サプライズ

[21]

 藍田の唇に触れた瞬間、陳腐な表現だが、本当に体中の血が沸騰しそうだった。興奮して、歓喜して、眩暈がする。
 思わず唇を離した大橋は、大きく息を吐き出す。キスをすると勢い込みすぎたのか、いざ藍田の唇に触れると、気持ちが暴走してしまいそうな危惧を抱き、そんな自分にブレーキをかけていた。
「……大橋さん、大丈夫か?」
 藍田がそっと眉をひそめ、遠慮がちに顔を覗き込んでくる。いまさらこいつの前で見栄を張っても仕方ないと、大橋は正直に白状した。
「悪い。キス、キスと連呼しすぎて、いざとなって緊張した」
「バカだろ、あんた」
 本当に呆れたように藍田に言われたため、さすがの大橋も少しだけ傷つく。
「お前、そう率直に言わなくても……」
「まあ、いい。別に無理してするものでもないしな。――あんたの最初の要望通り、コーヒーを淹れてやる」
 そう言って藍田が、さりげなく大橋から離れようとする。向けられた藍田の背を見た瞬間、大橋のブレーキは呆気なく壊れてしまった。逃がしてはいけないと、本能の声が勝った結果だ。
「藍田っ」
 思わず鋭い声を上げると同時に、藍田の肩を掴んで引き寄せ、再び壁に押し付ける。そのまま強引に唇を塞いだ。
「んっ……」
 藍田が微かに洩らした声に、また体中の血が沸騰する。だが大橋は、今度は自分自身の暴走を許した。
 貪るように激しく唇を吸っていると、藍田が微かな吐息を洩らす。おかげでますます頭に血が上り、藍田の痩せた体を壁に押し付けながら、勢いだけのキスを一方的にぶつけ続ける。もしかすると、こんなに無様で自分勝手なキスをしたのは、初めてかもしれない。
 苦しげに藍田が眉をひそめ、非難するように間近から大橋を睨みつけてくる。だが大橋には、そんな眼差しすら心地よかった。
 しかし藍田のほうは堪えきれなくなったらしく、唇の間から声を洩らした。
「……おは、し、さん……」
 肩を拳で殴りつけられて、我に返る。大橋は慌てて頭を引くと、藍田は相変わらず睨みつけてくる。
「悪い……。暴走した」
「やっぱりバカだ、あんた」
 心底呆れたように藍田が呟いたため、自分でもわかるほど大橋は情けない顔をする。そんな大橋を見た藍田が、意外なことに笑みをこぼした。三十半ばの男が浮かべるには、あまりに清々しくて柔らかで、艶かしい笑みだ。
 大橋は、片手を藍田のうなじにかける。そして、控えめに問いかけた。
「――もう一度、いいか?」
「嫌だと言っても、聞く気はないんだろ」
「ああ……」
 今度は慎重に、そっと唇を重ねる。反応をうかがうように柔らかく唇を吸い上げると、藍田も同じように応えてくれた。間近で目が合い、一瞬、藍田が視線を泳がせ、次の瞬間には伏せてしまう。睫毛の長さにいまさらながら見惚れながら、大橋は熱っぽいキスを続ける。
 丹念に味わうように互いの唇を吸い合いながら、そうすることが当然のように舌先を触れ合わせ、すぐに大胆になって相手をまさぐり、ゆっくりと差し出し合った舌を絡める。その頃には、二人はしっかりと抱き合っていた。
 痩せて硬い男の体の感触が、身悶えしたくなるほど大橋にとっては愛しい。だからこそ、もっと感じたくて、厚みのあるコートやジャケットが邪魔で仕方なく――。
 大橋がコートの襟に手をかけると、藍田は何か言いかけたが、かまわずコートを脱がせて足元に落とす。次にジャケットのボタンに手をかけ、外していく。
「大橋さんっ……」
 ようやく藍田が声を発し、大橋の手を掴んでくる。あれこれ言われる前に、大橋のほうから率直に本音を告げた。
「スーツが邪魔なんだ。――抱き合うのに」
「あっ……、別に、このまま抱き合っても、問題はないだろ……」
 この言い方はなんとも藍田らしいなと思い、つい大橋は笑ってしまう。笑いながら藍田の唇を啄ばみ、囁いた。
「ジャケットを脱がせるだけだ。なんなら、俺も脱がせていいぞ」
 おそらく藍田は『バカ』と言いたかっただろうが、実際に口にする前に大橋が唇を塞ぎ、口腔に舌を侵入させる。藍田は軽く身を捩ったが、抵抗らしい抵抗はそれだけだった。
 ようやくボタンをすべて外し終えた大橋は、どこか厳かな気持ちでジャケットを脱がせる。そしてやっと、両腕で思いきり藍田を抱き締めることができる。ワイシャツを通して藍田の体温がじんわりと伝わってきて、大橋は大きく息を吐き出して、胸の奥で荒れ狂う激しい感情を抑える。
「……お前の感触だ」
「そういうことを、わざわざ言うなっ。……なんと答えていいか、わからない」
「答えなくていい。ただ、感じてくれたら」
 藍田は軽く目を見開いたあと、照れているのか呆れているのか、微妙な表情となって呟いた。
「恥ずかしい台詞だ」
「このままキスを中断するなら、いつまででも恥ずかしい台詞を言い続けるぞ。お前の迷惑そうな顔を眺め続けるのもいいかもな」
「それは――困る」
 何かを吹っ切ったように、突然藍田がまっすぐな眼差しを向けてくる。熱を帯びて、少し潤んでいるようにも見える目に、大橋は痺れていた。誘われるように顔を近づけ、藍田の目元に唇を押し当てる。藍田の唇から微かに吐息が洩れ、簡単に大橋は煽られた。
 いい歳をした男同士、余裕をなくして唇を吸い合い、舌を絡める。今度は、自らの口腔に藍田の舌を誘い込み、強く吸い上げながら、ときおり甘噛みする。そのたびに腕の中で、藍田の体が震えるのだ。大橋は、そんな藍田を宥めるように背を撫でる。しかし、てのひらを通して感じる藍田の感触に、かえって大橋のほうが欲情を高ぶらせてしまう。
 もっと、藍田を感じたかった。
 さきほどはスーツが邪魔だと感じていたが、今は、ワイシャツすらも邪魔だ。この男の肌の感触を、直に知りたかった。
 ここでワイシャツを脱がせにかかったら、さすがに殴られるだろうか。
 そっと唇を離した大橋は、食い入るように藍田を見つめる。そんな大橋の反応をどう受け止めたのか、藍田は乱れた息の下、こう言葉を洩らした。
「……どうしてあんたみたいな男がモテるのか、いまさらながら理由がわかった気がする」
「えっ」
「強引なのに、優しい。モテる男の秘訣なんだろうな」
 藍田の手が胸元に這わされ、ドキリとする。無機質な仕種が様になる神経質そうな指が、大橋のジャケットのボタンにかかり、あっと思ったときには一つ外された。さらに、もう一つ。
「藍田……」
「わたしだけ脱がされるのは、不公平だ」
 ジャケットのボタンが外されたびに、大橋の心臓の鼓動は速くなる。前を開かれ、コートと一緒にジャケットを脱がされたときには、高揚感のせいで眩暈に襲われていた。支えを求めて藍田にしがみつき、そのまま抱き合う。
「――なあ、藍田」
「なんだ」
「お前にも、性欲はあるのか?」
 この状況だからこそ、率直に尋ねる。すると藍田が、必死に動揺を押し殺したような目で、大橋を睨みつけてきた。とてつもない罵詈雑言を浴びせられそうな気がして、大橋は慌てて言葉を続ける。
「俺は、お前との関係を進めたいんだっ……」
 勢いで口にして、大橋は自分の発言にひどく納得していた。どうしようもなくキスしたくて、実行したその先にあるのは、やはり、それ以上の行為に及びたいという気持ちだ。体だけではない。藍田と、同僚であり同志であるだけではなく、特別な関係を結びたかった。
 今も十分、そうであるといえるが、大橋の望みはもっと大胆だ。
 藍田は何度か唇を動かしたあと、ようやく言葉を発する。
「……あんた、自分が何を言っているのか、わかっているのか?」
「少なくとも、自分が何をしているのかは、わかっている。男のお前にたまらなく欲情して、キスして、今はこうして抱き締めている」
「だからっ、そういうことをわざわざ言うなっ」
 藍田の反応に、たまらず大橋は顔を綻ばせる。
 どうしようもなく、藍田が愛しかった。三十半ばの男だということが、ほんの些細な――いや、どうでもいいことに思えてくる。大事なのは、果たして藍田が自分を受け入れてくれるか否か、それだけだ。
 大橋は、藍田の頬に自分の頬を擦りつけ、耳元で囁いた。
「お前がどう言おうが、俺は、したい。……変じゃ、ないよな?」
 数十秒近い間を置いて、ぼそぼそと藍田が言った。
「変に決まっている。あんたとは、仕事上だけのつき合いだった。しかも知り合ってから十二年、個人的な関わりもなかった。わたしにとっても、あんたにとっても、互いにそういう認識の相手だったはずだ」
「身も蓋もない言い方するなよ、お前……」
「――だけど、変でもいい気がする。初めて会ったときから、あんたは変わっていたしな」
 そうか、と洩らして大橋は笑う。藍田と初めて会ったときのことを思い出したのだ。愛想も可愛げもなかった新入社員が、今ではエリート社員となり、大橋以上に重い責任を痩せた肩に引っ下げている。
「俺に言わせりゃ、お前も、初めて会ったときから変わってたぞ」
 ここで藍田の両腕が腰に回される。予感めいたものがあり、大橋は緊張した。
「藍田……?」
「だったら、わたしが、あんたと同じ気持ちになっても、不思議じゃないということだな」
 藍田の囁きが耳の奥で溶け、大橋は身震いする。信じられない告白を、もう一度言ってもらいたい衝動に駆られるが、ぐっと堪える。照れた藍田が拒むのは目に見えていた。
 今はこうして抱き締めて、キスできることに満足しておこう。
 大橋は心の中で呟くと、藍田の髪に唇を押し当てた。




 いつもと変わらない会社のロビーの床なのに、まるで雲の上を歩いているような現実感のなさだった。
 なんだか妙な感じがして、立ち止まった藍田は足元に視線を落とす。そこでやっと、自分の今の状況を的確に表現する言葉が見つかった。
 浮かれているのだ。
 すかさず脳裏を過ったのは、週末の大橋とのやり取りだ。抱き合って、キスをして、告白めいた言葉を交わした。土日を挟んだというのに、いまだに奇妙な熱が体の奥でくすぶり、何かの拍子に再燃しては、藍田をうろたえさせる。
 藍田は表情を変えないまま、感情の高ぶりをなんとか胸の内に抑え込み、何事もなかったように再び歩き出す。あの夜のことを考えると、それだけで自分が脆くなっていくようで怖い反面、戸惑うような幸福感が心地よくもある。感情の振れ幅が大きくなっているのかもしれない。
 大きく静かに息を吐き出して、混雑しているエレベーターに乗り込み、オフィスへと向かう。
 すでにデスクには堤の姿があった。一目見て藍田の気持ちは、ピリッと引き締まる。ここは職場で、まったく気の抜けない立場に自分はあるのだという現実を認識していた。何より、勘の鋭い堤に、大橋との間に何かあったと悟られたくなかった。
 藍田は、デスクにたどり着くまでの短い時間に、完全に意識を切り替える。
 イスに腰掛けると、習慣として向かいのオフィスに視線をやりそうになったが、不自然な頑なさでデスクの上だけを見つめる。
 大橋の存在を意識の外に追い払い、さっそく仕事に取り掛かる。
 未処理の書類を入れておくボックスには、決済待ちの書類がすでに届いていた。その中に、一際目立つ大判の封筒が入っている。至急の決済を要する印が押されており、封筒を手に取った藍田は、表に書かれた部署名を見て眉をひそめた。
 新機能事業室宛てに、こういう形で決済を求める書類が届くとき、事情は大抵決まっている。緊急にプロジェクトを立ち上げる必要性に迫られているか、もしくは、分析のやり直しか。
 封筒から取り出した用紙の一枚には見覚えがあった。三か月ほど前に、藍田自身が決済印を押して回した書類のコピーだ。
 他の書類にも目を通していくうちに、事情を理解した藍田は表情を曇らせる。その変化に気づいたのか、いつの間にか堤がこちらを見ていた。藍田が声をかけるより先に、大股でデスクの傍らに歩み寄ってきた。
「藍田さん?」
 堤に呼ばれ、藍田は深いため息で応じる。
「――……高柳さんが、荒れているだろうな」
「高柳さんって、もしかして、うちのマーケティング本部長ですか?」
「ああ、そうだ。……どうやら、マーティング本部が動かしていたプロジェクトの一つを、中止にするらしい」
 書類には、事業環境の大きな変化、と曖昧な表現が使われているが、とにかくプロジェクトを中止にする体裁を整えるため、新たな数字を用いての分析のやり直しを依頼したいと書かれている。
 藍田の反応から感じるものがあったのか、堤が声を潜めて問いかけてきた。
「もしかして、事業部の統廃合の件で、マーケティング本部長から何か言われているんですか?」
「まあ、それは……。憎まれ役を引き受けるのも、仕事のうちだからな」
 そして藍田は、大橋が吊るし上げを食らった会議の件で、高柳に啖呵を切っている。良好ではないものの、露骨でない程度に利害関係にあった藍田と高柳の仲は、これで大きく変化したといえる。少なくとも、藍田は変えたつもりだ。
「……なんにしても、新機能事業室としては、事態は把握しておかないと」
 そう洩らして藍田は受話器を取り上げようとしたが、気が変わって立ち上がる。
「やっぱり、会ってくる。顔を見ておきたい」
「俺も一緒に行きます」
 藍田は呆れて堤を見遣る。
「話を聞きに行くだけだぞ?」
「憎まれ役なんて言葉を藍田さんの口から聞いて、黙って見送ることはできませんよ」
 他の社員たちも出社してくる中、堤とこんなことで言い合いはしたくない。藍田はため息をつくと、軽く手招きをして歩き出す。
 堤は、つい先日の出来事をうかがわせない。上司である藍田の体に触れてきたことなど忘れたように――。妙な話だが、自然な態度を取る堤に、藍田は感謝にも似た気持ちを抱いていた。
 堤との行為で自覚した肉欲を、藍田は大橋と触れ合うことで受けいれたのだ。堤にとっては酷なことかもしれないが。
「――俺、マーケティング本部長のことはよく知らないんです。畑違いということもありますし、あの部署、いかにもエリート集団で、自分とは縁遠い世界だと感じて」
「らしくなく、殊勝なことを言うんだな」
「俺はいつでも殊勝なつもりですが」
 なんと返そうかと、藍田が考える素振りを見せると、堤は軽やかな笑い声を上げる。
「そう、真剣な顔をしないでください。冗談で言った俺が困る」
「……朝から口がよく回るな」
 堤の言動があまりに自然すぎて、かえって藍田は微妙な違和感を覚える。ただ、微妙な違和感は、気のせいとも表現でき、結果として深く考えないことにした。それは、これ以上厄介な事態に踏み込みたくないという、本能的な怖れもあったかもしれない。
 マーケティング本部が入っているフロアは、始業時間直前だというのに、半数以上のデスクに社員の姿はなかった。マーケティング本部らしい事情で、午後から出社する人間が多い取引先に合わせてフレックスタイムを利用していたり、現場に直行している社員が多いのだ。
 高柳はもしかすると、まだ出社していないのかもしれないと思ったとき、ふと視線を感じて辺りを見回す。すると、フロア内を仕切るパーティションの陰から男が姿を見せた。高柳だ。
 とっくに藍田に気づいていたらしく、目が合うなり無表情で手を上げて寄越された。
 指先で示され、高柳の執務室へと移動する。さすがに堤は遠慮して、外で待っていると言ってドアを閉めた。
「――朝から、事業部統廃合のプロジェクトリーダーが何か用か」
 高柳から明らかな皮肉を込めて投げかけられた言葉に、藍田は眉をひそめることなく応じる。
「朝から、そういう皮肉はやめてください。それと、わたしは新機能事業室の人間として、こうしてあなたに会いに来たんです」
 社内屈指の強面である高柳が、渋面となる。イスに腰掛けると同時に、うんざりとした様子で口を開いた。
「……書類の決裁を午前中に頼む。俺も対応に追われて、午後から東京に出張だ」
「プロジェクトの中止、ですか」
「マーケティング本部こそ、数字を読むプロだと自負していたが、今回は情勢に足元をすくわれたということだな」
「つまり、事業部の統廃合が関係あると?」
「代理店から、契約料の吊り上げをほのめかされた。リスク分の上乗せだそうだ」
 鋭い視線を高柳から投げつけられるが、藍田は淡々と受け止める。派生するすべてのリスクを想定し、背負うことは不可能だと、自分の中で割り切っていた。粛々と仕事をこなすだけだ。
「俺は正直、これはお前の報復じゃないかと思った」
「報復? そんなことを考えるということは、わたしがそうするだけのことを自分がしたと、身に覚えがあるんですか」
「先日のお前の電話越しの恫喝は、報復を疑う程度には、迫力があったぞ」
「――あのときは、わたしも少し頭に血がのぼっていました」
 ここで二人は沈黙し、相手の腹を探る。藍田は冷然とした表情を崩さなかったが、一方の高柳は忌々しげに睨みつけてきたあと、折れた。
「トーワグループ内に三つあるマーケティング本部を、一つに統合するという噂がある。……本当か?」
「どなたから、そんな話を?」
 無責任な噂なら、無視してしまえばいい。しかし、事業部統廃合の指揮を執っている藍田は、肯定も否定もできない。自分の腹の内にある考えを、今表に出すわけにはいかないのだ。
 これは高柳なりに探りを入れているのか、それとも、悪意を持った誰かが高柳の耳に吹き込んだのか――。
 高柳は、藍田の質問には答えず、代わりに吐き出すようにこう言った。
「俺たちのマーケティング本部に手を出すようなら、相応の覚悟はしておけよ、藍田。俺は紳士的でありたいとは思っているが、それも状況による」
「……先日確か、わたしは最後の忠告をしたはずですよね。それを無視されたということは、よほどわたしは甘く見られているのでしょう。でしたら、こちらとしても対応を考えなければいけません。例えば今の発言を、会社の方針に対する不服申し立てとして、わたしから上へと報告を――」
「お前はっ……」
 突然、高柳が憤怒の表情を見せ、両手でデスクを叩く。鼓膜が震えるような音に藍田は目を見開いたが、次の瞬間、さらに驚くことになる。
 執務室のドアが乱暴に開いたかと思うと、堤が飛び込んできたのだ。そして素早く藍田の前に立ちはだかった。
「堤……」
 一体何事かと呆然としながらも、藍田は堤に呼びかける。肩越しに振り返った堤は、険しい顔をしていた。
「すごい音がしたので、何事かと思ったんです。……大丈夫ですか?」
「あっ、ああ。大丈夫だ。話していて、お互い少し興奮しただけだ」
 藍田が視線を向けた先で、高柳はすでに冷静さを取り戻したのか、何事もなかったようにイスに座り直すと、犬でも追い払うように手を振った。
「出て行ってくれ。これからミーティングだ」
 藍田は出かかった言葉を呑み込んで唇を引き結ぶと、頭を下げる。堤の背に手をかけて一緒に執務室を出ようとしたとき、背後から高柳に言われた。
「いい部下を持ったな、藍田。――まるで忠犬だ」
 その言葉に反応したのは堤だった。藍田が止める間もなく振り返り、嫌味なほど爽やかな笑みを浮かべてこう言い放ったのだ。
「なんなら、ワンと鳴いてみましょうか?」
 高柳は心底不愉快そうに鼻を鳴らした。
「上司と部下、そっくりだな」
 憎たらしいところが――。高柳は最後の言葉は言わなかったが、その表情は言っているも同然だった。
 藍田はもう一度頭を下げ、やや乱暴に堤を執務室から押し出した。










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