サプライズ

[14]

 日が沈みかけた空が薄紫色に染まりかけており、ブラインドを下ろそうと窓に近づいた大橋は、独特の美しさについ動きを止め、 わずかに見える空に見入っていた。それから、向かいのオフィスに視線を移す。
 ブラインドは上がってはいるものの、大橋 のいる位置から一番よく見えるデスクの主はいない。
 端然と座した藍田の姿を三日も見られないのだと、改めて痛感してい た。向かいのオフィスに目をやり、藍田の姿を確認して安心するか、ブラインドが下ろされていることに軽く失望するのは、すで に大橋の生活の一部になっている。
 なのに、肝心の藍田がいないというのは――。
「味気ないもんだな……」
 小 さく独りごち、唇に淡い苦笑を浮かべていた。
「――補佐って実は、笑い方のバリエーションが豊富みたいですね」
 突 然、傍らから声をかけられ、スラックスのポケットに手を突っ込もうとしていた大橋は、驚いて動きを止める。ぎこちなく声のほ うを見ると、いつからそこにいたのか、旗谷が立っていた。
「はあ?」
 完全に不意をつかれたため、思わず間の抜けた 声を発してしまう。旗谷はちらりと唇に笑みを浮かべると、大橋の隣にやってきて、同じ方向――向かいのオフィスを見た。藍田 のデスクを眺めていたことがバレたのではないかと、一瞬ヒヤリとする。
「今朝も素敵な笑みを浮かべて、部下の女の子の心 を奪ったでしょう」
「……あー、心を奪ったかどうかは知らないが、ニヤニヤ笑っているところを頻繁に見られているかもし れない」
「ニヤニヤなんてとんでもない。大人の男の魅力と色気が溢れる、優しい微笑だったらしいですよ」
「なんだよ、 それ……」
 苦々しくそう洩らしたのは、見られたくない場面を見られてしまったことのバツの悪さを誤魔化すためだ。
「思い出し笑いを見られたなんて、恥ずかしいだろ。スケベです、と言っているようなもんだぞ」
「あらっ、どなたとのスケ ベなことを考えていたのか、知りたいですね」
 澄ました口調で旗谷に問われ、顔をしかめる。
 女がこんな物言いをし たときは要注意だと、二度の離婚経験者である大橋は知っている。冗談のような口ぶりで、実は鋭く厳しく相手の心をさぐろう としているのだ。
「スケベというのは、ものの例えだ。俺は決して、朝から不埒なことを考えていたわけじゃないぞ」
「でも、誰かのことを考えて、魅力と色気溢れる微笑を浮かべていたんでしょう」
「――誰の名前を出せば納得するんだ?」
 真剣な顔で大橋が問い返すと、旗谷は珍しく言葉に詰まった様子だった。すかさず大橋はニヤッと笑いかける。
「俺ほ どの経験を積むと、こんな切り返しの技も覚えるんだぞ」
 目を見開いた旗谷だが、すぐにいつもの調子で言った。
「二 度の離婚で覚えた技がそれって……、ちょっと情けないですよ」
「やかましい」
 このやり取りで、劣勢を切り抜けられ たかと思ったが、旗谷は――というより、女はそんなに甘くなかった。さらりと指摘されたのだ。
「補佐って、誰に対しても オープンで、冗談を言ったりして親しげだけど、実はそういう態度を取りながら、誰に対しても均等な距離を取ってますよね。内 面を見せないというか」
「……俺はそんなに器用じゃないぞ。腹芸とか苦手なんだ」
「でも、スケベなことを考えてしま う相手の方とは、腹を割って向き合えるんでしょう」
 いつにない追及の厳しさに、大橋は口元に手をやって咳払いをする。 すると旗谷は、声を上げて笑った。
「冗談ですよ。そんな、今にも死にそうな顔しないでください。――もっといじめたくな りますから」
 女は怖い。心の底からそう痛感したとき、救いの神が現れた。
「補佐ーっ、そろそろ会議に行きませんか ?」
 これから行われる合同プロジェクトの会議にともに出席する部下からの声に、すかさず大橋は応じる。
「おう、今 行くっ」
 ちらりと旗谷を見ると、何事もなかった顔で手を振られた。
「いってらっしゃい」
「……行ってくる」
 背に視線が突き刺さるのを感じながら、素早く準備を整えた大橋は、部下とともにオフィスをあとにする。
 廊下を歩きな がら、最近の自分は会社内で気を抜きすぎているのかもしれないと反省する。にやけ顔を見られた挙げ句に追及されたのだ。さす がに神経が図太いと自負している大橋でも、思うところがある。
 気を抜いているというより、きっと浮かれているのだ。運 命的な恋に落ちてしまったガキのように。いや、今は立派な大人の男なのだが、根本的なところで、ガキの頃と変わってない。
 例えば――。
 会議室に足を踏み入れた大橋は、そっと息を詰める。すでに大半のメンバーが集まっている中、当然、堤の 姿もあった。
 会社での地位も年齢も関係ない。〈恋敵〉を目の前にして、どうしようもなく気持ちが高ぶる。この男にだけ は負けたくないと、剥き身の闘争心と嫉妬心が、まるで柱のように胸の中にそびえ立つのだ。
 本当に成熟した大人の男とい うのは、こういう感情とうまく折り合いがつけられるものなのだろうかと考えるが、三十五歳の大橋では、まだまだその域に達し ていないようだ。
 だからこんなにも、感情を押し殺すのに苦労する。藍田に対する気持ちを、気の迷いではないと確信する たびに。
 静かに息を吐き出した大橋は口を開く。
「――会議を始めるぞ」
 そう告げると壇上に向かい、藍田にあ とを任されている事業部統廃合のサブリーダーを呼んで、今日は隣に座ってもらう。二人で手短に打ち合わせを済ませてか ら、会議を始めた。
 会議そのものは順調に進んだ。互いのプロジェクトに今のところ大きな問題も抱えていないということ もあるし、報告会という一面が強い会議ということもある。熱く議論を交わす場ではないのだ。
 この日の話し合いの内容を、 簡単にメモにとってまとめる。記録係はきちんといるが、あとで藍田に知らせるためだ。おそらくメンバーの誰かが、藍田への連 絡係として報告するだろうが、念のためだ。それに、藍田に電話するには、大橋なりに理由を必要としているのだ。
 ほんの 三十分ほどで会議は散会となったが、メンバーの一人である男性社員に呼ばれる。性格の温和さが滲み出ているような、人のよさ そうな笑顔を浮かべている男性社員で、首から、『瀬口』という社員証をぶら下げている。
「あー、そういえば、そんなもの があったな。すっかりド忘れしていた」
 用件を告げられ、さっさと片付けを始めようとしていた大橋は、小さく舌打ちして からまたイスに腰掛ける。
「藍田からは、なんと言われた?」
「大橋部長補佐に相談して、適宜判断を仰げ、とのことで す。ちなみに事業部統廃合のほうでは、もう一名決定しています。申請は、ぼくがするよう言われてますから、言っていただけれ ば、すぐに担当部署に連絡を入れておきます」
「つまり、うちはうちで、適当に誰か決めろってことか」
 大橋の表現に、 藍田の部下でもある男性社員は微妙な笑みを浮かべた。自分の上品な上司に比べて、表現が明け透けだとでも思っているのかもし れない。
「合同プロジェクトだから、人員は二名出さなきゃ、他とバランスが取れないだろうな」
 瀬口が告げてきたの は、会社が行っているコンプライアンス講習の出席者を、今日中に誰か決めなければならないということだった。現在活動中のプ ロジェクトが対象となっている講習で、お題目程度の行事ごととはいえ、誰も出さないわけにはいかない。
「あっちで研修、 こっちで講習か……」
 そうはいっても、このビル内のどこかの会議室で、ほんの二時間ほどの座学という苦痛に耐えればいい だけなのだ。二日半も保養所に閉じ込められ、大半が自分より年上の男たちという中で研修を受ける藍田の境遇とは、比較にもな らない。
「そっちはもう、誰を差し出すか決まってるって言ったな」
「はい。プロジェクト内で、一番若くて、活きがい いのを」
 瀬口という男性社員の表現もなかなかのものだと思いながら、大橋はついニヤリと笑ってしまう。だが次の瞬間に は、眉をひそめていた。瀬口の表現に該当する人物が、視界の隅に飛び込んできたからだ。
「それは、もしかして――」
 大橋が言い終える前に、振り返った瀬口は、〈その男〉を大声で呼んだ。
「おい、堤、ちょっとこっちに来てくれ」
  他の社員と話していた堤がこちらを見て、軽く驚いたように目を丸くしたが、すぐにいつもの生意気そうな表情となって頷く。
「……彼が参加するのか?」
「ええ。新機能事業室では、この手の講習には、チームでもプロジェクトでも、一番若い社 員を参加させることになっているんです」
「そうか。うちじゃいつも、平等にクジで決めているんだ」
 楽しそうですね、 と言って瀬口は笑った。上司と違って、笑顔を出し惜しみしない男だなと思い、大橋は瀬口に対して好印象を抱く。一方で、正反 対の印象を大橋に抱かせる男が壇上までやってきた。
「――瀬口さん、どうかしましたか」
 堤が瀬口に話しかける。そ れを側で見ながら大橋は、意外に感じていた。堤の瀬口に対する物腰が、いくらか柔らかく感じたからだ。藍田に対するときとは また違う、親しみを感じさせるものだ。どうやら堤なりに、瀬口を先輩として慕っているらしい。
 なかなか珍しいものを目 にしているのかもしれないと思っていると、ふいに堤がこちらを見る。背中に緊張感のようなものが走り、大橋は静かに身構える。
「ああ、今、大橋部長補佐と、来週のコンプライアンス講習に誰が参加するのか話してたんだ。うちは、若手の逸材である堤 を参加させます、と紹介しておいたからな」
「勘弁してくださいよ……」
「謙遜するなよ」
 先輩・後輩のやり取り を聞きつつ、大橋は、まだ会議室に残っている自分のプロジェクトのメンバーの中で、堤よりもさらに若い男性社員を呼ぶ。手短 に講習の件を説明して、参加を半ば強引に承諾させた。
「ということで、こっちは、この若手を参加させる。……堤、何かあ ったときは、面倒を見てやってくれ。多分、その手の集まりだと、ここの合同プロジェクトの人間に対しては、風当たりがきつい はずだ」
 大橋の言葉に、堤はまじめな顔で頷いた。
「承知しました」
 詳細について立ったまま打ち合わせを始め た三人を、大橋は腕組みをして眺める。自分の部下でない社員たちも加わって、自分の元に集まって打ち合わせをしている光景と いうのは、けっこう不思議な感覚だった。
 藍田がいない間、この合同プロジェクトを――社員たちを預かっているのは、大 橋一人なのだ。たった三日間とはいえ、肩にズシリと見えない圧力がかかる。
 そしてもう一つ、大橋に見えない圧力をかけ てくるものがある。
 スッと目を細めた大橋は、それとなく堤の様子をうかがっていた。先輩どころか、上司ですら才覚を買 っている若手の有能な社員。少し生意気で、斜に構えたところもあるが、それが反発に繋がらない程度に、如才なくできる。
 自分以外に、藍田に触れている男――。
 生々しい表現が頭に浮かび、大橋の胸に不快さが広がる。事実のすべてを受け入 れて寛容でいられるほど、ヌルイ男ではいたくなかった。
 大橋がようやく我に返ってテーブルの上を片付け始める頃、三人 の話はまとまったようだった。
「それでは大橋部長補佐、講座の参加者については、ぼくが企業倫理室のほうに連絡しておき ます」
「おう、頼む」
 大橋の返事を合図に、三人は壇上から移動する。少しの間、三人で何か話し合っているようだっ たが、走り書きしたメモを読み返しているうちに、その声もすぐに聞こえなくなる。
 ようやく大橋も立ち上がってファイル を脇に抱えたとき、自分以外にもう誰も残っていないと思われた会議室内に、人の気配を感じた。顔を上げると、堤がいる。一度、 合同プロジェクトのメンバーに配布してから、会議後に回収した書類の枚数を数えていた。
 情報漏えいを危惧しての配布物 の徹底回収は、藍田の指示だ。
 普段は生意気そうな男が生まじめな顔で、今はここにいない上司の言いつけを守っている姿 に、大橋の胸にじわじわと広がるものがあった。決して、堤の姿に胸を打たれたわけではない。
 ただ、この瞬間に確信した のだ。堤は、興味本位やおもしろ半分、上司の機嫌取りなどという柔な理由から、藍田に〈触れて〉いるわけではないと。
  そうでなければ、ツンドラのように冷えた藍田の気持ちの揺れを感じるなど不可能だ。藍田は藍田なりに、堤に心許せる何かを感 じているのだ。
「――そんなに怖い顔をして、睨まないでください」
 突然、そんなことを言われ、大橋は目を見開く。 まとめた書類を揃えながら、堤がこちらを見て薄く笑んだ。
「適当に言ってみたんですが、当たってましたか。驚くというこ とは」
 挑発的な堤の言葉に、ようやく自分を取り戻せた大橋は苦い表情となる。
「……なんのことだ」
「俺に、藍 田さんを奪われるかもしれない、と考えたことがあるって顔してますよ」
 何を言われても平常心でいるつもりだったが、早 々に心が乱される。大橋は鋭い眼差しを隠そうともせず、年下の〈ライバル〉へと向けていた。否が応でも認めざるをえない。社 内での地位も年齢もこちらが上だが、藍田を巡っては、大橋と堤は同等だ。
 それでも大橋は、最大限の理性をもって受け流 そうとした。
「何が言いたいのか、さっぱりわからんな」
「俺と大橋さんの間で、とぼけるのはなしにしませんか。いま さら、でしょう」
「お前……、一応俺は、肩書きではお前より遥かに上だぞ。せめて社内で口の利き方は気をつけろ」
  表面を取り繕うだけの大橋の説教は、次の堤の発言の前に、あっさり吹き飛ばされた。
「――藍田さんのことで、自分だけが 特別だと思わないほうがいいですよ。本当のことを知ったら、ショックを受けるのは大橋さんのほうかもしれないんだし」
  堤のこの攻撃は、大きな精神的ダメージを大橋に与えてきた。咄嗟に息ができなかったぐらいに。
「今のところ、俺とあなた に差はありませんよ。そもそも、〈あの人〉は差をつけようとは思ってないのかもしれない」
 失礼しますと言い置いて、堤 が会議室を出ていく。その背を見送った大橋は苦笑しようとして失敗した。ぐっと奥歯を噛み締めて、狂おしい嫉妬や怒りの感情 をなんとか堪える。
 藍田が二度目のキスを許してくれたということや、研修に出かける前の態度から、自分が藍田の特別な 存在になれたと確信していたわけではない。気づいたばかりの感情突き動かされ、暴走しているのかもしれないという危惧を、大 橋自身持っているのだ。
 その暴走に、藍田をつき合わせているだけなのかもしれないという不安も。
 だからこそ、堤 の言葉は痛かった。
 自分は進歩がない男なのかもしれないと自嘲しながら、大橋はテーブルに浅く腰掛ける。のんびりと落 ち込んでいる場合ではない。これからまだ、残業をこなさなくてはならないのだ。
 ただ、むしょうに藍田の声が聞きたかっ た。冷ややかな声で、冷ややかな言葉でもいいから、投げかけてもらいたい。
 大橋はイスに深くもたれかかると、天井を見 上げながら前髪に指を差し込んだ。




 大橋から電話がかかってきたとき、藍田はコーヒー入りの紙コップを手に、食堂から出たところだった。
 研修の間、とも に会議室にこもっていた人間たちと、食後の一時まで顔をつき合わせるのは、少々気詰まりする。何より、寒かろうが外の空気を 吸いたかったのだ。建物の中は、どこにいても暖房が効きすぎている。
 藍田は廊下を歩きながら、震え続ける携帯電話の液 晶を凝視していた。電話の相手が大橋だとわかった途端、藍田の鼓動は大きく跳ねた。電話に出るべきか、このまま無視するべき か迷ってもいる。
 しかし大橋からの電話は、本人の存在感そのままに、無視することなど許さなかった。留守電に切り替わ ると、一度電話を切って、またすぐにかけ直してくるのだ。
 夕食の前に、自分のオフィスには定時連絡を入れたのだが、そ のあと電源を切ってしまえばよかったと、いまさらしても仕方ない後悔をする。
 ようやく建物の外に出て、切りつけてくる ような冷たい風を頬に受けたとき、藍田は抵抗することを諦めた。
「――何か用か、大橋部長補佐」
 これ以上なく冷や やかで素っ気ない対応をしてみたが、それでも電話の向こうで大橋は、安堵したような吐息を洩らした。また、藍田の鼓動は跳ね ていた。
 何かあったのだろうかと思ったときには、大橋の術中にハマったのかもしれない。
 藍田は、声を平素のもの に戻した。
「……ちょっと待ってくれ。今、腰を落ち着ける場所を探しているから」
『どこにいるんだ、今。保養所の中 じゃないのか』
「外の空気を吸いに出たところだ」
『ああ、中はオヤジ臭いか』
「今のわたしの言葉を、どうやった らそんなふうに曲解できるんだ」
 大橋の言うような匂いがするかどうかはともかく、息が詰まっていたのは確かだ。
  湖の周囲を取り囲む遊歩道まで出ると、近くに置かれたベンチに腰掛ける。すっかり陽が落ちたうえに、気温も低いため、この時 間はさすがに散歩をしている人の姿もまばらだ。いくら外灯が遊歩道を照らしているとはいえ、傍らの湖は真っ暗なので、慣れた 人でないと不安を覚えるかもしれない。
 藍田は一口だけコーヒーを飲んでから、再び話し始めた。
「それで、用件は」
『言っただろう。電話すると』
「定時連絡のつもりか」
『まあ、そんなところだ』
 大橋の返事を聞きながら、 やはり様子がどこかおかしいと感じていた。
『メシは食ったのか?』
「ああ。あんたは……まだだな。この時間なら、残 業中だろう」
『正解。空きっ腹抱えて、モリモリと片付けている最中だ。そっちにいるほうが、優雅に過ごせそうだな』
「冗談じゃない。今は、食事も含めた休憩時間というだけだ。三十分後には、また会議室にこもって研修だ」
『そりゃ悪かっ た』
 本当にそう思っているのか、大橋の低く抑えた笑い声が聞こえてくる。それを聞いていると、藍田はなんだか不思議な 気分になってくる。離れた場所にいるのに、こうしてわざわざ大橋と、電話で他愛ない話をしているのだ。
 まるで、友人同 士ではないか。もしくは――。
 ふいに頭に浮かんだ単語に、一人で藍田はうろたえてしまう。そんなはずもないのだが、大 橋に悟られたのではないかと焦ってもいた。
「プロジェクト絡みで、大きなトラブルはなかったようだな。さっき、こちらか らオフィスに定時連絡を入れたときに、瀬口から聞いたが」
『瀬口……。ああ、あのニコニコとして人のよさそうな奴か。お 前の部下に、ああいうタイプがいるってのが意外だったんだ』
「そういえば、コンプライアンス講習のことで、あんたに相談 したと言っていたな」
 どんなやり取りがあったのか知らないが、瀬口は大橋の前でも、愛嬌のある笑顔を出し惜しみしなか ったようだ。ただ、瀬口からこの報告を聞いた藍田は、あることを危惧していた。
 藍田のプロジェクトから講習に参加する ことになったのは堤だ。講習の相談をしたのなら、瀬口の口から堤の話題が出たかもしれない。電話で話したのだから瀬口本人に 確かめればいいことだが、藍田は堤を部下として以上に意識しており、そのことを他人に悟られたくなくて、さらに意識した言動 を取るようになっていた。
 だからこそ、大橋に対して失敗した。
『瀬口が言ってくれて助かった。俺はすっかり、講習 のことは忘れていたからな』
「らしくないな。フットワークの軽さに比べて、仕事が大雑把と思われがちだが、実は如才ない ――はずの大橋部長補佐らしからぬミスだ」
『お前が言うと、嫌味を言われてる気になる。それとも、本当に買い被ってくれ てるのか? 俺だって人間だぜ。しかも、かなり大雑把な性格の』
「……少し疲れてるんじゃないか。声の様子がいつもと違 う」
 ふいに沈黙が訪れる。どういう意味か、いつもなら笑い飛ばすであろう大橋が、なぜか黙り込んでしまったのだ。
 咄嗟に藍田の頭に浮かんだのは、今日の会議で、大橋と堤の間に何かあったかもしれないということだった。
 こう思って しまったことが、藍田の失敗だ。
「何かあったのか……?」
『何か、って、なんだ』
 試されているとは感じなかっ た。だからこそ藍田は、率直に尋ねていた。
「堤があんたに、突っかかったんじゃないかと思ったんだ。あいつは、誰に対し ても挑発的なところがあるから――」
『はっきり言えよ。俺と堤は、お前を挟んで対峙してる状態だから気になる、と。だか らこそ、あいつが俺に対して挑発的な態度を取ると思ったんだろう』
「大橋さんっ」
 大橋らしくない皮肉げな物言いに、 つい藍田は大きな声を発していた。だがそれでも、大橋に対して不愉快さや怒りを覚えることはない。そういう感情を持つとすれ ば、自分自身に対してだ。
 揺れる藍田の気持が、本来起こりえない捩れや歪みを生んでしまった。
『――……悪かった。 お前にケンカを吹っかけるつもりはなかったんだ。ただ、声が聞きたいと思っただけで……』
 会社にいるくせに、そんなに 苦しげな声で、そんな言葉を発するなと思った。聞いている藍田の胸が、締め付けられるように苦しくなってくる。
 こうい うとき、どんなことを言えばいいのか藍田はわからない。友人同士のように遠慮ない言葉でも、同僚同士のようによそよそしい言 葉でも、大橋を傷つけるということだけはわかるのに。
 結局、藍田は逃げていた。
「……人が来るから、もう切る。わ たしの声を聞いて、もう目的は果たしただろう」
 電話を切ってから、藍田は自分が言った言葉にやや呆然としてしまう。も っと言い方があっただろうと、自己嫌悪に陥っていた。
 大きく息を吐き出して、寒さに身を震わせる。大橋と話している間 は、吹きつけてくる風の冷たさも気にならなくなっていたようだ。
 前髪を掻き上げた藍田は、傍らに置いた紙コップを取り 上げる。すでにもう、コーヒーは温くなっていた。暗い湖を見つめながら、かまわず口をつける。
 大橋は、単純明快そうに 見えて、複雑な男だ。いや、自分のほうがシンプルに生きすぎているのかもしれないと、藍田はひっそりと自嘲する。
 とに かく仕事にすべてを注ぎ、面倒が多い人間関係は、強引に割り切り、切り捨ててもきた。あとは、藍田が相手にしなければ済む話 で、他人から疎まれるのも嫌われるのも、胃にかかる負荷さえ我慢すればなんとかなっていた。いままでは。
 だが、大橋と 深く関わり、堤とも上司と部下を超えて関わってしまってから、藍田は短期間のうちに変わってしまった。人間同士の複雑な感情 の絡み合いを、興味深いと――愛しいとすら思い始めていたのだ。
 今の大橋とのやり取りは、変化に伴う痛みだ。しかも、 疼きを帯びた。
「悪いと謝るなら、わたしのほうだ……。わたしは、自分の狡猾さを受け止めてはいるが、あんたには知られ たくないと思っている。あんたはもう、とっくに知っているはずなのに」
 大橋には言えない本音を、遠くにいる大橋に向け て告白する。
 コーヒーを飲み干して立ち上がった藍田は、近くのゴミ箱に紙コップを捨てて建物に戻ろうとする。このとき、 遊歩道の脇の植木が揺れたかと思うと、突然人影が現れた。さすがの藍田も驚き、目を見開く。
 植木を乗り越えて遊歩道に 出てきた人影は、スーツを着ていた。この保養所に来て、わざわざスーツを着ている理由はただ一つだ。
 相手のほうも藍田 の存在に気づいたらしく、誤魔化すように小さく笑った。
「すみません。驚かせてしまったようで。いや、あっちには何があ るのかと思ってウロウロしていたら、変なところから出るハメになって……」
 口調は軽いが、外灯の明かり下で見た相手は、 いかにも風格のある五十代後半ぐらいに見える〈紳士〉だった。見たことがあると思えば、同じリーダー研修の参加者だ。数十人 が参加している研修の中、慌ただしく自己紹介と名刺交換を行ったが、ほんの何秒かのやり取りで全員の顔を覚えるのは不可能だ った。
「いつも家族に言われるんですよ。お父さんは落ち着きがないって。まあ、好奇心が旺盛というか……。あっ、自分で 言うなって話ですよね」
 藍田が言葉を発する余裕もないほど、その〈紳士〉は一人で楽しげに話している。お先に、と告げ ることもできず、藍田は自然な流れで彼の散歩につき合うこととなっていた。
 見た目の重厚そうな雰囲気とは違い、楽しげ に話す人だと思った。そして、おそらく間違いないだろうが、一度話し始めると止まらない性質だろう。
「――藍田さん、で したよね」
 突然呼びかけられ、藍田はぎこちなく頷く。
「はい。あなたは……。すみません。名刺をいただいたのに」
「東京支社の岡本です。――仕方ありませんよ。最初にあれだけの人間と一斉に名刺交換をしただけで、あとはひたすら講義 を聞いているだけですから。わたしも、馴染みの方でない限り、顔と名前までは把握してません。ただ、藍田さんは特別だから覚 えているんです。多分、わたし以外の参加者も同じはずですよ」
 岡本が言おうとしてることは理解した。藍田は、今回のリ ーダー研修の参加者の中ではもっとも注目を浴びている存在なのだ。もちろん、歓迎できる注目ではない。
 食事のときだけ でなく、休憩時間ですら、嫌な視線は絶えず感じていた。その視線から解放されるのは、講義のときだけだ。あえて藍田が、一番 後ろの隅の席に座り続けているのはそのためだ。
「……室長が多忙なので、急遽、わたしが参加することになったんです。わ たしが参加することに、いい気持ちがしない方がいるとわかってはいたのですが……」
「自分の抱えている事業部が、と考え る方もいるでしょうが、半分は妬みもあると思いますよ。なんといっても、会社の命運を握っていると言ってもいい仕事を任され ているんですから。わたしもあと十歳若ければ、やっぱり大人げない態度を取っていたかもしれませんね。もっとも、今の地位が 一番居心地いいと思っているうちに、来年には定年を迎えるような人間に、妬むだけの覇気が十年前にはあったのかと言われると ――」
 藍田は思わず歩調を緩める。身構えていたものが、わずかに解けていた。
「ずっと張り詰めた顔をしている藍田 さんを見ていて、つい余計なことを言いたくなったんです。あまり気にしないでください」
「いえ……。声をかけてくださっ て、すごく、ありがたいです。今のわたしは、周囲が敵だらけに見える傾向があるというか……。気持ちに余裕がないんです」
「だったら、深夜や朝に、ここを散歩してみるといいですよ。呼吸の仕方を思い出せる」
 呼吸の仕方、と口中で呟いて から、藍田は深呼吸をしてみる。
「深く呼吸をしていると、腹の底に溜まった澱のようなものが、一緒に吐き出されているよ うな気がしますよ」
「……さっそく今夜、実行してみます」
 保養所の建物の明かりが足元に届くところまできたところ で、ふいに岡本が声を上げた。
「あっ、そうだ」
 どうかしたのかと藍田が首を傾げると、ここまで朗らかに話していた 岡本の様子が一変した。急に眉をひそめ、声を抑えたのだ。
「本社の誰かに聞こうと思っていたんですが、藍田さんならちょ うどいい。――鹿島くんを知っていますか?」
「鹿島、ですか……?」
「確か一週間ほど前に、大阪本社に派遣されたは ずです。東京支社ではなく、福利厚生センターの社員なんですが」
「そうなんですか。わたしはまだ、その件に関しては何も」
 どうしてここで福利厚生センターの人間の話題が出るのかと思ったが、その疑問はすぐに氷解した。また、岡本が声を抑え た理由も。
「本社移転のプロジェクトが、福利厚生センターに業務の一部を委託することになったそうで、その関係で社員を 本社に派遣したと聞きました」
「業務の委託については知っています。そうですか、社員を派遣してきたんですか」
 偶 然、大橋と東京支社への出張が重なったとき、そういうことになったと大橋本人から聞いたのだ。
「それ自体は、別におかし いことじゃないんですけどね。センターの仕事のやり方の一つですし。ただ、わたしが気になったのは、派遣された社員が鹿島く んだということです。――わたしは運営企画室の人間なので、福利厚生センターとはたまに共同の企画を持つことがあるんです。 それで、多少はあそこの内側を知っているんですが……」
「何かあるんですか?」
 岡本はちょっと困ったように笑った。
「そう大げさなことじゃないんですよ。ただ、鹿島くんはアクが強いというか、エキセントリックというか……。優秀な社員 ではあるんですが、だからこそ持て余しているようなんですよ、彼の上司が。あー、その上司というのが、わたしの飲み仲間なん です」
「うまくやっているか、その上司の方が気にされているんですね」
「そういうところです。わたしも、今回の派遣 の話を聞いて意外だったんですよ。そう心配するなら、なぜあえて、鹿島くんを派遣したのかって。なんでも本社から、鹿島くん を指名してきたらしいんですけど」
「……わざわざ、指名、ですか?」
「そう。指名してきたそうです。総務のほうが。 ただ、鹿島くんは独自で本社とのパイプを持っているらしいので、〈誰か〉が、総務にそう指示したのかもしれない――と考える のは、穿ちすぎですかね」
 そんなことないとは、藍田は言えなかった。今の東和電器は、表立ってはわかりにくいが、内情 はかなり混沌としている。人間関係も、思惑も。誰かの些細な言動一つで、思いがけない波紋が起こっても不思議ではない。なん らかの意図を持った動きなら、なおさら、気をつけなくてはいけない。
「鹿島くんは野心も強いタイプのようだから、トラブ ルメーカーにならなきゃいいが、と上司が心配していたんです。そこでわたしが余計なお節介で、今回の研修で事情に詳しそ うな人に話を聞いてみたんです」
 岡本がこちらを見たので、藍田は軽く頭を下げた。
「すみません。せっかく話してい ただいたのに、何も知らなくて」
「あー、いや、わたしのほうこそ、不安を煽るようなことを言ってしまったようで、申し訳 ない」
 建物の前まできて、自然と足を止めた二人はさらに声を潜めて話した。
「――わたしのほうで、それとなく様子 を観察してみます。本社移転の責任者である大橋部長補佐も、そういうことには鼻が利きますから、話を聞いてみます」
「わ たしたちの考えすぎならいいんですが、お願いします」
 すぐにまた会議室で顔を合わせることになるが、岡本とはここで一 旦別れる。一人で会議室に向かいながら藍田は、さきほど聞いた話を、すぐに大橋に相談したほうがいいのだろうかと考えるが、 今は携帯電話を出すまでには至らなかった。岡本と出くわす前に、どんな形で大橋との電話を終わらせたのか思い出したのだ。
 あんな電話の切り方をするのではなかったと、このときになって藍田は痛切に後悔していた。










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