サプライズ


[22]


 地下二階の資料階でエレベーターを降りると、明らかに藍田の様子はさきほどまでとは違っていた。
「藍田?」
 名簿に必要なことを記入し終えた藍田は、なかなか歩き出そうとしない。大橋が声をかけると、うろたえたように視線を伏せ、ようやく足を踏み出した。
 大橋は最初、新機能事業室の資料倉庫に向かおうとしたが、気が変わる。別に、防音と人目からの遮断という役割さえ果たすのであれば、そこでなくてもいいのだ。
 藍田に手招きしてから、オフィス企画部の資料倉庫に向かう。
 殺風景な長い廊下を歩きながら、大橋は背後からついてくる藍田の気配を全身で感じ取っていた。
 あえて頭から追い払う努力をしていたはずなのに、なぜか今になって、数日前、堤から聞かされた話を思い出していた。
 正直、思い出すだけで歯噛みして、胸を掻き毟りたい激情に駆られる話だ。忘れられるものなら忘れたいし、ウソで片付けてしまいたい。
 だがきっと、堤が言ったことは事実だ。
 大橋が藍田にしたように、堤は、藍田を抱き締めた。そして藍田は、それを許した。大橋に許したように。
 これから真剣な話をしなければならないというのに、狂おしい感情の中、ふいに妖しい衝動が芽生える。大橋は思わず足を止めそうになったが、寸前のところで我に返り、ムキになって大股で歩く。
 オフィス企画部の資料倉庫は、新機能事業室と比べればかなり手狭ではあるが、男二人が話すぐらいのスペースは十分にあった。
 藍田を先に入らせてから電気をつけ、ドアを閉める。途端に、耳に痛いほど静寂に包み込まれた。
 新機能事業室とは違い、とっくに片付けを終えたこの資料倉庫には、すぐに腰掛けられそうな段ボールはない。どれも整理して、積み上げてしまっていた。もっとも、落ち着いて話せそうな気分ではないだろう。
 スチール製の頑丈なシェルフに手をかけた藍田は、大橋を見ようとはしない。白い横顔は強張ったままだ。
「――専務から、なんと聞かされた」
 大橋が口火を切ると、藍田は皮肉っぽく唇を歪めた。
「事業部統合のプロジェクトと、あんたの本社移転のプロジェクトを合同プロジェクトという形にしないかと言われた。何も知らない人間なら、最初からそうしておけばいいものを、と思っただろう。わたしも、当事者でなければそう思ったはずだ」
「……俺も、二つのプロジェクトの話を知ったときは、手間がかかることをすると思った」
 プロジェクトリーダーに任命されたとき、呼び出されたのは同時だったが、大橋と藍田は別々に専務室に入って話をしたため、互いに何を言われたか知らない。だが、プロジェクトの違いはあれ、内容そのものに差異はなかったはずだと、このときまで大橋は考えていた。
 しかし、会社は大橋が考えている以上にしたたかだった。
 藍田が、感情を押し殺した平淡な声で言う。
「わたしは、専務から初めて事業部の統廃合の話をされたとき、こう言われたんだ。同時期に動く本社移転に関するプロジェクトは、わたしの仕事の『後処理』でしかないと。仕事は大変だろうが、それだけわたしの能力を評価しているということだと思ってほしい、とも」
「まあ、事実だな……。俺の仕事は、面倒事の片付けをするようなもんだ」
「別にわたしは、専務のその言葉を素直に受け止めたわけじゃない。捨て駒とはいっても、上手く使って仕事をさせるためには、それぐらいの美辞麗句を言うことぐらいわかっているつもりだ」
 藍田の冷静な意見は、藍田自身を傷つけているように見えた。大橋は口元に手をやると、視線を床に落とす。
 自分がおかしくなっているのは自覚しているつもりだったが、まだ認識が甘かったらしい。この状況にあって大橋は、たまらなく藍田を抱き締めたかった。冷静であろうと努めている藍田の姿が、かえって劣情を催させるのだ。
 いつだったか宮園は、大橋の藍田に対する配慮を『過保護』といったが、そんな生温い感情ではない。これは、狂おしいような『欲望』だ。
 そんな大橋の様子に気づくはずもなく、藍田は言葉を続ける。
「――それでも、大事なプロジェクトを任されたことに間違いはない」
「ああ……」
「わたしは失敗などしていない。それなのにどうして、わたしがあんたを頼らないといけない? 上から、わたしは力不足だと判断されたも同然だ。プロジェクトが合同になるだけじゃなく、あんたの協力を仰いだらどうだと言われるのは、そういうことだろうっ?」
 激しい眼差しを向けられ、大橋の心は揺さぶられる。
「……俺は、そういう意味で専務に提案したわけじゃない」
 大橋が答えると、すかさず藍田に頬を平手で殴られた。
「やっぱりあんたが、専務に言ったんだなっ」
 もう話すことはないとまで言い放って、藍田が資料倉庫から出ようとしたが、ドアノブに手をかけたところで、慌てて大橋は藍田をドアから引き離した。
「放せっ。もう用は済んだっ」
「お前が一方的に言っただけだろうがっ。俺の説明がまだ済んでない」
「聞く必要はない」
 頑なな態度に思わずカッとして、大橋は乱暴に藍田の体をシェルフに押し付ける。このとき藍田が咄嗟に何を思ったのか、容易に想像がついた。目を見開いた藍田が、一瞬不安そうな表情で大橋を見つめてきたからだ。また、大橋に抱き締められると思ったのだろう。
 大橋は、藍田の素の表情に弱い。普段が怜悧すぎるほど鋭く冷たいくせに、素の表情があまりに無防備すぎるのだ。
 藍田の肩から放した手を、ぎこちなくシェルフの棚に置く。
「……逃げるなよ。今度逃げようとしたら――この間みたいなことをするぞ」
「恥知らず」
 すかさずこんな言葉が出るところが、いかにも藍田らしい。
 大橋はちらりと笑みをこぼしてから、やっと落ち着いて事情を説明することができる。
「――ずっと考えてはいたんだ。お前が任されたプロジェクトは、与えられた権限が大きい分、お前一人にかかる負担が大きすぎるってな。だからといって、部外者の俺にできることはせいぜい、お前が目の前でネチネチと誰かに嫌味を言われていたら、助けるぐらいだ。それと、メシを食えとお節介を焼くぐらい……」
 心なしか、藍田の頬の辺りが赤くなったような気がしたが、顔を覗き込んで確認するわけにもいかない。
「お前のためにできることは、それぐらいだと思っていた」
「わたしの、ため……?」
 改めて聞き返されると、今度は大橋のほうが顔が赤くなりそうだ。ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱しながら、ほぼ勢いのまま捲くし立てた。
「お前にだけ、負担と傷を負わしたくないんだ、俺は。だから――動いた。お前と偶然、東京への出張が一緒になったときがあっただろう? あのとき、俺が処理したトラブルは、本来はお前が担当するべきものだった」
 藍田が口を開きかけたが、大橋は畳み掛けるように続ける。
「専務に相談したら、お前はお前でトラブルを抱えている言われた。そして、俺が責任を持って最後まで処理するよう指示を受けた。それでよかったと思っている。俺に入った情報から引き当てたトラブルだ。誰かに押し付けるのも気が引けるしな」
「でも、今のいままで、わたしに一言も報告しなかった」
 きつい眼差しを向けてきながら、藍田が身じろごうとする。逃げられると咄嗟に思い、半ば本能的に藍田の肩を掴んでシェルフに押し付けていた。自分で自分の行動をまずいと感じた大橋だが、もう引くことはできない。
「言おうとしたっ。お前がこうやって怒ることは予測はしていたし、覚悟もしていた。だけど――」
「だけど、なんだ?」
「お前を傷つけることになるというのは、耐えられなかった。お前に傷を負わしたくないと思いながら、結果として、俺自身の行動がお前を傷つけるのが……」
 知らず知らずのうちに、藍田の肩を掴んでいる手に力が入る。大橋は、自分でも何を言っているのかよくわからなくなりかけていたが、それでも愚直なほど、自分の気持ちを伝えようとしていた。
 大橋自身、わかりかねている気持ちを。
「言おうとしたが、一度タイミングを失ったら、あとはズルズルと日が経っていた。俺じゃなく、別の人間の口からお前に伝わるのを待っていたのかもしれん」
「……別の人間なら、わたしを傷つけてもよかったのか?」
 思いがけない藍田からの切り返しに、今度は大橋が目を見開く番だった。
「いやっ、それは……。そんなつもりはない――が、確かに、お前の言う通りだ。俺は、俺が悪役になるのが、本当は嫌だったのかもしれん」
「そして結果として、わたしに怒鳴り込まれたのか」
 立つ瀬がないとは、まさに今の大橋の状況を言うのかもしれない。
 じっと大橋を見つめ続けていた藍田の視線が、ふっと外れる。オフィスにやってきたときに比べれば、鋭さがいくぶん薄れていた。
「――……大橋龍平という男は、もっと狡猾で要領がいいのかと思っていた」
 ぽつりと洩らされた言葉に、大橋は一拍置いて苦笑する。
「俺は、そのつもりだぞ」
 大橋の冗談はあっさり無視され、藍田が苦々しい口調で言った。
「だから、あんたはプロジェクトの件で絶対、わたしを踏み台に利用すると思って警戒していた。多分、今も信用はしていない」
「だったら、俺を側に近づけなければいい。プロジェクトを合同にするかどうか、最終的な決定権はお前にある。俺はあくまで、提案しただけだ。お前のより堅固なバリアーになるためにな。それに、断ったからといって、すぐにお前の処遇がどうにかなるわけじゃない。上としては、厄介な二人に組まれるよりは、切り離しておいたほうが楽だと考えているだろうしな」
「それなのにあえて、プロジェクトを合同にしてもいいと上が容認し始めた理由は?」
「それこそ、狡猾で要領のいい俺の、本領発揮だ」
 藍田は、軽く眉をひそめただけで、それ以上は追及してこなかった。それでいいと、大橋は思う。<つまらないこと>を藍田は知らなくていいのだ。
 例えば、プロジェクトを合同という形にすることを認めてくれない場合、大橋が『移転推進実行プロジェクト』のリーダーを降り、『事業部統合に関する管理実行プロジェクト』の一メンバーに加わるだけだ、と専務に向かって言い放ったことなど。
 若手の間で社内改革の指揮を執っている――という噂が立っている大橋が、藍田の下に入ることは、上層部としては非常に困るのだ。何かあったとき、責任を取るのはリーダーの藍田だけで、当の『改革の旗手』である大橋は無傷だ。
 厄介な存在が、藍田の下で、一時的とはいえ絶大な権力を振るうことができるかもしれない――。
 そんな危機感を相手に持たせるのは簡単だ。何かあったとき、責任を大橋と藍田の両名に取らせなければ困る。どちらかが無傷で残れば、必ず深い禍根が残ると恐れている、らしい。
 思わせぶりなことを言っておけば、企みがある人間ほど、いいリアクションを返してくれる。大橋は、そこを突いたのだ。
 おかげで、プロジェクトを合同にしてもいいという言葉を、専務から引き出せた。
 もちろん大橋としては、藍田だけを犠牲にする気は毛頭ない。あくまで、はったりだ。
 こんなやり取りがあったなどと知ったら、目の前の男はどう感じるだろうかと、大橋は考える。
 大橋を、怖い男だと思うだろうか。
 藍田は考えることに集中しているのか、肩から力が抜け、曲げた指を口元にやった。視線が伏せられたままなのをいいことに、大橋は間近から藍田の様子を観察する。
 物憂げな眼差しを彩る睫毛がやはり長いとか、少しはまともに食べることを意識しているのか、病的だった頬のラインがマシになってきたとか、相変わらず色は白いままで、薄く開かれた唇の色は淡いとか――。
 その色の淡い唇に、藍田が指を押し当てる。何げない仕草に、大橋はドキリとしてうろたえる。
 危惧したとおり、胸の奥で熱い塊が蠢き始めていた。この状態になったとき、大橋は自分の衝動を抑えるのは不可能だと悟ってしまった。いや、そう思い込むことで、自分に行動を起こさせているのだ。
 衝動的に藍田の手首を掴むと、ハッとしたように当の藍田が視線を上げる。さすがに、察するものがあったらしい。何も言わず藍田は手を引こうとしたが、大橋は許さなかった。
「大橋、さんっ……」
 素早く藍田を抱き寄せると、戸惑ったような声が上がる。だがこのときには大橋は、何日ぶりかに味わう藍田の感触に夢中になっていた。
 痩せた男の体を、両腕の中にしっかりと閉じ込めると、思わず吐息が洩れる。
「あんたは、また――」
 藍田の抵抗は激しくはなかった。怒ってオフィスに踏み込んできた男と同一人物とは思えないようなおとなしさだ。
 今この瞬間、藍田の男としてのプライドを踏みにじっているのかもしれない。
 大橋は腕の力を強めながらそう考えるが、藍田のプライドよりも、藍田を抱き締める行為によって得られる心地よさを優先していた。
 この自分勝手さが、きっと他人を傷つけるのだ。一方で、傷ついた藍田は何によって癒されるのか。
 唐突に、大橋の脳裏に堤の顔が浮かんだ。大橋がこうして味わっている心地よさを、堤も知っているのだと考えた途端、胸を突き破りそうな感情の高ぶりがあった。
 腕の力をさらに強くすると、小さく呻き声を洩らした藍田に胸を突き飛ばされる。突然藍田が見せた激しさに、つい大橋は腕を緩めていた。
 素早く動いた藍田がドアのほうに向かおうとしたので、大橋は乱暴に腕を掴んで引き寄せ、今度は背後からしっかりと藍田を抱き締める。抱きすくめるという表現のほうが正しいかもしれない。
「いい加減にしろっ。あんたは一体、なんのつもりなんだっ」
「前に言っただろう。わからないから聞くなと。今だって、なんでお前をこんなに抱き締めたいのか、理由なんてわからん。わからんが――」
 ただ、お前の感触が欲しい。
 真剣な大橋の言葉に反応するように、藍田は抵抗をやめた。
「……わからないのは、あんただ……。あんたのせいで、わたしまで、自分のことがよくわからなくなっている。どうしてわたしは、本気で抵抗できないんだ……」
 囁くような小さな声だったが、静かな資料倉庫では、藍田の言葉はしっかりと大橋の耳に届いた。
 三十を過ぎたいい歳をした男二人が狭い資料倉庫に閉じこもり、自分自身のことがわからなくて戸惑い、それを正直に告げ合っている光景は、他人から見れば笑えるかもしれない。それでも、大橋だけでなく藍田も真剣だった。
 後ろから抱き締めるのではなかったと、大橋は後悔する。おかげで、藍田の表情がよく見えない。
 ただ、顔を背けているせいで露わになっている藍田の首筋が、少しずつ赤く染まっていく様に、大橋は目を奪われていた。誘われるようにその首筋に顔を寄せ、そっと唇を押し当てる。もちろん、後先のことは一切考えられなかった。
 とにかくただ、藍田に触れたかったのだ。
 藍田は声を上げはしなかったが、ビクンッと大きく体を震わせる。かまわず大橋は首筋に唇を押し当て続け、そのうち慎重に這わせるようになっていた。
 歯止めを失うのが怖くて、心の片隅で藍田が抵抗するのを願っていたかもしれない。反面、心の大部分では、藍田とこうしている時間が続くことを切望していた。
 支えを欲しがるように藍田が手を伸ばし、シェルフに掴まる。ここまでしても逃げようとしない藍田に、大橋は確信めいたものを得る。その確信に背を押されるように、少しずつ行為が大胆になっていた。
 耳の後ろにも唇を押し当ててから、藍田の反応をうかがいながら舌先を這わせる。
「あっ……」
 小さく声を洩らした藍田は、それでも抵抗はしなかった。
 耳の輪郭をなぞるように唇を這わせ、口づける。耳に熱い息遣いを注ぎ込むと、腕の中で藍田の体が震え、その反応に煽られるように、再び首筋に唇を押し当てた。
 自覚がないまま、愛撫していた。同性とか同僚とか、今の大橋には関係ない。ただ、藍田という男に夢中になっていた。
 高ぶる一方の気持ちのまま、片腕で強く藍田を抱き締め、柔らかな耳朶に唇を押し当てながら、藍田の喉元にてのひらを這わせる。喉を鳴らした藍田が顔を仰向かせた。
 てのひらを通して、藍田の速い脈が伝わってくる。理屈ではなく、自分も藍田も同じなのだと大橋は実感できた。
 動揺して、緊張して、高ぶっている。
 甘さを伴った目もくらむような衝動に、理性を手放しかけた大橋だが、ここで藍田が思いがけない行動に出た。
「おい――」
 藍田が、喉元にかけていた大橋の手を握ってくる。うろたえる大橋にかまわず、藍田は握った手に顔を寄せ、次の瞬間には振り返った。その顔は、露骨にしかめられている。
 体の向きを変えた藍田が、何かを確認するように大橋のジャケットの胸元に顔を寄せてから、すぐに睨みつけてきた。
「――あんた、いつから煙草を吸うようになったんだ」
 なぜ今、この状況で、そんな質問が出るのか、大橋にはわけがわからない。だが、藍田は真剣だ。
「最近、だ……。やめていたんだが、最近はいろいろと、気が滅入ることがあって……」
 気が滅入る原因がお前にはあるとは、口が裂けても言えない。お前の部下に挑発されたからだとは、もっと言えない。
「そういえばお前、煙草嫌いなんだったな」
 一日にそう何本も吸っているわけではないが、煙草が嫌いな人間は匂いに敏感になるのだろう。忌々しいことに、脳裏にまた堤の顔が浮かんだ。
「わたしが嫌いだったとしたら、どうなんだ」
「二度と吸わない」
 即答すると、さすがの藍田も面食らったようだった。
「……別に、わたしはあんたの個人的なことに口出しする気は……」
「俺はお前の食生活に口を出しまくった。だから、お互い様だ。まあ、体によくないものだし、俺もやめるきっかけが欲しかった」
 大橋がまっすぐ見つめると、やっと気づいたのか藍田が慌てた様子で握ったままの手を放したが、すかさず今度は大橋が藍田の手を握る。
「大橋さん……」
「少し我慢しろ」
 そう言って大橋は、片腕で再び藍田の体を抱き締めた。
「おいっ――」
 身をよじろうとした藍田だが、すぐに諦めたようだった。その証拠に、握っていた手を放しても大橋を突き飛ばそうとはしない。
「……仕事をさぼって何をしているんだ、わたしたちは」
 藍田が洩らした言葉に、つい大橋は笑ってしまう。
「仕事だろう。プロジェクトに関しての大事な相談だ」
「本気で言っているのか?」
 問いかけてきた藍田と顔の距離が近い。そのまま視線が逸らせなくなり、藍田のやたら整った顔を凝視しながら、大橋はこう洩らしていた。
「俺は、お前に何を求めているんだろうな」
「わたしに聞くな」
「だったらお前は、どうして俺から逃げない?」
「それは……、あんたに捕まっているから……」
「今だけじゃない。ホテルの部屋に一緒に泊まったときもそうだった」
 あのとき、大橋は藍田の感触が欲しくてたまらず、抱き締めた。そして藍田も応えた。
「もしかして、俺もお前も――」
 同じものを互いに求め合っているのか、と言葉は頭に浮かんだが、さすがに素面で言うには、あまりにストレートすぎる。
 ただ、大橋が言おうとしたことはなんとなく伝わったらしく、藍田の眼差しが揺れる。その眼差しの動きに大橋は誘われた。
 互いの息もかかるほど間近に顔を寄せると、神経質そうに藍田は眉をひそめる。
「……あんた、本当に煙草臭いぞ」
「今この瞬間からやめるから、我慢してくれ」
 藍田の唇に触れたいと思い、自然な流れで大橋は実行しようとする。わかっているのかいないのか、藍田はそんな大橋をじっと見つめていた。
 怯むほどまっすぐな藍田の眼差しの直撃を受け、大橋はため息をつく。本能のままにこの男に触れる前に、もっと大事な、言うべき言葉があることを思い出したのだ。
 スッと藍田の耳元に唇を寄せ、低く囁く。
「――藍田、これだけは信じろ。俺は、何があってもお前の味方で、お前のバリアーであり続ける。信じられないというなら、それでもいい。俺は勝手に、お前のためになることをやる」
 宮園に言われたとおりだった。大橋は藍田に対して、やはり『過保護』なのだ。
 男で、年齢も三十過ぎで、それなりにキャリアを積んだエリートの藍田は、きっと誰の庇護も保護も必要とはしていない。それがわかっていながら、放っておけない。
 この感情をなんと表現すればいいのか。狂おしくて手に負えない、とにかく厄介な感情だった。
「俺がお前を利用しようとしていると、そう疑い続けてもいいんだ。それでも俺は、お前の味方だ」
「なんであんたが、そこまで……」
 やっと大橋は体を離し、腕時計で時間を確認する。あまり長居していると、大橋と藍田が殴り合いでもしていると誤解した部下が探しにくるかもしれない。騒動になる前に戻るのが得策だろう。
 何より大橋自身が歯止めをなくし、藍田に対してこれ以上何をしでかすかわからない。
 困惑気味の藍田を眺めながら、大橋は自分の言いたいことを端的にまとめた。
「俺が言いたいのは、プロジェクトを合同にすることは、お前の不利益にはならないということ。独断専行したことは悪かった。それと……お前に今みたいなことをした理由は、いまだに俺もよくわからん。したい、という感情は認識できるんだが――」
「もういいっ」
 慌てたように怒鳴った藍田から、動揺がはっきりと伝わってくる。
 今になって、藍田をツンドラのような男だと表現していたことに罪悪感を覚える。知れば知るほど、藍田は大橋と大して変わらない普通の人間なのだ。十分、感情の起伏に富んでいる。
「……お前がそこまで嫌うなら、煙草は二度と吸わない」
「わたしには関係ないだろう。……あんなものは、健康のために吸わないに越したことはないとは思うが」
 藍田の物言いに、たまらず大橋は噴き出す。そんな大橋を睨みつけて、藍田はさっさと資料倉庫を出ようとするが、今度は引き止めなかった。代わりに、こう声をかける。
「俺が処理したトラブルの件は、報告書を回す。遅くなったがな」
 ドアを開けて振り返った藍田は、いつもの冷然とした雰囲気と口調を取り戻していたが、確実にいままでとは何かが違っていた。
「わたしが処理したトラブルは、他言無用と言われている。が、そのうち、『なんらかの手段』で、あんたも知るだろう。……もしかすると、メモにでも走り書きしてあるものを見るのかもしれないが」
 意味を理解した大橋は、ニヤリと笑いかける。
「藍田副室長も、すっかり悪党になったな」
「あんたが言うなっ」
 大橋は声を上げて笑いながら、藍田の後ろ姿がドアの向こうに消えるのを見送る。だがその余裕も、ドアが閉まった途端に消えうせた。
 シェルフに片手をかけ、大きく息を吐き出す。今になって頭に血が上り、全身から汗が噴き出す。心臓の鼓動は、狂ったように速くなっていた。
「……俺は、何をした……?」
 自分が藍田にした行為を思い返し、大橋は口元を手で覆う。
 抱き締めるだけでもとんでもないのに、藍田の肌に唇を押し当てていた。そのうえ――。
 藍田の唇を塞ぐ瞬間を想像して、身震いするような欲望の高ぶりを覚える。
 頭を冷やすというより、体に溜まった熱が冷めるのを待つため、もう少しここにいるしかないようだ。
 あいつは平気なんだろうかと、大橋は藍田の心配をするが、さすがにこの状態であとを追いかけるのは不可能だった。









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