[17]
仲居が座敷を出ていくと、堤は藍田の勧めに従って足を崩して座椅子に座り直し、また室内を見回す。
子供のように目を
輝かせている堤の様子に、藍田はつい苦笑を洩らす。
「別に、珍しい部屋じゃないだろ」
「いえ……、きれいな座敷だと
思って。仕事の接待でこんなところを使ったら、緊張するでしょうね」
一度は座った堤だが、ブルゾンを脱ぐとすぐに落ち
着きなく立ち上がり、窓に歩み寄る。曇り一つないガラス窓の向こうには、さほど広くはないがよく手入れされている日本庭園が
ある。
すでに薄闇が辺りを包み始めているため、庭園はスポットライトで照らされており、昼間とはまた違った雰囲気とな
っている。
「――驚きました。藍田さんのお母さんが経営している店の一つだと聞いて」
窓際に立った堤が振り返り、
話しかけてくる。藍田もジャケットを脱ぎながら応じた。
「代々続いているものを継いだだけだ。それに経営は、母親だけじ
ゃなく、親戚一同でやっている。この店には、わたしはたまに立ち寄っているんだが、まさか、連れを伴ってくることになるとは
な」
堤の車で移動しながら、どこで夕飯をとるかという話になり、たまたまこの店の近くを通りかかったため、満席なのを
覚悟で入ってみたのだ。カウンターの隅でいいから食事できればありがたいと思っていたのだが、藍田のことを知っている店の人
間が気をつかってくれ、たまたま予約キャンセルで空いたという座敷に通してくれた。
こんな形で堤と二人きりになるのは
予定外で、藍田は少し緊張している。一方の堤は、どことなく芝居がかっていると感じなくはないが、一応普段通りだ。
「わ
たしがいない間、何もなかったか?」
外の人工池の水音だけでは間がもたず、ついつまらないことを問いかける。いまさら
尋ねなくても、会社には定時連絡を入れていた。何かあれば、すでに藍田本人の耳に入っているはずだ。
「――それは、仕事
のことで? それとも、俺個人のことですか?」
「どちらのことを話したいんだ」
藍田はちらりと笑うと、お茶を啜る。
組んでいた腕を解いた堤は、この部屋に入って初めて困惑したような表情を見せた。
「俺は……何もなかったですよ。仕事の
ほうもトラブルはありませんでした」
「ならいい。たかが二泊三日の研修に行っている間に何かあったら、わたしの身がもた
ないしな」
「みんな、藍田さんの立場がわかってますから、余計な苦労をかけまいとがんばってますよ」
「……わかって
いる。プロジェクトを任されてから実感したが、わたしは案外、部下たちから見捨てられた上司ではなかったんだな」
ふい
に堤がスッと歩み寄ってきて、藍田の傍らに膝をついた。驚いて軽く目を見開いた藍田の前で、堤はひどく優しい表情を浮かべる。
「藍田さんが気づいていなかっただけで、事業室の人間は、案外藍田さんのことを大事にしているんですよ。いい上司ですか
ら、あなたは」
「煽てても、夕飯を奢ることしかできないぞ」
「十分です。本当は俺、藍田さんを車に乗せたら、まっす
ぐ帰りたいと言われても、強引に夕飯につき合ってもらうつもりだったんです」
堤の言葉を聞いて、藍田は複雑な心境にな
る。こうして二人きりで食事をする状況になって、大橋の家で焼肉をしたことを思い出したのだ。
そして大橋と――。
無意識に口元に指をやった藍田だが、すぐに自分の仕種に気づき、再び茶碗に手をかける。堤は庭園を眺めるのに満足したのか、
自分の席についた。
「研修はどうでした? やっぱりリーダー研修ともなると、俺たちの研修とはプログラムが違うんですよ
ね」
「気が張るのはどの研修も同じだ。ただ、座学は多いな。体を動かして何か覚えるというより、座ってひたすら考える」
「まあ、参加者の年齢層を考えると、そうなるでしょうね。藍田さんみたいに若い人のほうが珍しいんでしょう?」
「……お前に若いと言われると、なんだかムズムズする」
他愛ないことを話しながら料理が運ばれてくるのを待っていて、
藍田は傍らに置いたジャケットの存在を思い出す。座敷の隅にコートハンガーがあるので、そちらに掛けておこうと立ち上がった。
「藍田さん?」
「ジャケットを掛けるだけだ。お前の上着も貸せ」
堤から手渡されたブルゾンとジャケットをコー
トハンガーに掛けてから、藍田は自分のジャケットに触れる。ハンガーに掛けるとき、ポケットに入れた携帯電話の硬い感触に当
たり、いまさらながら、大橋に連絡していないことが気になっていた。
一度座敷を出て、大橋宛てにメールを打っておこう
かと思いながら、ポケットに手を入れようとした瞬間、冷静な声をかけられた。
「――誰かに連絡するんですか?」
藍
田は反射的に手を引き、堤のほうを見る。堤は、普段以上に皮肉っぽく感じる表情をしていた。おそらく、藍田がどこに連絡した
がっているか、わかって言っているはずだ。
なんだかタイミングを逃した形となり、藍田は自分の席に戻る。それに、携帯
電話と大橋と堤という括りで、思い出したことがあった。
藍田がまっすぐ見つめると、堤は表情を真剣なものに改める。
「どうかしましたか」
「今月の初め、わたしたちが食事したときのことだ」
「ええ……」
「お前、わたしが席を
外している間に、わたしの携帯に勝手に出たな。相手は――」
「大橋さん」
意識しないまま藍田の肩がわずかに揺れる。
一方の堤は、悪びれたふうもなく、ひたと藍田を見据えてくる。まるで、藍田の中にある大橋との記憶を探ろうとするかのように。
「……わたしがバタバタして忙しかったから、今になって何日も前のことを言うのも間が抜けているが――、二度とあんなこ
とはするな。どんなに親しい相手だろうが、マナー違反だ」
「すみません。でも、電話をかけてきたのが大橋さんだとわかっ
たら、知らないふりができませんでした」
なぜ、とは聞けなかった。堤が何を言い出すのか、怖かったのかもしれない。そ
れに藍田には、堤を利用したという弱みもある。
「お前と大橋さんが何を話したのかまでは、わたしも知らない。聞こうとも
思わない。……卑怯だとは思うが」
「俺たち、不思議な関係ですよね。あなたと大橋さんの関係がどんなものなのか、俺はよ
くわからないのに、〈何〉をしたかは、あなたを通して知っている。あなたの心の揺れを感じ取り、大橋さんの痕跡を探るように
して、あなたに触れているから」
艶かしい表現に、藍田の頬は熱くなる。なんとか動揺を表情に出すまいと努めていると、
タイミングよく料理が運ばれてきて、寸前までの会話はうやむやのうちに単なる雑談へと変わっていた。
藍田は密かに安堵
の吐息を洩らし、さまざまな器に盛られた懐石料理を眺めている堤に視線を向ける。目が合うと、笑いながら堤が言った。
「申し訳なくなりますね。勝手に空港に出迎えに行って、こんな豪華な料理をご馳走になるなんて」
「……その分、しっかり
働いてもらう――と、前にも同じことを言ったな」
「言われるたびに、身が引き締まります」
「お前は口だけじゃないか
らな。本当に、よくやっている」
堤は苦々しさを感じたように一瞬唇を歪めてから、次の瞬間には明るい表情となる。
「食べましょう。実は、すごく腹が減ってるんですよ」
ああ、と頷いた藍田は箸を手にする。
昼間の食事会は立食形
式だったのだが、挨拶を交わしたりして慌ただしかったうえに、大勢の人間がいる中では気も張って食欲も湧かなかったため、ほ
とんど食べていなかった。こうして料理を目にしてようやく藍田も、自分が空腹なのだと実感できた。
「わたしもだ。ようや
く、肩から力を抜いて食事ができる」
「その言葉を聞くと、研修中の苦労が伝わってくるようですよ」
堤の言葉に、思
わず藍田は笑みをこぼす。
食事中の会話はごくさりげないもので、食欲を満たす行為の妨げにはならなかった。腹が減って
いるという言葉は本当だったらしく、堤が気持ちいい食べっぷりを見せ、藍田は気をつかって話しかける必要を感じなかったぐら
いだ。
空になった器を下げてもらい、新たに運ばれてきたフルーツと水菓子もしっかり堪能してから、藍田は渋めのお茶を
啜る。
何げなく庭園のほうを見ると、すでに薄闇の時は過ぎ、完全に夜の闇が訪れていた。スポットライトの白い光と相ま
って、どこか浮世離れした光景だ。
茶碗を置いた藍田は、ぼうっと庭園を眺める。
「――藍田さん、疲れてますね」
笑いを含んだ声で堤に言われ、藍田は我に返る。今の自分が気の抜けた状態であることすら、忘れていた。
「顔に出ている
か?」
「こんなにリラックスした藍田さんは、初めて見ました。俺相手に、気を張る気力もないのかなと思って」
「ずっ
と張り詰めていた分の反動だな。研修は……今の時期には少しきつかった。――わたしが愚痴をこぼしていたなんて、誰にも言う
なよ」
「せっかくの藍田さんとの秘密を、もったいなくて誰にも言えません」
口調は冗談交じりながら、堤から射抜く
ように強い眼差しを向けられる。食事前の雰囲気に戻りそうな危惧を覚えた藍田は、スッと視線を逸らしてお茶を飲み干した。
「……終わったんなら、もう出るぞ。わたしは今夜は早く休みたいんだ」
堤の返事を待たずに立ち上がり、コートハン
ガーに歩み寄る。ジャケットを羽織ったところで振り返ると、堤はいつの間にか窓際に立っており、庭園を眺めていた。仕方なく
堤のブルゾンを手に、藍田も窓際へと行く。
「ほら、お前の――」
ブルゾンを差し出した瞬間、堤に手首を掴まれて引
き寄せられた。藍田の体は窓に押しつけられ、足元にブルゾンが落ちるが、堤はそれに一片の関心も示さなかった。間近から食い
入るように藍田を見つめてくる。
「堤っ……」
「どこまであなたに触れれば、あの人のあとを追いかけていないと、思え
るようになるんでしょうか。俺があなたに触れるとき、あなたはあの人――大橋さんの存在を強く意識している」
堤のての
ひらが頬にかかり、包み込むように撫でられる。咄嗟に藍田は顔を背けようとしたが、手荒な動作であごを掴まれた。堤らしくな
い行動に藍田は目を見開き、思わず抵抗を忘れる。
「だからこそ、俺があなたに触れられるとも言えるわけですが……。大橋
さんの存在で気持ちが揺れるからこそ、あなたは歯止めを欲しがり、歯止めに最適なのは俺だった」
堤の指に力が込められ、
掴まれたあごが痛む。藍田は後頭部を冷たいガラスに押し付けながらも、堤から目が離せなかった。暗い情念のようなものを、初
めて堤から感じていたからだ。
今、この瞬間だから生まれたものなのか、以前から抱え持っていながら、藍田の前ではうか
がわせなかったのかわからないが、ただ、堤の新たな一面を見ているのは確かだ。
「――俺は、欲が出てきました。大橋さん
のあとを追いかけるのは、嫌なんです。あの人の存在抜きで、あなたに俺を必要としてほしい。堤皓史という男を」
藍田が
何か言う間もなかった。堤の顔が眼前に迫ってきて、次の瞬間には唇を塞がれる。
「んっ……」
自分のものではない体
温を唇に感じ、背筋に痺れるような強烈な疼きが駆け抜けていた。堤がぐいっと体を寄せてきて、二人は密着する。背にはガラス
の感触があり、藍田に逃げ場はなかった。
頭で考えるより先に、堤の肩を押し退けようとしていたが、それ以上の力で堤に
強く抱き締められ、あまりの激しさに藍田は圧され、足元が乱れた拍子に完全に主導権を堤に奪われていた。
「つ、つみ……、
離、せっ。お前とは、もうこんなことは――」
骨が軋むほどの抱擁に息が詰まりそうになりながらも、なんとか藍田は言葉
を発する。
「ダメです。俺と二人きりになることを選んだ時点で、あなたは何があっても俺を咎めることはできませんよ。俺
があなたに会いに、わざわざ空港まで行った目的は察していたはずです」
藍田が目を見開くと、堤は藍田の唇を軽く吸って
から薄く笑った。
いままでの堤とは、何かが違っていた。何が、と明確には言えないが、得体の知れないしたたかさを身に
つけたような迫力がある。抱擁もキスも、藍田から奪ってしまえばいいと、向けられる眼差しが語っているようだ。
危機感
を覚えた藍田は身を捩ろうとしたが、自分の腕の中に捕えているという余裕か、堤が耳元に唇を寄せてきた。
「――俺は、藍
田さんのズルさが好きですよ。会社では清廉潔白で怜悧。まるで氷みたいに冷たいあなたが、〈女〉みたいな駆け引きをする。無
自覚だとしたら、なお素敵ですね。俺はそんなあなたに、どんどん惹き込まれる……」
侮辱されたような気がして、カッと
藍田の全身が熱くなる。本気で堤の顔を押し退けようとしたが、それより早く堤の手が後頭部にかかり、ぶつけるように唇同士を
擦りつけられた。
「んんっ、うっ、んっ」
藍田の抵抗をものともせず、痛いほどきつく唇を吸われ、歯列を舌先でこじ
開けられる。舌に歯を立てようとしたが、その寸前に間近で堤の目を覗き込んでしまい、何もできなくなった。ひどく苦しげな目
をしていたからだ。むしろ、切なげといってもいい。
手酷い言葉とは裏腹の目に、藍田は戸惑う。ふっと体の強張りを解い
てしまうと、驚いたように堤は唇を離し、額と額を合わせてきながら苦笑した。
「……自分に必要ないものは、何もかも容赦
なく切り捨てそうに見えて、実は柔らかく受け止めてくれますよね」
「誰のことだ」
「藍田さんですよ。俺は、あなたし
か見ていない」
視線を逸らしていた藍田だが、誘われたように堤を見つめる。
「お前は、何を言って――……」
再び堤に唇を塞がれ、今度はゆっくりと唇を吸われる。藍田は堤の肩に手をかけたまま動けなかった。堤の言葉に心を奪われ、そ
の隙に唇を奪われて、口腔への侵入も許してしまう。
「んっ、うぅ……」
熱い舌が口腔で蠢き、丹念に粘膜をまさぐら
れる。そのたびに藍田の中に身震いしたくなるような、電流にも似た感覚が駆け抜けていた。気がつけば、堤の肩に掴まっている
ような状態になっていた。
舌先が触れ合い、唾液が混じり合う。腰に回されていた縛めのようだった堤の片腕から力が抜け、
代わって両腕で抱き締め直される。藍田がもう抵抗しないとわかったのだ。
当の藍田は、なんとかこの状況から抜け出さな
ければと思いはするのだが、体が言うことをきかない。
本当なら今のこの瞬間、自分は大橋の腕の中で、やはりこうしてキ
スしていたのかもしれないと思うと、抵抗する気力がことごとく奪われていくのだ。
閉じた瞼の裏で、自分の唇と舌と唾液
を貪ってくる相手が、大橋と堤と交互に替わる。不実さを責められているようでありながら、与えられるキスはどこまでも甘美だ
った。
「はぁっ……」
唇が離されると同時に熱い吐息をこぼすと、誘われたように堤に唇を啄ばまれる。
藍田は、
自分がさらにわからなくなっていた。堤にこうされることは、罪悪感を覚えはするものの嫌ではなかった。一方で、大橋とも。
同性に興味がない人生を歩んできたつもりだが、実はそうではないのか、もしくは――。
「今、あなたに触れているの
は、俺ですよ」
低い声で囁かれ、ハッとして藍田は目を開く。堤と目が合った次の瞬間には、唇を貪られていた。
堤
は、藍田が大橋のことを考えていると思ったのだ。正解ではないが、間違ってもいない。藍田は、こうして同性にキスされて受け
入れている自分が特別な性癖というわけではなく、キスしてきた相手が、自分にとって特別なのではないかと考えていた。
特別だから、拒めない。それどころか、受け入れつつある。大橋にキスされ、それに応じた自分の衝動を、藍田は堤を相手に慎重
に確かめていた。
そんな役割を堤に与えたのだから、堤もまた、藍田にとって特別だといえる。こんな役割は、誰にでも与
えられるものではない。
情熱的な狂おしさを抑えきれなくなったように、藍田の肩を掴んで窓に押し付けた堤の濡れた唇が、
耳に押し当てられる。
「あっ」
ゾクゾクと鳥肌が立ちそうな疼きが湧き起こり、藍田は声を洩らしていた。
「やめ、
ろ……、堤……」
「やめません。大橋さんが、ここまであなたに触れていないと確信できるまで」
耳の輪郭を唇でなぞ
られ、熱い吐息を注ぎ込まれる。藍田は体の奥で何かが蠢くのを感じ、小さく身震いしていた。
これは愛撫だ。堤の息遣い
と唇が肌に触れるたびに、藍田はそのことを実感する。
嫌悪はなかった。むしろ、吐息一つに身を捩りたくなるような心地
よさを覚え、そんな自分に戦慄する。ただし、甘さを伴った戦慄だ。
「抱き締めて、キスをして、それだけで我慢できるはず
がない。少なくとも俺は、そうですよ。――男なんですから」
首筋に堤の唇が押し当てられ、軽く吸い上げられる。ビクリ
と体を震わせた藍田の顔を覗き込んできた堤が、また唇を重ね合わせてきた。
荒くなった息遣いが混じり合い、口腔に差し
込まれた堤の舌を柔らかく受け止め、絡め合う。それが合図のように、肩を押さえていた堤の手が動き始め、ワイシャツの上から
体に触れられた。
この手が大橋のものだとしたら、と想像した次の瞬間には、大橋は同性の体にこんなことができるのだろ
うかと考えていた。
同性である藍田に触れることで、大橋は〈何〉を得られるのだろうか――。その疑問は、今藍田に触れ
ている堤にもぶつけられる。
「……わたしも、男だ。そのわたしに、お前は何を望む? こんなことをして、お前になんの得
がある?」
唇が離れた隙に、藍田は早口で問いかけた。堤は軽く目を見開いたあと、ニッと笑った。
「俺の望みは単純
ですよ」
そう言った堤が、思いがけない行動に出た。
「なっ……」
スラックスの上から腿を撫でられたあと、両
足の間に強く片手を押し当てられ、事態を理解するより先に、藍田の体はカッと熱くなる。明確な目的を持って堤の手は動き、藍
田の弱みを――敏感なものを布の上から刺激してきた。
「何をして――」
「俺の望みは、男のあなたのすべてを知りたい。
この手で、唇で、舌で、あなたを味わい尽くしたいんですよ。大橋さんより先に」
てのひらで押し上げるように触れられて、
藍田は激しくうろたえる。藍田の性別をはっきりと物語るものに、布の上からとはいえ堤は平気で触れてきて、なおかつある感覚
を引きずりだそうとしているのだ。無関心ではいられなかった。
「やめ、ろ……。これは、ダメだっ……」
「いいえ。俺
は触りたいんです」
蠢く堤の指に声を詰まらせ、たまらず肩にすがりつく。そんな藍田の反応から察するものがあったらし
く、堤はどこか嬉しげな声で言った。
「大橋さんは、あなたにここまで触れていないんですね」
「当たり前だっ。あの人
とは――」
「なんでもないというなら、どうして大橋さんに触れさせたりするんですか? そもそも、強い想いがなければ、
二度も離婚したような女好きの人が、男のあなたに触れたりしないでしょう。そしてあなたは、大橋さんが触れることを許した」
曖昧にしていた大橋との関係の本質を、堤の言葉は射抜いていた。
堤に両足の間をまさぐられながら、首筋に唇を這
わされる。その感覚を味わいながら藍田が考えていたのは、大橋のことだった。
大橋から与えられる抱擁もキスも、心地い
い。いや、それ以上だ。快感と呼べるほどに。その先にあるのはもっと生々しく獣じみた行為で、大橋はそれすら藍田に求めてく
るのだろうか。そして、〈何か〉を得るのだろうか。
思考が熱くなってくるに従って、藍田の体には変化が起こってくる。
無視できない、男としての快感がじわじわと下肢から這い上がってくる。それをさらに煽るように、堤の唇も指も動き続けていた。
「――欲が出てきました」
ふいに堤が言い、息を喘がせる藍田の顔を見つめてくる。熱を帯びた愛撫を施してくる男に
相応しく、堤は熱に浮かされたような目をしていた。藍田は顔を背けるが、かまわず堤は首筋に唇を寄せてくる。
「今夜、俺
の望みを叶えさせてください」
藍田は体を震わせてから、声を絞り出した。
「……お前、自分が何を言ってるのか、わ
かってるのか……?」
「わかってます。もちろん、本気ですよ」
両足の間を堤の膝に押し開かれそうになり、藍田は堤
の肩に掴まるような形になりながらも、必死に抵抗する。
「やめろっ……。わたしに、何も望むなっ」
「でも、あなたは
いままで、俺の望みを叶えてくれた。抱き締めさせてくれたし、キスも許してくれた」
「それはっ――」
言いかけて、
藍田は口を噤む。
初めて堤に抱き締められたとき、藍田がそれを許した理由は、堤は鏡だと思ったからだ。自分と大橋にあ
った行為がいかに恥ずべきものか、堤にも許すことで客観的に映し出そうとした。次に堤に抱き締められたときは、大橋に流され
そうになる自分の歯止めにしようとした。キスしたのだって、自分を知るためだ。
いつだって藍田は自分のために堤を利用
したのであって、堤の望みを叶えたわけではない。堤もそれをわかっていながら、あえてこんな言い方をしているのだ。
「お
前、わたしを試しているんだな」
きつく睨みつけると、堤は薄く笑ってから藍田を抱き締めてきた。
「試してはいるけ
ど、本気ですよ。俺は、藍田さんになら何もかも捧げてもいい」
「堤……」
「俺の望みを叶えてくれるなら、あなたをず
っと支え続けます。一言命じてくれたら、俺は転職もやめます。藍田春記という人の側にいたい」
囁くようでありながら凄
みを帯びた言葉と、次第に込められる腕の力から、堤の本気を推測するのは容易い。
自分は堤を惑わせてしまったのかと思
うと、藍田は怖くなっていた。だからこそ、堤の前にあるはずの選択肢を、藍田が切り捨てる必要があった。
「――お前は、
選択肢は多いほうがいいと言った。どれだけ選択肢があっても迷わないとも。だけど、それは単に、同価値のものを選択肢に並べ
てないだけだ。必要なものと、そうでないものを並べて、自分は選択できると誇ってなんになる。……きつい言い方だが、わたし
をそんな安っぽい選択肢に入れるな」
ゆっくりと体を離した堤は、もう笑ってはいなかった。能面のような無表情でじっと
見つめてくる。まるで、藍田が何を言い出すのか、身構えているかのように。
「堤、お前は有能だ。少し性格に癖があるが、
人を不快にさせるほどのものでもないし、個性的で自己主張もできる。外見だって申し分ない。だけどわたしが、転職をやめて、
側にいてくれと望ませるほどの価値があると、自分で言い切れるか? 俺があなたを選んだから、あなたも俺を選んでくれなんて、
そんなことを思っている年下の男に……」
「……俺は、大橋さんに劣っているということですか?」
「そうじゃない。今
のこの話に、大橋さんは関係ない。お前の話だ。何より、お前の人生のことを言っている。わたしなんかと秤に掛けるものじゃな
い」
「掛けられるんですよ。俺の人生と、あなたの存在は」
藍田は唇を引き結ぶと、片手で堤の頭を引き寄せた。する
と、無表情で冷静そうに見えた堤が、子供のようにぎゅっとしがみついてくる。そんな堤の頭を撫でながら、諭すように藍田は言
った。
「今のお前は意固地になっているだけだ。もっと冷静に考えろ。お前の転職のことで力になれることなら、力になる。
だけど、わたしに望みを叶えてほしいとか、捧げるとか、そんなことは考えるな。――お前を利用してきた身だから、いまさら綺
麗事を言うつもりはない。お前のためじゃない。わたしはそこまで、お前に対して責任はもてないから言ってるんだ。……お前の
人生を、一部とはいえわたしは背負うつもりはない」
大橋が言っていた『ツンドラ』という表現は、まさに自分に相応しい
と藍田は思う。この状況で、言葉を選ぶことなくここまで単刀直入に言えてしまう人間は、やはり心が冷たいのだ。
堤に罵
倒されても、殴られても仕方ないと覚悟していたが、事態はそうはならなかった。藍田は、堤の心理を読み解いてはいたが、堤と
いう男の本質をまだ見誤っていたのだ。もしかすると、堤の真摯な想いすらも。
藍田を抱き締めたまま、堤が深く息を吐き
出す。
「……俺は、感傷的すぎたかもしれません。それに、甘かった」
急に独り言のように堤が呟き、藍田は体を強張
らせる。何か、堤の持つ空気が変わったように感じたのだ。
「堤……?」
「俺は、藍田さんにガキ扱いされてるんですね。
ひどいことを言われたとは思っていません。子供を叱咤する保護者みたいな口調でしたよ、さっきの藍田さんの言葉。でもそれは、
藍田さんのせいじゃない。俺に、重みも貫禄も、何より覚悟が足りないからです」
何を言っているのかと、藍田は堤の顔を
上げさせる。堤は、静かな表情を浮かべていた。静かすぎて凄みすら漂うほどだ。
「お前、一体――」
「藍田さん、俺の
前には、ある二つの選択肢があります。片方を選べば、居心地のいい場所にいられる。でももう一つを選べば、多分、取り返しの
つかないことになる。どちらを選ぶかなんて、考えるまでもない……と思っていたんですけどね。藍田さんの今の言葉で目が覚め
ました」
堤が何を言おうとしているのか、よくわからなかった。ただ堤は、戸惑う藍田にかまわず話し続ける。
「俺は
多分……、いや、絶対、今のままじゃ、あなたの心を一欠片でも手に入れることはできない。せいぜいが、生意気な部下に目をか
ける程度の関心と、俺を利用したというささやかな罪悪感を得られる程度だ。だから俺は――……」
ふいに堤の顔が近づい
てきて、ぶつけるように唇を重ねられる。咄嗟のことすぎて藍田は反応できず、すぐに堤も唇を離してしまう。
「俺は、選び
ますよ。俺を大橋さんと対等だと認めざるをえないような選択肢を選んで、嫌でも、あなたが目が離せないような男になりま
す。……すぐにでも」
藍田が唇を動かしかけたとき、すでに堤はブルゾンを取り上げて座敷を出ていくところだった。向け
られた背に決然としたものを感じ取ったが、それがなんであるかはわからない。
ただはっきりしているのは、とにかく堤は
本気だということだ。こけおどしなど言う底の浅い男でないことを、藍田は知っている。
だからこそ、胸騒ぎを覚える。そ
れに――。
ぶるっと大きく身震いした藍田は、頽れるようにその場に座り込む。堤にまさぐられた体が熱かった。何より、
疼いている。
子供ではない藍田には、この疼きの正体がわかっていた。肉欲の疼きだ。
「はっ……」
速い鼓動に
息苦しくなり、大きく息を吐き出す。同時に体の奥で熱い塊が蠢き、また体が疼いた。吐き気がするような強烈な感覚だ。
堤に触れられながら、大橋のことを思って生み出された異様な高ぶりを、藍田はどう扱っていいのかわからない。
ただ、同
性によって肉欲を引きずり出されたという事実が、ひどくショックだった。
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