[20]
ふっと仕事の手を休めた大橋は、いつもの癖で向かいのオフィスに視線を向ける。そこには、背筋を伸ばしてイスに腰掛けた藍
田の姿があった。冷ややかな横顔も相変わらずだが、大橋にとっては一服の清涼剤だ。
周囲を見渡して部下たちに悟られて
いないことを確認してから、本格的に藍田の姿を眺めていた大橋だが、すぐに眉をひそめることになる。
藍田のデスクに堤
が歩み寄り、何事か話しかけているのだ。
二人が上司と部下という関係である以上、こんな光景は日常茶飯事で、大橋とし
ては、何も見なかったことにして顔を背けてしまうのだが、今日は違った。
藍田がスッと手招きし、堤をデスクの前ではな
く、自分の傍らに呼んだのだ。腰を屈めた堤が、藍田の白い耳に顔を寄せて何事か話している。おそらく大橋以外の人間は、深刻
な話をしているようにしか見えない光景だ。
だが、実に人間臭い感情で曇っている大橋の目には――。
危険な男を容
易に側に近づけるなと、腹が立ってくる。胸の奥で刺々しい感情の塊が蠢き、気分まで悪くなってくるようだ。なんといっても大
橋は、藍田が研修から戻ってきてから電話で会話はできても、いまだに面と向かってゆっくり話す機会を得ていないのだ。
露骨ではないが、藍田に避けられているような気がしなくもない。そんな被害妄想に、そろそろ抗えなくなりそうだ。特に、今の
ような場面を見てしまうと。
「補佐ー、そろそろ会議室に行きませんか?」
部下に声をかけられ、大橋は向かいのオフ
ィスから視線を引き剥がす。呼ばれなければ、歯噛みしながらしばらく観察していたかもしれない。
「おう、今行く」
そう答えてデスクを離れた大橋だが、今日はある意味、とことんついてないといえた。
会議を終え、自分のオフィスに戻る
前に、用があって他のオフィスに立ち寄った大橋が見かけたのは、廊下で立って話している藍田と堤の姿だった。
この瞬間、
大橋の頭の中であるものが爆発していた。子供のようにわかりやすい、独占欲や嫉妬という感情だ。ただ、見かけたその場で感情
を表に出すほど理性は失っていなかった。――かろうじて。
乱暴な足取りでオフィスに戻ると、何事かという部下たちの視
線すら弾き飛ばして自分のデスクにつく。すぐに仕事に取り掛かろうとしたが、さきほどの光景が脳裏をちらつき、何も手につか
ない。
パソコンを起動し、マウスに手をかけたところで大橋自身がフリーズしてしまう。
自分の間の悪さに、頭を抱
えたくなっていた。歯車が完全に狂ったきっかけには心当たりがある。
藍田が研修から戻ってきた日、大橋は多少の下心を
抱えて、藍田の家に押しかけるつもりだった。半ば強引に藍田にも認めさせたところで、元妻の敦子が家にやってきたため、話は
ご破算になったのだ。あの出来事から、大橋はきっかけを失い続けている。藍田の反応をうかがい、行動が慎重になっていた。
思いきり眉をひそめて考え続けている大橋の視界は、こちらをうかがっている部下たちの様子を捉えていた。上司として反省し
つつ、さらに視界の隅に、デスクに戻ってきた藍田の姿を認める。
堤と何を話していたのか、聞きたかった。だが、それす
らすでに言い訳だ。本当は、あることを実行したかった。
『――お前とキスがしたい』
研修先の藍田に電話して囁いた
言葉を。
目一杯、藍田を口説きたかった。できるなら抱き締めて、キスだってしたい。当然だ。大橋は、藍田に心底惚れて
いるのだ。
「……いまさら遠慮してどうする……」
自分に言い聞かせるように呟くと、大橋は受話器を取り上げる。内
線を鳴らすと、すぐに藍田は出た。
「俺だ」
『……あんたはいつも、そんな不遜な態度で内線をかけているのか』
「いつもお世話になっております、オフィス企画部部長補佐の大橋です。お忙しいところ申し訳ありません。今、お電話よろしい
でしょうか?」
こちらを見た藍田が、露骨に嫌そうな顔をしている。大橋は暑苦しいほどの笑顔を浮かべて手を振ってやっ
た。
『――……何かご用でしょうか。お忙しいはずの大橋部長補佐自ら、こうしてお電話をくださるなんて』
「悪かった。
俺が全面的に悪かった。許してくれ。いや、許してください」
人聞きが悪い謝り方をするなと、受話器を通してぼそぼそと
聞こえてきた。
ため息をついた藍田が、受話器を耳に当てたままイスごとこちらを向き、わずかに首を傾げた。
『それ
で、用件は』
「今晩、二人で会えないか? というより、……会いたい」
このとき藍田の動きが不自然に止まる。硬直
したのかもしれない。大橋は、向かいのオフィスの藍田を一心に見据え、何があろうとも承諾の返事をもぎ取る覚悟を態度で示す。
『ちょうどよかった。わたしも、あんたと二人で話したいことがあった』
「へっ……」
思いがけない返事に、つい
間の抜けた声が出てしまう。心なしか、藍田が笑っているようにも見えるが、大橋の都合のいい妄想かもしれない。
「本当、
か?」
『ああ』
珍しいことに、プライベートでの用件なのに決め事の主導権を握っていたのは藍田だ。午後七時に会社
のロビーで待ち合わせ、タクシーで移動することを提案され、大橋は否と言うはずもなく頷く。二人で会えるのなら、なんでもよ
かった。
受話器を置いてからも、大橋はぼんやりと藍田を眺めていた。当の藍田は、受話器を置くと、何事もなかったよう
に冷ややかな横顔を見せて仕事を再開したというのに。
現金なもので、電話をかける前までは独占欲や嫉妬でささくれ立っ
ていた大橋の気持ちは、今は見事に鎮まっていた。それどころか、夕方からのことを考えて、浮き立ってさえいる。
「――俺
はやるぞ」
ひっそりと物騒な言葉を洩らすと、大橋はやっと仕事に取り掛かった。
待ち合わせの五分前にロビーに降りると、すでに大橋の姿があった。落ち着かない様子で腕時計を見て、髪を撫で、羽織ったコ
ートの裾を払い、帰宅する社員と挨拶を交わしたかと思うと、また腕時計を見て――。
自分を待っているのだなと、大橋の
そんな姿を見た藍田の胸に、ほのかな熱が灯る。無意識のうちに唇に笑みを浮かべていたが、すぐに気づいて慌てて表情を引き締
める。何事もなかった顔をして大橋に歩み寄った。
「待たせた」
そう声をかけると、驚いたように目を見開いた大橋は、
次の瞬間には満面の笑みを見せた。
「いや。俺もたった今来たところだ」
こういう台詞を言う男が現実にいるのだと、
素直に感心する。自分が言われる立場だというのが、なかなか微妙なところだが。
二人は並んで歩きながら、この先の予定
を確認する。
「先にどこかでメシを食おう」
「ああ」
「話は……、メシを食いながら、か?」
大橋がちらりと
不安そうな視線を向けてきたので、藍田は思わず微苦笑を浮かべる。
「消化に悪そうだから、食事のあとだ。わたしの行きつ
けのワインバーでよければ案内する」
「そりゃ、楽しみだ」
ビルの前でタクシーを停めて、まずは大橋が気に入ってい
るというイタリアンレストランへと向かう。
車中で、さまざまなことを意識しすぎてしまい、会話すら交わせなかったが、
藍田はあることを思い出してジャケットのポケットから携帯電話を取り出す。
「どうした?」
「今日はもう、会社に呼び
戻されるのは嫌だから、電源を切っておく」
「はは、だったら俺の勝ちだな。ロビーにいる時点で、もう電源切っておいたぞ」
そう言って大橋が優しい眼差しを向けてくる。藍田はなんと答えていいかわからず、不自然に視線を逸らす。
今晩の
大橋の誘いは、正直ありがたかった。藍田も大橋に話したいことがあったのだが、きっかけが掴めなかったのだ。
本当は、
もっと早くに大橋と二人きりで会うつもりだった。だが、そのことを電話で話しているとき、大橋の元妻が、大橋の部屋を訪ねて
きたと知り、藍田は電話を切っていた。
藍田は、あのとき自分の胸にスウッと広がる冷たい感覚を覚えている。凍りつきそ
うなほどうろたえて、戸惑い、怒ったのだ。裏を返せば、大橋に対する自分の執着を知ったということだ。それにもう一つ、厄介
な感情を――。
準備のいい男らしく、わざわざ予約を入れておいてくれたイタリアンレストランでは、二人とも会話はどこ
か上の空だった。料理が美味しくて食べることに集中していたから、というのは、言い訳としては上出来かもしれない。
た
だ、本当の理由はわかっている。互いに、二人きりの時間をこれ以上なく意識しているのだ。
食事のあと、再びタクシーに
乗り、今度は藍田の馴染みの店に向かう。
「――意外だ」
小さなビルを見上げながら、大橋がぽつりと洩らす。
「何がだ」
「お前の馴染みの店。居酒屋みたいな店ではないだろうと思ってたが、それにしても、ホテルのバーとかで飲んで
いるイメージがあった。ここはけっこう大衆的というか……」
「そうか。あんたの中では、あたしは気取ったイメージがある
んだな」
「いやっ……、そうじゃなくてだな、高級なイメージがあるというだけで――」
「ムキになっていい訳しなくて
いい。わたしだって、あんたは立ち飲み屋で見知らぬ他人とだって馬鹿笑いして飲んでいるイメージがある」
大橋はあごに
手をやり首を傾げた。
「……それはつまり、俺は気取ってなくて、誰とでも打ち解けられる男と思われているということ
か……?」
「当たってるだろ」
物言いたげな大橋を促し、三階のワインバーに上がる。会社の人間を連れてきたことは
ない、藍田にとって大事な寛げる店だ。静かに話しながら飲むのなら、大橋の言う通り、ホテルのバーでもよかったのだが、それ
でもあえてこの店に連れてきたのは、藍田なりに理由があった。
研修から戻ってきた日、藍田は堤を、母親が経営している
店に連れて行った。あの店も、藍田にとっては特別な場所だ。その場所で藍田は、堤に――。
大橋に対して持った後ろめた
さを、自分の隠れ家であるこの店に連れてくることで薄めたかったのだ。
大橋と堤の間で、こうして賢しいバランスを取る
自分に、嫌気が差しそうだった。
「藍田」
ふいに大橋に呼ばれ、藍田は我に返る。扉を開けた大橋に手招きされて、店
に足を踏み入れた。
テーブル席はほとんど埋まっていたが、カウンターのほうは空いている。いつも座っている入り口から
もっとも遠い席も。
コートハンガーにコートをかけて大橋と並んで座ると、さっそくグラスワインを注文した。
「乾杯
は?」
置かれたワイングラスをかざすように持ち上げながら、大橋がニヤリと笑いかけてくる。藍田はすかさずグラスに口
をつけた。
「あっ、お前っ……、ノリが悪いぞ」
「いまさらあんたと飲むのに、なんで乾杯しないといけないんだ」
「……可愛くねー」
「ほお、大橋部長補佐は、三十半ばになっても、可愛いと言ってもらいたいのか」
藍田の意地の悪
い言葉にもめげず、大橋はカウンターに片肘をつき、上機嫌といった面持ちで応じた。
「言ってもらいたい、と答えたら、お
前は言ってくれるのか?」
藍田は目を丸くしてから、ため息をついて顔を背けた。
「どういう会話を交わしてるんだ、
わたしたちは」
「いいじゃねーか、ここは会社でも、仕事先でもないんだから。気の抜けた会話ぐらいさせてくれ」
「……あんたの場合、あまり区別はないような……」
失敬な奴だ、とあまり怒ったふうもなく大橋が言い、つい藍田はちら
りと笑う。
「それで、話したいことってなんだ」
早々にワインを飲み干した大橋に促され、藍田は表情を引き締める。
危うく、今晩こうして大橋と会っている本来の目的を忘れるところだった。
「――……鹿島のことだ」
藍田のその一言
ですべてを察したらしく、顔をしかめた大橋がガシガシと髪を掻き乱す。
「なんか、ずいぶんと手回しよく動いているな。あ
あも手順を踏まれると、こちらとしても、無碍にプロジェクトから遠ざけられない」
「何か問題が起こったわけではないし、
不都合があるわけでもないんだが、気になる。……と言い続けて、結局まだ何もわかってないし、こうしてあんたと顔をつき合わ
せているだけだ」
これは相談でもなんでもなく、大橋に向けて愚痴をこぼしているようなものだった。電話を通すと業務連
絡のようなものになってしまうため、こうして顔を合わせて話すのは、精神衛生上、健全といえるのだろう。
大橋は口元を
わずかに緩めると、どういう意味か藍田の肩をポンポンと軽く叩いて、ワインのお代わりをした。
「その点は、俺はお前に謝
らないとな」
「どうしてだ」
「お前の心配がわかっているのに、あまり役に立ててない。むしろ、お前の不安を煽ってい
るかもしれない」
大橋は優しいと、こういうときに実感させられる。藍田は微笑みそうになるのを寸前のところで堪え、淡
々とした口調で言った。
「あんたが役に立ってないというなら、わたしは誰に、鹿島のことを相談すればいいんだ」
「藍
田……」
「お互い、キャリアを積んできたいい大人だ。あまり一方的に尽くし尽くされという関係は築くべきじゃないだろ。
だからこそ、協力もできる。……わたしは、大橋さんとはそういう間柄であるべきだと思う。――仕事のうえで」
大橋が目
を丸くして、じっと見つめてくる。あまりに見つめてくるため、気恥ずかしくなってきた藍田は、明らかに酔いのせいではない理
由で頬を熱くしながら、大橋を睨みつけた。
「なんだ。何か言いたいことがあるなら、はっきり言え」
「……言いたいこ
とっていうか……」
ふっと表情を和らげた大橋がカウンターに頬杖をつき、寛いだ姿勢を取る。
「もっと楽に話そうぜ。
俺たちの会社での関係や建前はひとまず置いて。まず今は、ワインを味わうべきだ」
グラスを掲げて見せられ、藍田も目を
丸くしてから、そっと笑みをこぼす。
「あんたといると、緊張感がなくなる」
「おう、いいことだ。飲んでいるときまで、
眉間にシワを寄せるな。辛気臭くなる」
悪かったな、と口中で応じた藍田は、大橋の提案に乗る前に、もう一つだけ気にな
ることを話しておいた。
「――なぜだか、ここ何日か、宮園さんの動きも気になる」
この話題には、大橋も軽いノリで
応じる気にはなれなかったらしい。あっという間に表情を引き締めた。
「プロジェクトのメンバーの面談のことか?」
「管理室という特性上、何もかも相談してくれることを期待してはいけないんだろうが……、わたしが宮園さんのをプロジェクト
に引き込んだだけに、あれこれ考えてしまう」
「堤には話を聞いたのか」
あまりに自然に問われ、一拍置いてから藍田
は大橋を見る。大橋の視線は手元のグラスに向けられているが、こちらの反応をうかがっているようでもある。
こういう探
り合いはしたくないと思いながら、藍田は小さくため息をついた。
「……ああ。あんたが宮園さんから聞かされた通りみたい
だ。世間話程度のことらしい。ただ――」
「ただ?」
「わたしのことを聞かれたそうだ。上司としてどう思っているのか。
まあ、これも世間話の範ちゅうかな」
「そう思っていながら、納得しきれてないって顔だな」
大橋の指摘を肯定するよ
うに、藍田は軽く顔をしかめる。
「堤に、宮園さんは〈味方〉じゃないのかと言われた。強すぎる薬は毒になるとも……」
「なんとも、堤らしい」
藍田はワインを飲んでから、おそらく今のところ、大橋としか共有できない感情を打ち明けた。
「――……今は、誰を信用していいのか、よくわからない。信用するのが怖い、というのが正確なところだな。誰もが自分に敵意
を持っているように思えて、まず身構えてしまう。そんな気持ちを見透かされたのだとしたら、上司失格だ」
ふいに大橋が
身を乗り出し、藍田の顔を覗き込んでくる。悪ガキのような笑顔を浮かべて、こんなことを言った。
「そういう状態からの、
簡単な脱出の仕方を教えてやろうか?」
「そんな魔法みたいなことができるのか」
「何があっても、大橋龍平という男だ
けは信用しろ」
冗談とも取れそうな言葉に、藍田は心を射抜かれていた。
「俺はお前にとって、信用できる人間でいる。
たった一人でも、絶対に信用できる人間がいれば、お前も不安にならないだろ。……お前は、孤立することを怖がる人間じゃない。
他人を信用できないことに対して、罪悪感を抱ける人間ではあるけどな。だからこそ、まずは俺を信用しろ」
こんなとき、
咄嗟にこんなことを、自信たっぷりに断言できる大橋が羨ましかった。そして、自分に向けて言ってくれることが、藍田には嬉し
くもあるのだ。
ごく自然に笑いかけると、大橋が驚いたように姿勢を正す。
「……そういう顔を見せてくれるってこと
は、一応、俺を信用してくれているってことか」
「なんと答えてもらいたい?」
藍田が首を傾けて問い返すと、即答さ
れた。
「イエス、と」
いつもよりワインが回るのが早い。藍田は、頬どころか、体中が熱くなっていくのを感じた。
「――お前も強情だな」
ワインバーを出たところで、しみじみと大橋が洩らすと、酔いのせいか目元を赤く染めた藍田に睨
みつけられた。
「どっちがだ」
「俺は強情じゃねーよ。ただ、俺を信用しているのかどうか、お前の口から聞こうとした
だけだろ。イエスの一言をいえば済むのに、強情な誰かさんは、露骨に話題を変えようとして……」
「わたしから強引に返事
をもぎ取ろうとするのは、強情じゃないのか」
「違うな」
きっぱりと言い切った大橋がニヤリと笑いかけると、悔しげ
に唇を引き結んだ藍田は、大股で階段に向かう。大橋は笑いながらあとを追いかけた。
「あまり急ぐなよ。酔ってるんだから、
階段から転げ落ちるぞ」
「酔ってないっ」
「やっぱり強情じゃねーか」
酔っ払い同士、どこかじゃれ合うような雰
囲気で通りへと出た。
お互い帰り道は反対方向なので、ここで別れることになる。――本来なら。
タクシーを停める
ため、歩道から身を乗り出している藍田の姿を、背後に立って大橋は見つめる。今夜、こうして藍田と二人きりで食事して、ワイ
ンを飲んでほろ酔いになったのは、何も、いい気分のまま別れるためではない。
『――俺はやるぞ』
オフィスでひっそ
りと自分が洩らした言葉を、大橋は何度も心の中で反芻する。
藍田がタクシーを停め、ドアが開くのを待ってから振り返っ
た。
「それじゃあ、大橋さん、今晩は愚痴につき合ってくれてありがとう」
愚痴と呼べるほどのものはこぼしていない
だろうと思いながら、大橋は藍田の背を軽く押し、タクシーに乗るよう促す。
「大橋さん?」
「今夜は、これで終わりじ
ゃないぞ。お前の部屋でコーヒーを飲ませてもらうという予定を、俺は立ててたんだ」
「な……、何、勝手に決めて――」
「あー、いいから早く乗れ」
半ば強引に藍田をタクシーに押し込み、すかさずあとから大橋も乗り込む。ここまでしてしま
うと、あとは簡単だ。
大橋は悪びれることなく、車を出すよう運転手に告げた。
「……コーヒーなんて、この辺りにあ
るコーヒーショップで飲めばいいだろう」
タクシーが走り出すと、ぼそりと藍田が言う。しかし、怒っている様子はない。
とりあえず言ってみた、という感じだ。
「愚痴につき合ってもらったと思っているんなら、俺にコーヒー一杯ぐらい飲ませて
も、罰は当たらないぞ」
藍田は軽く息を吐き出し、もう何も言わなかった。もしかすると藍田なりに、大橋の下心を敏感に
感じ取ったのかもしれない。それでもタクシーを降りろと言わないのは――。
自分勝手な想像ながら、大橋は血が滾ってく
るような感覚に襲われる。
ネクタイを緩め、熱っぽい息を吐き出してから、さりげなく隣の藍田を盗み見る。車のライトに
ときおり強く照らし出される男の横顔は、目を射抜かれそうなほど白く冴え冴えとしていた。
酔いのせいか興奮のせいか、
眩暈がしてくる。大橋は、必死に藍田の横顔から視線を引き剥がした。さきほど飲んだワインより、藍田の存在のほうがよほど強
烈だ。
藍田の住むマンションに着き、エントランスを並んで歩いていると、ふいに藍田が足を止める。妙に浮き足立ってい
る大橋も慌ててそれに倣い、首を傾げた。
「どうした、藍田」
「……あんた、本当に寄っていく気か?」
「ここまで
きて何言ってるんだ。だいたいお前、俺の部屋に二度も来てるんだから、一度ぐらい、俺にも家庭訪問させろよ」
返事を渋
る藍田の肩を抱いて歩かせ、強引にエレベーターに押し込む。
静かなエレベーター内では、ひどく速く大きくなっている自
分の鼓動の音が、藍田に聞かれるのではないかと、大橋は気が気でなかった。
何を考えて、自分の気が逸っているか藍田に
知られたら、多分、逃げられる。そのために大橋は、必死にいつもの『大橋龍平』を取り繕っていた。
部屋の前で鍵を取り
出した藍田は、ためらうように一瞬、大橋を見たが、強い眼差しで見つめ返すと、唇を引き結んでドアを開けた。
お互いい
い大人の男だ。何より、これまで抱き合いもしたし、キスもした。この状況で二人きりになれば、何かが起こると予測もしている。
だからこそ、慎重に相手の心を探るのだ。
いい大人の男だからこそ――。
玄関の電気をつけた藍田が、さっさと靴を
脱いで廊下を行こうとする。その後ろ姿を見た瞬間、大橋の中で、ここまで堪えていたものが弾けていた。
何歳になろうが
関係ない。本気で惚れた相手には、大人の思慮などかなぐり捨てて求めないといけないときもある。多分今が、そのときだ。
靴を脱ぎ捨て、アタッシェケースを放り出して藍田のあとを追いかけると、素早く腕を掴んで引き寄せる。驚いたように目を見
開いた藍田を、壁に押し付けた。
「大橋さんっ……」
「――俺は、電話で言ったはずだ」
「……何、を」
大橋
は、藍田の手からアタッシェケースを取り上げ、足にぶつけないよう気をつけて廊下に置く。それから改めて、藍田と向き合った。
「俺は言ったぞ。研修から戻ってきたら、お前にキスしていいか――……。というより、キスしたい。お前に何度でも、キス
したい」
藍田の目元だけを染めていた朱が、顔どころか、首筋にまで広がる。そのくせ大橋を睨みつけてくるのだ。
「あっ……、あんた、酔っているだろ」
「酔ってねーよ。お前にこれを言おうと思っていたら、緊張して酔う余裕もなかった。
最初から、こうするつもりだった。お前と二人きりになって、自然な流れで……キス、したいと思ってた」
たったこれだけ
の会話をするのに、何回自分は『キス』という単語を口にしただろうかと、大橋はちらりと頭の片隅で考える。
どれだけ藍
田に飢えているのだとも。
大橋は藍田の頬にそっと触れる。ピクリと体を震わせはしたが、藍田は逃げようとはしなかった。
ただ、一心に大橋を見つめてくる。
誘われるように顔を寄せ、藍田の頬に唇を押し当てていた。この瞬間、藍田の唇から微
かな吐息が洩れ、大橋は確信した。自分と藍田は今、同じ気持ちを共有していると。
「いい、よな……?」
囁くと、間
近から藍田に軽く睨みつけられた。
「――……いまさら、聞くな」
小さく笑った大橋だが、すぐに表情を引き締め、余
裕なく藍田の唇に自分の唇を割り込ませた。
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