで
いるログハウスの屋根が見えた。
あのきれいな紅葉がここからでは見えないことを、藍田は少しだけ残念がった。刺々しい
視線も、聞こえよがしの批判も、このことに比べれば瑣末なことだ。
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