サプライズ

[15]

 土曜日は、昼までベッドの中でダラダラと過ごすのが、大橋のささやかな幸せだ。そんなふうに過ごそうと、大抵、金曜日の夜 は無茶な残業をしてしまうのだが、それも、土曜日の至福の時間を思えば苦にならない――。
「土曜日の休日出勤ほど、世の 中でつらいものはねーな……」
 天井を見上げながら大橋が一人ぼやくと、すかさず突っ込みが入った。
「日曜日の休日 出勤はいいんですか?」
「ガキの頃から、日曜日の夕方なんて、憂鬱を表す代名詞みたいなものだろ。その憂鬱さを味わわな くて済むなら、休日出勤も悪くない。俺はひたすら、土曜の安息だけを愛してるんだよ」
 社内で発するには不適切ともいえ る大橋の発言に、誰かが小さく噴き出す声が聞こえた。大橋の休日出勤につき合わされた社員たちの気が紛れるなら、いくらでも 不まじめな上司を演じてやれる。多少、本音も混じっているのは否めないところだが。
 本社移転のため、取引会社を集めて の商談会を大阪と東京で開くことになっており、その準備に入りはしたもの、平日だけでこなすには厳しい状況のため、こうして 土曜日も出勤していた。おかげでというべきか、時間も気にせず会議室をのびのびと使用できる。
 今は会議室に閉じこもっ ての仕事だが、もうすぐ移転推進実行プロジェクトのメンバーは、大阪と東京を忙しく行き来することになるだろう。座って仕事 ができるだけ、まだありがたい。
 だいたい今日はあまり寝ていないのだ。大橋は両手でごしごしと顔を擦ると、危うく出そ うになったあくびを噛み殺す。
 昨日の夕方、藍田と電話で交わした会話を心の中で反芻しているうちに、いつの間にか時間 が過ぎていたのだ。
 自分の狭量さと、藍田の無自覚さ――自覚はあっても悪意がないのかもしれないが――の駆け引きだと、 大橋は考えていた。二人は、互いの間にある糸がプツリと切れないよう、ギリギリのところ引っ張り合いながら、じりじりと距離 を縮めている。だが、焦ってはいけない。
 焦れば、藍田は後ろに引くし、もしかすると緩んだ糸が絡んでしまうかもしれな い。
 そして藍田は、大橋の見えないところで、もう一人の男とも駆け引きを繰り広げているはずだ。
 藍田の心理を想 像するのは、まったく違う世界が開けていくようで、こういう言い方は変かもしれないが、興味深かった。妙な興奮もあった。そ れらの感情の先にあるのは、露骨なほどの独占欲だ。
 いくら考えたところで、大橋一人で答えが出せるはずもない。
  悩ましい限りだとため息をつき、渋々仕事を再開しようとしたとき、ジャケットのポケットの中の携帯電話がメールの着信を知ら せた。
 何げなく携帯電話を取り出した大橋だが、誰が発信したメールかわかった瞬間、イスからひっくり返りそうになった。 メールを送ってきたのは藍田だった。
 昨日のあのやり取りのあと、藍田から、少なくとも研修に出かけている間は連絡はこ ないと思っていただけに、意外だった。
 言い忘れた罵倒をメールで送ってきたのだろうかと思いながら、『聞きたいことが ある』という素っ気ないタイトルのメールを、大橋は身構えながら読んだ。
 メールを一読したとき、大橋は無意識に眉をひ そめていた。背に、ビリッと緊張感のようなものが駆け抜け、ゆらりと立ち上がる。
「……ちょっと休憩してくる」
 メ ンバーたちにそう言い置いて、大橋は携帯電話を片手に会議室を出る。研修先で藍田が何を知り、もしくは何が起こったのか推測 するには、会議室では人目がありすぎる。
 とにかく一人になろうと思ったのだが、ちょうどそこに、ファストフードの大き な袋を抱え持った旗谷がと出くわした。
「お前どうした」
 大橋が驚いた声を上げると、旗谷はうんざりしたように眉を ひそめた。
「今日は、外で打ち合わせです。補佐もプロジェクトの仕事で出社していることを思い出したから、移動の途中で 差し入れに寄ったんですけど――……」
 言いながら旗谷の視線が、大橋が片手に握り締めている携帯電話に向けられる。大 橋は何か問われる前に、会議室を指さした。
「おう、みんな喜ぶから、行ってやってくれ」
「で、補佐は急いでどちらに ?」
「ちょっとした用だ。すぐに戻る」
 そう言い置いた大橋は、小走りでエレベーターホールへと向かったが、平日と 違って人気がないこの場所では、かえって会話が聞こえてしまうと思い、階段の踊り場へと移動した。そこでもう一度、藍田から 送られてきたメールに目を通す。
『福利厚生センターから、最近になって鹿島という社員が派遣されてきたのを知っているか ? 何か知っているなら、研修から戻ったら話を聞きたい』
 昨日、自分たちがどんな形で電話を切ったか、見事に微塵も感 じさせないメールだった。もちろん大橋であれば、藍田がどれだけ葛藤して、どんな表情でこのメールを打ち込んだのか、想像す るのは簡単だ。もしかすると、願望ともいえるかもしれない。
 ただ一つ断言できるのは、なぜか藍田が鹿島を知っていると いうことだ。
 研修先からわざわざメールをしてくるぐらいだ。藍田が向こうで情報を仕入れて気にかけているのは確かで、 大橋も鹿島のことは、注意すべき人物として認識している。まだ何かあると決まったわけではないが、何かがありそうではある。
 メールに返信しようとした大橋だが、思い直して電話をかけてみる。メールをくれたぐらいなので、今は休憩時間だと思っ たのだ。
 案の定、藍田はすぐに電話に出た。
「あっ、藍田、今メールを見たんだが――」
 いつも通りの調子で話 せていると安堵しかけたとき、言い終わる前に藍田に怒られた。
『これから講座だっ。研修から戻ったら、と書いてあっただ ろう、バカッ』
 ブツッと乱暴に電話が切られ、神経が太いと自負している大橋も少々呆然としてしまう。
「……バカ… …。電話したぐらいで、バカはねーだろう、普通。いや、すぐに電話した俺も悪いけど……」
 バカ、ともう一度呟いてから、 大橋は顔を背けてくっくと笑い出していた。あのツンドラ男が、どんな顔で『バカ』と言ったのかと想像すると、おかしかったの だ。微笑ましくすらある。
 藍田に殴られたくはないので、こんなことを思ったなど、本人に言うつもりはないが。
 口 元に手をやり、必死に笑いを噛み殺しながら会議室に戻ろうとして、さきほどとは反対に、会議室からこちらにやってくる旗谷と 出くわした。
「おう、もう帰るのか」
「わたしも、そんなに時間がありませんから。補佐のほうも、もうよろしいんです か?」
 別にまずいところを見られたわけでもないのに、大橋は咄嗟に、まだ掴んだままだった携帯電話をジャケットのポケ ットに突っ込んだ。その様子を見た旗谷に、澄ました顔で言われた。
「――本当にすぐ戻ってきましたね」
 一瞬、ぐっ と返事に詰まった大橋だが、なんとか笑うことに成功した。
「あー……、だから、言っただろう。ちょっとした用だって。す ぐに済んだ」
「そうですか。それじゃあ、わたしはこれで」
 あっさりと言った旗谷とすれ違い、ほっと息を吐き出した が、そんな大橋の背後で、ぼそりと声が聞こえた。
「バカ……」
 ハッとして振り返ったとき、旗谷はハイヒールの音も 高く大股で歩いているところで、毅然とした背には、いくら上司といえど大橋も迂闊に声をかけられなかった。
 旗谷の後ろ 姿が見えなくなるまでその場に立ち止まっていた大橋は、ガシガシと頭を掻いてぼやいた。
「……バカ二連発かよ。俺だって 一応、それなりに傷つくんだからな」
 大橋は肩を落とすと、会議室に戻った。旗谷の差し入れを食べてから、また仕事だ。


 気がつけば、外はすっかり薄暗くなっていた。
 会議室に残っていたプロジェクトの最後のメンバーを手を上げて見送った 大橋は、イスの背もたれに思いきり体を預けてから、ぼんやりと天井の蛍光灯を見上げる。まだ明るいうちに帰るつもりだったが、 一度手をつけてしまうと、あれもこれもと資料を揃えてしまい、結局、この時間だ。
 なんとか気力を振り絞り、イスに座り 直す。携帯電話を取り出して着信をチェックしたのは、また藍田から連絡が入っているのではないかと、甘い期待を抱いたからだ。 もちろんそんな期待は裏切られる。
 知らず知らずのうちに苦笑を浮かべた大橋は、そろそろ自分も帰ろうかと思ったが、最 後にもう一つだけ資料をまとめておくことにする。それだけやってしまえば、今日は気持ちよく眠りにつけるはずだ。
 さっ そく仕事にとりかかろうとしてはみたものの、一度手放した集中力は容易には戻ってこず、気分転換のため立ち上がる。
 大 橋は何げなく窓に近づき、そこで、土曜日のこの時間まで仕事をしているのが自分だけでないことを知る。いつも自分が、藍田の オフィスを見ているのと同じ距離で、会議室があるフロアからも向かいのオフィスを見ることができるのだ。
 いくつかのオ フィスにはぽつぽつと電気がついており、一フロア下のオフィスには、忙しげに行き来している社員たちの姿がある。
 それ を見て、少しだけ気力が戻ってきた。
 仕事を再開する前にコーヒーでも買ってくるかと、大橋は会議室の鍵をかけてから下 のフロアへと階段で移動する。向かいのオフィスには社員がいたが、さすがにこちらには人気がない。
 それはそれで、人目 を気にしなくていいので気楽ではある。
 自販機の前に立って小銭を出していると、横から手が伸び、大橋に代わって素早く 小銭を入れてしまった。
「――どうぞ」
 聞き覚えのある声をかけられて隣を見た大橋は、目を見開く。そこにいたのは 鹿島だった。
 驚きよりも、訝しさが先に立ち、露骨に胡乱な眼差しを向けてしまう。藍田から意味ありげなメールが届いた のは、つい数時間前なのだ。そして、そのメールで示されていた人物が、なぜか目の前にいる。
 咄嗟にどんな言葉をかける べきか迷う大橋に対して、鹿島は甘ったるい笑みを向けてきた。本人は普段の笑顔と大差ないつもりなのだろうが、男である大橋 には、少々胸にもたれる。
 同じ惜しみない笑顔でも、藍田の部下である瀬口とは、あきらかに異質だ。
 こいつの笑顔 は、警戒心を抱かせる――。大橋は胸の内で呟く。もちろん大橋自身の先入観が原因なのだが、果たしてそれだけなのか、まだ確 信は持てない。
「そっちも休日出勤か」
「向こうのセンターから、ドサッと仕事の書類が送られてきて、企画書を作って いるところです。体はこちらにあっても、向こうの仕事は変わらず追いかけてくるんですよ」
「大変だな。本来の仕事に加え て、うちのプロジェクトのあとを追いかけて、手続きもしないといけないんだろう」
「大変だけど、やり甲斐はありますよ。 滅多に手がけられない仕事ですから。まあ、わたしはあくまで、外部からのサポート役ですけど」
 最後の言葉は、自分に対 する当てこすりだろうかと深読みしながらも、大橋はなんでもない顔をして頷く。
「君が来てくれたおかげで、仕事がしやす くなった」
「大橋さんにそう言っていただけると嬉しいです」
 ここでやっと自販機のボタンを押すと、取り出した紙コ ップを軽く掲げてみせる。
「悪いな、奢ってもらって」
「そんな、コーヒー一杯で大げさですよ」
 場所を譲った大 橋は、コーヒーに口をつけつつ、何を買おうか選んでいる鹿島の横顔にさりげなく視線を向けた。
「――よく、こっちに俺が いるとわかったな」
 大橋の問いかけに、動揺した素振りも見せずに鹿島は笑った。
「わたしがいるオフィスから、窓際 に立っている大橋さんが見えたんですよ。それで、よければコーヒーでも飲みませんかと声をおかけしようかと思って向かってい たら、ここに当の大橋さんがいらっしゃったというわけです」
 説明を聞いてしまえば、そんなことかと拍子抜けした。確か に、会議室でこもりきって仕事をしている大橋の行動を見張る必要などないのだ。
 休憩スペースへと移動し、二人は並んで イスに腰掛ける。ただ、大橋としては妙な心境だった。
 周囲に社員の行き来でもあれば、ざわめきをBGMにしつつ気軽に 雑談でも交わせるのだが、こうも静かだと迂闊に肩から力も抜けない。しかも相手は――正直、よくわからない男だ。
「大橋 さんも毎日忙しいみたいですね」
「忙しいふりして給料もらってるようなもんだからな」
「そんな人が、三十代半ばで部 長補佐まで出世できるんですか?」
「要領がいいんだよ、俺は。……一方で、要領が悪くても、バリバリ仕事ができるからこ そ出世する奴もいるんだけどな」
「藍田さんのことですか――と言ったら、藍田さんに怒られますね」
 大橋はコーヒー を一口飲んで、ちらりと笑う。計算したわけではないが、話題があっさり藍田のことになる。
「……まあ実際、藍田は要領は よくないな。今も、押し付けられた研修に参加するために、出張中だ」
「そうなんですか」
 ここで大橋は、さりげなく 鹿島に問いかけた。
「そういえば君は、藍田とはもう会えたのか? 俺と初めて顔合わせしたとき、聞いてきただろう。藍田 に挨拶したほうがいいのかって」
「いえ、それがまだなんです」
 鹿島は大仰に眉をひそめて首を横に振る。
 こん なことでウソをつくとも思えないが、鹿島の言葉が本当なら、藍田はどんな状況から、鹿島のことを知ったのか気になる。
  さきほどの電話で、もっと食い下がって尋ねておくべきだったと、痛切に後悔する。このままでは、藍田が研修から戻ってくるま で、イライラしたままだ。
 鹿島の視線を横顔に感じ、大橋は取り繕うように言った。
「あいつはプロジェクトを任され てからは、社内を駆け回るようになったらしいからな。確実に会おうと思ったら、電話一本入れておいたほうが確実かもな」
「でも、そこまでするのは大げさすぎて、かえって藍田さんに迷惑な気もするんです。わたしと藍田さんとは、直接の関わりは薄 いですから」
「近いうちに、俺が引き合わせてやるよ。――あいつの素っ気なさに驚くぞ、きっと」
「でも、いいコンビ なんですよね。大橋さんと藍田さんは」
 さらりとそんなことを言われて、不覚にも大橋は、咄嗟に言葉が出なかった。すぐ に鹿島の視線に気づき、顔をしかめてみせる。
「俺が認めても、藍田は露骨に嫌そーな顔をするだろうな」
「そうですか ?」
「そうだ。あいつはそんな奴だ――と、俺がこんな悪口を言ってたなんて、藍田に告げ口するなよ」
「……藍田さん て、大橋さんの後輩ですよね」
 鹿島の言おうとしていることを察し、顔をしかめたまま大橋は頷く。
「まあ向こうは、 俺を先輩なんて少しも思ってないだろうな。実際一年しか違わないし、今回のプロジェクトを任されるまで、仕事を一緒にやる機 会どころか、顔を合わせることも滅多になかった。しかもあいつは、俺みたいなタイプは苦手ときている」
「苦手、なんです か……」
 神妙な顔で鹿島が問いかけてきたので、ニヤリと笑って大橋は頷く。うそは言ってないだろう。藍田は、大橋のよ うな人間が苦手だ。だが、苦手は苦手なりになんとかなるものなのだ。
 その方法をあえて鹿島に言う必要はないだろう。
「お互い大変な仕事を任されているから、好き嫌いで関係がぎくしゃくすることもないがな。いろいろぶつかり合ってはいる が、仕事のできる奴が側にいると、いい刺激になる。尊重する部分はしている――と俺は思っているし」
「ベタ褒めですね」
 さりげない鹿島の言葉に、大橋は危うくコーヒーを噴き出しそうになった。寸前のところでごくりと飲んでから、微妙な表 情を浮かべる。
「褒めてるか? 藍田が側で聞いていたら、勝手なことばかり言うなと怒り出しそうなもんだけどな」
  いつの間に飲み干してしまったのか、空の紙コップを手に鹿島が立ち上がる。
「休日出勤の仕事で息が詰まっていたんですが、 いい気分転換になりました」
「ああ、こっちこそ、いい息抜きができた」
 大橋が軽く紙コップを掲げて見せると、最後 に鹿島はこう言った。
「噂に聞いていた通りですね、大橋さんは」
「……いい噂じゃないだろ。お調子者とか、言動が軽 いとか、若い頃から言われ続けてるんだ」
「そうじゃありませんよ。――人当たりがいい分、掴み所がない……。デキる人の 証だと思うんですよ、そういう特性は」
 愛想よく笑いながらの鹿島の言葉に、悪意は感じられない。ただ、コーヒーを飲み ながらのんびり会話を交わしていると装いつつも、大橋だけでなく、実は鹿島もしっかり大橋を観察していたのだ。
 お互い 様かと思いつつ、大橋は軽く肩をすくめて見せる。
「あまり買い被るなよ。デキる社員は、そうそう上から睨まれて、目の敵 にされたりしないからな」
「憧れますけどね、そういう人には」
「うちの社員に妙なこと吹き込むなと、そっちのセンタ ー長にまで睨まれるのはご免だぞ」
 鹿島は軽やかな笑い声を上げ、一礼して立ち去った。あとに残った大橋は、短く息を吐 き出してから、眉をひそめる。
 話してみると、感じのいい社員だ。何事もなければ、鹿島のことを素直にそう思えただろう。 何かと挑発的な堤に比べれば、雲泥の差の好印象ぶりだ。
 だが――。
 大橋はジャケットのポケットから携帯電話を取 り出す。この時間、いまごろ藍田も気を抜く余裕もなく、研修プログラムをこなしている最中だろう。そう思うと、自分の都合だ けで電話はできなかった。




 夜からの研修プログラムは、小グループに分かれてのディスカッションだった。各グループにそれぞれ違う支社の前期の財務諸 表が配られ、それを見て財務分析を行うのだ。どこに着眼するかをまず決め、分析し、意見をすり合わせることが、このプラグラ ムでの目的だ。
 藍田にしてみれば、普段から自分が行っている仕事の内容そのままだが、この場は一番年長である支社の室 長が意見を取りまとめている。自分が楽をしたいからというより、この形が角が立たないのだ。
 用紙にメモを取りながら、 藍田は無意識に喉元に手をやる。夕食後から三時間、ずっと会議室にこもってのディスカッションが続いているため、室内の空気 が少し悪い。空調は利いているのだろうかと、思わず天井を見上げた。
「――研修でこれをやるたびに、門外漢という言葉を 痛感させられますね。営業で見る数字とは、まったく種類が違う」
「わたしも同じですね。頭が痛くなってくるというか……。 プログラムの一環とはいえ、これだけは苦手だ」
「こういうものは、専門の部署に任せておけばいいんですよ」
 同じグ ループ内で交わされていた会話がふいに止まる。藍田がゆっくりと顔を戻すと、いつの間にか、グループのメンバーたちの視線が 藍田に向けられていた。
「何か?」
「藍田〈副室長〉は、こういった分析はお得意なんですよね」
「得意というべき か……、分析がわたしの仕事ですから。もっとも、わたしより有能な方は、この場にいくらでもいらっしゃると思いますが」
 芝居がかった動作で、藍田は周囲のグループを見回す。実際、室長クラスのリーダー研修ともなれば、さまざまな部署の室長・ 副室長が集まっているため、藍田だけが突出した存在ではないのだ。
「その若さで副室長なら、十分有能でしょう。いや、有 能以上のものがあるから――事業部の統廃合なんてプロジェクトのリーダーも任されたんでしょうし」
 上辺は和やかながら、 どこか棘のようなものを含んだ口調で言われ、藍田は一切の表情を覆い隠す。この瞬間、グループの空気は確かに、藍田を糾弾す るものへと変わっていた。もしかすると、この瞬間がくることを待っていたのかもしれない。
「まったく会社も、大変なこと をぶち上げてくれたもんですよ。それぞれの事業部が会社を支えてきた原動力だというのに、その事業部を切り捨てるプロジェク トを起こすなんて。しかもリーダーが、藍田副室長のような若い社員だ。まるで――」
「まるで、彼一人なら潰してもかまわ ないとでも考えているよう、ですか」
 あえて藍田の神経を逆撫でるために放たれたような言葉に、別の人間が応じ、微かな 笑い声が起こる。その声が聞こえたのか、別のグループにいる岡本が、心配そうにこちらを見ていた。藍田はわずかに頷いて見せ、 大丈夫だと示す。
 これぐらいのことは覚悟してリーダー研修に参加したのだ。
「……わたしは感謝していますよ。会社 にとっても最初で最後かもしれない大きな仕事に、わたしのような若輩者を抜擢していただいて」
 我ながら空虚に感じる台 詞を藍田が述べると、また笑い声が起こる。さきほどよりさらに空気が悪くなったように感じたが、これは確実に空調のせいでは ないと言い切れる。それでもできることなら、外の空気を吸いたかった。
「しかし、数字を分析するように人間の気持ちを扱 うと、あとあと大変ではないですか。何かと反発を持つ人間も多いでしょう」
「何人もの方に、同じことを心配されています。 だからこそわたしは、今回、こうして研修に参加させていただいたのはいい機会だと考えています。なんといっても、各支社や部 署で、部下の指導に慣れていらっしゃるみなさんと、こうして同席できているわけですから。アドバイスをいただければありがた いです」
 言おうと思えば、藍田もこれぐらいのことは言えるのだ。目を白黒させたメンバーは口ごもる。
 迂闊に藍田 にアドバイスでもして、自分が誰かから目をつけられる事態を避けたのだろう。藍田としても、ありがたいアドバイスがもらえる などとは期待していなかった。
 覚悟はしていても、やはり腹を探り合うような会話は胃に堪える。それに、会議室内の熱気 に当てられたのか、心なしか頭まで痛い。
 ネクタイを緩めたい衝動をぐっと押し殺し、口を開いた。
「――これまでの 話の要点をそろそろまとめてよろしいでしょうか。レポート用に、グループ内での意見を統一しておいたほうがいいと思いますの で」
 藍田をネタにまだ話し足りないらしく、グループの面々からじろりと視線を向けられたが、頓着しない。
「わたし に個人的なアドバイスをいただけるのなら、あとにいたしませんか。研修は明日の昼までですから、みなさんさえよろしければ、 わたしは徹夜でもかまいませんよ。それこそ、滅多にない機会ですし」
 にこりともせず言い放った藍田は、何事もなかった ように用紙に視線を落とす。
 藍田の、本音とも皮肉とも取れる発言を受けて、ぎこちなくもディスカッションは再開される。 あくまで控えめに藍田も意見を述べ、このあとは話が脱線することもなく無難に進行する。
 途中、藍田が再び岡本のほうに 視線を向けると、それに気づいたのか岡本もこちらを見る。互いになんとなく苦笑に近い表情を浮かべ、そっと頭を下げ合った。
 どうやら藍田の気づかないところで、岡本を心配させていたらしい。


 大きく息を吐き出して万年筆を置いた藍田は、すっかり凝った肩をてのひらで強く揉みながら、サイドテーブルの時計に目を向 ける。いつの間にか、もうすぐ日付が変わろうとしていた。
 夜のディスカッションでこの日の研修プログラムは終了という わけではなく、当然のようにレポートをまとめなければならず、翌朝提出することになっている。そのため会議室を出た参加者た ちは、レポート作成に取りかかるため、思い思いの場所に散っていった。
 ただ、気が合う者たちで集まって、ビールとつま みを口にしながら――ということもあるだろう。案外、藍田のように一人で部屋にこもってレポートを書いている人間のほうが少 ないかもしれない。
 藍田の同室者は早々にレポートを仕上げたと言っており、今頃はのんびり大浴場で湯に浸かっているは ずだ。大勢で風呂に入るのが苦手な藍田は、同室者が出かけるとすぐにシャワーを済ませ、堅苦しいスーツから、楽な服装へと着 替えていた。
 新人の頃から、研修のたびにこんなふうに過ごすのはいつものことだ。仕事で関わりのある人間とのつき合い 方は、何年経とうが成長していないといえるのかもしれない。
 レポート用紙をファイルに仕舞い、ライティングテーブルの ライトを消す。このままベッドに入ってもいいのだが、レポートを書く前まではディスカッションを行っていたせいもあり、まだ 仕事の延長のような高揚感が残っている。
 少し考え込んだ藍田が視線を向けた先には、携帯電話があった。今日の昼間の、 携帯電話を通しての大橋とのやり取りが、今になって気になっていた。いや、正確には、ずっと気にはなっていたのだが、半ば強 引に頭の片隅に追いやっていたのだ。
 今のこの時間、休日出勤までしていた大橋がもう眠っているとは思えない。
 藍 田は、コーヒーを飲むため一階のラウンジへと降りたが、手には携帯電話を握り締めていた。
 さすがに一階の喫茶店は閉ま っているため、自販機で缶コーヒーを買うと、外の景色がよく見える窓際に並んだソファへと腰を落ち着ける。
 ぽつぽつと 照明が灯っているだけのラウンジは、自販機の明かりが眩しく感じられるほどで、藍田以外の人の姿はなかった。二階には休憩室 があり、そこは二十四時間営業の売店もあって明るいため、深夜ともなると必然的に人はそこに移動するようになるのだ。もしく は、地下の小さなバーに行くかだ。
 薄暗いラウンジを見回してから、藍田は携帯電話を開く。
 昼間の応対は感じが悪 かったかもしれないと、少しだけ罪悪感が疼いていた。まさか、メールを送ってすぐに大橋から電話がかかってくるとは考えてお らず、これから講座が始まるということもあって、らしくなく藍田は動揺したのだ。だから、あんなきつい物言いになってしまっ た。
 大橋なら、いまさら珍しいことでもないと笑うかもしれない。ただ、そんな大橋の寛容さに甘えているようで、心苦し くもある。
 昼間は悪かったと一言えば、それで済むだろうか――。
 三十をとっくに過ぎた男が悩むことではないだろ うと思いつつも、藍田は携帯電話を握ったまま、深夜の電話に相応しい会話の内容を考える。さきほど書き上げたレポートでも、 ここまで頭は酷使しなかった。
 買ったまま、一口も飲んでいないコーヒーの存在を思い出し、片手を伸ばそうとしたそのと き、突然、藍田の手の中で携帯電話が鳴った。
 驚きのあまり小さく声を上げた藍田は、慌てて周囲を見回してから、携帯電 話の液晶を見る。急に鼓動が速く、大きくなるのを感じた。大橋からメールが届いたからだ。
「なんで……」
 思わず声 を洩らしてから、届いたばかりのメールを読む。
 他人のメールをどうこう言えないほど、藍田のメールは愛想や前置きとい ったものを省きがちだが、大橋のメールも、とにかく簡潔だった。
『何時でもいい、電話をくれ』という一文のみだ。
  いつもの大橋なら、電話を乞うメールを送ってくるぐらいなら、いきなり電話をかけてきそうなものだが、そうしなかったのは、 やはり昼間のことを気にしているのかもしれない。
 たかが電話での短いやり取りや、メール一通のことなのに、どうしてこ んなに深く考えてしまうのか。こんなにも気持ちが揺れてしまうのか。
 朝から夜までみっちり詰まった研修プログラムを受 け、仕上げにレポートまで書き上げたあとでは、あれこれと考える気力は藍田にはもなかった。
 本当は、状況はもっと簡単 なのだ。夜のラウンジの片隅に一人いて、耳元で大橋の声を聞きたいか否か、ということだけだ。
 足を組み、ソファに深く もたれかかった藍田は、やけに熱っぽいため息をついていた。










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