[18]
慌てて風呂から上がった大橋は、体を拭くのもそこそこに、裸でタオルを腰に巻いただけの姿でテーブルの上の携帯電話を取り
上げる。だが、期待した着信はなかった。
露骨に落胆しながら、壁の時計を見上げる。時間からいって、とっくに藍田は研
修先から戻ってきているはずだが、いまだになんの連絡もない。
部屋にいても携帯電話を持ち歩き、何度も着信を確認して
いる大橋だが、いい加減、藍田に何かあったのではないかと心配になってくる。考えすぎだと思いつつも、事故に遭ったのではな
いかと夕方のニュース番組までチェックしたぐらいだ。
休みの日はゆっくり湯に浸かりたいところだが、烏の行水という表
現に相応しく、シャワーを急いで浴びたというのに、無駄に終わったようだ。大橋はスウェットスーツを着るのも後回しにして、
ソファに腰掛ける。
「……やっぱり、〈あれ〉はマズかったか……」
昨夜は感情の高ぶりのまま、『キスしたい』と電
話で言ってしまった。冗談で言ったつもりはもちろんないが、藍田を警戒させるには十分だろう。研修から戻ってきて、一緒にメ
シを食おうと誘いはしたが、約束はできないと藍田には釘を刺されている。こうして連絡を待っているのは、大橋の勝手なのだ。
ただ――。
大橋は手にした携帯電話を操作して、今朝、藍田から一通だけ届いたメールを開く。朝から何度も見返し
ては、一人でにやついていた。
メールには、文章はなかった。ただ、鮮やかな紅葉の画像が一枚だけ添付されていたのだが、
大橋にはそれだけで、小言を言いながらも、紅葉がきれいに画面に収まる場所を探して写真に撮る、藍田の姿が容易に想像できる。
文章を添えなかったのはあの男なりの照れ臭さからだろう。
シャワー後で裸のままだということも忘れ、じっと画像を眺め
ていた大橋だが、やはりどうしても藍田のことが気になり、電話をかけてみる。メールだと、返事をくれないことには何もわから
ない。
いい大人の男から連絡がないというだけで――しかも、必ず連絡が入るというわけでもなく――どうしてこんなに不
安なのかと、大橋は自分に苦笑したくなる。だが、とにかく藍田の声を聞いて安心したかった。これから会えるなら、さらにいい
が。
もしかして電源を切っているのではないかと思われたが、コール音が聞こえてほっとする。しかも、藍田は電話に出た。
『――……大橋さん?』
「あっ、藍田……、いや、研修から戻ってきたのか気になってな。それだけだ」
『悪かった。
メールぐらいしようと思ったんだが、ひどく疲れていて……』
実際、その通りなのだろう。藍田の声には力がなかった。
「気にするな。俺はただ、几帳面なお前から連絡がないから、事故でもあったんじゃないかと勝手に心配してただけだ。何もなか
ったらいいんだ」
大橋は労わるように穏やかな声で話しかけるが、部下たちには聞かせられないほど、その声は甘くなって
いたかもしれない。
『子供扱いだな』
「お前はしっかり大人の男だけど、妙なところが迂闊というか……、無防備という
かな。普段、隙がなくて完璧に見える奴ほど、そういうところが心配になるんだ」
『それはあんたが世話好きだからだ』
「俺の世話焼きを刺激する、お前の人徳かもな」
電話の向こうで、ふっと藍田が笑った気配がした。だがそれも、次の瞬間
には重いため息に変わった。疲れているというより、何かを憂えているような感じだった。
「藍田、どうした? 研修先でさ
んざん嫌味でも言われたか。それとも胃が痛み始めたか?」
藍田から答えはなく、ただ濃密な沈黙が電話を通して行き来す
る。
研修帰りの男を気遣いながらも大橋は、昨夜の自分が言った言葉を再び頭の中で反芻する。途端に、ロクにシャワーで
温まりもしなかった体が熱くなってきた。
「お前、メシは食ったか?」
『ああ……』
「今は家か?」
『ちょうど
戻ったところだ』
昨夜電話で言ったことを本当に実行するわけではなく、ただ藍田のことが心配なだけで、できれば顔を見
て様子を確かめたいだけなのだ。
誰に対してかそう言い訳しながら、大橋は勢い込んで切り出した。
「――今から、お
前の家に行っていいかっ?」
『今、から……』
「外で会いたいと言っても、お前はもう動きたくないだろ。だから俺
が……行く。疲れてるだけだと思うが、なんだかお前の様子が気になるというか……」
余計なお世話だ、という言葉が返っ
てくることは覚悟のうえだったが、藍田は即答せず、またため息をついた。今度はひどく艶かしい響きを帯びており、思わず大橋
はソファに座り直して姿勢を正す。
「お前の顔を見たら、すぐに帰る」
『……明日、会社で顔を合わせてからでも遅くな
いだろう――と言うのは、野暮なんだろうな、この状況では』
大橋は思わずニヤリとしてしまう。
「お前もわかってき
たな」
『うるさい。……本当に来る気か?』
「俺は今、裸だぞ。すぐにでも服を着込める」
そう言ったときには大
橋はすでに立ち上がり、クロゼットの扉を開けていた。
『そんなことまで報告するな。――来るのはいいが、何のもてなしも
できない』
「お前の愛想一つで十分だぞ。あっ、そっちのほうが無理難題か」
『切るぞ』
冗談だと言って、大橋は
笑う。自分でも現金に感じるほど、藍田に拒否されなかったことで気分が一気に高揚していた。こんなに気分が盛り上がる日曜の
夜は、何年ぶりだろうかとすら思う。
「なんか買って行ってやろうか」
服より先に下着を出すのが先だと、クロゼット
横のチェストに手を伸ばしかけたそのとき、インターホンが鳴った。驚いたのは一瞬で、すぐに電話の向こうの藍田に声をかける。
「ちょっと待てよ、こんな時間に誰か来たみたいだ」
『客なら、もう今夜は来なくても――』
「いやいや、待て待て」
タオル一枚を腰に巻いただけの姿といううことも忘れて大橋は、大股でダイニングへと向かい、インターホンに出た。
「はい、どちらさまっ」
無意識に口調が荒くなったが、こんな時間にインターホンを鳴らすほうが悪い。何かのセールスな
ら即座に叩き切ってやろうと思ったが、インターホン越しに聞こえてきたのは、女の華やかな声だった。
『あら、機嫌が悪そ
うね』
「……敦子?」
『ちょっと前に会ったのに、元女房の声を忘れたなんて言わないでよ。ほら、早く開けてよ』
思いがけない人物の登場に、まるで浮気現場を押さえられたかのように大橋はうろたえる。少しの間、インターホンに向かって
立ち尽くしていたが、片手に握ったままの携帯電話の存在を思い出し、慌てて今度はそちらに出る。
「もしもし、藍田――」
『奥さんが来たようだから、やっぱり今夜のあんたの訪問は遠慮しておく』
「奥さんじゃないぞっ。元、だからな。……と
っくに別れた相手だ」
『その、別れた奥さんがこんな時間に来るぐらいだ。大事な用なんじゃないのか。とにかく、今夜はも
う家に来ないでくれ。それと、もう電話はいい。わたしは休むから、起こさないでくれたほうがありがたい』
突き放すよう
に冷ややかな口調でそう言った藍田に、止める間もなく電話を切られてしまった。しかも、呆然としかけた大橋を急かすように、
玄関のドアがドンドンと叩かれる。
大橋はふらふらとした足取りで玄関に行き、ドアを開けてやる。スーパーの袋を片手に
下げた敦子は、大橋を見るなり目を丸くした。
「あらっ、刺激的な格好でお出迎えね。元妻相手に、がんばる気?」
ど
ういう意味だと考えてすぐに、大橋は今の自分の姿を認識する。慌てて後退っていた。
「うわっ、わっ、ちょっと待てっ……。
服を着てくる」
「待たなくてもいいでしょ。嫌というほど見てきたものなんだから」
もう少し表現のしようがないのか
と心の中で抗議しながらも、奥の部屋へ駆け込み、着替えを引っ張り出す。
「ねえ、裸で何してたの?」
ダイニングま
で上がり込んできた敦子が声をかけてくる。大橋は苦笑を洩らしながら応じた。
「一人しかいないのに、裸で何するんだよ。
風呂上がりで、ちょっと寛いでただけだ」
急いで服を着込んでからダイニングに行くと、すでに敦子はキッチンで、我がも
の顔で冷蔵庫を開けて買ってきたものを詰め込んでいた。その姿を見た大橋は、かつての敦子との結婚生活を思い出し、苦い気持
ちになる。
「お前、こんな時間に――」
「久しぶりに龍平の体を見て、安心したわ」
いきなり何を言い出すのかと、
大橋は自分が言いかけた言葉を呑み込んで、胡乱な眼差しを敦子に向ける。すると、やけに艶っぽい流し目で返された。
「ま
だお腹が出てないから。仕事ばかりしていても、気をつけてはいるみたいね」
「……スケベ」
敦子が派手な笑い声を上
げ、大橋はつい、自分の腹を撫でる。あのわずかな間に、すかさず腹が出ていないかチェックするのだから、女は恐ろしい。
大橋は壁にもたれかかりながら、やっと本題に入った。
「それで、なんの用だ。別れたダンナの腹筋拝みにきたわけじゃな
いだろ」
「仕事がやっと一息ついたから、様子を見にきたの」
「様子?」
缶ビールを両手に持って敦子が側までや
ってくる。差し出された缶ビールを思わず受け取っていた。
「先月、煮詰まってたでしょう。あれからずっと気になってたの
よ」
ああ、と大橋は声を洩らす。今夜のように敦子が部屋に押しかけてきた出来事を思い出したのだ。ただし、あのとき敦
子が持ってきたのは缶ビールではなく、ワインだった。
「一か月も前のことだぞ……?」
「仕方ないでしょ。ずっと仕事
が忙しかったんだから。やっと落ち着いたから、まっさきに様子を見にきてあげたのよ」
「へえへえ、心配かけて悪かったな。
まあ、ご覧のとおり、俺は腹も出ず、元気にしている」
イスに腰掛けようとした大橋に、敦子はさらりと言葉の爆弾を投げ
つけてきた。
「それで、三人目の奥さん候補とはうまくいってるの?」
不自然に動きを止めた大橋は、自分でもわざと
らしい咳払いをしてから、無理やり笑って返す。ここでムキになったら、敦子の思う壺だ。
「ああ、俺のお手製卵スープを飲
ませてやった仲だ」
「……感激してた?」
「いいや。微妙な顔をしてたな。でも――楽しかった。ここでメシ食って、ビ
ールを飲みながらダラダラして。この部屋は、仕事して寝に帰ってくるだけの場所じゃないんだなって、久々に思い出した」
まるでノロけているような気持ちになり、大橋は相好を崩す。そんな大橋を冷めた視線で眺めていた敦子が、急に何か思い出し
たようにキッチンに戻る。
「おい、どうした」
「あなたの甘ったるいノロケに負けないよう、なんか塩辛いツマミでも作
ろうかと思って。ビール以外に、あれこれ買っておいてよかったわよ」
「それは……、助かる」
かつての夫婦生活に戻
ったような錯覚に陥る、キッチンから響く包丁の音を聞きながら、大橋が考えていたのは藍田のことだった。
やはりどうし
ても、藍田の様子が気になるのだ。しかし、今夜はもう電話をかけてくるなと言われており、どうすることもできない。
敦
子の突然の訪問を迷惑だというのは良心が咎めるが、タイミングが悪かった。いや、単に大橋の間が悪いのかもしれない。思い立
って、すぐに行動を起こしていれば今頃、藍田の家に――。
危うい想像に、興奮してしまいそうになる。
このとき自
分がどんな顔をしていたのかはわからないが、敦子が手を止め、怪訝そうに元夫を見ていた。大橋はぎこちなく顔を逸らし、ビー
ルを呷る。
容易に想像できたことではあるが、二泊三日の研修から戻ってきた藍田を待っていたのは、仕事の山だった。
朝早くに出
社して、溜まった未処理の書類に目を通して判をついているうちに始業時間になったが、集中しすぎてそれに気づかなかったぐら
いだ。合間に、新機能事業室副室長としての本来の仕事もこなし、部下に指示を出しつつ、研修の報告書も完成させる。猶予は三
日あるのだが、いつまでも大事に抱えておくような仕事でもない。
打ち出した報告書をファイルに挟んだところで、藍田は
ふっと肩から力を抜く。次いで、半ば当然のように向かいのオフィスに視線を向けていた。少し前まで、デスクに部下を呼んで真
剣な顔で話し込んでいた大橋だが、今は姿が見えない。
朝、その大橋から、体調を気づかうメールが届いたが、忙しさのせ
いにしてまだ返信していない。研修の疲れはまだ取れていないが、そのことを抜きにして、藍田は実は機嫌がよくなかった。自分
でも原因がわかっていることがまた、機嫌の悪さに拍車をかけている。
昨夜は一人部屋にいて、ずっと気持ちは揺れていた。
堤との間にあったやり取りは、あまりに衝撃的で、一人で受け止めるにはあまりに容量が大きすぎたためだ。そこに大橋から電話
がかかってきて、正直救われた気持ちだった。反面、そう感じる自分に藍田は自己嫌悪も覚えていた。
大橋とのことで気持
ちが揺れると堤を利用し、堤との間にことが起きると、今度は大橋を利用しようとしているのではないかと感じたからだ。
昨夜大橋と顔を合わせていたなら、堤との間にあった出来事も含めて吐露していたかもしれないが、幸か不幸か、それは叶わなか
った。
携帯電話を通しても、華やかな女性の声は聞こえてきた。女性が何を言っているのかまではわからなかったが、それ
でも、大橋が慣れ親しんだように名を呼んだ口調から、彼の元妻であることはすぐに察した。
そのとき、あっという間に芽
生えた重苦しい感情は、嫌になるほど直情的で単純で、だからこそ性質が悪い。その証拠に、いまだに藍田の胸に根を張ったまま、
昨夜からずっと苛んでくる。機嫌の悪さは、この辺りも多大に関係している。
女性に対して寛大な大橋は、別れた妻に対し
ても家への訪問を許すほど寛大らしい。そう思うと藍田は、意識しないまま眉をひそめてしまう。
別に、大橋を責めるつも
りはない。責めるとすれば、藍田自身だろう。
同性の部下に――堤に、あんな行為を許してしまったのだ。
抱き締め
られてキスされた感触だけでなく、両足の間をまさぐってきた手の動きを思い出し、屈辱と羞恥を上回る熱い感覚が込み上げてく
る。なんとか頭から追い払おうとするのだが、ふとした瞬間に蘇り、藍田をうろたえさせる。
このままでは仕事が手につか
なくなりそうなので、手荒い動作でファイルや書類を掻き集めて立ち上がる。
「高井室長のところに報告書を出してくる。他
にいくつか立ち寄ってくるが、すぐ戻る」
そう言い置いて足早にオフィスを出た藍田は、まっすぐ高井の執務室に向かい、
儀礼的な挨拶とともに報告書を提出する。口頭でも淡々と報告はしておいたが、高井は興味なさそうな顔を終始崩さず、藍田の話
の大半は聞いていなかったかもしれない。普段なら気にもかけないのだが、今日はひどく神経に障る。
何もかもが、自分を
不機嫌にするために動いているように感じられるぐらいだ。本当は、日常は何も変わっていないのだ。変わっているのは、藍田の
気持ちがいつもより余裕がないだけだ。
昨夜、大橋が部屋に来ていたなら、こんな気持ちになっていなかっただろうか。魔
が差したように、藍田はそんなことを考えていた。
大橋が部屋に来て、また唇を重ねていたら、とも。
自分一人しか
乗っていないエレベーターの壁にもたれかかり、ついぼんやりしてしまう。今日は無理をしてでも代休を取るべきだったのかもし
れないと、いまさらしても仕方のない後悔が胸を過る。ただ、積み上がる一方の雑務を思うと、それが決断できなかったのだ。
いつの間にかエレベーターがあるフロアで停まり、ゆっくりと扉が開く様子を藍田はぼんやりと眺めていたが、すぐに、自分が
用のあるフロアであることを思い出し、慌てて体を起こした。
勢いよく飛び出したため、ちょうど通りかかった社員とぶつ
かる。
「あっ、すみません――」
咄嗟に謝ってから、藍田は自分がぶつかった相手を見る。目の前に立っていたのは、
華やかな印象の――多少派手な感じがしなくもない男性社員だった。こちらがぶつかったにもかかわらず感じのいい笑みを浮かべ
ており、しかもこんな言葉までかけてくれた。
「大丈夫ですか?」
「いえ、こちらこそ。ぼんやりしていて失礼しました」
このときになって気づいたが、ごく自然な感じで男の手が肩にかかってきた。ぶつかった藍田を受け止めようとしていたら
しい。そんなに危なっかしい足取りだったかと、密かに恥じ入る。
もう一度謝ろうとした藍田の目に、男が首からかけた社
員証が入る。一般の社員のものものとは社員証に入ったラインの色が違い、彼のものは出向社員であることを示している。しかし
藍田が気になったのはラインの色ではない。
「――……鹿島、さん……」
「ええ。っと、もしかして、うちの福利厚生セ
ンターと何か関わりがある部署の方ですか? 大抵の方とは挨拶を済ませていたんですが、もしまだでしたら、こちらこそ失礼し
ました」
愛想よく応じる男性社員の顔を、改めて藍田は見つめる。
大橋や岡本が言っていた『鹿島』という男性社員
で間違いないだろう。福利厚生センターという言葉が本人の口から出ているし、大橋が表現した通り、いかにも女性受けがよさそ
うな爽やかな容姿で、頭の先から靴の先まで身なりに気をつかっているのがよくわかる。
藍田よりわずかに下に見えるが、
一見しただけでわかる人当たりのよさは世慣れたものを感じさせる。如才ないという表現は、彼のような人間のためにあるのだろ
う。ただ、岡本が言っていたアクが強くてエキセントリックな部分は、うかがい知れない。
とにかく、この鹿島という男を、
少なくとも二人の人間が気にかけているということだ。
わざわざ大橋に紹介してもらう手間が省けたと思いながら、藍田は
ジャケットのポケットに突っ込んである社員証を出して見せた。
「藍田です。大橋さんから、簡単に話だけは聞いてます」
「敬語はやめてください。部下の方たちに対するように接してもらったほうが、ありがたいです。わたしは指示を仰ぐ立場にあり
ますから。――いつか藍田さんにも挨拶できる機会があればいいと思っていたので、偶然とはいえ、お会いできてよかったです」
人当たりがいいというより、ここまでくると腰が低いともいえる鹿島に対し、藍田は遠慮なく部下と同じように接する。警
戒するにしても、自分なりに鹿島という男を見定めておきたかった。
「こちらのプロジェクトの都合に振り回されて、苦労し
ているんじゃないか?」
「いえ、こちらの社員の方には、よくしてもらっています。もっとも、まだプロジェクトに関わる仕
事のほうは落ち着いているので、センターから回ってくる仕事をこなしているような状況なんです。ですから、やっていることは
東京も大阪も変わりませんよ」
「早いうちから派遣されてくるんだから、よほど信頼されているんだろうな」
別に鎌を
かけたつもりはないのだが、顔に貼りついているようだった鹿島の笑みが一瞬だけ強張ったように見えた。しかしすぐに、茶色の
髪を掻き上げながら、大仰に苦い表情を浮かべる。
「普段から、ふわふわして落ち着きがないと言われていたので、こちらで
鍛えられてこいという上司の愛のムチかもしれないと、わたしは考えているんですよ」
「前向きでけっこうだ。なんにしても、
君が派遣されてきて、大橋さんも仕事がしやすくなるだろう。仕事を抱えすぎて、四苦八苦していたようだから」
「だといい
ですけど。役に立たないなんて言われたら、立つ瀬がない」
掴み所がない男だなというのが、鹿島と話していての藍田の印
象だった。堤もそんなタイプだが、あの男の場合はときおり鋭く尖ったものを感じさせるため、こちらも迂闊に気が抜けない。だ
が、鹿島はどこまでも物腰も言動も柔らかく、だからといってお人好しという感じではない。つまり人柄が掴みにくい。
こ
こで会話が一旦途切れ、それをきっかけに藍田は本来の自分の用を思い出す。
「それじゃあ、わたしはこれで――」
「藍
田さん、お願いがあります」
突然の鹿島の言葉に、軽く目を細めてから藍田は続きを促す。
「なんだ」
「合同プロ
ジェクトの会議に、わたしも参加できないでしょうか。できる限りプロジェクトの活動について把握しておくと、大橋さんと意思
の疎通が早いんじゃないかと思うんです。会議で決まったことを、あとでわたしにだけ知らせてくるのも、大橋さんにとって手間
でしょうし」
「……言いたいことはわかるが、大橋さんはなんと言っている?」
「大橋さんにはまだ話していません。藍
田さんとは偶然とはいえこうしてお会いできたので、この機会にご相談させていただきました」
メンバーでない人間を会議
に加わらせるつもりはない、と言ってしまうのは簡単だ。鹿島についてなんら含むところがなければ、この場でそう即答していた
だろう。
鹿島の存在を最初に警戒したのは大橋ということもあり、藍田は対応を押し付けることにした。
「そういうこ
となら、先に大橋さんの承諾を得てくれ。そもそもわたしは、福利厚生センターとの関わりがまったくないから、大橋さんがいい
というなら、わたしも異存はない」
おそらく大橋は、鹿島の申し出を受け入れはしないだろう。
無表情の藍田から真
意を読み取ろうとするかのように、鹿島が口元では笑いながらも、まったく感情のない目で見つめてくる。このときになって、鹿
島の瞳がやや茶色がかっていることに気づいた。
この目は少し怖いなと、漠然と藍田は思った。誰かの目に似ているとも思
ったが、それが誰か思い出す前に、鹿島はにっこりと笑って一礼した。
「すみません、忙しいところを呼び止めてしまっ
て。――会議の参加の件は、藍田さんのおっしゃる通りですから、あとで大橋さんに相談してみます」
「ああ。そのほうが話
は早いだろうな」
こうして二人は別れたが、経理部のオフィスへと向かっていた藍田は一度足を止めて振り返る。すでにも
うエレベーターに乗ったのか、鹿島の姿はなかった。
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