サプライズ


[21]


「――まーた、来てやがるのか」
 あまり上品とは言えない言葉遣いになってしまうが、この場合、仕方ない。紳士を自負している大橋にも、どうしても心が狭くなる瞬間はあるのだ。
 たとえば、藍田の部下でもある気に食わない男が、自分のテリトリーで悠然と笑っているのを見た場合とか。
 今日も、堤はオフィス企画部にやってきていた。オフィスの隅の簡易な打ち合わせスペースで、書類を手に旗谷と膝を突き合わせて何か話している。
 イスにどっかりと腰を下ろした大橋は、唇を歪めながら二人の姿を眺める。
 堤は仕事のアドバイスを求めるために、旗谷の元を訪れている。もっとも本当の目的は、大橋に対して露骨な牽制をするためだろう。もしくは、オフィス企画部の様子を探るため。
「のんびりかまえていると、旗谷さんを取られますよ」
 突然、そんな言葉をかけられ、大橋は傍らに視線を向ける。いつの間にか後藤が立ち、大橋と同じ方向を見ていた。
「……なんかの冗談か、それは」
「いやいや、大マジです」
 そう言って後藤がニヤリと笑いかけてくる。明らかに、旗谷を巡った大橋と堤の対立を期待している顔だ。
「ここ最近、彼、うちによく来るから、ちょっとした噂になっているんですよ。仕事に託けて、旗谷さん目当てで来てるんじゃないかって。補佐一筋の旗谷さんも、さすがに悪い気はしないと思いますよ。なんといっても、イイ男ですから」
 大橋はわずかに目を眇める。そうすると、一見爽やかな堤の二枚目面から、ふてぶてしい素顔が透けて見える気がしたのだ。
「――……安心しろ。堤は、うちのオフィスのマドンナに興味はない」
 堤が本当に興味を持っているのは――。
 大橋は向かいのオフィスを見る。最近は下ろされたままのことが多かったブラインドが上がっており、デスクに向かう藍田の姿があった。相変わらず端然とした姿勢で、ブラインドを下ろしている間、何があったのか一切うかがわせない。
 出張から戻ってきて、すでに一週間が経とうとしている。その間、大橋は慌ただしく動いており、一日のうち、自分のデスクに腰を落ち着ける時間もあまり取れない。
 忙しさを理由にしているな、と大橋は苦々しく唇を歪める。
 藍田には、最優先に言っておかなければならないことがあった。なのに大橋は、まだ告げられないでいる。一方で周囲の事態だけは着々と進んでいる状況だ。
 ホテルであんなことがあったため、面と向かって藍田と話すことに気後れしているというのもあるが、何より、勝手なことをするなという藍田の一言を恐れていた。
 藍田に拒絶されたくないのだ。
 気恥ずかしくなるような自分の本心を噛み締め、大橋は低く唸り声を洩らす。この気持ちがある限り、藍田の前に立って冷静でいられる自信がまったくない。
 今度こそ、何をしでかすか――。
「補佐っ、ちょっと、補佐……」
 人が深刻に考え込んでいるというのに、後藤から忙しく声をかけられる。顔を正面に向けた大橋はぎょっとして目を剥いた。
 ファイルを小脇に抱えた堤が、後藤の隣に立っていたからだ。その堤から一見爽やかな笑顔を向けられ、負けじと大橋も笑って返す。
「旗谷のほうはもういいのか」
「ええ。お忙しい中、よくしてもらっています」
「そうか」
 無理やりな会話が続くはずもなく、すぐに不自然な沈黙が訪れる。何を言ってくるのかと身構える大橋に対して、堤はあっさりと切り出してきた。
「大橋さん、少しお時間いただいてもいいですか。ご報告したいことがあります」
 口元に笑みをたたえたまま、堤の目が険しくなる。大橋には、堤の『ご報告』の内容が薄々とながら予測がついた。
 藍田のことだ。大橋がまだ、藍田につきまとっていると思っているらしい。あながち間違ってはいないのだが、だからといって、堤に言われる筋合いはない。
 もっと早くに、何か言ってくると思っていたが――。
 頷いた大橋が立ち上がったとき、終業時間を告げる音楽が流れる。
 堤に少し待つよう言って、大橋は部下に手短に指示を与え、乱雑をきわめたようになっているデスクの上を簡単に片付けた。こうも汚いと、さすがに何がどこにあるのかわからなくなりそうなのだ。
 手を動かしつつ、やや離れた場所に移動した堤に視線を向ける。すると、まだ側に立っていた後藤に耳打ちされた。
「……あの様子だと、彼は補佐狙いですか」
「殴るぞ、お前」
「もしくは補佐が、彼の恋のライバルとか――」
 大橋は、後藤の首に腕を回して締め上げる。もちろん本気ではないが、大げさに後藤は声を上げた。
「痛いっ、痛いですって、補佐」
「お前は本当に、余計なことばかり言いやがって……」
「ムキになると、かえって怪しいですよ」
 その言葉に、パッと腕を離す。部下たちが笑っているのはもちろん、スラックスのポケットに片手を突っ込んだ格好で、堤も薄い笑みを浮かべているのを見て、なんとも決まりが悪い。
「ちょっと出てくる。すぐ戻る。……多分な」
「殴り合いなんてしないでくださいよ」
 後藤の余計な一言に送られ、大橋は堤と連れ立ってオフィスを出る。 エレベーターホールに向かいながら、一応大橋は尋ねてみた。
「それで、俺に報告したいことってなんだ」
「俺と大橋さんの共通の話題なんて、限られているでしょう」
「……お前の上司のことか」
 内心で大橋はうろたえていた。ふいに腕に、藍田を抱き締めた感触が蘇ったからだ。それだけではなく、体にまわされた藍田の腕の感触も。
 口元に手をやって大きく息を吐き出すと、動揺が声に出ないよう気をつけながら言葉を発する。
「あいつのことなら、俺も気にかけている。俺なりに考えて、今動いている最中だが、その内容について、お前に教える義理は――」
「どこで話しますか」
 大橋の言葉を完全に無視して、堤が言う。横目で堤を睨みつけた大橋は、休憩スペースを指さそうとしてやめる。これから残業に突入する社員たちが、その前の一休みしようと、ぞろぞろと入っていくところだったからだ。
「……一階でコーヒーでも飲むか」
「あまり人に聞かれたくない話なんです」
「だったら、ミーティングルームでも借りるか」
「資料倉庫でもけっこうですよ」
 大橋は足を止め、堤に鋭い視線を向ける。臆した様子もなく、堤は皮肉っぽく唇の端を動かした。
「あそこ、密談をするにはなかなかいい場所でしょう?」
「いや、あそこは……」
 不都合はないはずなのに、堤とともに向かうのは抵抗があった。藍田と二人で過ごした印象が、あまりに強いからかもしれない。
 結局、わざわざミーティングルームを借りるほどではないということで、二人は中庭へと降りた。ここも一角は喫煙スペースとなっているため、社員の姿はあるのだが、よほど大声で話さない限り、他人の会話が耳に届くことはない。
 ビルの影に入った大橋は、なんとなく赤く染まった空を見上げる。さすがに昼間でも過ごしやすい気候になり、夕方ともなると風はひんやりとしている。その分、日が翳るのも少しずつ早くなってきていた。
 夏の暑い盛りに面倒事を押し付けられてから慌ただしく過ごしていたが、その間にも、確実に季節は移りつつあるのだ。
「――涼しくなって、少しは藍田さんの食欲が戻ればいいんですけどね」
 隣に立った堤に言われ、大橋は無意識に姿勢を正す。
 堤が藍田のことを切り出すとき、それは大橋に対して攻撃を仕掛けているのと同じだ。大橋は無視できなかった。
「あいつは、自分のことに無頓着すぎる。出張先でも、メシを食わせるのに苦労した」
「ああ、同じ部屋に泊まられたらしいですね」
 一瞬動きを止めた大橋だが、なんとか冷静さは保てた。
「旗谷から聞いたのか……。あのときは、台風が直撃して大変だったんだ。あいつはあいつで、ふらふらして危なっかしいから、放っておけなかったしな」
 なぜこんな、弁解めいたことを言わなければいけないのだろうかと、大橋が眉をひそめかけたとき、突然、堤の声の調子が変わった。
「――この間、俺が言ったこと、わかってもらえなかったようですね」
 堤の発言をきっかけに、二人を取り囲む空気が一気に殺伐としたものになる。
 もともと予測はできていたことなので、大橋はネクタイをわずかに緩めながら心の中で呟いた。
 望むところだ、と。
「俺が藍田に絡むのが、そんなに気に食わないか? だけど仕方ないだろう。仕事上、嫌でも俺とあいつは関わりを持たないといけないんだ。俺個人のことだけじゃなく、あいつに何かあったら、プロジェクトに支障が出る。誰か代わりに、というわけにもいかない。良くも悪くも、あいつは公平に物事も人間も見るからな。事業部の統廃合を進めるには、そういう奴でないとダメなんだ」
 藍田のことを言えない。気持ちが高ぶった大橋は、普段以上に饒舌になっていた。そのことに気づいたとき、同時に、堤から向けられる眼差しにも気づいた。
 取り澄ましてはいるが、抑えきれないような激しさが滲み出ている、凄みのある眼差しだ。
「……だからといって、藍田一人に重荷を背負わせる気はないから、俺なりに何かできないかと思って動いているんだ。どうやら俺たちは、一括りで見られているみたいだしな」
 最後に言い訳めいたことを口にしてから、今度は大橋が堤に鋭い視線を向ける。
「まだ、俺の野心に藍田を巻き込んでいると思っているのか? あいにく俺は、周りから思われているほど上昇志向は強くない。欲があるとすれば、今の立場を守りたいことぐらいだ。藍田にしても同じだろう」
 大橋の言葉の何に反応したのか、堤が急に、おかしそうに声を洩らして笑い始める。
 嫌な笑い方だと思った。それだけではなく、堤の妙に余裕ありげな態度も神経に障る。藍田の心配をするのは自分一人でいいと主張されているようなのだ。
 藍田の部下と張り合う立場でもないはずなのに――。
 そう思った大橋だが、すぐに考えを改めることになる。ようやく笑い収めた堤が、こう切り出してきたからだ。
「――藍田さんに、殴られたそうですね、大橋さん」
 一瞬肩を揺らしてから、大橋は堤を見据える。動揺したというより、純粋に驚いたのだ。
 大橋が藍田に殴られたのは、今のところ一度きりだ。そのときの情景が目まぐるしく頭の中を駆け巡るが、表面上は平静を装っていた。感情を表に出せないほど、激しく動揺していたのかもしれない。
 なぜそのことを知っているのかという当然の疑問に、笑みすら浮かべて堤が答えた。
「俺も殴られたんですよ、藍田さんに」
「……意外にあいつ、手が出るタイプなんだな」
「殴られた理由は――大橋さんと同じです」
 堤が言った言葉の意味がわかるのは、殴った藍田と、殴られた大橋だけだ。冷えた堤の表情は、ウソを言っているものではなかった。もちろん、ハッタリでもない。
 愕然として立ち尽くす大橋に、堤はさらに追い討ちをかけてくる。
「先日、夜のオフィスであなたが藍田さんに何をしたか、知っています。それだけじゃなく、東京へ出張に行った際、何があったかも。同じ部屋に泊まったとき――」
「藍田が、お前に言ったのか?」
「正確には聞き出したんですよ。……本意じゃなかったんですが、強引な手段を使ってしまいました」
「お前っ……」
 怒りに我を忘れた大橋は、思わず堤の襟元を掴み上げる。一方の堤は動じるどころか、激しい感情を剥き出しにした大橋を観察するように見つめていた。まるで、大橋の中にある藍田の存在感を推し量るように。
「お前、藍田に何をしたっ」
 低く問いかけると、堤は憎々しげに唇を歪めてから、視線を周囲に向ける。その仕草で、中庭にいる社員たちがこちらをうかがっていることを知り、大橋は乱暴に手を放した。
「――今、何を心配しました?」
 ジャケットの襟元を直しながら、皮肉っぽい口調で堤に問われる。唇を引き結んだ大橋にかまわず、堤は言葉を続けた。
「俺が藍田さんに暴力を振るった? 恫喝した? 違いますよね。あなたは、俺があの人にそんなことをするとは思ってない。一方で、何をしでかしそうか、心当たりはある」
「心当たり……」
「おそらく、当たっていますよ。あなたの心配は。――俺は、あなたが藍田さんにしたことと同じ行為を、求めたんですよ」
 大橋は顔を強張らせる。冷静でいろと自分に言い聞かせ続けていたが、このときばかりは吐き気を催すほどの感情に襲われていた。
 これがなんという感情であるか、大橋は知っている。
「……結局、何が言いたいんだ」
 てのひらに爪を食い込ませながら、最大限の理性をもって声を抑える。ここが会社でなければ、そしてもう少し大橋が若ければ、間違いなく堤を殴っていただろう。そう思うぐらい、とてつもなく腹が立っていた。
 堤だけでなく、自分自身に対しても。驕りでもなんでもなく、堤が藍田に対して強気に出た理由は、大橋にあるのは明白だ。
 その理由を堤が口にした。
「あなたが目立つおかげで無用に敵を作ることも問題ですが、それ以上に気になるのは、あなたが関わってくるようになってから、藍田さんの気持ちが揺れていることなんです。……藍田さん自身は、脆くなっている、と言っていました」
 脆くなっている、という響きに大橋はドキリとする。あの、ツンドラのように凍える空気をまとっていた男の口から、そんな言葉が出たことを想像すると、心配になるというより、ひどく艶かしい気持ちになったのだ。
 自分の度し難さにうろたえ、誤魔化すように口元に手をやった大橋とは対照的に、堤は冷静だった。
「――自分の存在が藍田さんに変化を与えていると知って、満足ですか?」
「俺がどう答えれば、お前は満足なんだ」
 堤の顔に、激情が走る。大橋だけでなく、堤もまた、必死に感情的になるのを堪えていたのだと知った。だからといって、親しみを感じるはずもない。
「……大橋さんみたいな人がどうして二度も離婚したのか、今は少し理由がわかる気がしますよ」
「そうか、ぜひ教えてくれ。三度目の失敗をしないうちにな」
「あなたは、エゴイストだ。相手を思いやっているようで、結局は、自分の欲求を満たしたいだけなんだ。あなたの感情を注がれる相手のことなんて、考えていない。あなたに振り回される藍田さんのことを、少しは考えたことがありますか? あなたの行動が本当に藍田さんのためになっていると、言い切れますか?」
 大橋は反論できなかった。自分勝手だということには、嫌というほど自覚はある。
 三十代半ばにして二度の離婚を経験しているというのは、確かに負い目ではあるのだが、今はそれは問題ではない。藍田のためになっているのかと率直に問われたことに、後頭部を殴られたようなショックを感じたのだ。
 堤は返事を求めず、大股で歩いて中庭を出ていく。あの男なりに、感情的になるギリギリのところだったのかもしれない。
 もう一分も話していれば、殴り合いでも始めただろうか――。
 大橋は深刻なため息を洩らすと、いつの間にか空いていたベンチへと移動し、体を投げ出すようにして座り込む。一気に脱力感に襲われていた。
 頭がガンガンと痛んでいるのは、頭に血が上ったり、血の気が失せたりを繰り返したせいだろう。
 閉じた両瞼を指で揉みながら、大橋はさまざまなことを確信していた。
 例えば、自分と堤がとことん気質が合わないことや、それどころか、堤に激しく嫌われていること。いや、危険視されているというほうが正確かもしれない。大橋自身が、堤をそう感じているように。
 上司に忠義を尽くす部下、という可愛げのあるものでないのも、確かだ。堤のあの様子は、あれは――。
「恋人を奪われそうな顔してたな」
 修羅場になったとき、感情的になるタイプと、徹底して感情を排してしまうタイプがいると大橋は思っている。堤は間違いなく、後者だ。
 だったら俺は、と考えたところで、軽く鼻を鳴らす。大橋はジャケットのポケットを探り、なぜか安定剤代わりに持ち歩いている煙草を取り出す。
 まだ、買ってから一本も吸っていなかったのだが、今のこの精神状態では限界だった。
 唇に挟んだ煙草に火をつけると、懐かしい感覚が体を満たしていく。
 切なくて寂しいという、忘れかけていた感覚が。




 やけに社内が静かだ――。
 出張から戻ってきて一週間以上経っているが、藍田はずっとそう感じ続けていた。しかも心安らぐような静けさではなく、まるで嵐の前のような、騒乱を予感させる不気味な静けさだ。
 宮園からそれとなく情報を流してもらっているが、どうやら東和電器の重役たちで構成されている執行会議が頻繁に開かれており、水面下で『何か』が慌ただしく動いているらしい。
 藍田や大橋が関わったトラブルも関係しているのだろうが、誰にも確認のしようがない。とにかく浮き足立っている社内の空気を慮り、本社・支社を問わず、重役たちの社内での行動が慎重になっていると考えるべきだろう。
 エレベーターから降りた藍田は、肩にのしかかるような重圧を疎ましく感じながら、短く息を洩らす。別に新機能事業室があるこのフロアの空気だけがおかしいのではなく、会社全体が微妙な緊張感を漂わせているのだ。
 藍田だけが感じている感覚なのかもしれないが、他人に確認するわけにもいかない。
 これもある種の被害妄想なのかと考えながら、藍田は自分の肩に片手をかける。ここ最近、どうも肩に余計な力が入っている気がする。
 仕事以外でも厄介なものを抱えてしまったからだ。
 忌々しく心の中で呟いた藍田は、オフィスへと戻る。
 自分のデスクに向かいながら、あえて堤のほうは見ないようにした。見ることで、堤を意識していると自覚するのが嫌だった。
 本当は、見ないでおこうと意識すること自体、意識していることの裏返しだとわかってはいるのだ。それでも、あやふやになった上司と部下としての関係を保つには、こうするしかない。
 デスクについた藍田は、無意識のうちに向かいのオフィスを見そうになったが、寸前で堪える。次の瞬間には、堤のほうをうかがっていた。ここ最近、この一連の動作が癖になっているようで、我ながら複雑な心境になる。
 大橋の存在すら、自分の中で処理しきれていないのに、そこに部下の堤まで加わってしまった現在、藍田は考えることを半ば放棄しかけていた。考えたところで、藍田の乏しい経験では手に負える問題ではないはずだ。
 どうして自分はあんなことを――。
 もう何回も繰り返している問いかけを、改めて藍田は自分にぶつける。
 どうして、堤の腕の中から逃げ出さないどころか、自ら腕を回すようなことをしてしまったのか。
 資料倉庫で堤と抱き合った光景が生々しい感触とともに蘇り、藍田は妖しい衝動と羞恥、そのうえでの居たたまれなさに、この場から消えたくなる。
 抱き合っただけではなく、堤には、大橋との間にあったことも知られて――知らせてしまったのだ。
 こんな状況に、普通の神経をしていれば耐えられない。それでも藍田が自分のデスクについていられるのは、肩にのしかかる仕事の責任感ゆえだ。
 藍田は恒例となっている思考の堂々巡りを終え、さきほどまで行っていた打ち合わせで渡された資料に視線を落とす。
 本格的に仕事を再開しようとしたとき、藍田のデスクの内線が鳴る。反射的に素早く受話器を取り上げていた。
「新機能事業室の藍田です」
 電話の向こうから返ったきた相手の声を聞いた瞬間、藍田はピリッと全身が緊張するのがわかった。
 ただ、電話をかけてきた相手も意外だったが、それより、電話の内容が藍田にとっては衝撃的だった。
 驚きに目を見開いたあと、相手の話を聞いていくにつれて顔が強張り、抑えきれない感情が湧き起こってきて、手が小刻みに震えてくる。
 その震えが、声にまで出ないよう気をつけるのが精一杯だった。
「……そういうことに、なっていたんですね」
 返事以外でようやく藍田が発した言葉が聞こえたのか、聡い堤がこちらを見る。藍田は露骨に顔を背けた。
「悪い話ではない? そう、ですね……。そうかもしれません。ただ、わたし抜きでそんなことになっていたというのは、正直心外です」
 藍田なりの反発から出た言葉は予測していたらしく、相手は落ち着いた口調でこう言った。
 最終的に、君がどうしたいかに任せる、と。
 短いが、さまざまな意味を含んだ言葉だった。
 受話器を置いたときには藍田は、相手の意図を漠然とながら理解していた。同時に、自分が捨て駒という立場であることも思い出していた。
「ふっ……」
 緊張を保っていた糸が切れ、低く声を洩らして笑う。一瞬、何もかもどうでもよくなっていた。そうなると、もう笑うしかないのだ。
 口元を手で覆い、藍田は肩を震わせながら、ひどく惨めで情けない気持ちで笑い続ける。その一方で、なるようになってしまえばいいと呪詛のように願っていた。
「――藍田さん、どうかしましたか?」
 様子のおかしい藍田を放っておけなくなったのか、堤に声をかけられる。それがきっかけとなり、ピタリと笑うのをやめた藍田は顔を上げる。
「……どうもしない。ちょっとした報告があった――」
 投げ遣りな口調で答えていた藍田の視界の隅に、ある光景が飛び込んでくる。半ば本能的に、向かいのオフィスを凝視していた。
 自分のデスクについた大橋が、女性社員と笑いながら話しているという、見慣れた光景だった。なのにこの瞬間、藍田は目も眩むような激しい怒りに襲われる。
 大橋が、誰かと笑い合うのはかまわない。ただ、その相手が女性であることが、今の藍田には耐えられなかった。
 ふらりと立ち上がった藍田は、大きく肩で息をする。
 このオフィスで大橋に抱き締められてから、藍田が何より気にし続け、混乱の原因ともなっていたのは、自分たちが同性だということだった。
 男が男を抱き締めるには、何かしらの理由があるはずだ。そう藍田は考え続け、その理由がわからないからこそ、動揺していた。藍田で――男でなければならない理由が、きっと大橋にあるはずだと、信じていたのかもしれない。
 裏を返せば、軽い行為ではなかったと信じたかったのだ。いい歳をして、悪ふざけであんなことができるはずがないと。
 だが、女性と笑い合っている大橋を見て、信じていたものがあっという間に瓦解する。元より、藍田の思い込みでしかなかった脆いものだ。
 普段の藍田であれば、大橋が女性社員と楽しそうに話している光景などいつものことだと、気にもかけなかっただろう。しかし今は、タイミングが悪かった。さきほどかかってきた電話のせいだ。
 大橋は、自分を陥れようとしているのかもしれない。
 その言葉が頭に浮かんだときには、藍田は大股で歩き出していた。
「藍田さんっ」
 堤が追いかけてこようとしたが、藍田は振り返ると、冷たい眼差しを向け、それ以上に冷たい声で告げた。
「――ついてくるな」
 気圧されたように堤が動きを止めると、もう一瞥すらせずオフィスを出る。
 社員たちが道を空けるほどの勢いで廊下を歩きながら、藍田は自分の心が急速に凍えていくのがわかった。感情の揺れすら抑え込むように、すべてが凍っていく。
 そんな状態で藍田が向かったのは、オフィス企画部だった。
 オフィスに足を踏み入れると、まっすぐ大橋のデスクに向かう。いくぶんざわついていたオフィス企画部は、藍田が奥に向かうに従って、まるで波が引くように静かになっていった。
 大橋のデスクの前に立ったときには、完全に静まり返り、息を潜めたような状態となる。
 女性社員と話し込んでいた大橋がようやく異変に気づいたように正面を向き、笑みを消した次の瞬間には、驚きに目を見開いた。
「藍田……」
 むしょうに、大橋の横っ面を引っぱたきたい衝動に駆られたが、凍えるような怒りが歯止めとなった。
 藍田は短く息を吐き出すと、冷然とした声で言い放った。
「――あんたが企んだのか」
 この言葉ですべてを察したらしく、サッと大橋の顔色が変わる。表情を強張らせると、傍らに立ち尽くしている女性社員に声をかけて遠ざけた。
 大橋が珍しく神妙な顔で見上げてくる。こんな表情をすると、大橋は少しだけ誠実さが割り増して見えるが、藍田は騙されないよう自分に言い聞かせる。
 今この瞬間、大橋が敵になるかどうかの境目を見極めなければならないのだ。
「……専務、か?」
「ああ。今さっき電話があって、告げられた」
「本当は、もっと早くに、俺の口から言う……いや、相談するつもりだった」
 苦しげな大橋の口調と表情に、一瞬、藍田の心が揺れる。思わず感情的になっていた。
「やっぱりあんたは、最初から全部企んでたんだなっ。わたしを利用するつもりだったんだろうっ」
「違うっ」
 藍田らしくもなく大きな声を上げたが、そんな声など比較にならない、腹に響くような大橋の怒声がオフィス中に響き渡る。
 違う、と今度は呻くように洩らした大橋が、周囲を見回してからいきなり立ち上がる。大橋の部下たちも驚いただろうが、藍田も咄嗟に反応できないほど驚いていた。大橋に殴りかかられることを覚悟したぐらいだ。
 それぐらい、大橋は鬼気迫る顔をしていた――。
 大橋は乱暴な動作でデスクの引き出しを開けると、何かを掴み出してスラックスのポケットに突っ込む。そしてデスクを回り込んで藍田の傍らに立った。
「来い。ここじゃ込み入った話ができん」
 そう言って大橋に腕を掴まれ、藍田はビクリと体を震わせる。藍田の反応に気づき、大橋はすぐに手を離したが、苛立ったように髪を掻き上げながら、ぼそぼそと言った。
「ここで派手に、怒鳴り合いをするか? それこそ、俺たちの失態を願っている連中を喜ばせるだけだぞ」
「『俺たち』?」
「俺たち、だ。怒るのは、俺の話を聞いてからでも遅くないだろう。人目のないところでだったら、殴られてやってもいいし、土下座だってしてやるぞ」
 大橋は本気だった。藍田は改めて周囲を見回し、社員たちの視線がすべて自分たちに向けられていることを確認すると、やむなく先に歩き出す。
 後ろから大橋がついてきているかどうかすら確認せず、足早にオフィスを出ると、まっすぐエレベーターホールに向かう。
 たまたまエレベーターの扉が開いていたため、急いで乗り込む。いつの間にか隣には大橋も立っていた。目が合ったが、藍田のほうから顔を背ける。
「何階ですか?」
 操作盤の前に立っている女性社員に尋ねられる。怒鳴り合いになる可能性が高いため、会社の外に出たほうがいいだろうと判断した藍田は、一階を、と言おうとしたが、その前に素早く大橋が動き、地下二階のボタンを押してしまう。
 制止もできず、藍田は目を丸くする。一方の大橋は、何事もなかったように正面を見据えたままだ。
 何か予感めいたものがあり、エレベーターが一階に着くと、藍田は他の社員たちに紛れるようにして降りようとしたが、大橋に乱暴に腕を掴まれて引き止められた。
 二人きりとなったエレベーターの扉が静かに閉まると、途端に息苦しさを覚える。藍田は軽く身をよじって大橋の腕から逃れ、エレベーターの隅へと移動した。
「……会社の外で話せばいいだろう」
「人目が気になる。お前だって落ち着かないんじゃないのか」
 藍田は口を開きかけたが、肝心の言葉が出てこない。近場で、人目も聞き耳も気にせず話せる場所といえば、やはり資料倉庫しかないのだ。
 その資料倉庫に抵抗を覚えるのは、きっと――。
 顔を伏せた藍田は唇を噛む。資料倉庫で堤と抱き合ったときのことを思い出し、羞恥心から居たたまれない気持ちになった。
 同時に、大橋に対する後ろめたさも感じていた。









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